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インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

オーストラリアツーリング計画 (2024329記)

 

昨年7月にオートバイでのアジア・中近東ツーリングはスペインで終了した。

そのツーリングを計画した当初は開始から1年以内にオーストラリアでツーリングを終了できればいいなと希望的な考えを抱いていた。

 

しかしながら、マレーシアからスタートしたツーリングはタイからミャンマーを陸路を走破してインドへ進むことができなかった。ミャンマーの国境が外国人旅行者にはコロナ発生以来ずっと閉鎖中だったからである。

そのため、タイからインドへはオートバイを海上輸送した。

 

その海上輸送の準備やインド亜大陸の周回ツーリングは考えていたより時間がかかった。

そのため、ツーリング期間の後半には中近東からオーストラリアへ渡りることは時間的に余裕がないと判断して、オーストラリアツーリングを諦めた経緯があった。

 

当方は、今回のオーストラリアツーリングの計画は前回のアジア・中近東ツーリングの続きだと位置づけている。

 

今回のオーストラリアツーリングは20244月初旬にメルボルンの南西約100km程に位置するコラック(Colac)という小さな町からスタートして、オーストラリアのほぼ中央部にある世界最大の一枚岩で出来たエアーズロックを進む。

そしてオーストラリア中央部を更に北上後、オーストラリア北東の沿岸部のケアンズへと走行する。

 

ケアンズからオーストラリアの東海岸に沿ってタウンズビル~ブリスベン~シドニーへと南下して、その後メルボルンへと時計回りにオーストラリアの東半分を周回する計画だ。想定走行距離は約1km1.2万kmだろう。 

 

 

(上下の地図の赤線が計画しているツーリングルートだ。時計回りにオーストラリアの東側を周回する計画だ。下の地図は日本の中学生用の社会科の地図帳からコピーしたものだ。地図上には仮に日本が南半球にあった場合の緯度と大きさを表示している。)

 

ツーリング期間は2ヶ月前後を想定している。ビクトリア州やニューウェールズ州等の南部地域の気候次第ではツーリングを切り上げる可能性もある。北のケアンズから東海岸沿いに南下するに従い気温が下がり、5月になればオーストラリア南部のビクトリア州やニュサウスウェールズ州の寒さが増すからだ。

 

 

南半球のオーストラリアは北半球に位置する日本と季節は逆だ。

オーストラリアの南部州(シドニーが位置するニューサウスウェールズ州やメルボルンがあるビクトリア州)は既に秋に入り、4月には日本の東京の10月下旬~11月のように寒くなりつつある聞く。5月に入れば更に寒くなる。

 

他方ケアンズが位置する北部のクイーンズランド州は年中を通して常夏の熱帯・亜熱帯性の気候だ。日本の約20倍の面積があるオーストラリアならではの変化に富む気候帯が広がっている。

 

今回のツーリングで一番気になるのは5月に入ってからのビクトリア州等の寒温帯気候のオーストラリア南部地域でのツーリングだろう。

 

寒さ対策の準備はしているものの、冷たい風を切て走行するオートバイツーリングはきついし、体にこたえる。 我慢できない寒さなら、計画より早くツーリングを終了するかもと弱気になるだろう。

 

更に、オーストラリアの物価高(円換算)も気になる。日本の2倍以上のの物価水準だろう。

20229月~20237月のアジア・中近東ツーリング時でも円安のため、現地の物価は10年以上前までの円高時代のような割安感が無くなっていた。

 

物価対策として従来の海外ツーリングでは全く行わなかったキャンピング場等でのテント泊を、特に安価な宿泊施設が無いアウトバックと呼ばれるオーストラリア中央の砂漠地帯で試してみるつもりだ。

どのような体験になるだろうかと覚悟と楽しみがまじわった気分である。

 

尚、オーストラリアの中心的産業である石炭や鉄鉱石等の地下資源の開発や鉱山事業の現場はオーストラリアの
西部地域に多い。

 

今回のツーリングでは西部地域へは行かないので、当方が興味を持つ鉱山事業の現場見学ができないのが少し残念だ。

 

(オーストラリアでは上の写真と同一のスズキ・Vストローム250を知人から借りる予定。250ccエンジンのオートバイの割には車重は約180kgと重い。

 

下の写真のライディングジャケットの上腕の部分にはオーストラリアと日本の国旗ワッペンを付けた。

海外ツーリングでは現地の人たちに当方がどこから来たのかとよく聞かれるため、口で答えるより国旗ワッペンを見せて分かりやすくする工夫をした。

 

以上

 

 

単独のオートバイツーリングはユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断を初回として、2回目のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断、そして3回目のアジア・中近東ルート(最終地点はスペイン)だった。

走行ルートと走行した国々は以下の地図と記述を参照してほしい。

 

 

初回 ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 2017年5月~2018年7月 14ヶ月 走行距離約78,000km=世界地図上の紫色の線)

 

2017年5月に鳥取県境港市からオートバイとともに韓国DBS社のフェリー船に乗り、船上2泊3日でロシアのウラジオストックへ渡り、ウラジオストックからロシアをヨーロッパ方向に向けてユーラシア大陸横断をスタート。

 

途中モンゴル~再度ロシア~エストニア~ラトビア~リトアニア~ポーランド~ドイツ~チェコ~スロバキア~ハンガリー~セルビア~マケドニア(現北マケドニア)~コソボ~アルバニア~モンテネグロ~ボスニア・ヘルツェゴヴィナ~クロアチア~スロベニア~イタリア~スイス~再度イタリア(ナポリでバイクの盗難に遭う)~フランス~スペイン~ポルトガル(ユーラシア大陸最西端のロカ岬)~再度スペイン。

 

 

 

2017年10月にスペインのマドリッドからオートバイを空路にてアルゼンチンのブエノスアイレスへ運ぶ。

 

南北アメリカ大陸縦断スタート)南米ではアルゼンチン・ブエノスアイレスから北上してブラジル~ウルグアイ~再度アルゼンチン(最南端のフエゴ島ウシュアイア目指す)~チリ~再度アルゼンチン~ボリビア~ペルー~エクアドル~コロンビア。

 

そしてコロンビアのボゴタから中米パナマのパナマ・シティーまでオートバイを空輸後~コスタリカ~ニカラグア~ホンジュラス~グアテマラ~ベリーズ~メキシコ(メキシコ・カンクンにオートバイを置きキューバをバックパックで旅行)~アメリカ~カナダ~アラスカ~再度アメリカ。

 

2018年7月にツーリングをアメリカのロサンゼルスで終了して同地からオートバイを日本へ海上輸送で送り返す。

 

2回目 アフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断 2019年5月~同年11月 6ヶ月 走行距離約34,000km=世界地図のブルー色の線)

 

日本からスペインのバロセロナへオートバイを海上輸送後、2019年5月にスペインのバロセロナからツーリングを開始した。

 

スペイン~(アフリカ西ルートのスタート)モロッコ~西サハラ~モーリタニア~セネガル~マリ~コート・ジボアール~ガーナ~トーゴ~ベナン~ナイジェリア~(ナイジェリアとカメルーン間は海路で国境を超える)カメルーン~ガボン~コンゴ共和国~アンゴラ(飛び地)~コンゴ民主共和国~再度アンゴラ~ナミビア~南アフリカ(アフリカ東ルートのスタート)~ボツワナ~ザンビア~タンザニア~ケニア~エチオピア~スーダン

 

スーダンのサワキン(Sawakin)から紅海をサウジアラビア船籍のフェリー船でオートバイと一緒にサウジアラビアのジェッダへ渡航。

 

アラビア半島横断スタート)サウジアラビア~バーレン~再度サウジアラビア~2019年11月にアラブ首長国連邦(UAE)のドバイでツーリングを終了して同地からオートバイを海上輸送にて日本へ送り返す。

 

3回目 アジア・中近東ルート(最終地点はスペイン) 2022年10月~2023年7月 10ヶ月 走行距離39,000km=世界地図赤色の線

 

東南アジア6カ国

日本からマレーシアのポート・ケラン(Port Kelang)へオートバイを海上輸送後、2022年9月にマレーシアからツーリングをスタートする。

 

マレーシア~インドネシア(レンタルバイクを使用)~再度マレーシア~タイ~ラオス~カンボジア~再度タイ。タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送。インドへオートバイを輸送期間中にベトナムでレンタルバイクを使用してツーリング。

 

インド亜大陸=インド・ネパール・パキスタンと中近東=イラン・トルコ

2023年1月末にインド・ムンバイでオートバイを引き取り、インドア亜大陸のツーリングをスタート~ネパール~再度インド~パキスタン~イラン~アルメニア~ジョージア~トルコ~オートバイを日本へ海上輸送するためスペインのマドリッドまで走行(トルコ~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス~スペイン)。

 

2023年7月にスペインのマドリッドから海上輸送にてオートバイは日本へ送り返す。

 

ツーリングに使用したオートバイはBMW F700GS(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断)とヤマハ・セロー250(アフリカ3/4周とアラビア半島横断及びアジア・中近東ルート)。

 

アジア・中近東ルートのインドネシアとベトナムではレンタル・バイク(小型スクーター)を使用した。

 

BMW F700GS(ツーリング出発前の日本にて)

 

(南米ペルーを走行時のBMW F700GS)

 

(ヤマハ・セロー250 アフリカ・ツーリング出発前の日本にて)

 

(アフリカ・コンゴ共和国を走行時のヤマハ・セロー250)

 

 

(イランを走行時のヤマハ・セロー250)

 

(インドネシア・バリ島を走行時のレンタルバイク=ホンダ・ビート125)

 

(ベトナムを走行時のレンタルバイク=ヤマハのスクーター エンジン130cc)

 

以上

 

 

テーマ別一覧にて過去の投稿記事の検索が容易

 

従来、当方ブログ(Ameblo)の過去の投稿記事の検索がし難くかった。

 

そのため、例えば、2019年に行ったアフリカ3/4周とアラビア半島横断ツーリングの投稿記事に関心があっても、その投稿記事を探すのが容易ではなかった。

 

今回、当方が2017年の最初の海外ツーリング、<ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断>から投稿した記事を以下のテーマ別にも区分けした。

 

ブログを読む時間があまり無い人は総集編を読んでもらえれば、各ルートのツーリングのハイライトが判るようになっている。

 

また、各国、各ルートの詳しい状況が知りたいのであれば<ユーラシア大陸横断>や<南北アメリカ縦断>等の各ツーリングルート別(テーマ別)に表示されている詳細な投稿記事を参照することができる。

 

特に今後、海外ツーリングを行いたいライダーには各ルート別(テーマ別)に表示されている個別の投稿記事の国境通過の情報が参考になると思う。

 

 

テーマ別一覧

 

総集編(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ)

総集編(アフリカとアラビア半島横断)

総集編(アジア・中近東ルート)

海外バイク・ツーリング計画

海外バイク・ツーリング報告会

ユーラシア大陸横断(ロシア・モンゴル)

ユーラシア大陸横断(ヨーロッパ)

南北アメリカ大陸縦断(南米)

南北アメリカ大陸縦断(メキシコ・中米)

南北アメリカ大陸縦断(北米)

アフリカ大陸(西ルート)

アフリカ大陸(東ルート)

アラビア半島横断(サウジアラビア等)

アジア・中近東ルート(東南アジア6ヶ国)

アジア・中近東ルート(インド亜大陸等)

アジア・中近東ルート(イラン・トルコ)

アジア・中近東ルート(コーカサス諸国)

台湾一周バイクツーリング

日本でのバイク輸入通関

日本

 

 

尚、パソコンでブログを閲覧する場合は、当方ブログ<インベストメントライダーふるさんのブログ>画面の左側横をスクロールすると<最新の記事>の下に<テーマ>別の一覧が表示されている。

 

スマホで閲覧する場合はブログ画面中央の<テーマ>をクリックするとテーマ一覧が表示される。

 

(ブログ画面中央のテーマをクリックするとテーマ一覧が表示される)

 

 

(上記テーマ一覧の各テーマ(ルート)をクリックすると各投稿記事が表示される)

 

以上

アジア・中近東ツーリング報告会の案内(WTN-J第87回お話会)

 

WTN-J(ワールド・ツーリング・ネットワーク・オブ・ジャパン)主催の当方のアジア・中近東ツーリングの報告会を下記の通り行います。

 

当日会場での参加でもZoomによる参加でも可能です。

 

 

                記

 

タイトル コロナ禍のため3年延期となったアジア・中近東ツーリング

話し手 古橋聖司

2023年11月3日(祝)13時半開場 14時より16時30分まで

 

場所 

杉並区消費者センター(ウェルファーム杉並 3F) 第1・2教室(一体使用):MAX60人

住所:杉並区天沼3丁目19番16号 ウェルファーム杉並3階電話番号03-3398-3141

荻窪駅(JR中央線・東京メトロ丸の内線) 荻窪駅徒歩約10分

https://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/sangyo/shohi/1007453.html

 

 

会場での参加費 500円(当日会場にて主催者へ現金支払い)

ZOOMでの参加費用 500円(後述するように報告会後、ゆうちょ銀行のWTN-J口座へ振り込み)

 

<懇親会> 

報告会後、会場近くの居酒屋 費用は別途4000円ぐらい(当日現金払い)。参加希望は当日会場にて確認します。

 

尚、会場及びZoomでの参加希望の事前連絡は不要です。

参加者は直接会場にお越しください。Zoom参加の場合は直接ZoomミーティングURL(後述)にお繋ぎください。

 

尚、Zoomでの参加は後述します。

 

報告会でのお話の概略

 

コロナ禍明けの海外ツーリングは日本からのオートバイの持ち出し、ツーリング中のタイからインドへの海上輸送、スペインからの帰国時と、それぞれの段階で輸送を請け負ってくれる業者を見つけるのに手間がかかった。

 

計画当初トルコのイスタンブールからスタートしてインド・東南アジアを経由してオーストラリアで終了するルートを考えていたが、輸送業者との打合せに3~4ヶ月かかり、トルコからスタートするには季節的に遅くなりすぎた。

 

そのため、ツーリングスタート地点をマレーシアへと変更した。2022年9月末にクアラ・ルンプールからスタートし、東南アジア諸国をツーリング後、インド亜大陸を経てトルコのイスタンブールを目指した。 

 

東南アジア6カ国ツーリングでは費用と時間を考えて、インドネシアとベトナムではレンタルバイクで行った。30年ぶりのタイ訪問では、想像していた以上にタイの繁栄ぶりを見た。また、ベトナムも想像していた以上に経済的に発展して豊かな国だと判った。 

 

ツーリングの計画段階から懸念していた通り、タイから陸路にてミャンマーを経てインドへ進むことは、ミャンマー国境閉鎖が継続中でかなわず、タイからインドへはオートバイを海上輸送した。

 

インド亜大陸は初めてだった。インドは今回のツーリングの主たる国と位置づけていた。世界一の人口とは理解していたが、実際に訪れると人の多さに圧倒された。毎日のカレー風味の食事には飽きたが、ブッタが悟りを開いたブッタガヤ等の仏教聖地の巡礼できて、仏教への理解を深めることができた。 

 

イランは事前に聞いていた通り、人々が親切で居心地が良いところだった。今回のツーリングでは一番気に入った国だった。 

 

トルコのイスタンブール到達以降の計画は当初から流動的だった。

 

トルコからドバイを経てオーストラリアへ渡りそこでツーリングを終了する案、ロシア・韓国経由陸路で帰国する案、欧州からオートバイを日本へ送り返す案をツーリング出発前から念頭に置いていた。

 

最終的にはスペインのマドリッドまでオートバイを走らせ、同地からオートバイを日本へ送り返した。そして、アジア・中近東ツーリングは10ヶ月、20カ国を延べ39,000km走行してスペインで終了。

 

(紫色の線は2017年5月~2018年7月のユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 76,000km

ブルー線は2019年5月~2019年11月のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断 34,000km

今回の報告会は赤色線ルート 2022年9月~2023年7月のアジア・中近東 39,000km)

 

(インド最南端のコモリン岬=カニャクマリ市)

(イラン国境を目指すパキスタン・バロチスタン州では警察車両の護衛で走行)

 

Zoomでの参加の場合は以下の通り(主催者WTN-Jからのお願い)

 

スケジュールされた Zoom ミーティングを開始または参加するには、参加 Zoom ミーティング

https://us02web.zoom.us/j/82233869489?pwd=N3dqMkkyQzFNbUxBQ3NoSEk5MGxvQT09

...

<ZOOMでオンライン参加の皆様へお願い>

 

WTNJではコロナ過に入って以来2年間、ZOOMによるお話会を無料でお届けしてきました。その間、ZOOMのアカウント維持費などはWTNJからの持ち出しで開催していましたが、我々の活動資金も残り少なくなってきました。

そこでご視聴いただいたあと、下記のいずれかの送金方法にて500円をお話会運営の実費としてお支払い頂くことをお願いします。

何卒よろしくお願いします。

ZOOM決済URL。

https://buy.stripe.com/aEU9E60ti5n6eDm3ce

ゆうちょ銀行

【記号 10240

番号 77710101

名前 ワールド・ツーリング・ネットワーク・ジャパン 

 

以上

スペインから日本へ海上輸送したオートバイの受け取り

 

海外ツーリングに使用した当方のオートバイを日本へ海上輸送するため、帰国直前の7/14にマドリッドの梱包業者の倉庫へ持ち込んだ。

 

梱包業者の倉庫にてオートバイを木枠梱包後、スペインの輸送業者はオートバイを陸路マドリッドからバレンシアへ輸送。そして同地で輸出通関後、当方のオートバイは7月末に海上輸送する本船に船積された。

 

当方のオートバイは途中経由地のシンガポールにて日本行きの船に積み替えられた後、9/13に東京港(大井)にて陸揚げされ、9/21に東京港からトラック便で保税輸送(未通関のまま輸送)され横浜港の本牧ふ頭にある輸入倉庫に搬入された。

 

スペインのマドリッドにてオートバイを梱包業者へ引き渡してから2ヶ月以上が経過して横浜港の輸入倉庫へ搬入されたことになる。

 

今回で3回目となるオートバイの輸入手続きは、過去2回と同様にすべて自分で行った。

手続きは以下の通り簡単である。

 

本船が日本の到着港(東京港)に到着する3日位前に、日本側の輸送業者から貨物のアライバル・ノティース(Arrival Notice)がメール送付される。

 

日本側の輸送業者に貨物輸入の陸揚げに関わる費用=CFSチャージ等(約3.7万円)を銀行送金後、デリバリー・オーダー(Delivery Order)という貨物の受取り指図書を発行してもらう。

 

横浜港の本牧ふ頭にある輸入倉庫のオペレーターに事前に貨物の引取り日を連絡。

 

貨物引き取りの当日、まず税関事務所(横浜税関・本牧出張所)へ赴き、貨物の輸入手続きを開始する。

個人輸入の場合、税関事務所の輸入第6課の係官が丁寧に手続き方法を教えてくれる。

 

税関では貨物のX線検査を行うため、税関が発行する貨物の<X線検査の書類>と上述のデリバリー・オーダーを持参してトラックで輸入倉庫へ貨物を引き取りに行く。

 

輸入倉庫のオペレーターに上記④の書類を手渡し、貨物の搬出入手数料1,300円を現金で支払う。そして、倉庫オペレーターにフォークリフトでトラックに貨物を載せてもらい、貨物を税関のX線検査施設へ運ぶ。

 

⑥税関ではトラックに貨物を載せたままX線検査を行う。X線検査終了後、税関係官がオートバイのシャーシー番号を確認して荷物の検査は終了。

 

その後、税関事務所で輸入許可書を発行してもらう。

 

税関事務所の総務課に輸入許可書と海外ツーリングに使用したカルネを提出して、カルネ内の所在地証明用紙に税関の押印を受ける。所在地証明にかかわる印紙代は400円。収入印紙は事前に郵便局等で買っておく。

 

所在地証明証はカルネ発行の際にJAFへ寄託した担保金及びクレーム処理金を返却してもらうために必要な書類だ。

 

海外ツーリングにカルネを使用していない場合は、上記⑧の手続きは不要だ。

 

税関での輸入手続きに必要な書類は以下の通り

 

・アライバルノティース

・デリバリーオーダー

・貨物のB/L

・日本から輸出した際の(税関の)輸出許可書とインボイス及びパッキングリスト

・輸入貨物のインボイスとパッキングリスト

・帰国時の<携帯品・別送品申告書>(帰国した際の空港税関で申請)

・運転免許証等の本人確認のための書類

・カルネ(カルネを使用して海外ツーリングをした場合)

400円の収入印紙(カルネ内の所在地証明に税関の押印が必要な場合)

 

海外ツーリングで使用した衣服をオートバイと一緒に輸入貨物に同梱した場合、<携帯品・別送品申告書>があれば、関税無しで輸入通関できる。 <携帯品・別送品申告書>がない場合には、中古衣類の輸入として関税が徴収される。 

 

輸入通関に要した時間は輸入倉庫での貨物の引き取りに要した時間も含め約3時間程だった。

輸入通関終了後、オートバイを知人宅まで運び、知人宅で木枠梱包をバールを使って壊し、オートバイを取り出す。 

 

木枠梱包の廃材は横浜市資源循環局の粉砕機がある処分工場へ持ち込み処理を依頼する。

横浜市の場合、粉砕機がある工場へ廃材を持ち込む場合には、持ち込む6日前までに資源循環局の事務所にて廃材処理の申請が必要だった。

 

廃材持ち込み後に、処分工場で廃材約100kgの処分料金1,300円を現金で支払い、オートバイ引き取りに関する作業を終了する。

 

 

(横浜港本牧ふ頭の輸入倉庫でオートバイを梱包した木箱を受け取る小型トラック。背後ベイブリッジ)


(小型トラックの荷台上で木箱を壊してオートバイ取り出す。)

以上


 

総集編最後アルメニア・ジョージア・トルコ~スペインまで7,600km(2023/5/25~7/14)

 

アルメニアとジョージアの走行ルート 1,100km

 

イランのノルドス(Norduz)国境からアルメニアへ入国~カパン(Kapan)~首都エレバン(Yerevan)~アルベルディ(Alverdi)~Ptghavan/Sadakhlo国境からジョージア入国~首都トビリシ(Tbilisi)~クタイシ(Kutaisi)~バトミ(Batumi)~トルコへ出国

 

(赤線は走行ルート。地図右下はイランのタブリーズ=Tabriz。地図左側上部はジョージアのバトミ=Batumi)

 

アルメニア

 

アルメニアとジョージアは当初のツーリング計画には無かった。しかし、イランで出会ったドイツ人ライダーにアルメニアとジョージアは風光明媚な国々だと聞かされ計画を変更してイランからアルメニア・ジョージアを経由してトルコ入りすることにした。

 

アルメニア入国時のイミグレーションや税関係官の猜疑心が強く冷たい対応から当方は<アルメニアへ来なければ良かった>と少し後悔した。

 

その後、小さな田舎町カパン(Kapan)の宿経営者の不愉快な対応や首都エルバン(Yerevan)でも微笑しない人々等を見て当方のアルメニアの印象はすっかり悪くなってしまった。

 

他方、美しい山々、草花が咲き乱れた高原や緑の小麦畑が広がる盆地はツーリングを楽しませてくれた。特に首都エルバンへ向かう途中のノアの箱舟伝説がある巨大なアララト山(標高5,137m)は圧巻だった。

 

アジアの国々のユネスコ世界遺産では外国人は現地人の5倍~10倍程度の入場料を徴収されたが、アルメニア及びジョージアではユネスコ世界遺産の寺院や修道院の入場料が無料であったことには驚き、感心した。 アルメニアには3つの世界遺産の建物があったが、当方は2つ(Cathedral of Echimiadzin, Haghpat Monastery)を見学した。

 

(アルメニアの山岳地帯。標高2千メートル級の山々には雪が残る。)

 

(カパン=Kapanの旧ソビエト時代の無味乾燥としたアパート群)

 

(右側はアララト山=標高5,136m。左側は小アララト山=標高3,935m。両山はトルコ領にあるが、アルメニア側からも眺めは良い。)

 

 

(雨上がりの牧草地帯)

(ユネスコ世界遺産エチミアジン・カテドラル=Cathedral of Echimiadzin。アルメニア正教の総本山)

 

(世界遺産ハグパッド修道院=Haghpat Monastery)

 

ジョージア

 

ジョージアはアルメニアより西洋化され、欧州の雰囲気が感じられた。また、人々もアルメニアより開放的であり、多くの外国人観光客が訪れていた。

 

ジョージアはロシアと領土問題で軍事衝突をした。

その後もロシアとは緊張状況が依然続き、欧州連合(EU)と連携を模索中だ。EU加盟を申請し、脱ロシアを目指している。

 

他方、アルメニアは隣国アゼルバイジャンと軍事衝突を過去から繰り返している。アルメニアはロシアと連携して、生き残りを目指している。 

 

当方は首都トビリシ(Tbilisi)、クタイシ(Kutaisi)及び黒海に面するバトミ(Batumi)に宿泊した。

 

大相撲にはジョージア出身の力士が複数いる。最近引退した栃ノ心もそのひとりだ。トビリシのスマホ・ショップの若い店主がジョージア出身の力士の名前をすべて出して、大相撲を知っていると言ったのには驚いた。

 

(首都トビリシの中心的存在の自由広場=Liberty Square)

 

(高台から眺めるトビリシ市内)

 

(ジョージア文字は丸みを帯びた文字だった。)

 

(首都トビリシから約50km離れたムツケタ=Mtsketaのカテドラル=世界遺産)

 

(クタイシ=Kutaisiから10kmほど山の中にある世界遺産ゲラティ修道院=Gelati Monastery)

 

 

トルコ 2,700km

 

トルコの走行ルートは以下の通り:

 

ジョージアのバトミ(Batumi)国境から入国~リセ(Rize)~エルジンシャン(Erzincan)~シバス(Sivas)~オズコナック(Ozkonak)=カッパドキア地域~ハシベクタス(Hacibektas)~首都アンカラ(Ankara)~アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar)~パムッカレ(Pamukkale)=石灰棚とヘリオポリス遺跡~セルチューク(Selcuk)=エフェス遺跡~ベルガマ(Bergama)=アクロポリス遺跡~チャナッカレ(Canakkale)=トロイの遺跡~ダダーネルス海峡をフェリー渡る~サルキョイ(Sarkoy)~イスタンブール(Istanbul)

 

(トルコ地図。赤線は走行ルート。右側上部はジョージアのバトミ=Batumi。左側上部の赤丸印はイスタンブール)

 

(マルマラ海の最狭部=ダダーネルス海峡は幅1.2kmしかない。大型タンカーはタグボートに先導されて進む。)

 

美しい国土

 

ジョージアの黒海に面したバトミ経由トルコへ入国した。トルコの黒海側は温暖で湿潤な気候だった。山々は緑の木々に覆われ、内陸部の高原は丘陵地帯となり、草花が咲き始めた時期だった。

 

都市の新市街のビルや建物は比較的新しく町の景観が整っている。イスラム色の建物はモスク位しかなく、モスクが無ければ西欧の町並みに似ていると思った。

(トルコ黒海沿岸をリセ・トラブソン方面へ進む。)

(リセ=Rizeの町の広場)

 

(エリジンシャン=Erizincanの町と周囲を囲む山々)

(トルコ中央の高原)

 

(リセからエリジンシャンへ向かう途中の峠道)

 

親切で気前の良い人たち

 

トルコ最初の宿泊地のリセの町では、ホテルの隣のコンビニの店員は当方が日本からオートバイで来たと知ると、当方が買った食料品を歓迎の意味で無料にしてくれた。

 

エルジンシャンのペンションでは当方と同年配のペンション経営者が素泊まりの宿ながら、朝食用の軽い食べ物を取って行けと同氏が食べている食料を分けてくれた。

 

田舎道のガソリンスタンドでオートバイを給油した際には、ガソリンスタンドで世間話をしていた人達からお茶かコーヒーを飲んで休憩したらどうかと誘われた。

 

ハイウェイ走行中に出会ったオートバイ・クラブのライダー達には一緒に走行して、カッパドキアのライダークラブのキャンプに誘われた等々、トルコの人々にはいろいろ親切にしてもらった。

 

(リセのコンビニの従業員=大学院生は買った食料品を無料にしてくれた。)

 

(カッパドキア地方のオズコナック=Ozkonakの町に集まったトルコのライダーたちのチョッパー型の大型オートバイ)

 

世界遺産が多く見どころが多い

 

キノコのような形の高さ十数メートルの岩山やその岩山に洞窟を掘り住居とした地域がカッパドキアだ。トルコの自然世界遺産では一番有名で人気がある場所だ。観光シーズン真っ盛り中はホテルやホステル等の宿泊料金が高いため、当方は観光の中心であるギョローム(Gereme)を避けて周辺地域に宿泊した。

 

カッパドキアの後は、雪山のように白い石灰棚で覆われたパムッカレ(Pamukkale)、ローマ時代のエフェス遺跡があるセルチューク(Selcuk)、同じくローマ時代の遺跡があるベルガマ(Bergama)のアクロポリス神殿遺跡やトロイの木馬で有名なチャナッカレ(Canakkale)付近のトロイ遺跡等を見学。

 

また、カッパドキア地方には無数の地下都市もあり、観光場所には事欠かない。

 

その中で当方は規模が大きく、また遺跡の復元状況が良いエフェス遺跡は印象に残った。ローマ時代の円形野外劇場ではイエス・キリストが説法を説いたと言う。

 

他方、トロイ遺跡は復元が進んでおらず、崩れた石垣跡程度しかないため、ガイドの説明がなければ素通りするような遺跡だった。

 

観光地として古都イスタンブールが最も魅力的だろう。旧市街にはオスマントルコの歴代の皇帝が居住したトプカプ宮殿をはじめ、東ローマ時代の4世紀にキリスト教会として建てられ15世紀のオスマントルコ時代にはモスクとなったアヤソフィア、世界最大級のブルーモスク(スルタン・アフマド・モスク)等見どころが多く、またボスボラス海峡もイスタンブールの景観をエキゾチックにしている。

(カッパドキアの中心の町ギョローム=Gereme)

(カッパドキア地方オズコナックの地下都市の通路)

 

(パムッカレ=Pamukkaleの石灰棚)

 

(セルチューク=Selcukのエフェス遺跡。入口方面を見る)

 

(エフェス=Efes遺跡内の野外劇場。この劇場でイエス・キリストが説法したという。)

 

(ベルガマ=Bergamaのアクロポリス遺跡)

 

(トロイ遺跡のトロイの木馬は修復中だった。高さ6m~7mの木馬は周囲を安全メッシュで覆われていた。)

(トロイ遺跡の当時の城壁の想像図)

(トロイ遺跡の城壁跡。)

 

(イスタンブールを東西に分けるポスボラス海峡とボスポラス大橋)

 

(アヤソフィア・モスク)

(トプカプ宮殿の入口門)

(ブルー・モスク=スルタン・モスク。メッカのカーバ・モスクと同じ5本もミナレット=尖塔を持つ。ミナレットの数が多いほど格調が高いという。)

 

イスタンブールからスペイン・マドリッドまで3,800km

 

イスタンブールでオートバイ・ツーリングを終了したかったが、イスタンブールではオートバイを日本へ輸送する業者が見つからなかった。

 

そのため、以前からコンタクトを取っていたスペインの輸送業者がいるバロセロナまで行くことにした。イスタンブールからバロセロナまでは最短距離を進んだ。

 

イスタンブール~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス(南仏)のルートでバロセロナまで日中はただひたすらオートバイを走らせるだけの移動だった。

 

バロセロナの輸送業者とEメールでやり取りしている間に、バロセロナの業者が中古オートバイの日本への輸送に慣れていない印象を持った。そのため、6年前に当方がマドリッドからアルゼンチンのブエノスアイレスへオートバイを空輸した際にお世話になった会社の担当者に相談した。

 

その担当者は<中古オートバイの輸送に慣れているマドリッドの業者を紹介するので、直ぐにマドリッドへ来い>とアドバイスしてくれた。

 

そのため、行き先をマドリッドに変え、連日走行してイスタンブールから出発後9日目でマドリッドに到着して、日本へ海上輸送する業者の梱包倉庫へオートバイを持ち込んだ。

 

昨年9月にマレーシアのポート・ケランから始めたアジア・中近東ツーリングは10ヶ月間で約39,000kmの走行で終了した。

 

(イスタンブールからスペイン・マドリッドまでの最短距離ルート)

 

(クロアチアの首都ザクレブ近くのハイウェイ)

 

(スペイン・マドリッドの輸送業者の倉庫兼オフィースがツーリングの最終地点)

 

以上

ネパール・パキスタン・イラン総集編 7,500km

 

インドのラクソール(Raxaul)国境からネパールへ入った。

(インドRaxaul国境からネパールに入国。ネパール側の国境門)

 

居心地が良かったネパール 900km (2023 3/6~ 3/19)

 

ネパールに入国すると道路が悪いことにすぐ気が付いた。舗装道路はいたるところが補修で継ぎはぎだらけのでこぼこ道だったり、舗装面が剥がれてダート化していた。また、多くの区間で道路工事中のためダートの迂回道が多かった。

 

他方、ネパールは居心地が良く、当方はすっかり気に入った。

気候は涼しく、汗をかくことは無い。むしろ夜は寒いくらいであった。 人口は多くないので窮屈さは感じず、首都カトマンズの道路でもインドのような渋滞は無く、比較的スムーズに走行できた。

 

また、ネパールの人々は優しく、インドのように<どこから来たか?>等の質問もあまりなく、ある程度距離を取っているのが心地良かった。

(ヘタウダ~カトマンズ間の道路は舗装道とダート道の繰り返し)
 

(幹線道路は工事中区間が多かった。工事中のための迂回道路)

 

ネパールは以下のルートで進んだ。

 

Rxaul/Birganj国境~ヘタウダ(Hetauda)~首都カトマンズ(Kathmandu)~ゴルカ(Gorka)~

ポカラ(Pokhara)~ダンパス村(Dampus)まで往復~ローアー・ムスタング途中で断念~ポカラ(Pokhara)~ルンビーニ(Lumbini)=ブッタ生誕の地~Sonauli国境からインドへ出国

(赤線はネパールの走行ルート。赤線右側最上部の赤色印の場所はカトマンズ。 赤線上部の右から左へカトマンズ~ゴルカ~ポカラへと続く。)

 

インド国境から首都カトマンズへ向かう道路は酷かった。国境から最初に宿泊したヘタウダ(Hetauda)までは舗装道路だったが、その後は舗装道路とダート道の交互に続く山道だった。

途中お茶休憩した茶店ではグーグル翻訳を介しての筆談だったが、家族全員を紹介されるなどネパール人の開放的態度と心のぬくもりを感じた。

 

首都カトマンズは盆地の中にあり、乾季で埃が舞う中で遠くは霞み視界が悪かった。そのためカトマンズからはヒマラヤの山々は見えなかった。

(ヘタウダ~カトマンズ途中の茶店の家族写真。オーナーは左から2人目。オーナーの右横はオーナーの奥さん)

(カトマンズ盆地とカトマンズの町)

(カトマンズ市内へ入る道路)

 

(カトマンズ旧市街で一番賑やかな通り)

 

行く先々の人々の繋がりで思い出深きツーリング

カトマンズで知り合ったネパール人や日本人を介して、その人たちの友人や知人を紹介されネパールでのツーリングが思い出深いものとなった。

 

カトマンズでたまたま訪れた食堂の経営者は日本の八王子で5年間働いたことがあるネパール人で日本語も話した。同経営者にゴルカを勧められ、カトマンズの後にゴルカを訪れた。

 

当方はイギリス植民地時代にゴルカの言葉がなまりグルカ出身の勇敢な兵士、グルカ兵のことを聞いたことがあった。

 

その食堂を訪れていたネパール人を日本へ送り出す人材会社のサポートをする若手日本人と知り合いとなり、同日本人の紹介にてポカラ市内でコーヒーショップを経営するネパール人の山岳ガイドと知り合った。 そのコーヒーショップは日本の飲食店と提携して日本からの研修生を受け入れていた。

 

同山岳ガイドのアドバイスでポカラから40km程度離れた山村のダンパス村を訪れ、ポカラからは遠方が霞みこの時期なかなか見れないアンナプルナ山系を見ることができた。また、同ガイドに紹介されたポカラ市内のオートバイショップでエンジンの調子が悪くなった当方オートバイの調整をしてもらった。

 

同オートバイショップでは、ポカラから秘境のアンナプルナ山系の国立公園(ローアー・ムスタング=Lower Mustang)へのツーリングを勧められ、当方もその気になりネパールのビザを延長してローアームスタングへ途中まで進んだ。

 

ただし、悪路とその後の悪天候予想のため、ローアームスタング行は諦め、途中でポカラへ引き返した。

 

ポカラはカトマンズに次ぐネパール第二の都市だった。町の規模は小さく、スイスの山間部のような雰囲気の落ち着いた町だった。アンナプルナ山系への登山やトレッキングの拠点として多くのプチホテルやゲストハウスがあり、外国人の観光客やトレッキング客を多く見かけた。

 

ポカラの後はブッタ生誕の地でもあり、インドと国境を接するルンビーニ(Lumbini)の町へ向かった。ルンビーニはネパールというより、インドにいるような感じであった。人々はインド人と同様なアーリア系の顔立ちをして、女性はサリーをまとっていた。

ルンビーニの周辺にはゴーダマ・シッダールタ(のちの仏陀)が出家するまで住んでいたサクヤ国の城跡等がある。ゴーダマ・シッダルータはサクヤ国の王子として生まれた。

 

(ゴルカの旧王宮跡にあるヒンズー教寺院を警備するゴルカの兵士)

 

(山間にあるゴルカの町。煙やほこりで視界がはっきりしない。)

(田舎の川岸ではヒンズー教徒が死者を火葬していた。)

(ポカラ近くの道路脇で小学生ぐらいの少年たちが近寄ってきた。そのうち一人は

英語で当方へどこから来たかと質問した。)
 

 

(ポカラ郊外のダンパス村から雪をかぶる南アンナプルナ山=標高7,219mが見えた。)

(ポカラの町並み)

(ポカラで当方オートバイのエンジン調整をしてくれたバイクショップのオーナー)

 

(ポカラから秘境のローアームスタングへ行く途中の景色)

(ローアームスタングへ向かう途中の道路は未舗装。山から出る水でぬかるむ。)

 

(ポカラからルンビニへ向かう途中の山間部の畑で種まきをする人たち)

 

(バスの屋根の上にも乗客は乗る)

(当方が宿泊したルンビニの宿の主人は元銀行員。カースト制の差別等自らの体験談をまじえて教えてもらった。)

(ブッタ生誕のルンビニの町)

(ブッタ生誕の地は整備された公園になっている。写真の奥にブッタ生誕地がある寺院がある。)

 

パキスタン2,800km(2023/4/12~ 4/28)

 

パキスタンはイランへ行くために通過するだけの国と当初考えていた。

しかし、中国と国境に接するパキスタン北東部のキルギット・バルチスタン州(Kilgit Baltistan)は絶景が広がる山岳ルートと知り興味を持った。同地まで行く計画を立てたものの、天候不順のため途中で引き返した。

 

パキスタンの中西部(パキスタンのツーリングの約半分)は警察の警備車両のエスコートが必要な区間で単独の自由行動は許されなかった。従って、パキスタンのツーリングはかなり制限されたルートと日程となり、オートバイ・ツーリングを楽しんだという気分にはなれなかった。

 

パキスタンはイスラム教を国教とするイスラム教国だ。パキスタンへ入国した時期はラマダン(イスラム教徒の断食の月)中だった。イスラム教徒は日の出から日没まで飲食をしない。そのため飲食店は日中営業をしない。イスラム教徒以外の人たちも日中人前では飲食を控える。

 

パキスタンのように暑い国で日中の外出中に水を飲むことを控えるのは辛かった。ラホールで世界遺産の砦跡を炎天下に見学した際には我慢して水の摂取を控えた。そのため気分が悪くなり、熱中症の症状がでてきた。

(インドとパキスタンの国境線を挟んで毎日夕刻に国境閉門セレモニーがある。)

 

(当方オートバイの周りに集まったパキスタンの子供達)

 

(川沿いの谷間にあるカラコルムハイウェイ。キルギット・バロチスタン州を通り中国との国境まで繋がっている。)

 

パキスタンの走行ルートは以下の通り

 

インドのアタリ(Attari)国境から入国してラホール(Lahore)~首都イスラマバード(Islamabad)~アボッタバード(Abottabad)~ベッシャム(Besham)~ダス(Dasu)引換えし地点~ベッシャム(Besham)~マルダン(Mardan)~ペシャワール(Peshawar)~デラ・イスマイル・カーン(Dera Ismail Khan)=警察車両のエスコート開始地点~キラ・サイフラ(Qila Saifullah)~クエッタ(Quetta)~ダルバンディン(Dalbandin~タフタン(Taftan)国境=警察車両のエスコート終了。

(赤線はパキスタンの走行ルート。 地図右側下の赤丸印はラホール。地図左側はパキスタンとイランの国境)

 

パキスタン人は外国人に親切だということを聞いていた。当方は食事に招ねかれたり、自宅に宿泊させてもらったこともあり、パキスタン人の親切さを実感した。しかし、親切と興味本位の行動は紙一重だと感じたことも数多くあった。

 

外国人は珍しい存在だ。そんな外国人には自然と興味がわく。マルダン(Mardan)の仏教遺跡では20人くらいの中学生ぐらいの少年たちに映画スターのように囲まれた。

 

同遺跡を徒歩で見学中も当方の周りを囲むように集団でついてくるので、警備の人たちは少年たちを棒で振り回して追い払おうとしたり、鉄格子に囲まれた場所へ当方を誘導して少年たちのグループから安全を確保しようとした。

 

その少年たちは外国人を興味の対象として見ていた。また、地方都市の大人も同様に外国人の周りに集まり、めずらしい興味の対象としている状況に数多く遭遇した。

(マルダンの仏教遺跡。遺跡の外側の高台には多くの少年たちが外人観光客を見ようと集まり、外人観光客をはやしたてる。)

(マルダンで一泊お世話になったパキスタン人の家族。女性は家の奥にいて家族以外の男の前には現れない。)
 

パキスタンの安全状況

 

アフガニスタンと国境を接するパキスタンの辺境地はアフガニスタンがタリバンに制圧されてからタリバンの息がかかった反政府勢力が力を盛り返して治安が悪くなったという。

 

パキスタン北部のペシャワール(Peshawar)からパキスタン西部のバロチスタン州の州都クエッタ(Quetta)を経てイランとの国境に至る帯状の辺境地は日本の外務省安全情報では最も危険とされるレベル4の退避勧告地域と指定されている。

 

自爆テロ、身代金目当ての誘拐や銃器を用いた強盗が多発している地域でもあり、中央政府の統治が及んでいるとは言えない。

ただし、当方のようにオートバイで絶えず移動している人には治安状況は全くわからない。幹線道路上で警察や軍隊による検問所の数が多くなると、治安状況が良くないことを知るのみだ。

 

事実ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンへ向かう途中の幹線道路では複数の軍隊の検問所があり、その一つの検問所を管理する軍の拠点長から治安状況について説明を受けたことがあった。

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中の峠から見た景色)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中。道路わきの日陰で休憩)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンの区間を警備する軍の拠点長は流ちょうな英語で当地の治安状況を

説明してくれた。)


(ペシャワールの旧市街)

(ラマダン中だったので、日没後にやっと食事ができた。鶏肉を炭火で焼く。ペシャワールの旧市街)

 

警察車両のエスコート区間約1,200km(3泊4日)

 

デラ・イスマイル・カーンから警察車両の護衛が付いた。外国人がテロや誘拐に巻き込まれることを防ぐため、警察車両のエスコートが付く。自由行動が許されない走行が始まった。この区間をバックパックで旅行する外国人も同様に警察車両に乗り(多くはピックアップトラックの荷台)警察の保護下で移動せねばならない。

 

警察車両は駅伝のように自らの管轄地区を30km~50km警護し、次の管轄区の警護車両に入れ替わる。こんな警護が3泊4日約1,200km続いた。

 

1泊目(キラ・サイフラ)と3泊目(ダルバンディン)はそれぞれの管轄区の警察署で夜を過ごした。警察署には食事は無いので事前にチャパティ等の乾燥食材を用意せねばならない。当方はシュラフやクッションを持っていなかったので、警察署の硬い床の上では熟睡できなかった。

 

2泊目のバロチスタン州の州都クエッタでのみ、警察指定ホテルでの宿泊が許された。ただしホテルからの外出は禁止されてい

た。

 

(警察車両の警護)

(名も知れぬ村の警察官。警察官は自動小銃で武装)

(強風でこの先の道路は視界が効かない。)

(飾りをつけた貨物トラックが多い。)

(一泊したダルバンディンの警察署。写真左側留置所となっていた。)

 

パキスタンからイランへ出国する際の国境でアクシデント

 

警察車両によるエスコートの4日目には若いドイツ人夫婦の運転するキャンピングカーが加わった。

 

そのキャンピングカーが国境検問所で停車後、突然バックして来た。当方はキャンピングカーの約2m後方で停車していたが、突然バックして来たキャンピングカーは当方が後ろにいることには気が付かず当方オートバイの前輪部分に衝突してきた。 

 

当方オートバイの前輪がバリバリと音を立ててキャンピングカーの後部バンパーを壊して、危うく横倒しになる寸前だった。前輪泥除けは無残に垂直に曲がってしまったが、強化プラスチック製のため元に戻すことができた。しかし、当方は前輪タイヤがこれからの走行に支障が出ないだろうかと危惧した。

 

アクシデント後、ドイツ人夫妻は氏名、住所とコンタクト先を当方に残したのみで、当方バイクの走行状態を確認することなく、その場を離れてしまった。

(警護走行4日目のダルバンディンからイラン国境まではドイツ人のキャンピングカーが加わった。 先頭は警護する警察車両)

 

イラン 3,800km(2023 4/29~5/25)

 

イランの概況

イランは思っていたより広い国だった。面積は163万km2と日本の4倍以上ある。アラビア湾岸沿いの低地とカスピ海沿いの地域を除き、国土のほとんどは木が一本も生えていないような砂漠化した高地だった。 

 

人が住む場所は気候が涼しい海抜千メートル以上の高原地帯であり、荒涼とした大地通るハイウェイが数百キロメートル離れた都市と都市をつないでいた。

 

直前までツーリングしていたパキスタンやインドと異なり、イランの都市は通りにごみ一つ落ちていなく清潔な町であった。プラスチック製のペットボトルやレジ袋等が路上に落ちていない、牛糞も無い。

 

街には乗用車が溢れる一方、オートバイはほとんど見かけることがなく、国境を接するパキスタンやインドとは全く異なっていた。

 

イランの人々は事前に聞いていた通り、非常に親切で、思慮ある人々だった。当方はイランが今回のツーリングで訪れた国々の中で一番気に入った。

 

他方、長引くアメリカ主導の金融制裁のため、経済状況は悪く、インフレ率は年率50%と高く、イランの通貨レアルの為替レートは割安に放置されていると感じた。

 

政府の公式為替レート(1米ドル=約4.2万レアル)と市中の実勢レート(1米ドル=約53万レアル)とは10倍以上の乖離があり、市中の両替屋で手持ちの米ドル現金100ドルをイラン・レアルに両替すると53百万レアルという巨額になった。

 

両替した札束が財布の何かには入らず、封筒に入れて持ち運んだ。

百万レアル札もあり、食事代で数十万リアル、宿泊代で数百万リアルと言うように金銭感覚が狂ってしまう。

 

歴史がある都市や町、ユネスコの世界遺産も豊富で長期滞在しても飽きない。当方は歴史があるヤスード(Yazd)、シラーズ(Shiraz)やイスタファン(Istafan)等の迷路のように土塀で区切られた旧市街の町並みや中庭がある古民家が気に入り、古民家を改造したホステルに宿泊した。

(イランの標高を表したジオラマ地図。イランは高地が多い。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)

 

 

ツーリング・ルートは以下の通り

パキスタンのタフタン国境からイランへ入国後~ザヘイダン(Zaheidan)~バム(Bam)=世界遺産の遺跡~ケルマン(Kerman)~ヤスード(Yazd)=イランの鎌倉~マルブダシュト(Marvdasht)=世界遺産ペルセポリス遺跡~シラーズ(Shiraz)=イランの奈良~ヤスジ(Yasj)~シラーズ~イスタファン(Istafan)=イランの京都~カシャーン(Kashan)~首都テヘラン(Teheran)~カスピ海沿岸のチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)~アルダビル(Ardabil)~サリーン(Sarien)=温泉地~タブリーズ(Tabriz)=世界遺産のバザール~カンドバン(Kandovan)=奇岩のミニカッパドキア観光~タブリーズ~ノルドス(Norduz)国境からアルメニアへ出国

(赤線はイランの走行ルート。地図右側はパキスタンとの国境。宿泊した都市は赤丸印の場所。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)

 

パキスタンから入国後ザヘイダン~シラーズまでの最初の1,500km (Part 1)

パキスタン西部に続き、荒涼とした砂漠化した大地に通るハイウェイを進んだ。時には岩山を削ったような道路や山を登ったり、下ったりする道もあった。

 

ガソリン価格がリッター7円~8円と非常に安い。政府の補助があるのだろうが、ガソリンタンクを満タンにしても大した支出とはならない。そのためか、ガソリンスタンドの数が非常に少ない。 薄利ではもうからないためガソリンスタンドの商売には妙味が無いのだろう。

 

パキスタンから入国して気が付いたことは、前述したように道路上にごみが無いことローマ字表記の看板が一切ないことだった。ローマ字表記が無いため、ホテルやホステルを探すのに多少苦労した。また、数字もアラビア数字に似た形状のペルシャ数字を使用するため、価格交渉を筆談で行うにも数字が読めない。

 

ザヘイダンでオートバイ保険の加入と携帯電話のSIMカードの購入を済ませたが、インターネットがつながらない。イラン政府は外国のSNSやウェブサイトの閲覧に制限をかけている。それらのサイトにつなげるためには有料のVPN(Virtual Private Networkという私設インターネット回線)への加入(アプリを入れる)が必要だった。

 

バム(Bam)のホステルで出会った当方と同年配のドイツ人のライダーとは気が合い、バムの次のケルマン(Kerman)でも同じホステルに宿泊して一緒に市内観光をした。

 

旅行ガイドブック<地球の歩き方>では中東の3P(頭文字にPが付く3大名所のこと)としてシラーズから100km程度離れたマルダシュト(Mardasht)のローマ時代の遺跡ペルセポリス(Persepolis)を挙げていた。同遺跡はユネスコの世界遺産にも登録されていたが、当方の印象には深く残らなかった。


 

(バムからケルマンへへ向かう途中の景色)

 

(世界遺産のバムの要塞遺跡。要塞部分の外壁や塔の修復は進んでいたが、周囲には未修復で遺跡か泥の塊か見分けがつかない場所が多く残っていた。)

 

(ドイツからのライダーはヤマハのテネレ700に乗っていた。)

 

(世界遺産ペルセポリスの遺跡)

 

旧市街の古民家

当方の印象に残ったのはケルマン、ヤスードとシラーズで宿泊した宿だった。それぞれ旧市街の古民家や宿泊所を改築したホステルだった。

 

イランの民家は高い土壁で囲まれ、土壁の内側は見えない。壁の内側には中庭とその中庭を取り囲むように部屋が配置されている。中庭には木陰を作る樹木が植えられ、直射日光がきついイランでは樹木の木陰でお茶を飲みながらゆっくりと時を過ごす。

(古都ヤスードの旧市街。風を室内に入れる塔=写真右側の建物が保存されている。)

(ヤスード宿泊した古民家の中庭)

 

(ケルマンではミニパレスのような古い豪邸を改築したホステルに宿泊)

 

(ケルマンのバサール=商店街)

(砂漠の中のヤスードの町)

(不気味に見えたヤスードの鳥葬の塔=ゾロアスター教徒は20世紀初頭まで死者を塔の上に置き、鳥に死肉を処分させた。)

(シラーズで宿泊したホステルの若手オーナーは宿泊客の面倒をよく見てくれ、当方は感心した。)


(イランの中高校生ぐらいの少女たちは写真を撮ってくれとポーズを取ってくれた。)

 

(シラーズからイスタファンへ向かう途中の風景)

 

シラーズ~イスタファン経由首都テヘラン1,400km(Part 2)

 

親切なイランの人々

シラーズからイスタファンへ向かう途中のヤスジ(Yasj)という町で当方はイラン・ビザをどこかで紛失したことに気が付いた。立ち寄ったシラーズの携帯電話店に忘れたのだった。

 

イランのビザはパスポートに押印されるのではなく、航空券のE-チケットを印刷した紙のように紙ベースのものだ。イランに敵対するするイスラエルやアメリカへ入国する際にパスポート上にイランのビザや入国スタンプがあると面倒なことになり、それを避けるためパスポート上にはイランの形跡を残さない。

 

ヤスジで宿泊したホテルのスタッフが、当方が心当たりがある場所へ一時間以上電話問い合わせしてくれたおかげで、当方が途中に立ち寄ったシラーズの携帯電話ショップにイランビザの紙を置き忘れたことが判った。

 

携帯電話ショップのオーナーも当方をインスタグラム(フェースブック系のSNSの一種)で探し出して、当方宛にメッセージをくれていた。しかしながら、当方はインスタグラムをほとんど使用しなかったので、メッセージには気が付かなかった。

 

ヤスジのホテルスタッフやシラーズの携帯電話ショップのオーナーの協力は有難たかった。

テヘランではイスタファンのホステルで出会ったイラン人の若者にテヘランの自宅に招かれ夕食をご馳走された。

 

このような親切はイラン滞在中に数多く受けた。

(テヘランで知り合ったイラン人の自宅で夕食をご馳走になった。)

 

(カンドバン村の土産物店ではお茶を飲んでいけとお茶をふるまわれた。)

 


(オートバイで移動中、のどが渇きスイカを食べたくなった。当方が<1/4個のカットスイカ>を欲しいと言ったら、<切り売りはしないが>、と言って既に切ってあったスイカを<(無料で)食べていけ>と言ってくれたスイカ売りのクールな男)

 

古都イスタファン(Istafan)

イスタファンは1597年~1795年までの約200年間イランの都だった。日本の京都に相当するだろう。 旧市街には都として栄えた当時の複数の巨大モスクが現在も使用されている。

(イスタファンの有名なエマーム・モスク=Majesed Eman)

 

(イスタファンのジャメ・モスク=Majesed Jame。モスクは数百年にわたる増改築で、イラン建築の総大集と言われている。)

 

(イスタファンの旧市街の中心にはエマーム公園があり、その周りをエマーム・モスク、宮殿等の歴史的建物が囲む。)

 

(イスタファンのバザール入り口のイスラム建築)

 

(イラン人はピクニック好き。休日には家族、友人たち同士が公園の芝の上で食事したり、お茶を飲んだりして憩う。)


(イスタファンの旧市街の道と民家の土壁)

 

レストランが少ない

イランで気が付いたことは、食堂やレストランが他国と比較して少ないことだ。食事をするため食堂やレストランを捜し歩いたが、数が少ない。市内の中心部を10分~20分歩いてもなかなか見つからなかった時もあった。 

(焼き肉店でひき肉を串に付ける料理人)

 

イラン・イラク戦争の傷跡

1980年代にイランはイラクと戦争をした。その戦争で戦死者をだした町の道路には戦死者一人ひとりの遺影を飾った柱を目にした。田舎の町にも出征して帰らぬ若者がいることを知った。

 

イラン・イラク戦争の末期にはアラビア湾(ペルシャ湾とも呼ぶ)の一番狭いホルムズ海峡を通過する日本船籍の原油タンカーもミサイル攻撃で被弾したりして、国際的な注目を浴びた戦争だった。

(イラン・イラク戦争の戦没兵士の遺影)

 

テヘラン~カスピ海沿岸~タブリーズ~アルメニアへ出国 1,200km(Part 3)

 

テヘラン北部に控えるアルボズ(Alburz)山脈通過してカスピ海沿岸へ出ると景色は一転していた。 カスピ海沿岸の湿潤の気候のため、山々は緑の樹木で覆われ、道路沿いの荒れ地には緑の草や植物が群生していた。

 

当方はカスピ海沿いにチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)

~アゼルバイジャンとカスピ海沿いに国境を接するアスタラ(Astara)経由内陸都市アルダビル(Ardabil)を経て北部のタブリーズ(Tabriz)へと進んだ。

 

チャールズ及びバンダル・アンザリではカスピ海に面する場所にあるホテルに宿泊した。晴天の日が少なくカスピ海は曇っていたが、穏やかだった。 この辺りには田植え中の水田が多く、日本に気候が似ていると思った。

 

 

(テヘランのビジネス街)

(テヘランからカスピ海地方へ行く途中。テヘラン北側にあるアルボズ山脈。アルボズ山脈の南側=テヘラン側は乾燥地帯)


(アルボズ山脈北側=カスピ海側は湿潤な気候のため山々には緑の木が茂る。)

(チャールズ=Chalusのカスピ海海岸。風が吹くと肌寒かった。)

 

(カスピ海沿岸地方の田植え風景)

 

(カスピ海沿岸地方のバンダル・アンザリの海岸)

 

(カスピ海沿岸地方の名物料理バガラガト=Baghaleh-ghatogh。サフランで黄色くしたバターライスと卵入りシチュー。同じホテル知り合ったカスピ海沿岸地方出身のイラン系カナダ人にごちそうしてもらった。)

 

(カスピ海沿岸から内陸へ入る。)

 

イランの温泉

 

アルダビルから40km程度離れた場所に温泉町サリーン(Sarein)があると聞いていた。草原の中に突然ビル群が建ち、人工的な町が出来たような不自然な場所だったが、スイミングプールのような大きな公衆温泉があった。水着着用で温泉に入るが、個人用の湯船もあり、当方は久しぶりの温泉を楽しんだ。

 

(サリーン=Sarienの温泉)

 

(温泉町サリーン=Sarien 土産屋が並ぶ)

 

タブリーズの不愉快な出来事とその郊外のミニカッパドキア

タブリーズの町はイラン滞在の最後の町だった。楽しいことが多かったイランでもタブリーズでは少し不愉快な出来事があった。通りで少年グループにから絡まれたり、宿泊したホテルの受付係と口論になったことだった。

 

タブリーズから70km~80km離れた場所にとんがりコーンのような複数の奇岩がある場所があった。その奇岩に洞窟の部屋を作り、民家としているカンドバン(Kandovan)という村があることを知った。

 

トルコの内陸部にはキノコの形やとんがりコーンの形をした奇岩があるカッパドキア(Cappadocia)という地域があるが、そのカッパドキアにちなんでミニカッパドキアとも呼ばれている村だった。タブリーズから日帰りツーリングしたが、思ったほど観光客は多くなく、洞窟の一部を改造した民家を見学することができ満足した。

 

タブリーズの後はアルメニアへ出国するためノルドス(Norduz)国境へと進んだ。

(アルダビル=Ardabilの旧市街)

 

(アルダビルで見つけた甘党の店。 蜂蜜と黒ゴマ等を材料にしたあんこのような甘みのハルラ=Halra。小さなカップに入れて食べた後、口直しに酸っぱいヨーグルトドリンクを飲む。)

(タブリーズ・モスクに残る高さ40mの巨大な門。その昔には罪人を門の上から突き落としたと言う。)



(ミニ・カッパドキアとも呼ばれる奇岩があるカンドバン=Kandovan)

 

(カンドバンでは奇岩に洞窟を掘り、住居としている。)

(カンドバンの洞窟内の部屋は快適そうだった。)

(タブリーズからアルメニア国境へと進む。)

 

(アルメニアとの国境付近は自然環境が厳しい場所)

 

以上

 

 

 

インド総集編 8,500km

 

東南アジアツーリング後インドへ渡ったが、インドは民族、人種および習慣が東南アジアとは全く異なる別世界だ。

 

おりしもインドの人口が中国を抜き世界最大となったニュース報道がされていた時期だ。

 

当方は会社員時代バーレン(アラビア湾の島国)に駐在していた時に、インド人と一緒に仕事をしたりしてインド人を知っているつもりだったが、インド亜大陸のインド人とは少し異なっていた。

 

海外で仕事をしたり、暮らしたりする多くのインド人は国際感覚を持つ教養人だったが、インド国内の人々はそうでない人や住んでいる地域以外へは行ったこともなく英語を話さない人が多いと知った。

 

2018年にアメリカをツーリング中アリゾナ州のフラッグスタッフの町のモーテルにチェックインした際に、そこで受付係をしていたインド人に当方が世界一周のツーリング中だと言った。

 

その際に受付係のインド人は当方へ<インドへは行ったか?>と聞いてきた。当方が<まだ行っていない>と答えると、そのインド人は、<インドへ行かずして世界一周中とは言えない>と当方の世界一周との説明に水を差した。そのインド人の一言もインド・ツーリングのきっかけの一つとなっていた。

 

当初タイからミャンマー経由陸路でインドの東部へ入国する計画を練っていたが、コロナ以降ミャンマー国境は閉鎖中であるため、タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送して、インドツーリングを行った。

 

インドの港でのオートバイの輸入通関には手間とコストがかかるので避けた方が良いと聞いていたが、その通りだった。通関手続きは2週間以上かかり、タイからの海上輸送費とは別に、インド側の輸入費用のみだけで約11万ルピー(約17万円)かかった。

 

その費用の明細に至っては事前の問い合わせ等では知らされていなかったいわゆる隠れ費用(Hidden Charge)もあり、やはりインドでの中古オートバイの輸入手続きはお勧めできないと実感した。

 

インドのほとんどの地域には四季が無く、雨季と乾季の2つのシーズンしかない。インドのムンバイへ到着したのは1月中旬と乾季の最中だった。日中の気温は30°C以上と日本の夏のように暑くなるが、朝夕は涼しく感じられるなかでムンバイから出発してデカン高原を南下した。

 

その後インド最南端を訪れた後、東海岸沿いにチェンナイを経由してカルカッタ直前で内陸部へ入り、ブッタが悟りをひらいたブッタガヤを経てネパールへ入った。ネパールツーリング後、再度インドへ入国して、首都ニューデリーを経てパキスタンへ出国した。約2・5ヶ月、8,500kmのツーリングだった。

 

以下インドのツーリングルート(反時計回りにインドを3/4周。途中ネパールへ進み、その後インドへ再入国)

 

Mumbai(マハーラーシュトラ州都・世界遺産)~Pune~Aurangabad(世界遺産エローラ石窟寺院)~Solapur~Hampi(世界遺産)~Bengaluru(IT産業の中心)~Mysore(マイソール宮殿)~Coimbatore(インドのマンチェスター)~Kochi(バスコ・ダ・ガマ)~Kanyakumari(インド最南端)~Tiruchirappalli(世界遺産)~Ponticherry(元フランス領)~Chennai(タミール・ナードウ州都・インドのデトロイト)~Ongole(オートバイの故障)~Vijayamada~Visakhapatnam~Chilika(淡水湖)~Konark(世界遺産)~Balasore(オートバイにUSBチャージャー取付け)~Ranchi(内陸都市)~Budhgaya(仏陀悟りの地)~Motihari~Raxaul/Birganj国境からネパール入国~ネパールをツーリング後Lumbini(Sounali国境)経由再度インドへ入国~Kushinagar(仏陀入滅の地)~Varanasi(ヒンズー教の最大聖地)~Ranpur~Agra(タジ・マハール)~Jaipur(ピンク・シティー)~Gurugaon(多国籍企業)~Dehli(首都)~Chandigarh(インドで一番美しい都市)~Mandi~Dharamsala(チベット亡命政府)~Pathankon~Amritsar(パンジャブ州都・シーク教徒の聖地)~Attari国境からパキスタンのLahoreへ出国

 

(インド走行地図。赤線は走行ルート。左側中央が出発地点のムンバイ。左側最上部がインドからパキスタンへ出国したアムリトサル。右側上部の入りくんだ場所はネパール)

 

インドは多民族国家で一言では表現できない

 

インドは多民族国家で州毎に言語も民族が異なると言っても過言ではない。インドの経済状況も均一ではなく、インドの一人当たりのGDP(国民所得)は1,920米ドル(約25万円)となっている。しかしながら、一番裕福な南西インドのゴア州では5,700米ドル(約74万円)であり、最貧の東北部のビハール州では700米ドル(約9万円)しかない。州により経済状況は大きく異なる。

 

(インド主要州の一人当たりの国民所得=GDP。一人当たりの年収と見なせる。)

 

(日系企業のインド進出状況)

 

ムンバイから出発してデカン高原を南下

 

インド第二の都市ムンバイからスタートしてAurangabadから数十kmの場所に位置する岩山を削って巨大な石窟寺院を作ったエローラ(Ellora)の石窟遺跡群を目指した。同遺跡群はユネスコ世界遺産にも登録されている。最大の石窟寺院は高さ40m~50m、幅70m~80m、奥行約100mあり、巨大で圧倒された。

 

その後、乾燥したデカン高原のハイウェイを南下して世界遺産のハンピ(Hampi)のヒンズー教遺跡群を見学後、ムンバイを出発して約1,500kmでインド南西部のIT産業が盛んなベンガルール(Bengaluru)に到着した。

 

ハイウェイは片側2車線でオートバイも走行可能だ。まれに自転車で通行している人もいる。ハイウェイは有料であるが、オートバイでの通行は無料だった。通行車両は荷物が荷台から数メートル飛び出す超過積載の貨物トラックやワゴン車を改造した小型の乗り合いバスがほとんどだった。自家用車があまり普及していないためか、ハイウェイの交通量が少ない。

 

デカン高原のハイウェイ沿は荒れ地と農地が見渡す限り続く大地で、この時期は埃のためか遠方は霞んでいた。

 

インドにはカーストと呼ばれる職業身分制度が存在した。憲法上、カースト制は禁止されているものの社会的には依然存在しているようだ。IT産業は新しい産業のためカーストは存在しなかったという。そのためカースト制を嫌う優秀な人たちがIT産業に従事するようになり、インドのIT産業が世界でも屈指の競争力を持つようになったと言う。

(ムンバイChatrapati Shivaji Terminus=CST駅付近。写真奥は世界遺産の英国植民地時代の駅舎)

 

(ムンバイの象徴インド門=Gate of India. 1911年当時の英国国王夫妻のインド訪問を

記念して建てられた。)

  

 

(インド独立の父マハートマー・ガンディー)

(マハートマー・ガンディーがムンバイ滞在中に寝泊まりした部屋。現在はガンディー博物館となっている。)

(大学の年に一度の正装の日には女子学生はサリーを着る。)

(インドの典型的な食事は小麦を薄焼きしたパン=チャパティとレンズ豆のスープ風カレー)

(世界遺産エローラの最大石窟寺院カイラーサナータ寺院。一枚岩の岩山を掘って6世紀から9世紀ごろ造られた。)

(カイラーサナータ寺院はヒンズー教寺院だった。付近一帯には仏教の石窟寺院も複数ある。)

(デカン高原のハイウェイ)

(貨物トラックは過剰積載の貨物を運ぶ。)

(世界遺産ハンピのヒンズー教寺院と遺跡群)

(道路上の野生動物に注意の標識)

(ベンガルールの三輪タクシー=オートリクシャーの製造業者)

(ベンガルールの縫製業者)

 

(ベンガルール工科大学の授業を見学させてもらった。学生が研究課題を発表中)

 

ベンガルールからインド最南端経由チェンナイまで

 

ベンガルールから更に南下してケララ州(Kerala)の州都コチ(Kochi)を訪れた。コチは歴史の舞台になったエキゾチックな港町だった。

 

16世紀に南アフリカの喜望峰(Cape of Hope)経由インドに達する航路を発見したポルトガル人バスコ・ダ・ガマ(Vaso da Gama)が1502年に同地に立ち寄っていた。バスコ・ダ・ガマは3回目の航海で1524年に同地で没し、同地の教会に埋葬された(ただし、亡骸はその後、息子により祖国へ持ち帰られたが)。

 

コチは当初ポルトガルの植民地となったが、その後オランダ領となり、更にインド独立前までイギリス領となっていた。インドの前に訪れていたマレーシアのマラッカ市と同様な歴史的経緯があった。

 

インド南部のタミール・ナードウ州に入ると人々が違っていることが実感できた。インド人というよりタミール人として誇りを持ち、タミール語を話す。文字もインドの共通語となっているヒンディー文字と異なり、丸みを帯びた文字だった。

 

インドの大部分の州では当方が<どこの国から来たのか?>とうんざりするぐらい頻繁に道行く人々に聞かれたが、タミールでは聞いてくる人は少なく当方には心地よかった。

 

タミール・ナードウ州の州都はチェンナイだ。チェンナイはインドのデトロイトと呼ばれるほど自動車関連産業が盛んだった。多くの日系企業もチェンナイ郊外の工業団地に製造拠点を構えていた。当方は同地の工業団地にある日系のオートバイメーカーの工場を訪ねた。

 

チェンナイから北上中に当方のオートバイが初めて故障した。ハイウェイで一度止めたエンジンがかからなくなってしまった。そこでチェンナイ郊外で訪問した日系オートバイメーカーにコンタクトを取り、お世話になった。

 

日系オートバイメーカーは当方のオートバイが故障した場所に一番近い現地販売ディーラーへ連絡を取り、同ディーラーが故障した当方のオートバイをトラックに載せて修理工場まで運び、無料で修理をしてくれた。この手際良い対応に当方は大いに助かり、感謝した。

(ベンガルールからマイソールへのハイウェイは比較的自家用車が多かった。)

(インドで1,2と言われた藩王のマイソール宮殿はタジ・マハールの次に訪問者が多いという。)

(野生の象が生息する国立公園内の道路。マイソール=Mysoreからコインバトール=Coimbatore途中)

(ケララ州ゴアのSt. Francis教会には南アフリカの喜望峰沖経由インドへ到達する航路を発見した

ポルトガル人バスコ・ダ・ガマが埋葬された。)

(ケララ州のゴアから最南端のカニャクマリ=Kanyakumariへ行く途中)

 

(インド最南端のコモリン岬=カニャクマリ市)

 

(ティルチラッパリ=Tiruchirappalliのランガナータスワーミ寺院=Sri Ranganathaswayは城壁で囲まれたインド最大の

寺院町にあり、女性の大胆な裸像を入り口門内側に飾っていた。)

(インド南部は強い季節風を利用した風力発電用の風車が数多くあった。)

(チェンナイ付近で稲の田植えの用の苗を栽培していた。)

 

(チェンナイ郊外の工業団地にある日系オートバイメーカーの工場)

(故障した当方のオートバイを無料で修理してくれた現地ディーラー=YAMAHA Vishnu Motorの修理工場)

 

(インド東部ベンガル湾沿いのオディッシャ州=Odichaに入ると山が見える景色に変わった。)

 

(世界遺産コナルク=Konarkの太陽神殿)

(体重の2倍以上はあると思われる材木を運ぶ女性を見てびっくり。眠気がすっ飛んだ。)

 

 

インド東北の仏陀ゆかりの地

 

チェンナイからベンガル湾沿いに北上してインド最貧州のブッタ(ゴーダマ・シッダールタ)のゆかりの地であるブッダガヤ(Budhgaya)を訪れた。

ブッダガヤはゴーダマ・シッダールタ(ブッタになる前の名前)が出家後、菩提樹の下で49日瞑想後、悟りを開きブッタ(悟りを開いた人のこと)となった地として世界各国の仏教徒の聖地のひとつになっている。

 

その後ネパールへと進んだ。そしてネパールツーリング最後にインドとの国境付近にあるゴーダマ・シッダールタの生誕地ルンビーニ(Lumbini)を訪れた。

 

また、インド再入国後にはブッタが初めて説法を唱えたワラナシ(Varanasi)郊外のサナルートとブッタが入滅(没した)クシナガール(Kushinagar)をそれぞれ訪問した。それぞれの地も仏教徒の聖地となっており、多くのタイからの巡礼者を見かけた。

(ブッタガヤの仏陀が悟りを開いた菩提樹があるマハボディ寺院=Mahabodhi Temple)

(マハボディ寺院の菩提樹下に集まる仏教徒)
 

(ネパールのルンビニ=Lumbiniにあるゴーダマ・シッダールタ(後のブッタ)生誕の地にある寺院。寺院内部の土に生誕地の印として石が置かれている。)

(ゴーダマ・シッダールタが20歳代で出家するまで暮らしたルンビニ郊外のTilaurat(当時はKapilavastuと呼ばれていた場所)にあった父サクヤ国王の城跡にはタイからの巡礼僧が多数来ていた。)

(ブッタが初めて説法を説いたワラナシ郊外のサナルートに立つ仏塔)

 

(ブッタが入滅したクシナガール=Kushinagar。沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で横になったブッタは二度と起き上がることが無かったという場所に立つ寺院内には横たわるブッタの像が安置され、その周りを巡礼者が囲むように座っていた。)

 

ネパールから再入国後ワラナシ・アグラ経由デリーを目指す

 

ネパールからインドへ再入国後はガンジス河に面したヒンズー教の最大聖地ワラナシ(Varanasi)経由、インドで一番訪問者が多い白亜の巨大霊廟のタジ・マハールがあるアグラ(Agra)を目指した。

 

ワラナシのガンジス河沿いにはヒンズー教徒が沐浴したり、火葬する場所が多くあった。ワラナシのガンジス河で沐浴すれば一切の悪行が洗い流されるという。また火葬された灰はガンジス河に流される。ヒンズー教徒には墓が無いと知った。

 

デリー(Dehli)はオートバイのタイヤを交換するために訪れた。インドのどの都市も人が多いが、デリーは特に多いと感じた。日本の祭りか縁日で人々が繰り出しているような人混がある道路が多かった。 デリー中心部のラール・キラー(レッド・フォートとも呼ばれる)というイスラム支配下時代の城を見学しようとしたが、入場券販売所前に数百メートルの超長蛇の観光客が並んでいたため、見学を諦めた。

ガンジス河沿いのワラナシ=Varanasiのガート(Ghat)。ガートとは沐浴所。煙が上がる場所では死者を火葬していた。)

 

(人気があるダシャーシュワメード・ガート=Dashashwamedh Ghatで沐浴する人たち)

(世界遺産アグラのタジ・マジハール=Taj Mahal。ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズのために

立てた霊廟。ドームの高さは67mある。)

(ピンク・シティーの異名を持つジャイプール=Jaipurの旧市街。旧市街の全ての建物はピンク色に似た淡い茶色で統一されている。)

(デリーのオートバイ部品屋街でタイヤ交換をする。作業は路上で手作業で行う。)

 

(デリーの中心部ラール・キラー(レッド・フォート)と呼ばれる城塞を見学するために集まった大勢の観光客)

 

デリー以降のインド北西部は快適なツーリング

 

デリー以降のインド北部は標高が高いため涼しく、オートバイツーリングには快適だった。特にインドで一番美しい都市と言われるチャンディガール(Chandigarh)からマンディ(Mandi)経由チベット亡命政府があるダラムサラ(Dharamsala)へ至るルートはヒマラヤ山脈を控える高地のため涼しく、また雪をかぶる山々も見え、快適なオートバイツーリングを楽しんだ。

 

アムリトサル(Amritsar)郊外にあるアタリ(Attari)国境はパキスタンへ陸路で外国人が出国できる唯一の国境だった。そのためインド最終地はアムリトサルになり、同地でパキスタンの次に訪れるイラン・ビザの入手を待った。

 

パンジャブ州の州都であるアムリトサルはシーク教徒(男は頭にターバンを巻く)の本拠地でもあり、この地の男はほとんど頭にターバンを巻いていた。

(インド一美しいと言われるチャンディガール=Chandigarhの町並み)

 

インド北部のチャンディガールからマンディ=Mandiを経てダラムサラ=Dharamsalaへ行く途中の風景)

 

(ダラムサラ近くでは雪をかぶった4千メートル級の山々が見える)

(マンディ=Mandiからダラムサラへ向かう山岳道路)

(ネパール亡命政府があるダラムサラの町は山の頂上部にある。)

 

(アムリトサル=Amritsarの警察官)

 

道路の糞尿の試練

 

ヒンズー教では牛は聖なる動物として丁重に扱われ、都市の道路でも放し飼いなっている。道路中央に牛が寝転がっていても、車やバイクは上手に牛を避けて通行している。

 

民家が密集した狭い生活道路に牛が2~3頭いれば、牛の糞尿で道路は泥水化する。糞尿の匂いが鼻をつく。当方は牛の糞尿を避けながらオートバイを進めたが、匂いは避けられない。牛の糞尿から早く逃れたいといつも思って通行した。

 

農村部の田舎では牛糞は家庭での燃料として使われる。再生自然エネルギーでもあるが、人々が素手で湿った糞を藁(わら)と一緒にこね回す姿には驚きより、気持ち悪さを最初に感じた。円形状にわらと一緒にこね回された牛糞は道路上で天日干しされる。

(路上で天日干しされる牛糞)

 

世界一人口が多いことを実感

 

都市部の道路はいつも多くの人で混雑している。東京の新宿駅、渋谷駅、東京駅等の駅構内の人混みぐらい大都市の道路には人々があふれている。また、都市部道路の渋滞も酷いし、車やオートバイの交通マナーも劣悪だ。

 

一番危ない運転はオートリキシャと呼ばれる三輪のタクシーだ。急発進、急停車はもちろんだが割り込み運転が半端でない。相手が衝突を避けることを前提に割り込んでくる。多少の接触は当たり前となる。

 

当方は三輪タクシーの割り込み運転や無謀な運転をけん制する意味で、低速で当方に割り込みをかける運転手には肘鉄をくらわしたり、首から下げた笛をふいて注意を促した。

 

以上

東南アジア総集編(後半)ラオス・カンボジア・ベトナム4,600km

 

ラオス・カンボジア及びベトナムの政治体制は社会主義だが、中国と同様に市場経済主義の政策を取り資本主義の優れた部分も採用していた。ラオスとカンボジアは内戦やその後の社会の混乱のため経済的には隣国のタイよりも数十年遅れているような印象をもった。

                                            

ベトナムだけが、ベトナム戦争での痛手と混乱はあったものの、近年WTO(世界貿易機構)に加盟して、外国資本の投資を呼び込みこみ短期間で輸出主導の経済発展を遂げているような感じだ。

 

ラオスの走行ルート 約1,600kmは以下の通り:

 

タイ・チェーンコン(Chiang Khong)にて出国~ファーサイ(Huay Xay)にてラオス入国~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・ブラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)~メコン川沿いに南下~タケーク(Thakehk)~第二都市パクシ(Pakse)

(左側地図の赤線はラオスの走行ルート。右側地図の赤線はマレーシアからタイを経てラオスまでのインドシナ半島の走行ルート)

タイとの経済的な格差が大きい

 

タイへの北部チェンコーン(Chiang Khong))からメコン川を渡りラオス領ファーサイ(Huay Xay)へ入った。ラオス入国は初めてだ。どんな国だろうかと興味があった。ラオス領に入るとタイとの経済格差が一目瞭然だった。

 

ラオスの一人当たりの国民所得(GDP per Capita)は約2,500米ドル(約35万円)とタイの1/3~1/4程度だ。 ラオスの最初の町であったファーサイは、アフリカ諸国の街並み様子と似ていると思った。道路は舗装してあるものの広い路肩の赤土の未舗装部分が商店や民家の軒先までのびていて、建物の屋根や壁が全体的に赤茶に染まっている。

 

道路を走行する車やバイクは極端に少なく、町の賑わいは感じない。むしろ寂しい感じがする。

時間が数十年前に戻ったような感じだ。

 

政治体制は社会主義だが、経済は市場原理を導入しているため、民間では近隣の自由主義(資本主義)国々と同様に民間の活力を利用して、資本主義のルールを用いて経済活動を行っている。

 

しかしながら、人々のビジネスに対する対応が他の近隣諸国と少し違うような感じがした。ホテルやレストラン等の接待業なら顧客に愛想をよくするのが、ビジネスのイロハであるが、ラオスはそうでは無いようだ。

 

顧客に対して不愛想であったり、顧客を友達のように扱っている振る舞いがある。ビジネスを行うプロに徹し切れていないと感じた。また、商品やサービスを買った際に、かずかずの納得いかない対応を受けた。ラオスの習慣かも知れないが、不愉快だった。

 

ラオスは内陸国でもあり、共産主義の社会だからかもしれないが、人々が閉鎖的にも感じた。共産主義や社会主義の国々は人々がお互いに監視し合っていると聞く。不審な人物や外国人との接触があればスパイ容疑をかけられる可能性があると聞いたことがあるが、ラオスはどうであろうか。

 

ラオス北部では当方がオートバイで村々や町々を通過する際に街角や家の中から人々がじっと当方を見つめる。子供たちは無邪気に当方に手を振ってくれるが、大人の態度は明らかに違った。

 

ファーサイ(タイとの国境)から首都ビエンチャンまでのラオス北部

 

ファーサイ(Huay Xay)~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・プラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)まで850kmの山岳道路では上り坂の連続の後は下り坂の連続が続く。

 

ラオス北部は深い山の中に位置している。入国した国境から首都ビエンチャンまで4日間山岳道路を走行する。 神奈川県の箱根に至る道路が数百キロメートル続くようなイメージだ。

この道路を通る車は中国から物資を運んでいる大型の貨物トラックが主だ。

 

大型トラックの駆動輪が登り坂のカーブで舗装面を削っている。 削られた道路は赤土がむき出しのダート化している。大型トラックが赤土のダートを走ると、赤土の煙幕をはられたように前が見えなくなる。

(タイ北部の集落。高床式の家や倉庫が多い)

(大きな荷物を背負って運ぶ女性。ラオス北部)

(ラオス北部山岳地帯の集落)

 

(ラオス北部の幹線道路)

(町全体がユネスコ世界遺産となっているルアン・プラバーン=Luang Pharabanの歴史的町並み)

 

ベトナム戦争の暗い影

 

町全体がユネスコ世界遺産(Unesco World Heritage)に登録されているルアン・プラバン(Luang Prabang)にUXO Visitor Centerという国連(UN)がサポートする組織の展示施設がある。

 

UXOとは不発弾のことだ。1964~1973にソ連と中国が支援する共産主義の北ベトナムとアメリカが肩入れをする自由主義の南ベトナムが戦争していた。南ベトナムを支援するため米国は軍事介入を行っていた。

北ベトナムは共産主義勢力が事実上支配するラオスを経由して南ベトナムにいる共産主義ゲリラに中国製やソ連製の武器を送り込んでいた。ラオス経由で武器を運ぶルートを当時ホーチミンルートと呼んでいた。

 

米国は北ベトナムからの武器補給を絶つため、ラオス国内で激しい空爆を行っていた。特に爆弾の中に数百の小型の爆弾が入っている殺傷能力が高いクラスター爆弾が不発弾とし約3億個ラオス国内に残っていると言う。

 

通常の爆弾が破裂した際に被害が及ぶ範囲は半径50m位と限定的だったのに対して、クラスター爆弾はサッカー場3個ぐらいの広さに被害を及ぼしたと言う。投下されたクラスター爆弾の3割は爆発せず、不発弾として残ったという分析がある。

 

子供が爆弾とは知らずに不発弾のクラスター爆弾を土の中から拾いだして、爆弾で遊んでいるうちに爆発して犠牲になったり、地中に埋まっている爆弾の上で焚火をして爆弾が破裂して犠牲者が出たりしているという。

 

国連(UN)は地元の組織共同して不発弾の撤去や不発弾の危険性を啓蒙する活動を行っている。

 

50年前に終わった戦争だが、今までの不発弾処理のペースだと全部処理するには100年ぐらいかかると言う。

(ベトナム戦争当時の米軍爆撃機B52)

(米軍から投下された不発弾)

(米軍から投下されたクラスター爆弾。テニスボールより少し小さな子爆弾が数百発入っている。)

 

ラオス南部地域

 

ビエンチャン(Vientiane)からタケーク(Thakehk)を経由してラオス第二の都市パクシ(Pakse)までメコン川沿いに約700km南下した。 

 

このルートは川の流れのように平坦で直線的な道路だが、舗装面が劣化してダート化した部分が多い。3km~5kmの距離ごとに50m~100mのダート部分があるイメージ。また、舗装の張り替え工事区間も多い。

 

山岳ルートよりは格段に走行し易くなった。山岳ルートでは肌寒く感じていたが、メコン川沿いのルートは乾燥して陽ざしが強い。

 

メコン川沿いの南部地域の民家は大きく北部山岳地帯より格段経済的に豊かに見えた。

 

北部の民族はベトナム戦争では米軍が支援した南ベトナム政府側を支援し、内戦時代には政府と敵対したことから、内戦終結後に懲罰的な意味で貧しい北部の山岳地帯に押し込められているとも聞いた。

 

パクシから200km程度南下すればカンボジアとの国境となる。ラオスからカンボジアへ入国するつもりだ。そしてカンボジアからタイへ再入国する計画をしていた。

(首都ビエンチャンの凱旋門はパリの凱旋門を模倣したと言う。)

(ラオス南部の農家は北部より大きく、裕福そうに見えた。)

 

(舗装道路だが赤土のためダート道に見える。ラオス南部の幹線道路)

(ラオス第二の都市パクシ=Pakseを流れるメコン川と日本の援助でかけられた橋。 この辺りはメコン川両岸がラオス領となっている。)

 

ラオスからカンボジア入国~アンコールワット見学後、首都プノンペンを経て最南端のタイとの国境へ 1,200km

 

ラオス南部の都市パクシ(Pakse)から約150km南にノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名の国境がある。その国境からカンボジアへ入国後、ストン・トレン(Stung Treng)~シエム・リープ(Siem Reap)=アンコール・ワットの観光地~首都プノンペン(Phnon Penh)を経てタイとの最南端の国境コー・コーン(Koh Khong)のルート辿る。

 

カンボジアの目当てはアンコール・ワット(Angkor Wat)の見学だった。また、ベトナム戦争当時やカンボジア内戦時のニュースで首都プノンペンの名を度々耳にしたのでプノンペンにも興味があった。

 

カンボジアについて当方は事前の知識が欠如していた。あまりにも無知だった。世界的観光地のアンコールワットがあるくらいだからラオスより豊かだろうと思っていたが、実態はその逆だった。

 

カンボジア入国時の税関職員の国辱とも言えるたかり体質にはうんざりした。公務員の職務を忘れて私利私欲に走る税関職員の対応には憤りを感じ、カンボジアに対するイメージが当初は一気に悪くなった。

 

他方、首都プノンペンではカンボジア経済の復興のシンボルともいえるカンボジア証券取引所を訪れた。証券取引所の職員から見学を薦められたカンボジア内戦時の収容所を訪れた。

 

ポーランドにあった第二次世界大戦時のナチスドイツよるアウシュビッツ収容所を5年前に見学したことがあったが、プノンペンの内戦時の収容所の方が冷酷、非人道的な収容所だと感じた。

 

後述するが、当時この収容所で何が行なわれていたか、説明を耳にすると吐き気をもよおしそうになり、気分が悪くなるぐらいショッキングな場所であった。

(カンボジア地図。赤線は走行ルート。地図上部はラオス方面。地図左側はタイ方面)

 

カンボジア入国手続きで難儀(Nong Noi Kheane/ラオス側~Trapaeng Kreal/カンボジア側)

 

カンボジアの国境検問所では、少し日本語を話す外見上は税関係官のような男が当方に声をかけて税関事務所へ案内する。

 

当方は税関史だと思ったが、後で税関とグルになっている民間人だと判った。 この男が、税関の部屋へ当方を案内して、税関係官の前で税関費用は70米ドル(約9,000円強)だという。70ドル米ドルはカンボジアの平均労働者の10日~2週間分の給与に匹敵する金額だ。

 

当方はその男へ、<米ドルは持っていない。持っているのはラオスのお金だ。>と言って財布の中身を見せると、その男は無造作に当方の財布からラオスの札を抜き取り、数えはじめた。当方が持っていたのは50米ドル程度(約7千円)のラオス通貨だった。 (米ドルの現金は緊急時用として持っているが、通常は秘密にしている)

 

当方は、<何をするか!他人の金を勝手に数えて>と、その男に文句を言いながら、お金を奪い返した。

そして、<税関にはお金は払わないし、払う義務は無い。税関は他国のように無料でバイクを通関させる書類を作成する義務がある>と持論を唱える。

 

その男は<一時輸入許可の書類を作成するための申請書を所定の形式でウェッブサイト上で作成せねばならない。その為の費用だ>と言うが、当方は<領収書を出せないお金は支払わない>とその男の要求をつっぱねる。そんな言い合いを繰り替えしたが、全く進展が無い。

 

当方が<日本大使館と相談する>と言い出すと、他の税関史が<上司が来るので待ってほしい>と言う。

しばらくして、税関長と名なる男が来て当方へ<税関では一切お金は請求しないが、自分で一時輸入許可書の作成の可否を審査する申請書をウェブ上で作成してください。その申請書に基づき、私が一時輸入を許可するかどうか審査します。>と言う。

 

< ええ?ウェブ上で申請書を作成する?>当方は数多くの国境を越えてきたが、そんな事は今まで聞いたこともやったことは無かった。

 

税関史は当方がどのように出るか伺っているようだった。そしてどこかへ行ってしまった。 当方はどのウェブサイトでどのようにするか判らない。他の税関職員も非協力的だった。 全員がグルになって事情に疎い外国人からお金を巻き上げることを考えているようだ。 

 

後日フェースブックの情報交換のグループ限定に投稿したら、<おれは税関で200米ドル払ったとか>、<40米ドルで済んでラッキーだった>とかとの反響があった。

事実、当方は米ドル紙幣を含む札束の金額を数えている税関職員を目撃した。その税関職員は当方が見ていることに気づき、お金を数えるのをやめて、当方から見えない場所行ってしまった。

 

ラオスのSIMで当方のスマホがインターネットに接続できたため、ウェブ上で申請書の記入を試みた。

しかしながら、手続きするウェブサイトが途中で止まり、申請書作成まで辿り着けない。そして、当方が文句を言い続けているのに対して、税関史は何か思ったのか<無料で申請書を作成する>と言い出す。

 

当方はビザ代(35米ドル)以外のお金は払わなかったが、この国境検問所を通過するのに3時間弱かかってしまった。 

 

税関職員を含むここで働く職員は暇を持て余し、スマホでゲームに興じたり、飲食や仲間とのおしゃべりで時間をつぶしていた。また、税関長は国境検問所に詰めているのでではなく、自宅にいる様子だった。

 

職員が必要な時にバイクで税関長宅へ行き書類の決済を仰いでいるようだ。このような税関職員の勤務状況で、この国の発展は大丈夫だろうかと疑ってしまう。

 

カンボジア側の入国手続きに時間がかかったため、国境から一番近い70km先の町へたどり着くまでに日没となり、車の通行がほとんどないダート道を2時間程度かけ埃まみれになりながら、ストン・トレン(Stung Treng)の町へ到着した。 

 

(カンボジア側の国境検問所建物。カンボジア側の道路は70km先までダート道だった。)

 

カンボジア観光の一押し。アンコールワット(Angkor Wat)遺跡群の見学

 

シエム・リープ(Siem Reap)と言うカンボジア入国2日目に到着した町の近郊に、ユネスコの世界遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡群が数キロメートルの広い範囲で点在している。

 

アンコール・ワット遺跡群は広範囲に点在しているため、オートバイは重宝した。

普通の観光客はタクシーや2人掛け乗用キャビンを牽引するバイク(Tuktukと言う乗り物)等を雇わねければ遺跡群を回れないほど広い。

 

アンコール・ワットは12世紀から約600年栄えたクメール帝国の城塞都市として機能していた。遺跡の周りには水を入れた広い外堀を張り巡らせ、本殿の周りには頑丈な石造りの外壁を備えて外敵の侵入を難しくした。

本殿の上階には石造りの大きなスイミング・プールのような施設が数ヶ所あった。いざと言う籠城時の水の確保かハレームでの水浴に使ったのだろう。 粗づくりの石造りの遺跡ではあるが、その規模には圧倒される。

 

アンコール・ワットの他にも日本政府の資金援助で修復中のアンコール・トム(Angkor Thom)や長い年月で樹木の根が遺跡に絡まったプラサット・タプロー(Prasat Ta Prohm)等を見学したが、規模や保存状態ではアンコールワットに及ばない。 

(アンコールワットを外堀から眺める。)

 

(アンコールワットの遺跡群はこのような森の中に点在する。)

 

(日本の援助で修復中のアンコールトムの遺跡)

(アンコールワット王朝時代の服装)

 

(長い年月を経て樹木の根が遺跡に絡みつくプラサット・タプロー遺跡)

 

首都プノンペン(Phnon Penh)の内戦時代の収容所博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)

 

カンボジア証券取引所で面談した若手の職員にカンボジア内戦時代の収容所が博物館になっているので是非見学したらよいと薦められた。博物館の名前はトウール・スレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)と言うショッキングの名前だった。

 

カンボジア内戦は1970年代初頭から1991まで続いた。

クーデターで政権を握った親米右派のロン・ノル(Lon Nol)将軍率いる政権に対して、ポル・ポト(Pol Pot)率いる親中国の共産主義クメール・ルージュ(Les Khmers Rouges)とクーデターで政権から引き下ろされたシアヌーク(Norodom Sihanouk)国王派が共同して戦ったことから始まった。

 

最初の内戦ではロン・ノル将軍派が負けて、ポル・ポト派のクメール・ルージュが勝ち、クメール・ルージュがカンボジアを支配した。

 

この支配が恐怖政治の始まりで、クメール・ルージュが首都プノンペンで政権を握った1975年から1979年の間に170万人とも言われる主に都市部の知識人がポル・ポト政権のクメール・ルージュ派により大量虐殺された。

 

ポル・ポト政権は当時の中国の文化大革命の影響を受けて、農業を中心とした原始共同社会を造ろうとした。原始農業共同体に医者、教師、弁護士等の知識人は邪魔だった。都市部の住民は農村へ強制移住させられ、知識人と言う理由だけで強制収容所に入れられ多くの人が拷問の上、虐殺されたと言う。

 

見学したトウール・スレン(Tuol Sleng )収容所は元高校だった建物だった。そこに12,000~20,000名の人々が収容され、確認された生存者は12名だったと言う。同様の極秘の収容所は200か所あったと言う。

 

クメール・ルージュは1979年に反中国のベトナム軍によりプノンペンから追い出され、ベトナムが支援する親ソ連のヘン・サムリン(Heng Samrin)が政権に着いた。

 

しかしながら、親ソ連(=親ベトナム)のヘン・サムリン政権は国際的に承認されず、カンボジアの辺境地に逃れたポル・ポト派(クメール・ルージュ)がカンボジアの正式政権として国連(UN)を始め主要国で認められていたと言う。

 

1991年にカンボジアで和平が成立するまで、サン・ヘムリン派に対してクメール・ルージュとシアヌーク国王派等が連合政権を作り、内戦を展開していた。 つまりカンボジアは1970年~1991年までの20年間内戦状態だった悲惨な歴史がある。 

 

内戦を長引かせた理由はソ連と中国の対立、更にソ連と米国との対立があり、カンボジア内戦の当事者達はそれぞれの大国の支援で大国間の代理戦争を展開していたとも言う。

(後ろ手に縛り鉄棒につるし上げる拷問。拷問を受けた人が気絶すると糞尿が入っている瓶に頭を入れられて覚醒されたと言う。)

(高校の教室を使った独房)

 

(拷問を受けた人を運ぶ看守たち。この絵は元画家だった生存者が当時の様子を描いた。)

(人骨は収容所の証拠品として展示されている。)

 

近隣諸国との経済格差は歴然

先にタイからラオスへ入国した時には時代が数十年後戻りして、アフリカ諸国に入ったような印象をうけたが、そのラオスからカンボジアへ入国すると、カンボジアが更に経済的に遅れていることが直ぐに判った。

 

入国したカンボジア国境から一番近い主要都市のストン・トレン(Stung Treng)までの70kmは未舗装のダート道であった。主要都市につながる幹線道路がダートとはアフリカの最貧国と同じだ。

 

アンコールワットがあるシエム・リープ(Siem Reap)と首都プノンペンをつなぐ主要幹線道路にはそれなりの交通量があったが、ストン・トレン~シエム・リープのような地方の幹線道路では車の数はまばらで、自動車が全く普及していないことを示していた。

 

農業人口が多い地方では当方が30年前のタイ旅行時に地方で多く見た耕運機に運搬車を牽引させた運搬車に農作物や人々を載せ運んでいた。ラオスでは見かけた小型ピックアップトラックやトラクターはほとんど見かけなかった。

 

交通量が少ないので当方のバイク・ツーリングは快適だったが、農作物の運搬を始め、人々の暮らしが厳しいことを物語っていた。

 

因みに2021年の統計ではタイの一人当たりの国民所得=年間収入(GDP)は約7,200米ドル(約75万円)、ラオスは約2,600米ドル(約27万円)、カンボジアは約1,600米ドル(約17万円)となっている。日本の一人当たりのGDPは約40,000米ドル(約420万円強)だった。

(地方幹線道は交通量が極めて少なかった。)

 

(カンボジア中部の湖の水を利用して灌漑した広大な水田)

(幹線道路沿いの売店で休憩。左側の車両は中長距離旅客用のミニバス)

 

町の人々は親切だった

入国時の税関職員の態度から受けたカンボジアの印象は悪かったが、町の人々は親切だった。

プノンペンの宿ではオートバイを路上駐車していたが、宿の従業員が夜には当方のバイクを宿の店舗内に運び込み、また朝には店舗からバイクを路上へ出だしてくれた。少し骨が折れる作業を黙々としてくれた。

 

カンボジア証券取引所で面談した職員は前日にメールでアポイントをお願いしたら、即答してもらい面談が可能となった。カンボジアの事について歴史や地理等いろいろ教えてもらった。

 

コー・コン(Koh Khong)の宿では、カンボジア最後の夜とあって、手持ちの現金があまりないと当方が宿の管理人へ伝える宿代を約3割値引いてくれた。

 

バイクで立ちごけした際には、通りすがりの人が助けにきてくれた。助けてくれたカンボジア人は当たり前のことをしたかのように、当方がお礼をいう前にさっさと立ち去った。

 

20年余りにわたる悲惨な内戦を経験したからこそ、相互扶助の精神が強いと感じた。また挨拶もしっかりしている。当方が声をかけても、必ず笑顔で返事が返って来る。外国人慣れしているともいえるが、町の人々は気持ちがオープンとの好印象を持った。

(コー・コン=Koh Khongで宿泊した宿)

 

ベトナム・ レンタルバイクで1,800km

 

ハノイ(Hanoi)~北部ハザン・ループ(Ha Giang Loop)~ラオ・カイ(Lao Cai) 約800km

自分のオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送している期間を利用して年末から約2週間の予定でハノイを中心としたベトナム北部地域へ行くことにした。

 

ベトナムには当方が高校生頃に終わったベトナム戦争や社会主義国家でも市場経済と外国資本を招きいれた開放経済を取り入れたベトナムの経済発展に興味があった。しかしながら、日本等の外国籍のオートバイで走行するには地元のガイドと特別な許可が必要であり、ハードルが高い。

 

そのような理由で、ベトナムは当方のツーリング計画には無かったが、現地でレンタルバイクを利用したツーリングなら可能だ。 ただし、ベトナムは国際運転免許証についてジュネーブ条約締結国でないため、日本の国外運転免許証(International Driving Permit)は有効でないが、バイクレンタル業者は何も言わなかった。

 

ハノイから中国と国境を接するハザン県(Ha Giang)にある約300kmの山岳部の周回ルート(Loop)上では石灰岩の浸食が作り出したカルスト地形の絶景が観られる。その絶景はユネスコの世界遺産にも登録されている。 バイク・ツーリングでは一押しのルートだ。

(ベトナム地図上の赤線は走行ルート)

 

ハノイ(Hanoi)~ハザン(Ha Giang) 約300km

ハノイでYAMAHA製の135ccのスクーターを1日10米ドルで借りた。ハノイ市内のみのレンタルバイクの利用ならもっと安いのだが、遠距離での走行はプレミアム料金がかかる。 

 

ハノイでのオートバイの運転マナーは当方がツーリングした東南アジア6か国で一番悪かった。 

信号無視、逆走は当たり前ながら、当方が直進する所に前方から来るオートバイが当方の前を横切り左折する。非常に危ない運転マナーである。また、対面通行の道路を車もオートバイも逆走していたため一方通行の道路と勘違いした。インドネシアのスラバヤでも、オートバイの運転マナーはこれほど酷くなかった。

 

ハノイから100km位遠ざかると道路の交通量が減り、やっと地方道を走行している感じになる。正月直前の道路に国旗の横断幕を付けた飾り付けが通過する町々であった程度の記憶しか残らなかった。

 

ハザンの町が100km程度に迫ると周囲の景色が変わってきた。平地から突然そびえ立つ小山が多くなった。石灰岩の地層が長い年月の風雨で浸食されたためだろう。 300kmの道のりながらハノイから8時間近くかかってハザンの町に到着した。

(首都ハノイの証券取引所建物)

 

(首都ハノイの道路には多くのバイクが走っていた。)

 

(ハザンの手前100kmぐらいになると山の景色となる。ハノイで借りたスクーターでツーリング)

 

ハザン・ループ(Ha Giang Loop)1泊2日の走破(約300km)

全長約300kmのハザン・ループ(周回道路)は狭い山岳道路である。深い山の中には山腹を段々畑にして農業で生計を建てている人が多いのだろう。山里の集落の民家はどれも小さい。

 

中伊豆の山岳地帯のような狭い道だ。小型のマイクロバスや土砂を運ぶ大型ドラックも通行するが、ほとんどは地元の人が小型オートバイで通るか、観光客がレンタルした小型バイク位しか通行しない。くねくねした登り坂のカーブを突き進むと視界が広がり、雲がかかった山々の姿が見える。深さ数百メートルの断崖を眺めると足がすくむようなところもある。

 

当方は周回ルート(ループ)の中間地点であるバン・バン(Bang Van)の町で一泊したのみだった。

 

バン・バン(Bang Van)の町では宿探しに苦労した。

やっと見つけたゲストハウスは古く、暖房設備も無い所だった。その割には割高な価格を提示してきた。  

バン・バンは中国との国境近くの山岳地帯で暖房設備が必要なほど夜間は冷える。暖房設備が無い部屋では当方が吐く息が白くなるほどだった。

 

周回道路のツーリング2日目になると風光明媚な絶景にも目が慣れて、多少の事では驚かなくなるが、ハノイから一般道路を丸一日かけて訪れる価値が十分あった。

 

(ハザン・ループの山岳道路)

 

(高さ数百メートルの切り立った崖)

 

(地面から生えたような山々)

(寒かったバン・バン=Bang Vanの町)

 

ハザン(Ha Giang)~ベト・クアン(Viet Quang)~ラオ・カイ(Lao Cai)180km 

ハザン・ループの後は、ラオス国境に近い北部山岳地帯のサパ(Sapa)を目指すことにした。

サパには複数の山岳民族が集まる市場が(Market)がたつと言う。 しかし考えが甘かった。

サパはハザンより標高が高く、冬場に雪が降る山もあると言う。 

 

サパの手前のまだ標高が高くない平地のラオ・カイ辺りで、持っていた服を全部着込んでも夕方のオートバイ走行は寒い。

 

結局サパへ行くことをサパ手前40km~50kmで断念。より暖かい南東方向(ハノイ方向)へと進路を変更した。

 

このルートで通過した集落や町の民家は立派だった。3階建ての家もある。茅葺屋根の新築民家でも大きい。日本の県道クラスの地方道はしっかり舗装がされ、一般道から奥に進む農道のような道路でもコンクリート舗装がしっかりと施されていた。この豊かさはどこからくるのだろうと思った。

 

ラオ・カイ(Lao Cai)の町は県庁所在地だけあって、町の規模が大きく、東南アジアの国とは思えないほど立派なビルや商店が建ち並んでいた。

(田舎の真新しい大きな民家)

(このぐらいの規模の民家は多かった。)

(ラオ・カイ中心部の大きなロータリー)

 

ラオ・カイ(Lao Cai)~ホア・ビン(Hoa Binh)~ニン・ビン(Ninh Binh) 

ラオ・カイからホア・ビンまででも約300km強の距離があるので、一般道での走行は一日がかりだ。

 

ホア・ビン(Hoa Binh)はホア・ビン県の県庁所在地でハノイにも通じる紅河(Red River)沿いの町だった。このあたりはハノイからも100km程度の距離となり、主要な都市も点在しているためか交通量が多くツーリングを楽しむと言うより単なる移動のためのツーリングだ。

 

ホア・ビンの周辺ではまだ肌寒いのに、水田では田植え準備が進んでいた。

 

ニン・ビン(Ninh Binh)で宿泊したホテルは家族経営の感じが良い小さなホテルだった。その一角は10年ほど前に区画整備され、観光客誘致を主眼に開発されたと聞いた。

同じく区画には5~6階建ての似たようなホテルが多数あった。 ベトナムの町とは思えないような西洋風のビルと大型住宅がある場所だった。

 

ニン・ビンの町自体には観光スポットはあまりなかったが、周辺には平地から垂直に立つ奇岩の山々が多く思わず目を見張った。ニン・ビン周辺は小さな河川を利用した水路が発達している。その水路を観光にも利用している。

昔ながらの手漕ぎの小型船に観光客を乗せて、周囲の奇岩の山々を見物しながら水路・運河でのちょっとした船旅気分を与えてくれる。

(ニン・ビンへの入口門)

(ニン・ビン郊外の河川。観光用の手漕ぎ船に乗って景色を楽しむことができる。)

 

(ニン・ビン郊外には地面から生えたような小山が多い。)

 

ニン・ビン(Ninh Binh)~ハイ・ホン(Hai Phong)~ハロン湾(観光船ツアー)Ha Long Bay~ハノイへ戻る(350km)

ハノイ周辺100km圏内は人口密度過密地帯でもあり、産業の集積地でもある。 ハノイの西約100kmに位置するハイ・ホン(Hai Phong)には外国資本が多く進出する工業団地があると言う。

 

実際にニン・ビンからハロン湾へ通じる道路走行中に大手韓国企業の工場を目にしたり、現在造成中の工業団地を目にした。

 

この地域に来たのはベトナム北部では観光地として有名なハロン湾の奇形岩群を見るためだった。約70~80名ぐらい乗船可能な3階建ての観光船で洋上に点在する奇岩群や海上からそそり立つ島々ある海域を約6時間航行する。途中2つの島にも上陸して石灰岩が作り出した鍾乳洞を見学する。

 

最初の1時間は奇岩や海底から垂直に盛り上がったような島々に感動したが、どの島々を見ても違いが判らず最初の感動が少しずつ薄れていく。3時間ほど経過すれば、どの島を見ても同じようにしか見えず、景色に飽きた。

 

ベトナムは思っていたより広かった。 

ベトナム北部地区を10日でツーリングした距離は1,800km弱となった。

北部のハノイから南部のホーチミン市までの直線距離は1,100kmと東京から長崎までの距離に匹敵する。ベトナム南部までオートバイ足を延ばすとすれば1ヶ月でも足らないかもしれない。

 

 

(ハイフォン郊外の大手韓国自動車メーカーの工場)

 

(ハロン湾に浮かぶ奇岩群)

 

(ハロン湾と観光船)

 

以上

東南アジア総集編(前半)マレーシア・インドネシア・タイ 7,200km

 

(赤線が2022年9月~2023年7月のアジア・中近東ツーリングの実際の走行ルート。紫色は2017年5月~2018年7月のユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断ルート。ブルー色の線は2019年5月~11月のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断ルート)

 

何故マレーシアから出発したか?と問われれば、出発したタイミングと輸送コストが起因する。

 

当方は当初トルコのイスタンブールからイラン・パキスタン・インドを経て東南アジアへ至り、インドネシア・東ティモールを経てオーストラリアへ至るツーリングルートを描いていた。

 

しかしながら、コロナ禍で海上輸送がコンテナー不足や港湾での貨物の停滞、船腹の不足等で混乱して、輸送業者は中古オートバイのような個人貨物の取扱いを敬遠していた。

 

そのため、海上運賃の見積もりを入手するまでに数ヶ月の時間を要し、トルコへ輸送するには季節的に遅くなってしまうことが影響した。トルコおよびイランの冬場は道路が凍結するため、冬季の走行は避けなければならない。

 

オーストラリアへの輸送も検討したが、輸送業者がなかなか見つからないこと、オーストラリアへ中古オートバイを海外から持ち込む際の輸入コストがスチーム燻蒸消毒等を含む業務のため割高になること、更にオーストラリアから東ティーモールへ渡る際の海上輸送業者が見つからなかったため諦めた。

 

結局、マレーシアのポートケラン(Port Kelang)へオートバイを海上輸送して、同地からツーリングをスタートした。

 

計画した走行ルートは東南アジアからインドへ抜けパキスタン・イランを経てトルコのイスタンブールを目指す。イスタンブール到着後は3つの選択肢を用意した。

 

第一の選択肢はドバイまで南下してオーストラリアまでオートバイを輸送して、オーストラリアから帰国すること、第二はイスタンブールからジョージアを経てロシア・ウラジオストックまで行き、フェリーで韓国経由帰国すること、最後の選択肢はスペイン等欧州まで行きオートバイを同地で一時的に預ける、あるいは同地から日本へ送り返すことだった。

 

結局、スペインのマドリッドがツーリングの最終地点となり、同地から日本へオートバイを海上輸送にて送り返すことになったが。

 

更に、未解決な課題があった。閉鎖中のミャンマーの陸路国境がいつ再開されるかだった。

陸路国境が開けば、タイからミャンマーを経由してインドへ入国できる。しかし、国境が閉鎖されたままだと、オートバイを東南アジアからインドへ海上輸送するか、ネパールへ空輸せねばならない。

(当初計画したアジア・中近東・オーストラリアの走行ルート(案)。タイからインドへミャンマー経由陸路で移動する計画だったが、結果的には実現できなかった。)

 

結果的にはミャンマー国境は閉鎖されたままで、タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送した。その時点で当初考えていたイスタンブール到達後ドバイ経由オーストラリアへ渡る選択肢は時間的に難しくなった。

 

東南アジア6カ国ツーリング中の前半はマレーシア、インドネシア及びタイだ。後半はラオス、カンボジア、そしてベトナムとなる。 インドネシアとベトナムはレンタル・バイクを使用してのツーリングだった。

 

前半は自由主義国家群であり、東南アジア諸国の中では経済が開放された国々で、人々も外国人に対してオープンで、外国人観光客を歓迎してくれる。

 

他方、後半の3カ国は社会主義だが市場経済主義を採用して経済発展に繋げようとしている。社会主義体制のためか、あるいは市場経済主義を導入しているが歴史が浅いためか、人々は閉鎖的である印象をもった。

 

マレーシア 1,900km

(マレー半島のマレーシア走行ルート=赤線)

 

首都クアラルンプール(Kuala Lumpur)に隣接するポート・ケラン(Port Kelang)

にて輸入手続きをした。当方が空路クアラルンプールへ到着後5日目にオートバイを引き取ることができた。その際の輸入手続きは比較的にスムーズであった。

 

マレーシアは高速道路網が発達していた。そして、オートバイの通行は無料となっていた。

当方は未舗装のダート道でも問題なく走行できるようにと250ccのオフロードタイプのオートバイでツーリングしたが、マレーシア及びその後のタイでも大型のオートバイの方が道路事情には適していると思った。 

 

マレー半島を2回に分けて合計1,900km走行した。

 

ポート・ケランからマレーシア領ボルネオ島へは貨物のみを運ぶフェリー船が2週間に一回ぐらいとあるようだった。しかしながら、輸送するタイミングが合わないと日時がかかりすぎることと、更にフェリー船の貨物運賃が高いことを事前の調査で知った。そのため、マレーシア領ボルネオ島へ渡ることは諦めていた。

 

前半はクアランプールからマレー半島を南下して、マラッカ(Malacca)~ジョホールバール(Johor bahru)~クアンタン(Kuantan)~クアラルンプール(Kuala Lumpur)へと戻った。

 

このルートで印象に残ったのはマラッカだった。マラッカは15世紀にポルトガル人が入植後、オランダそしてイギリスの植民地となった歴史があり、その歴史的建物が良く保存されていた。西洋諸国のアジア進出の歴史が刻まれた場所であり、またインド人街や中国人街も残っているので旅情が味わえる港町だった。

 

逆にがっかりした場所としてはジョホールバールである。マレーシア第二の都市であるが、同地で宿泊した宿のオーナーに<ジョホールバールはシンガポールへ通勤する人のベットタウンであり、見るべきものはあまりない>と教えられたが、その通り見るべきものが無い都市だった。

 

後半はクアラルンプール~キャメロン・ハイランド(Cameron Highlands)~ペナン島(Penang)~コタバル(Kota Bharu)の約1,000kmで、タイへ入国するまでのツーリングであった。

 

キャメロン・ハイランドは高地であったため、熱帯のマレーシアでも毛布が必要な位寒かった。キャメロン・ハイランドは涼しい気候を利用した茶の栽培やイチゴの栽培が盛んであり、お茶栽培のプランテーションを見学した。

(マレーシアのポート・ケラン港の輸入倉庫でオートバイを引取り後、ツーリングを開始する。)

 

(クアラルンプール郊外のプーチョンの幹線道路)

 

 

(マレー半島の地方道)

(マラッカ海峡に面するマラッカ市の海へ通じる運河)

 

(マラッカ市のインド人街)

 

(15世紀にポルトガル人がマラッカへ上陸した当時の想像絵)

 

(インド洋に突き出たマラッカの海上モスク)

 

(ユーラシア大陸最南端のタンジュン・ピアイ=Tanjun Piai。沖合のかなたにはシンガポールの港が見えた。)

(マレーシアのオートバイライダーの集団)
 

(キャメロン・ハイランズのお茶畑で茶葉を袋につめる労働者)

 

ペナン島とマレー半島の間には2つの橋が架かっていた。

第二ペナン大橋の長さは十数キロメートルの長さに及ぶ。オートバイは幅2.5mほどの左右をコンクリートの製の低い壁に囲まれた区間を走行するため時速80kmでの走行では、通行帯が非常に狭く感じられて、橋から海上の景色を見る余裕はほとんど無かった。

 

ペナン島では、観光地から離れた島の西側にあったゲストハウスに投宿した。島の西部地域はあまり観光化されておらず、人口も少ない。また、物価もジョージタウンより安い場所であったので気に入った。

 

ペナン島の後はタイへ入国するためにマレー半島を横断して、半島の東部コタバルへと移動した。外国籍車両を使ってタイへの入国は2019年ごろから法律によって規制されていた。

 

同規制では外国車両を使って入国する場合はタイ人のガイド同伴と事前の許可が必要とのことだったが、規制が徹底されていない入国管理事務所があった。

 

規制が徹底されていない国境の一つはコタバルからタイへ入国するルートだった。

(ペナン島西部の高地より西側の海岸地帯を見晴らす。)
 

(ペナン島南部の海岸と漁船)

(世界遺産ペナン島のジョージタウンの旧市街の歴史的建物群)

 

(マレーシア半島北部を横断してコタバルへ向かう途中の高地。夜間は野生の象が道路を横断すると言う。)

 

タイ 3,200km

前述したように外国籍車両でのタイ入国には規制が導入されていたが、国境検問所によっては規制が徹底されておらず、従来通りタイのガイド無しでも入国が可能だった。

 

当方はタイのパタヤで長年オーバーランダー向けのゲストハウスを経営するイギリス人と事前に連絡を取り合い、同イギリス人にタイのオートバイ保険と入国時の書類をそろえてもらい、マレーシアのコタバルからスンガイ・コロク(Sungai Kolok)国境からタイへ入国した。

 

その後、細長いマレー半島を北上してバンコクを目指した。マレーシア国境からバンコクまで1,300kmと比較的長い直線的なルートだった。幹線道路は片側2車線のハイウェイであり、高速での移動が可能だった。

 

道路沿いの大きな仏教寺院や仏像を頻繁に目にしてイスラムの国(マレーシア)から仏教国へ入ったという実感が湧く。当方は見学を兼ねて仏教寺院を訪問して、旅の無事を祈念した。

 

タイでは親切な人々に出会った。連日のオートバイツーリングで疲れがたまり、休憩を兼ねて道路わきの食堂でスープのみを求めたら、スープ代は無料でいいと言ってくれた食堂のおかみさん、休憩したドライブインで土産用のカットフルーツを<持って行け>とくれた土産屋の店主、多くのゲストハウスでは室料金を割り引いてくれた宿のオーナーの人々等。

 

首都バンコクはタイにしてタイにあらずとの印象を持った。当方がバンコクを観光で訪れたのは1980年代末であった。その当時はバンコクにはさほど多くの高層ビルは無く、高架の高速道路も無かったと記憶するのんびりとした時代だった。

 

しかしながら、現在のバンコクのビジネス街は働く人々も、オフィースビルも東京都心のビジネス街と変わらず、休憩時にはスターバックスのコーヒーを片手に持ち急ぎ早に歩いているOLの姿を多く見かけた。

 

それもそのはずで、バンコク首都圏の一人当たりの国民所得(GDP)は他県の2倍ほどの17,000米ドル(200万円~230万円)と日本の1980年代と同じレベルになっている。

 

バンコクからタイ内陸部を経てタイ北部を目指した。走行ルート上にはアユタヤ(Ayuthaya)、スコタイ(Sukhothai)やチェンマイ(Chiang Mai)等タイを代表するような観光地があり、当方は世界遺産を巡る等の観光をした。

 

アユタヤとスコタイの間のナコン・サワン(Nakhon Sawan)ではガイドブックに載っていない寺院を宿の主人に勧められて訪れた。その寺院Wat Sri Uthumpornは当方が見た限り、寺院の内装がタイで一番絢爛豪華に施されていた。寺院というより王宮のような内装だった。

 

感心したのはラオスとの国境に至る道路インフラが立派なことだった。当方の経験では国境近くの辺境地の道路は,多くの場合、舗装がはがれたり、未舗装のダートのダタガタ道であった。

しかしながら、国境に通じるチェン・コーン(Chiang Khong)への道路は他の主要幹線道と同様に片側2車線の立派なハイウェイだった。

 

当方はチェン・コーンからファーサイ(Huay Xay)国境を経由してラオス(Laos)へ入国した。

 

その後、ラオスとカンボジアを経てコー・コン(Koh Khong)国境経由タイ南部へ入りパタヤを経てバンコクへ戻った。そしてオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送した。

 

バンコク以北のタイの走行ルート)

 

(タイ南部の道路沿いには高さ20m程度の大きな鶏の像が立っていた。鶏を祭った寺院も多かった。)

(首都バンコクのビジネス街の高層ビル群)

(バンコクの商業地区)

 

(タイ中部スコタイの世界遺産の仏教遺跡)

 

(アユタヤの仏教遺跡群の中に木の根にうずもれた仏頭があった)

 

(ナコン・サワンのWat Sri Uthumporn)

(Wat Sri Uthumpornの内部装飾)

(チェンマイへ向かう途中に出会ったタイ人の68歳のシニア・サイクリスト。タイ一周ツーリング中と言っていた。)

 

(ドライブインの土産物店のオーナーと同オーナーがくれたカットフルーツ)

(パタヤでお世話になったイギリス人が経営するゲストハウス)

 

(バンコクの港からムンバイへ海上輸送する当方のオートバイ)

 

インドネシア(レンタルバイクにて2,200km

 

インドネシアには約4週間滞在した。11月には雨季が始まるため、マレーシアで一週間程度のマレー半島南部をツーリングした後、自分のオートバイをクアラルンプールのオートバイ店に預けて、防水バックパックに最小限の荷物をいれて10月初旬にまずバリ島へと飛んだ。

 

インドネシアのビザ(アライバル・ビザ)の滞在期限は1ヶ月のため、一週間づつバリ島、スラウェシ島南部、ジャワ島東部とジャワ島中西部の4地域に分け、それぞれの地域で120ccクラスのスクーターを借りてミニツーリングをした。 ただしジャワ島中西部は移動距離が長いため、レンタルバイクではなく鉄道を利用したバックパックの旅であった。

 

インドネシア全島をカバーするバイク(オートバイ)のレンタル業者は無く、島ごとあるいは地域ごとにバイクを借りた。ただし、レンタルバイクの業者を探すため、それぞれの地域で丸一日費やした。これにはなかなか骨が折れる。

 

バリ島はリゾート地として世界中に知られているが、州都があるテンバサル(Denpasar)周辺以外は意外と素朴な場所であり、レンタルバイクでも景色を見ながらゆったりバイクツーリングを楽しめる場所だった。

 

全島一周で約500kmの距離があり、一日の走行距離を約100km~150kmとして、デンバサル(Denpasar)~アメッド(Amed)~ロビナ(Lovina)~メデウィ(Medewi)~ウブド(Ubud)~クタ(Kuta)の

順に宿泊した。

 

乾季と言えども午後3時ごろには雲行きが怪しくなり、ほぼ毎日夕立が降る。夕立を避けるため、午後3時ごろまでには目的地に到着できるようにした。

 

バリ島北部のアメッドからロビナ区間の一部では海岸沿いの丘陵地を通る道路を走行する。このルートは静岡県の西伊豆を小規模にしたような風景が広がり、当方は気に入った。

 

ウブドとクタは州都デンバサルの周辺地域とあって、観光客が多く道路も渋滞しているので当方の好みの場所ではなかった。

 

スラウェシ島南部はあまり観光された地域では無く当方は気に入った。当方はレンタルバイクで約1,000kmとインドネシアのツーリングでは最長距離を走行した。

 

走行ルートは州都のマカッサル(makassar)~パレパレ(Parepare)~タナトラジャ(Tana Toraja)~シワ(Siwa)~シンジャイ(Sinjai)~マカッサル(Makassar)。

 

観光ガイドブックにはあまり多くの場所が紹介されていない分、タナ・トラジャ以外は外国人観光客は見かけなかった。当方が走行した南部地域の東側海岸沿いは田植え中の田園や畑が多く、カラフルな色の民家が建つ牧歌的な場所でインドネシアらしく感じた。

 

親切な人々とも出会った。レンタルバイクが道路上でガス欠になった時にペットボトルにガソリン入れて持ってきてくれた少年、夕食をごちそうしてくれた3人姉妹が経営する食堂等良い思い出となった。

 

他方ジャワ島東部をツーリング中には嫌なハプニングもあった。Booking.Com等のオンラインの大手宿泊予約サイトで予約した宿で予約料金の2倍の宿泊料を支払わないと宿泊させないと言われ、予約を反故にされ、もめた。 

 

ジャワ島東部ではスラバヤ(Surabaya)~ポロボリンゴ(Porobolingo)~バンユーワンギ(Banyuwangi)~ジュマジャン(Jumajang)~スラバヤと約700kmの周回ルートを走行した。

 

ジャワ島東部は交通量が多く、大型トラックも多いため、道路の舗装面がデコボコで走行しづらかった。

赤道直下の地域でも雨上がりの山の裾野の森林地帯はヒンヤリとして夏のライダーズジャケットでは寒く感じられた。

 

スラバヤからジャワ島中部のジョゴジャカルタ(JogYakarta)を経て首都ジャカルタ(Jakarta)へは鉄道を利用して移動した。スラバヤからジャカルタまで約800km弱ある。東京から広島ぐらいの距離だ。

 

仮にレンタルバイクで移動したら借りた場所にレンタルバイクを戻すため往復の距離となる。小型スクーターで一週間で移動できる距離ではない。

 

ジョグジャカルタ(JogYakarta)は落ち着いた感じの町だった。目抜き通りは西洋的なプロムナード(街路樹がある通り)となり、観光客でにぎわっていた。JogYakartaでは近郊の仏教遺跡を見学するためにスクーターを借りてミニ・ツーリングをした。

 

ジャワ島はインドネシアで一番人口密度が高い島だったが、当方の想像に反して都市部を除いては人口密度は高いと感じなかった。鉄道沿線沿いには広大な平原や農地が広がり、大陸的な景色が広がっていた。

 

ジャカルタはインドネシア第二都市のスラバヤの比では無く、商業地やビジネス街には高層ビルが樹林する大都市だった。また地下鉄もある。

 

インドネシアは原油、石炭、ニッケル等を地下資源豊富な国だ。経済(GDP)は過去10年年率約5%で成長していた。人口はアセアン諸国の半分以上を占め、平均人口は30歳と若く、巨大な消費マーケットだ。

 

この巨大マーケットをにらんで多くの多国籍企業がインドネシアへ進出している。日系企業でも製造業を中心に約1,500社がインドネシアへ進出していると聞く。

(バリ島の走行ルート=赤線)

(アメッド=Amed近くの棚田)

 

(アメッド=Amedの宿から見た付近ののどかな風景)

(国際リゾート地のバリ島レギャンの海岸)

(スラウェシ島の走行ルート=赤線)

 

(スラウェシ島州都マッカサル=Makassarの夕方の通勤ラッシュ時の様子)

(マッカサルからパレパレ途中の道路沿いには養殖池が多かった。)

(ガス欠になりペットボトルにガソリンを入れて持ってきてくれた少年と母親。)

(タナ・トラジャの神殿は海を渡ってきた先祖を祭って船の形をしている。)


(スラウェシ島の小学校の校舎の壁は青色に塗られていて目立った)

田植え直後のスラウェシ島の田園地帯)

(スラウェシ島内陸部の棚田)

(ジャワ島の地図。赤線の東部の周回ルート700kmを走行した。)

(ジャワ島の活火山ブロモ山=Gunung Bromo)


 


(雨上がりに寒かった樹林帯)

(水路沿いの農地)

(がけ崩れのため、臨時の迂回路では川渡の部分もあった。)

(ジャワ島の古都ジョグジャカルタのプロムナード)

(ジャワ島中部の仏教の最大遺跡ボロブドウール=Borobudur)

(首都ジャカルタのビジネス街)

(首都ジャカルタの地下鉄)

以上