インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -4ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

ポート・オーガスタ(Port Augusta)~エアーズロック(Ayers Rock)~アリス・スプリングス(Alice Springs) (2,000km) 4/114/18

 

概略

 

ポート・オーガスタ(Port Augusta)で風邪のため2泊した後、アウトバックと呼ばれるオーストラリア中央部に位置する巨大な一枚岩でできたエアーズ・ロック(Ayers Rock)へ向かい赤土の不毛地帯へ進みだす。

 

ポート・オーガスタはオーストラリア南部のアウトバックの入口の町。アウトバックとは手つかずの自然が残る広大な内陸部のこと指す。

 

そのアウトバックにはポート・オーガスタからティモール海に面する北部のダーウィン(Darwin)までオーストラリアを縦断する約3,200kmの長さのスチュワート・ハイウェイ(Stuart Highway)が通っている。

 

ハイウェイと言っても片側一車線で対面通行の普通の道路だ。 と言っても砂漠とブッシュ地帯の中の交通量が少ない直線的な道路なので、普通ではないかもしれない。

 

途中の見どころはクーバー・ペディー(Coober Pedy)と言うオパール鉱石の採掘が盛んな町と

オーストラリアのへそとも言われる巨大な一枚岩のエアーズ・ロックだった。

 

このルートの約一週間(8日間)では6日連続キャンプ場でのテント泊をした。テントの高さが約90㎝位しかない一人用の超小型テントでは、立ち上がって腰を伸ばすことが出来ず、窮屈をした。

 

キャンプ場でのテント泊は一泊20豪ドル(2千円)~40豪ドル(約4千円)とホテルやホステルの個室に比較すれば安く済む。 

 

ロードハウス(Roadhouse)と呼ばれる砂漠道のガソリンスタンドやカフェ併設の宿泊所(災害時のプレハブ建て簡易避難所に似ている)のような個室でも一泊1.5万円の料金だ。

 

観光客に人気のエアーズロックではこのような宿泊所でも一泊2.5万円位と高い。

アリス・スプリングスの町ではBooking.Comのホテル予約サイト上では当方が行く前日には一泊5万円のホテルの部屋しか空きがなかった。

 

当日はそのホテルの空室もBooking.Comのサイトから消えて、文字通りアリス・スプリングスには空室がない状態だった。

 

当方はアリス・スプリングで3軒のホステルとホテルを訪れて空き部屋があるかどうが尋ねたが、やはり空き部屋無かった。 

 

後でわかったことだが、その日までアリス・スプリングスではフェスティバルがあり、宿泊客でにぎわっていたようだ。

 

この時はキャンプ用品を持ち合わせていて良かったと感じた。

キャンプ場でテントを張れば宿泊は何とかなるからだ。

 

話が長い詳細は以下に続く。

(ポート・オーガスタから北はアウト・バックと呼ばれるオーストラリア内陸部だ)

 

(カンガルーの交通事故は多い)

 

(メルボルンからアリス・スプリングスまでは赤線が引いてある。メルボルン海に面する地図右下。アリス・スプリングスは地図左側中央部。約3,300kmの距離だ)
 

(エアーズロックを背景に三脚で撮影を試みた。三脚上のスマホの位置が低すぎて、エアーズロックが大きく写っていない)
 

4/114/12 ポート・オーガスタからクーバー・ペディーへの移動 580kmとオパール鉱山等の観光

 

日の出とともにポート・オーガスタのモーテルを出発。今日の目的地は約600km先のオパール鉱山の町と知られるクーバー・ペディー(Coober Pedy)だ。 オーストラリアをほぼ直線的に縦断する一本道を進むだけだ。

 

ポート・オーガスタを数キロ離れると道路横に建てられた<ようこそアウトバック>の看板が目に付く。

180km先のピンバ(Pimba) ロードハウスまで住む人がいない荒野の道を進むと道路脇にカンガルーの死体が目立つ。

 

夜間に道路を渡ろうとして交通事故に遭ったのだろう。180kmの区間にまだ比較的新しいカンガルーの死体が二十数個あった。

 

地元の人はカンガルーよりダチョウのように飛べない大型の鳥類エミューの方が危ないという。

荒野で野生のカンガルーは見なかったが、エミューは所々で道路脇に集団でたむろしてたり、道路を横断しているのを見た。

 

スチュワート・ハイウェイの交通量は少ないが、34車両を連結したトラック・レインが曲者だ。

対向車線を時速110kmで走行するトラックトレインとのすれ違い時の風が台風のように強く、強風でオートバイがふらつく。

 

ピンバ(Pimba)で給油したのみで、その後は昼食なしで、15時位までひたすら走り続ける。

クーバー・ペディーの町が近づくと道路の左右に掘削用重機が無造作におかれ、高さ4~5m程の土を積み上げた多数の小山が目につく。 後で知ったが、地下に坑道を堀り、オパール鉱石を採掘しているのだ。

 

 

クーバー・ペディーの町にはオパール鉱山の廃坑跡をモーテルやホテルに利用した宿泊施設がある。

当方は廃坑の地下空間(洞窟)を有料キャンプ場としている場所を知人から聞いていた。

 

クーバー・ペディーの町から6km程離れた荒野の丘にあるRibas Underground Campの洞窟内にテントを張って二泊した。  一泊18豪ドル(約1,800円)でお湯がでるシャワーや自炊設備があるキッチンも備わっている。

 

日が沈むとあたり一帯は真っ暗闇に包まれる。夜空に光る星座がきれいで印象的だった。

洞窟内は快適だった。 砂漠の気候は日中には30℃と暑く(陽射しが強いため、炎天下では温度計以上に暑く感じられる)、夜間は10℃程度まで冷えるが、洞窟内は気温18℃20℃と一定だ。

 

 

(ポート・オーガスタから北のアウトバックの始まりはこんな風景)

 

(クバー・ペディー=Coober Pedyの入口付近)

 

(クーバー・ペディーの洞窟キャンプ場の入口)

 

(洞窟キャンプ場の一区画にテントを張った)

 

翌日(4/12)のオパール鉱山ツアー

 

翌日はオパール鉱山の見学や月面のような景色の砂漠へ行くツアーに参加した。大型トラックを改造したアドベンチャーバスに乗って地元ガイドが案内してくれる。

 

ガイドがいろいろ説明してくれるが、分かりにくい英語だ。アメリカや欧州でも英語ガイド付きのツアーには参加しているが、オーストラリアのガイドの説明ほど分かりにくい国は無かった。

 

クーバー・ペディーは国内のオパール産出量の9割を占めるオーストラリアで最大のオパール産地だ。

 

人が入れるくらいの穴を深さ1020m位掘り、そのあと横に坑道を堀る単純な採掘現場だ。

 

そもそもオパールは、2千万年前~7千万年前の海中生物が砂岩の中で鉱石化したものだ。化学元素は知らないが、光を充てると反射板の様に光る鉱石がオパールの原石だ。

 

重機で横穴を掘りながら出る土砂を大型掃除機のようなもので地下から吸いだして鉱石か土か区分けする。

 

色が黒いほどオパールとして価値が高いという。白いオパールはあまり価値が高くないので、そのまま土と一緒に捨てるものもあるという。

(オパール原石の採掘様子をイラストに描くとこんな感じだ)

 

(オパール採掘現場では壁を機械で削り取った砕石をこの管で地上へと吸い上げる

 

(磨き上げる前のオパール原石)

 

 

 

(磨き上げたオパール。色が黒っぽいほど価値があると言う)

 

その後、月面のような砂漠地帯へ向かうが、ツアーバスが途中で故障して動かない。 バッテリーにトラブルが発生した。急遽、救助車に助けを求めた。

 

後でわかったことだが、バッテリーへ充電する発電機(オールタネーター)が故障したとのことで、一番楽しみにしていた月面のような荒れた小山までツアーバスは行けず、数十km離れたクーバー・ペディーの町へ引き返すことになった。

 

ツアー行程の8割は終了していたが、驚いたことにツアー翌日にツアー会社は参加費110豪ドル(約1.1万円)を全額払い戻してくれた。

 

(視界を遮るものが何もない砂漠)

 

 

(長さ3,000km以上に続くディンゴ・フェンス(柵)。ディンゴ(イヌ科の動物)が大陸を移動できないようしてある)

(ディンゴ・フェンスの向こうに水場があるとかぎつけたエミューはフェンスに遮られて先へ進められない)

 

(ツアーバスのエンジンがかからなくなり、四駆の救援車両とバッテリーを繋げる)

 

(砂漠の中を駆けつける四駆の救援車両)

 

(ツアーバスから偶然見えたカンガルーの親子。後にも先にも生きたカンガルーは一回しか見なかった)

 

4/134/14 Coober PedyErldundaYulura(Ayers Rock) 750km

 

2日間かけてクーバー・ペディーからエアーズ・ロック(Ayers Rock)国立公園内にある

エアーズ・ロック・リゾート内のキャンプ場(Ayers Rock Campground)へ進んだ。

 

クーバー・ペディーから最初の宿泊所のエルデュンダ・ロードハウス(Erldunda Roadhouse)まで約500kmだった。途中で南オーストラリア州からノーザンテリトリー州へと州境を越える。

 

エルデュンダ・ロードハウスは砂漠の中の一軒家のようなガソリンスタンドとバーを備えた宿泊設備だった。有料のキャンピング場も備えている。

 

このあたりに来るとガソリン価格が今までの1リットル2豪ドル(200円)から3豪ドル(300円)と高くなる。 競争相手のガソリンスタンドがないため、強気の価格でもガソリンは売れる。

 

食糧品の価格も高い。 1.5Lのペットボトル入りのミネラルウオーターが6豪ドル(600円)だ。 ただし2本買えば8豪ドル(約800円)だと店員が言うので、当方は荷物になるが2本買った。

 

エルデュンダでもErldunda Roadhouse Campにテント泊する。一泊18豪ドル(約1,800円)

温水シャワーや電気湯沸ポット,ガスコンロ等の自炊設備も備わっているキッチン施設もある。

(全長53mのトラックトレイン)

 

(ガソリンスタンド・レストラン併設の宿泊施設があるカデニー・ロードハウス=Cadeny Roadhouse)

 

(南オーストラリア州からノーザンテリトリー州へ入った)

 

 

翌日はエルデュンダ(Erldunda)~エアーズロック・キャンプグランド(Ayers Rock Campground)への道を250km進む。

 

ノーザンテリトリー州に入って気が付いたことがあった。 砂漠というより低木(ブッシュ)が多い荒野で、道路わきには草が青々と茂っている。雨が降るのだろう。

 

道路の路肩には豪雨が降った場合の洪水の深さを示す柱が立っていた。

一番深かった洪水は道路から1.4mほどあったという。こんな広大な大地が洪水になるとは信じがたい。

 

エアーズ・ロックが位置する辺りは広大な国立公園となっている。公園内ではキャンプが禁止されている。

 

エアーズ・ロック・リゾートという小さな町のような宿泊施設の中にキャンプ場を含めてホテル等の宿泊施設が充実している。スーパーマーケットもある。

 

当方はここでもエアーズ・ロック・キャンプグランドにテントを設営して2泊した。一泊35豪ドル(約3,500円)とキャンプ場としては高いが、ホテルやキャンプ場内のキャビン(一棟貸し)より安い。

(洪水の場合の水の深さを測る測量計)

 

4/15 エアーズ・ロック(Ayers Rock)観光

 

前夜キャンプ場で知り合ったオランダ人旅行者から日の出と日没のエアーズロックの姿がとても美しいと聞いた。 当方はその日の出のエアーズロックを見るため、まだ暗いうちにキャンプ場から約25km先のエアーズロックの日の出を見る場所へ行った。

 

朝日を浴びると日の出前の黒色のエアーズ・ロックが赤い色に変化する。

 

エアーズ・ロックは高さ360m強、周囲9.4kmと近づくとその大きさが実感できる。アボリジニの聖地といことで現在はエアーズ・ロックには登れない。また、落石の危険性からか、エアーズロックのそばには近づけず、巨大な岩山の周囲を回る遊歩道しか歩けない。

 

エアーズ・ロックの西側約45kmに位置する奇妙な姿の岩山が当方の目を引いた。

 

人間の頭のよう形をした巨大な岩山が複数ある。 アボリジニ言葉で<たくさんの人の頭の山>という意味のカタ・クジュータ(Kata Kjuta)と名の岩山の山脈のようだ。

一番高い岩山は地上から500m以上の高さがあるという。

 

この奇妙の形の岩山と岩山の間の谷を岩壁に沿って奥に入れる。

ニューヨーク・マンハッタンの巨大な超高層ビル群の谷間に入る感じだ。もちろん高層ビル群より迫力がある。

 

この周囲をオートバイで約5時間程駆け回った。国立公園が広いため、2つの聖地の山を往復したりするだけで約200kmの距離を走行した。

 

日中は暑さを避けてキャンプ場の日陰で涼む。

空気が乾燥しているため、日当たりでは汗がでる暑さだが、日陰に入れば涼しくて気持ちが良い。

(エアーズ・ロック=Ayers Rockの約150km手前にあるマウント・コナー=Mt. Conner 高さ約500m)

 

(ハエが大群が襲ってくるのでハエ除けネットは必需品だ)

 

(朝日を浴びるエアーズ・ロック=Sunrise)

 

(日没前の夕日を浴びるエアーズロック)

 

(カタ・クジュータ=Kata Kjutaと呼ばれる人の頭をした岩山)

 

(カタ・クジュータの岩山と岩山の谷間をぬうような散歩道)

 

(エアーズ・ロック・キャンプ場=Ayers Rock Campground)

 

(蚊帳を木につっただけのテントでキャンプする人もいた)

 

4/164/18 Ayers Rock ResortYulara)~Alice Springs 470km (アリス・スプリングス3泊)

 

Ayers Rockから2日前に泊まったエルデュンダ・ロードハウス(Erldunda Roadhouse)へ引き返し、再度スチューワート・ハイウェイーを北上してアリス・スプリングス(Alice Springs)まで進む。

 

一日の走行距離としては長くないが、30分走行するかしないかのうちに強烈な睡魔が襲ってくる。

連日のテント泊で疲れているのか、出国前の蓄膿炎が全快せず睡眠時に呼吸が乱れて睡眠が浅いためか判らないが、30分毎に小休止していてはなかなか先に進めない。

 

250km走行した後、エルデュンダ・ロードハウスのカフェで30分ほどカプチーノを飲みながら休息後は体も楽になった。

 

その後は頻繁に眠くならなかったので、16時頃には宿泊地のアリス・スプリングスに到着した。

 

アリス・スプリングスではキャンプ泊は避けたかった。

 

到着前日にはBooking.Comのホテル予約のサイト上で唯一の空き部屋の料金は500豪ドル(約5万円)だった。 当日Booking.Com上では空き部屋があるホテルは無くなっていた。

 

現地でホテルかホステル探せば何とかなるだろうと考えていた。

3軒ホステルとホテルを回ったが、すべて満室だった。

 

後で判ったことだが、アリス・スプリングスではフェスティバルが当日まで催されて観光客でにぎわっていたようだ。

 

こんな時オートバイに積んでいるキャンプ道具が役立った。行きついた先は有料のキャンプ場だった。

このキャンプ場(Alice Springs Tourist Park)に当方がチェックインした際、テントが張れる最後の一区画を残すだけだった。キャンプ場の料金は一泊37豪ドル(約3700円)

(緑の木々が多くなったエルデュンダ(Erldunda)から

アリス・スプリングスへ向かうスチュアート・ハイウェイ)

 

(スチュアートハイウェーを最高速度110km~130kmで疾走するトラック・トレイン。

州によって最高速度は異なる。南オーストラリア州の制限速度は時速110kmだが、ノーザン・テリトリー州は時速130kmだ)

 

 

(小さなコミュティーと都市を結ぶ定期飛行機の滑走路は赤土を固めただけだった)

 

(ハイウェイ沿いの無人の休憩所)

 

(休憩所の中にはトイレがあったりする場合もある)

 

翌日はアリス・スプリングス観光

 

アリス・スプリングスはこの砂漠の中では人口約2.5万人の一番大きな都市だった。

1870年~1872年にかけて南のポート・オーガスタと北部のダーウィン(Darwin)の3,200kmを電信線でつなぐ一大事業を行った。

 

この時の電信ケーブル敷設の監督役(Superintendent)がチャールス・トッド(Charles Todd)で、その夫人がアリスだったことから、アリス・スプリングス(泉)と命名した。

 

実際に電信施設跡の横には150年前と同じところに泉のような池があった。実際は泉ではなく、降雨が川の一角に溜まったものを泉に勘違いしたらしい。

 

ここでは町を一望できるアンザックの丘(Anzac Hill)、 1872年に完成した電信施設を復元した施設跡と約50年前から遠隔地の牧場や観光施設等で働く家族の子供たち向け通信遠隔小学校(Alice Springs School of the Air)を見学した。 

 

コロナ禍でリモートワークやリモートで学校の授業を受けることができるようになったが、オーストラリアでは50年前からリモート授業を行っている実績がある。このリモートでの学校は日本の4倍の広さの校区をカバーするという。毎年約120名程度の小学生がリモートで授業を受けている。

 

この日ドミトリー形式だが、やっとベットがあるホステルに投宿した。

Alice’s Secret Travellers Inn (3人部屋で一泊38豪ドル=3,800円)

 

ブログの更新には手間がかかった。ブログ用の写真を撮っていたカメラが壊れてしまい、スマホ写真を使いだした。

 

そのスマホから写真をSDカードに移行する際に、誤ってSDカードを初期化(データが消える処置)してしまった。

 

半日かかっても写真データは復元できず、結局ライン等のSNSに残した数少ない写真で対応することにした。 

 

記念になるような場所や物を撮影したが、データが無くなってしまったのは残念だった。

 

 

 

(アリス・スプリングの町。最高温度は45℃、最低はマイナス7.5℃を記録したことがあると言う。

写真は背後のMt.Gillenには雪が積もったこともある。

アリス・スプリングスは南回帰線のちょっと南に位置する。北半球に当てはめると台湾の台北市あたりの緯度だろう)

 

(1872年に完成したアリス・スプリングスの通信施設=Telegragh Station。北のダーウィンと南のポート・オーガスタ間の約3,200kmが通信線で結ばれ、インド洋やインドネシア等の一部の海底ケーブルの区間を含め英国とオーストラリアのポート・オーガスタ間が電信でつながった。)

 

(19世紀の電信・郵便事務所のカウンター)

 

(19世紀のアリス・スプリングスの泉は通信施設の横にあった)

 

(現在も19世紀と同じ場所にある泉。実際は泉では無く、雨水がたまった場所だ)

 

(19世紀に南のダーウィン付近で通信用の海底ケーブルを敷設する作業)

 

(19世紀の原住民の生活風景)

 


(19世紀後半の泉とアボリジニの人々風景)

 

 

以上

 

ツーリングルートの概略

 

メルボルンに到着後、オートバイツーリングを開始するメルボルンの南東約150kmに位置するコラック(Colac)へ電車で向かう。 コラックからオートバイを乗り出し、風光明媚なグレート・オシャーン・ロードを走りぬけ、ウオーナンブール(Warrnambool)~ナラコーテ(Naracoorte=世界遺産の数十万年前の哺乳類化石群洞窟)~南オーストラリア州の州都アデレード~中央砂漠地帯への入口の町ポート・オーガスタへと進んだ。


(Melbourne=メルボルンは地図の一番右側。ピンク色の線はツーリングルート。ただしメルボルンからコラックは電車で移動。地図の左上はPort Augusta=ポートオーガスタの位置)

 

 

詳細は以下の記する。

 

43日メルボルン到着

 

成田空港を4/2に夜8時過ぎに出発してケアンズ経由メルボルン空港の国内線ターミナルへ翌日午前11時過ぎに到着した。

 

空港に到着してまずやらねばならないことはオーストラリアの携帯電話のSIMカードを買うことだった。

国際線のターミナルへ移動してオーストラリア国内ではNo.2Optusという携帯電話会社のSIMカードを買った。

 

28日間有効で60Gのデータ通信と国内電話かけ放題と日本も含む海外十数ヶ国へは400分の通話が可能なパッケージで25豪ドル(約2500円)とかなりお得だ。

 

テレストラ(Telestra)が国内最大の携帯電話会社だったが、SIMカードを販売するブースは空港には見当たらなった。

 

メルボルンの約150km南東に位置するコラック(Colac)という町で日本人の若者Mさんがメカニックとして地元のオートバイ店で働いている。

 

当方が借りる知人のオートバイはその日本人のMさんが整備を行ってくれている関係で、当方は翌日コラックへ電車で向かい、同オートバイ店からツーリングをスタートした。

 

借りたオートバイはスズキVストローム250。水冷250ccエンジン搭載のロードタイプのオートバイだ。

当方はBMW F700GS(800ccエンジン)とヤマハ・セロー250(250ccエンジン)を所有するが、Vストロームは250ccエンジン搭載モデルの割には重量感があり当方のBMW F700GSに似た感じだ。 足場が悪かったり、停車時にバランスを崩すと車体重量が重いため、立ちごけしそうな感じがする。

 

メルボルンの宿はサザンクロス駅から徒歩20分程度に位置するThe Village Melbourneというドミトリー形式のホステル(一泊42豪ドル=約4,200円)4人部屋ながら当日は当方一人で部屋を占有した。

(メルボルンのサザンクロス駅=中央駅付近。高層ビルと庶民感覚の下町が共存する)

 

202444日(木)ColacからGreat Ocean Road 経由Warrnamboolまで160km

 

心配したほど寒くもなく、気温20℃程度の薄曇りの中、海沿いを通るグレート・オーシャン・ロード沿いの観光名所に立ち寄りながらコラックから160km程先のワナンブール(Warrnambool)を目指す。

 

なだらかな牧草地の丘が広がる風景は、北海道の富良野の似ていると思った。

海側に出ると断崖絶壁で風光明媚な観光名所が数多くある。メルボルンから日帰りで訪れるには丁度良い場所故、中国、韓国等のアジア人観光客が多く訪れていた。

 

その日はWarrnambool(ワナンブール)市内のThe Cally Hotelという一階がパブになっている歴史がありそうな木造のホテルに宿泊した。木製の廊下を歩くとギシギシと音が出て、年代物だと感じられた。宿泊料は素泊まりで80豪ドル(約8千円)と当地では一番安いクラスだ。

 

人口数千人位の小さな町故、まだ明るい夕方6時台でも通りを歩く人々はほとんど見かけない。

 

(Colac=コラックのオートバイ店からオートバイツーリングを開始した)

 


(Colac=コラックからグレート・オーシャン・ロードへ向かう丘陵地)

(グレート・オーシャン・ロード沿いの観光名所の12Apostels=12人の使徒)

 

(アジア系観光客が多かった12Apostelsの展望台)

 

(グレート・オーシャン・ロード沿いのギブソン・ステップス=Gibson Stepsの断崖)

 

(Warrnambool=ワナンブールの町)

 

(Warrnamboolで宿泊したThe Cally Hotel)

 

 

45日(金)Warrnambool(ワナンブール)からNaracoorte(ナラコーテ) 290km、翌日は世界遺産のナラコーテ化石群洞窟を見学

 

Naracoorte(ナラコーテ)は1994年に世界遺産に登録された。

50万年前から数十万年前の哺乳類の先祖の化石群が洞窟内で大量に発見された場所である。

 

化石に興味があるわけでも無いが、世界遺産という言葉に惹かれての訪問だった。ここでは管理事務所(Vistor Center)で入場料を払い、ガイド付きの見学だった。

 

ワナンブールからナラコーテまでのルートは幹線道路もあったが、道幅が3m程度と車一台しか通れない狭い道もあった。スマホカーナビのMaps.Meでは道幅に関係なく最短距離を示すので、たびたびこのようなことがある。

 

当方は田舎道をのんびり(と言っても時速80km)でツーリングをするのが好きなのでちょうど心地よいツーリングとなった。

 

ビクトリア州から州境を超えて南オーストラリア州には入ると一面ブドウ畑が広がる。このあたりから

南オーストラリア州の州都であるアデレード(Adelade)までブドウ畑が広がり、オーストラリアワインの一大産地となっている。

 

(牧場や牧草地の間をぬう農道)

 

 


(並木道の地方道)

 

(Victoria=ビクトリア州からSouth Austraria=南オーストラリア州へ入る)

 

 

 

(南オーストラリア州に入ると広大なブドウ畑が広がっていた)

 

(ナルコーテの町中心部)

 


(ナラコーテの不動産屋の農地の売り物件。2000ヘクタールの農地が1億数千万円)

 

コロナ禍が発生した時、オーストラリアの当時の首相がコロナ禍の原因を調査すべきと国際社会に訴えた。それに激怒した中国政府はオーストラリア産ワインに高率の関税をかけ、中国へのワイン輸出がほとんど止まったことがあった。

 

これだけ豊富なワインはオーストラリアだけでは消費出来ない。

日本や欧米へも輸出しているが、消費量が多い中国への輸出が止まれば、ワイン生産者は大きな打撃を被っただろう。

 

現在のアルバニージー首相になってから中国との関係が改善され、オーストラリアワインの関税率も引き下げられたと聞く。

 

ナラコーテではキャラバンパーク(Big 4 Naracoorte Holiday Park)という大型キャンピングカーでも駐車でき、シャーワーやキッチン(夏にはプールもある)等の設備が整ったキャンプ場で2泊した。

 

日中の気温は25℃程度だが、日差しが強い。そのため、汗だくとなってオーストラリアツーリング直前に購入した一人用テントを設営した。キャンプ場使用料は一泊31豪ドル(3100円)。

(ナルコーテのキャンプ場で一人用テントを設営)

 

夜キャンプ場で南半球の星座が見れると期待したが、キャンプ場の街灯が夜空を明るくして、ほとんど星座は確認することが出来なかった。

 

昼間は25℃程度と汗ばんだが、早朝の気温はダウンジャケットが必要なくらいの6℃7℃位まで冷え込んだ。

 

ナラコーテ化石群は洞窟内で発見された50万年前から十数万年前の数百種類の哺乳類の先祖の骨格や骨だった。

 

50万年前から数十万年前という長い期間に当時の動物が落とし穴の様に植物等で隠れた地面の小さな穴から洞窟内に転落して、洞窟内で死に絶え、その骨が保存が良い状態で発見されたという。

 

その洞窟周辺にハイキングコースがあった。一人でブッシュの中を歩いたが、落とし穴のように隠れた穴があるようだ。

(Narcoorte Caves Park=ナルコーテ洞窟公園のビジターセンター)

 

(ビジターセンター内の数十万年前の絶滅した哺乳類の先祖。写真左側は鼻が短いカンガルー。右側はオーストラリア大陸の食物連鎖の頂上に立っていた肉食獣のライオンの一種)

 


(骨格や骨の発掘が一番多いビクトリア洞窟の出口)

 

(ビクトリア洞窟で見つかった鼻が短いカンガルーの骨格)

 

 

47(日)ナラコーテ(Naracoorte)から南オーストラリア州の州都アデレード(Adelaide)340km

 

4/7からオーストラリアは冬時間となり、ナラコーテ出発前に1時間時計の針を遅らせた。

 

夜露でテントが濡れているので朝日を浴びテントが乾くまで撤収を待つ。

この日は曇天後、晴天となったが、風は冷たい。ライディングジャケットの下にはダウンのベストを着込む。

 

本日のルートは幹線道路が多いため、快適なツーリングではない。片側一車線の道路の制限速度は時速110km

 

当方が遅いと、後続車が列をつくるので他の車にあわせて高速走行となる。 非力の250ccエンジンのオートバイではつらい。また、オートバイには申し訳程度の大きさのウインドシールドがついているが、風よけには不十分である。高速走行では上半身に強い走行風を受けるため疲れる。

 

当方は出国前から鼻のアレルギー(花粉症)をこじらして、蓄膿症(ちくのうしょう)を患ってしまった。かかりつけ医に薬を出してもらったが、頭痛と喉の痛みのためオートバイの運転時は辛かった。

早くアデレードに到着して休憩したい思いで先を急いだ。

 

アデレードでもモーテルやホテルは最低でも一泊100豪ドル(約一万円)するため、ドミトリー形式の

宿(Adelaide Travellers Inn Backpakkers Hostel)に2泊することにした。

 

利用客はバックパッカー姿で旅行する欧州からの若者がほとんどだ。オーストラリアには中高年は宿泊できない若者専用のドミトリー形式のホステルが多いと聞くが、この宿には年齢制限がなかった。

 

欧米のドミトリーは男女共有の部屋となっているタイプが多いので、同室の女性客が着替える際には目のやり場に困る。もっとも宿泊客はそんなことは全く気にしない。

 

この宿で祖父の代にインドからフィジー島へサトウキビ畑の労働者として移民してきたニュージーランド国籍のインド系の初老の男と身の上話をした。

 

その男はニュージーランドのオークランドに在住だが、職を求めてアデレードへ一人で来たという。 宿に滞在中にアデレードにある工場で採用面接を受けることになっていると言う。

 

処遇は時給30豪ドル(約3千円)という。ニュージーランドよりアデレードのほうが給与(時給が)が高いようだ。ちなみに

ニュージーランドの最低賃金は時給24.75ドル(約2,475円)とその男から聞いた。

 

日本人の感覚では、ニュージーランドからわざわざアデレードまで求職に来るのかと不思議に思ったが、ニュージーランドとオーストラリアではEUのように両国間で移動の自由と求職の自由が相互に認められているという。ちょうど日本で地方在住の人が、職を求めて東京や大阪へ行くような感覚だろう。

 

翌日は散歩しながらアデレード街の雰囲気と博物館や美術館巡りで楽しむ。

 

(国道沿いの休憩所)

 

(アデレード博物館の外観)

(アデレード博物館には原住民だったアボリジニの展示品が充実していた)

(アデレード美術館の展示品。1799年のシドニー湾の風景)

 

(アデレードのメインショッピング街ランドル通り。左側にユニクロの店舗があった)

 

(アデレードのビジネス街。写真中央のビルの建物上部にはオーストラリア最大の時価総額の資源鉱物企業BHPの看板が見える)

 

49日(火)アデレード(Adelaide)からポート・オーガスタ(Port Augusta)360km

 

この日も幹線道路を避けてほとんどB級国道を通行する。300km以上に渡り、道路沿いの風景は単調だった。牧草を刈り取った農地が見渡す限り広がっている。

(刈り取った後の牧草地の景色が続く)

 

 

ポート・オーガスタ付近には銀、亜鉛、鉛等の地下資源が豊富で鉱山が多いと前日のアデレード博物館で知った。 

 

その鉱物を約500km東のブロークン・ヒル(Broken Hill)の町から運搬する数百両連結の列車を途中の町で目撃することができたのラッキーだった。

 

アフリカのモーリタニアで見た石炭運搬の2百両連結の列車が今まで見た中で最長の列車だったが、オーストラリアの鉱物運搬列車はそれを凌駕する長さだった。

 

ポート・オーガスタが近づくに従い風が強くなる。曇天で気温が低いので、ダウンベストをライディングジャケットの下に着込んでいても寒かった。頭痛と悪寒がするため、ポート・オーガスタの市内へ入る直前のモーテルで一泊することにした。 宿泊はHighway One Motel 一泊90豪ドル(9千円)。

 

夜中に体温が38度以上になり、風邪の症状が出てきたため、翌日はモーテルで静養して体力の回復を図った。

(途中の寄ったGladstoneという名の小さな町の歴史的なホテル。1880年立てられ現在も使用されている

Commercial Hotel)

 

 

(Gladstoneは午後2時ごろ(昼食休み)とあって人通りは無かった)

(Gladstoneの町で見かけたブロークン・ヒルから鉱石を運ぶな貨物列車)

 

(ポート・オーガスタが近づくと風が強くなってきた。寒さを我慢して走行していたら風邪を引いてしまった)

 

(ポート・オーガスタ手前ののHighway One Motel)

(Highway One Motelの室内。やはり一人でゆったりできる部屋が有難い)

 

以上

 

オーストラリアツーリング計画 (2024329記)

 

昨年7月にオートバイでのアジア・中近東ツーリングはスペインで終了した。

そのツーリングを計画した当初は開始から1年以内にオーストラリアでツーリングを終了できればいいなと希望的な考えを抱いていた。

 

しかしながら、マレーシアからスタートしたツーリングはタイからミャンマーを陸路を走破してインドへ進むことができなかった。ミャンマーの国境が外国人旅行者にはコロナ発生以来ずっと閉鎖中だったからである。

そのため、タイからインドへはオートバイを海上輸送した。

 

その海上輸送の準備やインド亜大陸の周回ツーリングは考えていたより時間がかかった。

そのため、ツーリング期間の後半には中近東からオーストラリアへ渡りることは時間的に余裕がないと判断して、オーストラリアツーリングを諦めた経緯があった。

 

当方は、今回のオーストラリアツーリングの計画は前回のアジア・中近東ツーリングの続きだと位置づけている。

 

今回のオーストラリアツーリングは20244月初旬にメルボルンの南西約100km程に位置するコラック(Colac)という小さな町からスタートして、オーストラリアのほぼ中央部にある世界最大の一枚岩で出来たエアーズロックを進む。

そしてオーストラリア中央部を更に北上後、オーストラリア北東の沿岸部のケアンズへと走行する。

 

ケアンズからオーストラリアの東海岸に沿ってタウンズビル~ブリスベン~シドニーへと南下して、その後メルボルンへと時計回りにオーストラリアの東半分を周回する計画だ。想定走行距離は約1km1.2万kmだろう。 

 

 

(上下の地図の赤線が計画しているツーリングルートだ。時計回りにオーストラリアの東側を周回する計画だ。下の地図は日本の中学生用の社会科の地図帳からコピーしたものだ。地図上には仮に日本が南半球にあった場合の緯度と大きさを表示している。)

 

ツーリング期間は2ヶ月前後を想定している。ビクトリア州やニューウェールズ州等の南部地域の気候次第ではツーリングを切り上げる可能性もある。北のケアンズから東海岸沿いに南下するに従い気温が下がり、5月になればオーストラリア南部のビクトリア州やニュサウスウェールズ州の寒さが増すからだ。

 

 

南半球のオーストラリアは北半球に位置する日本と季節は逆だ。

オーストラリアの南部州(シドニーが位置するニューサウスウェールズ州やメルボルンがあるビクトリア州)は既に秋に入り、4月には日本の東京の10月下旬~11月のように寒くなりつつある聞く。5月に入れば更に寒くなる。

 

他方ケアンズが位置する北部のクイーンズランド州は年中を通して常夏の熱帯・亜熱帯性の気候だ。日本の約20倍の面積があるオーストラリアならではの変化に富む気候帯が広がっている。

 

今回のツーリングで一番気になるのは5月に入ってからのビクトリア州等の寒温帯気候のオーストラリア南部地域でのツーリングだろう。

 

寒さ対策の準備はしているものの、冷たい風を切て走行するオートバイツーリングはきついし、体にこたえる。 我慢できない寒さなら、計画より早くツーリングを終了するかもと弱気になるだろう。

 

更に、オーストラリアの物価高(円換算)も気になる。日本の2倍以上のの物価水準だろう。

20229月~20237月のアジア・中近東ツーリング時でも円安のため、現地の物価は10年以上前までの円高時代のような割安感が無くなっていた。

 

物価対策として従来の海外ツーリングでは全く行わなかったキャンピング場等でのテント泊を、特に安価な宿泊施設が無いアウトバックと呼ばれるオーストラリア中央の砂漠地帯で試してみるつもりだ。

どのような体験になるだろうかと覚悟と楽しみがまじわった気分である。

 

尚、オーストラリアの中心的産業である石炭や鉄鉱石等の地下資源の開発や鉱山事業の現場はオーストラリアの
西部地域に多い。

 

今回のツーリングでは西部地域へは行かないので、当方が興味を持つ鉱山事業の現場見学ができないのが少し残念だ。

 

(オーストラリアでは上の写真と同一のスズキ・Vストローム250を知人から借りる予定。250ccエンジンのオートバイの割には車重は約180kgと重い。

 

下の写真のライディングジャケットの上腕の部分にはオーストラリアと日本の国旗ワッペンを付けた。

海外ツーリングでは現地の人たちに当方がどこから来たのかとよく聞かれるため、口で答えるより国旗ワッペンを見せて分かりやすくする工夫をした。

 

以上

 

 

単独のオートバイツーリングはユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断を初回として、2回目のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断、そして3回目のアジア・中近東ルート(最終地点はスペイン)だった。

走行ルートと走行した国々は以下の地図と記述を参照してほしい。

 

 

初回 ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 2017年5月~2018年7月 14ヶ月 走行距離約78,000km=世界地図上の紫色の線)

 

2017年5月に鳥取県境港市からオートバイとともに韓国DBS社のフェリー船に乗り、船上2泊3日でロシアのウラジオストックへ渡り、ウラジオストックからロシアをヨーロッパ方向に向けてユーラシア大陸横断をスタート。

 

途中モンゴル~再度ロシア~エストニア~ラトビア~リトアニア~ポーランド~ドイツ~チェコ~スロバキア~ハンガリー~セルビア~マケドニア(現北マケドニア)~コソボ~アルバニア~モンテネグロ~ボスニア・ヘルツェゴヴィナ~クロアチア~スロベニア~イタリア~スイス~再度イタリア(ナポリでバイクの盗難に遭う)~フランス~スペイン~ポルトガル(ユーラシア大陸最西端のロカ岬)~再度スペイン。

 

 

 

2017年10月にスペインのマドリッドからオートバイを空路にてアルゼンチンのブエノスアイレスへ運ぶ。

 

南北アメリカ大陸縦断スタート)南米ではアルゼンチン・ブエノスアイレスから北上してブラジル~ウルグアイ~再度アルゼンチン(最南端のフエゴ島ウシュアイア目指す)~チリ~再度アルゼンチン~ボリビア~ペルー~エクアドル~コロンビア。

 

そしてコロンビアのボゴタから中米パナマのパナマ・シティーまでオートバイを空輸後~コスタリカ~ニカラグア~ホンジュラス~グアテマラ~ベリーズ~メキシコ(メキシコ・カンクンにオートバイを置きキューバをバックパックで旅行)~アメリカ~カナダ~アラスカ~再度アメリカ。

 

2018年7月にツーリングをアメリカのロサンゼルスで終了して同地からオートバイを日本へ海上輸送で送り返す。

 

2回目 アフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断 2019年5月~同年11月 6ヶ月 走行距離約34,000km=世界地図のブルー色の線)

 

日本からスペインのバロセロナへオートバイを海上輸送後、2019年5月にスペインのバロセロナからツーリングを開始した。

 

スペイン~(アフリカ西ルートのスタート)モロッコ~西サハラ~モーリタニア~セネガル~マリ~コート・ジボアール~ガーナ~トーゴ~ベナン~ナイジェリア~(ナイジェリアとカメルーン間は海路で国境を超える)カメルーン~ガボン~コンゴ共和国~アンゴラ(飛び地)~コンゴ民主共和国~再度アンゴラ~ナミビア~南アフリカ(アフリカ東ルートのスタート)~ボツワナ~ザンビア~タンザニア~ケニア~エチオピア~スーダン

 

スーダンのサワキン(Sawakin)から紅海をサウジアラビア船籍のフェリー船でオートバイと一緒にサウジアラビアのジェッダへ渡航。

 

アラビア半島横断スタート)サウジアラビア~バーレン~再度サウジアラビア~2019年11月にアラブ首長国連邦(UAE)のドバイでツーリングを終了して同地からオートバイを海上輸送にて日本へ送り返す。

 

3回目 アジア・中近東ルート(最終地点はスペイン) 2022年10月~2023年7月 10ヶ月 走行距離39,000km=世界地図赤色の線

 

東南アジア6カ国

日本からマレーシアのポート・ケラン(Port Kelang)へオートバイを海上輸送後、2022年9月にマレーシアからツーリングをスタートする。

 

マレーシア~インドネシア(レンタルバイクを使用)~再度マレーシア~タイ~ラオス~カンボジア~再度タイ。タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送。インドへオートバイを輸送期間中にベトナムでレンタルバイクを使用してツーリング。

 

インド亜大陸=インド・ネパール・パキスタンと中近東=イラン・トルコ

2023年1月末にインド・ムンバイでオートバイを引き取り、インドア亜大陸のツーリングをスタート~ネパール~再度インド~パキスタン~イラン~アルメニア~ジョージア~トルコ~オートバイを日本へ海上輸送するためスペインのマドリッドまで走行(トルコ~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス~スペイン)。

 

2023年7月にスペインのマドリッドから海上輸送にてオートバイは日本へ送り返す。

 

ツーリングに使用したオートバイはBMW F700GS(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断)とヤマハ・セロー250(アフリカ3/4周とアラビア半島横断及びアジア・中近東ルート)。

 

アジア・中近東ルートのインドネシアとベトナムではレンタル・バイク(小型スクーター)を使用した。

 

BMW F700GS(ツーリング出発前の日本にて)

 

(南米ペルーを走行時のBMW F700GS)

 

(ヤマハ・セロー250 アフリカ・ツーリング出発前の日本にて)

 

(アフリカ・コンゴ共和国を走行時のヤマハ・セロー250)

 

 

(イランを走行時のヤマハ・セロー250)

 

(インドネシア・バリ島を走行時のレンタルバイク=ホンダ・ビート125)

 

(ベトナムを走行時のレンタルバイク=ヤマハのスクーター エンジン130cc)

 

以上

 

 

テーマ別一覧にて過去の投稿記事の検索が容易

 

従来、当方ブログ(Ameblo)の過去の投稿記事の検索がし難くかった。

 

そのため、例えば、2019年に行ったアフリカ3/4周とアラビア半島横断ツーリングの投稿記事に関心があっても、その投稿記事を探すのが容易ではなかった。

 

今回、当方が2017年の最初の海外ツーリング、<ユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断>から投稿した記事を以下のテーマ別にも区分けした。

 

ブログを読む時間があまり無い人は総集編を読んでもらえれば、各ルートのツーリングのハイライトが判るようになっている。

 

また、各国、各ルートの詳しい状況が知りたいのであれば<ユーラシア大陸横断>や<南北アメリカ縦断>等の各ツーリングルート別(テーマ別)に表示されている詳細な投稿記事を参照することができる。

 

特に今後、海外ツーリングを行いたいライダーには各ルート別(テーマ別)に表示されている個別の投稿記事の国境通過の情報が参考になると思う。

 

 

テーマ別一覧

 

総集編(ユーラシア大陸横断と南北アメリカ)

総集編(アフリカとアラビア半島横断)

総集編(アジア・中近東ルート)

海外バイク・ツーリング計画

海外バイク・ツーリング報告会

ユーラシア大陸横断(ロシア・モンゴル)

ユーラシア大陸横断(ヨーロッパ)

南北アメリカ大陸縦断(南米)

南北アメリカ大陸縦断(メキシコ・中米)

南北アメリカ大陸縦断(北米)

アフリカ大陸(西ルート)

アフリカ大陸(東ルート)

アラビア半島横断(サウジアラビア等)

アジア・中近東ルート(東南アジア6ヶ国)

アジア・中近東ルート(インド亜大陸等)

アジア・中近東ルート(イラン・トルコ)

アジア・中近東ルート(コーカサス諸国)

台湾一周バイクツーリング

日本でのバイク輸入通関

日本

 

 

尚、パソコンでブログを閲覧する場合は、当方ブログ<インベストメントライダーふるさんのブログ>画面の左側横をスクロールすると<最新の記事>の下に<テーマ>別の一覧が表示されている。

 

スマホで閲覧する場合はブログ画面中央の<テーマ>をクリックするとテーマ一覧が表示される。

 

(ブログ画面中央のテーマをクリックするとテーマ一覧が表示される)

 

 

(上記テーマ一覧の各テーマ(ルート)をクリックすると各投稿記事が表示される)

 

以上

アジア・中近東ツーリング報告会の案内(WTN-J第87回お話会)

 

WTN-J(ワールド・ツーリング・ネットワーク・オブ・ジャパン)主催の当方のアジア・中近東ツーリングの報告会を下記の通り行います。

 

当日会場での参加でもZoomによる参加でも可能です。

 

 

                記

 

タイトル コロナ禍のため3年延期となったアジア・中近東ツーリング

話し手 古橋聖司

2023年11月3日(祝)13時半開場 14時より16時30分まで

 

場所 

杉並区消費者センター(ウェルファーム杉並 3F) 第1・2教室(一体使用):MAX60人

住所:杉並区天沼3丁目19番16号 ウェルファーム杉並3階電話番号03-3398-3141

荻窪駅(JR中央線・東京メトロ丸の内線) 荻窪駅徒歩約10分

https://www.city.suginami.tokyo.jp/shisetsu/sangyo/shohi/1007453.html

 

 

会場での参加費 500円(当日会場にて主催者へ現金支払い)

ZOOMでの参加費用 500円(後述するように報告会後、ゆうちょ銀行のWTN-J口座へ振り込み)

 

<懇親会> 

報告会後、会場近くの居酒屋 費用は別途4000円ぐらい(当日現金払い)。参加希望は当日会場にて確認します。

 

尚、会場及びZoomでの参加希望の事前連絡は不要です。

参加者は直接会場にお越しください。Zoom参加の場合は直接ZoomミーティングURL(後述)にお繋ぎください。

 

尚、Zoomでの参加は後述します。

 

報告会でのお話の概略

 

コロナ禍明けの海外ツーリングは日本からのオートバイの持ち出し、ツーリング中のタイからインドへの海上輸送、スペインからの帰国時と、それぞれの段階で輸送を請け負ってくれる業者を見つけるのに手間がかかった。

 

計画当初トルコのイスタンブールからスタートしてインド・東南アジアを経由してオーストラリアで終了するルートを考えていたが、輸送業者との打合せに3~4ヶ月かかり、トルコからスタートするには季節的に遅くなりすぎた。

 

そのため、ツーリングスタート地点をマレーシアへと変更した。2022年9月末にクアラ・ルンプールからスタートし、東南アジア諸国をツーリング後、インド亜大陸を経てトルコのイスタンブールを目指した。 

 

東南アジア6カ国ツーリングでは費用と時間を考えて、インドネシアとベトナムではレンタルバイクで行った。30年ぶりのタイ訪問では、想像していた以上にタイの繁栄ぶりを見た。また、ベトナムも想像していた以上に経済的に発展して豊かな国だと判った。 

 

ツーリングの計画段階から懸念していた通り、タイから陸路にてミャンマーを経てインドへ進むことは、ミャンマー国境閉鎖が継続中でかなわず、タイからインドへはオートバイを海上輸送した。

 

インド亜大陸は初めてだった。インドは今回のツーリングの主たる国と位置づけていた。世界一の人口とは理解していたが、実際に訪れると人の多さに圧倒された。毎日のカレー風味の食事には飽きたが、ブッタが悟りを開いたブッタガヤ等の仏教聖地の巡礼できて、仏教への理解を深めることができた。 

 

イランは事前に聞いていた通り、人々が親切で居心地が良いところだった。今回のツーリングでは一番気に入った国だった。 

 

トルコのイスタンブール到達以降の計画は当初から流動的だった。

 

トルコからドバイを経てオーストラリアへ渡りそこでツーリングを終了する案、ロシア・韓国経由陸路で帰国する案、欧州からオートバイを日本へ送り返す案をツーリング出発前から念頭に置いていた。

 

最終的にはスペインのマドリッドまでオートバイを走らせ、同地からオートバイを日本へ送り返した。そして、アジア・中近東ツーリングは10ヶ月、20カ国を延べ39,000km走行してスペインで終了。

 

(紫色の線は2017年5月~2018年7月のユーラシア大陸横断と南北アメリカ縦断 76,000km

ブルー線は2019年5月~2019年11月のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断 34,000km

今回の報告会は赤色線ルート 2022年9月~2023年7月のアジア・中近東 39,000km)

 

(インド最南端のコモリン岬=カニャクマリ市)

(イラン国境を目指すパキスタン・バロチスタン州では警察車両の護衛で走行)

 

Zoomでの参加の場合は以下の通り(主催者WTN-Jからのお願い)

 

スケジュールされた Zoom ミーティングを開始または参加するには、参加 Zoom ミーティング

https://us02web.zoom.us/j/82233869489?pwd=N3dqMkkyQzFNbUxBQ3NoSEk5MGxvQT09

...

<ZOOMでオンライン参加の皆様へお願い>

 

WTNJではコロナ過に入って以来2年間、ZOOMによるお話会を無料でお届けしてきました。その間、ZOOMのアカウント維持費などはWTNJからの持ち出しで開催していましたが、我々の活動資金も残り少なくなってきました。

そこでご視聴いただいたあと、下記のいずれかの送金方法にて500円をお話会運営の実費としてお支払い頂くことをお願いします。

何卒よろしくお願いします。

ZOOM決済URL。

https://buy.stripe.com/aEU9E60ti5n6eDm3ce

ゆうちょ銀行

【記号 10240

番号 77710101

名前 ワールド・ツーリング・ネットワーク・ジャパン 

 

以上

スペインから日本へ海上輸送したオートバイの受け取り

 

海外ツーリングに使用した当方のオートバイを日本へ海上輸送するため、帰国直前の7/14にマドリッドの梱包業者の倉庫へ持ち込んだ。

 

梱包業者の倉庫にてオートバイを木枠梱包後、スペインの輸送業者はオートバイを陸路マドリッドからバレンシアへ輸送。そして同地で輸出通関後、当方のオートバイは7月末に海上輸送する本船に船積された。

 

当方のオートバイは途中経由地のシンガポールにて日本行きの船に積み替えられた後、9/13に東京港(大井)にて陸揚げされ、9/21に東京港からトラック便で保税輸送(未通関のまま輸送)され横浜港の本牧ふ頭にある輸入倉庫に搬入された。

 

スペインのマドリッドにてオートバイを梱包業者へ引き渡してから2ヶ月以上が経過して横浜港の輸入倉庫へ搬入されたことになる。

 

今回で3回目となるオートバイの輸入手続きは、過去2回と同様にすべて自分で行った。

手続きは以下の通り簡単である。

 

本船が日本の到着港(東京港)に到着する3日位前に、日本側の輸送業者から貨物のアライバル・ノティース(Arrival Notice)がメール送付される。

 

日本側の輸送業者に貨物輸入の陸揚げに関わる費用=CFSチャージ等(約3.7万円)を銀行送金後、デリバリー・オーダー(Delivery Order)という貨物の受取り指図書を発行してもらう。

 

横浜港の本牧ふ頭にある輸入倉庫のオペレーターに事前に貨物の引取り日を連絡。

 

貨物引き取りの当日、まず税関事務所(横浜税関・本牧出張所)へ赴き、貨物の輸入手続きを開始する。

個人輸入の場合、税関事務所の輸入第6課の係官が丁寧に手続き方法を教えてくれる。

 

税関では貨物のX線検査を行うため、税関が発行する貨物の<X線検査の書類>と上述のデリバリー・オーダーを持参してトラックで輸入倉庫へ貨物を引き取りに行く。

 

輸入倉庫のオペレーターに上記④の書類を手渡し、貨物の搬出入手数料1,300円を現金で支払う。そして、倉庫オペレーターにフォークリフトでトラックに貨物を載せてもらい、貨物を税関のX線検査施設へ運ぶ。

 

⑥税関ではトラックに貨物を載せたままX線検査を行う。X線検査終了後、税関係官がオートバイのシャーシー番号を確認して荷物の検査は終了。

 

その後、税関事務所で輸入許可書を発行してもらう。

 

税関事務所の総務課に輸入許可書と海外ツーリングに使用したカルネを提出して、カルネ内の所在地証明用紙に税関の押印を受ける。所在地証明にかかわる印紙代は400円。収入印紙は事前に郵便局等で買っておく。

 

所在地証明証はカルネ発行の際にJAFへ寄託した担保金及びクレーム処理金を返却してもらうために必要な書類だ。

 

海外ツーリングにカルネを使用していない場合は、上記⑧の手続きは不要だ。

 

税関での輸入手続きに必要な書類は以下の通り

 

・アライバルノティース

・デリバリーオーダー

・貨物のB/L

・日本から輸出した際の(税関の)輸出許可書とインボイス及びパッキングリスト

・輸入貨物のインボイスとパッキングリスト

・帰国時の<携帯品・別送品申告書>(帰国した際の空港税関で申請)

・運転免許証等の本人確認のための書類

・カルネ(カルネを使用して海外ツーリングをした場合)

400円の収入印紙(カルネ内の所在地証明に税関の押印が必要な場合)

 

海外ツーリングで使用した衣服をオートバイと一緒に輸入貨物に同梱した場合、<携帯品・別送品申告書>があれば、関税無しで輸入通関できる。 <携帯品・別送品申告書>がない場合には、中古衣類の輸入として関税が徴収される。 

 

輸入通関に要した時間は輸入倉庫での貨物の引き取りに要した時間も含め約3時間程だった。

輸入通関終了後、オートバイを知人宅まで運び、知人宅で木枠梱包をバールを使って壊し、オートバイを取り出す。 

 

木枠梱包の廃材は横浜市資源循環局の粉砕機がある処分工場へ持ち込み処理を依頼する。

横浜市の場合、粉砕機がある工場へ廃材を持ち込む場合には、持ち込む6日前までに資源循環局の事務所にて廃材処理の申請が必要だった。

 

廃材持ち込み後に、処分工場で廃材約100kgの処分料金1,300円を現金で支払い、オートバイ引き取りに関する作業を終了する。

 

 

(横浜港本牧ふ頭の輸入倉庫でオートバイを梱包した木箱を受け取る小型トラック。背後ベイブリッジ)


(小型トラックの荷台上で木箱を壊してオートバイ取り出す。)

以上


 

総集編最後アルメニア・ジョージア・トルコ~スペインまで7,600km(2023/5/25~7/14)

 

アルメニアとジョージアの走行ルート 1,100km

 

イランのノルドス(Norduz)国境からアルメニアへ入国~カパン(Kapan)~首都エレバン(Yerevan)~アルベルディ(Alverdi)~Ptghavan/Sadakhlo国境からジョージア入国~首都トビリシ(Tbilisi)~クタイシ(Kutaisi)~バトミ(Batumi)~トルコへ出国

 

(赤線は走行ルート。地図右下はイランのタブリーズ=Tabriz。地図左側上部はジョージアのバトミ=Batumi)

 

アルメニア

 

アルメニアとジョージアは当初のツーリング計画には無かった。しかし、イランで出会ったドイツ人ライダーにアルメニアとジョージアは風光明媚な国々だと聞かされ計画を変更してイランからアルメニア・ジョージアを経由してトルコ入りすることにした。

 

アルメニア入国時のイミグレーションや税関係官の猜疑心が強く冷たい対応から当方は<アルメニアへ来なければ良かった>と少し後悔した。

 

その後、小さな田舎町カパン(Kapan)の宿経営者の不愉快な対応や首都エルバン(Yerevan)でも微笑しない人々等を見て当方のアルメニアの印象はすっかり悪くなってしまった。

 

他方、美しい山々、草花が咲き乱れた高原や緑の小麦畑が広がる盆地はツーリングを楽しませてくれた。特に首都エルバンへ向かう途中のノアの箱舟伝説がある巨大なアララト山(標高5,137m)は圧巻だった。

 

アジアの国々のユネスコ世界遺産では外国人は現地人の5倍~10倍程度の入場料を徴収されたが、アルメニア及びジョージアではユネスコ世界遺産の寺院や修道院の入場料が無料であったことには驚き、感心した。 アルメニアには3つの世界遺産の建物があったが、当方は2つ(Cathedral of Echimiadzin, Haghpat Monastery)を見学した。

 

(アルメニアの山岳地帯。標高2千メートル級の山々には雪が残る。)

 

(カパン=Kapanの旧ソビエト時代の無味乾燥としたアパート群)

 

(右側はアララト山=標高5,136m。左側は小アララト山=標高3,935m。両山はトルコ領にあるが、アルメニア側からも眺めは良い。)

 

 

(雨上がりの牧草地帯)

(ユネスコ世界遺産エチミアジン・カテドラル=Cathedral of Echimiadzin。アルメニア正教の総本山)

 

(世界遺産ハグパッド修道院=Haghpat Monastery)

 

ジョージア

 

ジョージアはアルメニアより西洋化され、欧州の雰囲気が感じられた。また、人々もアルメニアより開放的であり、多くの外国人観光客が訪れていた。

 

ジョージアはロシアと領土問題で軍事衝突をした。

その後もロシアとは緊張状況が依然続き、欧州連合(EU)と連携を模索中だ。EU加盟を申請し、脱ロシアを目指している。

 

他方、アルメニアは隣国アゼルバイジャンと軍事衝突を過去から繰り返している。アルメニアはロシアと連携して、生き残りを目指している。 

 

当方は首都トビリシ(Tbilisi)、クタイシ(Kutaisi)及び黒海に面するバトミ(Batumi)に宿泊した。

 

大相撲にはジョージア出身の力士が複数いる。最近引退した栃ノ心もそのひとりだ。トビリシのスマホ・ショップの若い店主がジョージア出身の力士の名前をすべて出して、大相撲を知っていると言ったのには驚いた。

 

(首都トビリシの中心的存在の自由広場=Liberty Square)

 

(高台から眺めるトビリシ市内)

 

(ジョージア文字は丸みを帯びた文字だった。)

 

(首都トビリシから約50km離れたムツケタ=Mtsketaのカテドラル=世界遺産)

 

(クタイシ=Kutaisiから10kmほど山の中にある世界遺産ゲラティ修道院=Gelati Monastery)

 

 

トルコ 2,700km

 

トルコの走行ルートは以下の通り:

 

ジョージアのバトミ(Batumi)国境から入国~リセ(Rize)~エルジンシャン(Erzincan)~シバス(Sivas)~オズコナック(Ozkonak)=カッパドキア地域~ハシベクタス(Hacibektas)~首都アンカラ(Ankara)~アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar)~パムッカレ(Pamukkale)=石灰棚とヘリオポリス遺跡~セルチューク(Selcuk)=エフェス遺跡~ベルガマ(Bergama)=アクロポリス遺跡~チャナッカレ(Canakkale)=トロイの遺跡~ダダーネルス海峡をフェリー渡る~サルキョイ(Sarkoy)~イスタンブール(Istanbul)

 

(トルコ地図。赤線は走行ルート。右側上部はジョージアのバトミ=Batumi。左側上部の赤丸印はイスタンブール)

 

(マルマラ海の最狭部=ダダーネルス海峡は幅1.2kmしかない。大型タンカーはタグボートに先導されて進む。)

 

美しい国土

 

ジョージアの黒海に面したバトミ経由トルコへ入国した。トルコの黒海側は温暖で湿潤な気候だった。山々は緑の木々に覆われ、内陸部の高原は丘陵地帯となり、草花が咲き始めた時期だった。

 

都市の新市街のビルや建物は比較的新しく町の景観が整っている。イスラム色の建物はモスク位しかなく、モスクが無ければ西欧の町並みに似ていると思った。

(トルコ黒海沿岸をリセ・トラブソン方面へ進む。)

(リセ=Rizeの町の広場)

 

(エリジンシャン=Erizincanの町と周囲を囲む山々)

(トルコ中央の高原)

 

(リセからエリジンシャンへ向かう途中の峠道)

 

親切で気前の良い人たち

 

トルコ最初の宿泊地のリセの町では、ホテルの隣のコンビニの店員は当方が日本からオートバイで来たと知ると、当方が買った食料品を歓迎の意味で無料にしてくれた。

 

エルジンシャンのペンションでは当方と同年配のペンション経営者が素泊まりの宿ながら、朝食用の軽い食べ物を取って行けと同氏が食べている食料を分けてくれた。

 

田舎道のガソリンスタンドでオートバイを給油した際には、ガソリンスタンドで世間話をしていた人達からお茶かコーヒーを飲んで休憩したらどうかと誘われた。

 

ハイウェイ走行中に出会ったオートバイ・クラブのライダー達には一緒に走行して、カッパドキアのライダークラブのキャンプに誘われた等々、トルコの人々にはいろいろ親切にしてもらった。

 

(リセのコンビニの従業員=大学院生は買った食料品を無料にしてくれた。)

 

(カッパドキア地方のオズコナック=Ozkonakの町に集まったトルコのライダーたちのチョッパー型の大型オートバイ)

 

世界遺産が多く見どころが多い

 

キノコのような形の高さ十数メートルの岩山やその岩山に洞窟を掘り住居とした地域がカッパドキアだ。トルコの自然世界遺産では一番有名で人気がある場所だ。観光シーズン真っ盛り中はホテルやホステル等の宿泊料金が高いため、当方は観光の中心であるギョローム(Gereme)を避けて周辺地域に宿泊した。

 

カッパドキアの後は、雪山のように白い石灰棚で覆われたパムッカレ(Pamukkale)、ローマ時代のエフェス遺跡があるセルチューク(Selcuk)、同じくローマ時代の遺跡があるベルガマ(Bergama)のアクロポリス神殿遺跡やトロイの木馬で有名なチャナッカレ(Canakkale)付近のトロイ遺跡等を見学。

 

また、カッパドキア地方には無数の地下都市もあり、観光場所には事欠かない。

 

その中で当方は規模が大きく、また遺跡の復元状況が良いエフェス遺跡は印象に残った。ローマ時代の円形野外劇場ではイエス・キリストが説法を説いたと言う。

 

他方、トロイ遺跡は復元が進んでおらず、崩れた石垣跡程度しかないため、ガイドの説明がなければ素通りするような遺跡だった。

 

観光地として古都イスタンブールが最も魅力的だろう。旧市街にはオスマントルコの歴代の皇帝が居住したトプカプ宮殿をはじめ、東ローマ時代の4世紀にキリスト教会として建てられ15世紀のオスマントルコ時代にはモスクとなったアヤソフィア、世界最大級のブルーモスク(スルタン・アフマド・モスク)等見どころが多く、またボスボラス海峡もイスタンブールの景観をエキゾチックにしている。

(カッパドキアの中心の町ギョローム=Gereme)

(カッパドキア地方オズコナックの地下都市の通路)

 

(パムッカレ=Pamukkaleの石灰棚)

 

(セルチューク=Selcukのエフェス遺跡。入口方面を見る)

 

(エフェス=Efes遺跡内の野外劇場。この劇場でイエス・キリストが説法したという。)

 

(ベルガマ=Bergamaのアクロポリス遺跡)

 

(トロイ遺跡のトロイの木馬は修復中だった。高さ6m~7mの木馬は周囲を安全メッシュで覆われていた。)

(トロイ遺跡の当時の城壁の想像図)

(トロイ遺跡の城壁跡。)

 

(イスタンブールを東西に分けるポスボラス海峡とボスポラス大橋)

 

(アヤソフィア・モスク)

(トプカプ宮殿の入口門)

(ブルー・モスク=スルタン・モスク。メッカのカーバ・モスクと同じ5本もミナレット=尖塔を持つ。ミナレットの数が多いほど格調が高いという。)

 

イスタンブールからスペイン・マドリッドまで3,800km

 

イスタンブールでオートバイ・ツーリングを終了したかったが、イスタンブールではオートバイを日本へ輸送する業者が見つからなかった。

 

そのため、以前からコンタクトを取っていたスペインの輸送業者がいるバロセロナまで行くことにした。イスタンブールからバロセロナまでは最短距離を進んだ。

 

イスタンブール~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランス(南仏)のルートでバロセロナまで日中はただひたすらオートバイを走らせるだけの移動だった。

 

バロセロナの輸送業者とEメールでやり取りしている間に、バロセロナの業者が中古オートバイの日本への輸送に慣れていない印象を持った。そのため、6年前に当方がマドリッドからアルゼンチンのブエノスアイレスへオートバイを空輸した際にお世話になった会社の担当者に相談した。

 

その担当者は<中古オートバイの輸送に慣れているマドリッドの業者を紹介するので、直ぐにマドリッドへ来い>とアドバイスしてくれた。

 

そのため、行き先をマドリッドに変え、連日走行してイスタンブールから出発後9日目でマドリッドに到着して、日本へ海上輸送する業者の梱包倉庫へオートバイを持ち込んだ。

 

昨年9月にマレーシアのポート・ケランから始めたアジア・中近東ツーリングは10ヶ月間で約39,000kmの走行で終了した。

 

(イスタンブールからスペイン・マドリッドまでの最短距離ルート)

 

(クロアチアの首都ザクレブ近くのハイウェイ)

 

(スペイン・マドリッドの輸送業者の倉庫兼オフィースがツーリングの最終地点)

 

以上

ネパール・パキスタン・イラン総集編 7,500km

 

インドのラクソール(Raxaul)国境からネパールへ入った。

(インドRaxaul国境からネパールに入国。ネパール側の国境門)

 

居心地が良かったネパール 900km (2023 3/6~ 3/19)

 

ネパールに入国すると道路が悪いことにすぐ気が付いた。舗装道路はいたるところが補修で継ぎはぎだらけのでこぼこ道だったり、舗装面が剥がれてダート化していた。また、多くの区間で道路工事中のためダートの迂回道が多かった。

 

他方、ネパールは居心地が良く、当方はすっかり気に入った。

気候は涼しく、汗をかくことは無い。むしろ夜は寒いくらいであった。 人口は多くないので窮屈さは感じず、首都カトマンズの道路でもインドのような渋滞は無く、比較的スムーズに走行できた。

 

また、ネパールの人々は優しく、インドのように<どこから来たか?>等の質問もあまりなく、ある程度距離を取っているのが心地良かった。

(ヘタウダ~カトマンズ間の道路は舗装道とダート道の繰り返し)
 

(幹線道路は工事中区間が多かった。工事中のための迂回道路)

 

ネパールは以下のルートで進んだ。

 

Rxaul/Birganj国境~ヘタウダ(Hetauda)~首都カトマンズ(Kathmandu)~ゴルカ(Gorka)~

ポカラ(Pokhara)~ダンパス村(Dampus)まで往復~ローアー・ムスタング途中で断念~ポカラ(Pokhara)~ルンビーニ(Lumbini)=ブッタ生誕の地~Sonauli国境からインドへ出国

(赤線はネパールの走行ルート。赤線右側最上部の赤色印の場所はカトマンズ。 赤線上部の右から左へカトマンズ~ゴルカ~ポカラへと続く。)

 

インド国境から首都カトマンズへ向かう道路は酷かった。国境から最初に宿泊したヘタウダ(Hetauda)までは舗装道路だったが、その後は舗装道路とダート道の交互に続く山道だった。

途中お茶休憩した茶店ではグーグル翻訳を介しての筆談だったが、家族全員を紹介されるなどネパール人の開放的態度と心のぬくもりを感じた。

 

首都カトマンズは盆地の中にあり、乾季で埃が舞う中で遠くは霞み視界が悪かった。そのためカトマンズからはヒマラヤの山々は見えなかった。

(ヘタウダ~カトマンズ途中の茶店の家族写真。オーナーは左から2人目。オーナーの右横はオーナーの奥さん)

(カトマンズ盆地とカトマンズの町)

(カトマンズ市内へ入る道路)

 

(カトマンズ旧市街で一番賑やかな通り)

 

行く先々の人々の繋がりで思い出深きツーリング

カトマンズで知り合ったネパール人や日本人を介して、その人たちの友人や知人を紹介されネパールでのツーリングが思い出深いものとなった。

 

カトマンズでたまたま訪れた食堂の経営者は日本の八王子で5年間働いたことがあるネパール人で日本語も話した。同経営者にゴルカを勧められ、カトマンズの後にゴルカを訪れた。

 

当方はイギリス植民地時代にゴルカの言葉がなまりグルカ出身の勇敢な兵士、グルカ兵のことを聞いたことがあった。

 

その食堂を訪れていたネパール人を日本へ送り出す人材会社のサポートをする若手日本人と知り合いとなり、同日本人の紹介にてポカラ市内でコーヒーショップを経営するネパール人の山岳ガイドと知り合った。 そのコーヒーショップは日本の飲食店と提携して日本からの研修生を受け入れていた。

 

同山岳ガイドのアドバイスでポカラから40km程度離れた山村のダンパス村を訪れ、ポカラからは遠方が霞みこの時期なかなか見れないアンナプルナ山系を見ることができた。また、同ガイドに紹介されたポカラ市内のオートバイショップでエンジンの調子が悪くなった当方オートバイの調整をしてもらった。

 

同オートバイショップでは、ポカラから秘境のアンナプルナ山系の国立公園(ローアー・ムスタング=Lower Mustang)へのツーリングを勧められ、当方もその気になりネパールのビザを延長してローアームスタングへ途中まで進んだ。

 

ただし、悪路とその後の悪天候予想のため、ローアームスタング行は諦め、途中でポカラへ引き返した。

 

ポカラはカトマンズに次ぐネパール第二の都市だった。町の規模は小さく、スイスの山間部のような雰囲気の落ち着いた町だった。アンナプルナ山系への登山やトレッキングの拠点として多くのプチホテルやゲストハウスがあり、外国人の観光客やトレッキング客を多く見かけた。

 

ポカラの後はブッタ生誕の地でもあり、インドと国境を接するルンビーニ(Lumbini)の町へ向かった。ルンビーニはネパールというより、インドにいるような感じであった。人々はインド人と同様なアーリア系の顔立ちをして、女性はサリーをまとっていた。

ルンビーニの周辺にはゴーダマ・シッダールタ(のちの仏陀)が出家するまで住んでいたサクヤ国の城跡等がある。ゴーダマ・シッダルータはサクヤ国の王子として生まれた。

 

(ゴルカの旧王宮跡にあるヒンズー教寺院を警備するゴルカの兵士)

 

(山間にあるゴルカの町。煙やほこりで視界がはっきりしない。)

(田舎の川岸ではヒンズー教徒が死者を火葬していた。)

(ポカラ近くの道路脇で小学生ぐらいの少年たちが近寄ってきた。そのうち一人は

英語で当方へどこから来たかと質問した。)
 

 

(ポカラ郊外のダンパス村から雪をかぶる南アンナプルナ山=標高7,219mが見えた。)

(ポカラの町並み)

(ポカラで当方オートバイのエンジン調整をしてくれたバイクショップのオーナー)

 

(ポカラから秘境のローアームスタングへ行く途中の景色)

(ローアームスタングへ向かう途中の道路は未舗装。山から出る水でぬかるむ。)

 

(ポカラからルンビニへ向かう途中の山間部の畑で種まきをする人たち)

 

(バスの屋根の上にも乗客は乗る)

(当方が宿泊したルンビニの宿の主人は元銀行員。カースト制の差別等自らの体験談をまじえて教えてもらった。)

(ブッタ生誕のルンビニの町)

(ブッタ生誕の地は整備された公園になっている。写真の奥にブッタ生誕地がある寺院がある。)

 

パキスタン2,800km(2023/4/12~ 4/28)

 

パキスタンはイランへ行くために通過するだけの国と当初考えていた。

しかし、中国と国境に接するパキスタン北東部のキルギット・バルチスタン州(Kilgit Baltistan)は絶景が広がる山岳ルートと知り興味を持った。同地まで行く計画を立てたものの、天候不順のため途中で引き返した。

 

パキスタンの中西部(パキスタンのツーリングの約半分)は警察の警備車両のエスコートが必要な区間で単独の自由行動は許されなかった。従って、パキスタンのツーリングはかなり制限されたルートと日程となり、オートバイ・ツーリングを楽しんだという気分にはなれなかった。

 

パキスタンはイスラム教を国教とするイスラム教国だ。パキスタンへ入国した時期はラマダン(イスラム教徒の断食の月)中だった。イスラム教徒は日の出から日没まで飲食をしない。そのため飲食店は日中営業をしない。イスラム教徒以外の人たちも日中人前では飲食を控える。

 

パキスタンのように暑い国で日中の外出中に水を飲むことを控えるのは辛かった。ラホールで世界遺産の砦跡を炎天下に見学した際には我慢して水の摂取を控えた。そのため気分が悪くなり、熱中症の症状がでてきた。

(インドとパキスタンの国境線を挟んで毎日夕刻に国境閉門セレモニーがある。)

 

(当方オートバイの周りに集まったパキスタンの子供達)

 

(川沿いの谷間にあるカラコルムハイウェイ。キルギット・バロチスタン州を通り中国との国境まで繋がっている。)

 

パキスタンの走行ルートは以下の通り

 

インドのアタリ(Attari)国境から入国してラホール(Lahore)~首都イスラマバード(Islamabad)~アボッタバード(Abottabad)~ベッシャム(Besham)~ダス(Dasu)引換えし地点~ベッシャム(Besham)~マルダン(Mardan)~ペシャワール(Peshawar)~デラ・イスマイル・カーン(Dera Ismail Khan)=警察車両のエスコート開始地点~キラ・サイフラ(Qila Saifullah)~クエッタ(Quetta)~ダルバンディン(Dalbandin~タフタン(Taftan)国境=警察車両のエスコート終了。

(赤線はパキスタンの走行ルート。 地図右側下の赤丸印はラホール。地図左側はパキスタンとイランの国境)

 

パキスタン人は外国人に親切だということを聞いていた。当方は食事に招ねかれたり、自宅に宿泊させてもらったこともあり、パキスタン人の親切さを実感した。しかし、親切と興味本位の行動は紙一重だと感じたことも数多くあった。

 

外国人は珍しい存在だ。そんな外国人には自然と興味がわく。マルダン(Mardan)の仏教遺跡では20人くらいの中学生ぐらいの少年たちに映画スターのように囲まれた。

 

同遺跡を徒歩で見学中も当方の周りを囲むように集団でついてくるので、警備の人たちは少年たちを棒で振り回して追い払おうとしたり、鉄格子に囲まれた場所へ当方を誘導して少年たちのグループから安全を確保しようとした。

 

その少年たちは外国人を興味の対象として見ていた。また、地方都市の大人も同様に外国人の周りに集まり、めずらしい興味の対象としている状況に数多く遭遇した。

(マルダンの仏教遺跡。遺跡の外側の高台には多くの少年たちが外人観光客を見ようと集まり、外人観光客をはやしたてる。)

(マルダンで一泊お世話になったパキスタン人の家族。女性は家の奥にいて家族以外の男の前には現れない。)
 

パキスタンの安全状況

 

アフガニスタンと国境を接するパキスタンの辺境地はアフガニスタンがタリバンに制圧されてからタリバンの息がかかった反政府勢力が力を盛り返して治安が悪くなったという。

 

パキスタン北部のペシャワール(Peshawar)からパキスタン西部のバロチスタン州の州都クエッタ(Quetta)を経てイランとの国境に至る帯状の辺境地は日本の外務省安全情報では最も危険とされるレベル4の退避勧告地域と指定されている。

 

自爆テロ、身代金目当ての誘拐や銃器を用いた強盗が多発している地域でもあり、中央政府の統治が及んでいるとは言えない。

ただし、当方のようにオートバイで絶えず移動している人には治安状況は全くわからない。幹線道路上で警察や軍隊による検問所の数が多くなると、治安状況が良くないことを知るのみだ。

 

事実ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンへ向かう途中の幹線道路では複数の軍隊の検問所があり、その一つの検問所を管理する軍の拠点長から治安状況について説明を受けたことがあった。

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中の峠から見た景色)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中。道路わきの日陰で休憩)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンの区間を警備する軍の拠点長は流ちょうな英語で当地の治安状況を

説明してくれた。)


(ペシャワールの旧市街)

(ラマダン中だったので、日没後にやっと食事ができた。鶏肉を炭火で焼く。ペシャワールの旧市街)

 

警察車両のエスコート区間約1,200km(3泊4日)

 

デラ・イスマイル・カーンから警察車両の護衛が付いた。外国人がテロや誘拐に巻き込まれることを防ぐため、警察車両のエスコートが付く。自由行動が許されない走行が始まった。この区間をバックパックで旅行する外国人も同様に警察車両に乗り(多くはピックアップトラックの荷台)警察の保護下で移動せねばならない。

 

警察車両は駅伝のように自らの管轄地区を30km~50km警護し、次の管轄区の警護車両に入れ替わる。こんな警護が3泊4日約1,200km続いた。

 

1泊目(キラ・サイフラ)と3泊目(ダルバンディン)はそれぞれの管轄区の警察署で夜を過ごした。警察署には食事は無いので事前にチャパティ等の乾燥食材を用意せねばならない。当方はシュラフやクッションを持っていなかったので、警察署の硬い床の上では熟睡できなかった。

 

2泊目のバロチスタン州の州都クエッタでのみ、警察指定ホテルでの宿泊が許された。ただしホテルからの外出は禁止されてい

た。

 

(警察車両の警護)

(名も知れぬ村の警察官。警察官は自動小銃で武装)

(強風でこの先の道路は視界が効かない。)

(飾りをつけた貨物トラックが多い。)

(一泊したダルバンディンの警察署。写真左側留置所となっていた。)

 

パキスタンからイランへ出国する際の国境でアクシデント

 

警察車両によるエスコートの4日目には若いドイツ人夫婦の運転するキャンピングカーが加わった。

 

そのキャンピングカーが国境検問所で停車後、突然バックして来た。当方はキャンピングカーの約2m後方で停車していたが、突然バックして来たキャンピングカーは当方が後ろにいることには気が付かず当方オートバイの前輪部分に衝突してきた。 

 

当方オートバイの前輪がバリバリと音を立ててキャンピングカーの後部バンパーを壊して、危うく横倒しになる寸前だった。前輪泥除けは無残に垂直に曲がってしまったが、強化プラスチック製のため元に戻すことができた。しかし、当方は前輪タイヤがこれからの走行に支障が出ないだろうかと危惧した。

 

アクシデント後、ドイツ人夫妻は氏名、住所とコンタクト先を当方に残したのみで、当方バイクの走行状態を確認することなく、その場を離れてしまった。

(警護走行4日目のダルバンディンからイラン国境まではドイツ人のキャンピングカーが加わった。 先頭は警護する警察車両)

 

イラン 3,800km(2023 4/29~5/25)

 

イランの概況

イランは思っていたより広い国だった。面積は163万km2と日本の4倍以上ある。アラビア湾岸沿いの低地とカスピ海沿いの地域を除き、国土のほとんどは木が一本も生えていないような砂漠化した高地だった。 

 

人が住む場所は気候が涼しい海抜千メートル以上の高原地帯であり、荒涼とした大地通るハイウェイが数百キロメートル離れた都市と都市をつないでいた。

 

直前までツーリングしていたパキスタンやインドと異なり、イランの都市は通りにごみ一つ落ちていなく清潔な町であった。プラスチック製のペットボトルやレジ袋等が路上に落ちていない、牛糞も無い。

 

街には乗用車が溢れる一方、オートバイはほとんど見かけることがなく、国境を接するパキスタンやインドとは全く異なっていた。

 

イランの人々は事前に聞いていた通り、非常に親切で、思慮ある人々だった。当方はイランが今回のツーリングで訪れた国々の中で一番気に入った。

 

他方、長引くアメリカ主導の金融制裁のため、経済状況は悪く、インフレ率は年率50%と高く、イランの通貨レアルの為替レートは割安に放置されていると感じた。

 

政府の公式為替レート(1米ドル=約4.2万レアル)と市中の実勢レート(1米ドル=約53万レアル)とは10倍以上の乖離があり、市中の両替屋で手持ちの米ドル現金100ドルをイラン・レアルに両替すると53百万レアルという巨額になった。

 

両替した札束が財布の何かには入らず、封筒に入れて持ち運んだ。

百万レアル札もあり、食事代で数十万リアル、宿泊代で数百万リアルと言うように金銭感覚が狂ってしまう。

 

歴史がある都市や町、ユネスコの世界遺産も豊富で長期滞在しても飽きない。当方は歴史があるヤスード(Yazd)、シラーズ(Shiraz)やイスタファン(Istafan)等の迷路のように土塀で区切られた旧市街の町並みや中庭がある古民家が気に入り、古民家を改造したホステルに宿泊した。

(イランの標高を表したジオラマ地図。イランは高地が多い。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)

 

 

ツーリング・ルートは以下の通り

パキスタンのタフタン国境からイランへ入国後~ザヘイダン(Zaheidan)~バム(Bam)=世界遺産の遺跡~ケルマン(Kerman)~ヤスード(Yazd)=イランの鎌倉~マルブダシュト(Marvdasht)=世界遺産ペルセポリス遺跡~シラーズ(Shiraz)=イランの奈良~ヤスジ(Yasj)~シラーズ~イスタファン(Istafan)=イランの京都~カシャーン(Kashan)~首都テヘラン(Teheran)~カスピ海沿岸のチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)~アルダビル(Ardabil)~サリーン(Sarien)=温泉地~タブリーズ(Tabriz)=世界遺産のバザール~カンドバン(Kandovan)=奇岩のミニカッパドキア観光~タブリーズ~ノルドス(Norduz)国境からアルメニアへ出国

(赤線はイランの走行ルート。地図右側はパキスタンとの国境。宿泊した都市は赤丸印の場所。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)

 

パキスタンから入国後ザヘイダン~シラーズまでの最初の1,500km (Part 1)

パキスタン西部に続き、荒涼とした砂漠化した大地に通るハイウェイを進んだ。時には岩山を削ったような道路や山を登ったり、下ったりする道もあった。

 

ガソリン価格がリッター7円~8円と非常に安い。政府の補助があるのだろうが、ガソリンタンクを満タンにしても大した支出とはならない。そのためか、ガソリンスタンドの数が非常に少ない。 薄利ではもうからないためガソリンスタンドの商売には妙味が無いのだろう。

 

パキスタンから入国して気が付いたことは、前述したように道路上にごみが無いことローマ字表記の看板が一切ないことだった。ローマ字表記が無いため、ホテルやホステルを探すのに多少苦労した。また、数字もアラビア数字に似た形状のペルシャ数字を使用するため、価格交渉を筆談で行うにも数字が読めない。

 

ザヘイダンでオートバイ保険の加入と携帯電話のSIMカードの購入を済ませたが、インターネットがつながらない。イラン政府は外国のSNSやウェブサイトの閲覧に制限をかけている。それらのサイトにつなげるためには有料のVPN(Virtual Private Networkという私設インターネット回線)への加入(アプリを入れる)が必要だった。

 

バム(Bam)のホステルで出会った当方と同年配のドイツ人のライダーとは気が合い、バムの次のケルマン(Kerman)でも同じホステルに宿泊して一緒に市内観光をした。

 

旅行ガイドブック<地球の歩き方>では中東の3P(頭文字にPが付く3大名所のこと)としてシラーズから100km程度離れたマルダシュト(Mardasht)のローマ時代の遺跡ペルセポリス(Persepolis)を挙げていた。同遺跡はユネスコの世界遺産にも登録されていたが、当方の印象には深く残らなかった。


 

(バムからケルマンへへ向かう途中の景色)

 

(世界遺産のバムの要塞遺跡。要塞部分の外壁や塔の修復は進んでいたが、周囲には未修復で遺跡か泥の塊か見分けがつかない場所が多く残っていた。)

 

(ドイツからのライダーはヤマハのテネレ700に乗っていた。)

 

(世界遺産ペルセポリスの遺跡)

 

旧市街の古民家

当方の印象に残ったのはケルマン、ヤスードとシラーズで宿泊した宿だった。それぞれ旧市街の古民家や宿泊所を改築したホステルだった。

 

イランの民家は高い土壁で囲まれ、土壁の内側は見えない。壁の内側には中庭とその中庭を取り囲むように部屋が配置されている。中庭には木陰を作る樹木が植えられ、直射日光がきついイランでは樹木の木陰でお茶を飲みながらゆっくりと時を過ごす。

(古都ヤスードの旧市街。風を室内に入れる塔=写真右側の建物が保存されている。)

(ヤスード宿泊した古民家の中庭)

 

(ケルマンではミニパレスのような古い豪邸を改築したホステルに宿泊)

 

(ケルマンのバサール=商店街)

(砂漠の中のヤスードの町)

(不気味に見えたヤスードの鳥葬の塔=ゾロアスター教徒は20世紀初頭まで死者を塔の上に置き、鳥に死肉を処分させた。)

(シラーズで宿泊したホステルの若手オーナーは宿泊客の面倒をよく見てくれ、当方は感心した。)


(イランの中高校生ぐらいの少女たちは写真を撮ってくれとポーズを取ってくれた。)

 

(シラーズからイスタファンへ向かう途中の風景)

 

シラーズ~イスタファン経由首都テヘラン1,400km(Part 2)

 

親切なイランの人々

シラーズからイスタファンへ向かう途中のヤスジ(Yasj)という町で当方はイラン・ビザをどこかで紛失したことに気が付いた。立ち寄ったシラーズの携帯電話店に忘れたのだった。

 

イランのビザはパスポートに押印されるのではなく、航空券のE-チケットを印刷した紙のように紙ベースのものだ。イランに敵対するするイスラエルやアメリカへ入国する際にパスポート上にイランのビザや入国スタンプがあると面倒なことになり、それを避けるためパスポート上にはイランの形跡を残さない。

 

ヤスジで宿泊したホテルのスタッフが、当方が心当たりがある場所へ一時間以上電話問い合わせしてくれたおかげで、当方が途中に立ち寄ったシラーズの携帯電話ショップにイランビザの紙を置き忘れたことが判った。

 

携帯電話ショップのオーナーも当方をインスタグラム(フェースブック系のSNSの一種)で探し出して、当方宛にメッセージをくれていた。しかしながら、当方はインスタグラムをほとんど使用しなかったので、メッセージには気が付かなかった。

 

ヤスジのホテルスタッフやシラーズの携帯電話ショップのオーナーの協力は有難たかった。

テヘランではイスタファンのホステルで出会ったイラン人の若者にテヘランの自宅に招かれ夕食をご馳走された。

 

このような親切はイラン滞在中に数多く受けた。

(テヘランで知り合ったイラン人の自宅で夕食をご馳走になった。)

 

(カンドバン村の土産物店ではお茶を飲んでいけとお茶をふるまわれた。)

 


(オートバイで移動中、のどが渇きスイカを食べたくなった。当方が<1/4個のカットスイカ>を欲しいと言ったら、<切り売りはしないが>、と言って既に切ってあったスイカを<(無料で)食べていけ>と言ってくれたスイカ売りのクールな男)

 

古都イスタファン(Istafan)

イスタファンは1597年~1795年までの約200年間イランの都だった。日本の京都に相当するだろう。 旧市街には都として栄えた当時の複数の巨大モスクが現在も使用されている。

(イスタファンの有名なエマーム・モスク=Majesed Eman)

 

(イスタファンのジャメ・モスク=Majesed Jame。モスクは数百年にわたる増改築で、イラン建築の総大集と言われている。)

 

(イスタファンの旧市街の中心にはエマーム公園があり、その周りをエマーム・モスク、宮殿等の歴史的建物が囲む。)

 

(イスタファンのバザール入り口のイスラム建築)

 

(イラン人はピクニック好き。休日には家族、友人たち同士が公園の芝の上で食事したり、お茶を飲んだりして憩う。)


(イスタファンの旧市街の道と民家の土壁)

 

レストランが少ない

イランで気が付いたことは、食堂やレストランが他国と比較して少ないことだ。食事をするため食堂やレストランを捜し歩いたが、数が少ない。市内の中心部を10分~20分歩いてもなかなか見つからなかった時もあった。 

(焼き肉店でひき肉を串に付ける料理人)

 

イラン・イラク戦争の傷跡

1980年代にイランはイラクと戦争をした。その戦争で戦死者をだした町の道路には戦死者一人ひとりの遺影を飾った柱を目にした。田舎の町にも出征して帰らぬ若者がいることを知った。

 

イラン・イラク戦争の末期にはアラビア湾(ペルシャ湾とも呼ぶ)の一番狭いホルムズ海峡を通過する日本船籍の原油タンカーもミサイル攻撃で被弾したりして、国際的な注目を浴びた戦争だった。

(イラン・イラク戦争の戦没兵士の遺影)

 

テヘラン~カスピ海沿岸~タブリーズ~アルメニアへ出国 1,200km(Part 3)

 

テヘラン北部に控えるアルボズ(Alburz)山脈通過してカスピ海沿岸へ出ると景色は一転していた。 カスピ海沿岸の湿潤の気候のため、山々は緑の樹木で覆われ、道路沿いの荒れ地には緑の草や植物が群生していた。

 

当方はカスピ海沿いにチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)

~アゼルバイジャンとカスピ海沿いに国境を接するアスタラ(Astara)経由内陸都市アルダビル(Ardabil)を経て北部のタブリーズ(Tabriz)へと進んだ。

 

チャールズ及びバンダル・アンザリではカスピ海に面する場所にあるホテルに宿泊した。晴天の日が少なくカスピ海は曇っていたが、穏やかだった。 この辺りには田植え中の水田が多く、日本に気候が似ていると思った。

 

 

(テヘランのビジネス街)

(テヘランからカスピ海地方へ行く途中。テヘラン北側にあるアルボズ山脈。アルボズ山脈の南側=テヘラン側は乾燥地帯)


(アルボズ山脈北側=カスピ海側は湿潤な気候のため山々には緑の木が茂る。)

(チャールズ=Chalusのカスピ海海岸。風が吹くと肌寒かった。)

 

(カスピ海沿岸地方の田植え風景)

 

(カスピ海沿岸地方のバンダル・アンザリの海岸)

 

(カスピ海沿岸地方の名物料理バガラガト=Baghaleh-ghatogh。サフランで黄色くしたバターライスと卵入りシチュー。同じホテル知り合ったカスピ海沿岸地方出身のイラン系カナダ人にごちそうしてもらった。)

 

(カスピ海沿岸から内陸へ入る。)

 

イランの温泉

 

アルダビルから40km程度離れた場所に温泉町サリーン(Sarein)があると聞いていた。草原の中に突然ビル群が建ち、人工的な町が出来たような不自然な場所だったが、スイミングプールのような大きな公衆温泉があった。水着着用で温泉に入るが、個人用の湯船もあり、当方は久しぶりの温泉を楽しんだ。

 

(サリーン=Sarienの温泉)

 

(温泉町サリーン=Sarien 土産屋が並ぶ)

 

タブリーズの不愉快な出来事とその郊外のミニカッパドキア

タブリーズの町はイラン滞在の最後の町だった。楽しいことが多かったイランでもタブリーズでは少し不愉快な出来事があった。通りで少年グループにから絡まれたり、宿泊したホテルの受付係と口論になったことだった。

 

タブリーズから70km~80km離れた場所にとんがりコーンのような複数の奇岩がある場所があった。その奇岩に洞窟の部屋を作り、民家としているカンドバン(Kandovan)という村があることを知った。

 

トルコの内陸部にはキノコの形やとんがりコーンの形をした奇岩があるカッパドキア(Cappadocia)という地域があるが、そのカッパドキアにちなんでミニカッパドキアとも呼ばれている村だった。タブリーズから日帰りツーリングしたが、思ったほど観光客は多くなく、洞窟の一部を改造した民家を見学することができ満足した。

 

タブリーズの後はアルメニアへ出国するためノルドス(Norduz)国境へと進んだ。

(アルダビル=Ardabilの旧市街)

 

(アルダビルで見つけた甘党の店。 蜂蜜と黒ゴマ等を材料にしたあんこのような甘みのハルラ=Halra。小さなカップに入れて食べた後、口直しに酸っぱいヨーグルトドリンクを飲む。)

(タブリーズ・モスクに残る高さ40mの巨大な門。その昔には罪人を門の上から突き落としたと言う。)



(ミニ・カッパドキアとも呼ばれる奇岩があるカンドバン=Kandovan)

 

(カンドバンでは奇岩に洞窟を掘り、住居としている。)

(カンドバンの洞窟内の部屋は快適そうだった。)

(タブリーズからアルメニア国境へと進む。)

 

(アルメニアとの国境付近は自然環境が厳しい場所)

 

以上

 

 

 

インド総集編 8,500km

 

東南アジアツーリング後インドへ渡ったが、インドは民族、人種および習慣が東南アジアとは全く異なる別世界だ。

 

おりしもインドの人口が中国を抜き世界最大となったニュース報道がされていた時期だ。

 

当方は会社員時代バーレン(アラビア湾の島国)に駐在していた時に、インド人と一緒に仕事をしたりしてインド人を知っているつもりだったが、インド亜大陸のインド人とは少し異なっていた。

 

海外で仕事をしたり、暮らしたりする多くのインド人は国際感覚を持つ教養人だったが、インド国内の人々はそうでない人や住んでいる地域以外へは行ったこともなく英語を話さない人が多いと知った。

 

2018年にアメリカをツーリング中アリゾナ州のフラッグスタッフの町のモーテルにチェックインした際に、そこで受付係をしていたインド人に当方が世界一周のツーリング中だと言った。

 

その際に受付係のインド人は当方へ<インドへは行ったか?>と聞いてきた。当方が<まだ行っていない>と答えると、そのインド人は、<インドへ行かずして世界一周中とは言えない>と当方の世界一周との説明に水を差した。そのインド人の一言もインド・ツーリングのきっかけの一つとなっていた。

 

当初タイからミャンマー経由陸路でインドの東部へ入国する計画を練っていたが、コロナ以降ミャンマー国境は閉鎖中であるため、タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送して、インドツーリングを行った。

 

インドの港でのオートバイの輸入通関には手間とコストがかかるので避けた方が良いと聞いていたが、その通りだった。通関手続きは2週間以上かかり、タイからの海上輸送費とは別に、インド側の輸入費用のみだけで約11万ルピー(約17万円)かかった。

 

その費用の明細に至っては事前の問い合わせ等では知らされていなかったいわゆる隠れ費用(Hidden Charge)もあり、やはりインドでの中古オートバイの輸入手続きはお勧めできないと実感した。

 

インドのほとんどの地域には四季が無く、雨季と乾季の2つのシーズンしかない。インドのムンバイへ到着したのは1月中旬と乾季の最中だった。日中の気温は30°C以上と日本の夏のように暑くなるが、朝夕は涼しく感じられるなかでムンバイから出発してデカン高原を南下した。

 

その後インド最南端を訪れた後、東海岸沿いにチェンナイを経由してカルカッタ直前で内陸部へ入り、ブッタが悟りをひらいたブッタガヤを経てネパールへ入った。ネパールツーリング後、再度インドへ入国して、首都ニューデリーを経てパキスタンへ出国した。約2・5ヶ月、8,500kmのツーリングだった。

 

以下インドのツーリングルート(反時計回りにインドを3/4周。途中ネパールへ進み、その後インドへ再入国)

 

Mumbai(マハーラーシュトラ州都・世界遺産)~Pune~Aurangabad(世界遺産エローラ石窟寺院)~Solapur~Hampi(世界遺産)~Bengaluru(IT産業の中心)~Mysore(マイソール宮殿)~Coimbatore(インドのマンチェスター)~Kochi(バスコ・ダ・ガマ)~Kanyakumari(インド最南端)~Tiruchirappalli(世界遺産)~Ponticherry(元フランス領)~Chennai(タミール・ナードウ州都・インドのデトロイト)~Ongole(オートバイの故障)~Vijayamada~Visakhapatnam~Chilika(淡水湖)~Konark(世界遺産)~Balasore(オートバイにUSBチャージャー取付け)~Ranchi(内陸都市)~Budhgaya(仏陀悟りの地)~Motihari~Raxaul/Birganj国境からネパール入国~ネパールをツーリング後Lumbini(Sounali国境)経由再度インドへ入国~Kushinagar(仏陀入滅の地)~Varanasi(ヒンズー教の最大聖地)~Ranpur~Agra(タジ・マハール)~Jaipur(ピンク・シティー)~Gurugaon(多国籍企業)~Dehli(首都)~Chandigarh(インドで一番美しい都市)~Mandi~Dharamsala(チベット亡命政府)~Pathankon~Amritsar(パンジャブ州都・シーク教徒の聖地)~Attari国境からパキスタンのLahoreへ出国

 

(インド走行地図。赤線は走行ルート。左側中央が出発地点のムンバイ。左側最上部がインドからパキスタンへ出国したアムリトサル。右側上部の入りくんだ場所はネパール)

 

インドは多民族国家で一言では表現できない

 

インドは多民族国家で州毎に言語も民族が異なると言っても過言ではない。インドの経済状況も均一ではなく、インドの一人当たりのGDP(国民所得)は1,920米ドル(約25万円)となっている。しかしながら、一番裕福な南西インドのゴア州では5,700米ドル(約74万円)であり、最貧の東北部のビハール州では700米ドル(約9万円)しかない。州により経済状況は大きく異なる。

 

(インド主要州の一人当たりの国民所得=GDP。一人当たりの年収と見なせる。)

 

(日系企業のインド進出状況)

 

ムンバイから出発してデカン高原を南下

 

インド第二の都市ムンバイからスタートしてAurangabadから数十kmの場所に位置する岩山を削って巨大な石窟寺院を作ったエローラ(Ellora)の石窟遺跡群を目指した。同遺跡群はユネスコ世界遺産にも登録されている。最大の石窟寺院は高さ40m~50m、幅70m~80m、奥行約100mあり、巨大で圧倒された。

 

その後、乾燥したデカン高原のハイウェイを南下して世界遺産のハンピ(Hampi)のヒンズー教遺跡群を見学後、ムンバイを出発して約1,500kmでインド南西部のIT産業が盛んなベンガルール(Bengaluru)に到着した。

 

ハイウェイは片側2車線でオートバイも走行可能だ。まれに自転車で通行している人もいる。ハイウェイは有料であるが、オートバイでの通行は無料だった。通行車両は荷物が荷台から数メートル飛び出す超過積載の貨物トラックやワゴン車を改造した小型の乗り合いバスがほとんどだった。自家用車があまり普及していないためか、ハイウェイの交通量が少ない。

 

デカン高原のハイウェイ沿は荒れ地と農地が見渡す限り続く大地で、この時期は埃のためか遠方は霞んでいた。

 

インドにはカーストと呼ばれる職業身分制度が存在した。憲法上、カースト制は禁止されているものの社会的には依然存在しているようだ。IT産業は新しい産業のためカーストは存在しなかったという。そのためカースト制を嫌う優秀な人たちがIT産業に従事するようになり、インドのIT産業が世界でも屈指の競争力を持つようになったと言う。

(ムンバイChatrapati Shivaji Terminus=CST駅付近。写真奥は世界遺産の英国植民地時代の駅舎)

 

(ムンバイの象徴インド門=Gate of India. 1911年当時の英国国王夫妻のインド訪問を

記念して建てられた。)

  

 

(インド独立の父マハートマー・ガンディー)

(マハートマー・ガンディーがムンバイ滞在中に寝泊まりした部屋。現在はガンディー博物館となっている。)

(大学の年に一度の正装の日には女子学生はサリーを着る。)

(インドの典型的な食事は小麦を薄焼きしたパン=チャパティとレンズ豆のスープ風カレー)

(世界遺産エローラの最大石窟寺院カイラーサナータ寺院。一枚岩の岩山を掘って6世紀から9世紀ごろ造られた。)

(カイラーサナータ寺院はヒンズー教寺院だった。付近一帯には仏教の石窟寺院も複数ある。)

(デカン高原のハイウェイ)

(貨物トラックは過剰積載の貨物を運ぶ。)

(世界遺産ハンピのヒンズー教寺院と遺跡群)

(道路上の野生動物に注意の標識)

(ベンガルールの三輪タクシー=オートリクシャーの製造業者)

(ベンガルールの縫製業者)

 

(ベンガルール工科大学の授業を見学させてもらった。学生が研究課題を発表中)

 

ベンガルールからインド最南端経由チェンナイまで

 

ベンガルールから更に南下してケララ州(Kerala)の州都コチ(Kochi)を訪れた。コチは歴史の舞台になったエキゾチックな港町だった。

 

16世紀に南アフリカの喜望峰(Cape of Hope)経由インドに達する航路を発見したポルトガル人バスコ・ダ・ガマ(Vaso da Gama)が1502年に同地に立ち寄っていた。バスコ・ダ・ガマは3回目の航海で1524年に同地で没し、同地の教会に埋葬された(ただし、亡骸はその後、息子により祖国へ持ち帰られたが)。

 

コチは当初ポルトガルの植民地となったが、その後オランダ領となり、更にインド独立前までイギリス領となっていた。インドの前に訪れていたマレーシアのマラッカ市と同様な歴史的経緯があった。

 

インド南部のタミール・ナードウ州に入ると人々が違っていることが実感できた。インド人というよりタミール人として誇りを持ち、タミール語を話す。文字もインドの共通語となっているヒンディー文字と異なり、丸みを帯びた文字だった。

 

インドの大部分の州では当方が<どこの国から来たのか?>とうんざりするぐらい頻繁に道行く人々に聞かれたが、タミールでは聞いてくる人は少なく当方には心地よかった。

 

タミール・ナードウ州の州都はチェンナイだ。チェンナイはインドのデトロイトと呼ばれるほど自動車関連産業が盛んだった。多くの日系企業もチェンナイ郊外の工業団地に製造拠点を構えていた。当方は同地の工業団地にある日系のオートバイメーカーの工場を訪ねた。

 

チェンナイから北上中に当方のオートバイが初めて故障した。ハイウェイで一度止めたエンジンがかからなくなってしまった。そこでチェンナイ郊外で訪問した日系オートバイメーカーにコンタクトを取り、お世話になった。

 

日系オートバイメーカーは当方のオートバイが故障した場所に一番近い現地販売ディーラーへ連絡を取り、同ディーラーが故障した当方のオートバイをトラックに載せて修理工場まで運び、無料で修理をしてくれた。この手際良い対応に当方は大いに助かり、感謝した。

(ベンガルールからマイソールへのハイウェイは比較的自家用車が多かった。)

(インドで1,2と言われた藩王のマイソール宮殿はタジ・マハールの次に訪問者が多いという。)

(野生の象が生息する国立公園内の道路。マイソール=Mysoreからコインバトール=Coimbatore途中)

(ケララ州ゴアのSt. Francis教会には南アフリカの喜望峰沖経由インドへ到達する航路を発見した

ポルトガル人バスコ・ダ・ガマが埋葬された。)

(ケララ州のゴアから最南端のカニャクマリ=Kanyakumariへ行く途中)

 

(インド最南端のコモリン岬=カニャクマリ市)

 

(ティルチラッパリ=Tiruchirappalliのランガナータスワーミ寺院=Sri Ranganathaswayは城壁で囲まれたインド最大の

寺院町にあり、女性の大胆な裸像を入り口門内側に飾っていた。)

(インド南部は強い季節風を利用した風力発電用の風車が数多くあった。)

(チェンナイ付近で稲の田植えの用の苗を栽培していた。)

 

(チェンナイ郊外の工業団地にある日系オートバイメーカーの工場)

(故障した当方のオートバイを無料で修理してくれた現地ディーラー=YAMAHA Vishnu Motorの修理工場)

 

(インド東部ベンガル湾沿いのオディッシャ州=Odichaに入ると山が見える景色に変わった。)

 

(世界遺産コナルク=Konarkの太陽神殿)

(体重の2倍以上はあると思われる材木を運ぶ女性を見てびっくり。眠気がすっ飛んだ。)

 

 

インド東北の仏陀ゆかりの地

 

チェンナイからベンガル湾沿いに北上してインド最貧州のブッタ(ゴーダマ・シッダールタ)のゆかりの地であるブッダガヤ(Budhgaya)を訪れた。

ブッダガヤはゴーダマ・シッダールタ(ブッタになる前の名前)が出家後、菩提樹の下で49日瞑想後、悟りを開きブッタ(悟りを開いた人のこと)となった地として世界各国の仏教徒の聖地のひとつになっている。

 

その後ネパールへと進んだ。そしてネパールツーリング最後にインドとの国境付近にあるゴーダマ・シッダールタの生誕地ルンビーニ(Lumbini)を訪れた。

 

また、インド再入国後にはブッタが初めて説法を唱えたワラナシ(Varanasi)郊外のサナルートとブッタが入滅(没した)クシナガール(Kushinagar)をそれぞれ訪問した。それぞれの地も仏教徒の聖地となっており、多くのタイからの巡礼者を見かけた。

(ブッタガヤの仏陀が悟りを開いた菩提樹があるマハボディ寺院=Mahabodhi Temple)

(マハボディ寺院の菩提樹下に集まる仏教徒)
 

(ネパールのルンビニ=Lumbiniにあるゴーダマ・シッダールタ(後のブッタ)生誕の地にある寺院。寺院内部の土に生誕地の印として石が置かれている。)

(ゴーダマ・シッダールタが20歳代で出家するまで暮らしたルンビニ郊外のTilaurat(当時はKapilavastuと呼ばれていた場所)にあった父サクヤ国王の城跡にはタイからの巡礼僧が多数来ていた。)

(ブッタが初めて説法を説いたワラナシ郊外のサナルートに立つ仏塔)

 

(ブッタが入滅したクシナガール=Kushinagar。沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で横になったブッタは二度と起き上がることが無かったという場所に立つ寺院内には横たわるブッタの像が安置され、その周りを巡礼者が囲むように座っていた。)

 

ネパールから再入国後ワラナシ・アグラ経由デリーを目指す

 

ネパールからインドへ再入国後はガンジス河に面したヒンズー教の最大聖地ワラナシ(Varanasi)経由、インドで一番訪問者が多い白亜の巨大霊廟のタジ・マハールがあるアグラ(Agra)を目指した。

 

ワラナシのガンジス河沿いにはヒンズー教徒が沐浴したり、火葬する場所が多くあった。ワラナシのガンジス河で沐浴すれば一切の悪行が洗い流されるという。また火葬された灰はガンジス河に流される。ヒンズー教徒には墓が無いと知った。

 

デリー(Dehli)はオートバイのタイヤを交換するために訪れた。インドのどの都市も人が多いが、デリーは特に多いと感じた。日本の祭りか縁日で人々が繰り出しているような人混がある道路が多かった。 デリー中心部のラール・キラー(レッド・フォートとも呼ばれる)というイスラム支配下時代の城を見学しようとしたが、入場券販売所前に数百メートルの超長蛇の観光客が並んでいたため、見学を諦めた。

ガンジス河沿いのワラナシ=Varanasiのガート(Ghat)。ガートとは沐浴所。煙が上がる場所では死者を火葬していた。)

 

(人気があるダシャーシュワメード・ガート=Dashashwamedh Ghatで沐浴する人たち)

(世界遺産アグラのタジ・マジハール=Taj Mahal。ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズのために

立てた霊廟。ドームの高さは67mある。)

(ピンク・シティーの異名を持つジャイプール=Jaipurの旧市街。旧市街の全ての建物はピンク色に似た淡い茶色で統一されている。)

(デリーのオートバイ部品屋街でタイヤ交換をする。作業は路上で手作業で行う。)

 

(デリーの中心部ラール・キラー(レッド・フォート)と呼ばれる城塞を見学するために集まった大勢の観光客)

 

デリー以降のインド北西部は快適なツーリング

 

デリー以降のインド北部は標高が高いため涼しく、オートバイツーリングには快適だった。特にインドで一番美しい都市と言われるチャンディガール(Chandigarh)からマンディ(Mandi)経由チベット亡命政府があるダラムサラ(Dharamsala)へ至るルートはヒマラヤ山脈を控える高地のため涼しく、また雪をかぶる山々も見え、快適なオートバイツーリングを楽しんだ。

 

アムリトサル(Amritsar)郊外にあるアタリ(Attari)国境はパキスタンへ陸路で外国人が出国できる唯一の国境だった。そのためインド最終地はアムリトサルになり、同地でパキスタンの次に訪れるイラン・ビザの入手を待った。

 

パンジャブ州の州都であるアムリトサルはシーク教徒(男は頭にターバンを巻く)の本拠地でもあり、この地の男はほとんど頭にターバンを巻いていた。

(インド一美しいと言われるチャンディガール=Chandigarhの町並み)

 

インド北部のチャンディガールからマンディ=Mandiを経てダラムサラ=Dharamsalaへ行く途中の風景)

 

(ダラムサラ近くでは雪をかぶった4千メートル級の山々が見える)

(マンディ=Mandiからダラムサラへ向かう山岳道路)

(ネパール亡命政府があるダラムサラの町は山の頂上部にある。)

 

(アムリトサル=Amritsarの警察官)

 

道路の糞尿の試練

 

ヒンズー教では牛は聖なる動物として丁重に扱われ、都市の道路でも放し飼いなっている。道路中央に牛が寝転がっていても、車やバイクは上手に牛を避けて通行している。

 

民家が密集した狭い生活道路に牛が2~3頭いれば、牛の糞尿で道路は泥水化する。糞尿の匂いが鼻をつく。当方は牛の糞尿を避けながらオートバイを進めたが、匂いは避けられない。牛の糞尿から早く逃れたいといつも思って通行した。

 

農村部の田舎では牛糞は家庭での燃料として使われる。再生自然エネルギーでもあるが、人々が素手で湿った糞を藁(わら)と一緒にこね回す姿には驚きより、気持ち悪さを最初に感じた。円形状にわらと一緒にこね回された牛糞は道路上で天日干しされる。

(路上で天日干しされる牛糞)

 

世界一人口が多いことを実感

 

都市部の道路はいつも多くの人で混雑している。東京の新宿駅、渋谷駅、東京駅等の駅構内の人混みぐらい大都市の道路には人々があふれている。また、都市部道路の渋滞も酷いし、車やオートバイの交通マナーも劣悪だ。

 

一番危ない運転はオートリキシャと呼ばれる三輪のタクシーだ。急発進、急停車はもちろんだが割り込み運転が半端でない。相手が衝突を避けることを前提に割り込んでくる。多少の接触は当たり前となる。

 

当方は三輪タクシーの割り込み運転や無謀な運転をけん制する意味で、低速で当方に割り込みをかける運転手には肘鉄をくらわしたり、首から下げた笛をふいて注意を促した。

 

以上