インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -4ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

ネパール・パキスタン・イラン総集編 7,500km

 

インドのラクソール(Raxaul)国境からネパールへ入った。

(インドRaxaul国境からネパールに入国。ネパール側の国境門)

 

居心地が良かったネパール 900km (2023 3/6~ 3/19)

 

ネパールに入国すると道路が悪いことにすぐ気が付いた。舗装道路はいたるところが補修で継ぎはぎだらけのでこぼこ道だったり、舗装面が剥がれてダート化していた。また、多くの区間で道路工事中のためダートの迂回道が多かった。

 

他方、ネパールは居心地が良く、当方はすっかり気に入った。

気候は涼しく、汗をかくことは無い。むしろ夜は寒いくらいであった。 人口は多くないので窮屈さは感じず、首都カトマンズの道路でもインドのような渋滞は無く、比較的スムーズに走行できた。

 

また、ネパールの人々は優しく、インドのように<どこから来たか?>等の質問もあまりなく、ある程度距離を取っているのが心地良かった。

(ヘタウダ~カトマンズ間の道路は舗装道とダート道の繰り返し)
 

(幹線道路は工事中区間が多かった。工事中のための迂回道路)

 

ネパールは以下のルートで進んだ。

 

Rxaul/Birganj国境~ヘタウダ(Hetauda)~首都カトマンズ(Kathmandu)~ゴルカ(Gorka)~

ポカラ(Pokhara)~ダンパス村(Dampus)まで往復~ローアー・ムスタング途中で断念~ポカラ(Pokhara)~ルンビーニ(Lumbini)=ブッタ生誕の地~Sonauli国境からインドへ出国

(赤線はネパールの走行ルート。赤線右側最上部の赤色印の場所はカトマンズ。 赤線上部の右から左へカトマンズ~ゴルカ~ポカラへと続く。)

 

インド国境から首都カトマンズへ向かう道路は酷かった。国境から最初に宿泊したヘタウダ(Hetauda)までは舗装道路だったが、その後は舗装道路とダート道の交互に続く山道だった。

途中お茶休憩した茶店ではグーグル翻訳を介しての筆談だったが、家族全員を紹介されるなどネパール人の開放的態度と心のぬくもりを感じた。

 

首都カトマンズは盆地の中にあり、乾季で埃が舞う中で遠くは霞み視界が悪かった。そのためカトマンズからはヒマラヤの山々は見えなかった。

(ヘタウダ~カトマンズ途中の茶店の家族写真。オーナーは左から2人目。オーナーの右横はオーナーの奥さん)

(カトマンズ盆地とカトマンズの町)

(カトマンズ市内へ入る道路)

 

(カトマンズ旧市街で一番賑やかな通り)

 

行く先々の人々の繋がりで思い出深きツーリング

カトマンズで知り合ったネパール人や日本人を介して、その人たちの友人や知人を紹介されネパールでのツーリングが思い出深いものとなった。

 

カトマンズでたまたま訪れた食堂の経営者は日本の八王子で5年間働いたことがあるネパール人で日本語も話した。同経営者にゴルカを勧められ、カトマンズの後にゴルカを訪れた。

 

当方はイギリス植民地時代にゴルカの言葉がなまりグルカ出身の勇敢な兵士、グルカ兵のことを聞いたことがあった。

 

その食堂を訪れていたネパール人を日本へ送り出す人材会社のサポートをする若手日本人と知り合いとなり、同日本人の紹介にてポカラ市内でコーヒーショップを経営するネパール人の山岳ガイドと知り合った。 そのコーヒーショップは日本の飲食店と提携して日本からの研修生を受け入れていた。

 

同山岳ガイドのアドバイスでポカラから40km程度離れた山村のダンパス村を訪れ、ポカラからは遠方が霞みこの時期なかなか見れないアンナプルナ山系を見ることができた。また、同ガイドに紹介されたポカラ市内のオートバイショップでエンジンの調子が悪くなった当方オートバイの調整をしてもらった。

 

同オートバイショップでは、ポカラから秘境のアンナプルナ山系の国立公園(ローアー・ムスタング=Lower Mustang)へのツーリングを勧められ、当方もその気になりネパールのビザを延長してローアームスタングへ途中まで進んだ。

 

ただし、悪路とその後の悪天候予想のため、ローアームスタング行は諦め、途中でポカラへ引き返した。

 

ポカラはカトマンズに次ぐネパール第二の都市だった。町の規模は小さく、スイスの山間部のような雰囲気の落ち着いた町だった。アンナプルナ山系への登山やトレッキングの拠点として多くのプチホテルやゲストハウスがあり、外国人の観光客やトレッキング客を多く見かけた。

 

ポカラの後はブッタ生誕の地でもあり、インドと国境を接するルンビーニ(Lumbini)の町へ向かった。ルンビーニはネパールというより、インドにいるような感じであった。人々はインド人と同様なアーリア系の顔立ちをして、女性はサリーをまとっていた。

ルンビーニの周辺にはゴーダマ・シッダールタ(のちの仏陀)が出家するまで住んでいたサクヤ国の城跡等がある。ゴーダマ・シッダルータはサクヤ国の王子として生まれた。

 

(ゴルカの旧王宮跡にあるヒンズー教寺院を警備するゴルカの兵士)

 

(山間にあるゴルカの町。煙やほこりで視界がはっきりしない。)

(田舎の川岸ではヒンズー教徒が死者を火葬していた。)

(ポカラ近くの道路脇で小学生ぐらいの少年たちが近寄ってきた。そのうち一人は

英語で当方へどこから来たかと質問した。)
 

 

(ポカラ郊外のダンパス村から雪をかぶる南アンナプルナ山=標高7,219mが見えた。)

(ポカラの町並み)

(ポカラで当方オートバイのエンジン調整をしてくれたバイクショップのオーナー)

 

(ポカラから秘境のローアームスタングへ行く途中の景色)

(ローアームスタングへ向かう途中の道路は未舗装。山から出る水でぬかるむ。)

 

(ポカラからルンビニへ向かう途中の山間部の畑で種まきをする人たち)

 

(バスの屋根の上にも乗客は乗る)

(当方が宿泊したルンビニの宿の主人は元銀行員。カースト制の差別等自らの体験談をまじえて教えてもらった。)

(ブッタ生誕のルンビニの町)

(ブッタ生誕の地は整備された公園になっている。写真の奥にブッタ生誕地がある寺院がある。)

 

パキスタン2,800km(2023/4/12~ 4/28)

 

パキスタンはイランへ行くために通過するだけの国と当初考えていた。

しかし、中国と国境に接するパキスタン北東部のキルギット・バルチスタン州(Kilgit Baltistan)は絶景が広がる山岳ルートと知り興味を持った。同地まで行く計画を立てたものの、天候不順のため途中で引き返した。

 

パキスタンの中西部(パキスタンのツーリングの約半分)は警察の警備車両のエスコートが必要な区間で単独の自由行動は許されなかった。従って、パキスタンのツーリングはかなり制限されたルートと日程となり、オートバイ・ツーリングを楽しんだという気分にはなれなかった。

 

パキスタンはイスラム教を国教とするイスラム教国だ。パキスタンへ入国した時期はラマダン(イスラム教徒の断食の月)中だった。イスラム教徒は日の出から日没まで飲食をしない。そのため飲食店は日中営業をしない。イスラム教徒以外の人たちも日中人前では飲食を控える。

 

パキスタンのように暑い国で日中の外出中に水を飲むことを控えるのは辛かった。ラホールで世界遺産の砦跡を炎天下に見学した際には我慢して水の摂取を控えた。そのため気分が悪くなり、熱中症の症状がでてきた。

(インドとパキスタンの国境線を挟んで毎日夕刻に国境閉門セレモニーがある。)

 

(当方オートバイの周りに集まったパキスタンの子供達)

 

(川沿いの谷間にあるカラコルムハイウェイ。キルギット・バロチスタン州を通り中国との国境まで繋がっている。)

 

パキスタンの走行ルートは以下の通り

 

インドのアタリ(Attari)国境から入国してラホール(Lahore)~首都イスラマバード(Islamabad)~アボッタバード(Abottabad)~ベッシャム(Besham)~ダス(Dasu)引換えし地点~ベッシャム(Besham)~マルダン(Mardan)~ペシャワール(Peshawar)~デラ・イスマイル・カーン(Dera Ismail Khan)=警察車両のエスコート開始地点~キラ・サイフラ(Qila Saifullah)~クエッタ(Quetta)~ダルバンディン(Dalbandin~タフタン(Taftan)国境=警察車両のエスコート終了。

(赤線はパキスタンの走行ルート。 地図右側下の赤丸印はラホール。地図左側はパキスタンとイランの国境)

 

パキスタン人は外国人に親切だということを聞いていた。当方は食事に招ねかれたり、自宅に宿泊させてもらったこともあり、パキスタン人の親切さを実感した。しかし、親切と興味本位の行動は紙一重だと感じたことも数多くあった。

 

外国人は珍しい存在だ。そんな外国人には自然と興味がわく。マルダン(Mardan)の仏教遺跡では20人くらいの中学生ぐらいの少年たちに映画スターのように囲まれた。

 

同遺跡を徒歩で見学中も当方の周りを囲むように集団でついてくるので、警備の人たちは少年たちを棒で振り回して追い払おうとしたり、鉄格子に囲まれた場所へ当方を誘導して少年たちのグループから安全を確保しようとした。

 

その少年たちは外国人を興味の対象として見ていた。また、地方都市の大人も同様に外国人の周りに集まり、めずらしい興味の対象としている状況に数多く遭遇した。

(マルダンの仏教遺跡。遺跡の外側の高台には多くの少年たちが外人観光客を見ようと集まり、外人観光客をはやしたてる。)

(マルダンで一泊お世話になったパキスタン人の家族。女性は家の奥にいて家族以外の男の前には現れない。)
 

パキスタンの安全状況

 

アフガニスタンと国境を接するパキスタンの辺境地はアフガニスタンがタリバンに制圧されてからタリバンの息がかかった反政府勢力が力を盛り返して治安が悪くなったという。

 

パキスタン北部のペシャワール(Peshawar)からパキスタン西部のバロチスタン州の州都クエッタ(Quetta)を経てイランとの国境に至る帯状の辺境地は日本の外務省安全情報では最も危険とされるレベル4の退避勧告地域と指定されている。

 

自爆テロ、身代金目当ての誘拐や銃器を用いた強盗が多発している地域でもあり、中央政府の統治が及んでいるとは言えない。

ただし、当方のようにオートバイで絶えず移動している人には治安状況は全くわからない。幹線道路上で警察や軍隊による検問所の数が多くなると、治安状況が良くないことを知るのみだ。

 

事実ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンへ向かう途中の幹線道路では複数の軍隊の検問所があり、その一つの検問所を管理する軍の拠点長から治安状況について説明を受けたことがあった。

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中の峠から見た景色)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中。道路わきの日陰で休憩)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンの区間を警備する軍の拠点長は流ちょうな英語で当地の治安状況を

説明してくれた。)


(ペシャワールの旧市街)

(ラマダン中だったので、日没後にやっと食事ができた。鶏肉を炭火で焼く。ペシャワールの旧市街)

 

警察車両のエスコート区間約1,200km(3泊4日)

 

デラ・イスマイル・カーンから警察車両の護衛が付いた。外国人がテロや誘拐に巻き込まれることを防ぐため、警察車両のエスコートが付く。自由行動が許されない走行が始まった。この区間をバックパックで旅行する外国人も同様に警察車両に乗り(多くはピックアップトラックの荷台)警察の保護下で移動せねばならない。

 

警察車両は駅伝のように自らの管轄地区を30km~50km警護し、次の管轄区の警護車両に入れ替わる。こんな警護が3泊4日約1,200km続いた。

 

1泊目(キラ・サイフラ)と3泊目(ダルバンディン)はそれぞれの管轄区の警察署で夜を過ごした。警察署には食事は無いので事前にチャパティ等の乾燥食材を用意せねばならない。当方はシュラフやクッションを持っていなかったので、警察署の硬い床の上では熟睡できなかった。

 

2泊目のバロチスタン州の州都クエッタでのみ、警察指定ホテルでの宿泊が許された。ただしホテルからの外出は禁止されてい

た。

 

(警察車両の警護)

(名も知れぬ村の警察官。警察官は自動小銃で武装)

(強風でこの先の道路は視界が効かない。)

(飾りをつけた貨物トラックが多い。)

(一泊したダルバンディンの警察署。写真左側留置所となっていた。)

 

パキスタンからイランへ出国する際の国境でアクシデント

 

警察車両によるエスコートの4日目には若いドイツ人夫婦の運転するキャンピングカーが加わった。

 

そのキャンピングカーが国境検問所で停車後、突然バックして来た。当方はキャンピングカーの約2m後方で停車していたが、突然バックして来たキャンピングカーは当方が後ろにいることには気が付かず当方オートバイの前輪部分に衝突してきた。 

 

当方オートバイの前輪がバリバリと音を立ててキャンピングカーの後部バンパーを壊して、危うく横倒しになる寸前だった。前輪泥除けは無残に垂直に曲がってしまったが、強化プラスチック製のため元に戻すことができた。しかし、当方は前輪タイヤがこれからの走行に支障が出ないだろうかと危惧した。

 

アクシデント後、ドイツ人夫妻は氏名、住所とコンタクト先を当方に残したのみで、当方バイクの走行状態を確認することなく、その場を離れてしまった。

(警護走行4日目のダルバンディンからイラン国境まではドイツ人のキャンピングカーが加わった。 先頭は警護する警察車両)

 

イラン 3,800km(2023 4/29~5/25)

 

イランの概況

イランは思っていたより広い国だった。面積は163万km2と日本の4倍以上ある。アラビア湾岸沿いの低地とカスピ海沿いの地域を除き、国土のほとんどは木が一本も生えていないような砂漠化した高地だった。 

 

人が住む場所は気候が涼しい海抜千メートル以上の高原地帯であり、荒涼とした大地通るハイウェイが数百キロメートル離れた都市と都市をつないでいた。

 

直前までツーリングしていたパキスタンやインドと異なり、イランの都市は通りにごみ一つ落ちていなく清潔な町であった。プラスチック製のペットボトルやレジ袋等が路上に落ちていない、牛糞も無い。

 

街には乗用車が溢れる一方、オートバイはほとんど見かけることがなく、国境を接するパキスタンやインドとは全く異なっていた。

 

イランの人々は事前に聞いていた通り、非常に親切で、思慮ある人々だった。当方はイランが今回のツーリングで訪れた国々の中で一番気に入った。

 

他方、長引くアメリカ主導の金融制裁のため、経済状況は悪く、インフレ率は年率50%と高く、イランの通貨レアルの為替レートは割安に放置されていると感じた。

 

政府の公式為替レート(1米ドル=約4.2万レアル)と市中の実勢レート(1米ドル=約53万レアル)とは10倍以上の乖離があり、市中の両替屋で手持ちの米ドル現金100ドルをイラン・レアルに両替すると53百万レアルという巨額になった。

 

両替した札束が財布の何かには入らず、封筒に入れて持ち運んだ。

百万レアル札もあり、食事代で数十万リアル、宿泊代で数百万リアルと言うように金銭感覚が狂ってしまう。

 

歴史がある都市や町、ユネスコの世界遺産も豊富で長期滞在しても飽きない。当方は歴史があるヤスード(Yazd)、シラーズ(Shiraz)やイスタファン(Istafan)等の迷路のように土塀で区切られた旧市街の町並みや中庭がある古民家が気に入り、古民家を改造したホステルに宿泊した。

(イランの標高を表したジオラマ地図。イランは高地が多い。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)

 

 

ツーリング・ルートは以下の通り

パキスタンのタフタン国境からイランへ入国後~ザヘイダン(Zaheidan)~バム(Bam)=世界遺産の遺跡~ケルマン(Kerman)~ヤスード(Yazd)=イランの鎌倉~マルブダシュト(Marvdasht)=世界遺産ペルセポリス遺跡~シラーズ(Shiraz)=イランの奈良~ヤスジ(Yasj)~シラーズ~イスタファン(Istafan)=イランの京都~カシャーン(Kashan)~首都テヘラン(Teheran)~カスピ海沿岸のチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)~アルダビル(Ardabil)~サリーン(Sarien)=温泉地~タブリーズ(Tabriz)=世界遺産のバザール~カンドバン(Kandovan)=奇岩のミニカッパドキア観光~タブリーズ~ノルドス(Norduz)国境からアルメニアへ出国

(赤線はイランの走行ルート。地図右側はパキスタンとの国境。宿泊した都市は赤丸印の場所。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)

 

パキスタンから入国後ザヘイダン~シラーズまでの最初の1,500km (Part 1)

パキスタン西部に続き、荒涼とした砂漠化した大地に通るハイウェイを進んだ。時には岩山を削ったような道路や山を登ったり、下ったりする道もあった。

 

ガソリン価格がリッター7円~8円と非常に安い。政府の補助があるのだろうが、ガソリンタンクを満タンにしても大した支出とはならない。そのためか、ガソリンスタンドの数が非常に少ない。 薄利ではもうからないためガソリンスタンドの商売には妙味が無いのだろう。

 

パキスタンから入国して気が付いたことは、前述したように道路上にごみが無いことローマ字表記の看板が一切ないことだった。ローマ字表記が無いため、ホテルやホステルを探すのに多少苦労した。また、数字もアラビア数字に似た形状のペルシャ数字を使用するため、価格交渉を筆談で行うにも数字が読めない。

 

ザヘイダンでオートバイ保険の加入と携帯電話のSIMカードの購入を済ませたが、インターネットがつながらない。イラン政府は外国のSNSやウェブサイトの閲覧に制限をかけている。それらのサイトにつなげるためには有料のVPN(Virtual Private Networkという私設インターネット回線)への加入(アプリを入れる)が必要だった。

 

バム(Bam)のホステルで出会った当方と同年配のドイツ人のライダーとは気が合い、バムの次のケルマン(Kerman)でも同じホステルに宿泊して一緒に市内観光をした。

 

旅行ガイドブック<地球の歩き方>では中東の3P(頭文字にPが付く3大名所のこと)としてシラーズから100km程度離れたマルダシュト(Mardasht)のローマ時代の遺跡ペルセポリス(Persepolis)を挙げていた。同遺跡はユネスコの世界遺産にも登録されていたが、当方の印象には深く残らなかった。


 

(バムからケルマンへへ向かう途中の景色)

 

(世界遺産のバムの要塞遺跡。要塞部分の外壁や塔の修復は進んでいたが、周囲には未修復で遺跡か泥の塊か見分けがつかない場所が多く残っていた。)

 

(ドイツからのライダーはヤマハのテネレ700に乗っていた。)

 

(世界遺産ペルセポリスの遺跡)

 

旧市街の古民家

当方の印象に残ったのはケルマン、ヤスードとシラーズで宿泊した宿だった。それぞれ旧市街の古民家や宿泊所を改築したホステルだった。

 

イランの民家は高い土壁で囲まれ、土壁の内側は見えない。壁の内側には中庭とその中庭を取り囲むように部屋が配置されている。中庭には木陰を作る樹木が植えられ、直射日光がきついイランでは樹木の木陰でお茶を飲みながらゆっくりと時を過ごす。

(古都ヤスードの旧市街。風を室内に入れる塔=写真右側の建物が保存されている。)

(ヤスード宿泊した古民家の中庭)

 

(ケルマンではミニパレスのような古い豪邸を改築したホステルに宿泊)

 

(ケルマンのバサール=商店街)

(砂漠の中のヤスードの町)

(不気味に見えたヤスードの鳥葬の塔=ゾロアスター教徒は20世紀初頭まで死者を塔の上に置き、鳥に死肉を処分させた。)

(シラーズで宿泊したホステルの若手オーナーは宿泊客の面倒をよく見てくれ、当方は感心した。)


(イランの中高校生ぐらいの少女たちは写真を撮ってくれとポーズを取ってくれた。)

 

(シラーズからイスタファンへ向かう途中の風景)

 

シラーズ~イスタファン経由首都テヘラン1,400km(Part 2)

 

親切なイランの人々

シラーズからイスタファンへ向かう途中のヤスジ(Yasj)という町で当方はイラン・ビザをどこかで紛失したことに気が付いた。立ち寄ったシラーズの携帯電話店に忘れたのだった。

 

イランのビザはパスポートに押印されるのではなく、航空券のE-チケットを印刷した紙のように紙ベースのものだ。イランに敵対するするイスラエルやアメリカへ入国する際にパスポート上にイランのビザや入国スタンプがあると面倒なことになり、それを避けるためパスポート上にはイランの形跡を残さない。

 

ヤスジで宿泊したホテルのスタッフが、当方が心当たりがある場所へ一時間以上電話問い合わせしてくれたおかげで、当方が途中に立ち寄ったシラーズの携帯電話ショップにイランビザの紙を置き忘れたことが判った。

 

携帯電話ショップのオーナーも当方をインスタグラム(フェースブック系のSNSの一種)で探し出して、当方宛にメッセージをくれていた。しかしながら、当方はインスタグラムをほとんど使用しなかったので、メッセージには気が付かなかった。

 

ヤスジのホテルスタッフやシラーズの携帯電話ショップのオーナーの協力は有難たかった。

テヘランではイスタファンのホステルで出会ったイラン人の若者にテヘランの自宅に招かれ夕食をご馳走された。

 

このような親切はイラン滞在中に数多く受けた。

(テヘランで知り合ったイラン人の自宅で夕食をご馳走になった。)

 

(カンドバン村の土産物店ではお茶を飲んでいけとお茶をふるまわれた。)

 


(オートバイで移動中、のどが渇きスイカを食べたくなった。当方が<1/4個のカットスイカ>を欲しいと言ったら、<切り売りはしないが>、と言って既に切ってあったスイカを<(無料で)食べていけ>と言ってくれたスイカ売りのクールな男)

 

古都イスタファン(Istafan)

イスタファンは1597年~1795年までの約200年間イランの都だった。日本の京都に相当するだろう。 旧市街には都として栄えた当時の複数の巨大モスクが現在も使用されている。

(イスタファンの有名なエマーム・モスク=Majesed Eman)

 

(イスタファンのジャメ・モスク=Majesed Jame。モスクは数百年にわたる増改築で、イラン建築の総大集と言われている。)

 

(イスタファンの旧市街の中心にはエマーム公園があり、その周りをエマーム・モスク、宮殿等の歴史的建物が囲む。)

 

(イスタファンのバザール入り口のイスラム建築)

 

(イラン人はピクニック好き。休日には家族、友人たち同士が公園の芝の上で食事したり、お茶を飲んだりして憩う。)


(イスタファンの旧市街の道と民家の土壁)

 

レストランが少ない

イランで気が付いたことは、食堂やレストランが他国と比較して少ないことだ。食事をするため食堂やレストランを捜し歩いたが、数が少ない。市内の中心部を10分~20分歩いてもなかなか見つからなかった時もあった。 

(焼き肉店でひき肉を串に付ける料理人)

 

イラン・イラク戦争の傷跡

1980年代にイランはイラクと戦争をした。その戦争で戦死者をだした町の道路には戦死者一人ひとりの遺影を飾った柱を目にした。田舎の町にも出征して帰らぬ若者がいることを知った。

 

イラン・イラク戦争の末期にはアラビア湾(ペルシャ湾とも呼ぶ)の一番狭いホルムズ海峡を通過する日本船籍の原油タンカーもミサイル攻撃で被弾したりして、国際的な注目を浴びた戦争だった。

(イラン・イラク戦争の戦没兵士の遺影)

 

テヘラン~カスピ海沿岸~タブリーズ~アルメニアへ出国 1,200km(Part 3)

 

テヘラン北部に控えるアルボズ(Alburz)山脈通過してカスピ海沿岸へ出ると景色は一転していた。 カスピ海沿岸の湿潤の気候のため、山々は緑の樹木で覆われ、道路沿いの荒れ地には緑の草や植物が群生していた。

 

当方はカスピ海沿いにチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)

~アゼルバイジャンとカスピ海沿いに国境を接するアスタラ(Astara)経由内陸都市アルダビル(Ardabil)を経て北部のタブリーズ(Tabriz)へと進んだ。

 

チャールズ及びバンダル・アンザリではカスピ海に面する場所にあるホテルに宿泊した。晴天の日が少なくカスピ海は曇っていたが、穏やかだった。 この辺りには田植え中の水田が多く、日本に気候が似ていると思った。

 

 

(テヘランのビジネス街)

(テヘランからカスピ海地方へ行く途中。テヘラン北側にあるアルボズ山脈。アルボズ山脈の南側=テヘラン側は乾燥地帯)


(アルボズ山脈北側=カスピ海側は湿潤な気候のため山々には緑の木が茂る。)

(チャールズ=Chalusのカスピ海海岸。風が吹くと肌寒かった。)

 

(カスピ海沿岸地方の田植え風景)

 

(カスピ海沿岸地方のバンダル・アンザリの海岸)

 

(カスピ海沿岸地方の名物料理バガラガト=Baghaleh-ghatogh。サフランで黄色くしたバターライスと卵入りシチュー。同じホテル知り合ったカスピ海沿岸地方出身のイラン系カナダ人にごちそうしてもらった。)

 

(カスピ海沿岸から内陸へ入る。)

 

イランの温泉

 

アルダビルから40km程度離れた場所に温泉町サリーン(Sarein)があると聞いていた。草原の中に突然ビル群が建ち、人工的な町が出来たような不自然な場所だったが、スイミングプールのような大きな公衆温泉があった。水着着用で温泉に入るが、個人用の湯船もあり、当方は久しぶりの温泉を楽しんだ。

 

(サリーン=Sarienの温泉)

 

(温泉町サリーン=Sarien 土産屋が並ぶ)

 

タブリーズの不愉快な出来事とその郊外のミニカッパドキア

タブリーズの町はイラン滞在の最後の町だった。楽しいことが多かったイランでもタブリーズでは少し不愉快な出来事があった。通りで少年グループにから絡まれたり、宿泊したホテルの受付係と口論になったことだった。

 

タブリーズから70km~80km離れた場所にとんがりコーンのような複数の奇岩がある場所があった。その奇岩に洞窟の部屋を作り、民家としているカンドバン(Kandovan)という村があることを知った。

 

トルコの内陸部にはキノコの形やとんがりコーンの形をした奇岩があるカッパドキア(Cappadocia)という地域があるが、そのカッパドキアにちなんでミニカッパドキアとも呼ばれている村だった。タブリーズから日帰りツーリングしたが、思ったほど観光客は多くなく、洞窟の一部を改造した民家を見学することができ満足した。

 

タブリーズの後はアルメニアへ出国するためノルドス(Norduz)国境へと進んだ。

(アルダビル=Ardabilの旧市街)

 

(アルダビルで見つけた甘党の店。 蜂蜜と黒ゴマ等を材料にしたあんこのような甘みのハルラ=Halra。小さなカップに入れて食べた後、口直しに酸っぱいヨーグルトドリンクを飲む。)

(タブリーズ・モスクに残る高さ40mの巨大な門。その昔には罪人を門の上から突き落としたと言う。)



(ミニ・カッパドキアとも呼ばれる奇岩があるカンドバン=Kandovan)

 

(カンドバンでは奇岩に洞窟を掘り、住居としている。)

(カンドバンの洞窟内の部屋は快適そうだった。)

(タブリーズからアルメニア国境へと進む。)

 

(アルメニアとの国境付近は自然環境が厳しい場所)

 

以上

 

 

 

インド総集編 8,500km

 

東南アジアツーリング後インドへ渡ったが、インドは民族、人種および習慣が東南アジアとは全く異なる別世界だ。

 

おりしもインドの人口が中国を抜き世界最大となったニュース報道がされていた時期だ。

 

当方は会社員時代バーレン(アラビア湾の島国)に駐在していた時に、インド人と一緒に仕事をしたりしてインド人を知っているつもりだったが、インド亜大陸のインド人とは少し異なっていた。

 

海外で仕事をしたり、暮らしたりする多くのインド人は国際感覚を持つ教養人だったが、インド国内の人々はそうでない人や住んでいる地域以外へは行ったこともなく英語を話さない人が多いと知った。

 

2018年にアメリカをツーリング中アリゾナ州のフラッグスタッフの町のモーテルにチェックインした際に、そこで受付係をしていたインド人に当方が世界一周のツーリング中だと言った。

 

その際に受付係のインド人は当方へ<インドへは行ったか?>と聞いてきた。当方が<まだ行っていない>と答えると、そのインド人は、<インドへ行かずして世界一周中とは言えない>と当方の世界一周との説明に水を差した。そのインド人の一言もインド・ツーリングのきっかけの一つとなっていた。

 

当初タイからミャンマー経由陸路でインドの東部へ入国する計画を練っていたが、コロナ以降ミャンマー国境は閉鎖中であるため、タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送して、インドツーリングを行った。

 

インドの港でのオートバイの輸入通関には手間とコストがかかるので避けた方が良いと聞いていたが、その通りだった。通関手続きは2週間以上かかり、タイからの海上輸送費とは別に、インド側の輸入費用のみだけで約11万ルピー(約17万円)かかった。

 

その費用の明細に至っては事前の問い合わせ等では知らされていなかったいわゆる隠れ費用(Hidden Charge)もあり、やはりインドでの中古オートバイの輸入手続きはお勧めできないと実感した。

 

インドのほとんどの地域には四季が無く、雨季と乾季の2つのシーズンしかない。インドのムンバイへ到着したのは1月中旬と乾季の最中だった。日中の気温は30°C以上と日本の夏のように暑くなるが、朝夕は涼しく感じられるなかでムンバイから出発してデカン高原を南下した。

 

その後インド最南端を訪れた後、東海岸沿いにチェンナイを経由してカルカッタ直前で内陸部へ入り、ブッタが悟りをひらいたブッタガヤを経てネパールへ入った。ネパールツーリング後、再度インドへ入国して、首都ニューデリーを経てパキスタンへ出国した。約2・5ヶ月、8,500kmのツーリングだった。

 

以下インドのツーリングルート(反時計回りにインドを3/4周。途中ネパールへ進み、その後インドへ再入国)

 

Mumbai(マハーラーシュトラ州都・世界遺産)~Pune~Aurangabad(世界遺産エローラ石窟寺院)~Solapur~Hampi(世界遺産)~Bengaluru(IT産業の中心)~Mysore(マイソール宮殿)~Coimbatore(インドのマンチェスター)~Kochi(バスコ・ダ・ガマ)~Kanyakumari(インド最南端)~Tiruchirappalli(世界遺産)~Ponticherry(元フランス領)~Chennai(タミール・ナードウ州都・インドのデトロイト)~Ongole(オートバイの故障)~Vijayamada~Visakhapatnam~Chilika(淡水湖)~Konark(世界遺産)~Balasore(オートバイにUSBチャージャー取付け)~Ranchi(内陸都市)~Budhgaya(仏陀悟りの地)~Motihari~Raxaul/Birganj国境からネパール入国~ネパールをツーリング後Lumbini(Sounali国境)経由再度インドへ入国~Kushinagar(仏陀入滅の地)~Varanasi(ヒンズー教の最大聖地)~Ranpur~Agra(タジ・マハール)~Jaipur(ピンク・シティー)~Gurugaon(多国籍企業)~Dehli(首都)~Chandigarh(インドで一番美しい都市)~Mandi~Dharamsala(チベット亡命政府)~Pathankon~Amritsar(パンジャブ州都・シーク教徒の聖地)~Attari国境からパキスタンのLahoreへ出国

 

(インド走行地図。赤線は走行ルート。左側中央が出発地点のムンバイ。左側最上部がインドからパキスタンへ出国したアムリトサル。右側上部の入りくんだ場所はネパール)

 

インドは多民族国家で一言では表現できない

 

インドは多民族国家で州毎に言語も民族が異なると言っても過言ではない。インドの経済状況も均一ではなく、インドの一人当たりのGDP(国民所得)は1,920米ドル(約25万円)となっている。しかしながら、一番裕福な南西インドのゴア州では5,700米ドル(約74万円)であり、最貧の東北部のビハール州では700米ドル(約9万円)しかない。州により経済状況は大きく異なる。

 

(インド主要州の一人当たりの国民所得=GDP。一人当たりの年収と見なせる。)

 

(日系企業のインド進出状況)

 

ムンバイから出発してデカン高原を南下

 

インド第二の都市ムンバイからスタートしてAurangabadから数十kmの場所に位置する岩山を削って巨大な石窟寺院を作ったエローラ(Ellora)の石窟遺跡群を目指した。同遺跡群はユネスコ世界遺産にも登録されている。最大の石窟寺院は高さ40m~50m、幅70m~80m、奥行約100mあり、巨大で圧倒された。

 

その後、乾燥したデカン高原のハイウェイを南下して世界遺産のハンピ(Hampi)のヒンズー教遺跡群を見学後、ムンバイを出発して約1,500kmでインド南西部のIT産業が盛んなベンガルール(Bengaluru)に到着した。

 

ハイウェイは片側2車線でオートバイも走行可能だ。まれに自転車で通行している人もいる。ハイウェイは有料であるが、オートバイでの通行は無料だった。通行車両は荷物が荷台から数メートル飛び出す超過積載の貨物トラックやワゴン車を改造した小型の乗り合いバスがほとんどだった。自家用車があまり普及していないためか、ハイウェイの交通量が少ない。

 

デカン高原のハイウェイ沿は荒れ地と農地が見渡す限り続く大地で、この時期は埃のためか遠方は霞んでいた。

 

インドにはカーストと呼ばれる職業身分制度が存在した。憲法上、カースト制は禁止されているものの社会的には依然存在しているようだ。IT産業は新しい産業のためカーストは存在しなかったという。そのためカースト制を嫌う優秀な人たちがIT産業に従事するようになり、インドのIT産業が世界でも屈指の競争力を持つようになったと言う。

(ムンバイChatrapati Shivaji Terminus=CST駅付近。写真奥は世界遺産の英国植民地時代の駅舎)

 

(ムンバイの象徴インド門=Gate of India. 1911年当時の英国国王夫妻のインド訪問を

記念して建てられた。)

  

 

(インド独立の父マハートマー・ガンディー)

(マハートマー・ガンディーがムンバイ滞在中に寝泊まりした部屋。現在はガンディー博物館となっている。)

(大学の年に一度の正装の日には女子学生はサリーを着る。)

(インドの典型的な食事は小麦を薄焼きしたパン=チャパティとレンズ豆のスープ風カレー)

(世界遺産エローラの最大石窟寺院カイラーサナータ寺院。一枚岩の岩山を掘って6世紀から9世紀ごろ造られた。)

(カイラーサナータ寺院はヒンズー教寺院だった。付近一帯には仏教の石窟寺院も複数ある。)

(デカン高原のハイウェイ)

(貨物トラックは過剰積載の貨物を運ぶ。)

(世界遺産ハンピのヒンズー教寺院と遺跡群)

(道路上の野生動物に注意の標識)

(ベンガルールの三輪タクシー=オートリクシャーの製造業者)

(ベンガルールの縫製業者)

 

(ベンガルール工科大学の授業を見学させてもらった。学生が研究課題を発表中)

 

ベンガルールからインド最南端経由チェンナイまで

 

ベンガルールから更に南下してケララ州(Kerala)の州都コチ(Kochi)を訪れた。コチは歴史の舞台になったエキゾチックな港町だった。

 

16世紀に南アフリカの喜望峰(Cape of Hope)経由インドに達する航路を発見したポルトガル人バスコ・ダ・ガマ(Vaso da Gama)が1502年に同地に立ち寄っていた。バスコ・ダ・ガマは3回目の航海で1524年に同地で没し、同地の教会に埋葬された(ただし、亡骸はその後、息子により祖国へ持ち帰られたが)。

 

コチは当初ポルトガルの植民地となったが、その後オランダ領となり、更にインド独立前までイギリス領となっていた。インドの前に訪れていたマレーシアのマラッカ市と同様な歴史的経緯があった。

 

インド南部のタミール・ナードウ州に入ると人々が違っていることが実感できた。インド人というよりタミール人として誇りを持ち、タミール語を話す。文字もインドの共通語となっているヒンディー文字と異なり、丸みを帯びた文字だった。

 

インドの大部分の州では当方が<どこの国から来たのか?>とうんざりするぐらい頻繁に道行く人々に聞かれたが、タミールでは聞いてくる人は少なく当方には心地よかった。

 

タミール・ナードウ州の州都はチェンナイだ。チェンナイはインドのデトロイトと呼ばれるほど自動車関連産業が盛んだった。多くの日系企業もチェンナイ郊外の工業団地に製造拠点を構えていた。当方は同地の工業団地にある日系のオートバイメーカーの工場を訪ねた。

 

チェンナイから北上中に当方のオートバイが初めて故障した。ハイウェイで一度止めたエンジンがかからなくなってしまった。そこでチェンナイ郊外で訪問した日系オートバイメーカーにコンタクトを取り、お世話になった。

 

日系オートバイメーカーは当方のオートバイが故障した場所に一番近い現地販売ディーラーへ連絡を取り、同ディーラーが故障した当方のオートバイをトラックに載せて修理工場まで運び、無料で修理をしてくれた。この手際良い対応に当方は大いに助かり、感謝した。

(ベンガルールからマイソールへのハイウェイは比較的自家用車が多かった。)

(インドで1,2と言われた藩王のマイソール宮殿はタジ・マハールの次に訪問者が多いという。)

(野生の象が生息する国立公園内の道路。マイソール=Mysoreからコインバトール=Coimbatore途中)

(ケララ州ゴアのSt. Francis教会には南アフリカの喜望峰沖経由インドへ到達する航路を発見した

ポルトガル人バスコ・ダ・ガマが埋葬された。)

(ケララ州のゴアから最南端のカニャクマリ=Kanyakumariへ行く途中)

 

(インド最南端のコモリン岬=カニャクマリ市)

 

(ティルチラッパリ=Tiruchirappalliのランガナータスワーミ寺院=Sri Ranganathaswayは城壁で囲まれたインド最大の

寺院町にあり、女性の大胆な裸像を入り口門内側に飾っていた。)

(インド南部は強い季節風を利用した風力発電用の風車が数多くあった。)

(チェンナイ付近で稲の田植えの用の苗を栽培していた。)

 

(チェンナイ郊外の工業団地にある日系オートバイメーカーの工場)

(故障した当方のオートバイを無料で修理してくれた現地ディーラー=YAMAHA Vishnu Motorの修理工場)

 

(インド東部ベンガル湾沿いのオディッシャ州=Odichaに入ると山が見える景色に変わった。)

 

(世界遺産コナルク=Konarkの太陽神殿)

(体重の2倍以上はあると思われる材木を運ぶ女性を見てびっくり。眠気がすっ飛んだ。)

 

 

インド東北の仏陀ゆかりの地

 

チェンナイからベンガル湾沿いに北上してインド最貧州のブッタ(ゴーダマ・シッダールタ)のゆかりの地であるブッダガヤ(Budhgaya)を訪れた。

ブッダガヤはゴーダマ・シッダールタ(ブッタになる前の名前)が出家後、菩提樹の下で49日瞑想後、悟りを開きブッタ(悟りを開いた人のこと)となった地として世界各国の仏教徒の聖地のひとつになっている。

 

その後ネパールへと進んだ。そしてネパールツーリング最後にインドとの国境付近にあるゴーダマ・シッダールタの生誕地ルンビーニ(Lumbini)を訪れた。

 

また、インド再入国後にはブッタが初めて説法を唱えたワラナシ(Varanasi)郊外のサナルートとブッタが入滅(没した)クシナガール(Kushinagar)をそれぞれ訪問した。それぞれの地も仏教徒の聖地となっており、多くのタイからの巡礼者を見かけた。

(ブッタガヤの仏陀が悟りを開いた菩提樹があるマハボディ寺院=Mahabodhi Temple)

(マハボディ寺院の菩提樹下に集まる仏教徒)
 

(ネパールのルンビニ=Lumbiniにあるゴーダマ・シッダールタ(後のブッタ)生誕の地にある寺院。寺院内部の土に生誕地の印として石が置かれている。)

(ゴーダマ・シッダールタが20歳代で出家するまで暮らしたルンビニ郊外のTilaurat(当時はKapilavastuと呼ばれていた場所)にあった父サクヤ国王の城跡にはタイからの巡礼僧が多数来ていた。)

(ブッタが初めて説法を説いたワラナシ郊外のサナルートに立つ仏塔)

 

(ブッタが入滅したクシナガール=Kushinagar。沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で横になったブッタは二度と起き上がることが無かったという場所に立つ寺院内には横たわるブッタの像が安置され、その周りを巡礼者が囲むように座っていた。)

 

ネパールから再入国後ワラナシ・アグラ経由デリーを目指す

 

ネパールからインドへ再入国後はガンジス河に面したヒンズー教の最大聖地ワラナシ(Varanasi)経由、インドで一番訪問者が多い白亜の巨大霊廟のタジ・マハールがあるアグラ(Agra)を目指した。

 

ワラナシのガンジス河沿いにはヒンズー教徒が沐浴したり、火葬する場所が多くあった。ワラナシのガンジス河で沐浴すれば一切の悪行が洗い流されるという。また火葬された灰はガンジス河に流される。ヒンズー教徒には墓が無いと知った。

 

デリー(Dehli)はオートバイのタイヤを交換するために訪れた。インドのどの都市も人が多いが、デリーは特に多いと感じた。日本の祭りか縁日で人々が繰り出しているような人混がある道路が多かった。 デリー中心部のラール・キラー(レッド・フォートとも呼ばれる)というイスラム支配下時代の城を見学しようとしたが、入場券販売所前に数百メートルの超長蛇の観光客が並んでいたため、見学を諦めた。

ガンジス河沿いのワラナシ=Varanasiのガート(Ghat)。ガートとは沐浴所。煙が上がる場所では死者を火葬していた。)

 

(人気があるダシャーシュワメード・ガート=Dashashwamedh Ghatで沐浴する人たち)

(世界遺産アグラのタジ・マジハール=Taj Mahal。ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズのために

立てた霊廟。ドームの高さは67mある。)

(ピンク・シティーの異名を持つジャイプール=Jaipurの旧市街。旧市街の全ての建物はピンク色に似た淡い茶色で統一されている。)

(デリーのオートバイ部品屋街でタイヤ交換をする。作業は路上で手作業で行う。)

 

(デリーの中心部ラール・キラー(レッド・フォート)と呼ばれる城塞を見学するために集まった大勢の観光客)

 

デリー以降のインド北西部は快適なツーリング

 

デリー以降のインド北部は標高が高いため涼しく、オートバイツーリングには快適だった。特にインドで一番美しい都市と言われるチャンディガール(Chandigarh)からマンディ(Mandi)経由チベット亡命政府があるダラムサラ(Dharamsala)へ至るルートはヒマラヤ山脈を控える高地のため涼しく、また雪をかぶる山々も見え、快適なオートバイツーリングを楽しんだ。

 

アムリトサル(Amritsar)郊外にあるアタリ(Attari)国境はパキスタンへ陸路で外国人が出国できる唯一の国境だった。そのためインド最終地はアムリトサルになり、同地でパキスタンの次に訪れるイラン・ビザの入手を待った。

 

パンジャブ州の州都であるアムリトサルはシーク教徒(男は頭にターバンを巻く)の本拠地でもあり、この地の男はほとんど頭にターバンを巻いていた。

(インド一美しいと言われるチャンディガール=Chandigarhの町並み)

 

インド北部のチャンディガールからマンディ=Mandiを経てダラムサラ=Dharamsalaへ行く途中の風景)

 

(ダラムサラ近くでは雪をかぶった4千メートル級の山々が見える)

(マンディ=Mandiからダラムサラへ向かう山岳道路)

(ネパール亡命政府があるダラムサラの町は山の頂上部にある。)

 

(アムリトサル=Amritsarの警察官)

 

道路の糞尿の試練

 

ヒンズー教では牛は聖なる動物として丁重に扱われ、都市の道路でも放し飼いなっている。道路中央に牛が寝転がっていても、車やバイクは上手に牛を避けて通行している。

 

民家が密集した狭い生活道路に牛が2~3頭いれば、牛の糞尿で道路は泥水化する。糞尿の匂いが鼻をつく。当方は牛の糞尿を避けながらオートバイを進めたが、匂いは避けられない。牛の糞尿から早く逃れたいといつも思って通行した。

 

農村部の田舎では牛糞は家庭での燃料として使われる。再生自然エネルギーでもあるが、人々が素手で湿った糞を藁(わら)と一緒にこね回す姿には驚きより、気持ち悪さを最初に感じた。円形状にわらと一緒にこね回された牛糞は道路上で天日干しされる。

(路上で天日干しされる牛糞)

 

世界一人口が多いことを実感

 

都市部の道路はいつも多くの人で混雑している。東京の新宿駅、渋谷駅、東京駅等の駅構内の人混みぐらい大都市の道路には人々があふれている。また、都市部道路の渋滞も酷いし、車やオートバイの交通マナーも劣悪だ。

 

一番危ない運転はオートリキシャと呼ばれる三輪のタクシーだ。急発進、急停車はもちろんだが割り込み運転が半端でない。相手が衝突を避けることを前提に割り込んでくる。多少の接触は当たり前となる。

 

当方は三輪タクシーの割り込み運転や無謀な運転をけん制する意味で、低速で当方に割り込みをかける運転手には肘鉄をくらわしたり、首から下げた笛をふいて注意を促した。

 

以上

東南アジア総集編(後半)ラオス・カンボジア・ベトナム4,600km

 

ラオス・カンボジア及びベトナムの政治体制は社会主義だが、中国と同様に市場経済主義の政策を取り資本主義の優れた部分も採用していた。ラオスとカンボジアは内戦やその後の社会の混乱のため経済的には隣国のタイよりも数十年遅れているような印象をもった。

                                            

ベトナムだけが、ベトナム戦争での痛手と混乱はあったものの、近年WTO(世界貿易機構)に加盟して、外国資本の投資を呼び込みこみ短期間で輸出主導の経済発展を遂げているような感じだ。

 

ラオスの走行ルート 約1,600kmは以下の通り:

 

タイ・チェーンコン(Chiang Khong)にて出国~ファーサイ(Huay Xay)にてラオス入国~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・ブラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)~メコン川沿いに南下~タケーク(Thakehk)~第二都市パクシ(Pakse)

(左側地図の赤線はラオスの走行ルート。右側地図の赤線はマレーシアからタイを経てラオスまでのインドシナ半島の走行ルート)

タイとの経済的な格差が大きい

 

タイへの北部チェンコーン(Chiang Khong))からメコン川を渡りラオス領ファーサイ(Huay Xay)へ入った。ラオス入国は初めてだ。どんな国だろうかと興味があった。ラオス領に入るとタイとの経済格差が一目瞭然だった。

 

ラオスの一人当たりの国民所得(GDP per Capita)は約2,500米ドル(約35万円)とタイの1/3~1/4程度だ。 ラオスの最初の町であったファーサイは、アフリカ諸国の街並み様子と似ていると思った。道路は舗装してあるものの広い路肩の赤土の未舗装部分が商店や民家の軒先までのびていて、建物の屋根や壁が全体的に赤茶に染まっている。

 

道路を走行する車やバイクは極端に少なく、町の賑わいは感じない。むしろ寂しい感じがする。

時間が数十年前に戻ったような感じだ。

 

政治体制は社会主義だが、経済は市場原理を導入しているため、民間では近隣の自由主義(資本主義)国々と同様に民間の活力を利用して、資本主義のルールを用いて経済活動を行っている。

 

しかしながら、人々のビジネスに対する対応が他の近隣諸国と少し違うような感じがした。ホテルやレストラン等の接待業なら顧客に愛想をよくするのが、ビジネスのイロハであるが、ラオスはそうでは無いようだ。

 

顧客に対して不愛想であったり、顧客を友達のように扱っている振る舞いがある。ビジネスを行うプロに徹し切れていないと感じた。また、商品やサービスを買った際に、かずかずの納得いかない対応を受けた。ラオスの習慣かも知れないが、不愉快だった。

 

ラオスは内陸国でもあり、共産主義の社会だからかもしれないが、人々が閉鎖的にも感じた。共産主義や社会主義の国々は人々がお互いに監視し合っていると聞く。不審な人物や外国人との接触があればスパイ容疑をかけられる可能性があると聞いたことがあるが、ラオスはどうであろうか。

 

ラオス北部では当方がオートバイで村々や町々を通過する際に街角や家の中から人々がじっと当方を見つめる。子供たちは無邪気に当方に手を振ってくれるが、大人の態度は明らかに違った。

 

ファーサイ(タイとの国境)から首都ビエンチャンまでのラオス北部

 

ファーサイ(Huay Xay)~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・プラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)まで850kmの山岳道路では上り坂の連続の後は下り坂の連続が続く。

 

ラオス北部は深い山の中に位置している。入国した国境から首都ビエンチャンまで4日間山岳道路を走行する。 神奈川県の箱根に至る道路が数百キロメートル続くようなイメージだ。

この道路を通る車は中国から物資を運んでいる大型の貨物トラックが主だ。

 

大型トラックの駆動輪が登り坂のカーブで舗装面を削っている。 削られた道路は赤土がむき出しのダート化している。大型トラックが赤土のダートを走ると、赤土の煙幕をはられたように前が見えなくなる。

(タイ北部の集落。高床式の家や倉庫が多い)

(大きな荷物を背負って運ぶ女性。ラオス北部)

(ラオス北部山岳地帯の集落)

 

(ラオス北部の幹線道路)

(町全体がユネスコ世界遺産となっているルアン・プラバーン=Luang Pharabanの歴史的町並み)

 

ベトナム戦争の暗い影

 

町全体がユネスコ世界遺産(Unesco World Heritage)に登録されているルアン・プラバン(Luang Prabang)にUXO Visitor Centerという国連(UN)がサポートする組織の展示施設がある。

 

UXOとは不発弾のことだ。1964~1973にソ連と中国が支援する共産主義の北ベトナムとアメリカが肩入れをする自由主義の南ベトナムが戦争していた。南ベトナムを支援するため米国は軍事介入を行っていた。

北ベトナムは共産主義勢力が事実上支配するラオスを経由して南ベトナムにいる共産主義ゲリラに中国製やソ連製の武器を送り込んでいた。ラオス経由で武器を運ぶルートを当時ホーチミンルートと呼んでいた。

 

米国は北ベトナムからの武器補給を絶つため、ラオス国内で激しい空爆を行っていた。特に爆弾の中に数百の小型の爆弾が入っている殺傷能力が高いクラスター爆弾が不発弾とし約3億個ラオス国内に残っていると言う。

 

通常の爆弾が破裂した際に被害が及ぶ範囲は半径50m位と限定的だったのに対して、クラスター爆弾はサッカー場3個ぐらいの広さに被害を及ぼしたと言う。投下されたクラスター爆弾の3割は爆発せず、不発弾として残ったという分析がある。

 

子供が爆弾とは知らずに不発弾のクラスター爆弾を土の中から拾いだして、爆弾で遊んでいるうちに爆発して犠牲になったり、地中に埋まっている爆弾の上で焚火をして爆弾が破裂して犠牲者が出たりしているという。

 

国連(UN)は地元の組織共同して不発弾の撤去や不発弾の危険性を啓蒙する活動を行っている。

 

50年前に終わった戦争だが、今までの不発弾処理のペースだと全部処理するには100年ぐらいかかると言う。

(ベトナム戦争当時の米軍爆撃機B52)

(米軍から投下された不発弾)

(米軍から投下されたクラスター爆弾。テニスボールより少し小さな子爆弾が数百発入っている。)

 

ラオス南部地域

 

ビエンチャン(Vientiane)からタケーク(Thakehk)を経由してラオス第二の都市パクシ(Pakse)までメコン川沿いに約700km南下した。 

 

このルートは川の流れのように平坦で直線的な道路だが、舗装面が劣化してダート化した部分が多い。3km~5kmの距離ごとに50m~100mのダート部分があるイメージ。また、舗装の張り替え工事区間も多い。

 

山岳ルートよりは格段に走行し易くなった。山岳ルートでは肌寒く感じていたが、メコン川沿いのルートは乾燥して陽ざしが強い。

 

メコン川沿いの南部地域の民家は大きく北部山岳地帯より格段経済的に豊かに見えた。

 

北部の民族はベトナム戦争では米軍が支援した南ベトナム政府側を支援し、内戦時代には政府と敵対したことから、内戦終結後に懲罰的な意味で貧しい北部の山岳地帯に押し込められているとも聞いた。

 

パクシから200km程度南下すればカンボジアとの国境となる。ラオスからカンボジアへ入国するつもりだ。そしてカンボジアからタイへ再入国する計画をしていた。

(首都ビエンチャンの凱旋門はパリの凱旋門を模倣したと言う。)

(ラオス南部の農家は北部より大きく、裕福そうに見えた。)

 

(舗装道路だが赤土のためダート道に見える。ラオス南部の幹線道路)

(ラオス第二の都市パクシ=Pakseを流れるメコン川と日本の援助でかけられた橋。 この辺りはメコン川両岸がラオス領となっている。)

 

ラオスからカンボジア入国~アンコールワット見学後、首都プノンペンを経て最南端のタイとの国境へ 1,200km

 

ラオス南部の都市パクシ(Pakse)から約150km南にノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名の国境がある。その国境からカンボジアへ入国後、ストン・トレン(Stung Treng)~シエム・リープ(Siem Reap)=アンコール・ワットの観光地~首都プノンペン(Phnon Penh)を経てタイとの最南端の国境コー・コーン(Koh Khong)のルート辿る。

 

カンボジアの目当てはアンコール・ワット(Angkor Wat)の見学だった。また、ベトナム戦争当時やカンボジア内戦時のニュースで首都プノンペンの名を度々耳にしたのでプノンペンにも興味があった。

 

カンボジアについて当方は事前の知識が欠如していた。あまりにも無知だった。世界的観光地のアンコールワットがあるくらいだからラオスより豊かだろうと思っていたが、実態はその逆だった。

 

カンボジア入国時の税関職員の国辱とも言えるたかり体質にはうんざりした。公務員の職務を忘れて私利私欲に走る税関職員の対応には憤りを感じ、カンボジアに対するイメージが当初は一気に悪くなった。

 

他方、首都プノンペンではカンボジア経済の復興のシンボルともいえるカンボジア証券取引所を訪れた。証券取引所の職員から見学を薦められたカンボジア内戦時の収容所を訪れた。

 

ポーランドにあった第二次世界大戦時のナチスドイツよるアウシュビッツ収容所を5年前に見学したことがあったが、プノンペンの内戦時の収容所の方が冷酷、非人道的な収容所だと感じた。

 

後述するが、当時この収容所で何が行なわれていたか、説明を耳にすると吐き気をもよおしそうになり、気分が悪くなるぐらいショッキングな場所であった。

(カンボジア地図。赤線は走行ルート。地図上部はラオス方面。地図左側はタイ方面)

 

カンボジア入国手続きで難儀(Nong Noi Kheane/ラオス側~Trapaeng Kreal/カンボジア側)

 

カンボジアの国境検問所では、少し日本語を話す外見上は税関係官のような男が当方に声をかけて税関事務所へ案内する。

 

当方は税関史だと思ったが、後で税関とグルになっている民間人だと判った。 この男が、税関の部屋へ当方を案内して、税関係官の前で税関費用は70米ドル(約9,000円強)だという。70ドル米ドルはカンボジアの平均労働者の10日~2週間分の給与に匹敵する金額だ。

 

当方はその男へ、<米ドルは持っていない。持っているのはラオスのお金だ。>と言って財布の中身を見せると、その男は無造作に当方の財布からラオスの札を抜き取り、数えはじめた。当方が持っていたのは50米ドル程度(約7千円)のラオス通貨だった。 (米ドルの現金は緊急時用として持っているが、通常は秘密にしている)

 

当方は、<何をするか!他人の金を勝手に数えて>と、その男に文句を言いながら、お金を奪い返した。

そして、<税関にはお金は払わないし、払う義務は無い。税関は他国のように無料でバイクを通関させる書類を作成する義務がある>と持論を唱える。

 

その男は<一時輸入許可の書類を作成するための申請書を所定の形式でウェッブサイト上で作成せねばならない。その為の費用だ>と言うが、当方は<領収書を出せないお金は支払わない>とその男の要求をつっぱねる。そんな言い合いを繰り替えしたが、全く進展が無い。

 

当方が<日本大使館と相談する>と言い出すと、他の税関史が<上司が来るので待ってほしい>と言う。

しばらくして、税関長と名なる男が来て当方へ<税関では一切お金は請求しないが、自分で一時輸入許可書の作成の可否を審査する申請書をウェブ上で作成してください。その申請書に基づき、私が一時輸入を許可するかどうか審査します。>と言う。

 

< ええ?ウェブ上で申請書を作成する?>当方は数多くの国境を越えてきたが、そんな事は今まで聞いたこともやったことは無かった。

 

税関史は当方がどのように出るか伺っているようだった。そしてどこかへ行ってしまった。 当方はどのウェブサイトでどのようにするか判らない。他の税関職員も非協力的だった。 全員がグルになって事情に疎い外国人からお金を巻き上げることを考えているようだ。 

 

後日フェースブックの情報交換のグループ限定に投稿したら、<おれは税関で200米ドル払ったとか>、<40米ドルで済んでラッキーだった>とかとの反響があった。

事実、当方は米ドル紙幣を含む札束の金額を数えている税関職員を目撃した。その税関職員は当方が見ていることに気づき、お金を数えるのをやめて、当方から見えない場所行ってしまった。

 

ラオスのSIMで当方のスマホがインターネットに接続できたため、ウェブ上で申請書の記入を試みた。

しかしながら、手続きするウェブサイトが途中で止まり、申請書作成まで辿り着けない。そして、当方が文句を言い続けているのに対して、税関史は何か思ったのか<無料で申請書を作成する>と言い出す。

 

当方はビザ代(35米ドル)以外のお金は払わなかったが、この国境検問所を通過するのに3時間弱かかってしまった。 

 

税関職員を含むここで働く職員は暇を持て余し、スマホでゲームに興じたり、飲食や仲間とのおしゃべりで時間をつぶしていた。また、税関長は国境検問所に詰めているのでではなく、自宅にいる様子だった。

 

職員が必要な時にバイクで税関長宅へ行き書類の決済を仰いでいるようだ。このような税関職員の勤務状況で、この国の発展は大丈夫だろうかと疑ってしまう。

 

カンボジア側の入国手続きに時間がかかったため、国境から一番近い70km先の町へたどり着くまでに日没となり、車の通行がほとんどないダート道を2時間程度かけ埃まみれになりながら、ストン・トレン(Stung Treng)の町へ到着した。 

 

(カンボジア側の国境検問所建物。カンボジア側の道路は70km先までダート道だった。)

 

カンボジア観光の一押し。アンコールワット(Angkor Wat)遺跡群の見学

 

シエム・リープ(Siem Reap)と言うカンボジア入国2日目に到着した町の近郊に、ユネスコの世界遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡群が数キロメートルの広い範囲で点在している。

 

アンコール・ワット遺跡群は広範囲に点在しているため、オートバイは重宝した。

普通の観光客はタクシーや2人掛け乗用キャビンを牽引するバイク(Tuktukと言う乗り物)等を雇わねければ遺跡群を回れないほど広い。

 

アンコール・ワットは12世紀から約600年栄えたクメール帝国の城塞都市として機能していた。遺跡の周りには水を入れた広い外堀を張り巡らせ、本殿の周りには頑丈な石造りの外壁を備えて外敵の侵入を難しくした。

本殿の上階には石造りの大きなスイミング・プールのような施設が数ヶ所あった。いざと言う籠城時の水の確保かハレームでの水浴に使ったのだろう。 粗づくりの石造りの遺跡ではあるが、その規模には圧倒される。

 

アンコール・ワットの他にも日本政府の資金援助で修復中のアンコール・トム(Angkor Thom)や長い年月で樹木の根が遺跡に絡まったプラサット・タプロー(Prasat Ta Prohm)等を見学したが、規模や保存状態ではアンコールワットに及ばない。 

(アンコールワットを外堀から眺める。)

 

(アンコールワットの遺跡群はこのような森の中に点在する。)

 

(日本の援助で修復中のアンコールトムの遺跡)

(アンコールワット王朝時代の服装)

 

(長い年月を経て樹木の根が遺跡に絡みつくプラサット・タプロー遺跡)

 

首都プノンペン(Phnon Penh)の内戦時代の収容所博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)

 

カンボジア証券取引所で面談した若手の職員にカンボジア内戦時代の収容所が博物館になっているので是非見学したらよいと薦められた。博物館の名前はトウール・スレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)と言うショッキングの名前だった。

 

カンボジア内戦は1970年代初頭から1991まで続いた。

クーデターで政権を握った親米右派のロン・ノル(Lon Nol)将軍率いる政権に対して、ポル・ポト(Pol Pot)率いる親中国の共産主義クメール・ルージュ(Les Khmers Rouges)とクーデターで政権から引き下ろされたシアヌーク(Norodom Sihanouk)国王派が共同して戦ったことから始まった。

 

最初の内戦ではロン・ノル将軍派が負けて、ポル・ポト派のクメール・ルージュが勝ち、クメール・ルージュがカンボジアを支配した。

 

この支配が恐怖政治の始まりで、クメール・ルージュが首都プノンペンで政権を握った1975年から1979年の間に170万人とも言われる主に都市部の知識人がポル・ポト政権のクメール・ルージュ派により大量虐殺された。

 

ポル・ポト政権は当時の中国の文化大革命の影響を受けて、農業を中心とした原始共同社会を造ろうとした。原始農業共同体に医者、教師、弁護士等の知識人は邪魔だった。都市部の住民は農村へ強制移住させられ、知識人と言う理由だけで強制収容所に入れられ多くの人が拷問の上、虐殺されたと言う。

 

見学したトウール・スレン(Tuol Sleng )収容所は元高校だった建物だった。そこに12,000~20,000名の人々が収容され、確認された生存者は12名だったと言う。同様の極秘の収容所は200か所あったと言う。

 

クメール・ルージュは1979年に反中国のベトナム軍によりプノンペンから追い出され、ベトナムが支援する親ソ連のヘン・サムリン(Heng Samrin)が政権に着いた。

 

しかしながら、親ソ連(=親ベトナム)のヘン・サムリン政権は国際的に承認されず、カンボジアの辺境地に逃れたポル・ポト派(クメール・ルージュ)がカンボジアの正式政権として国連(UN)を始め主要国で認められていたと言う。

 

1991年にカンボジアで和平が成立するまで、サン・ヘムリン派に対してクメール・ルージュとシアヌーク国王派等が連合政権を作り、内戦を展開していた。 つまりカンボジアは1970年~1991年までの20年間内戦状態だった悲惨な歴史がある。 

 

内戦を長引かせた理由はソ連と中国の対立、更にソ連と米国との対立があり、カンボジア内戦の当事者達はそれぞれの大国の支援で大国間の代理戦争を展開していたとも言う。

(後ろ手に縛り鉄棒につるし上げる拷問。拷問を受けた人が気絶すると糞尿が入っている瓶に頭を入れられて覚醒されたと言う。)

(高校の教室を使った独房)

 

(拷問を受けた人を運ぶ看守たち。この絵は元画家だった生存者が当時の様子を描いた。)

(人骨は収容所の証拠品として展示されている。)

 

近隣諸国との経済格差は歴然

先にタイからラオスへ入国した時には時代が数十年後戻りして、アフリカ諸国に入ったような印象をうけたが、そのラオスからカンボジアへ入国すると、カンボジアが更に経済的に遅れていることが直ぐに判った。

 

入国したカンボジア国境から一番近い主要都市のストン・トレン(Stung Treng)までの70kmは未舗装のダート道であった。主要都市につながる幹線道路がダートとはアフリカの最貧国と同じだ。

 

アンコールワットがあるシエム・リープ(Siem Reap)と首都プノンペンをつなぐ主要幹線道路にはそれなりの交通量があったが、ストン・トレン~シエム・リープのような地方の幹線道路では車の数はまばらで、自動車が全く普及していないことを示していた。

 

農業人口が多い地方では当方が30年前のタイ旅行時に地方で多く見た耕運機に運搬車を牽引させた運搬車に農作物や人々を載せ運んでいた。ラオスでは見かけた小型ピックアップトラックやトラクターはほとんど見かけなかった。

 

交通量が少ないので当方のバイク・ツーリングは快適だったが、農作物の運搬を始め、人々の暮らしが厳しいことを物語っていた。

 

因みに2021年の統計ではタイの一人当たりの国民所得=年間収入(GDP)は約7,200米ドル(約75万円)、ラオスは約2,600米ドル(約27万円)、カンボジアは約1,600米ドル(約17万円)となっている。日本の一人当たりのGDPは約40,000米ドル(約420万円強)だった。

(地方幹線道は交通量が極めて少なかった。)

 

(カンボジア中部の湖の水を利用して灌漑した広大な水田)

(幹線道路沿いの売店で休憩。左側の車両は中長距離旅客用のミニバス)

 

町の人々は親切だった

入国時の税関職員の態度から受けたカンボジアの印象は悪かったが、町の人々は親切だった。

プノンペンの宿ではオートバイを路上駐車していたが、宿の従業員が夜には当方のバイクを宿の店舗内に運び込み、また朝には店舗からバイクを路上へ出だしてくれた。少し骨が折れる作業を黙々としてくれた。

 

カンボジア証券取引所で面談した職員は前日にメールでアポイントをお願いしたら、即答してもらい面談が可能となった。カンボジアの事について歴史や地理等いろいろ教えてもらった。

 

コー・コン(Koh Khong)の宿では、カンボジア最後の夜とあって、手持ちの現金があまりないと当方が宿の管理人へ伝える宿代を約3割値引いてくれた。

 

バイクで立ちごけした際には、通りすがりの人が助けにきてくれた。助けてくれたカンボジア人は当たり前のことをしたかのように、当方がお礼をいう前にさっさと立ち去った。

 

20年余りにわたる悲惨な内戦を経験したからこそ、相互扶助の精神が強いと感じた。また挨拶もしっかりしている。当方が声をかけても、必ず笑顔で返事が返って来る。外国人慣れしているともいえるが、町の人々は気持ちがオープンとの好印象を持った。

(コー・コン=Koh Khongで宿泊した宿)

 

ベトナム・ レンタルバイクで1,800km

 

ハノイ(Hanoi)~北部ハザン・ループ(Ha Giang Loop)~ラオ・カイ(Lao Cai) 約800km

自分のオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送している期間を利用して年末から約2週間の予定でハノイを中心としたベトナム北部地域へ行くことにした。

 

ベトナムには当方が高校生頃に終わったベトナム戦争や社会主義国家でも市場経済と外国資本を招きいれた開放経済を取り入れたベトナムの経済発展に興味があった。しかしながら、日本等の外国籍のオートバイで走行するには地元のガイドと特別な許可が必要であり、ハードルが高い。

 

そのような理由で、ベトナムは当方のツーリング計画には無かったが、現地でレンタルバイクを利用したツーリングなら可能だ。 ただし、ベトナムは国際運転免許証についてジュネーブ条約締結国でないため、日本の国外運転免許証(International Driving Permit)は有効でないが、バイクレンタル業者は何も言わなかった。

 

ハノイから中国と国境を接するハザン県(Ha Giang)にある約300kmの山岳部の周回ルート(Loop)上では石灰岩の浸食が作り出したカルスト地形の絶景が観られる。その絶景はユネスコの世界遺産にも登録されている。 バイク・ツーリングでは一押しのルートだ。

(ベトナム地図上の赤線は走行ルート)

 

ハノイ(Hanoi)~ハザン(Ha Giang) 約300km

ハノイでYAMAHA製の135ccのスクーターを1日10米ドルで借りた。ハノイ市内のみのレンタルバイクの利用ならもっと安いのだが、遠距離での走行はプレミアム料金がかかる。 

 

ハノイでのオートバイの運転マナーは当方がツーリングした東南アジア6か国で一番悪かった。 

信号無視、逆走は当たり前ながら、当方が直進する所に前方から来るオートバイが当方の前を横切り左折する。非常に危ない運転マナーである。また、対面通行の道路を車もオートバイも逆走していたため一方通行の道路と勘違いした。インドネシアのスラバヤでも、オートバイの運転マナーはこれほど酷くなかった。

 

ハノイから100km位遠ざかると道路の交通量が減り、やっと地方道を走行している感じになる。正月直前の道路に国旗の横断幕を付けた飾り付けが通過する町々であった程度の記憶しか残らなかった。

 

ハザンの町が100km程度に迫ると周囲の景色が変わってきた。平地から突然そびえ立つ小山が多くなった。石灰岩の地層が長い年月の風雨で浸食されたためだろう。 300kmの道のりながらハノイから8時間近くかかってハザンの町に到着した。

(首都ハノイの証券取引所建物)

 

(首都ハノイの道路には多くのバイクが走っていた。)

 

(ハザンの手前100kmぐらいになると山の景色となる。ハノイで借りたスクーターでツーリング)

 

ハザン・ループ(Ha Giang Loop)1泊2日の走破(約300km)

全長約300kmのハザン・ループ(周回道路)は狭い山岳道路である。深い山の中には山腹を段々畑にして農業で生計を建てている人が多いのだろう。山里の集落の民家はどれも小さい。

 

中伊豆の山岳地帯のような狭い道だ。小型のマイクロバスや土砂を運ぶ大型ドラックも通行するが、ほとんどは地元の人が小型オートバイで通るか、観光客がレンタルした小型バイク位しか通行しない。くねくねした登り坂のカーブを突き進むと視界が広がり、雲がかかった山々の姿が見える。深さ数百メートルの断崖を眺めると足がすくむようなところもある。

 

当方は周回ルート(ループ)の中間地点であるバン・バン(Bang Van)の町で一泊したのみだった。

 

バン・バン(Bang Van)の町では宿探しに苦労した。

やっと見つけたゲストハウスは古く、暖房設備も無い所だった。その割には割高な価格を提示してきた。  

バン・バンは中国との国境近くの山岳地帯で暖房設備が必要なほど夜間は冷える。暖房設備が無い部屋では当方が吐く息が白くなるほどだった。

 

周回道路のツーリング2日目になると風光明媚な絶景にも目が慣れて、多少の事では驚かなくなるが、ハノイから一般道路を丸一日かけて訪れる価値が十分あった。

 

(ハザン・ループの山岳道路)

 

(高さ数百メートルの切り立った崖)

 

(地面から生えたような山々)

(寒かったバン・バン=Bang Vanの町)

 

ハザン(Ha Giang)~ベト・クアン(Viet Quang)~ラオ・カイ(Lao Cai)180km 

ハザン・ループの後は、ラオス国境に近い北部山岳地帯のサパ(Sapa)を目指すことにした。

サパには複数の山岳民族が集まる市場が(Market)がたつと言う。 しかし考えが甘かった。

サパはハザンより標高が高く、冬場に雪が降る山もあると言う。 

 

サパの手前のまだ標高が高くない平地のラオ・カイ辺りで、持っていた服を全部着込んでも夕方のオートバイ走行は寒い。

 

結局サパへ行くことをサパ手前40km~50kmで断念。より暖かい南東方向(ハノイ方向)へと進路を変更した。

 

このルートで通過した集落や町の民家は立派だった。3階建ての家もある。茅葺屋根の新築民家でも大きい。日本の県道クラスの地方道はしっかり舗装がされ、一般道から奥に進む農道のような道路でもコンクリート舗装がしっかりと施されていた。この豊かさはどこからくるのだろうと思った。

 

ラオ・カイ(Lao Cai)の町は県庁所在地だけあって、町の規模が大きく、東南アジアの国とは思えないほど立派なビルや商店が建ち並んでいた。

(田舎の真新しい大きな民家)

(このぐらいの規模の民家は多かった。)

(ラオ・カイ中心部の大きなロータリー)

 

ラオ・カイ(Lao Cai)~ホア・ビン(Hoa Binh)~ニン・ビン(Ninh Binh) 

ラオ・カイからホア・ビンまででも約300km強の距離があるので、一般道での走行は一日がかりだ。

 

ホア・ビン(Hoa Binh)はホア・ビン県の県庁所在地でハノイにも通じる紅河(Red River)沿いの町だった。このあたりはハノイからも100km程度の距離となり、主要な都市も点在しているためか交通量が多くツーリングを楽しむと言うより単なる移動のためのツーリングだ。

 

ホア・ビンの周辺ではまだ肌寒いのに、水田では田植え準備が進んでいた。

 

ニン・ビン(Ninh Binh)で宿泊したホテルは家族経営の感じが良い小さなホテルだった。その一角は10年ほど前に区画整備され、観光客誘致を主眼に開発されたと聞いた。

同じく区画には5~6階建ての似たようなホテルが多数あった。 ベトナムの町とは思えないような西洋風のビルと大型住宅がある場所だった。

 

ニン・ビンの町自体には観光スポットはあまりなかったが、周辺には平地から垂直に立つ奇岩の山々が多く思わず目を見張った。ニン・ビン周辺は小さな河川を利用した水路が発達している。その水路を観光にも利用している。

昔ながらの手漕ぎの小型船に観光客を乗せて、周囲の奇岩の山々を見物しながら水路・運河でのちょっとした船旅気分を与えてくれる。

(ニン・ビンへの入口門)

(ニン・ビン郊外の河川。観光用の手漕ぎ船に乗って景色を楽しむことができる。)

 

(ニン・ビン郊外には地面から生えたような小山が多い。)

 

ニン・ビン(Ninh Binh)~ハイ・ホン(Hai Phong)~ハロン湾(観光船ツアー)Ha Long Bay~ハノイへ戻る(350km)

ハノイ周辺100km圏内は人口密度過密地帯でもあり、産業の集積地でもある。 ハノイの西約100kmに位置するハイ・ホン(Hai Phong)には外国資本が多く進出する工業団地があると言う。

 

実際にニン・ビンからハロン湾へ通じる道路走行中に大手韓国企業の工場を目にしたり、現在造成中の工業団地を目にした。

 

この地域に来たのはベトナム北部では観光地として有名なハロン湾の奇形岩群を見るためだった。約70~80名ぐらい乗船可能な3階建ての観光船で洋上に点在する奇岩群や海上からそそり立つ島々ある海域を約6時間航行する。途中2つの島にも上陸して石灰岩が作り出した鍾乳洞を見学する。

 

最初の1時間は奇岩や海底から垂直に盛り上がったような島々に感動したが、どの島々を見ても違いが判らず最初の感動が少しずつ薄れていく。3時間ほど経過すれば、どの島を見ても同じようにしか見えず、景色に飽きた。

 

ベトナムは思っていたより広かった。 

ベトナム北部地区を10日でツーリングした距離は1,800km弱となった。

北部のハノイから南部のホーチミン市までの直線距離は1,100kmと東京から長崎までの距離に匹敵する。ベトナム南部までオートバイ足を延ばすとすれば1ヶ月でも足らないかもしれない。

 

 

(ハイフォン郊外の大手韓国自動車メーカーの工場)

 

(ハロン湾に浮かぶ奇岩群)

 

(ハロン湾と観光船)

 

以上

東南アジア総集編(前半)マレーシア・インドネシア・タイ 7,200km

 

(赤線が2022年9月~2023年7月のアジア・中近東ツーリングの実際の走行ルート。紫色は2017年5月~2018年7月のユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断ルート。ブルー色の線は2019年5月~11月のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断ルート)

 

何故マレーシアから出発したか?と問われれば、出発したタイミングと輸送コストが起因する。

 

当方は当初トルコのイスタンブールからイラン・パキスタン・インドを経て東南アジアへ至り、インドネシア・東ティモールを経てオーストラリアへ至るツーリングルートを描いていた。

 

しかしながら、コロナ禍で海上輸送がコンテナー不足や港湾での貨物の停滞、船腹の不足等で混乱して、輸送業者は中古オートバイのような個人貨物の取扱いを敬遠していた。

 

そのため、海上運賃の見積もりを入手するまでに数ヶ月の時間を要し、トルコへ輸送するには季節的に遅くなってしまうことが影響した。トルコおよびイランの冬場は道路が凍結するため、冬季の走行は避けなければならない。

 

オーストラリアへの輸送も検討したが、輸送業者がなかなか見つからないこと、オーストラリアへ中古オートバイを海外から持ち込む際の輸入コストがスチーム燻蒸消毒等を含む業務のため割高になること、更にオーストラリアから東ティーモールへ渡る際の海上輸送業者が見つからなかったため諦めた。

 

結局、マレーシアのポートケラン(Port Kelang)へオートバイを海上輸送して、同地からツーリングをスタートした。

 

計画した走行ルートは東南アジアからインドへ抜けパキスタン・イランを経てトルコのイスタンブールを目指す。イスタンブール到着後は3つの選択肢を用意した。

 

第一の選択肢はドバイまで南下してオーストラリアまでオートバイを輸送して、オーストラリアから帰国すること、第二はイスタンブールからジョージアを経てロシア・ウラジオストックまで行き、フェリーで韓国経由帰国すること、最後の選択肢はスペイン等欧州まで行きオートバイを同地で一時的に預ける、あるいは同地から日本へ送り返すことだった。

 

結局、スペインのマドリッドがツーリングの最終地点となり、同地から日本へオートバイを海上輸送にて送り返すことになったが。

 

更に、未解決な課題があった。閉鎖中のミャンマーの陸路国境がいつ再開されるかだった。

陸路国境が開けば、タイからミャンマーを経由してインドへ入国できる。しかし、国境が閉鎖されたままだと、オートバイを東南アジアからインドへ海上輸送するか、ネパールへ空輸せねばならない。

(当初計画したアジア・中近東・オーストラリアの走行ルート(案)。タイからインドへミャンマー経由陸路で移動する計画だったが、結果的には実現できなかった。)

 

結果的にはミャンマー国境は閉鎖されたままで、タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送した。その時点で当初考えていたイスタンブール到達後ドバイ経由オーストラリアへ渡る選択肢は時間的に難しくなった。

 

東南アジア6カ国ツーリング中の前半はマレーシア、インドネシア及びタイだ。後半はラオス、カンボジア、そしてベトナムとなる。 インドネシアとベトナムはレンタル・バイクを使用してのツーリングだった。

 

前半は自由主義国家群であり、東南アジア諸国の中では経済が開放された国々で、人々も外国人に対してオープンで、外国人観光客を歓迎してくれる。

 

他方、後半の3カ国は社会主義だが市場経済主義を採用して経済発展に繋げようとしている。社会主義体制のためか、あるいは市場経済主義を導入しているが歴史が浅いためか、人々は閉鎖的である印象をもった。

 

マレーシア 1,900km

(マレー半島のマレーシア走行ルート=赤線)

 

首都クアラルンプール(Kuala Lumpur)に隣接するポート・ケラン(Port Kelang)

にて輸入手続きをした。当方が空路クアラルンプールへ到着後5日目にオートバイを引き取ることができた。その際の輸入手続きは比較的にスムーズであった。

 

マレーシアは高速道路網が発達していた。そして、オートバイの通行は無料となっていた。

当方は未舗装のダート道でも問題なく走行できるようにと250ccのオフロードタイプのオートバイでツーリングしたが、マレーシア及びその後のタイでも大型のオートバイの方が道路事情には適していると思った。 

 

マレー半島を2回に分けて合計1,900km走行した。

 

ポート・ケランからマレーシア領ボルネオ島へは貨物のみを運ぶフェリー船が2週間に一回ぐらいとあるようだった。しかしながら、輸送するタイミングが合わないと日時がかかりすぎることと、更にフェリー船の貨物運賃が高いことを事前の調査で知った。そのため、マレーシア領ボルネオ島へ渡ることは諦めていた。

 

前半はクアランプールからマレー半島を南下して、マラッカ(Malacca)~ジョホールバール(Johor bahru)~クアンタン(Kuantan)~クアラルンプール(Kuala Lumpur)へと戻った。

 

このルートで印象に残ったのはマラッカだった。マラッカは15世紀にポルトガル人が入植後、オランダそしてイギリスの植民地となった歴史があり、その歴史的建物が良く保存されていた。西洋諸国のアジア進出の歴史が刻まれた場所であり、またインド人街や中国人街も残っているので旅情が味わえる港町だった。

 

逆にがっかりした場所としてはジョホールバールである。マレーシア第二の都市であるが、同地で宿泊した宿のオーナーに<ジョホールバールはシンガポールへ通勤する人のベットタウンであり、見るべきものはあまりない>と教えられたが、その通り見るべきものが無い都市だった。

 

後半はクアラルンプール~キャメロン・ハイランド(Cameron Highlands)~ペナン島(Penang)~コタバル(Kota Bharu)の約1,000kmで、タイへ入国するまでのツーリングであった。

 

キャメロン・ハイランドは高地であったため、熱帯のマレーシアでも毛布が必要な位寒かった。キャメロン・ハイランドは涼しい気候を利用した茶の栽培やイチゴの栽培が盛んであり、お茶栽培のプランテーションを見学した。

(マレーシアのポート・ケラン港の輸入倉庫でオートバイを引取り後、ツーリングを開始する。)

 

(クアラルンプール郊外のプーチョンの幹線道路)

 

 

(マレー半島の地方道)

(マラッカ海峡に面するマラッカ市の海へ通じる運河)

 

(マラッカ市のインド人街)

 

(15世紀にポルトガル人がマラッカへ上陸した当時の想像絵)

 

(インド洋に突き出たマラッカの海上モスク)

 

(ユーラシア大陸最南端のタンジュン・ピアイ=Tanjun Piai。沖合のかなたにはシンガポールの港が見えた。)

(マレーシアのオートバイライダーの集団)
 

(キャメロン・ハイランズのお茶畑で茶葉を袋につめる労働者)

 

ペナン島とマレー半島の間には2つの橋が架かっていた。

第二ペナン大橋の長さは十数キロメートルの長さに及ぶ。オートバイは幅2.5mほどの左右をコンクリートの製の低い壁に囲まれた区間を走行するため時速80kmでの走行では、通行帯が非常に狭く感じられて、橋から海上の景色を見る余裕はほとんど無かった。

 

ペナン島では、観光地から離れた島の西側にあったゲストハウスに投宿した。島の西部地域はあまり観光化されておらず、人口も少ない。また、物価もジョージタウンより安い場所であったので気に入った。

 

ペナン島の後はタイへ入国するためにマレー半島を横断して、半島の東部コタバルへと移動した。外国籍車両を使ってタイへの入国は2019年ごろから法律によって規制されていた。

 

同規制では外国車両を使って入国する場合はタイ人のガイド同伴と事前の許可が必要とのことだったが、規制が徹底されていない入国管理事務所があった。

 

規制が徹底されていない国境の一つはコタバルからタイへ入国するルートだった。

(ペナン島西部の高地より西側の海岸地帯を見晴らす。)
 

(ペナン島南部の海岸と漁船)

(世界遺産ペナン島のジョージタウンの旧市街の歴史的建物群)

 

(マレーシア半島北部を横断してコタバルへ向かう途中の高地。夜間は野生の象が道路を横断すると言う。)

 

タイ 3,200km

前述したように外国籍車両でのタイ入国には規制が導入されていたが、国境検問所によっては規制が徹底されておらず、従来通りタイのガイド無しでも入国が可能だった。

 

当方はタイのパタヤで長年オーバーランダー向けのゲストハウスを経営するイギリス人と事前に連絡を取り合い、同イギリス人にタイのオートバイ保険と入国時の書類をそろえてもらい、マレーシアのコタバルからスンガイ・コロク(Sungai Kolok)国境からタイへ入国した。

 

その後、細長いマレー半島を北上してバンコクを目指した。マレーシア国境からバンコクまで1,300kmと比較的長い直線的なルートだった。幹線道路は片側2車線のハイウェイであり、高速での移動が可能だった。

 

道路沿いの大きな仏教寺院や仏像を頻繁に目にしてイスラムの国(マレーシア)から仏教国へ入ったという実感が湧く。当方は見学を兼ねて仏教寺院を訪問して、旅の無事を祈念した。

 

タイでは親切な人々に出会った。連日のオートバイツーリングで疲れがたまり、休憩を兼ねて道路わきの食堂でスープのみを求めたら、スープ代は無料でいいと言ってくれた食堂のおかみさん、休憩したドライブインで土産用のカットフルーツを<持って行け>とくれた土産屋の店主、多くのゲストハウスでは室料金を割り引いてくれた宿のオーナーの人々等。

 

首都バンコクはタイにしてタイにあらずとの印象を持った。当方がバンコクを観光で訪れたのは1980年代末であった。その当時はバンコクにはさほど多くの高層ビルは無く、高架の高速道路も無かったと記憶するのんびりとした時代だった。

 

しかしながら、現在のバンコクのビジネス街は働く人々も、オフィースビルも東京都心のビジネス街と変わらず、休憩時にはスターバックスのコーヒーを片手に持ち急ぎ早に歩いているOLの姿を多く見かけた。

 

それもそのはずで、バンコク首都圏の一人当たりの国民所得(GDP)は他県の2倍ほどの17,000米ドル(200万円~230万円)と日本の1980年代と同じレベルになっている。

 

バンコクからタイ内陸部を経てタイ北部を目指した。走行ルート上にはアユタヤ(Ayuthaya)、スコタイ(Sukhothai)やチェンマイ(Chiang Mai)等タイを代表するような観光地があり、当方は世界遺産を巡る等の観光をした。

 

アユタヤとスコタイの間のナコン・サワン(Nakhon Sawan)ではガイドブックに載っていない寺院を宿の主人に勧められて訪れた。その寺院Wat Sri Uthumpornは当方が見た限り、寺院の内装がタイで一番絢爛豪華に施されていた。寺院というより王宮のような内装だった。

 

感心したのはラオスとの国境に至る道路インフラが立派なことだった。当方の経験では国境近くの辺境地の道路は,多くの場合、舗装がはがれたり、未舗装のダートのダタガタ道であった。

しかしながら、国境に通じるチェン・コーン(Chiang Khong)への道路は他の主要幹線道と同様に片側2車線の立派なハイウェイだった。

 

当方はチェン・コーンからファーサイ(Huay Xay)国境を経由してラオス(Laos)へ入国した。

 

その後、ラオスとカンボジアを経てコー・コン(Koh Khong)国境経由タイ南部へ入りパタヤを経てバンコクへ戻った。そしてオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送した。

 

バンコク以北のタイの走行ルート)

 

(タイ南部の道路沿いには高さ20m程度の大きな鶏の像が立っていた。鶏を祭った寺院も多かった。)

(首都バンコクのビジネス街の高層ビル群)

(バンコクの商業地区)

 

(タイ中部スコタイの世界遺産の仏教遺跡)

 

(アユタヤの仏教遺跡群の中に木の根にうずもれた仏頭があった)

 

(ナコン・サワンのWat Sri Uthumporn)

(Wat Sri Uthumpornの内部装飾)

(チェンマイへ向かう途中に出会ったタイ人の68歳のシニア・サイクリスト。タイ一周ツーリング中と言っていた。)

 

(ドライブインの土産物店のオーナーと同オーナーがくれたカットフルーツ)

(パタヤでお世話になったイギリス人が経営するゲストハウス)

 

(バンコクの港からムンバイへ海上輸送する当方のオートバイ)

 

インドネシア(レンタルバイクにて2,200km

 

インドネシアには約4週間滞在した。11月には雨季が始まるため、マレーシアで一週間程度のマレー半島南部をツーリングした後、自分のオートバイをクアラルンプールのオートバイ店に預けて、防水バックパックに最小限の荷物をいれて10月初旬にまずバリ島へと飛んだ。

 

インドネシアのビザ(アライバル・ビザ)の滞在期限は1ヶ月のため、一週間づつバリ島、スラウェシ島南部、ジャワ島東部とジャワ島中西部の4地域に分け、それぞれの地域で120ccクラスのスクーターを借りてミニツーリングをした。 ただしジャワ島中西部は移動距離が長いため、レンタルバイクではなく鉄道を利用したバックパックの旅であった。

 

インドネシア全島をカバーするバイク(オートバイ)のレンタル業者は無く、島ごとあるいは地域ごとにバイクを借りた。ただし、レンタルバイクの業者を探すため、それぞれの地域で丸一日費やした。これにはなかなか骨が折れる。

 

バリ島はリゾート地として世界中に知られているが、州都があるテンバサル(Denpasar)周辺以外は意外と素朴な場所であり、レンタルバイクでも景色を見ながらゆったりバイクツーリングを楽しめる場所だった。

 

全島一周で約500kmの距離があり、一日の走行距離を約100km~150kmとして、デンバサル(Denpasar)~アメッド(Amed)~ロビナ(Lovina)~メデウィ(Medewi)~ウブド(Ubud)~クタ(Kuta)の

順に宿泊した。

 

乾季と言えども午後3時ごろには雲行きが怪しくなり、ほぼ毎日夕立が降る。夕立を避けるため、午後3時ごろまでには目的地に到着できるようにした。

 

バリ島北部のアメッドからロビナ区間の一部では海岸沿いの丘陵地を通る道路を走行する。このルートは静岡県の西伊豆を小規模にしたような風景が広がり、当方は気に入った。

 

ウブドとクタは州都デンバサルの周辺地域とあって、観光客が多く道路も渋滞しているので当方の好みの場所ではなかった。

 

スラウェシ島南部はあまり観光された地域では無く当方は気に入った。当方はレンタルバイクで約1,000kmとインドネシアのツーリングでは最長距離を走行した。

 

走行ルートは州都のマカッサル(makassar)~パレパレ(Parepare)~タナトラジャ(Tana Toraja)~シワ(Siwa)~シンジャイ(Sinjai)~マカッサル(Makassar)。

 

観光ガイドブックにはあまり多くの場所が紹介されていない分、タナ・トラジャ以外は外国人観光客は見かけなかった。当方が走行した南部地域の東側海岸沿いは田植え中の田園や畑が多く、カラフルな色の民家が建つ牧歌的な場所でインドネシアらしく感じた。

 

親切な人々とも出会った。レンタルバイクが道路上でガス欠になった時にペットボトルにガソリン入れて持ってきてくれた少年、夕食をごちそうしてくれた3人姉妹が経営する食堂等良い思い出となった。

 

他方ジャワ島東部をツーリング中には嫌なハプニングもあった。Booking.Com等のオンラインの大手宿泊予約サイトで予約した宿で予約料金の2倍の宿泊料を支払わないと宿泊させないと言われ、予約を反故にされ、もめた。 

 

ジャワ島東部ではスラバヤ(Surabaya)~ポロボリンゴ(Porobolingo)~バンユーワンギ(Banyuwangi)~ジュマジャン(Jumajang)~スラバヤと約700kmの周回ルートを走行した。

 

ジャワ島東部は交通量が多く、大型トラックも多いため、道路の舗装面がデコボコで走行しづらかった。

赤道直下の地域でも雨上がりの山の裾野の森林地帯はヒンヤリとして夏のライダーズジャケットでは寒く感じられた。

 

スラバヤからジャワ島中部のジョゴジャカルタ(JogYakarta)を経て首都ジャカルタ(Jakarta)へは鉄道を利用して移動した。スラバヤからジャカルタまで約800km弱ある。東京から広島ぐらいの距離だ。

 

仮にレンタルバイクで移動したら借りた場所にレンタルバイクを戻すため往復の距離となる。小型スクーターで一週間で移動できる距離ではない。

 

ジョグジャカルタ(JogYakarta)は落ち着いた感じの町だった。目抜き通りは西洋的なプロムナード(街路樹がある通り)となり、観光客でにぎわっていた。JogYakartaでは近郊の仏教遺跡を見学するためにスクーターを借りてミニ・ツーリングをした。

 

ジャワ島はインドネシアで一番人口密度が高い島だったが、当方の想像に反して都市部を除いては人口密度は高いと感じなかった。鉄道沿線沿いには広大な平原や農地が広がり、大陸的な景色が広がっていた。

 

ジャカルタはインドネシア第二都市のスラバヤの比では無く、商業地やビジネス街には高層ビルが樹林する大都市だった。また地下鉄もある。

 

インドネシアは原油、石炭、ニッケル等を地下資源豊富な国だ。経済(GDP)は過去10年年率約5%で成長していた。人口はアセアン諸国の半分以上を占め、平均人口は30歳と若く、巨大な消費マーケットだ。

 

この巨大マーケットをにらんで多くの多国籍企業がインドネシアへ進出している。日系企業でも製造業を中心に約1,500社がインドネシアへ進出していると聞く。

(バリ島の走行ルート=赤線)

(アメッド=Amed近くの棚田)

 

(アメッド=Amedの宿から見た付近ののどかな風景)

(国際リゾート地のバリ島レギャンの海岸)

(スラウェシ島の走行ルート=赤線)

 

(スラウェシ島州都マッカサル=Makassarの夕方の通勤ラッシュ時の様子)

(マッカサルからパレパレ途中の道路沿いには養殖池が多かった。)

(ガス欠になりペットボトルにガソリンを入れて持ってきてくれた少年と母親。)

(タナ・トラジャの神殿は海を渡ってきた先祖を祭って船の形をしている。)


(スラウェシ島の小学校の校舎の壁は青色に塗られていて目立った)

田植え直後のスラウェシ島の田園地帯)

(スラウェシ島内陸部の棚田)

(ジャワ島の地図。赤線の東部の周回ルート700kmを走行した。)

(ジャワ島の活火山ブロモ山=Gunung Bromo)


 


(雨上がりに寒かった樹林帯)

(水路沿いの農地)

(がけ崩れのため、臨時の迂回路では川渡の部分もあった。)

(ジャワ島の古都ジョグジャカルタのプロムナード)

(ジャワ島中部の仏教の最大遺跡ボロブドウール=Borobudur)

(首都ジャカルタのビジネス街)

(首都ジャカルタの地下鉄)

以上

イスタンブールからスペイン・マドリッドまで9日間で約3,800km走行(7/57/14

 

個人的な都合で急遽日本へ帰国せねばならなくなった。介護施設に入居中の高齢の母が、看取りの状況になったとの連絡を受けたからだ。

 

イスタンブールからオートバイを日本へ送り返すため、イスタンブールの輸送会社数社へコンタクトを試みたが、やはり返答がない。

 

昨年春に今回のアジア・中近東ツーリングを計画した際にも、当初日本からイスタンブールへオートバイを海上輸送しようと考え、イスタンブールのフォワーダー数社へ電子メールで問い合わせをしたが、一切返事が無かった。 

 

2019年春にアフリカツーリングの出発地として日本からスペインのバロセロナに当方のオートバイを海上輸送した。その際バロセロナの港で輸入手続きでお世話になったバロセロナの輸送会社を頼るため、最短距離でイスタンブールからスペインのバロセロナまでオートバイを走らせることにした。

 

トルコ・イスタンブール~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランスを通過するルートがバロセロナまで最短距離となる。約3,000km強の距離だが、約一週間で到達できる距離だ。

 

(トルコ・イスタンブールからマドリッドまでのルート地図)

 

ブルガリア入国後一泊

欧州地域でのオートバイの強制保険がブルガリアへの入国国境で加入できるだろうか気になった。

 

最近は欧州へ入国前にインターネットのオンラインで強制保険の加入をするオーバーランダーが増えているようだ。

 

しかしながら、昨年日本人ライダーがインターネットオンラインでスペインの保険会社から事前に購入した欧州の強制保険でロシアからフィンランドへ入国した際に、国境の税関で事前購入した保険が有効でないといわれたケースがあった。 その日本人ライダーはフィンランド国境で欧州の保険を買ったが、保険料が数万円とかなり高額だったと言う。

 

ブルガリア入国のカピタン・アンドレボ(Kapitan Andreevo)国境検問所では、イミグレーション窓口にパスポートを一旦預けて検問敷地外のブルガリア領内にある保険販売所で欧州の強制保険に加入することが出来た。

 

保険加入後、イミグレーション窓口でパスポートを受け取る手順だ。保険料金は有効期間1ケ月で57ユーロ(現金払いのみ)。

 

その日は午前中にイスタンブールのヤマハ製オートバイの現地代理店で妻が日本から持参したスプロケット、チェーンと後輪のブレーキパッドを交換する作業を行ったため、正午ごろにイスタンブールを出発してブルガリアとの国境を目指した。

 

そして、ブルガリアの国境から80km程度入ったハルマンリ(Harmanli)という小さな町のホテルに投宿した。

ブルガリアの地方では英語はほとんど通じない。ロシア語なら広く通じる。ブルガリア語とロシア語は似ているらしい。ブルガリア語もロシア語と同様なキルリ文字を使用している。

 

旧ソ連圏の習慣や文化が影響しているのかよくわからないが、トルコからブルガリアに入ると人々が不愛想に見えた。

(ヤマハ・イスタンブールのメカニック達)

(ヤマハ・イスタンブールでスプロケットとチェーンの交換作業中の様子)

 

(ブルガリア入国時の国境検問所)

 

(欧州のオートバイ保険=グリーンカードは道路横のキャンピングカーを改造した店で取り扱っていた。)

(高速道路わきの広大なひまわり畑)

 

セルビア入国後一泊

ブルガリアの高速道路は無料だった。前日宿泊したハルマンリの町から330km一気に走行してセルビアとのカロティナ(Kalotina)国境に到着した。ブルガリア出国とセルビア入国手続きはそれぞれ約20分と簡単に済んだ。

 

セルビア国境にはATMが無い。そのため、セルビア通貨をATMで引き出すには国境から約40km離れたピロト(Pirot)の町まで行かなければならない。 セルビアの高速道路は有料で、現金の持ち合わせがないため、田舎の一般道を進んだ。

 

この日は国境から約100km進んだニス(Nis)の町で投宿した。セルビアには約6年前の最初のオートバイツーリングで訪れていた。前回訪問時にはあまり気が付かなかったが、セルビアでは多くの人たちが英語を流ちょうに話す。 

政治的にはEU加盟はまだ遠いようだが、いい意味でブルガリやより欧州の文化的な影響を受けている。

(セルビア入国時の国境検問所)

(セルビア田舎の一般道は当方オートバイのツーリングにちょうど良い)

 

(ニス=Nis手前で道路わきの木立の中で夕立の雨宿りをしたら、隣は葬儀屋だった。葬儀屋の経営者は流ちょうな英語を話した。記念にと葬儀屋の名前入りのボールペンと名刺入れをくれた。)

 

クロアチア入国後一泊

セルビアのニス(Nis)の町から約360km一気に走行してクロアチアへ入国した。

この日は途中3回雨が降り、ほとんど雨具をつけたまま高速道路を走行した。

 

クロアチアから西側にある国々はユーロ通貨が使用されているEU圏内となる。

クロアチアは今年の年初にユーロが導入された。ユーロ導入の影響のためか、6年前に当方が訪問した時より物価が高く感じられた。

 

クロアチアのシッド(Sid)国境から約100km入ったスラボンスキー・ブロッド(Slavonski Brod)という小さな町の民宿に投宿した。 民宿の小さな屋根裏部屋でも部屋料金は25ユーロ(約4千円)と安くない。

(スラボンスキーブロッド=Slavonski Brodの住宅街を投宿した宿から見る。)

 

(スラボンスキー・ブロッドの住宅街はゆったりした場所だった)

 

(スラボンスキーブロッドで投宿した民宿)

(民宿の屋根裏部屋でも一泊25ユーロ=約4千円)

 

スロベニアを素通りしてイタリアへ入国(イタリア2泊)

前泊のスラボンスキー・ブロッドからスロベニア国境まで約230kmあった。クロアチア以西の国境は検問所がないため、日本の県境をまたぐように通過できる。

 

その後、スロベニアは国内を約200km一気に走行してイタリア東部ベネチア県のポルトグルアロ(Portogruaro)という小さな町まで進み、同地で宿泊した。 

 

この日は約540kmと今回のツーリングで一番長い距離を走行。 夏の欧州は日没が午後9時~10時となるので、長距離走行が可能だ。

 

イタリアは高速道路を使っても一日で走行できる距離ではない。

 

ポルトグルアロの後はイタリア北部を通過してイタリア西部のジェノバ(Genova)県のオバダ(Ovada)という山間部の町まで約460km走行。 

 

イタリアの港町ジェノバは旧市街の一角が世界遺産に登録されている人気の観光地だ。そのため夏場の宿泊料金は高い。オバダはジェノバから30km程北に位置する山間部の小さな町だ。観光地ではないため、ホテルの部屋料金はジェノバの1/22/3とお得になっている。

(クロアチアとスロベニアのかっての国境検問所。6年前のオートバイ・ツーリング時にはここでパスポート検査等を受けたが、シェンゲン条約加盟後は国境の検問は無くなった。)

 

(スロベニア入国直後のスロベニアの高速道路パス=E-Venietaの販売所。 スロベニアの高速道路には料金所がなく検査もないが、通行パスを販売している。当方は最短期間=8日間有効の通行パスを8ユーロで購入したが、実際には通行パスはノーチェックだった。)

(スイスの様に美しいスロベニア)

(イタリアへ入国)

 

(ベネチア県の田舎道。道路わきにはブドウ畑が広がっている。道路わきには複数のワインの醸造工場を見かけた。)

 

(イタリア・ジェノバ県オバダのHotel Vittoriaの経営者=写真左の青シャツの男。日本のアニメ映画で日本語を覚えたと言い、当方に日本語であいさつをした。日本人観光客が訪れる観光地ではないので、同氏は日本語を話す機会があるとは思っていなかった。)

 

フランス入国(一泊)

イタリアで2泊後、地中海側沿いに南仏をアビニョン(Avignon)まで進む。前泊のアバダから

フランス国境まで180kmある。地中海近くの丘陵地帯の深い谷に橋を架け、山を削りトンネルとして高速道路を作った場所だ。曲がりくねっている道路なので、高速道路でもオートバイ走行は面白いが、交通量が多いため周りの景色を楽しむほどの余裕は無い。

 

フランス入国後は南仏のエクサンプロバンスを経由してアビニョンまで進み同地の民宿に投宿した。6年前のツーリングにもアビニョンのホテル(Ibis)に投宿したが、部屋料金が当時よりかなり上昇しているので同じホテルに投宿するのは諦めた。

 

Booking.Comのサイトで目星をつけていた民宿を探したが、なかなか見つからない。付近を車で通行中の若者に道を尋ねると、その若者の友人にも電話で協力を仰ぎ、当方をその民宿まで案内してくれた。やはり田舎の人は親切だ。

 

その民泊施設は夏の期間中のみ小さな学校(私塾)を改造して23部屋の民宿としているので、民宿の看板ではなく学校の看板が掛かっていた。外国人旅行者には見つけられない場所だ。

(アビニョン=Avignonの学校(私塾)で夏季のみ宿泊施設を提供していた)

(学校兼民宿を経営の母子。母は教員でスペイン語を話した。娘は高校生でお手伝いをしていた。夕食の寿司と中華料理込みで60ユーロ=約9,600円払った)

 

スペイン入国・バロセロナ到着(一泊)

アビニョンからスペインのバロセロナまでは約450kmの距離。バロセロナまで一日の走行で行ける距離まで来たが、気になることが浮上した。

 

スペイン・バロセロナの輸送会社の担当者が中古オートバイの国外への輸送に不慣れな雰囲気がメールを通じて伝わってくる。 オートバイと一緒に個人の荷物は輸送出来ないと言ってきた。またスペインから輸出する際にはカルネが必要とも言う。 当方の経験ではカルネは不要で、個人荷物もオートバイと一緒に輸送できるはずだ。

 

スペインのバロセロナ地区をはじめ、地中海沿岸地域はこの時期欧州地域の観光客やバックパーカーの若者が殺到する。 宿の確保が容易ではなくなる。

 

Booking.Comのサイトでバロセロナ地区で一番安いホステルに前日予約を入れ、宿泊場所を一泊分確保したが、連泊は出来ない。 8人部屋のドミトリータイプでも宿泊料金は34ユーロ(5,500円)だった。夕方に予約していたホステル(民宿)に到着すると、やはりその時点では空き室は無かった。

 

当方は宿の事前予約をしないでツーリングするが、バロセロナでは事前予約していて正解だった。 翌日のバロセロナ市内の一番安い部屋料金はドミトリー形式でも80ユーロ(約1.3万円)だ。

(フランスからスペインへ入国。道路わき建物の横でスペイン国旗がなびく)

 

バロセロナから急遽マドリッドへツーリング最終地点を変更

バロセロナの輸送会社は懸念があるため、6年前にマドリッドからアルゼンチンのブエノスアイレスへ当方のオートバイを空輸した際にお世話になったマドリッドの小さな輸送会社に急遽相談した。

 

その輸送会社の担当者とはフェースブック(Facebook)とワッツアップ(WhatsApp)でつながっていて、年に1~2回ぐらい連絡を取り合う仲になっていた。

 

その担当者からはマドリッドにある多くのオーバーランダーのオートバイをスペインから外国への輸送を手がけている会社を紹介するので、直ぐにマドリッドに来いという。

 

バロセロナからマドリッドまで約650kmの距離がある。無理をすれば1日で行ける距離でもあるが、イスタンブールから連日走行して疲れがたまっている。バロセロナとマドリッドの中間に位置するサラゴサ(Zaragoza)の町に途中一泊して、イスタンブールを出発して9日目にマドリッドに到着した。

 

マドリッド到着の翌日に輸送会社を訪れ、オートバイを海上輸送のための梱包倉庫へ搬入した。

 

イスタンブールからの走行距離は約3,800kmになっていた。ツーリングをスタートしたマレーシアのポートケラン(Port Kelang)からは約35,000kmの走行距離となる。インドネシアとベトナムでのレンタルバイクでの走行を含めると約3.9kmの距離となる。

(スペイン高さ7~8mの牡牛の巨大看板。この看板をみるとスペインに入った実感がわく)

 

(バロセロナ~サラゴサ間の国道2号線。乾いた大地をまっすぐな道路が通る)

 

(ツーリングの最終地点の輸送会社倉庫兼事務所はマドリッド郊外のコスラダ=Cosladaにあった。)

(マドリッド郊外のコスラダ(Coslada)の輸送会社Cargo Marketing Sea &Airの責任者セサール・フェルナンデス=Cesar Fernandez氏)

(マドリッド郊外のメホラーダ・デ・カンポ=Mejorada de Campoにあるオートバイの輸出梱包を行う会社へオートバイを持ち込む)

 

(輸出用の木枠梱包前の当方オートバイと荷物。ハンドル周りのバックミラーとウインドシールドは

取り外した。)

 

 

以上


 

 

イスタンブール滞在(6/227/4

 

イスタンブール観光

イスタンブールの市街地は東京の首都圏より広いのではないだろうか。

 

ヤマハ製オートバイの代理店のヤマハ・イスタンブールはイスタンブール旧市街から40km西のアブシラール(Avcilar)地区に位置していた。当方はその付近のホテルに滞在したが、旧市街から40km離れた場所でも高層マンションや商業地域が幹線道路沿いに広がっていた。

 

イスタンブールの中心部からどこまで離れれば市街地は終わるのだろうかと言うほど、広い市街地がイスタンブールにはある。

新市街のビジネスの中心地まででも東京の首都高速道路のような高速道路を利用して約1時間かかった。

 

当方が滞在したイスタンブールの郊外にはメトロバス(Metrobus)と呼ばれる一般車両が一切入れないように囲いがある専用道路を走行するバスがあった。 

 

専用道路をほぼ1分から2分間隔で2つの車両を連結した大型バスが市内の中心地域とつなぐ。バス停はさながら電車の駅の様になっているので、外国人観光客でも判り易く、利用しやすかった。

 

このメトロバスとイスタンブールの旧市街を走るトラム(路面電車)を利用して、旧市街の歴史観光地区まで行き、イスタンブールの観光名所の定番であるオスマン帝国皇帝が居住したトプカプ宮殿、西暦4世紀東ローマ帝国時代にキリスト教会として建てられたが、15世紀のオスマン帝国時代以降はモスクとなったアヤソフィア(Ayasofya)、ブルーモスク=正式名称はスルタンアフメット・モスク等を見学した。

 

アヤソフィアは世界遺産にも登録されているイスタンブール観光の目玉である。1935年から2020年まで博物館として入場料を徴収していたが、2020年以降は再度モスクとなり、有難いことに入場料無しとなった。

(イスタンブールの中心部から約40km離れた地区のメトロバスの駅とバス専用の走行車線=写真中央)

(アヤソフィア外観)

(トプカプ宮殿のハーレムで警備にあたったアフリカからの黒人警護隊長の人形)

(トプカプ宮殿の正面ゲート)

 

(トプカプ宮殿ハーレムで皇帝が使用した風呂)

(トプカプ宮殿のハレーム内の通路)

 

(トプカプ宮殿の秘宝。世界最大のダイアモンド。ダイヤモンドには不幸を呼ぶ歴史が有ったと言う。)

(トプカプ宮殿宝物殿でイスラム教の創始者モハメッドのあごひげを見入る女性)

(サウジアラビア・メッカのカーバモスクと同じ5本のミナレット=尖塔を持つスルタンアフメット・モスク=通称ブルーモスク。尖塔の数が多いほどモスクの格式が高いと言われる。)

(アジアと欧州の間にあるボスポラス海峡とボスポラス大橋)

 

旧市街に架かる橋で釣りを楽しむ人たち)

(奥さんの実家がある日本から居住中のイスタンブールへオートバイツーリングを計画していたラマザン・マリさん夫妻。当方のブログを見て問い合わせてきた。仕事の関係で日本ートルコ間のオートバイ2人乗りツーリングは延期になった。)

 

 

 

 

経済状況

トルコの経済の現状を把握したいと思いイスタンブールの日系の調査機関を訪れた。

 

トルコは人口約85百万人で日本の約2倍強の国土を有する中近東の大国だ。また、欧州とアジア及びロシアを繋ぐ地理的な要所に位置するため、過去の時代から地政学的に重要な役割を演じてきた。

 

現在でも軍事的にはNATOのメンバーとして欧州の安全保障の重要な国である一方、黒海を隔てた隣国ロシアや中国とは融和政策を取るなどして、対外政策は欧州や米国とは一線を画している。

 

今年5月のトルコ大統領選挙で再選を果たしたエルドワン大統領の過去10年の政治手腕には、国民の貧富の差を縮小させた等の評価がある一方、今回の大統領選挙では得票率は前回の大統領選より下げた。やはり同国の年率40%の高インフレが国民の生活を苦しくしていることが大きな要因だ。

 

エルドワン大統領は1970年代の田中角栄元首相の日本改造に似てインフラ整備に財政をばらまき、高い経済成長率を遂げた一方、高インフレも招いたと言われる。

 

高インフレを抑制するためには、高金利政策を採用するのが常識的な経済政策だが、熱心なイスラム教徒であるエルドアン大統領はイスラムの教えに反する金利には否定的な態度で臨み、国民の生活を助けるためとして高インフレにもかかわらず、低めの金利設定した。

 

低金利は借入金がある企業・国民には有難く見えるが、インフレが収まらないどころか、為替レートの悪化(トルコリラ安)を通して、輸入物価の上昇を招き、インフレが更に進行するのは経済の常識だ。

 

しかしながら、エルドワン大統領は大統領選挙には勝利したものの、経済政策には失敗しているため、大統領選挙後の財務大臣や中央銀行総裁の要職にはエルドワン大統領の低金利政策には与せず、更迭され た元閣僚経験者をロンドンやアメリカから呼び戻す等の経済政策の変更に手を付けざるを得なくなった。

 

8.5%だった政策金利を6月中旬に15%へ引き上げ、今年末には25%まで引き上げられるだろうとの予測が出ている。高インフレを抑制するにはやもう得ない高金利政策への変更だが、問題は政府の政策の朝令暮改だと言う。

(イスタンブール新市街のビジネス街)

(イスタンブール証券取引所入口。個人投資家の見学は受け付けていないとして当方は見学ができなかった。)

 

(イスタンブール郊外のショッピング・モール=Pelikan Mall)

 

パキスタン出国時のキャンピングカーとの衝突事故の後始末

パキスタンからイランへ入国する際のタフタン国境で突然後退してきたキャンピングカーに当方オートバイの前輪部分をぶつけられたハプニングがあった。 

 

走行に大きな支障は無いものの、低速走行中にハンドルがフラフラするような感じがした。気のせいならいいなと思いつつ、設備が整ったイスタンブールのヤマハ製オートバイの現地代理店(Yamaha Istanbul)で前輪部分の状況を検査してもらった。

 

前輪のスポークが変形しているためタイヤを回転させると左右と上下の2方向にブレが生じていると言う。

当方のオートバイはセロー250の名で日本で販売されているが、トルコを始め海外の多くの国では販売されていない。そのためトルコではスペアーパーツが入手できない。

 

前輪リムの3カ所に重りを取付て、タイヤの左右のブレは許容範囲に調整できたが、上下のブレはそのままだ。タイヤの左右のブレを抑えただけで、走行時の直進性は驚くほど改善された。

 

他方、衝突してきたキャンピング・カーの若いドイツ人夫婦のその後の対応にはガッカリした。

衝突後、E-メール等の連絡先を残したものの現場を逃げように去った対応からして、予想はしていたが。

 

当方がトルコのアンカラあるいはイスタンブールまでヤマハのオートバイの代理店がないことや設備が整った整備工場が無いため、当方オートバイ前輪部分のへのダメージは正確には伝えられないと説明しても、ドイツ人若夫婦は<補償は保険金で対応したいので、当方がトルコへ着くまでは待てない、当方がトルコまで走行できるならオートバイには問題がないだろう>と言う。

 

最後には、裁判で対応したいと言いだす。受けた連絡からは加害者の責任意識は感じられない。

 

(パキスタンのバルチスタン州を警察車両にエスコートされ走行したドイツ人夫婦のキャンピングカー=写真最後尾と当方のオートバイ。)

(イスタンブールのヤマハ・オートバイの代理店で当方オートバイの前輪のバランスを検査)

(バランス検査の結果を受けて前輪リムに重りを三カ所取り付けた。)

 

以上


 

アンカラからトルコ南西部地方経由イスタンブール1,500km(6/146/21)

 

旧所・名跡巡りの観光ルート

ロシア・韓国経由で日本までオートバイで自走して帰ることを諦めたら、あれやこれやと帰国ルートの検討をすることが減り、ツーリングが観光旅行化していく。

 

白い石灰岩に覆われたパムッカレ(Pamukkale)は写真やポスターを見て訪れてみたい場所だった。

その他の場所については事前の知識が無いためガイドブックの<地球の歩き方>を参考に旧所名跡を訪れるルートに決めた。

 

その結果、パムッカレ(石灰岩棚)~セルチェック(エフェス遺跡=ローマ・ギリシャ時代の遺跡)~ベルガマ(古代ローマ時代のアクロポリス遺跡)~チャナッカレ(トロイ遺跡)~イスタンブールへの約1,500kmの走行ルートとなった。

 

観光地を巡るツーリングならバイクでなくてもバスや鉄道等の公共交通機関でも回れる。そのため

ツーリングを通して<驚いた>、<びっくりした>、<感動した>と言うような事があまり期待できない凡庸な旅となった。 また、トルコの状況にも慣れてきたため、感動が少なくなった。

 

パムッカレ(Pamukale)の石灰岩棚とへリオポリス

暑いのに何故こんなところに<雪の丘があるのだろう>と言うのが第一印象だった。

丘の上から流れる水が石灰岩を溶かし、石灰が丘の岩に付着して雪山の様に白くなるのだろう。

このような景色をみるのは初めてだったが、驚きと感動は30分と長続きしなかった。

 

それより、小さなパムッカレの町の人々の暮らしに興味が湧いた。

 

投宿した宿の経営者はパムッカレの町に向かって当方が走行中に、車から声をかけて着た中年男だった。

当方が道路脇にオートバイを止めている時、パムッカレで奇麗で割安なホテルがあるので、その男の車について来いという。

 

親切な男と思いつつも、何か魂胆があるのだろうとも考えたが、その男の車について行った。

 

着いた場所はパムッカレでその男が経営するホテルだった。その男は庭にプールがあり、部屋も改装して奇麗だとアピールするが、当方が期待したほど安くない。700リラ(4,500円)だと言う。

 

当方の予算は他の地方都市の相場である400リラ(約2,700円)だとその男に伝えると、<そんな安いところはパムッカレには無い>と言い、当方をそのホテルに宿泊させるように仕向ける。

 

当方が<他のホテルを当たるからもういい>とその場を立ち去ろうとすると、男は当方を引き留め始める。男は <未改装の部屋があるので、そこなら500リラでいい>と言う。 

 

当方はその男の提案を断り、<他のホテルへ行く>と再度伝えると室料が450リラになり、最後にはその男は400リラまで引き下げた。その男は当方に値切られて半分怒っているようなしぐさをした。

 

パムッカレはホテルが整っている最寄りの都市から20km位しか離れていないので、トルコの観光客は割高なパムッカレには宿泊しないだろうと思った。                                      

事情を知らない、あるいは交通手段が限定される外国人旅行者なら宿泊するだろうが、まだ外国人宿泊客は多くない。 

 

この男はホテルの改装やプール設備にお金をかけすぎて、資金回収に貧窮しているように見えた。

 

また、1時間~2時間あれば見学可能な石灰岩棚の観光地しかない場所のホテルに長期宿泊する観光客がどれほどいるのだろうか?小規模なホテルにプール設備が必要だろうか?

(パムッカレの投宿ホテル。ホテル左横にプールがあった。上階は改修工事を保留中のため窓が無い。)

(パムッカレ=Pamukkaleの石灰岩棚を上って丘の頂上を目指す)

(石灰岩棚の池で水着姿の観光客もいた。)


(石灰岩棚の丘頂上からパムッカレの村を見る。)

 

セルチュウク(Selcuk)のエフェス(Efes)遺跡

東アナトリア地域で最も有名なローマ時代の城塞都市遺跡の一つであろう。 世界遺産の一つで、規模も大きく野外劇場跡や図書館が修復され、2千年前の時代にタイムスリップしたように観光客の目を楽しませてくれた。 

 

この遺跡の野外劇場には2千前のローマ時代にイエス・キリストが伝道に訪れたと言う歴史的な場所でもあり、キリスト教巡礼地の旅としてアメリカから牧師同伴の巡礼者グループもいた。

(エフェス遺跡の入口=写真奥。参道には大理石の円柱が所々に立っていた。)

(エフェス遺跡の円形野外劇場。ここで2千年前イエス・キリストも説法したと言う。)

(エフェス遺跡の復元された図書館建物正面)

(エフェス遺跡の復元前の図書館建物写真)

 

ベルガマ(Bergama)のアクロポリス(Akropolis)遺跡

地中海沿いのルートに入ると道路の交通量が増える。このあたりのハブ的な都市はイズミール(Izmir)だが、人口3百万人と大きな都市で道路が混むため、大都市での宿泊は避けた。

 

イズミールを通り過ぎ、イスタンブールへ向かう途中のルート上にベルガマ(Bergama)という人口6万人程度小都市があった。


6万人程度の小都市なら、町の規模が小さく、道路も混んでいないと考えこの町のペンションに宿泊すると、この町には世界遺産のローマ時代の遺跡アクロポリスがあることを知った。 投宿した場所から56kmの距離の丘の上のアクロポリス遺跡を次の町へ移動する前に訪れた。

 

ローマ時代(紀元前4世ごろ)の神殿の高さ10mの大理石の円柱が復元され、2千年以上の昔に大きな神殿があったことを語っていた。

(復元された神殿の円柱)

(アクロポリス遺跡からベルガマの街を見る。)

 

チャナッカレ(Canakkale)のトロイ遺跡

日本人に一番なじみがあるのが、トロイの木馬がある世界的に有名なトロイ遺跡だろう。

19世紀後半にドイツ人の実業家が、ギリシャ神話トロイアの戦争を信じて全財産をつぎ込み数十年にわたり発掘して遺跡を発見した。 

 

紀元前3千年前から紀元後まで数千年の長い歴史にあった城塞都市遺跡だ。

当時を想像した高さ6m7mのトロイの木馬は残念ながら修復中だった。

 

遺跡は崩れた城壁ぐらいしか無く、観光客の目を楽しませるには乏しい。

観光ガイドないし案内所で貸し出す音声ガイドでの遺跡についての解説が無かったら、城壁沿いに進む散歩ルートを足早進んで、あっさり終わるような場所だ。 同遺跡の解説を聞かないと、遺跡の価値は理解しづらいだろう。

(修復中のトロイの木馬。木馬は周囲を覆いで囲われていた。)

(トロイ遺跡の城壁門の跡)

(上記写真のいにしえの時代の想像図)

(トロイ遺跡のきれいに積まれた城壁。鉄器が無い紀元前3千年前に垂直に加工が施されていることに専門家は高い評価をしていると言う。)

(発掘前のトロイ遺跡があった丘。)

 

ツーリングルートは以下の通り

 

アンカラ(Ankara)~270km~アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar)~240km~パムッカレ=Pamukkale(石灰岩棚とヘリオポリス見学)~200km~セルチューク=Selcuk(エフェス遺跡の見学)~210km~ベルガマ=Bergama(アクロポリス遺跡の見学)~230km~チャナッカレ=Canakkale(トロイ遺跡見学)~ダーダネルス海峡のフェリー横断を含む140km~サルキョイ(Sarkoy)=トルコ欧州側~220km~イスタンブール(Istanbul

 


(トルコのツーリングルートを赤線で示す。地図最右側=東側はジョージアとの国境。地図中央の赤丸印は首都アンカラの位置。イスタンブールは地図左側上部の赤丸部分。)

 

 

以下ツーリングルートのショートコメント

 

アンカラ(Ankara)~アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar270km

アンカラ市内の投宿ホテルから20km程度市内を走行して郊外へ続くハイウェイへ出る。アンカラ市内は交通量こそ多かったが、大きな渋滞が無かった。信号が少なく、広い道路と交差点を少なくする立体交差の道路網で交通渋滞が生じしにくくなっている。

 

アフヨンカイサールには観光の見どころが少ないと考え、夕方到着し翌朝に次の目的地に向け出発する寝るだけの町だった。市内中心部一角にあるホテルに投宿した。

 

この辺りにはビジネスホテルが多く、部屋料金はどのホテルも申し合わせたように朝食付付きで350リラ(2千円程度)だった。

(アフヨンカラヒサール市内のオートバイ店。日本モーターの看板を掲げるが、中国製オートバイを販売。)

(アフヨンカラヒサールの中心部。投宿宿は写真左側から2番目のビル)

 

アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar)~パムッカレ(Pamukkale240km

途中迷い込んだ農村は都市とは全く異なる様相だった。のんびりとした牧草地帯に位置するものの、

家の壁は土色の干し煉瓦がむき出して、一部崩れている等、農村の厳しい生活環境が垣間見れた。家畜小屋からの糞尿の匂いが一部未舗装の道路まで流れ、当方が憧れている田園風情とは異なる現実的な農村の状態を表していた。

 

パムッカレへ向かうハイウェイでのパムッカレのホテル経営者との出会いは前述の通り。

(農村の家)

(19世紀に印象派画家たちが描いた南フランス・エクサンプロバンスの山に似た山。)

(これが南フランス・エクサンプロバンスのサンクト・ヴィクトワール山=2017年7月に撮影)

 

(パムッカレに向かう途中の丘には発電用の大型風車が多くあった)

(パムッカレでレストランを経営する若者。4年間韓国でトルコ料理店で働いた経験を生かしてパムッカレでレストランを開業。)

 

パムッカレ(Pamukkale)~セルチューク(Selcuk190km

パムッカレを出発して50km走行すると、雷雲が見え始め、強風が吹き始める。間もなく雨になる前兆だ。

オートバイを路上に止めて、レインウェアを着終わると同時に雨が降り始めた。 雨粒が大きい。雨粒が腕にあたると腕が痛くなるほど、雨粒のインパクトを感じた。

 

エフェス(Efes)遺跡があるセルチュークの町のホテル、ペンション等の部屋代は高かった。

この地域の随一の世界遺産のエフェス遺跡を控えて、ホテル側は強気の部屋代を示した。

 

宿泊料金とは対照的にこの町の歩道や空き地に広がる簡易テントの野菜・果物の市場では

サクランボ1kg35リラ(220円程度)とかなり安い。また、焼き鳥肉をそいでフランスパンに入れた

ドネール(Doner)は今まで立ち寄ったどのトルコ都市のものより安く25トルコリラ(約300円弱)、味もよかった。

 

エフェス遺跡は前述の通り。

 

(セルチューク=Selcukで投宿したTuncan Pensionの内庭とオーナー。他のペンションより安く、また清潔だった。当方はシングルの小さな部屋に450リラ=約2700円支払った。)

 

(セルチュークの市場でデーツや乾物を販売するショップ。当方はデーツを1kg買った。)

 

セルチューク(Selcuk)~ベルガマ(Bergama210km

午前中に古代ローマ時代のエフェス遺跡(Efes)の見学(前述)を済ませてエフェスを出発する頃は晴天だった空が、徐々に黒い雷雲に覆われ始めた。しばらくすると雨が降り始め、雨宿りして雨が止むのを待つか、レインウェアを着て雨の中を進むか迷う。

 

しばらく雨宿りをしたが、雨が止む気配が無いためレインウェアを着込みベルガマを目指して進む。毎日午後になると天気が崩れて雨が降るが、1時間ぐらいの夕立になるのが常だった。しかしこの日の雨は終日続いた。

 

時折雷を伴った豪雨にもなり、終日雨の中をオートバイ走行するとレインウェイを着用しても衣服まで

雨水が染みてくる。

 

翌朝には晴天になっていた。ベルガマの宿をチェックアウト後に、宿から数キロメート離れた世界遺産の古代ローマ時代の遺跡アクロポリス(Akropolis)を見学(前述)。あまり見るべきものが無い小規模な遺跡の割には入場料が200リラ(約1,300円)と高い。

(ベルガマの旧市街の一角。下町には男達が談話するトルコ式喫茶店が多くあった。)

 

ベルガマ(Bergama)~チャナッカレ(Canakkale230km

地中海沿岸沿いの一般道を走行する。海岸にはビーチパラソルが立ち海水浴を楽しむ人達の姿が目立つようになる。

 

やはり午後になると進む方向の空に雷雲が現れ始めた。雨が少し降り始めたが、幸にも長さ6km位の長いトンネルの中に入り、トンネルを抜け山の裏側に出ると、空には雷雲は無かった。トンネルがあった山が雷雲の動きを止めていた。

 

トロイ遺跡は最寄りの都市チャナッカレ(Canakkale)から30km程離れテヴフィキイ(Tevfikiye)の村にある。

当方はこの村にあるペンションに泊まった。

 

この村の中心部で当方が村人に宿泊施設はないかと聞いたら、村人がペンションのオーナーに電話をして、そのオーナーが車で当方がいた場所まで駆けつけてくれた。

そのペンションの宿泊料は250リラ(約1600円)と村の入口の目立つ場所で欧米客を相手にしていた大きなペンションの1/3の良心的な室料だった。

(ベルガマ~チャナッカレへ進む途中のエーゲ海。)

 

(チャナッカレ付近では小麦の刈入時期を迎えていた。)

(シンプルなペンションだったが、オーナーは感じの良い親切な当方と同年配のトルコ人だった。)

 

チャナッカレ(Canakkale)~フェリーに乗船してマルマラ海を横断~サルキョイ(Sarkoy)まで140km

トロイ遺跡見学後、エーゲ海からイスタンブールに通じる内海のマルマラ海を通る海峡をダーダネルス海峡(Dardanelles)と呼ぶ。この海峡を挟んだチャナッカレの対岸はトルコの欧州側だ。この海峡の最短幅は約1.2kmと泳いで渡れそうな幅だ。 フェリー船もこの海峡をバスの様に頻繁に往復している。

 

当方はフェリー船にオートバイと一緒に乗船して、マルマラ海を横断して欧州側のトルコへ渡り、マルマラ海に面したサルキョイ(Sarkoy)の町に投宿した。

 

サルキョイ周辺の丘陵地の小麦畑は一面黄金色になり収穫を待つばかりとなっていた。この周辺にはハイウェイも無く対面通行の一般道をのんびりと進む。

 

この日も午後3時ごろから当方が進むサルキョイ方面が雨雲に覆われ始め、あっという間に雨が降り始めた。交差する高速道路の高架下にオートバイを止め、レインウェアを着こみサルキョイを目指す。

(チャナッカレ=Canakkaleとエセアバット=Eceabat間を航行するフェリー。オートバイと一緒の乗船料は45リラ=約270円)

 

(マルマラ海のダダーネルス海峡をタッグボートに付き添われて通過するLNG=液化天然ガスを運搬する大型タンカー)

 

(マルマラ海のアジア側と欧州側をつなぐつり橋。有料のハイウェイとなっている。)

(サルキョイ=Sarkoyのこじんまりとした海岸)

 

サルキョイ(Sarkoy)~イスタンブール(Istanbul)220km

今回のアジア中近東ツーリングの第一目標としていたイスタンブールまでは一本道で行ける距離まで近づいた。

 

ハイウェイの交通量が増え、大都会へ通じる道路であることを認識させられる。

 

イスタンブールでは2ヶ月前にパキスタンからイランへ出国する国境でキャンピングカーに当方オートバイの前方部分をぶつけられた。そのぶつけられた前輪部分のダメージをヤマハの現地代理店で診てもらう予定だ。

 

また、トルコの経済状況を調べるため日系の経済調査機関を訪れる予定にしている。

 

イスタンブールの宿はヤマハの代理店に近い場所ので確保することにした。

 

昨年9月末にマレーシアからスタートした当方のオートバイは約31,000km走行していた。インドネシアとベトナムでのレンタル・オートバイでの走行距離約3,900kmを加えると当方のツーリング距離は約3.5万kmとなる

 

以上

トルコ入国からカッパドキア経由首都アンカラまで1,200km(6/56/12

 

トルコに入国するとジョージアとの経済格差がいやでも判る。トルコの道路インフラ、近代的な建物や掃除が行き届いた街や新車が多い道路を見るとジョージアより一人当たりの国民所得が約2倍あることが理解できる。ジョージア国民所得は一人当たり6,700米ドル(約90万円)に対してトルコは12,000米ドル(160万円)だ。

 

美しい国

黒海沿岸からトルコに入国後、標高2000m台の高地の内陸部へと向かった。黒海沿岸は温暖で湿潤な気候のため緑の木々で覆われた山々が美しい。

 

高地の内陸部には丘陵地帯に幹線道路が通っている。丘陵地には木々が生えていないが、季節が日本の関東地方の4月ぐらいの陽気になり、草花が野に山に咲き始めた時期だ。

 

滞在した町々の景観も奇麗だ。 住宅用のコンドミニアムや商業ビルは新しい建物が多い。また住宅地のニュータウンも多く目にした。イスラム風の建物はモスクぐらいしかなく、トルコにいることを知らなければ西欧の町と変わらない景観だ。

 

(ジョージアからトルコへ入国して間もない黒海沿いのハイウェイをRize・Trabzon方面へと向かう。)

 

親切で気前のいい人達

入国時の税関職員の印象は良くなかったが、行く先々では親切な人達に出会った。

 

初日の黒海沿岸のリゼ(Rize)の街のコンビニで働くお兄さんは当方が日本からのオートバイライダーだと知ると歓迎の意味で食料品を無料で提供してくれた。

 

エルジンシャン(Erzincan)で投宿したペンションの経営者は当方と同い年だと言うことが分かり親切にしてもらった。朝食は提供しない小さな宿だったが、当方に簡単なナン、チーズと甘い蜂蜜の朝食を提供してくれた。

 

ガソリンスタンドでたむろしていた中高年の地元の人たちは、当方が給油で停まった際に、<急いでなければコーヒーかお茶でもどうぞ>と言って当方をくつろがせてくれた。

 

最後にはトルコのライダーグループに出会い、トルコ全土から集まる一泊二日のカッパドキアでの大集会に誘ってもらった。

ハーレーのような大型バイクのチョッパーに乗り、刺しゅう入りの革ジャンを着て一見怖そうな人達だったが、陽気で面倒見がよい人達だった。

(Rizeのコンビニでは買い物代金を無料にしてもらった。博士課程の大学院生だと言った。)

 

 

(ガソリンスタンドでお茶でも飲んで行けと誘ってくれた人達。真ん中の人は白バイ乗りの元警察官だと言った。)

(エルジンシャン=Erizoincanで投宿したペンションと経営者のアリ氏)

 

世俗的な宗教

イスラム教が厳格なパキスタンでは女性の素顔は全く見なかった。女性は男の目が届かない家の奥に留まっていた。

 

イランでは女性は髪の毛をスカーフで隠すことが義務づけられていたが、トルコでは素顔をだして男性と一緒の職場でも活躍する機会を得ていた。

 

トルコではスカーフで髪の毛を隠すのは任意だと言う。中年以上の女性はスカーフで髪を隠して目立たない衣服を着用しているが、若い女性達はおへそや肩をだして街を闊歩している。男と女も手をつなぎ合って歩く姿を見た。イスラムの戒律に縛られていないようだ。

 

トルコはイスラム教徒が多い国ながら、宗教と政治を切り離した先進国だ。

 

トルコ入国後の最初の一週間のツーリングルートは以下の通り。

 

ジョージアのBatumiからSarpi国境経由入国~黒海沿いに120kmRize(2泊)~険しい山道もあった270kmErzincan1泊)~260kmSivas(1泊)~300kmOzkonak(カッパドキア地方)のライダー集合場所(1泊)~70kmHacibektas(2泊)~240km~首都アンカラ(Ankara2

(トルコの走行地図。地図右端=東側はジョージアとの国境。中央よりやや左側=西側の赤丸印は首都アンカラ)

 

ジョージアのBatumi~国境SarpiRize(2泊) 120km

黒海沿いのリゾート地帯だろう。黒海沿いにはリゾートマンションが建ち並ぶような町が点在していた。

黒海沿いの海辺近くまで山が迫っている地形は静岡県東部の東伊豆の地形に似ていると思った。

 

Rizeの町も平野部が少なく山に続く坂道が多いおしゃれな町だった。

 

投宿したホテルの直ぐ近くのコンビニでミネラルウォーターや菓子類を買ったが、金額は多くないがそこの店員が当方を歓迎すると言い、代金を無料にしてくれた(前述)

 

Rizeの町ではバイク屋を見付けてエンジンオイルの交換をする。代金はエンジンオイル代だけ(約1,200円程度)で工賃は受け取らない。当方のオートバイのエンジンオイル交換には1.2Lと中途半端な量のエンジンオイルを使用する。通常だと1リットル容量の缶を2本買わざるを得ないが、ここでは1.2Lの分量を分けてくれた。

(ジョージアからトルコへ入国して間もない黒海沿いの地域)

 

(リゼ=Rizeの街中心部の広場)

(リゼ=Rizeの町でエンジンオイルの交換をしたバイク屋の皆さん)

 

リゼ(Rize)270km~エルジンシャン(Erzincan)1

黒海側から内陸部に入る幹線道路が無い。当方は殆どルートの検討をせずにカーナビが導くままに進むと道路がどんどん狭く急坂がある山村に入り込む。

 

村の人々にゼスチャーとグーグル翻訳でこの道で当方が目指している町へいけるかと訪ねると、目の前の高い山を指さしてこの山を上り山の向こう側へ出れば良いと言う。 しかし山道は車一台が通過できる狭いダート道だと言う。

 

山道が急坂でひとりでは心細く思い、先に進めばもっと厳しい道になるだろうと考え、幹線道路へ出るため来た道を引返したら、反対方面からやって来たBMWの大型アドベンチャーバイクのライダーに出会った。

そのライダーはルーマニアから来ていた。2年前からこのルートの完走を検討していたと自信ありげに言う。

 

当方はBMWの大型バイクでも通行できるなら、当方の250ccのオフロードバイクならより容易だろうと考えを変え、このライダーの後について行くことにした。

 

後で知ったが、このルートは世界でも危険なルートとされる黒海側のオフ(Of)の町と内陸のバイブルト(Bayburt)を繋ぐD915と言うルートだった。 雲に覆われた峠にさしかかる十数キロメートルのダート道の片側はカードレールも無い深い谷底になっている。

 

走行中はわき目もふらず、目の前の石が多い路面を注視しいるため、谷底は目に入らない。その為、怖いとは思わなかった。しかし、走行後に改めて谷底を見ると足がすくむ。

 

エルジンシャン=Erzincanの町は雪渓がある山々に囲まれた盆地にあった。2千メートル級の峠道では寒く感じた空気も盆地では少し暑く感じた。ただし、この盆地でも千メートル以上の標高がある。

 

他の国では室料が安い家族経営の宿泊施設をホステル(Hostel)とかゲストハウス(Guest House)と呼んでいたが、トルコではペンションと呼んでいる。

(危険な山道とされるD915線)

(D915線で少し休憩)

(エリジンシャン=Erzincanの町を囲む山々)

(エルジンシャン=Erzincanの街の中心部)

 

エルジンシャン(Erzincan)260km~シバス(Sivas)1

なだらかな高地の丘陵地帯の中、西方面にあるカッパドキアを目指すが、春ような陽気に誘われて走行中に幾度も睡魔が襲ってくる。

 

路肩で休憩するだけは十分でないため、幹線道路から少し入った湖のほとりにレストランを見付けてお茶を飲みながら1時間ほど休憩することにした。

 

ここのレストランではオーナーと思われる年配の男が、給仕をしながら釣り針の代わりに漁網をつけた釣り竿を湖に垂れている。漁網で釣り上げた魚を料理して客に提供しているようだ。 当方が休憩している間にも、魚を釣り上げていた。

(エルジンシャン=Erzincan~シバス=Sivasへ向かう途中の景色)

 

(湖で釣りをするレストランオーナー)

(シバス=Sivasの中心街)

(シバスの公衆浴場。入浴料は120リラ=約700円)

 

シバス(Sivas)300km~オズコナック(Ozkonak)(カッパドキア地方の小さな村で1泊)

当方がシバス(Sivas)から幹線道路をカッパドキアを目在して走行中に、5台の革ジャン姿の大型のチョーパー(ハーレーダビットソンのようなハンドルが長いオートバイ)が当方を抜き去る。最後に抜き去った男が当方に手招きで<ついて来い>と合図する。

 

その合図に誘われてしばらく時速100km以上の高速で走行するバイク集団について行く。当方のオートバイは250ccのエンジンゆえに時速100km以上の高速走行では安定性に欠け、心地よい走行ではない。

 

休憩時にそのグループがカッパドキアでトルコのチョッパーバイク集団(Turk Ridersと言う全国組織のクラブ)の大集会があると教えてもらい、当方もその大集会に誘われる。

 

当方は決まったプランがあるわけでも無いので、その誘いにのり大集会会場を目指してついて行くことにした。 

 

 

カッパドキア地域にあるOzkonakは地図にも載っていないような小さな村だったが、集会場所にはホテルと複数のテントが張れる広い芝生の庭があった。トルコ全国から爆音をたててチョッパー集団が集まり、当方を歓迎してくれた。因みにカッパドキアは日本の県や地域を示すような広範囲の地域の名称だ。

(シバス=Sivas~オズコナック=Ozkonak途中の景色)

(日本の歌手・吉幾三氏に似るオートバイのライダーズ・クラブTurk Ridersの一人。)

(大集会に参加したTurk Ridersメンバーの大型バイク)

(トルコ国旗を付けるバイク)

(ライダー達の集合場所だったオズコナック=Ozkonakの宿泊施設)

 

オズコナック(Ozkonak)90km~ハシベクタス(Hacibektas)2泊 

チョッパー集団と別れて、カッパドキア観光の中心地であるGoremeの町で宿を探したが、質素な民宿ホステルでも6千円~7千円と他の都市の3倍くらいの部屋料金を取る。一ヶ月前のインターネット上の書き込みだと民宿ホステルの室料は半値だったが、観光シーズンとなった現在は強気の商売だ。

 

当方はイランでカッパドキアに似たカンドバン(Kandvan)の村を既に訪問していたので、カッパドキアに宿泊することには固執せず、Goremeから約50km離れたハシベクタス(Hacibektas)と言う小さな町の郊外のホテルに投宿して、更新が遅れていたブログを書き上げるための時間を作った。

 

思っていたように小麦畑に囲まれたHacibektasのホテル(3星)は観光地でないため、部屋が広く、料金も一泊2千円程度と安かった。

 

このホテルの受付係の20歳代と思われる女性はトルコで働いても給料が安い一方、物価が高いので生活するのが大変だと言う。チャンスがあれば給与が高い海外で働きたいとの希望を語った。

 

ホテルの受付係になる前は衣料品の縫製工場で働いていたが、月給は5,500トルコリラ(約3万円)だったと言う。 因みに小さなアパートでも最近家賃が急上昇して月額4,000トルコリラ(約2.5万円)すると言う。

(カッパドキア=Cappadocia地域の中心地のギョローム=Goremeの町)

(カッパドキアの一部。高台からギョローム=Goreme方向を見る)

(カッパドキア地域のウチサール=Uchisarの町)

(カッパドキア地域のオズコナック=Ozkonakの地下都市の通路。カッパドキア地域には150~200の地下都市があると言う。敵が来る前に地下に一時的に避難したと言う。住民は常時地下に住んでいたわけではない)

 

(地下都市の通路の石の扉。直径約1.5m、厚さが40~50cmあった。数百キロ~1トン位の重さがあると思う。)

(トルコの中央高原はこのような丘陵地帯が延々と広がっている。)

 

ハシベクタス(Hacibektas)~首都アンカラ(Ankara)240km 2泊

前日から雨だ。レインウェアを着て走り出すも、途中から豪雨となり前方の視界が悪くなり、高速道路のような幹線道路から一旦逸れて、村の雑貨店の軒先で雨の勢いが弱くなるまで待機する。

 

休憩を兼ねた雨宿りを繰り返しならI Overlanderのアプリで書き込みがあったアンカラの安ホテルに到着する。

 

アンカラでは在トルコのロシア領事館でロシアビザの取得が可能かどうかヒアリングするつもりだった。

当方オートバイのスプロケットや駆動チェーン等の交換部品を妻が日本から持参してイスタンブールに急遽来ることになったからだ。

 

イスタンブールでオートバイの主要部品の交換整備すれば、トルコから約1万km走行してロシア極東のウラジオストックまで行き、そこからフェリーで韓国経由日本へ自走して帰国するのも選択肢のひとつだろうと考えたからだ。 

 

ロシア極東のウラジオストックから韓国まで韓国船籍のフェリーが運行している。

韓国のフェリー運航会社に電子メールで運賃等を問い合わせすると、500cc以下のオートバイの輸送運賃は1,050米ドル(約14万円)と高い。フェリーへの船積み費用や書類作成費用等を含めると運賃は1,2001,300米ドル(16万円~18万円位)になる。

 

オートバイの輸送料金に加えて、乗客の運賃が別途必要だ。 欧州からオートバイを日本へ海上輸送する費用とあまり変わらない。

韓国から日本へのフェリー運賃については運航会社へ問い合わせしなかったが、韓国から日本までの費用を含めるとウラジオストックから韓国経由日本までの輸送費用は、恐らく欧州から日本への海上輸送費用より高くつくだろう。

 

ロシア・韓国経由の帰国ルートは諦め、英国あるいはスペインから帰国する方針にした。

アンカラまで来てロシア領事館へのビザの問い合わせが不要となった。その為、アンカラは2泊したのみで、その後はアンカラから南下してパムッカレ(Pamukkale)やイズミール(Izumir)方面へ向かうことにした。

(雷雲迫るハシバクタス=Hacibaktasの町)

 

(ハシベクタス=Hacibaktasで投宿したホテル)

(ハイウェイ沿いの穀物貯蔵倉庫。直径約10m、高さ約20mの円形貯蔵庫が18個あった。)

(トルコの建国の父と言われる初代大統領ムスタファ・ケマール・アタチューク=Mustafa Kemal Ataturkの霊廟がある公園からアンカラ市内を見る)

(ムスタファ・ケマール・アタチューク=Mustafa Kemal Ataturk霊廟。卒業式姿の大学生グループが多かった。)

 

以上

アルメニア及びジョージアのツーリング約1,100km5/256/5

当初のツーリング計画ではアルメニアとジョージアを訪れる計画ではなかった。イランツーリング中に出会ったドイツ人ライダーからの<アルメニアとジョージアは素晴らしい場所>だったとの言葉に惹かれて、急遽アルメニアとジョージアをツーリングルートに加えた。 アルメニアに5泊、ジョージアに6泊しただけの短い期間だったが、アジアや中近東とは異なるロシアに非常に近い文化圏だと言うことが判った。

(ノアの箱舟伝説があるアララト山(標高5,137m)=写真右側と富士山に似た小アララト山(標高3,935m)。トルコ領にある山々だが、アルメニア領からの眺めも良い。これらの高い山々のため、天気が不安定になる)

 

アルメニア5590km(5/255/30

前回(イランPart3)のブログで報告したようにイランとの国境から入国するとアルメニアの町や人々がロシアに似ていることを思い知らされた。

 

入国時のイミグレーションの係官の冷たく入念な対応。町で微笑しない人々。当方が挨拶しても、当方の顔をじっと見返すだけの人々等。当方が会社員時代の15年前にモスクワ駐在を2年半経験したが、駐在当初に感じた嫌な思い出と重なった。

 

人懐こいインド等の南アジアやイランの人々とあまりにも違う人達だ。

 

ロシアとの連携を選んだアルメニア

アルメニアは人口約三百万人の小国だ。面積は九州より二割程度小さく海が無い山国だ。国の周りをトルコやアゼルバイジャンのような非友好国とイランのような大国に囲まれている。競争力がある産業や地下資源にも乏しい。

 

この小国が経済的にも軍事的にも単独で生き残るのは難しいだろう。大国の後ろ盾が必要だ。アルメニアは旧ソ連邦の中央アジアの国々のようにロシアと連携して先へ進むことを選んだ。 

 

カパン(Kapan)の宿のあきれた経営者

アルメニア入国後、首都のエルバン(Yerevan)を目指して、アゼルバイジャンと国境問題を抱えるナゴルノ・カラバフ(Nagorno-Karabakh)地域に近い主要道路方向へと進んだ。途中で軍隊の兵士が<この先の道路は通行止めだ>と先に行かしてくれない。  

 

他のルートを探し出して進むと今度はロシア兵が道路を封鎖しいて、<この先は行けないので別のルートを通行されたし>と言う。

 

そんな訳で、首都エルバン方向へ進むのに時間がかかり、日没直前にやっと国境から70km程度進んだカパン(Kapan)という町に辿り着いた。 当方のようなオーバーランダーが利用するスマホのアプリ<I Overlander>で、走路沿いにホステルがあることを思い出してそのホステルへ投宿した。

 

場末のあまり掃除が行き届いていない宿だったが、これから暗くなるし、疲れもあって寝るだけならこの宿で我慢しようと荷物を解いた。 宿の経営者は70歳の不愛想な男だった。

 

翌朝、当方がチェックアウトしようとすると、宿の経営者は当方へ便器を掃除して行けと言う。 部屋にはトイレが無くその宿の親父も使用する汚くて、汚物を便器から宿が立地する川の河原に垂れ流しする便所だった。 

 

当方がトイレを利用する前から糞が便器にこびりついて汚いトイレだと思っていたが、その親父は当方が汚したと勘違いして掃除しなければパスポートを返却しないジェスチャーをする。

 

当方が<おれはトイレを汚していない>と怒ってパスポートの返却を求めると、当方の剣幕におされてか、宿の親父はパスポートを返却した。 

 

今度は当方がプラスチックのレジ袋にゴミをまとめて入れて廊下に出しておくと、宿の親父は<ゴミは持って行け>とのゼスチャーをする。投宿した部屋にはゴミ箱が無かったので、当方はここの親父が片づけやすいようにと慮ってレジ袋に空きペットボトルやティッシュ・ペパー等のゴミをまとめて入れ、廊下に出しておいた。


 

当方はこの親父の<ゴミを持っていけ>のゼスチャーに再度怒りを発して、レジ袋を床に叩きつけた(但しゴミが出ないように)。客を客扱いしない宿の親父にはあきれた。

 

(川べりの小さな建物がKapanのあきれた経営者のGetap Hostel)

 

山岳道路

手を伸ばせば届くような雪渓がある山が迫る。そんなワインディング・ロードの山岳道路を通り、峠道を上ったり、下ったりの連続が続く。

 

全ルート舗装道路ではあるが、所々アピンカーブのアスファルト路面が大型貨物トラックのタイヤに削られて石と土がむき出しになっている。 このような山岳ルートは今回のアジア・中近東ツーリングではなかなか無い。

 

(イランからアルメニアに入ると直ぐにこんな景色の山道になる。)

(雪が残るアルメニアの標高2千メートル台の山々)

(アルメニアの山岳道路)

 

天気が刻々と変わる

雷雲が迫り、雷の音が聞こえる。山を一つ越えたあたりでは激しい雨が局地的に降っているのが判る。

当方の方に雨雲が来なければいいなと祈るように走行するが、雨が降り始める。しかし雨は長続きしない。

そのうち雲が途切れ、晴れ間になるが、この晴れ間も長くは続かない。走行中は、レインウェイを着用したり脱いだりの連続だった。

 

アルメニアの世界遺産は入場無料

アルメニアには世界遺産が3カ所ある。全て約千年前から続くキリスト教の修道院だったり、教会だったりだ。アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした国だった。 

 

当方は首都エルバン周辺のエチミアジン・カテドラル(Cathedral of Echimiadzin)とジョージアとの国境に近い近いハグパット修道院(Haghpat Monastery)の2カ所の世界遺産を訪れた。

 

これらの世界遺産は全て入場無料だ。東南アジア及び南アジア諸国やイランの世界遺産の旧所名跡では外国人観光客は現地人の1020倍の入場料金を徴収していたが、無料の対応には感動した。

(首都エレバン近くのエチミアジン・カテドラル=アルメニア正教の総本山 世界遺産 Cathedral of Echimiadzin)

 

(世界遺産ハグパット修道院=Monastery ofHaghpat。ジョーギアとの国境手前40kmにあるアラベルディから10kmの村にある。)

 

アルメニア出国とジョージア入国手続き

陸路の国境検問所は3カ所あるが、当方は一番東側のBtghsvan(アルメニア側)/Sadakhlo(ジョージア側)を通過した

 

事前に調べた結果、一番東側の国境が道路状態が良く、ジョージアのバイク保険を入手できる等の便利さが判った。バイク保険については加入の有無を入国時にチェックされるとのI Overlander上(車両で陸路の国際旅行を行う専用情報アプリ)の書き込み情報もあったので、国境でジョージアのバイク保険に確実に加入できる(買える)国境検問所を選んだ。

 

ジョージアとの国境の手前40kmにあるアラベルディ(Alaverdi)の町に前泊して朝一番で国境を通過できるようにした。

 

アルメニア側のイミグレーション建物の手前数百メートルのところに車両保険の代理店があった。この保険代理店ではジョージアのオートバイ保険も取扱っていたので、この代理店でジョージアのオートバイ保険に加入した。 

 

更に先に進むと両替所があったので、余ったアルメニア通貨(ドラム)をジョージア通貨(ラリ)へ両替。

 

アルメニアの出国は簡単だった

イミグレーション窓口の数メートル手前の税関職員に入国時に発給された一時輸入手続きの書類を渡す。

そしてイミグレーション窓口でパスポートに出国印を押してもらいう。ただし、当方の順番になって、窓口担当官が手続きになれていない係官に入れ替わったため、当方は1015分程度待たされる。

 

通常なら1分程度の手続きだろう。


 

ジョージア入国も簡単な手続きだった。

オートバイに跨ったままイミグレーションのブースでパスポート、国外運転免許証とオートバイの登録証(Registration Certificate)を係官に手渡すと、係官がパソコンにデータを打ち込み終了する。

 

この際に係官が、当方がジョージアでのオートバイ保険に加入しているかどうか聞いて来た。当方は<もちろん保険に加入しています。>と返答。ただし係官は<保険証を提示してくれ>とは要請しなかった。

 

入国時の税関では外国籍のオートバイの一時輸入許可証(Temporary Import Permit)のような書類は作成しない。オートバイでの入国はオンライン・システムで管理しているようだ。

 

この国境には銀行ATMが無い。国境から約40km進んだマルネウリ(Marneuli)まで行かないと銀行ATMで現地通貨の引き出しが出来ない。

 

以下アルメニアの走行ルート

 

イラン・タブリーズ(Tabriz)~イラン国境(Nurduz)/アルメニア側国境(Agarak)~70km~カパン1泊(Kapan)~280km~首都エルバン3泊(Yerevan)200km~アラベルディ1泊(Alaverdi)~40km先のPtghavan/Sadakhlo国境からジョージアへ出国~80km~首都トビリシ(Tbilisi)3泊~250km~クタイシ(Kutaisi)2泊~160km~バトミ(Batumi)1泊~20km~Sarpi国境からトルコへ出国


(地図下部の最右側の赤丸印ははイランのArbadilの位置。その左側がイランのTabriz。Tabrizの上がアルメニアとイランの国境。地図の最左側の赤丸はジョージアのBatumi=トルコとの国境)

 

イランとのNurduz国境からアルメニア入国~アルメニア最初の宿泊地カパン(Kapan70km

前述の通り、ロシアへ入国したように人々の態度が冷淡との印象を受けた。当方のオートバイを見ると道路沿いの野犬が吠え、走りながらオートバイを追っかけてくる。ロシアでも同じようにのら犬に敵意を向けられた。

 

山あり谷ありの山道を首都に向けて進もうとするが、軍事関係上の理由で通行止めが多く、ルート選びに多少苦戦する。

(アルメニア領の幹線道路が主要水道管のトラブルで勢いよく水が道路に流れ出して通行止めとなった。迂回路を探すもなかなか見つからず先に進むのに時間がかかった。アルメニア領のAgarakの町)

 

(カパン=Kapanの旧ソビエト時代の無味乾燥とした住居用のアパート群)

 

カパン(Kapan)~首都エレバン(Yerevan250km

前日の様に山岳地帯を進むも、途中から高原をひたすら進む。この日は雨が降ったり、止んだり、晴れ間が見えり、再度雨が降ったりと天気が何回も変わる。

 

ノアの箱舟伝説があるアララト山を見ながら首都エレバンへ近づく。アララト山はトルコ領にあるが、首都エルバンから高原上にそびえ立つ雄峰が良く見える。

 

エレバンから20km程度離れた場所に世界遺産のエチミアジン・カテドラル(アルメニア正教の総本山))があると言うので見学したが、カテドラル内部は修復中で入れなかった。質素な造りだが、千年以上の歴史に耐えた外観を見学。

 

世界遺産だが、拝観者は少ない。

(アララト山=標高5,137m 天気が刻々と変わるためシャッター・チャンスになかなか恵まれなかった。)

 

(小アララト山=標高3,935m。写真右側にはアララト山の一部が見える。首都エレバンへ向かう途中。)

(途中で出会ったドイツ人の女性ライダー。ヤマハXT500に乗り単独でワイルドキャンプもしながらツーリングをしていた。)

 

(イラン国境から首都エレバンへ行く途中にこのような広い高原が広がっていた。)

 

(首都エレバンの一角。ロシアを感じさせる街並みだ。)
 

首都エレバン~アラヴェルディ(Alaverdi200km

朝から雨のためレインウェアを着込んで走り出す。雨の日は視界が悪い上、冷たい雨で気温が低くなるためオートバイには乗りたくない。

 

谷川沿いを進み長いトンネルをくぐり抜けると天気は晴天になっていた。アラヴェルディは小さな町だったが、4年前までは大きな金属精錬工場があったと言う。今は廃墟となった工場が町を暗くしている。

 

環境問題で工場が閉鎖されたと聞いた。工場で働いていた多くの人々は仕事を求めてロシアへ渡ったと言う。

 

この町から10kmしか離れていない村に世界遺産のハガパット修道院(Haghpat Monastery)があるが、

町の活性化には余り役立っていないようだ。

 

アラヴェルディの約40km先はジョージアとの国境になる。

(首都エレバンからアラバルディ方面へ向かう途中の高原の牧場。直前まで雨が降っていたので、曇り空にっていた。)

(首都エレバンからアラバルディ方面への広い高原農地)

 

(トンネルを抜けるとアラバルディ付近は晴れていた。)

(アラバルディで4年前に環境問題のため閉鎖された金属精錬工場。大きな建物で長さは200m~300mあった。)

 

ジョージア6510km

数年前まではグルジアと呼ばれていたが、国名をジョージアに変更した。アルメニア同様、旧ソビエト連邦に属していたが、ソビエト連邦崩壊後独立した。

 

面積が北海道の8割程度の国であり、人口約400万人の農業、牧畜業が盛んな国だ。良質なぶどうを活かしたワインの生産が盛んだ。ジョージアワインは世界にも有名だ。

 

ジョージアは同国北部の南オセチア地域(首都トビリシの北の地域)を巡り、ロシアと2008年に軍事衝突し、その後停戦したが、今でもロシアとの緊張状態は継続している。そして、アルメニアと異なり同国は欧州と連携することを選び、EUへの加盟を申請した(まだEU加盟は認められていない)。

 

アルメニアとの国境から80km程度進み首都のトビリシ(Tbilisi)に到着した。トビリシに至るルートは広い平野が開けている場所で牛が放牧されている光景を目にするのどかな場所だ。

 

ジョージアはアルメニアから入国後、トビリシ(Tbilisi)~250km~クタイシ(Kutaisi)~150km~黒海沿岸のバトミ(Batumi)へと進みトルコへと出国した。

 

首都トビリシ(Tbilisi3

首都トビリシ(Tbilisi)は人口100万人強の都市だが、市街地が広く思っていたより大きかった。旧市街の建物が欧州的な感じがする町だった。トビリシでは旧市街の台所付きの部屋があるホステルに投宿した。

 

偶然通りがかった狭い路地にホステルの看板を見付け、部屋があるかどうか尋ねたら、そこで物置を整理りしていた初老の大柄な男が<部屋はある>と言う。 この年配では珍しく、英語を話す男だった。

 

その大柄な男が主人かどうか最後までわからなかったが、ホステルのオーナーは70歳手前位の初老の女性だった。ロシア語は話すが、英語はYesNo位しか理解しない、笑顔が無い厳しい顔つきの女性だった。 たぶん厳しいソ連時代とソ連崩壊後の混乱期を生き抜いたため、厳しい顔つきになったのだろう。

 

そんな女性だが、当方のライディングジャケットやズボン及び下着まで無料で洗濯して乾かしてくれた。

 

台所は重宝した。簡単な料理なら自分でもつくれる。当方は投宿後、早速食料の買い出しへ出かけ、たまご、ハム、野菜等を買い、その夜は自炊してラーメンを食べた。

 

アルメニア首都エルバンでは観光をする気になれなかったが、トビリシでは、散策を楽しみながら街並みを見て回った。トビリシには何故か町の散策を誘惑するような雰囲気と魅惑的な街並みがあった。

(ジョージアの世界遺産 Mtskhetaのカテドラル=首都トビリシ(Tbilisi)から50kmの距離)

 

(高台からみたジョージアの首都トビリシ=Tbilisi)
 

(大きな街路樹がある首都トビリシの目抜き通り)

(首都トビリシの国会議事堂正面にはまだ未加盟のEU国旗がなびいている。

EU加盟は同国の最優先事項である。)

(首都トビリシの中心的存在の自由広場=Liberty Square)

(首都トビリシの温泉街。小川の両側のレンガの建物は温泉の風呂)

(旧市街の住宅街。建物のベランダに洗濯物が干してあり、生活感がある。)

(トビシリ旧市街の狭い路地にも入れる日本から中古輸入したホンダの軽トラックは重宝だ。)

(ジョージア語の文字と英文字を表記した建物。アルメニア語の文字もジョージア語の文字に似ていた。)

(ジョージアの伝統的造りの民家。回廊のようなベランダがある。)

 

ジョージア第三の都市クタイシ(Kutaisi)2

トビリシから東へ250km程度広い平野部(盆地)を進み、第三の都市クタイシ(Kutaisi)を次の投宿地とした。

第三の都市と言ってもトビリシに比べると規模も人口も小さい(人口15万人程度)。クタイシの主だったところは徒歩圏内にあるこじんまりとした都市だが、町の起源は欧州でも最古の部類で紀元前5~6世紀に遡ると言う。また、11世紀~12世紀にはジョージアの首都であったこともある。


 

いつもように宿の予約なしでクタイシに到着した。最初に回った3軒の宿では満室との理由で宿泊を断られ、投宿宿が確定しない。住宅地の5軒目の自宅の一室をホステルとしている民宿に投宿した。

 

その宿は近所の生活音や夕食を作る匂いがする場所だった。

 

宿のベランダでくつろいでいると近所の小さい子供達の遊ぶ声、幼い兄弟の喧嘩を大声でしかりつける母親の声、またピアノを練習する音が聞こえてくる。食事時には焼き魚のにおいまでした。

こんな風に生活しているんだなとジョージアの人々を身近に感じた。

 

宿を切り盛りしていたのは大柄の65歳の女性だった。肝っ玉母さん風で笑顔を絶やさず、当方へもロシア語で話しかけてくる。 当方はこの女性を50歳代の主婦と思っていた。このホステルの親戚の集まりで英語を話す孫が18歳だと聞いて驚いた。ジョージアの人々は早婚のため、65歳の女性に18歳の孫がいることは珍しくないと言う。 

 

当方がその女性に50歳ぐらいだと思ったと伝えたら(英語を話す孫を介して)、朝食付きの宿ではなかったが、翌朝に笑顔で当方へ朝食用のケーキとチーズ入りパイを持ってきてくれた。

 

また、親戚の集まりでの残り物だと思うが、自家製ワインやらケーキやらのおすそ分けをもらい、ジョージアの下町人情を感じた。


宿の肝っ玉母さんの夫は物静かな人だった。当方がクタイシ近隣の世界遺産を2つ見学すると伝えたら、初老の夫はその場所から遠くない穴場的な山の中の小さな修道院の見学をそっと勧めてくれた。

 

(首都トビリシの周りは広い農地が広がっている)

(デンマークからバイクツーリング中のシニアの二人組(63歳と68歳)。一人はホンダのアフリカツイン、もう一人はトライアンフのタイガーに乗っていた。)

(クタイシから10km程度の場所にあるジョージアの世界遺産ゲラティ修道院=Gelati Monastery)

(クタイシ市内の投宿ホステルの親父が教えてくれた山の中の隠れ教会)

 

(クタイシ市のBagrathi Cathedral=世界遺産)

(クタイシ市内の石畳の中心部はヨーロッパの街のようだった。)

(クタイシの伝統的ケバブ=Bikentia’s Kababi写真右側 値段は10ジョージア・ラリ=約550円 Restaurant Bikentia)

 

 

(クタイシ市内で投宿したHostel Temuriの女主人)


黒海沿岸のバトミ(Batumi)一泊

トルコへと出国するために一泊したのみの通過町だった。近代的な高層ビルが建ち並び貿易港を有するジョージア第二の都市であった。


 

観光はせずに寝るだけの町であったため、もう一泊して町を見て回れば良かったと後で思った。

黒海はイラン北部で見たカスピ海とは違い薄緑の奇麗な色をしていた。砂利でおおわれた狭い海岸には水着姿の人がちらほらしていたが、海に入っている人はいなかった。恐らく海水が冷たいのだろう。

 

バトミでは黒海の影響か、ジョージアの内陸部より湿度が高く、すこし肌寒く感じた。

 

翌朝には20km先にあるトルコとの国境(Sarpi)に向かった。

(ジョージアの地方道=日本にも似たような風景がある)

(Batumiの黒海=Black Sea)

(Batumiの海岸と黒海沿いの街並み)

 

ジョージア出国とトルコ入国手続き

 

ジョージア出国手続き

月曜日の朝のためバトミから10km郊外までの国境へ向かう幹線道路は混んでいた。<トルコへ向かう車がこんなに多いとは国境通過は時間がかかるだろう>と危惧したが、国境手前10km位からは国境へ向かう車は疎らになった。

 

オートバイに乗ったままドライブスルー形式のジョージアのイミグレーションのブースでパスポートに出国印を押印してもらった後、100m程進んだ2番目のブースの税関で運転免許証、パスポート、オートバイの登録証(Registration Certificate)の提示を求められた。


 

このブースの税関職員に予期せぬことを言われた。ジョージアでは当方のジュネーブ条約に基づき発行された国外運転免許証は有効では無く、日本の運転免許証とアポスティーユ認証済み(公証人役場で翻訳証明をした公式書類)の英文翻訳の運転免許証が必要だったと言う。当方を直ぐに出国させてくれない。 

 

当方は<それならジョージア入国時の税関でその様に言ってほしかった。当方に責任は無い。>と反論した。税関職員も当方に落ち度がない事ないことを認め、誰かと電話で確認して約10分程度で出国を許可した。 

 

当方は80ヶ国以上の国々をオートバイツーリングして来たが、国外運転免許証にケチが付いたのは初めてだった。


 

後で調べてみるとジョージアは日本同様に国外運転免許証のジュネーブ条約の締結国あることが判った。

税関の人達が知らなかったのか、あるいはその後ジョージアの国内法が変わったのか不明である。

 

出国をする他の車が数台程度と少なかったこともあり、税関での待ち時間を入れても手続きは約20分程度で済んだ。

 

トルコ入国手続き

ジョージア出国後100m程度進みトルコのイミグレーションの建物をオートバイに乗ったままドライブスルーで進む。 最初のブースでパスポートに入国押印を得た後、税関職員が4名ほど出てきて横柄な態度でオートバイの荷物検査を始める。

 

特に若い女性の税関職員は<ハラム、ハラム>と言いながらオートバイ搭載の荷物をごそごそとかき回し始める。お酒のようなイスラム教で禁止されているものを<ハラム>と言うが、それを探していたのだろう。

 

当方は荷物の中にコカコーラの空きペットボトルに飲料水を入れておいた。税関職員はそのペットボトルにウォッカが入っているのではないかと疑い、キャップをあけて匂いを嗅いでいた。

 

多分ペットボトルにアルコールを入れて入国を試みる人が多いのだろう。

 

税関職員は当方の荷物をかき回すだけかき回して、検査が終了すると、<検査の順番待ちの人がいるので早く先へ進め>と言わんばかりの横柄な口調で命令する。

 

当方は荷物を整理して、しっかりオートバイに固定しないとオートバイを動かせないので、当方の荷物の状況を無視する言い回しには腹がっ立った。 こんな態度の税関職員はトルコの第一印象を悪くさせる。

 

更に先に進むとドライブスルー形式の2番目の建物があり、オートバイの登録を行う。トルコのバイク保険の提示を求められたが、当方は持っていなかった。 

 

<この建物に強制保険に加入する窓口がある>とブース係官に教えてもらい、保険期間が3ヶ月間のバイク保険の加入後手続きを済ませた。トルコ入国でも一時輸入許可証(Temporary Import Permit)のような紙ベースの書類作成は無かった。 

 

イミグレーションと車両の入国手続きを行うビルの間の空き地にはトルコの銀行ATMがあり、そこでトルコリラの現金を用意した。

 

当方の前に56台程度、車両で入国する人達がいた。その順番待ちも入れて小一時間でトルコの入国手続きが終了した。 簡単な手続き故、この国境には手続きを手助けする業者はいなかった。

(トルコのイミグレーション建物)


以上


 

イラン(下編)テヘラン~カスピ海沿岸~タブリーズ~アルメニア入国 1,200m (5/1825


 

カスピ海沿岸は湿潤な気候

首都テヘランから山越えしてカスピ海沿岸に出ると今までとは全く違う景色が広がっていた。山々には草木が生い茂り、荒地は緑の牧場となっていた。田植え中の水田も広がっていた。 カスピ海がもたらす湿潤な気候が降雨をもたらしてくれるお陰だろう。 

 

水田が広がる風景は日本のようだ。カスピ海のお陰で気温は上がらず、晴天でも暑さを余り感じない過ごし易い気候だ。

 

ただし、その反面,湿度が内陸部より高く、洗濯物が乾きにくい。内陸部では前日夜に手洗いして室内干したナイロン生地のTシャツは翌日朝にはすっかり乾いている。しかし、カスピ海沿岸ではそうはいかなかった。翌朝でも洗濯物は湿ったままだった。

(首都テヘランからカスピ海方面へ向かう途中の山脈の南側(テヘラン側)は降雨が無いため禿山。)

(テヘランからカスピ海方面へ向かう途中の山脈の北側=カスピ海側)

 

温泉地サリーン(Sarien

当方があるイラン人へ<イラン北部のアルダビル(Ardabil)へ行く>とイラン人へ言ったら、温泉があるサリーン(Sarien)を是非訪れ温泉浴をすることを勧められた。 アルダビルから約35km程度西(タブリス方面)に天然温泉が出るサリーンという町がある。 

 

サリーンは畑の真ん中に突然ビルが建っているような場所だった。温泉が湧き近代的なビルの温泉浴場やホテルができたようだ。

 

ブールサイズの温泉浴場が男女別にある。 水着を着てプールに入るように温泉風呂に入る。温泉風呂で泳いでいる入浴客もいるが、特に禁止されていない。 ただし、飛び込みだけは<水深が十分無いため禁止>との注意書きがあった。

 

温泉施設には湯舟サイズ個人用バスタブもある。 当方は8か月ぶりに全身をお湯につかり、リラックスした気分になった。

尚、水着は温泉施設の脱衣場で販売している物を買った。

(温泉の大浴場は長さ20mx幅10mスイミングプールのサイズ。)

(個人用の温泉浴槽)

(土産屋が軒を連ねる温泉町サリーン=Sarien)

 

山の洞窟を利用した住居があるカンドバン(Kandovan)村

タブリーズ(Tabriz)の南50km先に山の洞窟を利用した住居群があるカンドバン村のことを旅行書で知った。カンドバン村にはトルコのカッパドキアに似た景観があるので<ミニ・カッパドキア>とその旅行書は紹介していた。

 

カンドバン村では洞窟を利用した住居の内部を見学することができた。 オーナーの女性が快く住居の居間を見せてくれた。床にペルシャ絨毯敷き、エアコンがある部屋は洞窟内とは思えないほど快適そうな空間だった。

 

タブリースで嫌なこと

イランでは親切で親日的な人達に多く出会い、夕食をご馳走になったりと良い思いをしたが、不愉快なことが二つあった。

 

ひとつはタブリーズ街中で当方が散策中に45名の男子高校生グループにしつこく絡まれたこと。

もうひとつはチェックインしたホテルの受付係が当方が外出するためにパスポートを一時返却してほしいと依頼した際、受付係と口論したことだった。

 

高校生ぐらいの男子グループは当方をからかうように言いより、<どこの国から来たか>とか、<スマホで一緒に写真を撮らせてくれ>とせがんだりする。

 

無礼な対応をする高校生グループに対して当方は無視して歩道を進み続けたら、グループの一人が突然当方の両肩を後方から手て抑えて当方の歩行を阻止して写真を撮ろうとする。 

 

当方は怒って、日本語で<バカヤロー何をするか!>と大声で高校生を怒鳴りつけた。びっくりした高校生グループは当方から離れ、逃げ出したが、嫌な思いをした。

 

もう一つはホテルの受付に預けたパスポートを外出中は返却してほしいと受付係の男に依頼した時だった。イランではホテル等の宿ではイラン人でも外国人でも宿泊中は受付にパスポートを預けることになっている。 

 

当方は、外出中警察官等に検問された際に身分を示すものが無いと困るため、常時パスポートとビザを携帯する。外出する際には、当方の経験ではホテルは一時的にパスポートを返却してくれる。 

 

しかしながら、このホテルの受付係は当方がパスポートの一時返却を求めても、応じない。

当方と押し問答をしてるうちに、受付係は<パスポートが必要だったら、チェックアウトして出ていけ>と前払いした宿泊料金を自分のポケットから取り出して、激高した口調で言うではないか。

 

結局、当方が折れて、パスポート無しで外出をした。

その翌日に当方がオートバイで日帰りツーリングをする際にはパスポート持参が必要だと考え、他のホテルへ移るため候補先のホテルを下見した。

 

受付係は翌日の日帰りツーリングの際には、パスポートを一時当方へ返却してくれたが、前日受付係が何故そこまで激高したのか判らない。

 

イラン出国からアルメニアへ入国手続き

イランの国境手前に公式な両替所は無かった。

ただし、国境直前の複数の商店が並ぶマーケット街の雑貨店で余ったイラン通貨をアルメニア通貨へ両替することが出来た。

 

イラン側のマーケット街ではアルメニアから越境してイランで買い物をするアルメニア人が多いのだろう。

 

イラン出国

すこし分かりずらい。

 

英語で<Border Terminal>の表示がある建物の横の入口ゲートで係官からチケットのような紙切れをもらい(この紙切れは出国ゲートで他の係官に渡すことになる)イミグレーション・税関の敷地内へ入る。

 

入口から300m程度進むと<Passport Terminal>と表示した建物がある。

このPassport Terminal でパスポートに出国印を押印してもらった後、出国ゲート直前の税関の小さな事務所(詰め所のような場所)でカルネに押印してもらう。 

 

その小さな税関事務所の20m程先に出国ゲートがあり、出国ゲートの係官へBorder Terminal建物横の入口ゲートで渡された紙切れを渡して終了する。税関職員はオートバイの本体確認さえしない。

 

意外と簡単な手続きでイミグレーションと税関手続き両方合わせても通常だったら1時間もかからないだろう。ただし、敷地が広く、どこへ行けば分かりずらいため、当方は出国手続きに一時間以上かかった。

 

アルメニア入国手続き

国境の川にかかる橋を渡るとアルメニアになる。

 

イミグレーション

入国検問所の後に警備員の詰め所みたいな小さな建物ある。その小さな建物がイミグレーションの手続き場所である。当方はイミグレーションとは気が付かずに先に進んでしまい、折り返して戻ってきた。

 

イミグレーションでパスポートに押印してもらうのに2030分位時間がかかった。係官は当方のパスポートにおされている多数の他国のビザを一つ一つチェックした上、パスポートの顔写真を当方の顔と何回も見比べた。 

 

当方の追加ページがある分厚いパスポートが怪しいと思ったのか、本人顔写真のページをルーペを使って細部までチェックした挙句、同僚を呼んで当方がパスポートの本人かどうか再確認をしていた。

 

税関手続き

税関で一時輸入の書類を作成してもらい、書類作成の費用として5,800ドラム(アルメニアの通貨で約1600円)を同じ場所にある銀行窓口で支払う。この銀行窓口の裏側に銀行ATMがあり、クレジットカードで現地通貨のドラムをキャッシングできる。

 

その後、オートバイを税関エリア内へ持ち込み、荷物をオートバイから降ろして、歩行入国者と同じ建物のX線検査機まで運び、荷物検査を受けて終了する。

 

入国管理官や税関職員は英語を全く話さないため、グーグル翻訳が必要だった。コミュニケーションの問題もあり、手続きがスムーズに行かずに当方は2時間近く時間がかかった。

 

アルメニアの入国管理官や税関職員の対応は冷たく横柄だった。三十数年前までソビエト連邦の一部だったため、ロシアの体質が残っているのだろう。

(イラン側の高台からNurduz国境付近を見る。写真下側はイラン領。少し分かりずらいが、写真の真ん中あたりは国境の橋。写真上部はアルメニアの町)

 

(国境の橋をアルメニア側からイラン側を見る。)
 

走行ルート

テヘラン(Tehran)~210km~チャールス(Chalus(1泊)~230km~バンダール・アンザリ(Bandar Anzali(2泊)~250km~アルダビル(Ardabil(2泊)~日帰りツーリングで温泉町サリーン(Sarien)往復70km~アルダビル~230km~タブリーズ(Tabriz)~日帰りツーリングで洞窟住居のカンドバン村(Kandovan)往復110km~タブリーズ~150km~アルメニアとの国境ノルドス(Norduz)でアルメニア入国後~70km~アルメニア最初の宿泊地カパン(Kapan)で投宿


(赤線は首都テヘランからタブリースまでの走行ルート。 テヘランは地図右側の下から2番目の赤丸印の位置。タブリースは一番左の赤丸印の位置。地図上部の海は世界最大の塩湖、カスピ海)

 

 

以下同ルートのコメント。

 

テヘラン(Tehran)~チャールズ(Chalus210km

カスピ海側へ一般道路を北上する。テヘランの北には山脈があり、山脈の南側(テヘラン側)は雨が降らない乾燥地帯だが、山脈の北側(カスピ海側)は降雨が多いため風景が全く異なる。(前述)

これほど山の南北で景色が異なる国は少ないだろう。

 

カスピ海沿岸はリゾート地帯になっている。海岸沿いには家族旅行者用の台所設備があるアパート型ホテルが多かった。

(チャールズ=Chalusの投宿ホテル6階からカスピ海を望む)

 

(チャールズ=Chalusのカスピ海浜辺)

 

(カスピ海浜辺の有料休憩座敷ベンチ)

 

チャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)230km

カスピ海沿いに連なる町々を通過して幹線道路を走行する。

幹線道路沿いは町が多いため、道路には多くのハンプス(車のスピードを落させるための道路上の凸型の突起物)がある。そのため、スピードは時速50km60km位しか出せず時間がかかる。 

 

バンダル・アンザリのホテルは前泊したチャールズのアパート型ホテルと経営者が同じで、ホテルの部屋代は割り引いてもらった。また、無料で昼食まで提供してもらった。ただし、後で経営者に同ホテルの事をブログで紹介してほしいと依頼されたので、お礼の意味をこめて快諾した。

 

バンダル・アンザリには貿易港がある。港周辺は警備が厳重だろうと思ったが、実際には写真は撮り放題で警備員の姿は見なかった。

(チャールス=Chalusからバンダル・アンザリ=Bandar Anzaliへ向かう途中のカスピ海沿いの幹線道路。歩道の植木が上手に剪定されていた。)

 

(チャールスからバンダル・アンザリへ行く途中の町のロータリー。何故か旗でなびいていた。)

 

 

(オートバイで走行中に無性にスイカが食べたくなった。当方が<スイカを1/4切り売りしてほしい>と依頼すると、スイカ売りの男は<切り売りはできないが>と言って見世物用に半分に切ってあったスイカを<食べていけ>と少し分けてくれた。)

 

(カスピ海沿岸地方の田植え直前の水田)

(カスピ海沿岸地方の田植え風景。手押し式の田植え機を使用していた。)

 

(サフランで色を付けたバターライスとシチューのカスピ海沿岸地方の名物料理バガラガト=Baghaleh-ghatogh)

 

(写真左側のイラン系カナダ人女性ロザさんはカスピ海沿地方出身だった亡き父親の土地の管理のため毎年数か月同地に滞在中だった。彼女は上の写真の郷土料理を当方にご馳走してくれた。)

(バンダル・アンザリで投宿のHotel Olympicの本館)

(Hotel Olympicの上階から平屋の別館とカスピ海を見る。当方は紫色の屋根の平屋の別館に宿泊した。)

(バンダル・アンザリの港からタグボートに曳航され出港する貨物船。)

(バンダル・アンザリの海岸=港の岸壁から臨む。)

 

バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)~アルダビル(Ardabil250km

バンダル・アンザリから160kmはカスピ海沿いを北上するが、そのままカスピ海沿いを進むとアゼルバイジャン領に入る。

 

アゼルバイジャンは外国籍の車両での入国を現在許可していない。そのため、アゼルバイジャンと国境を接する町アスタラ(Astara)でイランの内陸部(西側)へと向かう。

 

高地のアルダビルに至るまでに標高1,000m程度の峠越えがある。その峠に到着するまでは道路は深い濃霧(雲)に覆われて、前方が見えず怖い思いをした。峠を越すと雲の上の高地となり、晴れ間が広がっていた。

 

アルダビルから約30km西に温泉町サリーン(Sarien)がある。温泉へ入るため、日帰りツーリングで訪れた。(前述)

 

アルダビルの町ではツーリング中では珍しく3つ星ホテル(Hotel Nigen)に投宿した。ホテル代がイランの他の都市より断然安かった。ビュッフェ(Buffet)形式の朝食付きのツイン・ベッドルームの部屋代が12米ドル(約1,600円)だった。

(バンダル・アンザリからアゼルバイジャンとの国境の町アスタラ=Astaraへ向かう途中。水田の向こうにはカスピ海が少し見える)

(アスタラからアルダビル=Ardabilへ向かう途中の峠道は深い濃霧=雲がかかっていた)

 

(アルダビルへ向かう途中の高原)

(アルダビルへ向かう途中の高原)

(アルダビルの旧市街の夕暮れ時)

(アルダビルの甘党の店。蜂蜜と黒ゴマ等を材料にしたあんこのような甘みのハルラ=Halra。小さなカップにいれて食べる)

(アルダビルの町で自慢げにカワサキのオフロードバイクに乗るイラン人。バイクのシートが高くて、当方は地面に足が届かなかった。)

 

アルダビル(Ardabil)~タブリーズ(Tabriz230km

高地だが、小麦畑が広がる大地を幹線道路が通る。この大地には木は生えていないが、この季節は降雨のためか、なだからな山々は草に覆われ緑色となり、植物の生命を感じさせる。

 

タブリースにはイランや中近東でも最大級の7000店舗があるユネスコ世界遺産のバザール(商店街)がある。

 

タブリーズの南方約50kmに位置して洞窟住居があるカンドバン村(Kandovan)を見学するため日帰りツーリングをした(前述)

(アルダビルからタブリース途中の高原の大規模農地。幅が100mぐらいの散水機械を使っている。)

 

 

(タブリーズ・モスクに残る高さ40m位の巨大な門。その昔には罪人をこの門の上から突き落としたと言う。)

 

(タブリーズの歩行者専用のショッピング街)

(ミニカッパドキアと呼ばれるカンドバンの村=Kandovan)

(カンドバン村の洞窟を利用した住居)

(カンドバン村の洞窟住居の居間)

(カンドバン村の土産店の店主。当方はお茶をごちそうしてもらった。)

 

タブリーズ~150km~アルメニアとの国境(ノルドス=Norduz)~アルメニア入国後~70km~カパン(Kapan) 合計220km

タブリーズからアルメニアとの国境までは山の中を通る最短ルートを進んだ。舗装道路かダート道かどうかも知らなかったが、ホテルの従業員は同ルートは舗装道路で問題ないと言う。

 

イランでは今までに見なかった谷あり、山あり、ワインディングロードありの変化に富むルートだった。久しぶりにオートバイの走行を楽しんだ。

 

国境には11時ごろに到着したが、国境での出国手続きの場所が判り難かった(前述)。

 

アルメニアへ入国すると、今まで通過した東南アジア諸国やインド等の南アジア及びイランと違う。

イミグレーションや税関職員のロシアと同じような冷淡な対応に、改めて旧ソ連邦の一部に入ったと実感した。

(タブリーズからアルメニアとの国境方面へ向かう途中の山岳道路。)

 

(タブリーズからアルメニアとのNorduz国境へ向かう途中。雨が降らない土地だが、灌漑を使って小麦を栽培する。)

(アルメニアとのNurduz国境付近は人が住むような環境ではない険しい山に挟まれた盆地だ。この道路の数キロメートル先に国境があった。)

 

 

以上