東南アジア総集編(後半)ラオス・カンボジア・ベトナム(2022年12月~2023年1月) | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

東南アジア総集編(後半)ラオス・カンボジア・ベトナム4,600km

 

ラオス・カンボジア及びベトナムの政治体制は社会主義だが、中国と同様に市場経済主義の政策を取り資本主義の優れた部分も採用していた。ラオスとカンボジアは内戦やその後の社会の混乱のため経済的には隣国のタイよりも数十年遅れているような印象をもった。

                                            

ベトナムだけが、ベトナム戦争での痛手と混乱はあったものの、近年WTO(世界貿易機構)に加盟して、外国資本の投資を呼び込みこみ短期間で輸出主導の経済発展を遂げているような感じだ。

 

ラオスの走行ルート 約1,600kmは以下の通り:

 

タイ・チェーンコン(Chiang Khong)にて出国~ファーサイ(Huay Xay)にてラオス入国~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・ブラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)~メコン川沿いに南下~タケーク(Thakehk)~第二都市パクシ(Pakse)

(左側地図の赤線はラオスの走行ルート。右側地図の赤線はマレーシアからタイを経てラオスまでのインドシナ半島の走行ルート)

タイとの経済的な格差が大きい

 

タイへの北部チェンコーン(Chiang Khong))からメコン川を渡りラオス領ファーサイ(Huay Xay)へ入った。ラオス入国は初めてだ。どんな国だろうかと興味があった。ラオス領に入るとタイとの経済格差が一目瞭然だった。

 

ラオスの一人当たりの国民所得(GDP per Capita)は約2,500米ドル(約35万円)とタイの1/3~1/4程度だ。 ラオスの最初の町であったファーサイは、アフリカ諸国の街並み様子と似ていると思った。道路は舗装してあるものの広い路肩の赤土の未舗装部分が商店や民家の軒先までのびていて、建物の屋根や壁が全体的に赤茶に染まっている。

 

道路を走行する車やバイクは極端に少なく、町の賑わいは感じない。むしろ寂しい感じがする。

時間が数十年前に戻ったような感じだ。

 

政治体制は社会主義だが、経済は市場原理を導入しているため、民間では近隣の自由主義(資本主義)国々と同様に民間の活力を利用して、資本主義のルールを用いて経済活動を行っている。

 

しかしながら、人々のビジネスに対する対応が他の近隣諸国と少し違うような感じがした。ホテルやレストラン等の接待業なら顧客に愛想をよくするのが、ビジネスのイロハであるが、ラオスはそうでは無いようだ。

 

顧客に対して不愛想であったり、顧客を友達のように扱っている振る舞いがある。ビジネスを行うプロに徹し切れていないと感じた。また、商品やサービスを買った際に、かずかずの納得いかない対応を受けた。ラオスの習慣かも知れないが、不愉快だった。

 

ラオスは内陸国でもあり、共産主義の社会だからかもしれないが、人々が閉鎖的にも感じた。共産主義や社会主義の国々は人々がお互いに監視し合っていると聞く。不審な人物や外国人との接触があればスパイ容疑をかけられる可能性があると聞いたことがあるが、ラオスはどうであろうか。

 

ラオス北部では当方がオートバイで村々や町々を通過する際に街角や家の中から人々がじっと当方を見つめる。子供たちは無邪気に当方に手を振ってくれるが、大人の態度は明らかに違った。

 

ファーサイ(タイとの国境)から首都ビエンチャンまでのラオス北部

 

ファーサイ(Huay Xay)~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・プラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)まで850kmの山岳道路では上り坂の連続の後は下り坂の連続が続く。

 

ラオス北部は深い山の中に位置している。入国した国境から首都ビエンチャンまで4日間山岳道路を走行する。 神奈川県の箱根に至る道路が数百キロメートル続くようなイメージだ。

この道路を通る車は中国から物資を運んでいる大型の貨物トラックが主だ。

 

大型トラックの駆動輪が登り坂のカーブで舗装面を削っている。 削られた道路は赤土がむき出しのダート化している。大型トラックが赤土のダートを走ると、赤土の煙幕をはられたように前が見えなくなる。

(タイ北部の集落。高床式の家や倉庫が多い)

(大きな荷物を背負って運ぶ女性。ラオス北部)

(ラオス北部山岳地帯の集落)

 

(ラオス北部の幹線道路)

(町全体がユネスコ世界遺産となっているルアン・プラバーン=Luang Pharabanの歴史的町並み)

 

ベトナム戦争の暗い影

 

町全体がユネスコ世界遺産(Unesco World Heritage)に登録されているルアン・プラバン(Luang Prabang)にUXO Visitor Centerという国連(UN)がサポートする組織の展示施設がある。

 

UXOとは不発弾のことだ。1964~1973にソ連と中国が支援する共産主義の北ベトナムとアメリカが肩入れをする自由主義の南ベトナムが戦争していた。南ベトナムを支援するため米国は軍事介入を行っていた。

北ベトナムは共産主義勢力が事実上支配するラオスを経由して南ベトナムにいる共産主義ゲリラに中国製やソ連製の武器を送り込んでいた。ラオス経由で武器を運ぶルートを当時ホーチミンルートと呼んでいた。

 

米国は北ベトナムからの武器補給を絶つため、ラオス国内で激しい空爆を行っていた。特に爆弾の中に数百の小型の爆弾が入っている殺傷能力が高いクラスター爆弾が不発弾とし約3億個ラオス国内に残っていると言う。

 

通常の爆弾が破裂した際に被害が及ぶ範囲は半径50m位と限定的だったのに対して、クラスター爆弾はサッカー場3個ぐらいの広さに被害を及ぼしたと言う。投下されたクラスター爆弾の3割は爆発せず、不発弾として残ったという分析がある。

 

子供が爆弾とは知らずに不発弾のクラスター爆弾を土の中から拾いだして、爆弾で遊んでいるうちに爆発して犠牲になったり、地中に埋まっている爆弾の上で焚火をして爆弾が破裂して犠牲者が出たりしているという。

 

国連(UN)は地元の組織共同して不発弾の撤去や不発弾の危険性を啓蒙する活動を行っている。

 

50年前に終わった戦争だが、今までの不発弾処理のペースだと全部処理するには100年ぐらいかかると言う。

(ベトナム戦争当時の米軍爆撃機B52)

(米軍から投下された不発弾)

(米軍から投下されたクラスター爆弾。テニスボールより少し小さな子爆弾が数百発入っている。)

 

ラオス南部地域

 

ビエンチャン(Vientiane)からタケーク(Thakehk)を経由してラオス第二の都市パクシ(Pakse)までメコン川沿いに約700km南下した。 

 

このルートは川の流れのように平坦で直線的な道路だが、舗装面が劣化してダート化した部分が多い。3km~5kmの距離ごとに50m~100mのダート部分があるイメージ。また、舗装の張り替え工事区間も多い。

 

山岳ルートよりは格段に走行し易くなった。山岳ルートでは肌寒く感じていたが、メコン川沿いのルートは乾燥して陽ざしが強い。

 

メコン川沿いの南部地域の民家は大きく北部山岳地帯より格段経済的に豊かに見えた。

 

北部の民族はベトナム戦争では米軍が支援した南ベトナム政府側を支援し、内戦時代には政府と敵対したことから、内戦終結後に懲罰的な意味で貧しい北部の山岳地帯に押し込められているとも聞いた。

 

パクシから200km程度南下すればカンボジアとの国境となる。ラオスからカンボジアへ入国するつもりだ。そしてカンボジアからタイへ再入国する計画をしていた。

(首都ビエンチャンの凱旋門はパリの凱旋門を模倣したと言う。)

(ラオス南部の農家は北部より大きく、裕福そうに見えた。)

 

(舗装道路だが赤土のためダート道に見える。ラオス南部の幹線道路)

(ラオス第二の都市パクシ=Pakseを流れるメコン川と日本の援助でかけられた橋。 この辺りはメコン川両岸がラオス領となっている。)

 

ラオスからカンボジア入国~アンコールワット見学後、首都プノンペンを経て最南端のタイとの国境へ 1,200km

 

ラオス南部の都市パクシ(Pakse)から約150km南にノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名の国境がある。その国境からカンボジアへ入国後、ストン・トレン(Stung Treng)~シエム・リープ(Siem Reap)=アンコール・ワットの観光地~首都プノンペン(Phnon Penh)を経てタイとの最南端の国境コー・コーン(Koh Khong)のルート辿る。

 

カンボジアの目当てはアンコール・ワット(Angkor Wat)の見学だった。また、ベトナム戦争当時やカンボジア内戦時のニュースで首都プノンペンの名を度々耳にしたのでプノンペンにも興味があった。

 

カンボジアについて当方は事前の知識が欠如していた。あまりにも無知だった。世界的観光地のアンコールワットがあるくらいだからラオスより豊かだろうと思っていたが、実態はその逆だった。

 

カンボジア入国時の税関職員の国辱とも言えるたかり体質にはうんざりした。公務員の職務を忘れて私利私欲に走る税関職員の対応には憤りを感じ、カンボジアに対するイメージが当初は一気に悪くなった。

 

他方、首都プノンペンではカンボジア経済の復興のシンボルともいえるカンボジア証券取引所を訪れた。証券取引所の職員から見学を薦められたカンボジア内戦時の収容所を訪れた。

 

ポーランドにあった第二次世界大戦時のナチスドイツよるアウシュビッツ収容所を5年前に見学したことがあったが、プノンペンの内戦時の収容所の方が冷酷、非人道的な収容所だと感じた。

 

後述するが、当時この収容所で何が行なわれていたか、説明を耳にすると吐き気をもよおしそうになり、気分が悪くなるぐらいショッキングな場所であった。

(カンボジア地図。赤線は走行ルート。地図上部はラオス方面。地図左側はタイ方面)

 

カンボジア入国手続きで難儀(Nong Noi Kheane/ラオス側~Trapaeng Kreal/カンボジア側)

 

カンボジアの国境検問所では、少し日本語を話す外見上は税関係官のような男が当方に声をかけて税関事務所へ案内する。

 

当方は税関史だと思ったが、後で税関とグルになっている民間人だと判った。 この男が、税関の部屋へ当方を案内して、税関係官の前で税関費用は70米ドル(約9,000円強)だという。70ドル米ドルはカンボジアの平均労働者の10日~2週間分の給与に匹敵する金額だ。

 

当方はその男へ、<米ドルは持っていない。持っているのはラオスのお金だ。>と言って財布の中身を見せると、その男は無造作に当方の財布からラオスの札を抜き取り、数えはじめた。当方が持っていたのは50米ドル程度(約7千円)のラオス通貨だった。 (米ドルの現金は緊急時用として持っているが、通常は秘密にしている)

 

当方は、<何をするか!他人の金を勝手に数えて>と、その男に文句を言いながら、お金を奪い返した。

そして、<税関にはお金は払わないし、払う義務は無い。税関は他国のように無料でバイクを通関させる書類を作成する義務がある>と持論を唱える。

 

その男は<一時輸入許可の書類を作成するための申請書を所定の形式でウェッブサイト上で作成せねばならない。その為の費用だ>と言うが、当方は<領収書を出せないお金は支払わない>とその男の要求をつっぱねる。そんな言い合いを繰り替えしたが、全く進展が無い。

 

当方が<日本大使館と相談する>と言い出すと、他の税関史が<上司が来るので待ってほしい>と言う。

しばらくして、税関長と名なる男が来て当方へ<税関では一切お金は請求しないが、自分で一時輸入許可書の作成の可否を審査する申請書をウェブ上で作成してください。その申請書に基づき、私が一時輸入を許可するかどうか審査します。>と言う。

 

< ええ?ウェブ上で申請書を作成する?>当方は数多くの国境を越えてきたが、そんな事は今まで聞いたこともやったことは無かった。

 

税関史は当方がどのように出るか伺っているようだった。そしてどこかへ行ってしまった。 当方はどのウェブサイトでどのようにするか判らない。他の税関職員も非協力的だった。 全員がグルになって事情に疎い外国人からお金を巻き上げることを考えているようだ。 

 

後日フェースブックの情報交換のグループ限定に投稿したら、<おれは税関で200米ドル払ったとか>、<40米ドルで済んでラッキーだった>とかとの反響があった。

事実、当方は米ドル紙幣を含む札束の金額を数えている税関職員を目撃した。その税関職員は当方が見ていることに気づき、お金を数えるのをやめて、当方から見えない場所行ってしまった。

 

ラオスのSIMで当方のスマホがインターネットに接続できたため、ウェブ上で申請書の記入を試みた。

しかしながら、手続きするウェブサイトが途中で止まり、申請書作成まで辿り着けない。そして、当方が文句を言い続けているのに対して、税関史は何か思ったのか<無料で申請書を作成する>と言い出す。

 

当方はビザ代(35米ドル)以外のお金は払わなかったが、この国境検問所を通過するのに3時間弱かかってしまった。 

 

税関職員を含むここで働く職員は暇を持て余し、スマホでゲームに興じたり、飲食や仲間とのおしゃべりで時間をつぶしていた。また、税関長は国境検問所に詰めているのでではなく、自宅にいる様子だった。

 

職員が必要な時にバイクで税関長宅へ行き書類の決済を仰いでいるようだ。このような税関職員の勤務状況で、この国の発展は大丈夫だろうかと疑ってしまう。

 

カンボジア側の入国手続きに時間がかかったため、国境から一番近い70km先の町へたどり着くまでに日没となり、車の通行がほとんどないダート道を2時間程度かけ埃まみれになりながら、ストン・トレン(Stung Treng)の町へ到着した。 

 

(カンボジア側の国境検問所建物。カンボジア側の道路は70km先までダート道だった。)

 

カンボジア観光の一押し。アンコールワット(Angkor Wat)遺跡群の見学

 

シエム・リープ(Siem Reap)と言うカンボジア入国2日目に到着した町の近郊に、ユネスコの世界遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡群が数キロメートルの広い範囲で点在している。

 

アンコール・ワット遺跡群は広範囲に点在しているため、オートバイは重宝した。

普通の観光客はタクシーや2人掛け乗用キャビンを牽引するバイク(Tuktukと言う乗り物)等を雇わねければ遺跡群を回れないほど広い。

 

アンコール・ワットは12世紀から約600年栄えたクメール帝国の城塞都市として機能していた。遺跡の周りには水を入れた広い外堀を張り巡らせ、本殿の周りには頑丈な石造りの外壁を備えて外敵の侵入を難しくした。

本殿の上階には石造りの大きなスイミング・プールのような施設が数ヶ所あった。いざと言う籠城時の水の確保かハレームでの水浴に使ったのだろう。 粗づくりの石造りの遺跡ではあるが、その規模には圧倒される。

 

アンコール・ワットの他にも日本政府の資金援助で修復中のアンコール・トム(Angkor Thom)や長い年月で樹木の根が遺跡に絡まったプラサット・タプロー(Prasat Ta Prohm)等を見学したが、規模や保存状態ではアンコールワットに及ばない。 

(アンコールワットを外堀から眺める。)

 

(アンコールワットの遺跡群はこのような森の中に点在する。)

 

(日本の援助で修復中のアンコールトムの遺跡)

(アンコールワット王朝時代の服装)

 

(長い年月を経て樹木の根が遺跡に絡みつくプラサット・タプロー遺跡)

 

首都プノンペン(Phnon Penh)の内戦時代の収容所博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)

 

カンボジア証券取引所で面談した若手の職員にカンボジア内戦時代の収容所が博物館になっているので是非見学したらよいと薦められた。博物館の名前はトウール・スレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)と言うショッキングの名前だった。

 

カンボジア内戦は1970年代初頭から1991まで続いた。

クーデターで政権を握った親米右派のロン・ノル(Lon Nol)将軍率いる政権に対して、ポル・ポト(Pol Pot)率いる親中国の共産主義クメール・ルージュ(Les Khmers Rouges)とクーデターで政権から引き下ろされたシアヌーク(Norodom Sihanouk)国王派が共同して戦ったことから始まった。

 

最初の内戦ではロン・ノル将軍派が負けて、ポル・ポト派のクメール・ルージュが勝ち、クメール・ルージュがカンボジアを支配した。

 

この支配が恐怖政治の始まりで、クメール・ルージュが首都プノンペンで政権を握った1975年から1979年の間に170万人とも言われる主に都市部の知識人がポル・ポト政権のクメール・ルージュ派により大量虐殺された。

 

ポル・ポト政権は当時の中国の文化大革命の影響を受けて、農業を中心とした原始共同社会を造ろうとした。原始農業共同体に医者、教師、弁護士等の知識人は邪魔だった。都市部の住民は農村へ強制移住させられ、知識人と言う理由だけで強制収容所に入れられ多くの人が拷問の上、虐殺されたと言う。

 

見学したトウール・スレン(Tuol Sleng )収容所は元高校だった建物だった。そこに12,000~20,000名の人々が収容され、確認された生存者は12名だったと言う。同様の極秘の収容所は200か所あったと言う。

 

クメール・ルージュは1979年に反中国のベトナム軍によりプノンペンから追い出され、ベトナムが支援する親ソ連のヘン・サムリン(Heng Samrin)が政権に着いた。

 

しかしながら、親ソ連(=親ベトナム)のヘン・サムリン政権は国際的に承認されず、カンボジアの辺境地に逃れたポル・ポト派(クメール・ルージュ)がカンボジアの正式政権として国連(UN)を始め主要国で認められていたと言う。

 

1991年にカンボジアで和平が成立するまで、サン・ヘムリン派に対してクメール・ルージュとシアヌーク国王派等が連合政権を作り、内戦を展開していた。 つまりカンボジアは1970年~1991年までの20年間内戦状態だった悲惨な歴史がある。 

 

内戦を長引かせた理由はソ連と中国の対立、更にソ連と米国との対立があり、カンボジア内戦の当事者達はそれぞれの大国の支援で大国間の代理戦争を展開していたとも言う。

(後ろ手に縛り鉄棒につるし上げる拷問。拷問を受けた人が気絶すると糞尿が入っている瓶に頭を入れられて覚醒されたと言う。)

(高校の教室を使った独房)

 

(拷問を受けた人を運ぶ看守たち。この絵は元画家だった生存者が当時の様子を描いた。)

(人骨は収容所の証拠品として展示されている。)

 

近隣諸国との経済格差は歴然

先にタイからラオスへ入国した時には時代が数十年後戻りして、アフリカ諸国に入ったような印象をうけたが、そのラオスからカンボジアへ入国すると、カンボジアが更に経済的に遅れていることが直ぐに判った。

 

入国したカンボジア国境から一番近い主要都市のストン・トレン(Stung Treng)までの70kmは未舗装のダート道であった。主要都市につながる幹線道路がダートとはアフリカの最貧国と同じだ。

 

アンコールワットがあるシエム・リープ(Siem Reap)と首都プノンペンをつなぐ主要幹線道路にはそれなりの交通量があったが、ストン・トレン~シエム・リープのような地方の幹線道路では車の数はまばらで、自動車が全く普及していないことを示していた。

 

農業人口が多い地方では当方が30年前のタイ旅行時に地方で多く見た耕運機に運搬車を牽引させた運搬車に農作物や人々を載せ運んでいた。ラオスでは見かけた小型ピックアップトラックやトラクターはほとんど見かけなかった。

 

交通量が少ないので当方のバイク・ツーリングは快適だったが、農作物の運搬を始め、人々の暮らしが厳しいことを物語っていた。

 

因みに2021年の統計ではタイの一人当たりの国民所得=年間収入(GDP)は約7,200米ドル(約75万円)、ラオスは約2,600米ドル(約27万円)、カンボジアは約1,600米ドル(約17万円)となっている。日本の一人当たりのGDPは約40,000米ドル(約420万円強)だった。

(地方幹線道は交通量が極めて少なかった。)

 

(カンボジア中部の湖の水を利用して灌漑した広大な水田)

(幹線道路沿いの売店で休憩。左側の車両は中長距離旅客用のミニバス)

 

町の人々は親切だった

入国時の税関職員の態度から受けたカンボジアの印象は悪かったが、町の人々は親切だった。

プノンペンの宿ではオートバイを路上駐車していたが、宿の従業員が夜には当方のバイクを宿の店舗内に運び込み、また朝には店舗からバイクを路上へ出だしてくれた。少し骨が折れる作業を黙々としてくれた。

 

カンボジア証券取引所で面談した職員は前日にメールでアポイントをお願いしたら、即答してもらい面談が可能となった。カンボジアの事について歴史や地理等いろいろ教えてもらった。

 

コー・コン(Koh Khong)の宿では、カンボジア最後の夜とあって、手持ちの現金があまりないと当方が宿の管理人へ伝える宿代を約3割値引いてくれた。

 

バイクで立ちごけした際には、通りすがりの人が助けにきてくれた。助けてくれたカンボジア人は当たり前のことをしたかのように、当方がお礼をいう前にさっさと立ち去った。

 

20年余りにわたる悲惨な内戦を経験したからこそ、相互扶助の精神が強いと感じた。また挨拶もしっかりしている。当方が声をかけても、必ず笑顔で返事が返って来る。外国人慣れしているともいえるが、町の人々は気持ちがオープンとの好印象を持った。

(コー・コン=Koh Khongで宿泊した宿)

 

ベトナム・ レンタルバイクで1,800km

 

ハノイ(Hanoi)~北部ハザン・ループ(Ha Giang Loop)~ラオ・カイ(Lao Cai) 約800km

自分のオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送している期間を利用して年末から約2週間の予定でハノイを中心としたベトナム北部地域へ行くことにした。

 

ベトナムには当方が高校生頃に終わったベトナム戦争や社会主義国家でも市場経済と外国資本を招きいれた開放経済を取り入れたベトナムの経済発展に興味があった。しかしながら、日本等の外国籍のオートバイで走行するには地元のガイドと特別な許可が必要であり、ハードルが高い。

 

そのような理由で、ベトナムは当方のツーリング計画には無かったが、現地でレンタルバイクを利用したツーリングなら可能だ。 ただし、ベトナムは国際運転免許証についてジュネーブ条約締結国でないため、日本の国外運転免許証(International Driving Permit)は有効でないが、バイクレンタル業者は何も言わなかった。

 

ハノイから中国と国境を接するハザン県(Ha Giang)にある約300kmの山岳部の周回ルート(Loop)上では石灰岩の浸食が作り出したカルスト地形の絶景が観られる。その絶景はユネスコの世界遺産にも登録されている。 バイク・ツーリングでは一押しのルートだ。

(ベトナム地図上の赤線は走行ルート)

 

ハノイ(Hanoi)~ハザン(Ha Giang) 約300km

ハノイでYAMAHA製の135ccのスクーターを1日10米ドルで借りた。ハノイ市内のみのレンタルバイクの利用ならもっと安いのだが、遠距離での走行はプレミアム料金がかかる。 

 

ハノイでのオートバイの運転マナーは当方がツーリングした東南アジア6か国で一番悪かった。 

信号無視、逆走は当たり前ながら、当方が直進する所に前方から来るオートバイが当方の前を横切り左折する。非常に危ない運転マナーである。また、対面通行の道路を車もオートバイも逆走していたため一方通行の道路と勘違いした。インドネシアのスラバヤでも、オートバイの運転マナーはこれほど酷くなかった。

 

ハノイから100km位遠ざかると道路の交通量が減り、やっと地方道を走行している感じになる。正月直前の道路に国旗の横断幕を付けた飾り付けが通過する町々であった程度の記憶しか残らなかった。

 

ハザンの町が100km程度に迫ると周囲の景色が変わってきた。平地から突然そびえ立つ小山が多くなった。石灰岩の地層が長い年月の風雨で浸食されたためだろう。 300kmの道のりながらハノイから8時間近くかかってハザンの町に到着した。

(首都ハノイの証券取引所建物)

 

(首都ハノイの道路には多くのバイクが走っていた。)

 

(ハザンの手前100kmぐらいになると山の景色となる。ハノイで借りたスクーターでツーリング)

 

ハザン・ループ(Ha Giang Loop)1泊2日の走破(約300km)

全長約300kmのハザン・ループ(周回道路)は狭い山岳道路である。深い山の中には山腹を段々畑にして農業で生計を建てている人が多いのだろう。山里の集落の民家はどれも小さい。

 

中伊豆の山岳地帯のような狭い道だ。小型のマイクロバスや土砂を運ぶ大型ドラックも通行するが、ほとんどは地元の人が小型オートバイで通るか、観光客がレンタルした小型バイク位しか通行しない。くねくねした登り坂のカーブを突き進むと視界が広がり、雲がかかった山々の姿が見える。深さ数百メートルの断崖を眺めると足がすくむようなところもある。

 

当方は周回ルート(ループ)の中間地点であるバン・バン(Bang Van)の町で一泊したのみだった。

 

バン・バン(Bang Van)の町では宿探しに苦労した。

やっと見つけたゲストハウスは古く、暖房設備も無い所だった。その割には割高な価格を提示してきた。  

バン・バンは中国との国境近くの山岳地帯で暖房設備が必要なほど夜間は冷える。暖房設備が無い部屋では当方が吐く息が白くなるほどだった。

 

周回道路のツーリング2日目になると風光明媚な絶景にも目が慣れて、多少の事では驚かなくなるが、ハノイから一般道路を丸一日かけて訪れる価値が十分あった。

 

(ハザン・ループの山岳道路)

 

(高さ数百メートルの切り立った崖)

 

(地面から生えたような山々)

(寒かったバン・バン=Bang Vanの町)

 

ハザン(Ha Giang)~ベト・クアン(Viet Quang)~ラオ・カイ(Lao Cai)180km 

ハザン・ループの後は、ラオス国境に近い北部山岳地帯のサパ(Sapa)を目指すことにした。

サパには複数の山岳民族が集まる市場が(Market)がたつと言う。 しかし考えが甘かった。

サパはハザンより標高が高く、冬場に雪が降る山もあると言う。 

 

サパの手前のまだ標高が高くない平地のラオ・カイ辺りで、持っていた服を全部着込んでも夕方のオートバイ走行は寒い。

 

結局サパへ行くことをサパ手前40km~50kmで断念。より暖かい南東方向(ハノイ方向)へと進路を変更した。

 

このルートで通過した集落や町の民家は立派だった。3階建ての家もある。茅葺屋根の新築民家でも大きい。日本の県道クラスの地方道はしっかり舗装がされ、一般道から奥に進む農道のような道路でもコンクリート舗装がしっかりと施されていた。この豊かさはどこからくるのだろうと思った。

 

ラオ・カイ(Lao Cai)の町は県庁所在地だけあって、町の規模が大きく、東南アジアの国とは思えないほど立派なビルや商店が建ち並んでいた。

(田舎の真新しい大きな民家)

(このぐらいの規模の民家は多かった。)

(ラオ・カイ中心部の大きなロータリー)

 

ラオ・カイ(Lao Cai)~ホア・ビン(Hoa Binh)~ニン・ビン(Ninh Binh) 

ラオ・カイからホア・ビンまででも約300km強の距離があるので、一般道での走行は一日がかりだ。

 

ホア・ビン(Hoa Binh)はホア・ビン県の県庁所在地でハノイにも通じる紅河(Red River)沿いの町だった。このあたりはハノイからも100km程度の距離となり、主要な都市も点在しているためか交通量が多くツーリングを楽しむと言うより単なる移動のためのツーリングだ。

 

ホア・ビンの周辺ではまだ肌寒いのに、水田では田植え準備が進んでいた。

 

ニン・ビン(Ninh Binh)で宿泊したホテルは家族経営の感じが良い小さなホテルだった。その一角は10年ほど前に区画整備され、観光客誘致を主眼に開発されたと聞いた。

同じく区画には5~6階建ての似たようなホテルが多数あった。 ベトナムの町とは思えないような西洋風のビルと大型住宅がある場所だった。

 

ニン・ビンの町自体には観光スポットはあまりなかったが、周辺には平地から垂直に立つ奇岩の山々が多く思わず目を見張った。ニン・ビン周辺は小さな河川を利用した水路が発達している。その水路を観光にも利用している。

昔ながらの手漕ぎの小型船に観光客を乗せて、周囲の奇岩の山々を見物しながら水路・運河でのちょっとした船旅気分を与えてくれる。

(ニン・ビンへの入口門)

(ニン・ビン郊外の河川。観光用の手漕ぎ船に乗って景色を楽しむことができる。)

 

(ニン・ビン郊外には地面から生えたような小山が多い。)

 

ニン・ビン(Ninh Binh)~ハイ・ホン(Hai Phong)~ハロン湾(観光船ツアー)Ha Long Bay~ハノイへ戻る(350km)

ハノイ周辺100km圏内は人口密度過密地帯でもあり、産業の集積地でもある。 ハノイの西約100kmに位置するハイ・ホン(Hai Phong)には外国資本が多く進出する工業団地があると言う。

 

実際にニン・ビンからハロン湾へ通じる道路走行中に大手韓国企業の工場を目にしたり、現在造成中の工業団地を目にした。

 

この地域に来たのはベトナム北部では観光地として有名なハロン湾の奇形岩群を見るためだった。約70~80名ぐらい乗船可能な3階建ての観光船で洋上に点在する奇岩群や海上からそそり立つ島々ある海域を約6時間航行する。途中2つの島にも上陸して石灰岩が作り出した鍾乳洞を見学する。

 

最初の1時間は奇岩や海底から垂直に盛り上がったような島々に感動したが、どの島々を見ても違いが判らず最初の感動が少しずつ薄れていく。3時間ほど経過すれば、どの島を見ても同じようにしか見えず、景色に飽きた。

 

ベトナムは思っていたより広かった。 

ベトナム北部地区を10日でツーリングした距離は1,800km弱となった。

北部のハノイから南部のホーチミン市までの直線距離は1,100kmと東京から長崎までの距離に匹敵する。ベトナム南部までオートバイ足を延ばすとすれば1ヶ月でも足らないかもしれない。

 

 

(ハイフォン郊外の大手韓国自動車メーカーの工場)

 

(ハロン湾に浮かぶ奇岩群)

 

(ハロン湾と観光船)

 

以上