インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -3ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

ケアンズからグレート・インランド・ウェイ経由ブリスベンへ進む(CairnsGreat Inland WayBrisbane) 2,000km(4/255/5

 

(要約)

 

ケアンズの後はオーストラリア東海岸沿いに南下する計画だった。 

 

ケアンズから約350km南のタウンズビル(Townsville)まで海岸沿いの国道(Bruce Highway)を進んだ。

対面通行の国道は交通量が多く、絶えず後方に続く車が当方に迫ってくる。 

 

当方は後ろに続く車の邪魔にならないようにスピードをあげるが、自分の走行ペースが乱れて居心地が悪い。

 

タウンズビルで訪れた博物館の職員に19世紀にゴールドラッシュで栄えて、今も当時の面影を残す内陸にあるチャーターズ・タワーズ(Charters Towers)への観光を勧められた。 

 

また、チャーターズ・タワーズから東部海岸と並行して内陸部を1000km以上南下するグレート・インランド・ウェイ=Great Inland Wayがクイーンズランド州の観光地図に車で旅をする人たちへ推奨ドライブルートとして載っているのを見つけた。

 

ルートの途中には絶景の渓谷があるカルナルボン国立公園があることを知った。

この場所をぜひ訪れようと走行ルートを急遽内陸ルートにした。 

 

タウンズビル~ゴールドラッシュで栄えたチャーターズ・タワーズ~クレモント(Clermont)~カルナルボン国立公園(Carnarvon National Park)~ミルズ(Miles)~ブリスベンへと約1週間かけて

走行した。

 

見どころはアメリカ映画の西部劇に出てくるようなゴールドラッシュで栄えたチャーターズ・タワーズの街並みと各種の観光ツアーだ。 

 

当方は金を含む原石から金を摘出する元作業所(Gold Battery)のツアーに参加したが、元作業所が半分朽ちた廃屋とは知らず、少しがっかりした。

 

チャーターズ・タワーズの夜の墓のツアーや金の幽霊ツアー等の有料の観光ツアーもあった。

 

それからカルナルボン国立公園の渓谷だろう。枯れ川の谷底から見上げる川の両側に立った崖は見ごたえがあった。

 

この国立公園に至る農道ではカンガルーやディンゴが目の前で道路を横切るのを見た。野生の動物が身近に感じられた。

 

詳細は以下に記述する。

 

(19世紀の面影が残るチャーターズ・タワーズの中心部)

 

(カルナルボン国立公園内の枯れ川の谷底)

 

(オーストラリア東海岸のケアンズから内陸路=グレート・インランド・ウェイを進んでブリスベンまでの走行ルート(ピンク色の線)。赤丸印が宿泊地。写真のデジタルサイズを専用アプリで縮小したら縦が圧縮してしまった。海岸沿いの地図右上がケアンズ。右下がブリスベンの位置)

 

(オーストラリア東半分の地図。本来は右側が北になる。赤線はメルボルンの近くコラックからブリスベンまでの走行ルート。走行距離は8千kmに達した。)

 

4/254/27 ケアンズ3

 

ケアンズの3泊はあっという間だった。 

 

ケアンズ滞在中の一番の目的はブログの更新と携帯電話のSIMカードの更新だった。

ブログを更新している合間に市内を散策して、南国リゾートの雰囲気を味わったり、オートバイで

160km走行してイチジクの根のカーテン(Curtain Fig Tree)を見に行った。

 

ケアンズでは南国らしい熱帯雨林の木々が街路樹や遊歩道に植えられ、熱帯の雰囲気を醸し出す。

しかしながら、ハワイのように一目で観光客と思われる人々の姿は多くないと感じた。

 

街並みは1980年代のような23階建ての建物と歩道をすべて覆うアーケードの屋根だった。

日本の地方都市の昔の商店街を彷彿させるような街並みだった。

 

観光客はケアンズには留まらず、ここを起点にグレート・バリアー・リーフの観光を楽しむだろう。

この町にはワーキング・ホリデーの制度を利用してアルバイトをしながらオーストラリア旅行を経験する海外の若者が、ビザの更新のためケアンズで仕事を探すと聞いた。

 

ワーキングホリデーでは1年のビザが付与されるが、ビザの更新が可能だ。 ビザの更新には地方である一定期間働く必要があるようだ。 ケアンズにはアルバイト先を探したり、アルバイトしている外国の若者が多くいる。

 

投宿先のホステルで、当方はそのようなビザ更新のためケアンズにアルバイトををしながら滞在している日本人女性と話す機会があった。

(カーテン・イチジクの木=Curtain Fig Treeがある熱帯雨林。手摺がある歩道デッキの奥にカーテン・イチジクの木があった)

 

(カーテン・イチジクの木=Curtain Fig Tree。高さ15mぐらいある。)

 

(カーテン・イチジクの木は当初、他の大木の枝に芽生え、イチジクの根が地に降りるように成長して大木を倒し、大木に寄生するように成長した過程を説明した案内図)

 

4/284/29 タウンズビル(Townsville)に2

 

ケアンズからタウンズビルへブルース・ハイウェイ(Bruce Highway)を海岸沿いに約350km南下する。

移動した日はケアンズを出発するときから雨だった。 350kmを走行しても、時々曇ることはあっても終日ほとんど雨だった。

 

時々豪雨となり、前方を走行する車の姿が見えなくなる。レインウェアに当たる雨水の粒が大きくて、

腕に雨水の衝撃を感じる。 レインウェイを着ていても、豪雨には勝てず、水が衣服にしみてきて寒くなる。

 

途中のロードハウスで、暖をとるため熱いカプチーノを買い求めた。そして着ていた長袖のTシャツを脱ぎ、それまで着用していなかった厚手のライディングウェアをレインウェアの下に着用して暖を取った。

 

やはり、雨天のオートバイ走行はいやだ。 

走行中に、反対車線の車に驚いた小鳥が飛び出してきた。 足元でカーンと何かが金属に当たる衝撃音が聞こえた。

 

路肩にバイクを止めると、小鳥がエンジンの鉄製のアンダーガードに衝突した跡があった。

小鳥は、即死したようだ。

 

小鳥が当方の足に当たっていたら、当方は足にけがをしていたかも知れないとぞっとする。足に当たればそれなりの衝撃を受ける。

 

そうなれば、ハンドル操作を誤って、オートバイと一緒に転倒する危険性もあった。 そんなことにはならず、無事で何よりだった。 

 

ブルース・ハイウェイは交通量はそれなりにあるが、やはり対面通行の道路のため

当方の後方から車が近づいて車間距離が短くなると威圧感を感じる。

 

そのため、タウンズビルから先は幹線道路を避けて南下するルートを検討した。

 

タウンズビルでは町の中に高さ260mの砦のような丘がある。その丘の上からタウンズビル周辺が一望できるとガイドブックに書いてあった。 興味をそそった。

 

その丘から周囲の地形をみると、海岸沿いに平地が広がり、その奥(内陸側))には大分水嶺山脈(Great Dividing Range)が南北に連なっているのが良く判る。

 

タウンズビルではサンゴ関連の研究所を備えた水族館(Tropical Aquarium)があると旅行書にかいてあったので、グレート・バリアー・リーフの実物の代わりに水族館でその気分を味わおうと出かけた。

 

しかしながら、水族館は壁が壊れて2019年に取り壊したままで、再建の目途が立っていないと

水族館横のタウンズビル博物館の受付の館員が教えてくれた。

 

この受付の館員は暇なのか、当方が水族館を見たくて残念がっていると、タウンズビルの歴史をとうとうと30分ぐらい説明してくれる。

 

タウンズビルはその昔、オーストラリア東海岸ではシドニーに次いで2番目に栄えていたという。内陸から集積される金、銀、銅や家畜等をタウンズビルから輸出したという。

 

アジアから入る貿易船はオーストラリアで最初にタウンズビルに寄港したという。 当時の栄えた様子が、港があった川沿いの街並みに残っているという。当時の銀行や商社、ホテルや飲み屋の建物が確かにある。

 

この館員がタウンズビルから150km程度内陸にあるチャーターズ・タワーズ=Charters Towersを訪れることを勧めてくれた。 チャーターズ・タワーズは19世紀後半ゴールドラッシュで栄えた町で、今でもその面影が残るという。

 

当方は交通量が多い東海岸沿いのハイウェイを南下するのは乗る気で無かったので、これ幸いと

この話に乗り、翌日からの走行ルートを内陸のグレート・インランド道(Great Inland way)沿いに南下することにした。

(ケアンズからタウンズビルの国道沿いの広大なサトウキビ畑)

 

(タウンズビルのランドマーク的なキャッスル・ヒル=Castle Hill。高さ260m)

(キャッスル・ヒルからタウンズビルの町を見下ろす)

 

(キャッスル・ヒルから西側=内陸方向を見るとグレート・ディバイディング・レンジ=大分水嶺山脈が望める)

 

(キャッスル・ヒルズから北側=ケアンズ方向の海岸線を臨む)

 

(タウンズビル川河口にはかっては港があった。)

 

(貿易で栄えたころの建物が残るタウンズビルの街並み)

 

(昼間は人通りが少ない)

 

(タウンズビルのビーチ)

 

4/30 タウンズビル~チャーターズ・タワーズ(150km

 

タウンズビルから真西に内陸へ入るオーバーランダーズ道(Overlanders way)をマウント・アイサ方面へ進む。

 

チャーターズ・タワーズで1871年に金が発見された話が一気に伝えられ、一攫千金を狙う男たちが

チャーターズ・タワーに集まり、町ができたという。

 

19世紀の面影が残る街並みは、道路に自動車がなかったら西部劇を見ているような感じの街並みだ。

この町には東海岸で最初に証券取引所が設立され、金鉱会社やその関連の株式が取引されたという。

また金地金の相場も立っていたという。

 

当方は鉱物資源には関心ある。 かって使われていた金を含んだ原石から金を取り出す作業所(工場)のツアーがあると言うので、早速そのツアーに申し込みをした。

 

チャーターズ・タワーズでのモーテルとホテルが100豪ドル未満なら宿泊したいと思っていたが、100豪ドル未満の宿は無いので、町はずれのキャンプ場でテント泊になってしまった。

宿泊したキャンプ場はDalrymple Tourist Van Park30豪ドル)。 

 

翌日、金を原石から取り出す元作業所ツアーに参加すると、元作業所は建物が崩れんばかりの廃屋だった。

 

そこにジーパン姿でカーボイハットをかぶったひげ面の中年の男がピックアップトラックで乗りつけてきた。 

この男が、元作業所の説明をするというのだ。

 

1872年から約100年使われた金摘出の作業所では、金を含む原石を採掘者が荷車で持ち込み、原石の重量を計測して、原石を小石に粉砕するとこから始まる。

 

19世紀の作業所故、簡単な機械装置の設備だ。

 

粉砕した金を含む原石を更に細かく砕き、水銀を加えて金を分離させるが、工場が出来た頃は化学的に金を分離する方法が発明される前のため、原石の半分は捨てていたという。

 

十数年後に化学的分離方法が発明された後には、廃棄された原石からも金が摘出されたという。

 

この作業所はあくまでも個人の採掘者が利用するもので、作用所の使用料が最終的に摘出された金の半分もしたと言う。すなわち採掘者と作業所経営者が金を折半したことになる。

 

金の分離には水銀を多量に使用した。その水銀を含む汚染水はそのまま廃棄されたため、後に井戸水を汚染することになり、住民の健康を害することになったという。

 

当時の住民の平均寿命は40歳程度と言われていた。

 

この廃屋見学がガイドの説明付きとは言え、30豪ドル(約3千円)では高いと思った。

この程度の見学では観光客は満足しないのではないかと思った。

(チャールズ・タワーズの金が発見された丘=タワーズ・ヒルから町を臨む。 町の向こうには大平原が広がる。)

 

(チャールズ・タワーズの町の中心部は19世紀の面影が残る)

 

(19世紀のチャールズ・タワーズの町)

 

(チャールズ・タワーズの元株式取引所建物。現在はカフェやレストランに使用されている。)

 

(金の原石から金を取り出す元作業所=Gold Battery内の金を含む原石を粉砕する19世紀の機械装置)

 

(金を含む原石を採掘現場から作業所=Gold Batteryまで運んだ荷車)

 

(元作業所=Gold Batteryは現在廃屋だ。 屋根の上には蒸気を動力とするためのボイラーがあった。)

 

(キャンプ場に2年住み、地域で水関連の仕事をするウェーン氏からツーリング情報を教えてもらった。)

 

5/1チャーターズ・タワーズ~クレモント(Clermont) 約380km

 

グレート・インランド・ウェイ=Great Inland Wayを南下した。 

 

クレモント=Clermontの町を観光しようと寄ったのではなく、このルートの先にカルナルボン国立公園=Carnarvon National Parkへ行くために途中で宿泊したのみだった。

 

交通量が少ない。

先に走行したクイーンズランド北部と同様に、5分~10分程度に対向車とすれ違うぐらいだ。

 

マイペースで進める道路だ。

 

カンガルーが2匹いきなり道路に飛び出してきた。危ないと思いオートバイにブレーキをかけ減速すると、更にまた2匹飛び出してきた。 4匹の集団だったが、5m10m程度のまじかでカンガルーがジャンプしながら道路を横切る姿を初めて見た。

 

陸上競技の三段飛びでホップ・ステップ・ジャンプのようなリズムの走り方だから、ゆっくりとしたスピードだ。カンガルーが交通事故にあう理由が分かったような気がする。

 

クレモントの約200km手前のベルヤンド交差路(Belyand Crossing)の原野の一軒宿(ロードハウス)で一泊することを当初考えていた。

 

しかしながら、ロードハウスの設備が良くないため、約200km先の次の町のクレモントのキャンプ場で宿泊することにした。 

 

この地域もガソリンスタンドがある集落や町が各々200km位は離れている。

 

クレモント・カラバン・パーク(Clermont Caravan Park) テント泊30豪ドル(3千円)

(内陸部には高床式の家が多い)
 

(地方道では交通量は極端に少ないが、直線道路が続く)

(当初一泊しようとした道路横のロードハウス=Belyanndo  Crossing Road Houseは文字通り一軒家だった。)

 

(クレモントのキャンプ場でテント泊)

 

(クレモントの小さな郵便局)

 

5/2 クレモント~カルナルボン国立公園(Carnarvon National Park360km

 

クイーンズランド州政府の観光パンフレットでカルナルボン国立公園の大きな崖の写真を見た。この崖を近くで見てみたいと思って、急遽カルナルボン国立公園に寄り道することにした。

 

チャーターズ・タワーズのキャンプ場で当方に声をかけてくれた中年の男がいた。

 

自らもオートバイに乗るライダーと言う。 親切にも当方がこれから通るグレート・インランド・ウェイ沿いの見どころやカルナルボン国立公園についても教えてくれる。

 

国立公園内にキャンプ場があることを知り、そこを目指して行くことにした。

 

グレート・インランド・ウェイから逸れて40km程度牧場と林に囲まれた農道のような田舎道を奥へ入るとキャンプ場(Big 4 Breeze Holiday Camp)があった。

 

ここに2泊することにした。2泊で105豪ドル(10,500円)と当方が泊まったキャンプ場で一番高かった。

(テーブル・マウンテンのような山。平原から山がある景色になる。)


 

 

(畑の井戸水を汲む水車。内陸部は荒れ地が多かったが、このあたりから大規模農地を見かけるようになった。)

 

(道路沿いには松の木ような細長い葉をつけた木があった。松の木の一種と思う。)
 

(カルナルボン国立公園のキャンプ場に現れるカンガルーの親子)

 

その翌日(5/3)、朝8時から行動を開始した。

 

キャンプ場から5km程離れたトレッキング出発地までオートバイで乗りつけ、そこから片道約10kmの森の中や渓谷沿いの小路を歩く。

 

国立公園内故、小川やクリークには橋がない。

 

川の中の飛び石を頼りに合計17カ所の小川や瀬を渡る。 小川の中の飛び石を踏み外して小川の中に足を落とす人もいる。 

 

森の中で他のハイカーの姿を見失うと少し心細くなる。

 

案内看板がある一本道のトレイル故、道に迷うことはないだろうと3時間ほど歩くと終点になる。鉄砲水の勢いで削られている高さ30m50mの大きな崖が現れる。 

 

乾季に枯れ川となっている谷底を進むと、枯れ川の両側が垂直に切り立った崖になっている。

もし突然、鉄砲水が出てきたら、岩の壁に叩きつけられオダブツだろうという恐怖感が湧くような場所だ。 

 

往復で約20km歩くと、足が棒の様になり、その日は疲れて早めに寝入ってしまった。

(カルナルボン国立公園内の森の中のトレイル=小路)

(飛び石沿いに小川を渡るハイカー達)

 

(砂岩の崖)

 

(崖には数千年前からアボリジニの壁画が描かれている。)
 

(枯れ川の底を歩くハイカー達。長い年月の水流れで川の両壁が削られている。)

 

(枯れ川の谷底)

(カルナルボン渓谷の立体イラスト図。奥まで片道10km=約3時間の歩行距離)

 

5/4 カルナルボン国立公園~ミレス(Miles400km

 

グレート・インランド・ウェイを約1,000km走行後(南下後)、クイーンズランド州の州都ブリスベンを目指すことにした。

 

ブリスベンはカルナルボン公園から約700km2日間で到達する距離だ。

一泊目は中間地点のミレス(Miles)まで進んだ。

 

カルナルボン公園近くの牧場に囲まれた農道でカンガルー8匹とディンゴ一匹を見かけた。それぞれ当方が走行する道の前方を横切るのだ。

 

自然の中で遭遇する動物には感動を思える。カンガルーとの距離は5m10m程とほぼ至近距離だった。

 

放し飼いの牛はオートバイの姿に驚き、逃げ出す。

 

勇猛なそうな雄牛は当方に突進するような構えをするが、結局逃げ出した。オートバイを見知らぬ危険な生き物と勘違いしているのだろう。

 

走行しているうちに景色も変わり、山があったり、広い農耕地になったりと変化に富んでくる。

 

17時にはキャンプ場の受付が閉まってしまうので、17時までに到達できるミレス(Miles)でキャンプ泊

Miles Caravan Camp(一泊35豪ドル=3,500円)をすることにした。

(カルナルボン国立公園へ至る農道でカンガルーやディンゴを見かけた。)

 

(小麦が刈り取られた畑と穀物サイロ。5月はオーストラリアでは秋の季節だが、雲はまだ夏のようだ。)


 

5/5 ミレス~ブリスベン(Brisbane340km

 

ミレスのキャンプ場は国道沿いだった。 夜間でも通行するトラック等のエンジン音で安眠は出来なかった。

 

朝から曇り空だ。雨が降らなければいいなと思っていると、霧雨が降り出した。 霧雨の中でテントの撤収作業を行う。 こんなことなら前夜はモーテル泊にしておけば良かったと後悔する。

 

霧雨は当方がキャンプ場を出発する頃には止み、その後晴れ間が出てきた。

走行ルート上には忘れ去られたような寒村があった。

 

トタン屋根のいかにも年代物とわかる雑貨屋が営業していた。その横には今は使われていない古めかしい平屋建ての集会場(Town Hall)があった。 建物の正面には1929年(昭和4年)~2004年まで使用されたとが表示されている。 

 

古くなったらからと言って、取り壊すのでは無く、この村の歴史を伝えるために保存しているようだ。

当方はこの村の歴史(いつ教会が建てられたとか、郵便局がいつ開設された等)や主な産業を記した看板が立てかけられていたことに感心した。

 

この村にたまたま立ち寄った当方のような外人でも、この村についてガイドブックに載っていない知識を得られるからだ。

 

ブリスベンでは6日ぶりにベットで寝付ける。

Breeze Lodge(一泊55豪ドルのドミトリー式のホステル)

(トタン屋根の寒村=ブリガローの雑貨店)

 

(2004年まで使用されていたブリガロー集落のタウンホール=公民館。電信柱は原木だ。)

 

(ブリガロー集落の歴史や産業を伝える案内看板)

 

(砂地でも栽培可能な綿花が広がっていた。)

 

(1910年=明治末期から大正初期のToowoomba=ブリスベンの約100km西にある中規模の都市の街並み。途中立ち寄った寒村のガソリンスタンドの壁に掛かっていた写真)

 

以上

 

Alice SpringsMount IsaCairns(ケアンズ)2,700km 4/194/26

 

アリス・スプリングスからケアンズまで約一週間かけてノーザンテリトリー州北部からクイーンズランド(Queens Land)州へと入った。

 

この辺りはオーストラリアでも最も人口が希薄な地域らしい。 150kmから200kmごとに簡易宿泊所を兼ねたガソリンスタンドしかない。

 

最長では260km区間ロードハウス(ガソリンスタンド)も民家もなかったところがあった。親切にも道路わきの標識には<次の260km区間には補給がない>と注意書きがあった。

 

雨季には洪水になる地域が多く、道路端の標識には<洪水の場合は通行不可>との注意書きも書いてある。 

 

川がないため、多量の降雨があると雨水が行き場所が無く、その場所に溜まるのだろう。一見水はけよく見える乾いた土地の地下は雨水を通さない岩盤になっているのだろう。

 

南のポート・オーガスタと北のダーウィンを結ぶスチュワート・ハイウェイ(Stuart Highway)からテナント・クリーク(Tennant Creek)にてバークリー・ハイウェー(Barkley Highway)へとケアンズ(Cairns)がある東方向へと変えた。 

もっともここからケアンズまでは約2,000kmの距離がある。

 

降雨で湖の様になった低地あり、牧草地帯あり、そして山あり谷ありの風景といろいろ楽しませてくれる風景もあるが、一日中500km600kmの距離を走行してもほぼ真っすぐな一直線には飽きる。

 

この人口希薄地帯で困ったことがあった。 当方の携帯電話(携帯電話ではオーストラリア第二位のOptsuSIM利用)の電波が届かないのだ。

 

一週間の内4日間電波が全く届かないロードハウスや集落のキャンプ場に泊まったため、電話はおろかインターネット回線にも繋がらない。 

 

アラフラ海(ニューギニア島)に面するクランバ(Karumba)の町や内陸のジョージタウン(Georgetown)では唯一繋がる携帯電話はオーストラリアNo.1の携帯電話会社テレストラ(Telestra)だと住民に言われた。

 

銅、銀、亜鉛等を採掘する世界最大規模の地下鉱山のマウント・アイサ(Mount Isa)では鉱山見学ツツアーに参加した。 鉱山と言っても既に閉山となった地下坑道を元鉱夫のガイドに案内されて坑道を歩いて、鉱山の説明を受けるという単純なツアーだ。

 

当方が走行したノーザンテリトリー州やクイーンズランド州にはクリーク(Creek)の名前がつく地名が多い。 雨が降ると川になったり、水が溜まる場所に19世紀のイギリス移民が定住し始めたからだろう。

 

クリーク(川や水たまり)に掛かる橋には欄干が無いことに気が付いた。 降雨で川が氾濫した祭、流木等が橋の欄干に引っかからないようにするためだろう。

 

ツーリングの詳細は以下に記載した。

(メルボルン近くのコラックからケアンズまでの走行ルートは赤線。地図右下はメルボルン、右上はケアンズの位置。コラックからケアンズまで約5,800km)

 

(オーストラリア中部を東に結ぶバークレイ・ハイウェイ=Barkely Highwayは草原が多かった。)

 

(デビルズ・マーブルズ=Devils Marblesの丸みを帯びた直径3m~5mの花崗岩の巨岩群)

 

(テナント・クリーク=Tennant Creek付近の蟻塚)

 

(鉱山の町マウント・アイサ=Mount Isaでは地下鉱山見学。鉱山用重機で記念撮影)


(カーペンタリア湾に面するカルンバ=Karumba。ニューギニア島へと海が続く)


(ノルマントン=Normantonので過去に捕らえられた世界最大のワニのレプリカ。体長8.5m 推定体重2トン)

 

 

4/19アリス・スプリングス~ワーチョプ(Wauchope) 400km

 

アリス・スプリングスに3連泊中にブログの更新をしようと思っていたが、スマホで撮った写真をSDカードへ移行するとき誤って写真データを消去してしまった。 半日かかっても消去した写真データを復元することが出来きなかった。

 

ブログの原稿は書き終えていたため、写真をブログに載せるだけの更新作業だったが、この先数日間はこの作業さえ出来なかった。

 

それはオーストラリアがあまりに大きくて人口が希薄な地域や場所では携帯電話の電波が届かないからだ。

 

アリス・スプリングスからスチュワート・ハイウェイをひたすら北上するが、ほとんど直線道路で景色が単調のため、どのぐらいの距離を進んだかも判らなくなってきた。 

 

既に南回帰線を越えて亜熱帯地域に入ったためか、道路わきの樹木が今までより高くなっている。

 

この付近の見どころとして数千万年の風雨で浸食され、丸みを帯びている花崗岩の大きな岩がごろごろある場所がある。

 

デビルズ・マーブルス(Devils Marbles)という場所だ。

 

その日はデビルズ・マーブルズに近いワーチョップ(Wauchope)のホテルに宿泊することにした。

ホテルとは名ばかりで、実態は災害時の緊急避難所のようなプレハブ建ての部屋だった。

この付近で請負工事をする作業員が利用するようだ。

 

宿泊はDevils Marbles Hotel(一泊77豪ドル=7,700円)。

ここでは携帯電話の電波が受信圏外だった。 ホテルにはWiFi設備は無い。

 

(旅人や家畜の喉を潤したスチュアート・ハイウェイ沿いの19世紀の井戸。地下28mの深さから地下水をラクダや馬を使って汲み上げていた。)
 

(デビルズ・マーブルズの奇岩群)



(ワーチョープのデビルズ・マーブルズ・ホテルの外観)

 

(デビルズ・マーブルズ・ホテルの部屋はプレハブ建ての避難所のように簡素だった)

 

 

4/20 ワーチョップ(Wauchope)~カモウィール(Camooweal600km

 

ワーチョップ(Wauchope)から120km北上するとテナント・クリーク(Tenannt Creek)に到着する。

このスチュアート・ハイウェイ沿いではアリス・プリングスに次ぐ規模の町らしい雰囲気がある。

 

この先数キロでスチュワートハイウェイから進路をオーストラリア東部方向へと変えバークリーハイウェイ(Barkley Highway)へ転換する。

 

バークリー・ハイウェイを東へ約2km進むと太平洋を臨むタウンズ・ビル(Towns Ville)に出る。

この地域にはクリーク(Creek)のが付く地名が多い。クリークとは水がある淵や入り江を指すが、

この地域では降雨の後、低地には水が溜まった状態でクリークのようになる。

 

バークリーハイウェイを走行中に一カ所だけ道路が降雨後冠水したままの状況だった。

 

直径と高さが3m位ある巨大な蟻塚を見つけた。 蟻の巣が洪水被害を受け難くするため、アリは蟻塚をつくるのだろう。

 

バークリーハイウェイを東方向に進むに従い、景色も変わってきた。緑が多い森や草に覆われた草原になってきた。牛を放牧する牧場もある。

 

夕日を背に浴び、今日の目的地まで先を急いでいると道路わきにペットボトルを片手にあげて手を振っている男がいた。 男を少し通り過ぎ、オートバイを止めると、その男が飲み水を求めているのが判った。

 

その男はポーランド人の67歳のサイクリストで飲み水がなく、近くでブッシュキャンプをするつもりだという。

 

67歳で自転車でオーストラリアの旅は大変だろうと飲み水を差し上げた。

 

このあたりの区間は約260km何も無い無人地帯だった。サイクリストは水と食糧の補給が大変だろうと当方と同年のサイクリストに敬服した。

 

この日は約600km走行後、カモウィール(Camooweal)という集落の有料キャンプ場(Camooweal Post Office Hotel Caravan Park)に日没と同時にたどり着いた。

 

キャラバンパーク横のパブにスマホのデータ通信が可能な唯一のWiFiスポットがある。しかしパブは午後の9時には店じまいだ。

(高さと直径が3m位の巨大蟻塚)

(蟻塚を至近距離でカメラに収めようとして、幹線道路から100mくらいブッシュの荒れ地に入ると方向感を失う。どこを見てもこのような風景だ。蟻塚の周囲を回っていたら、道路に戻れなくなり、しばらくあたりをさまよった。)

(道路が一部冠水した状態のバークリー・ハイウェイ=Barkely Highway)

 

(雨季にはBarkely Highway沿いの荒れ地が湖の様になる)

 

(バークリー・ハイウェイを東に進み、ノーザンテリトリー州からクイーンズランド州へ入る)

(バークリー・ハイウェイで出会ったシニアのポーランド人のサイクリスト)

 

(コモウェール=Comoowealの街並み。と言っても幹線道路沿い300m位にガソリンスタンド、パブと雑貨店があるぐらい)

 

 

4/21 カモウィール(Camooweal)~マウント・アイサ(Mount Isa) 約200km

 

前夜のキャンプ場には当方以外のキャンパーはいなかった。

この集落の唯一のビストロ(カジュアルなレストラン)は既に当日の営業を終了して、食事ができる場所が無かった。

 

ガソリンスタンドで買ったカップヌードルを誰もいないキャンプ場でお湯を沸かして夕食とした。

夜間風が少し強くてテントが揺れ、テントが吹き飛ばされるのではと心配した。

 

エアーズ・ロックがある砂漠地帯のキャンプ場では朝夕は冷え込んだが、このあたりまで北上すると

朝方でもさほど冷え込まず、心地良い気温になってくる。

 

マウント・アイサまでは約200kmしかないので、今日はのんびりした気持ちで、キャンプ場を出発した。日曜日の午前9時台でも、幹線道路(バークリー・ハイウェイ)の交通量は皆無だ。もちろん人もいない。

 

マウント・アイサに近づくと地肌が見える程度に木々が立つ山がある地形となる。山の裾沿いのワインディング道路となり、オートバイのライダーとしてうれしい走行だ。

 

午後1時ごろに当日朝に確保した宿(CitySide Accomodation=一泊80豪ドル=8千円)に到着した。やはりキャンプ泊の後、ベッドに横になれるのはうれしい)

 

(マウント・アイサ=Mt. Isaに近づくと周囲は小高い山がある起伏した大地になった。)

 

(マウント・アイサのライダー達)

 

(操業中マウント・アイサ鉱山=Mount Isa Minesの正面。地下で採掘した銅、銀、亜鉛等の原石を製錬しているようだ)

 

4/22 マウント・アイサ連泊で鉱山見学

 

宿泊したモーテルの経営者に鉱山見学を勧められた。 マウント・アイサには銅、銀、亜鉛や鉛等を産出する世界最大規模の地下鉱山がある。

 

マウント・アイサの町の地下には深さ1.3kmの坑道が縦横無尽に広がっているという。人口2.5万人町にしてマウント・アイサ鉱山の従業員数は4,700名と鉱山の町だ。

 

操業中の地下鉱山の見学が可能と思ったが、実際は既に廃坑となったハード・タイムズ鉱山(Hard Times Mines)という会社の坑道跡と博物館だった。 

 

元鉱夫がガイド役となり参加者のグループを地下の坑道へとエレペーターに乗り案内する。

 

この鉱山は地下21階レベルまで坑道があったと言う。 

 

更に坑道専用のトロッコに乗り採掘が行われた現場へ連れて行ってくれる。

 

本来は写真の撮影は案内の邪魔になるので禁止されているが、ガイドが所々で当時の採掘工事を参加者に体験させてくれる。 この時の様子を写真に撮せてくれた。

 

地下鉱山は坑道での出水と高い気温が一番の敵だという。雨季になると地下水脈から坑道に流れ出る水をポンプでくみ上げるが、ポンプの排水では追いつかずに、多くの坑道が水没するという。

 

鉱山の事故対策には十分気を使い、鉱夫がどこ坑道のどの現場にいるか等リアルタイムで判るような装置を鉱夫一人ひとりが持っていたという。 操業していた当時は24時間3交代で働いていたという。

 

入場料は大人85ドル(約8,500円)だった。

 

ところが当方が、<オーストラリア人のガイドの英語説明は分かり難かった>とクーパー・ペディーでのオパール鉱山ツアーでの当方の経験を受付の女性に言ったら、受付の女性は<そうね。オーストラリア英語は外国人には分かりにくいかもね>と同情して、当方にシニア割引の料金68ドル(6,800円)を適用してくれた。 

 

シニア割引(Concessionと呼ぶ)は本来、シニア証明書が必要でありオーストラリア人とニュージーランド人に発行されているという。


(ハード・タイムズ鉱山=Hard Times Minesのエレベータータワー)

 

(坑道で岩盤を空圧削岩機で掘る模擬体験)


 

4/22 マウント・アイサ~カルンバ(Karunba)590km(アラフラ海に出る)

 

マウント・イサから更に東の方向へ進んだ。地形が今までと違う。 高くはないが、山あり、丘や谷ありで道路はアップダウンの繰り返しとワインディング(曲がるが続く)道路だ。 しかしこの地形も長くは続かず、100km程度走行すると、また単調な直線道路となる。 

 

クローンカレー(Cloncurrey)から北上してノルマントン(Normanton)を目指した。

その日はノルマントンあたりで宿泊しようと考えていたが、ノルマントンから約70km更に北上すれば、それより先に進めない海に面したカルンバ(Karumba)に行き着く。

 

せっかくここまで来たのだから、行けるところまで行こうと夕日の中をカルンバまで急いだ。

 

カルンバはアラフラ海(ニューギニア島)につながるカーペンタリア湾(Gulf of Carpentaria)に面した漁業が盛んな町だ。

 

この辺りは、クイーンズランドでも熱帯地域に属するため、高温多湿の気候だ。ライダーズジャケットを着用してのバイク走行は、蒸し風呂状態に近く大変暑く感じる。その日からTシャツ姿で走行する。

 

道路で見かける動物の交通事故跡も蛇やトカゲといった熱帯の動物に変わっていた。

この辺りのクリークにはワニが多いと聞いた。

 

ノルマントンの町で過去に捕らえられた体長8.5m推定体重2トンの世界最大ワニのレプリカが町のシンボルとして公園に展示してあった。 

 

カルンバでの宿の予約は無いため、カルンバのガソリンスタンド(Karumba Point Service Station)で<清潔で安い宿を教えてほしい>と親切そうなシニアの経営者に聞いた。その経営者が心当たりあるホテルに電話してくれて、部屋の値段と空き状況を聞いてくれた。

 

 

ガソリンスタンドの経営者は、<本来のところ130豪ドル=1.3万円とのことだが、親戚の知人が経営しているとのことで110豪ドル(1.1万円)でいいよと言っているけどどうする?>とホテルと交渉までしてくれた。

 

当方は<110豪ドルは高いな>と決断を渋っていると、 ガソリンスタンド(Karunba Point Service Station)の横に釣り客用の簡易宿泊施設があるという。

 

温水シャワー・トイレとキッチン付きだが、4人部屋となっている。そのガソリンスタンドの経営者が<ここでよかったら、一泊5千円でいいよ>と言ってくれたので、当方はそこに宿泊することにした。

 

田舎の町には午後6時を過ぎれば、開店している雑貨店が無いので、その日は持っていたカップヌードルやパン等で簡単に夕食を済ませた。 オーストラリアの地方や田舎を旅するには食糧や飲料水は常時携帯する必要がある。 

(マウント・アイサからしばらくは起伏がある風景だった)

 

(マウント・アイサから100km程度東へ進めば平原となる)

 

(カルンバ=Karunbaへ行く途中の草原の中の一軒家=ロードハウスを兼ねたカフェ・レストラン)

 


(カルンバへ向かう平原は熱帯雨林となっている)

(カルンバへ向かう途中の道路。暑くてTシャツ姿になる)

 

(カルンバの70km手前のノルマントンの世界最大ワニの大きさに注目してほしい。横に立っている人が小さく見える)

カルンバ付近にはワラビーが多いようだ。夕方になると道路沿いに集団でたたずんでいた。)

(ノルマントンとカルンバの間70kmは湿原が広がっている)

(カルンバで一泊した釣り客用の簡易宿泊所は写真左手の建物)

 

4/23 カルンバ~ジョージタウン(Georgetown400km

 

カルンバは小さな町だった。 

この町が栄えたのはナイル・パーチと似た種類の大型魚(体長1.4m 体重は20kgにもなる)のお陰だった。

 

カルンバの町が位置するノルマントン川河口と沿岸部でこの大型魚が捕れ、マウント・アイサまで空輸されるという。 現地ではバラムンディ(Baramundi)と呼ばれている。 最近は卵のふ化から養殖されているものもあると言う。

 

前日通った道路をノルマントンまで引き返して、サバンナ道路(Savanah way)と呼ばれるオーストラリア北部を横断する道路をケアンズ方向へ向かう。

 

一日でケアンズに到着できる距離ではないので、途中のジョージ・タウン(Georgetown)というかっては金で栄えた町に宿泊するつもりだった。 この道路では20分~30分走行しても一台の車ともすれ違わない超閑散とした道路だった。

 

そのためか、所々で道路が整備されていない状態の旧道の状態だった。 旧道は車一台分の舗装しかしていないく、対向車がくると大きな車に舗装面を譲る。

 

カーナビにはロードハウスをはじめ数軒のホテルやモーテルがあることになっているのだが、一軒のモーテルを除き廃業していた。

 

 

モーテルで一泊しようと訪ねたが、家族用の広い部屋しか空きがなく一泊150豪ドル(約1.5万円)とのことだった。 田舎町で1.5万円出すのは惜しいと思い、結局キャンプ泊をすることにした。

 

宿泊地はゴールド・フィールズ・キャラバンパーク(Goldfields Caravan Park)一泊テントサイト20豪ドル(2千円)

 

テントの設営後に食糧を求めて、ロードハウスが経営の唯一の雑貨店へ行った。夕方の6時を回ったばかりなのに既にガソリンスタンドと雑貨店は閉まっていた。(町と言っても住人350名程度の集落)

 

キャンプ場の管理人に唯一のパブが夕方6時過ぎでも営業していると教えてもらい、そこで食事することにした。

(交通量が少ないため、道路中央部分のみ舗装。多分昔は道路幅は一車両分しかなく、その後拡張したが

全面舗装までに至っていないようだ)

(ノルマントンからケアンズ方面へと東へ向かう道路はサバンナ道=Savanah wayと呼ばれている)

 

(カルンバが面するカーペンタリア湾で釣りをする人)

(カーペンタリア湾のペリカン)

(ノルマントン川河口やカーペンタリア湾でとれるバラムンディ=Barramundiと呼ばれる大型魚)

 

(大型魚バラムンディの展示施設)


(ジョージタウンのキャンプ場)

 

4/25 ジョージタウン~ケアンズ(Cairns420km

 

この日は祭日(オーストラリアの日=ANAC day)のためか、ロードハウスは朝方も営業していなかった。

前夜までにすべての飲料水を飲み切ったため、まずは朝一番で飲料水を確保せねばと思っていたのだが。

 

この熱帯地方での走行では、ライディングジャケットは着用せず、Tシャツのみの姿だった。  昼頃やっとマウント・サプライズの集落に到着して飲料水を買い求めることが出来た。

 

当方は400kmの走行を楽観視していたが、ケアンズの手前150km位からスピードが出せないようなくねくね道になりだした。日本の箱根や伊豆半島の道路の様にくねくねしたカーブがあり、時速50km60kmの制限速度が設けられている。

 

ずっと暑い場所を走行してきたが、ケアンズに近くなると寒くなり始めた。 

大陸横断道路の最後区間は熱帯雨林地帯と乾燥地帯の分水嶺にあたるアセルトン(Atherton Tablelands

)高原となっていた。 この高原が寒さの原因らしい。 

 

天気が曇ったり、ところどころ降雨の跡がある。 

 

天気が変わりやすく、降雨が頻繁にあるため、道路沿いの牧場の草が緑色のジュータンの様に奇麗だった。

 

ケアンズに到着するとムッとするような湿った空気を感じたが、思ったより暑く無い。夕方になり、涼風が吹けば、Tシャツ姿では少し寒く感じた。

 

ケアンズでは夜間には少し雨も降ってきた。

 

宿泊はYHA Cairns Centralというドミトリー方式のホステル(一泊35ドルと駐車料金10ドル)

 

(クリークに架かる橋は欄干が無い)

 

(ケアンズ西部に位置する高原)このあたりが乾燥地帯と熱帯雨林地帯との分水嶺)

 

(ケアンズ市内は熱帯雨林の樹木が大きく育ち、トロピカルな雰囲気を醸し出していた。)

(ケアンズのウオーターフロントは渡り鳥の大きな干潟になっている。)

 

以上

 

 

 

ポート・オーガスタ(Port Augusta)~エアーズロック(Ayers Rock)~アリス・スプリングス(Alice Springs) (2,000km) 4/114/18

 

概略

 

ポート・オーガスタ(Port Augusta)で風邪のため2泊した後、アウトバックと呼ばれるオーストラリア中央部に位置する巨大な一枚岩でできたエアーズ・ロック(Ayers Rock)へ向かい赤土の不毛地帯へ進みだす。

 

ポート・オーガスタはオーストラリア南部のアウトバックの入口の町。アウトバックとは手つかずの自然が残る広大な内陸部のこと指す。

 

そのアウトバックにはポート・オーガスタからティモール海に面する北部のダーウィン(Darwin)までオーストラリアを縦断する約3,200kmの長さのスチュワート・ハイウェイ(Stuart Highway)が通っている。

 

ハイウェイと言っても片側一車線で対面通行の普通の道路だ。 と言っても砂漠とブッシュ地帯の中の交通量が少ない直線的な道路なので、普通ではないかもしれない。

 

途中の見どころはクーバー・ペディー(Coober Pedy)と言うオパール鉱石の採掘が盛んな町と

オーストラリアのへそとも言われる巨大な一枚岩のエアーズ・ロックだった。

 

このルートの約一週間(8日間)では6日連続キャンプ場でのテント泊をした。テントの高さが約90㎝位しかない一人用の超小型テントでは、立ち上がって腰を伸ばすことが出来ず、窮屈をした。

 

キャンプ場でのテント泊は一泊20豪ドル(2千円)~40豪ドル(約4千円)とホテルやホステルの個室に比較すれば安く済む。 

 

ロードハウス(Roadhouse)と呼ばれる砂漠道のガソリンスタンドやカフェ併設の宿泊所(災害時のプレハブ建て簡易避難所に似ている)のような個室でも一泊1.5万円の料金だ。

 

観光客に人気のエアーズロックではこのような宿泊所でも一泊2.5万円位と高い。

アリス・スプリングスの町ではBooking.Comのホテル予約サイト上では当方が行く前日には一泊5万円のホテルの部屋しか空きがなかった。

 

当日はそのホテルの空室もBooking.Comのサイトから消えて、文字通りアリス・スプリングスには空室がない状態だった。

 

当方はアリス・スプリングで3軒のホステルとホテルを訪れて空き部屋があるかどうが尋ねたが、やはり空き部屋無かった。 

 

後でわかったことだが、その日までアリス・スプリングスではフェスティバルがあり、宿泊客でにぎわっていたようだ。

 

この時はキャンプ用品を持ち合わせていて良かったと感じた。

キャンプ場でテントを張れば宿泊は何とかなるからだ。

 

話が長い詳細は以下に続く。

(ポート・オーガスタから北はアウト・バックと呼ばれるオーストラリア内陸部だ)

 

(カンガルーの交通事故は多い)

 

(メルボルンからアリス・スプリングスまでは赤線が引いてある。メルボルン海に面する地図右下。アリス・スプリングスは地図左側中央部。約3,300kmの距離だ)
 

(エアーズロックを背景に三脚で撮影を試みた。三脚上のスマホの位置が低すぎて、エアーズロックが大きく写っていない)
 

4/114/12 ポート・オーガスタからクーバー・ペディーへの移動 580kmとオパール鉱山等の観光

 

日の出とともにポート・オーガスタのモーテルを出発。今日の目的地は約600km先のオパール鉱山の町と知られるクーバー・ペディー(Coober Pedy)だ。 オーストラリアをほぼ直線的に縦断する一本道を進むだけだ。

 

ポート・オーガスタを数キロ離れると道路横に建てられた<ようこそアウトバック>の看板が目に付く。

180km先のピンバ(Pimba) ロードハウスまで住む人がいない荒野の道を進むと道路脇にカンガルーの死体が目立つ。

 

夜間に道路を渡ろうとして交通事故に遭ったのだろう。180kmの区間にまだ比較的新しいカンガルーの死体が二十数個あった。

 

地元の人はカンガルーよりダチョウのように飛べない大型の鳥類エミューの方が危ないという。

荒野で野生のカンガルーは見なかったが、エミューは所々で道路脇に集団でたむろしてたり、道路を横断しているのを見た。

 

スチュワート・ハイウェイの交通量は少ないが、34車両を連結したトラック・レインが曲者だ。

対向車線を時速110kmで走行するトラックトレインとのすれ違い時の風が台風のように強く、強風でオートバイがふらつく。

 

ピンバ(Pimba)で給油したのみで、その後は昼食なしで、15時位までひたすら走り続ける。

クーバー・ペディーの町が近づくと道路の左右に掘削用重機が無造作におかれ、高さ4~5m程の土を積み上げた多数の小山が目につく。 後で知ったが、地下に坑道を堀り、オパール鉱石を採掘しているのだ。

 

 

クーバー・ペディーの町にはオパール鉱山の廃坑跡をモーテルやホテルに利用した宿泊施設がある。

当方は廃坑の地下空間(洞窟)を有料キャンプ場としている場所を知人から聞いていた。

 

クーバー・ペディーの町から6km程離れた荒野の丘にあるRibas Underground Campの洞窟内にテントを張って二泊した。  一泊18豪ドル(約1,800円)でお湯がでるシャワーや自炊設備があるキッチンも備わっている。

 

日が沈むとあたり一帯は真っ暗闇に包まれる。夜空に光る星座がきれいで印象的だった。

洞窟内は快適だった。 砂漠の気候は日中には30℃と暑く(陽射しが強いため、炎天下では温度計以上に暑く感じられる)、夜間は10℃程度まで冷えるが、洞窟内は気温18℃20℃と一定だ。

 

 

(ポート・オーガスタから北のアウトバックの始まりはこんな風景)

 

(クバー・ペディー=Coober Pedyの入口付近)

 

(クーバー・ペディーの洞窟キャンプ場の入口)

 

(洞窟キャンプ場の一区画にテントを張った)

 

翌日(4/12)のオパール鉱山ツアー

 

翌日はオパール鉱山の見学や月面のような景色の砂漠へ行くツアーに参加した。大型トラックを改造したアドベンチャーバスに乗って地元ガイドが案内してくれる。

 

ガイドがいろいろ説明してくれるが、分かりにくい英語だ。アメリカや欧州でも英語ガイド付きのツアーには参加しているが、オーストラリアのガイドの説明ほど分かりにくい国は無かった。

 

クーバー・ペディーは国内のオパール産出量の9割を占めるオーストラリアで最大のオパール産地だ。

 

人が入れるくらいの穴を深さ1020m位掘り、そのあと横に坑道を堀る単純な採掘現場だ。

 

そもそもオパールは、2千万年前~7千万年前の海中生物が砂岩の中で鉱石化したものだ。化学元素は知らないが、光を充てると反射板の様に光る鉱石がオパールの原石だ。

 

重機で横穴を掘りながら出る土砂を大型掃除機のようなもので地下から吸いだして鉱石か土か区分けする。

 

色が黒いほどオパールとして価値が高いという。白いオパールはあまり価値が高くないので、そのまま土と一緒に捨てるものもあるという。

(オパール原石の採掘様子をイラストに描くとこんな感じだ)

 

(オパール採掘現場では壁を機械で削り取った砕石をこの管で地上へと吸い上げる

 

(磨き上げる前のオパール原石)

 

 

 

(磨き上げたオパール。色が黒っぽいほど価値があると言う)

 

その後、月面のような砂漠地帯へ向かうが、ツアーバスが途中で故障して動かない。 バッテリーにトラブルが発生した。急遽、救助車に助けを求めた。

 

後でわかったことだが、バッテリーへ充電する発電機(オールタネーター)が故障したとのことで、一番楽しみにしていた月面のような荒れた小山までツアーバスは行けず、数十km離れたクーバー・ペディーの町へ引き返すことになった。

 

ツアー行程の8割は終了していたが、驚いたことにツアー翌日にツアー会社は参加費110豪ドル(約1.1万円)を全額払い戻してくれた。

 

(視界を遮るものが何もない砂漠)

 

 

(長さ3,000km以上に続くディンゴ・フェンス(柵)。ディンゴ(イヌ科の動物)が大陸を移動できないようしてある)

(ディンゴ・フェンスの向こうに水場があるとかぎつけたエミューはフェンスに遮られて先へ進められない)

 

(ツアーバスのエンジンがかからなくなり、四駆の救援車両とバッテリーを繋げる)

 

(砂漠の中を駆けつける四駆の救援車両)

 

(ツアーバスから偶然見えたカンガルーの親子。後にも先にも生きたカンガルーは一回しか見なかった)

 

4/134/14 Coober PedyErldundaYulura(Ayers Rock) 750km

 

2日間かけてクーバー・ペディーからエアーズ・ロック(Ayers Rock)国立公園内にある

エアーズ・ロック・リゾート内のキャンプ場(Ayers Rock Campground)へ進んだ。

 

クーバー・ペディーから最初の宿泊所のエルデュンダ・ロードハウス(Erldunda Roadhouse)まで約500kmだった。途中で南オーストラリア州からノーザンテリトリー州へと州境を越える。

 

エルデュンダ・ロードハウスは砂漠の中の一軒家のようなガソリンスタンドとバーを備えた宿泊設備だった。有料のキャンピング場も備えている。

 

このあたりに来るとガソリン価格が今までの1リットル2豪ドル(200円)から3豪ドル(300円)と高くなる。 競争相手のガソリンスタンドがないため、強気の価格でもガソリンは売れる。

 

食糧品の価格も高い。 1.5Lのペットボトル入りのミネラルウオーターが6豪ドル(600円)だ。 ただし2本買えば8豪ドル(約800円)だと店員が言うので、当方は荷物になるが2本買った。

 

エルデュンダでもErldunda Roadhouse Campにテント泊する。一泊18豪ドル(約1,800円)

温水シャワーや電気湯沸ポット,ガスコンロ等の自炊設備も備わっているキッチン施設もある。

(全長53mのトラックトレイン)

 

(ガソリンスタンド・レストラン併設の宿泊施設があるカデニー・ロードハウス=Cadeny Roadhouse)

 

(南オーストラリア州からノーザンテリトリー州へ入った)

 

 

翌日はエルデュンダ(Erldunda)~エアーズロック・キャンプグランド(Ayers Rock Campground)への道を250km進む。

 

ノーザンテリトリー州に入って気が付いたことがあった。 砂漠というより低木(ブッシュ)が多い荒野で、道路わきには草が青々と茂っている。雨が降るのだろう。

 

道路の路肩には豪雨が降った場合の洪水の深さを示す柱が立っていた。

一番深かった洪水は道路から1.4mほどあったという。こんな広大な大地が洪水になるとは信じがたい。

 

エアーズ・ロックが位置する辺りは広大な国立公園となっている。公園内ではキャンプが禁止されている。

 

エアーズ・ロック・リゾートという小さな町のような宿泊施設の中にキャンプ場を含めてホテル等の宿泊施設が充実している。スーパーマーケットもある。

 

当方はここでもエアーズ・ロック・キャンプグランドにテントを設営して2泊した。一泊35豪ドル(約3,500円)とキャンプ場としては高いが、ホテルやキャンプ場内のキャビン(一棟貸し)より安い。

(洪水の場合の水の深さを測る測量計)

 

4/15 エアーズ・ロック(Ayers Rock)観光

 

前夜キャンプ場で知り合ったオランダ人旅行者から日の出と日没のエアーズロックの姿がとても美しいと聞いた。 当方はその日の出のエアーズロックを見るため、まだ暗いうちにキャンプ場から約25km先のエアーズロックの日の出を見る場所へ行った。

 

朝日を浴びると日の出前の黒色のエアーズ・ロックが赤い色に変化する。

 

エアーズ・ロックは高さ360m強、周囲9.4kmと近づくとその大きさが実感できる。アボリジニの聖地といことで現在はエアーズ・ロックには登れない。また、落石の危険性からか、エアーズロックのそばには近づけず、巨大な岩山の周囲を回る遊歩道しか歩けない。

 

エアーズ・ロックの西側約45kmに位置する奇妙な姿の岩山が当方の目を引いた。

 

人間の頭のよう形をした巨大な岩山が複数ある。 アボリジニ言葉で<たくさんの人の頭の山>という意味のカタ・クジュータ(Kata Kjuta)と名の岩山の山脈のようだ。

一番高い岩山は地上から500m以上の高さがあるという。

 

この奇妙の形の岩山と岩山の間の谷を岩壁に沿って奥に入れる。

ニューヨーク・マンハッタンの巨大な超高層ビル群の谷間に入る感じだ。もちろん高層ビル群より迫力がある。

 

この周囲をオートバイで約5時間程駆け回った。国立公園が広いため、2つの聖地の山を往復したりするだけで約200kmの距離を走行した。

 

日中は暑さを避けてキャンプ場の日陰で涼む。

空気が乾燥しているため、日当たりでは汗がでる暑さだが、日陰に入れば涼しくて気持ちが良い。

(エアーズ・ロック=Ayers Rockの約150km手前にあるマウント・コナー=Mt. Conner 高さ約500m)

 

(ハエが大群が襲ってくるのでハエ除けネットは必需品だ)

 

(朝日を浴びるエアーズ・ロック=Sunrise)

 

(日没前の夕日を浴びるエアーズロック)

 

(カタ・クジュータ=Kata Kjutaと呼ばれる人の頭をした岩山)

 

(カタ・クジュータの岩山と岩山の谷間をぬうような散歩道)

 

(エアーズ・ロック・キャンプ場=Ayers Rock Campground)

 

(蚊帳を木につっただけのテントでキャンプする人もいた)

 

4/164/18 Ayers Rock ResortYulara)~Alice Springs 470km (アリス・スプリングス3泊)

 

Ayers Rockから2日前に泊まったエルデュンダ・ロードハウス(Erldunda Roadhouse)へ引き返し、再度スチューワート・ハイウェイーを北上してアリス・スプリングス(Alice Springs)まで進む。

 

一日の走行距離としては長くないが、30分走行するかしないかのうちに強烈な睡魔が襲ってくる。

連日のテント泊で疲れているのか、出国前の蓄膿炎が全快せず睡眠時に呼吸が乱れて睡眠が浅いためか判らないが、30分毎に小休止していてはなかなか先に進めない。

 

250km走行した後、エルデュンダ・ロードハウスのカフェで30分ほどカプチーノを飲みながら休息後は体も楽になった。

 

その後は頻繁に眠くならなかったので、16時頃には宿泊地のアリス・スプリングスに到着した。

 

アリス・スプリングスではキャンプ泊は避けたかった。

 

到着前日にはBooking.Comのホテル予約のサイト上で唯一の空き部屋の料金は500豪ドル(約5万円)だった。 当日Booking.Com上では空き部屋があるホテルは無くなっていた。

 

現地でホテルかホステル探せば何とかなるだろうと考えていた。

3軒ホステルとホテルを回ったが、すべて満室だった。

 

後で判ったことだが、アリス・スプリングスではフェスティバルが当日まで催されて観光客でにぎわっていたようだ。

 

こんな時オートバイに積んでいるキャンプ道具が役立った。行きついた先は有料のキャンプ場だった。

このキャンプ場(Alice Springs Tourist Park)に当方がチェックインした際、テントが張れる最後の一区画を残すだけだった。キャンプ場の料金は一泊37豪ドル(約3700円)

(緑の木々が多くなったエルデュンダ(Erldunda)から

アリス・スプリングスへ向かうスチュアート・ハイウェイ)

 

(スチュアートハイウェーを最高速度110km~130kmで疾走するトラック・トレイン。

州によって最高速度は異なる。南オーストラリア州の制限速度は時速110kmだが、ノーザン・テリトリー州は時速130kmだ)

 

 

(小さなコミュティーと都市を結ぶ定期飛行機の滑走路は赤土を固めただけだった)

 

(ハイウェイ沿いの無人の休憩所)

 

(休憩所の中にはトイレがあったりする場合もある)

 

翌日はアリス・スプリングス観光

 

アリス・スプリングスはこの砂漠の中では人口約2.5万人の一番大きな都市だった。

1870年~1872年にかけて南のポート・オーガスタと北部のダーウィン(Darwin)の3,200kmを電信線でつなぐ一大事業を行った。

 

この時の電信ケーブル敷設の監督役(Superintendent)がチャールス・トッド(Charles Todd)で、その夫人がアリスだったことから、アリス・スプリングス(泉)と命名した。

 

実際に電信施設跡の横には150年前と同じところに泉のような池があった。実際は泉ではなく、降雨が川の一角に溜まったものを泉に勘違いしたらしい。

 

ここでは町を一望できるアンザックの丘(Anzac Hill)、 1872年に完成した電信施設を復元した施設跡と約50年前から遠隔地の牧場や観光施設等で働く家族の子供たち向け通信遠隔小学校(Alice Springs School of the Air)を見学した。 

 

コロナ禍でリモートワークやリモートで学校の授業を受けることができるようになったが、オーストラリアでは50年前からリモート授業を行っている実績がある。このリモートでの学校は日本の4倍の広さの校区をカバーするという。毎年約120名程度の小学生がリモートで授業を受けている。

 

この日ドミトリー形式だが、やっとベットがあるホステルに投宿した。

Alice’s Secret Travellers Inn (3人部屋で一泊38豪ドル=3,800円)

 

ブログの更新には手間がかかった。ブログ用の写真を撮っていたカメラが壊れてしまい、スマホ写真を使いだした。

 

そのスマホから写真をSDカードに移行する際に、誤ってSDカードを初期化(データが消える処置)してしまった。

 

半日かかっても写真データは復元できず、結局ライン等のSNSに残した数少ない写真で対応することにした。 

 

記念になるような場所や物を撮影したが、データが無くなってしまったのは残念だった。

 

 

 

(アリス・スプリングの町。最高温度は45℃、最低はマイナス7.5℃を記録したことがあると言う。

写真は背後のMt.Gillenには雪が積もったこともある。

アリス・スプリングスは南回帰線のちょっと南に位置する。北半球に当てはめると台湾の台北市あたりの緯度だろう)

 

(1872年に完成したアリス・スプリングスの通信施設=Telegragh Station。北のダーウィンと南のポート・オーガスタ間の約3,200kmが通信線で結ばれ、インド洋やインドネシア等の一部の海底ケーブルの区間を含め英国とオーストラリアのポート・オーガスタ間が電信でつながった。)

 

(19世紀の電信・郵便事務所のカウンター)

 

(19世紀のアリス・スプリングスの泉は通信施設の横にあった)

 

(現在も19世紀と同じ場所にある泉。実際は泉では無く、雨水がたまった場所だ)

 

(19世紀に南のダーウィン付近で通信用の海底ケーブルを敷設する作業)

 

(19世紀の原住民の生活風景)

 


(19世紀後半の泉とアボリジニの人々風景)

 

 

以上

 

ツーリングルートの概略

 

メルボルンに到着後、オートバイツーリングを開始するメルボルンの南東約150kmに位置するコラック(Colac)へ電車で向かう。 コラックからオートバイを乗り出し、風光明媚なグレート・オシャーン・ロードを走りぬけ、ウオーナンブール(Warrnambool)~ナラコーテ(Naracoorte=世界遺産の数十万年前の哺乳類化石群洞窟)~南オーストラリア州の州都アデレード~中央砂漠地帯への入口の町ポート・オーガスタへと進んだ。


(Melbourne=メルボルンは地図の一番右側。ピンク色の線はツーリングルート。ただしメルボルンからコラックは電車で移動。地図の左上はPort Augusta=ポートオーガスタの位置)

 

 

詳細は以下の記する。

 

43日メルボルン到着

 

成田空港を4/2に夜8時過ぎに出発してケアンズ経由メルボルン空港の国内線ターミナルへ翌日午前11時過ぎに到着した。

 

空港に到着してまずやらねばならないことはオーストラリアの携帯電話のSIMカードを買うことだった。

国際線のターミナルへ移動してオーストラリア国内ではNo.2Optusという携帯電話会社のSIMカードを買った。

 

28日間有効で60Gのデータ通信と国内電話かけ放題と日本も含む海外十数ヶ国へは400分の通話が可能なパッケージで25豪ドル(約2500円)とかなりお得だ。

 

テレストラ(Telestra)が国内最大の携帯電話会社だったが、SIMカードを販売するブースは空港には見当たらなった。

 

メルボルンの約150km南東に位置するコラック(Colac)という町で日本人の若者Mさんがメカニックとして地元のオートバイ店で働いている。

 

当方が借りる知人のオートバイはその日本人のMさんが整備を行ってくれている関係で、当方は翌日コラックへ電車で向かい、同オートバイ店からツーリングをスタートした。

 

借りたオートバイはスズキVストローム250。水冷250ccエンジン搭載のロードタイプのオートバイだ。

当方はBMW F700GS(800ccエンジン)とヤマハ・セロー250(250ccエンジン)を所有するが、Vストロームは250ccエンジン搭載モデルの割には重量感があり当方のBMW F700GSに似た感じだ。 足場が悪かったり、停車時にバランスを崩すと車体重量が重いため、立ちごけしそうな感じがする。

 

メルボルンの宿はサザンクロス駅から徒歩20分程度に位置するThe Village Melbourneというドミトリー形式のホステル(一泊42豪ドル=約4,200円)4人部屋ながら当日は当方一人で部屋を占有した。

(メルボルンのサザンクロス駅=中央駅付近。高層ビルと庶民感覚の下町が共存する)

 

202444日(木)ColacからGreat Ocean Road 経由Warrnamboolまで160km

 

心配したほど寒くもなく、気温20℃程度の薄曇りの中、海沿いを通るグレート・オーシャン・ロード沿いの観光名所に立ち寄りながらコラックから160km程先のワナンブール(Warrnambool)を目指す。

 

なだらかな牧草地の丘が広がる風景は、北海道の富良野の似ていると思った。

海側に出ると断崖絶壁で風光明媚な観光名所が数多くある。メルボルンから日帰りで訪れるには丁度良い場所故、中国、韓国等のアジア人観光客が多く訪れていた。

 

その日はWarrnambool(ワナンブール)市内のThe Cally Hotelという一階がパブになっている歴史がありそうな木造のホテルに宿泊した。木製の廊下を歩くとギシギシと音が出て、年代物だと感じられた。宿泊料は素泊まりで80豪ドル(約8千円)と当地では一番安いクラスだ。

 

人口数千人位の小さな町故、まだ明るい夕方6時台でも通りを歩く人々はほとんど見かけない。

 

(Colac=コラックのオートバイ店からオートバイツーリングを開始した)

 


(Colac=コラックからグレート・オーシャン・ロードへ向かう丘陵地)

(グレート・オーシャン・ロード沿いの観光名所の12Apostels=12人の使徒)

 

(アジア系観光客が多かった12Apostelsの展望台)

 

(グレート・オーシャン・ロード沿いのギブソン・ステップス=Gibson Stepsの断崖)

 

(Warrnambool=ワナンブールの町)

 

(Warrnamboolで宿泊したThe Cally Hotel)

 

 

45日(金)Warrnambool(ワナンブール)からNaracoorte(ナラコーテ) 290km、翌日は世界遺産のナラコーテ化石群洞窟を見学

 

Naracoorte(ナラコーテ)は1994年に世界遺産に登録された。

50万年前から数十万年前の哺乳類の先祖の化石群が洞窟内で大量に発見された場所である。

 

化石に興味があるわけでも無いが、世界遺産という言葉に惹かれての訪問だった。ここでは管理事務所(Vistor Center)で入場料を払い、ガイド付きの見学だった。

 

ワナンブールからナラコーテまでのルートは幹線道路もあったが、道幅が3m程度と車一台しか通れない狭い道もあった。スマホカーナビのMaps.Meでは道幅に関係なく最短距離を示すので、たびたびこのようなことがある。

 

当方は田舎道をのんびり(と言っても時速80km)でツーリングをするのが好きなのでちょうど心地よいツーリングとなった。

 

ビクトリア州から州境を超えて南オーストラリア州には入ると一面ブドウ畑が広がる。このあたりから

南オーストラリア州の州都であるアデレード(Adelade)までブドウ畑が広がり、オーストラリアワインの一大産地となっている。

 

(牧場や牧草地の間をぬう農道)

 

 


(並木道の地方道)

 

(Victoria=ビクトリア州からSouth Austraria=南オーストラリア州へ入る)

 

 

 

(南オーストラリア州に入ると広大なブドウ畑が広がっていた)

 

(ナルコーテの町中心部)

 


(ナラコーテの不動産屋の農地の売り物件。2000ヘクタールの農地が1億数千万円)

 

コロナ禍が発生した時、オーストラリアの当時の首相がコロナ禍の原因を調査すべきと国際社会に訴えた。それに激怒した中国政府はオーストラリア産ワインに高率の関税をかけ、中国へのワイン輸出がほとんど止まったことがあった。

 

これだけ豊富なワインはオーストラリアだけでは消費出来ない。

日本や欧米へも輸出しているが、消費量が多い中国への輸出が止まれば、ワイン生産者は大きな打撃を被っただろう。

 

現在のアルバニージー首相になってから中国との関係が改善され、オーストラリアワインの関税率も引き下げられたと聞く。

 

ナラコーテではキャラバンパーク(Big 4 Naracoorte Holiday Park)という大型キャンピングカーでも駐車でき、シャーワーやキッチン(夏にはプールもある)等の設備が整ったキャンプ場で2泊した。

 

日中の気温は25℃程度だが、日差しが強い。そのため、汗だくとなってオーストラリアツーリング直前に購入した一人用テントを設営した。キャンプ場使用料は一泊31豪ドル(3100円)。

(ナルコーテのキャンプ場で一人用テントを設営)

 

夜キャンプ場で南半球の星座が見れると期待したが、キャンプ場の街灯が夜空を明るくして、ほとんど星座は確認することが出来なかった。

 

昼間は25℃程度と汗ばんだが、早朝の気温はダウンジャケットが必要なくらいの6℃7℃位まで冷え込んだ。

 

ナラコーテ化石群は洞窟内で発見された50万年前から十数万年前の数百種類の哺乳類の先祖の骨格や骨だった。

 

50万年前から数十万年前という長い期間に当時の動物が落とし穴の様に植物等で隠れた地面の小さな穴から洞窟内に転落して、洞窟内で死に絶え、その骨が保存が良い状態で発見されたという。

 

その洞窟周辺にハイキングコースがあった。一人でブッシュの中を歩いたが、落とし穴のように隠れた穴があるようだ。

(Narcoorte Caves Park=ナルコーテ洞窟公園のビジターセンター)

 

(ビジターセンター内の数十万年前の絶滅した哺乳類の先祖。写真左側は鼻が短いカンガルー。右側はオーストラリア大陸の食物連鎖の頂上に立っていた肉食獣のライオンの一種)

 


(骨格や骨の発掘が一番多いビクトリア洞窟の出口)

 

(ビクトリア洞窟で見つかった鼻が短いカンガルーの骨格)

 

 

47(日)ナラコーテ(Naracoorte)から南オーストラリア州の州都アデレード(Adelaide)340km

 

4/7からオーストラリアは冬時間となり、ナラコーテ出発前に1時間時計の針を遅らせた。

 

夜露でテントが濡れているので朝日を浴びテントが乾くまで撤収を待つ。

この日は曇天後、晴天となったが、風は冷たい。ライディングジャケットの下にはダウンのベストを着込む。

 

本日のルートは幹線道路が多いため、快適なツーリングではない。片側一車線の道路の制限速度は時速110km

 

当方が遅いと、後続車が列をつくるので他の車にあわせて高速走行となる。 非力の250ccエンジンのオートバイではつらい。また、オートバイには申し訳程度の大きさのウインドシールドがついているが、風よけには不十分である。高速走行では上半身に強い走行風を受けるため疲れる。

 

当方は出国前から鼻のアレルギー(花粉症)をこじらして、蓄膿症(ちくのうしょう)を患ってしまった。かかりつけ医に薬を出してもらったが、頭痛と喉の痛みのためオートバイの運転時は辛かった。

早くアデレードに到着して休憩したい思いで先を急いだ。

 

アデレードでもモーテルやホテルは最低でも一泊100豪ドル(約一万円)するため、ドミトリー形式の

宿(Adelaide Travellers Inn Backpakkers Hostel)に2泊することにした。

 

利用客はバックパッカー姿で旅行する欧州からの若者がほとんどだ。オーストラリアには中高年は宿泊できない若者専用のドミトリー形式のホステルが多いと聞くが、この宿には年齢制限がなかった。

 

欧米のドミトリーは男女共有の部屋となっているタイプが多いので、同室の女性客が着替える際には目のやり場に困る。もっとも宿泊客はそんなことは全く気にしない。

 

この宿で祖父の代にインドからフィジー島へサトウキビ畑の労働者として移民してきたニュージーランド国籍のインド系の初老の男と身の上話をした。

 

その男はニュージーランドのオークランドに在住だが、職を求めてアデレードへ一人で来たという。 宿に滞在中にアデレードにある工場で採用面接を受けることになっていると言う。

 

処遇は時給30豪ドル(約3千円)という。ニュージーランドよりアデレードのほうが給与(時給が)が高いようだ。ちなみに

ニュージーランドの最低賃金は時給24.75ドル(約2,475円)とその男から聞いた。

 

日本人の感覚では、ニュージーランドからわざわざアデレードまで求職に来るのかと不思議に思ったが、ニュージーランドとオーストラリアではEUのように両国間で移動の自由と求職の自由が相互に認められているという。ちょうど日本で地方在住の人が、職を求めて東京や大阪へ行くような感覚だろう。

 

翌日は散歩しながらアデレード街の雰囲気と博物館や美術館巡りで楽しむ。

 

(国道沿いの休憩所)

 

(アデレード博物館の外観)

(アデレード博物館には原住民だったアボリジニの展示品が充実していた)

(アデレード美術館の展示品。1799年のシドニー湾の風景)

 

(アデレードのメインショッピング街ランドル通り。左側にユニクロの店舗があった)

 

(アデレードのビジネス街。写真中央のビルの建物上部にはオーストラリア最大の時価総額の資源鉱物企業BHPの看板が見える)

 

49日(火)アデレード(Adelaide)からポート・オーガスタ(Port Augusta)360km

 

この日も幹線道路を避けてほとんどB級国道を通行する。300km以上に渡り、道路沿いの風景は単調だった。牧草を刈り取った農地が見渡す限り広がっている。

(刈り取った後の牧草地の景色が続く)

 

 

ポート・オーガスタ付近には銀、亜鉛、鉛等の地下資源が豊富で鉱山が多いと前日のアデレード博物館で知った。 

 

その鉱物を約500km東のブロークン・ヒル(Broken Hill)の町から運搬する数百両連結の列車を途中の町で目撃することができたのラッキーだった。

 

アフリカのモーリタニアで見た石炭運搬の2百両連結の列車が今まで見た中で最長の列車だったが、オーストラリアの鉱物運搬列車はそれを凌駕する長さだった。

 

ポート・オーガスタが近づくに従い風が強くなる。曇天で気温が低いので、ダウンベストをライディングジャケットの下に着込んでいても寒かった。頭痛と悪寒がするため、ポート・オーガスタの市内へ入る直前のモーテルで一泊することにした。 宿泊はHighway One Motel 一泊90豪ドル(9千円)。

 

夜中に体温が38度以上になり、風邪の症状が出てきたため、翌日はモーテルで静養して体力の回復を図った。

(途中の寄ったGladstoneという名の小さな町の歴史的なホテル。1880年立てられ現在も使用されている

Commercial Hotel)

 

 

(Gladstoneは午後2時ごろ(昼食休み)とあって人通りは無かった)

(Gladstoneの町で見かけたブロークン・ヒルから鉱石を運ぶな貨物列車)

 

(ポート・オーガスタが近づくと風が強くなってきた。寒さを我慢して走行していたら風邪を引いてしまった)

 

(ポート・オーガスタ手前ののHighway One Motel)

(Highway One Motelの室内。やはり一人でゆったりできる部屋が有難い)

 

以上

 

オーストラリアツーリング計画 (2024329記)

 

昨年7月にオートバイでのアジア・中近東ツーリングはスペインで終了した。

そのツーリングを計画した当初は開始から1年以内にオーストラリアでツーリングを終了できればいいなと希望的な考えを抱いていた。

 

しかしながら、マレーシアからスタートしたツーリングはタイからミャンマーを陸路を走破してインドへ進むことができなかった。ミャンマーの国境が外国人旅行者にはコロナ発生以来ずっと閉鎖中だったからである。

そのため、タイからインドへはオートバイを海上輸送した。

 

その海上輸送の準備やインド亜大陸の周回ツーリングは考えていたより時間がかかった。

そのため、ツーリング期間の後半には中近東からオーストラリアへ渡りることは時間的に余裕がないと判断して、オーストラリアツーリングを諦めた経緯があった。

 

当方は、今回のオーストラリアツーリングの計画は前回のアジア・中近東ツーリングの続きだと位置づけている。

 

今回のオーストラリアツーリングは20244月初旬にメルボルンの南西約100km程に位置するコラック(Colac)という小さな町からスタートして、オーストラリアのほぼ中央部にある世界最大の一枚岩で出来たエアーズロックを進む。

そしてオーストラリア中央部を更に北上後、オーストラリア北東の沿岸部のケアンズへと走行する。

 

ケアンズからオーストラリアの東海岸に沿ってタウンズビル~ブリスベン~シドニーへと南下して、その後メルボルンへと時計回りにオーストラリアの東半分を周回する計画だ。想定走行距離は約1km1.2万kmだろう。 

 

 

(上下の地図の赤線が計画しているツーリングルートだ。時計回りにオーストラリアの東側を周回する計画だ。下の地図は日本の中学生用の社会科の地図帳からコピーしたものだ。地図上には仮に日本が南半球にあった場合の緯度と大きさを表示している。)

 

ツーリング期間は2ヶ月前後を想定している。ビクトリア州やニューウェールズ州等の南部地域の気候次第ではツーリングを切り上げる可能性もある。北のケアンズから東海岸沿いに南下するに従い気温が下がり、5月になればオーストラリア南部のビクトリア州やニュサウスウェールズ州の寒さが増すからだ。

 

 

南半球のオーストラリアは北半球に位置する日本と季節は逆だ。

オーストラリアの南部州(シドニーが位置するニューサウスウェールズ州やメルボルンがあるビクトリア州)は既に秋に入り、4月には日本の東京の10月下旬~11月のように寒くなりつつある聞く。5月に入れば更に寒くなる。

 

他方ケアンズが位置する北部のクイーンズランド州は年中を通して常夏の熱帯・亜熱帯性の気候だ。日本の約20倍の面積があるオーストラリアならではの変化に富む気候帯が広がっている。

 

今回のツーリングで一番気になるのは5月に入ってからのビクトリア州等の寒温帯気候のオーストラリア南部地域でのツーリングだろう。

 

寒さ対策の準備はしているものの、冷たい風を切て走行するオートバイツーリングはきついし、体にこたえる。 我慢できない寒さなら、計画より早くツーリングを終了するかもと弱気になるだろう。

 

更に、オーストラリアの物価高(円換算)も気になる。日本の2倍以上のの物価水準だろう。

20229月~20237月のアジア・中近東ツーリング時でも円安のため、現地の物価は10年以上前までの円高時代のような割安感が無くなっていた。

 

物価対策として従来の海外ツーリングでは全く行わなかったキャンピング場等でのテント泊を、特に安価な宿泊施設が無いアウトバックと呼ばれるオーストラリア中央の砂漠地帯で試してみるつもりだ。

どのような体験になるだろうかと覚悟と楽しみがまじわった気分である。

 

尚、オーストラリアの中心的産業である石炭や鉄鉱石等の地下資源の開発や鉱山事業の現場はオーストラリアの
西部地域に多い。

 

今回のツーリングでは西部地域へは行かないので、当方が興味を持つ鉱山事業の現場見学ができないのが少し残念だ。

 

(オーストラリアでは上の写真と同一のスズキ・Vストローム250を知人から借りる予定。250ccエンジンのオートバイの割には車重は約180kgと重い。

 

下の写真のライディングジャケットの上腕の部分にはオーストラリアと日本の国旗ワッペンを付けた。

海外ツーリングでは現地の人たちに当方がどこから来たのかとよく聞かれるため、口で答えるより国旗ワッペンを見せて分かりやすくする工夫をした。

 

以上

 

 

単独のオートバイツーリングはユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断を初回として、2回目のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断、そして3回目のアジア・中近東ルート(最終地点はスペイン)だった。

走行ルートと走行した国々は以下の地図と記述を参照してほしい。

 

 

初回 ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 2017年5月~2018年7月 14ヶ月 走行距離約76,000km=世界地図上の紫色の線)

 

2017年5月に鳥取県境港市からオートバイとともに韓国DBS社のフェリー船に乗り、船上2泊3日でロシアのウラジオストックへ渡り、ウラジオストックからロシアをヨーロッパ方向に向けてユーラシア大陸横断をスタート。

 

途中モンゴル~再度ロシア~エストニア~ラトビア~リトアニア~ポーランド~ドイツ~チェコ~スロバキア~ハンガリー~セルビア~マケドニア(現北マケドニア)~コソボ~アルバニア~モンテネグロ~ボスニア・ヘルツェゴヴィナ~クロアチア~スロベニア~イタリア~スイス~再度イタリア(ナポリでバイクの盗難に遭う)~フランス~スペイン~ポルトガル(ユーラシア大陸最西端のロカ岬)~再度スペイン。

 

 

 

2017年10月にスペインのマドリッドからオートバイを空路にてアルゼンチンのブエノスアイレスへ運ぶ。

 

南北アメリカ大陸縦断スタート)南米ではアルゼンチン・ブエノスアイレスから北上してブラジル~ウルグアイ~再度アルゼンチン(最南端のフエゴ島ウシュアイア目指す)~チリ~再度アルゼンチン~ボリビア~ペルー~エクアドル~コロンビア。

 

そしてコロンビアのボゴタから中米パナマのパナマ・シティーまでオートバイを空輸後~コスタリカ~ニカラグア~ホンジュラス~グアテマラ~ベリーズ~メキシコ(メキシコ・カンクンにオートバイを置きキューバをバックパックで旅行)~アメリカ~カナダ~アラスカ~再度アメリカ。

 

2018年7月にツーリングをアメリカのロサンゼルスで終了して同地からオートバイを日本へ海上輸送で送り返す。

 

2回目 アフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断 2019年5月~同年11月 6ヶ月 走行距離約34,000km=世界地図のブルー色の線)

 

日本からスペインのバロセロナへオートバイを海上輸送後、2019年5月にスペインのバロセロナからツーリングを開始した。

 

スペイン~(アフリカ西ルートのスタート)モロッコ~西サハラ~モーリタニア~セネガル~マリ~コート・ジボアール~ガーナ~トーゴ~ベナン~ナイジェリア~(ナイジェリアとカメルーン間は海路で国境を超える)カメルーン~ガボン~コンゴ共和国~アンゴラ(飛び地)~コンゴ民主共和国~再度アンゴラ~ナミビア~南アフリカ(アフリカ東ルートのスタート)~ボツワナ~ザンビア~タンザニア~ケニア~エチオピア~スーダン

 

スーダンのサワキン(Sawakin)から紅海をサウジアラビア船籍のフェリー船でオートバイと一緒にサウジアラビアのジェッダへ渡航。

 

アラビア半島横断スタート)サウジアラビア~バーレン~再度サウジアラビア~2019年11月にアラブ首長国連邦(UAE)のドバイでツーリングを終了して同地からオートバイを海上輸送にて日本へ送り返す。

 

3回目 アジア・中近東ルート(最終地点はスペイン) 2022年10月~2023年7月 10ヶ月 走行距離39,000km=世界地図赤色の線

 

東南アジア6カ国

日本からマレーシアのポート・ケラン(Port Kelang)へオートバイを海上輸送後、2022年9月にマレーシアからツーリングをスタートする。

 

マレーシア~インドネシア(レンタルバイクを使用)~再度マレーシア~タイ~ラオス~カンボジア~再度タイ。タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送。インドへオートバイを輸送期間中にベトナムでレンタルバイクを使用してツーリング。

 

インド亜大陸=インド・ネパール・パキスタンと中近東=イラン・トルコ

2023年1月末にインド・ムンバイでオートバイを引き取り、インドア亜大陸のツーリングをスタート~ネパール~再度インド~パキスタン~イラン~アルメニア~ジョージア~トルコ~オートバイを日本へ海上輸送するためスペインのマドリッドまで走行(トルコ~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス~スペイン)。

 

2023年7月にスペインのマドリッドから海上輸送にてオートバイは日本へ送り返す。

 

ツーリングに使用したオートバイはBMW F700GS(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断)とヤマハ・セロー250(アフリカ3/4周とアラビア半島横断及びアジア・中近東ルート)。

 

アジア・中近東ルートのインドネシアとベトナムではレンタル・バイク(小型スクーター)を使用した。

 

BMW F700GS(ツーリング出発前の日本にて)

 

(南米ペルーを走行時のBMW F700GS)

 

(ヤマハ・セロー250 アフリカ・ツーリング出発前の日本にて)

 

(アフリカ・コンゴ共和国を走行時のヤマハ・セロー250)

 

 

(イランを走行時のヤマハ・セロー250)

 

(インドネシア・バリ島を走行時のレンタルバイク=ホンダ・ビート125)

 

(ベトナムを走行時のレンタルバイク=ヤマハのスクーター エンジン130cc)

 

以上

 

 

テーマ別一覧にて過去の投稿記事の検索が容易

 

従来、当方ブログ(Ameblo)の過去の投稿記事の検索がし難くかった。

 

そのため、例えば、2019年に行ったアフリカ3/4周とアラビア半島横断ツーリングの投稿記事に関心があっても、その投稿記事を探すのが容易ではなかった。

 

今回、当方が2017年の最初の海外ツーリング、<ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断>から投稿した記事を以下のテーマ別にも区分けした。

 

ブログを読む時間があまり無い人は総集編を読んでもらえれば、各ルートのツーリングのハイライトが判るようになっている。

 

また、各国、各ルートの詳しい状況が知りたいのであれば<ユーラシア大陸横断>や<南北アメリカ縦断>等の各ツーリングルート別(テーマ別)に表示されている詳細な投稿記事を参照することができる。

 

特に今後、海外ツーリングを行いたいライダーには各ルート別(テーマ別)に表示されている個別の投稿記事の国境通過の情報が参考になると思う。

 

 

テーマ別一覧

 

総集編(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ)

総集編(アフリカとアラビア半島横断)

総集編(アジア・中近東ルート)

海外バイク・ツーリング計画

海外バイク・ツーリング報告会

ユーラシア大陸横断(ロシア・モンゴル)

ユーラシア大陸横断(ヨーロッパ)

南北アメリカ大陸縦断(南米)

南北アメリカ大陸縦断(メキシコ・中米)

南北アメリカ大陸縦断(北米)

アフリカ大陸(西ルート)

アフリカ大陸(東ルート)

アラビア半島横断(サウジアラビア等)

アジア・中近東ルート(東南アジア6ヶ国)

アジア・中近東ルート(インド亜大陸等)

アジア・中近東ルート(イラン・トルコ)

アジア・中近東ルート(コーカサス諸国)

台湾一周バイクツーリング

日本でのバイク輸入通関

日本

 

 

尚、パソコンでブログを閲覧する場合は、当方ブログ<インベストメントライダーふるさんのブログ>画面の左側横をスクロールすると<最新の記事>の下に<テーマ>別の一覧が表示されている。

 

スマホで閲覧する場合はブログ画面中央の<テーマ>をクリックするとテーマ一覧が表示される。

 

(ブログ画面中央のテーマをクリックするとテーマ一覧が表示される)

 

 

(上記テーマ一覧の各テーマ(ルート)をクリックすると各投稿記事が表示される)

 

以上

アジア・中近東ツーリング報告会の案内(WTN-J第87回お話会)

 

WTN-J(ワールド・ツーリング・ネットワーク・オブ・ジャパン)主催の当方のアジア・中近東ツーリングの報告会を下記の通り行います。

 

当日会場での参加でもZoomによる参加でも可能です。

 

 

                記

 

タイトル コロナ禍のため3年延期となったアジア・中近東ツーリング

話し手 古橋聖司

2023年11月3日(祝)13時半開場 14時より16時30分まで

 

場所 

杉並区消費者センター(ウェルファーム杉並 3F) 第1・2教室(一体使用):MAX60人

住所:杉並区天沼3丁目19番16号 ウェルファーム杉並3階電話番号03-3398-3141

荻窪駅(JR中央線・東京メトロ丸の内線) 荻窪駅徒歩約10分

https://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/sangyo/shohi/1007453.html

 

 

会場での参加費 500円(当日会場にて主催者へ現金支払い)

ZOOMでの参加費用 500円(後述するように報告会後、ゆうちょ銀行のWTN-J口座へ振り込み)

 

<懇親会> 

報告会後、会場近くの居酒屋 費用は別途4000円ぐらい(当日現金払い)。参加希望は当日会場にて確認します。

 

尚、会場及びZoomでの参加希望の事前連絡は不要です。

参加者は直接会場にお越しください。Zoom参加の場合は直接ZoomミーティングURL(後述)にお繋ぎください。

 

尚、Zoomでの参加は後述します。

 

報告会でのお話の概略

 

コロナ禍明けの海外ツーリングは日本からのオートバイの持ち出し、ツーリング中のタイからインドへの海上輸送、スペインからの帰国時と、それぞれの段階で輸送を請け負ってくれる業者を見つけるのに手間がかかった。

 

計画当初トルコのイスタンブールからスタートしてインド・東南アジアを経由してオーストラリアで終了するルートを考えていたが、輸送業者との打合せに3~4ヶ月かかり、トルコからスタートするには季節的に遅くなりすぎた。

 

そのため、ツーリングスタート地点をマレーシアへと変更した。2022年9月末にクアラ・ルンプールからスタートし、東南アジア諸国をツーリング後、インド亜大陸を経てトルコのイスタンブールを目指した。 

 

東南アジア6カ国ツーリングでは費用と時間を考えて、インドネシアとベトナムではレンタルバイクで行った。30年ぶりのタイ訪問では、想像していた以上にタイの繁栄ぶりを見た。また、ベトナムも想像していた以上に経済的に発展して豊かな国だと判った。 

 

ツーリングの計画段階から懸念していた通り、タイから陸路にてミャンマーを経てインドへ進むことは、ミャンマー国境閉鎖が継続中でかなわず、タイからインドへはオートバイを海上輸送した。

 

インド亜大陸は初めてだった。インドは今回のツーリングの主たる国と位置づけていた。世界一の人口とは理解していたが、実際に訪れると人の多さに圧倒された。毎日のカレー風味の食事には飽きたが、ブッタが悟りを開いたブッタガヤ等の仏教聖地の巡礼できて、仏教への理解を深めることができた。 

 

イランは事前に聞いていた通り、人々が親切で居心地が良いところだった。今回のツーリングでは一番気に入った国だった。 

 

トルコのイスタンブール到達以降の計画は当初から流動的だった。

 

トルコからドバイを経てオーストラリアへ渡りそこでツーリングを終了する案、ロシア・韓国経由陸路で帰国する案、欧州からオートバイを日本へ送り返す案をツーリング出発前から念頭に置いていた。

 

最終的にはスペインのマドリッドまでオートバイを走らせ、同地からオートバイを日本へ送り返した。そして、アジア・中近東ツーリングは10ヶ月、20カ国を延べ39,000km走行してスペインで終了。

 

(紫色の線は2017年5月~2018年7月のユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 76,000km

ブルー線は2019年5月~2019年11月のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断 34,000km

今回の報告会は赤色線ルート 2022年9月~2023年7月のアジア・中近東 39,000km)

 

(インド最南端のコモリン岬=カニャクマリ市)

(イラン国境を目指すパキスタン・バロチスタン州では警察車両の護衛で走行)

 

Zoomでの参加の場合は以下の通り(主催者WTN-Jからのお願い)

 

スケジュールされた Zoom ミーティングを開始または参加するには、参加 Zoom ミーティング

https://us02web.zoom.us/j/82233869489?pwd=N3dqMkkyQzFNbUxBQ3NoSEk5MGxvQT09

...

<ZOOMでオンライン参加の皆様へお願い>

 

WTNJではコロナ過に入って以来2年間、ZOOMによるお話会を無料でお届けしてきました。その間、ZOOMのアカウント維持費などはWTNJからの持ち出しで開催していましたが、我々の活動資金も残り少なくなってきました。

そこでご視聴いただいたあと、下記のいずれかの送金方法にて500円をお話会運営の実費としてお支払い頂くことをお願いします。

何卒よろしくお願いします。

ZOOM決済URL。

https://buy.stripe.com/aEU9E60ti5n6eDm3ce

ゆうちょ銀行

【記号 10240

番号 77710101

名前 ワールド・ツーリング・ネットワーク・ジャパン 

 

以上

スペインから日本へ海上輸送したオートバイの受け取り

 

海外ツーリングに使用した当方のオートバイを日本へ海上輸送するため、帰国直前の7/14にマドリッドの梱包業者の倉庫へ持ち込んだ。

 

梱包業者の倉庫にてオートバイを木枠梱包後、スペインの輸送業者はオートバイを陸路マドリッドからバレンシアへ輸送。そして同地で輸出通関後、当方のオートバイは7月末に海上輸送する本船に船積された。

 

当方のオートバイは途中経由地のシンガポールにて日本行きの船に積み替えられた後、9/13に東京港(大井)にて陸揚げされ、9/21に東京港からトラック便で保税輸送(未通関のまま輸送)され横浜港の本牧ふ頭にある輸入倉庫に搬入された。

 

スペインのマドリッドにてオートバイを梱包業者へ引き渡してから2ヶ月以上が経過して横浜港の輸入倉庫へ搬入されたことになる。

 

今回で3回目となるオートバイの輸入手続きは、過去2回と同様にすべて自分で行った。

手続きは以下の通り簡単である。

 

本船が日本の到着港(東京港)に到着する3日位前に、日本側の輸送業者から貨物のアライバル・ノティース(Arrival Notice)がメール送付される。

 

日本側の輸送業者に貨物輸入の陸揚げに関わる費用=CFSチャージ等(約3.7万円)を銀行送金後、デリバリー・オーダー(Delivery Order)という貨物の受取り指図書を発行してもらう。

 

横浜港の本牧ふ頭にある輸入倉庫のオペレーターに事前に貨物の引取り日を連絡。

 

貨物引き取りの当日、まず税関事務所(横浜税関・本牧出張所)へ赴き、貨物の輸入手続きを開始する。

個人輸入の場合、税関事務所の輸入第6課の係官が丁寧に手続き方法を教えてくれる。

 

税関では貨物のX線検査を行うため、税関が発行する貨物の<X線検査の書類>と上述のデリバリー・オーダーを持参してトラックで輸入倉庫へ貨物を引き取りに行く。

 

輸入倉庫のオペレーターに上記④の書類を手渡し、貨物の搬出入手数料1,300円を現金で支払う。そして、倉庫オペレーターにフォークリフトでトラックに貨物を載せてもらい、貨物を税関のX線検査施設へ運ぶ。

 

⑥税関ではトラックに貨物を載せたままX線検査を行う。X線検査終了後、税関係官がオートバイのシャーシー番号を確認して荷物の検査は終了。

 

その後、税関事務所で輸入許可書を発行してもらう。

 

税関事務所の総務課に輸入許可書と海外ツーリングに使用したカルネを提出して、カルネ内の所在地証明用紙に税関の押印を受ける。所在地証明にかかわる印紙代は400円。収入印紙は事前に郵便局等で買っておく。

 

所在地証明証はカルネ発行の際にJAFへ寄託した担保金及びクレーム処理金を返却してもらうために必要な書類だ。

 

海外ツーリングにカルネを使用していない場合は、上記⑧の手続きは不要だ。

 

税関での輸入手続きに必要な書類は以下の通り

 

・アライバルノティース

・デリバリーオーダー

・貨物のB/L

・日本から輸出した際の(税関の)輸出許可書とインボイス及びパッキングリスト

・輸入貨物のインボイスとパッキングリスト

・帰国時の<携帯品・別送品申告書>(帰国した際の空港税関で申請)

・運転免許証等の本人確認のための書類

・カルネ(カルネを使用して海外ツーリングをした場合)

400円の収入印紙(カルネ内の所在地証明に税関の押印が必要な場合)

 

海外ツーリングで使用した衣服をオートバイと一緒に輸入貨物に同梱した場合、<携帯品・別送品申告書>があれば、関税無しで輸入通関できる。 <携帯品・別送品申告書>がない場合には、中古衣類の輸入として関税が徴収される。 

 

輸入通関に要した時間は輸入倉庫での貨物の引き取りに要した時間も含め約3時間程だった。

輸入通関終了後、オートバイを知人宅まで運び、知人宅で木枠梱包をバールを使って壊し、オートバイを取り出す。 

 

木枠梱包の廃材は横浜市資源循環局の粉砕機がある処分工場へ持ち込み処理を依頼する。

横浜市の場合、粉砕機がある工場へ廃材を持ち込む場合には、持ち込む6日前までに資源循環局の事務所にて廃材処理の申請が必要だった。

 

廃材持ち込み後に、処分工場で廃材約100kgの処分料金1,300円を現金で支払い、オートバイ引き取りに関する作業を終了する。

 

 

(横浜港本牧ふ頭の輸入倉庫でオートバイを梱包した木箱を受け取る小型トラック。背後ベイブリッジ)


(小型トラックの荷台上で木箱を壊してオートバイ取り出す。)

以上


 

総集編最後アルメニア・ジョージア・トルコ~スペインまで7,600km(2023/5/25~7/14)

 

アルメニアとジョージアの走行ルート 1,100km

 

イランのノルドス(Norduz)国境からアルメニアへ入国~カパン(Kapan)~首都エレバン(Yerevan)~アルベルディ(Alverdi)~Ptghavan/Sadakhlo国境からジョージア入国~首都トビリシ(Tbilisi)~クタイシ(Kutaisi)~バトミ(Batumi)~トルコへ出国

 

(赤線は走行ルート。地図右下はイランのタブリーズ=Tabriz。地図左側上部はジョージアのバトミ=Batumi)

 

アルメニア

 

アルメニアとジョージアは当初のツーリング計画には無かった。しかし、イランで出会ったドイツ人ライダーにアルメニアとジョージアは風光明媚な国々だと聞かされ計画を変更してイランからアルメニア・ジョージアを経由してトルコ入りすることにした。

 

アルメニア入国時のイミグレーションや税関係官の猜疑心が強く冷たい対応から当方は<アルメニアへ来なければ良かった>と少し後悔した。

 

その後、小さな田舎町カパン(Kapan)の宿経営者の不愉快な対応や首都エルバン(Yerevan)でも微笑しない人々等を見て当方のアルメニアの印象はすっかり悪くなってしまった。

 

他方、美しい山々、草花が咲き乱れた高原や緑の小麦畑が広がる盆地はツーリングを楽しませてくれた。特に首都エルバンへ向かう途中のノアの箱舟伝説がある巨大なアララト山(標高5,137m)は圧巻だった。

 

アジアの国々のユネスコ世界遺産では外国人は現地人の5倍~10倍程度の入場料を徴収されたが、アルメニア及びジョージアではユネスコ世界遺産の寺院や修道院の入場料が無料であったことには驚き、感心した。 アルメニアには3つの世界遺産の建物があったが、当方は2つ(Cathedral of Echimiadzin, Haghpat Monastery)を見学した。

 

(アルメニアの山岳地帯。標高2千メートル級の山々には雪が残る。)

 

(カパン=Kapanの旧ソビエト時代の無味乾燥としたアパート群)

 

(右側はアララト山=標高5,136m。左側は小アララト山=標高3,935m。両山はトルコ領にあるが、アルメニア側からも眺めは良い。)

 

 

(雨上がりの牧草地帯)

(ユネスコ世界遺産エチミアジン・カテドラル=Cathedral of Echimiadzin。アルメニア正教の総本山)

 

(世界遺産ハグパッド修道院=Haghpat Monastery)

 

ジョージア

 

ジョージアはアルメニアより西洋化され、欧州の雰囲気が感じられた。また、人々もアルメニアより開放的であり、多くの外国人観光客が訪れていた。

 

ジョージアはロシアと領土問題で軍事衝突をした。

その後もロシアとは緊張状況が依然続き、欧州連合(EU)と連携を模索中だ。EU加盟を申請し、脱ロシアを目指している。

 

他方、アルメニアは隣国アゼルバイジャンと軍事衝突を過去から繰り返している。アルメニアはロシアと連携して、生き残りを目指している。 

 

当方は首都トビリシ(Tbilisi)、クタイシ(Kutaisi)及び黒海に面するバトミ(Batumi)に宿泊した。

 

大相撲にはジョージア出身の力士が複数いる。最近引退した栃ノ心もそのひとりだ。トビリシのスマホ・ショップの若い店主がジョージア出身の力士の名前をすべて出して、大相撲を知っていると言ったのには驚いた。

 

(首都トビリシの中心的存在の自由広場=Liberty Square)

 

(高台から眺めるトビリシ市内)

 

(ジョージア文字は丸みを帯びた文字だった。)

 

(首都トビリシから約50km離れたムツケタ=Mtsketaのカテドラル=世界遺産)

 

(クタイシ=Kutaisiから10kmほど山の中にある世界遺産ゲラティ修道院=Gelati Monastery)

 

 

トルコ 2,700km

 

トルコの走行ルートは以下の通り:

 

ジョージアのバトミ(Batumi)国境から入国~リセ(Rize)~エルジンシャン(Erzincan)~シバス(Sivas)~オズコナック(Ozkonak)=カッパドキア地域~ハシベクタス(Hacibektas)~首都アンカラ(Ankara)~アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar)~パムッカレ(Pamukkale)=石灰棚とヘリオポリス遺跡~セルチューク(Selcuk)=エフェス遺跡~ベルガマ(Bergama)=アクロポリス遺跡~チャナッカレ(Canakkale)=トロイの遺跡~ダダーネルス海峡をフェリー渡る~サルキョイ(Sarkoy)~イスタンブール(Istanbul)

 

(トルコ地図。赤線は走行ルート。右側上部はジョージアのバトミ=Batumi。左側上部の赤丸印はイスタンブール)

 

(マルマラ海の最狭部=ダダーネルス海峡は幅1.2kmしかない。大型タンカーはタグボートに先導されて進む。)

 

美しい国土

 

ジョージアの黒海に面したバトミ経由トルコへ入国した。トルコの黒海側は温暖で湿潤な気候だった。山々は緑の木々に覆われ、内陸部の高原は丘陵地帯となり、草花が咲き始めた時期だった。

 

都市の新市街のビルや建物は比較的新しく町の景観が整っている。イスラム色の建物はモスク位しかなく、モスクが無ければ西欧の町並みに似ていると思った。

(トルコ黒海沿岸をリセ・トラブソン方面へ進む。)

(リセ=Rizeの町の広場)

 

(エリジンシャン=Erizincanの町と周囲を囲む山々)

(トルコ中央の高原)

 

(リセからエリジンシャンへ向かう途中の峠道)

 

親切で気前の良い人たち

 

トルコ最初の宿泊地のリセの町では、ホテルの隣のコンビニの店員は当方が日本からオートバイで来たと知ると、当方が買った食料品を歓迎の意味で無料にしてくれた。

 

エルジンシャンのペンションでは当方と同年配のペンション経営者が素泊まりの宿ながら、朝食用の軽い食べ物を取って行けと同氏が食べている食料を分けてくれた。

 

田舎道のガソリンスタンドでオートバイを給油した際には、ガソリンスタンドで世間話をしていた人達からお茶かコーヒーを飲んで休憩したらどうかと誘われた。

 

ハイウェイ走行中に出会ったオートバイ・クラブのライダー達には一緒に走行して、カッパドキアのライダークラブのキャンプに誘われた等々、トルコの人々にはいろいろ親切にしてもらった。

 

(リセのコンビニの従業員=大学院生は買った食料品を無料にしてくれた。)

 

(カッパドキア地方のオズコナック=Ozkonakの町に集まったトルコのライダーたちのチョッパー型の大型オートバイ)

 

世界遺産が多く見どころが多い

 

キノコのような形の高さ十数メートルの岩山やその岩山に洞窟を掘り住居とした地域がカッパドキアだ。トルコの自然世界遺産では一番有名で人気がある場所だ。観光シーズン真っ盛り中はホテルやホステル等の宿泊料金が高いため、当方は観光の中心であるギョローム(Gereme)を避けて周辺地域に宿泊した。

 

カッパドキアの後は、雪山のように白い石灰棚で覆われたパムッカレ(Pamukkale)、ローマ時代のエフェス遺跡があるセルチューク(Selcuk)、同じくローマ時代の遺跡があるベルガマ(Bergama)のアクロポリス神殿遺跡やトロイの木馬で有名なチャナッカレ(Canakkale)付近のトロイ遺跡等を見学。

 

また、カッパドキア地方には無数の地下都市もあり、観光場所には事欠かない。

 

その中で当方は規模が大きく、また遺跡の復元状況が良いエフェス遺跡は印象に残った。ローマ時代の円形野外劇場ではイエス・キリストが説法を説いたと言う。

 

他方、トロイ遺跡は復元が進んでおらず、崩れた石垣跡程度しかないため、ガイドの説明がなければ素通りするような遺跡だった。

 

観光地として古都イスタンブールが最も魅力的だろう。旧市街にはオスマントルコの歴代の皇帝が居住したトプカプ宮殿をはじめ、東ローマ時代の4世紀にキリスト教会として建てられ15世紀のオスマントルコ時代にはモスクとなったアヤソフィア、世界最大級のブルーモスク(スルタン・アフマド・モスク)等見どころが多く、またボスボラス海峡もイスタンブールの景観をエキゾチックにしている。

(カッパドキアの中心の町ギョローム=Gereme)

(カッパドキア地方オズコナックの地下都市の通路)

 

(パムッカレ=Pamukkaleの石灰棚)

 

(セルチューク=Selcukのエフェス遺跡。入口方面を見る)

 

(エフェス=Efes遺跡内の野外劇場。この劇場でイエス・キリストが説法したという。)

 

(ベルガマ=Bergamaのアクロポリス遺跡)

 

(トロイ遺跡のトロイの木馬は修復中だった。高さ6m~7mの木馬は周囲を安全メッシュで覆われていた。)

(トロイ遺跡の当時の城壁の想像図)

(トロイ遺跡の城壁跡。)

 

(イスタンブールを東西に分けるポスボラス海峡とボスポラス大橋)

 

(アヤソフィア・モスク)

(トプカプ宮殿の入口門)

(ブルー・モスク=スルタン・モスク。メッカのカーバ・モスクと同じ5本もミナレット=尖塔を持つ。ミナレットの数が多いほど格調が高いという。)

 

イスタンブールからスペイン・マドリッドまで3,800km

 

イスタンブールでオートバイ・ツーリングを終了したかったが、イスタンブールではオートバイを日本へ輸送する業者が見つからなかった。

 

そのため、以前からコンタクトを取っていたスペインの輸送業者がいるバロセロナまで行くことにした。イスタンブールからバロセロナまでは最短距離を進んだ。

 

イスタンブール~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス(南仏)のルートでバロセロナまで日中はただひたすらオートバイを走らせるだけの移動だった。

 

バロセロナの輸送業者とEメールでやり取りしている間に、バロセロナの業者が中古オートバイの日本への輸送に慣れていない印象を持った。そのため、6年前に当方がマドリッドからアルゼンチンのブエノスアイレスへオートバイを空輸した際にお世話になった会社の担当者に相談した。

 

その担当者は<中古オートバイの輸送に慣れているマドリッドの業者を紹介するので、直ぐにマドリッドへ来い>とアドバイスしてくれた。

 

そのため、行き先をマドリッドに変え、連日走行してイスタンブールから出発後9日目でマドリッドに到着して、日本へ海上輸送する業者の梱包倉庫へオートバイを持ち込んだ。

 

昨年9月にマレーシアのポート・ケランから始めたアジア・中近東ツーリングは10ヶ月間で約39,000kmの走行で終了した。

 

(イスタンブールからスペイン・マドリッドまでの最短距離ルート)

 

(クロアチアの首都ザクレブ近くのハイウェイ)

 

(スペイン・マドリッドの輸送業者の倉庫兼オフィースがツーリングの最終地点)

 

以上