Georgiaから Astrakhan, Russiaまで1,300km (5/6~5/11) | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

ジョージアからロシア・アストラハンまで(Georgia toRussia1,300km 5/65/11)

 

 

(地図左下の空色部分は黒海、右上の空色部分はカスピ海。青色の線は走行ルートを示す。 地図の青丸の場所は出発地点のトルコのリゼ。地図上部のゴール旗の場所がアストラハン。手書きの赤丸印が下から順に宿泊場所であったジョージアのクタイシ、ステパンスミンダ、ロシアのゴローズニー~コチュンベリとなる。)

 

トルコ出国とジョージア入国

 

トルコのリゼ(Rize)で2泊後、ジョージアへと向かった。リゼからジョージアとの国境まで約100kmだ。

 

トルコとジョージア間はヨーロッパとロシアや中央アジア諸国を結ぶ主要な国際輸送ルートだ。

国境が近づくに従い、道路の路側帯には長距離輸送のトラックが列を連なるように駐車してある。

 

国境を通過する前に、トラックの中で仮眠したり、休憩したり、あるいは食事をするためだろう。

 

国境での出入国管理事務所ではトラックとオートバイを含む自家用乗用車はそれぞれ別々に窓口がある。通常トラックの出入国手続きに時間がかかる。それに反して、一般車両はそんなに時間がかからない。

 

トルコ出国手続きはパスポートとオートバイの登録証(Registration Certificate)をチェックするだけで5分程度で終わった。

 

他方、ジョージアへの入国は50分程度かかった。 個人的な印象だが、国境管理事務所の役人は態度が横柄だ。特に旧社会主義の国々では顕著だ。 ジョージアも旧ソ連崩壊前はソビエト連邦を構成する一共和国だった。

 

入国審査官は当方のパスポートに直前のトルコの出国印が押印していないので、ジョージアには入国できないと言う。 そして、もう一度トルコ側へ戻り、パスポートに出国印を押してもらって来いと言う。

 

当方のパスポートはページ数が追加され約100ページある。そのうち約80ページには過去にツーリングした国々のビザや出入国印が押してある。 そのため、出入国印のチェックには時間がかかる。

 

トルコ側へ戻り、トルコ側係官と出国印の押印確認を行った。パスポートにはトルコの出国印をしっかり押印してあった。単にジョージア入国係官の見落としだった。 

 

入国管理事務所ではオートバイの登録証確認も行う。

係官は日本の登録証の形式に慣れていないため、オートバイのデータをコンピューターへ入力するのに手間取っていた。 何回もデータ入力に失敗しながら、小言をつぶやいていた。

 

ジョージア入国の際は日本の運転免許証の提示を求められる。 

 

日本が加盟するジュネーブ条約の国外運転免許証では海外に渡航する際には、日本の免許証も携帯することになっている。ジョージアは本国の運転免許証の確認を行う数少ない国だ。

 

係官からは、車両の強制保険と交通事故の際の緊急連絡先等が記載しているパンフレットを手渡されながら、入国後に自動車保険に加入するようにとの説明があった。

 

強制保険は国境から数km離れた道路沿の保険代理店の業者で買った。 保険料金は2週間で20ラリ=約1,100円)。

 

 

ジョージアへ入国後、トルコの道路インフラの良さが思い出された。 トルコとジョージアでは格段の差がある。

また運転マナーも同様に各段の差があった。 

 

(ジョージアの車両保険の代理店前でウズベキスタンのトラック運転手たちと出会った。)

 

クタイシ(Kutaisi)の懐かしのゲストハウスで2連泊

 

ジョージア入国後、 約180km走行してジョージア内陸部のクタイシ(Kutaisi)に到着した。

 

このクタイシで2年前肝っ玉母さんのような印象の女性が経営するゲストハウスでお世話になった。

家庭的な雰囲気のゲストハウスだった。言葉が通じなくても、女主人は当方に良くしてくれた。

 

そのゲストハウスに再度宿泊するつもりだった。 当方がゲストハウスの前にオートバイを止めると、エンジン音を聞いた女主人が外に出てきた。

 

女主人は当方を一目見るなり、気が付いた。 そして、笑顔で当方を歓迎してくれた。 言葉は判らなくても、態度で歓迎してくれる様子は誰でも判る。 

 

女主人の夫も外に出てきて、挨拶をした。 女主人がよくしゃべるためか、その夫はどちらかというと控えめで言葉数は少ない。 しかし 当方を歓迎してくれている。 二人とも当方と同じ位の年齢だ。 

 

二人とも旧ソ連時代の教育を受けていたため、ロシア語は堪能だが、英語はさっぱりだ。

16歳の高校生の孫が英語の通訳をしてくれる。 この高校生は外国へ行ったことは無いと言うが、上手に英語を話す。 

 

ジョージアの学校では英語は必須だが、ロシア語は選択制となっていると言う。

この高校生のお陰で、ジョージアのことが判った。また、女主人との意思の疎通が良くなった。

この女主人は1958年生まれであった。17歳で結婚後、18歳には子供が生まれ、現在曾孫まで出来たと言う。

 

このゲストハウスの手助けになればと思い、 当方がツーリング時の宿や出入国の手続き等の情報収集に使うアプリ

(I Overlander)にゲストハウスの情報を投稿した。そのことを女主人に伝えると、お礼も兼ねてか翌朝の朝食の品数と量ががたっぷりになった。

 

宿泊はHostel Temuri (一泊40ラリ=約2300円)

(ジョーリア・クタイシの靴修理店の看板は小さすぎて分からなかった。トルコのブルサで走行中に車にぶつかられて、オートバイと一緒に転倒した。その際に右足のブーツの縫い目が破れた。その修理を小さな靴修理店に依頼した。)

 

(修理してもらったオートバイ用のブーツ。指で示した場所の縫い目が破れていた。)

 

 

(クタイシで人気があるケバブ屋。立ち食い、立ち飲みだ。)

(ケバブと大きな塊のパン、そして飲み物で12ラリ=約650円)

 

(クタイシの市内を流れる川は上流域での雨のためか、灰色に濁りかなりの水量で流れていた。)

 

(道路上にはみでたバルコニー。このようなバルコニーが多いのだが、違法建築にならないかと思った)

 

(投宿したクタイシのゲストハウスHostel Temuriの女主人)

 

(ゲストハウスの朝食の量と品数が増えた)

 

コーカサス山脈の小さな町ステパンスミンダ(Stepantsminda)

 

 

その後、首都のトビリシには宿泊せずに、ロシアとの国境とは目と鼻の先のステパンスミンダ(Stepantsminda)

へ進んだ。

 

ただし、当方より12ヶ月先行して同地を車でツーリング中の日本人夫妻から、<ロシアでのルーブル(ロシア通貨)と外貨の交換レートは悪いので、トビリシでロシア・ルーブルを調達しておいた方が得だ>とのアドバイスを受けていた。

 

そのため、トビリシにはロシア・ルーブルを調達するために立ち寄った。

トビリシは交通渋滞が酷いうえに、ドライバーの運転マナーも悪い。車の無理な割込み、ジグザク運転、急ハンドルや急発進が多い。

 

当方がトビリシに立ち寄った際にも、オートバイ走行中に23回くらい危ないと思った場面に出くわした。 そんなこともあり、トビリシからは一刻も早く立ち去りたかった。

 

トビリシから北のロシア国境へ向かう途中にコーカサス山脈が横たわる。 3千メートル級の山脈ながら山の頂きや斜面は雪に覆われている。 最高峰のエルブス山は標高5,600mある。その雪山に向かって谷間を走り抜けていく。 途中集落がポツリポツリとある程度で、町は無い。 ただし、ロシアへ通じる主要道路のため大型トラックの通行が多い。 

 

コーカサツ山脈が近づくに従い、気温が低くなる。

トビリシではTシャツ姿でも暑く感じられた。しかし、コーカサス山脈の峠付近の道路脇にはまだ雪が積もっている。

峠の気温は数℃ぐらいだろう。 

 

当方は途中でオートバイを止めて、服を着込んだ上にダウンベストをライディング・ジャケットの下につけた。手袋も夏用から冬用に変えた。

 

坂道は10km以上続く。しかし、神奈川県の箱根のような急峻な坂道は無い。ただし、路面に大型トラックの通行で大きな穴や割れ目が多くできている。 また、トンネル内には照明が無く、全くの暗闇である。 大型トラックがローギアでゆっくり坂を登ることにしびれをきらした乗用車がトラックを無理に追い越そうと対向車線から飛び出してくる。危ない。 こんなことが繰り返される。

 

 

(クタイシ付近から見たコーカサス山脈。雪山が見える)

 

(クタイシから首都トビリシへ向かう高速道路。交通量は少なく、通行は無料。)

(首都トビリシからコーカサス山脈へ向かう)

 

(コーカサス山脈の峠に向けて登坂を進む。)

 

(コーカサス山脈の峠付近。積もっていた雪が解けて、水が流れ出している。)

(コーカサス山脈を上るトラックの列)

 

コーカサス山脈の峠を越した後、下り坂になり、少し平地が続く谷間に小さな町があった。本日の宿泊としていたステパンスミンダ(Stepantsminda)だ。 町は標高1,500m以上の高地に位置するため、この時期であっても最低気温は-3℃~-4℃になる

 

I Overlander(ツーリングの情報アプリ)で見つけたゲストハウスに飛び込みで一泊をお願いする。山小屋風の建物だったが、部屋はしっかり暖房が利いていて暖かかった。

 

ゲストハウスのオーナーは無口でいかめしい顔つきだった。翌日、オーナーは迷彩色の軍服に身をつつみどこやら出勤する。オーナーは客商売向きでは無いと思ったが、軍人だったと判る。

 

翌朝ゲストハウスの窓から外をみると人を寄せ付けないような険しい3千メートル級山々があった。その景色は絶景であった。

 

宿泊はMaia’s Guesthouse(一泊35ラリ=約2000円)

(ステパンスミンダで投宿したゲストハウス マイア)

 

ステパンスミンダの町からコーカサス山脈をみる。写真では山が小さく写るが、実際は山は写真より大きくまじかに見え迫力ある。)

 

ジョージア出国と時間がかかったロシア入国

 

ジョージア出国はパスポートとオートバイの登録証のチェックだけで簡単だった。順番待ちも含めて20分程度だった。

 

ロシアの出入国管理事務所はジョージア出国後45km先にあった。ロシア側の出入国管理事務所へ到着する前に数kmのトラックの列があった。乗用車等の一般車両の列も300~400m位続いていた。 礼儀正しい日本人ならその列の最後尾について順番待ちをするだろう。

 

当方はオートバイの利便性を生かして、順番待ちの乗用車の脇をすり抜けしてぼぼ列の最先端まで出た。

当方のふるまいに文句を言ったり、邪魔をする乗用車のドライバーはいなかった。交通整理を行う警察官も当方へ<先に行け>と手を振って促す。

 

ロシアの入国手続きは時間がかかると聞いていた。しかし4時間もかかるとは思わなかった。

 

イミグレーションで別室に案内され、KGB職員のような係官からどこへ行くのか、入国目的は何か等の質問攻めに遭う。当方がちょうど胸ポケットに入れていた今回のツーリングルートと行き先の国名を書いた地図を係官へ手渡した。

 

係官がその地図を参考にしてパソコンに当方の行き先データを入力する。係官が<United Kingdom=英国へも行くのか?>を質問してくる。 ロシアと英国は17~18世紀ごろから勢力範囲を競って関係が悪い。 それぞれの国にとって仮想敵国だからだろう。 

 

一時間以上待って、ロシアの入国印が押されて、パスポートを返却してもらった。<もう行って良い>と出入国係官に言われてたので、オートバイに跨り、出発しようとした。その時、キャンピングカーで旅行するドイツ人の様なヨーロッパ人が書類に何やら書き込みをしているのを見た。

 

事前情報でこの国境で車両の一時輸入の手続きをすることを思い出した。 そのヨーロッパ人に確認すると、やはりロシアへの車両持ち込みの一時輸入の手続きをしているとのことだった。

 

 もし一時輸入の手続きを行わなかったら、ロシアから出国する際に大きな問題になる。場合によっては、ロシアへ入国した時の国境へ戻って、一時輸入の手続きを行えと言われる場合もあると聞く。

 

この手続きに2時間位時間を費やす。英文の書式があるが、記入内容を間違えると、係官から書類を突き返され、書き直しを要求される。 当方は2回書類を書き直した。

 

そんなこともあり、ロシア入国手続きでは合計4時間位費やした。やはり午前中に入国手続きをすべき国境のひとつである。

 

出入国管理事務所から300m先にあった建物でロシアのオートバイ用の強制保険を買った。(保険期間2週間で900ルーブル=1500円程度)。

 

事前にロシア・ルーブルを調達していたり、ロシアの携帯電話のeSIM(業者はInstabridge)を購入したり、またインターネット用VPNExpress VPN)も申し込済みだった。そのおかげで、当日は他の用事をせずに目的地まで一気に進めた。

 

ちなみにロシアではインターネットで西側の情報が入手できないようにインターネットの制限を行っている。Facebook等の西側のSNSにロシアの通常のインターネット回線では繋がらないようにしてある。

 

そのため、Facebookを閲覧するためにはVPN(Vertual Private Networkと呼ばれるプライベート回線)を介さねばならない。イランでも同様であった。

 

ジョージアとロシアには1時間の時差がある。 ロシア時間はジョージアより1時間遅い。つまり1時間得したようになった。 そのおかげで、国境から約150km先にあるチェチェン共和国(Chechnaya)の首都グローズニー(Grozny)まで行くことにした。

(ジョージアへとロシア出国手続き前に並ぶトラックの列)

 

ロシア入国直後の天気は怪しげだった。数キロメートにわたる広大な菜の花畑)

 

(ウラジカフカスの通りには数百の戦没軍人の遺影写真が飾られていた)

 

グローズニーの宿泊はBest Hostel(一泊600ルーブル=約千円)

 

グローズニー(Grozny)からアストラハン(Astrahan)までカスピ海西岸部を12日(約520km

 

グローズニーはチェチェン共和国の首都だ。 1995年~1996年及び2004年~2005年の2回にわたり、チェチェンでは戦争があった。チェチェン独立派と独立を許さないロシア連邦軍との容赦ない戦いだった。

 

1995年~96年の初回の戦争では独立派が勝利して、休戦に持ち込まれた。2004年~5年の第二次チェチェン戦争ではロシア連邦軍がチェチェン独立派徹底的に叩いてロシアがチェチェンの独立を許さなかった。

 

チェチェンは石油資源が豊かな土地故、ロシアが独立を許さなかったのだろう。

 

首都のグローズニーは戦争で破壊されたと聞いていた。 戦争後、ドバイやアブダビまでには至らないが、アラビア湾岸の石油リッチな国々の様にモスクと高層ビルが建ち並ぶ近代都市に生まれ変わっている。

(チェチェンの首都ゴローズニーには軍人の絵が壁一面に描かれていた)

 

(グローズニーの巨大モスク。まだ新しいモスクだった。)

 

(巨大モスク内の礼拝者は少なかった。)

 

(グローズニーの中心地には新しい高層ビルが立ち並ぶ。)

 

(ロシア領内とは思えないようなイスラム式の町へ入る門)

 

(グローズニーからコチュンブリー途中の景色)

 

オートバイ走行中に困ったことが一つあった。 カーナビが作動しなくなったのだ。 グローズニー市内や郊外でもカーナビがフリーズする。妨害電波でカーナビが衛星電波を受信できないようにしているのだろう。

 

2017年ロシアのウラジオストックやエカテリンブルグをオートバイで走行中に同様なことが起こった。 

また、2023年イランでもそうであった。 軍事施設があったり、戦略上重要な場所では衛星電波が受信できないようになっている。

 

カスピ海西岸地域は何もない荒野だった。 グローズニーとアストラハンの中間地点の交通の要と思われる街道沿いのKochunberyという集落で一泊した。 

 

数件のモーテル、ガソリンスタンドと食堂があるだけだった。 この幹線道路を通行する長距離輸送トラックの運転手達が休憩する場所だろう。

 

トラックの交通量が多い場所ではメリットがある。トラックの運転手が利用する食堂が多いのだ。

既に料理された一品ずつの料理がビュッフェスタイルのように並べてあるので、外国人でも何の料理か一目瞭然だ。

 

当方にはこのような食堂がありがたかった。

 

グローズニーあたりから晴天に恵まれるようになった。気温は30℃までは届かないが、日差しが強く炎天下では夏の様に暑く感じられる。 当方はライディングジャケットの下は、半袖のTシャツのみの軽装に変えた。

 

コチュンブリー(Kochunbery)ではHotel Karavanに宿泊(一泊1,500ルーブル=約2800円)

(コチェンブリーで投宿したホテル カラバン)

(コチュンブリーからアストラハンへ向かう途中。 広大な不毛の土地のようだ)

 

ロシアの観光ガイドブック(地球の歩き方)では何も情報がない。 気が付いたのは大きな立派な都市であると言うことだ。

欧州で最長のボルガ川がカスピ海へ注ぐ下流部の三角州(デルタ地帯)にできた都市だ。

 

古くは14世紀に中央アジアで一大王国を造り上げたティームールの侵略を受けたり、16世紀にはオスマントルコにも侵攻された町であったが、18世紀には帝政ロシアが砦を築き、ロシアの中央アジア地域へ進出するための前線基地の役割を果たしていた。

 

そのため、市内の中心部には往時の城壁で守られた町(クレムリン)がある。

 

アストラハンではHotelHostel Baden Baden(ホステル料金一泊900ルーブル=約1,500円)

(アストラハン市内中心部の通り)

 

(アストラハン市内のボルガ川河口付近)

(アストラハンのクレムリンの入口門と主要教会=ウペンスキー教会)

 

(19世紀ぐらいだと思われるアストラハンの市内写真)

 

(アストラハンで投宿したHotel Baden Badenの最上階の一部屋がドミトリー式となっていた。ドミトリー式の部屋の宿泊客は当方一人だけだった。)

 

以上