Kyrgystan~Kazakhstan再入国 1,700km (2025/6/10~6/21) | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

KyrgystanKazakhstanAlmati 1,700km 6/1021

 

キルギス入国後の最初の投宿地オシュ(Osh)から以下のルートでキルギスをツーリング後、カザフスタンの旧首都であったアルマティ(Almati)へと向かった。

 

Osh(4泊)~300kmAla Buka(2泊ホームステイ)~300km~Toktogul(1泊)~280km(標高3000級の峠越え)~首都Bishkek(2泊)~210km途中でユネスコ世界遺産のNavekat仏教遺跡とBurana Tower(イスラムのミナレット)の見学~Balykchy=イシク・クル湖西端(1泊)~イシク・クル湖南岸沿いに230km進み~Karakol(3泊)~120km~カザフスタン入国~270km~カザフスタンの旧首都Almati到着

 

 

キルギスは居心地が良かった。

 

当方の通常の駆け足ツーリングでは1ケ所にせいぜい2泊位しかしないのだが、居心地が良こともあり、オシュ(Osh)では4泊、カラコル(Karakol)では風邪を引き静養を兼ねて3泊それぞれした。

 

特にカラコルでは計画をしていたことが風邪静養のため、何も出来ずに悔やまれる。

 

カラコルは市内の背後に控える標高3千メートルから4千メートル級の山脈への登山やトレッキングの拠点となっている。 

 

付近には温泉地もあり、当方は温泉につかるため水着を用意していたが、風邪のため温泉行は断念した。 

 

時間の余裕があればキルギスにもっと滞在したかったが、この先の欧州でのツーリング計画を考えて、先へ進むことにした。 

 

キルギス人は日本人と本当によく似ている。 思わず日本語で声をかけたくなるような人が多い。当方もキルギス人に間違えられて、現地語でよく話かけられた。

(Oshの市街地を高台のSulaiman Too=聖地から展望)

 

(Oshの聖地Sulaiman Tooの高台=標高80m位の小山。頂上にはモスクと展望台がある。)

 

(キルギスの国民的な飲み物。当方は写真右のマクシムを飲んだ。発酵させた小麦とヨーグルトを混ぜた飲料だが、酸っぱくて口に合わなかった。)

 

(外食すると油でおなかを壊すため、宿のキッチンを借りて自分で豆スープを作った。)

 

(ピンク色の線はキルギスのツーリングコース。地図の左下の赤丸印がOsh。地図右側上部の最終地点はカザフスタンのアルマティ。地図右側の真ん中の大きな湖がイシク・クル=琵琶湖の約9倍の広さがある。)

 

(キルギスの地図だが、標高を表す地形図だと高い山々があるのが判る。)

 

 

アラ・ブカ(Ala Buka)でのホームステイ(2泊)

 

ウズベキスタンのタシケントで知り合ったキルギス人のサイクリストから実家へぜひ遊びに来てほしいと招待されていた。

 

招待されなければ、キルギス人の家庭に滞在する機会は無かっただろう。

 

招待してくれたのは自転車で世界ツーリング中の33歳のサイクリストの若者だ。日本の沖縄へ語学留学後、日本のANAで就労経験もある日本通だ。ウソン・バティールベキフ(Uson Batirbekiv)氏と言う。

 

ウソン君自身は首都のビシュケクに住むが、一人暮らしの母親がいる実家へ帰省していた。

 

その実家はウズベキスタンの国境から近いジャラール・アバッド県(Jala Abad)のアラ・ブカ(Ala Buka)という小さな町の外れにあるカシュカラック(Kashkalak)村にあった。

 

当方はキルギスの農村の暮らしがどのようなものか興味があった。

 

滞在していたキルギス第二の都市オシュ(Osh)からウズベキスタンとの国境沿いに北西へ進みアラ・ブカへ向かった。 

 

アラ・ブカまで100km位の距離に迫ると、道路の舗装状態が悪くなり、そのうち舗装面をはがしたダート道へと変わっていく。 スペインから乗り出した今回使用中のオートバイは舗装道路用の重量があるオートバイなので、ダート道での操作性は悪い。 

 

当方は100kmもダート道を進むのは<勘弁してほしい>と独り言をつぶやきながら進んだが、舗装をはがしたダート道は10km程度で終わった。  しかしながら、ウソン君の実家がある村では村を貫くメイン道路以外は全てダート道だ。 

 

日本でも当方が少年時代の50年~60年位前は地方の田舎道はダート道が多かったので、違和感は無い。

 

ウソン君の実家に到着すると、ウソン君の母親がお客さんをもてなす肉と野菜をつかったキルギス名物の料理ディルマを裏庭に用意した鍋で作ってくれた。 

 

ウソン君の実家には母親以外にも、ウソン君の姉の子供たちが朝から預けられていた。また、今年大学生になるいとこの男の子が寝泊りしていた。

 

当方を含めて皆で食卓を囲むのかなと思っていた。 しかしながら、食事を共にしたのはウソン君のみだけで、母親と親戚の子供たちは別々に食事を取った。

 

中近東のイスラム諸国では女性や家族は客人と一緒に食卓を囲まないのが普通だ。キルギスもイスラム教主体の国故、同じような習慣があるのかなと考えた。

 

家族や親戚のつながりが強い

 

当方がウソン君の村に来た初めての日本人だった。日本人に会ってみたいということで当方は引っ張りだこになった。 ウソン君の親戚だけでも4軒訪問した。 また、ウソン君の同級生や知人等も含めると多数の人たちに会った。

 

訪問先では当方の年齢を聞かれた。当方の年齢を知ると、キルギス人の同年齢の人たちより10歳から

15歳若く見えると言うのだ。 事実当方が訪問したウソン君の叔母の夫は当方より年上だと思ったが、後で年齢を聞くと当方より10歳若かった。

 

<日本人は何故若く見えるのか?>と聞かると、当方は<日本人は魚をたくさん食べるからだ>と答えた。

 

 

農村の生活は自給自足だ。 

 

農家では羊、牛や馬などの家畜を飼育している。数十頭の牛や羊を飼う農家もいる。

 

ウソン君の実家では父親が十数年前に他界していたため母親一人暮らしだ。

一人では家畜の放牧が出来ないので、 他人に委託して羊の放牧を行っていると言う。

農村の家庭では羊を毎月1頭の割合で処分して食用にすると言う。

 

農地は村と離れた場所にある。農繁期には自宅へ帰る時間を惜しんで、畑に隣接する場所に小さな仮住まいを設けている農家もある。

 

農家では冠婚葬祭のため、数十人から場合によっては100名単位の人たちが飲食できるような家の造りになっている。そのため、普段は使用していないが、業務用のような大きな窯や、直径1m程の鍋まで揃えている。大量のパンも窯で焼くことが出来る。

 

キルギスも含めて中央アジアで感心するのが、子供がよく挨拶できると言うことだろう。 <アッサラーム>と挨拶の言葉を口にして、握手の手を差し伸べてくる。日本人の小学生がこんなことできるだろうか?

 

広い家やひろい庭。そして、 のんびりとした生活環境は申し分ない。

改善の余地は下水道の普及と道路の舗装化だろう。 農村では下水道は殆ど普及していないので、便所が汲み取り式で家の外にある。

 

ダート(未舗装)道では車の乗り心地が悪く、スピードも出せない。また土煙もたち、喉や肺を痛めやすい。 

 

(日本の援助で建設した橋)

 

(Oshからアラ・ブカへ向かう途中のウズベキスタンとの国境線=写真右側の柵。国境線から幅50~70mは中立地帯となっている。)

 

(Oshからアラ・ブカへ行く途中の枯れた川。川幅100mぐらいある。)

(アラ・ブカ郊外のカシュカラ村へ行く生活道路はほとんどが未舗装だ。)

 

(道路脇のベリーの木は甘い実をつけているが、ほどんどの人は実を取らない)

 

(道路脇のベリーの実。甘くておいしいかった。)

 

(ウソン君の実家でお母さんが作るキルギスの伝統料理ディルマ)

 

(羊の肉と野菜をふんだんに使ったディルマ)

 

(ウソン君の実家に2泊した。)

 

(ウソン君の実家で飼う食肉用の羊たち)

 

(ウソン君とお母さん、そしてウソン君のお姉さんの子供たち。当方はキルギスの伝統的な帽子を被っている。お母さんからのプレゼントとして頂いた。)

 

(ウソン君の叔母の家。部屋数が多い広い屋敷だった。)

 

(ウソン君の叔母の夫と写真。57歳だと言う)

(ウソン君の親戚の家ででもごちそうになった。)

 

(ウソン君の祖父の兄弟にあたる親戚筋。写真中央の若い女性は6月に高校を卒業して、9月から日本の大学へ留学する予定だと言っていた。)

 

(ウソン君の通った小学校から高校までが一緒になった一貫教育の学校。キルギスでは高校まで義務教育だと言う。)

 

(畑の一角にある仮住まい。農繁期に利用する。)

 

(馬牧場で馬のミルクを飲むウソン君。当方も馬ミルクを飲んだ。酸っぱかった。)

 

 

(ウソン君とともにハイキング)

 

(道路をふさぐ羊の群れ。小学校高学年の男の子なら馬に跨り、立派なカウボーイとして放牧の家畜を先導する。)

 

アラ・ブカでホームステイ後、首都のビシュケク(Bishkek)へ向かった。 一日ではビシュケクへ到着できないため、途中トクトグル(Toktogul)という町のホステルで一泊した。

 

地方都市で英語を上手に話す人にはめったに出会わないが、当方が投宿したそのホステルを切り盛りしている若い女性は英語を上手に話した。 宿泊料金の交渉もそつなくこなす。 当方は大学生のアルバイトかなと思った。 

 

その若い女性は、学校が夏休みの間、午前11時から午後11時まで受付、掃除、料理や雑用を手際よくこなしていた。将来の夢は女医になることだと自分の夢も語る。女医になる希望があるなら、医学部の学生かなと思い聞いてみると、まだ15歳の少女であることが分かった。

 

当方もびっくりしたが、同じ宿に投宿していた外国人もそのことを聞いてびっくりした。 15歳とは思えない宿泊客との接し方は、どこで覚えたのだろうか?

 

Toktogulの投宿はRahat Guesthouse 一泊800ソム(約1500円)

(トクトグル=Toktogul付近の写真。Toktogulは人造湖のほとりに位置する。)

 

(Toktogul付近のダム湖)

 

(Toktogulで投宿したRahat Guesthouseにはユルト=テントの部屋もあった。)

 

 

山岳コースのツーリング

 

トクトグルから首都ビシュケック(Bishkek)まで約280kmの道のりがあった。そのうち約200km位が山岳地帯を走行する。 標高3200mまでの峠上りが2回ある。

 

標高3200mあたりの山の斜面には溶けかかった雪が残っている。更にそれ以上の高い山々の斜面は氷河の様に雪が積もり残っている。

 

標高1000m位の平地では当方は夏用の薄いオートバイ専用のジャケットを身に着けていた。しかしながら、標高が高い峠では気温が数度(℃)に低くなり、寒さに耐えられなくなっていた。 荷物から冬用のジャケットを引っ張り出して、身に着けた。

 

長い登坂があれば、その逆の長い下り坂もある。なだらかな高原の走行もあり、キルギスで一番楽しいオートバイ走行が堪能できた。

 

 

(トクトグルからビシュケクへ向かう山岳ルートの始まり)

 

(トクトグルからビシュケクへ向かう途中の最初の峠の標高は3175m)

 

(標高2500mぐらいの高原を進む)

 

(標高2500mぐらいの高地から標高4000m級の山々を臨む)

 

(標高3200mに位置するトンネルを出た直後の写真。オートバイの背後にトンネル出口が見える。)

 

(標高3200mから一気に1000mくらい、急な坂道を下り、谷間の道路をビシュケクに向けて進む。)

 

(ビシュケク向かう途中に出会ったカザフスタンのライダー達)

 

 

闇経済から表の経済へ変革

 

首都ビシュケクではキルギス証券取引所を訪れた。事前に電子メールでアポイントをお願いしたが、返事がないのでダメもとで直接証券取引所へ赴いた。

 

キルギス証券取引所は1995年の設立で、現在37銘柄が上場されている。 うち二十数銘柄は株式の上場だが、債券のみ上場している企業もある。

 

証券取引所の副社長が応対してくれた。副社長と言っても社員15名と小規模の組織であるので、デンと構えているわけではない。

 

同副社長に当方の疑問を投げかけた。 <一人当たりのGDP2200米ドル(約30万円)の国の市民が広い家に住み、道路には高級車がたくさん走っているのは何故か?>と。

 

答えは簡単だった。統計数字に現れない闇経済が活発だからだと言う。 領収書が無い金銭と物のやり取りが多いと言うことだと教えてくれた。政府は闇取引を減らそうと規則を改正している。

 

規則の変更に伴い、GDPが増加していると言う。

 

2005年から2025年の20年間でキルギスのGDPは約10倍になったと言う。

2021年から2024年の直近4年間ではGDPの規模が2.5倍に増えた事実があった。

規則の変更で闇の部分だった経済が、表面に現れてきたためだと言う。

 

中央アジア諸国は海に面していない分、海外貿易にハンディーを負っている。経済を発展させるうえで足かせになっているのは事実だろう。

 

当方が、<キルギスの経済の将来性は如何に?>と同副社長へ問うと、同氏は中国と欧州の架け橋となるよう鉄道網の整備で(第二のシルクロード)、ビジネスチャンスを見出そうとしていると言う。

 

その一環として、キルギスはウズベキスタンと中国の3ケ国で経済協定を締結したと言う。

(キルギス証券取引所建物)

 

(キルギス証券取引所で応対してくれた副社長Myktybek Abirv氏)

 

ビシュケクでキルギス人人懐っこさを実感

 

当方が市内を散歩中に、トヨタの高級ブランドであるレクサスの乗用車とトヨタの大型四輪駆動のランドクルーザーが駐車してある大きな屋敷があった。

そこにいた中年の男に当方は<いい車を持っているね>とほめた。

 

するとその男(車のオーナー)は当方をその屋敷の中へ案内して、<お茶でも飲んで行け>と言う。当方は

その男について、家の中に上がり、お茶をごちそうになり、そろそろ帰ろうとした。

 

 

その男は、当方へ<俺の車で市内を案内する>と言うではないか。当方は、折角の申し出だからと思い、その男の車に乗り込んだ。

 

大通りをガンガン飛ばして走り、いろいろ説明してくれるが、ある目的地を目指してカーナビを操作しているのではないか。 

 

同氏はもともとは医者だった言ったが、今は投資会社を経営していると言う。

目的としていた郊外の場所はどうやら不動産の物件のようだった。

 

物件先で、同氏が長話をして帰る気配が無いので、当方は<やるべきことがあるので、市内へ戻りたい>と同氏へ自宅へ帰るように促した。同氏も渋々同意して帰ることにした。

 

同氏の自宅で別れ際に、同氏が<明日も一緒にどうだ?>と当方を誘ったので、当方は<明日は計画がある>と丁重に断った。

(ビシュケクのシンボル的なアラ・トー広場=Ala Too Square)

 

(ビシュケクの大通り)

 

(ユネスコ世界文化遺産があるNavekat仏教遺跡付近。古のシルクロードを想像してダート道を走行した。)

(ユネスコ世界文化遺産のNavekatの7世紀~12世紀の仏教遺跡 。遺跡の一部を大屋根で覆っている。)

 

(仏教遺跡の壁が復元されていた。)

 

(Navekatの仏教遺跡は今も発掘調査中だった。)

 

(11世紀に47m位の高さがあったミナレット=Burana Tower。地震等で崩れて現在は高さ26mぐらいになった。

ユネスコ世界文化遺産)

 

(キルギス中部に住んでいた古の民族は、石に人の顔を彫った。墓石としても使ったと言う。)

 

気温の変化に体がついていけず風邪をこじらせてしまう。

 

ビシュケクは標高800mに位置するが、日中は日差しが強く、夏の暑さだ。

ビシュケクからこの先向かうイシク・クル湖やカラコル(Karakol)は標高1700mの高地に位置していた。

 

オートバイツーリングでは走行風を身体に直接受けるため、気温の変化には敏感だ。 標高が高くなるに従い空気が涼しくなる。夕方になると一気に気温が下がり、寒くなる。 この気温の変化に体がついていかず、とうとう風邪を引いてしまった。

 

ビシュケックから東方向へ約450km離れたカラコル(Karakol)は市内の背後に控えた4000m級の山々への登山やトレッキングの拠点となる町だ。 市内ではトレッキング姿の外国人旅行者をよく見かける。

 

カラコルから12日のトレッキングや渓谷巡り、そして温泉地行きを計画していた。しかしながら、風邪をこじらせてしまったため、先のことを考えて宿で静養することにした。

 

カラコルで3泊後、 カラコルの東120km先のカザフスタンとの国境を越えて、カザフスタンの旧首都であったアルマティ(Almati)を目指した。

 

カラコルの宿はHostel Nice ドミトリ式のベッド 1泊700ソム(約1200円)

(ビシュケックからイシク・クル湖方面へと標高が高くなり、涼しくなる。)

 

(ビシュケクからカラコールへ向かう途中にバリクチー=Balykchyの町で一泊した。 寂しそうな町だった。)

 

(キルギスのレストランのメニュー。メユー内容が判らないので困った。)

 

(泳ぐ人もいたイシク・クル湖。湖の水はあたり冷たくなかった。)

 

(イシク・クル湖で釣りをする人たち)

 

(イシク・クル湖と雪をかぶった山々。カラコールへ向かう途中)

 

(バリクチからカラコール間の230kmはダート道と舗装道路の繰り返しだった。

当方は埃まみれになり、埃で喉も傷めた。)

 

(カラコール付近の標高は1700m位と高地のため、6月中旬でやっと菜の花が咲く。)

 

(当方が木陰で休憩しているとロバに乗った少年が挨拶に来た。)

 

(カラコール市内の商業地区)

 

(カラコール市内のキリスト教会=Holy Trinidad Church。1895年建造)

 

(カラコール市内のDungan Mosque。Dunganとは中国人のイスラム教徒のこと。1907年建造)

 

(カラコールの博物館)

 

(1932年=昭和7年のビシュケクの東方約50km地点に位置するTokmokの茶店風景)

 

(1932年当時のキャラバン。中国カシガール=Kashkarの北西のシルクロード。一頭が約80kgのウールを運んだと言う。)

(1932年当時の馬でのツーリング。イシク・クル湖南岸を進む)

 

(1932年に中央アジアを冒険旅行したElla Maillart女史は多くの写真を撮った。

同女史の写真展の案内ポスター)

 

(カラコールの黄昏時を題名とした絵画)

 

 

(カラコールで出会ったイギリス人の47歳のサイクリスト、ロビー=Robbie氏。日本も北海道から福岡まで自転車で走ったことがあると言っていた。)

 

(カラコールで投宿したHostel Niceは居心地が良かった。英語が上手だったオーナー夫人のJanlyさん)

 

カザフスタンとの国境越え

 

2022年にこの国境をオートバイで通過した日本人ライダーのS氏と連絡を取り、国境へ至るルートや道路状況等を問い合わせると、S氏から国境へ向かう道はダート道だったと教えてもらった。

 

当方の経験でも国境へ向かう道路は整備されていないことが多かった。

カラコールから国境まで120km程度しかないが、当方は国境到着まで4時間見込んでいた。 朝7時に宿を出発後、午前中に国境へ到着できれば、国境から270km先のアルマティー(Almati)へは同日中に到着できるだろうと考えていた。

 

その国境までの道路は最近整備され、時速90kmで通行可能な舗装道路となっていた。そのため国境へは午前9:00に到着した。

 

この国境(Kegen国境)は、小さな検問所があるマイナーな国境だった。国境を通過する旅客が少ない。

 

そのため、キルギスタンの出国、カザフスタン入国はスムーズで合計30分程度の短時間で済んだ。当方が経験した国境では最短時間のでの通過だった。

(カザフスタンとの国境へ向かう道はスイスのような美しい景色だった。)

 

(カザフスタンへ入国直後の写真。オートバイの背後にはカザフスタンの国境管理事務所が見える。)

 

(カザフスタンの旧首都アルマティーへ向かう平原風景。またステップ=草原かとため息が出た。)

 

(アルマティー市内の商業ビル。バーガーキングの看板文字が見える。)

 

(アルマティー市内の様子)

 

以上