東南アジア総集編(前半)マレーシア・インドネシア・タイ 7,200km
(赤線が2022年9月~2023年7月のアジア・中近東ツーリングの実際の走行ルート。紫色は2017年5月~2018年7月のユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断ルート。ブルー色の線は2019年5月~11月のアフリカ大陸3/4周とアラビア半島横断ルート)
何故マレーシアから出発したか?と問われれば、出発したタイミングと輸送コストが起因する。
当方は当初トルコのイスタンブールからイラン・パキスタン・インドを経て東南アジアへ至り、インドネシア・東ティモールを経てオーストラリアへ至るツーリングルートを描いていた。
しかしながら、コロナ禍で海上輸送がコンテナー不足や港湾での貨物の停滞、船腹の不足等で混乱して、輸送業者は中古オートバイのような個人貨物の取扱いを敬遠していた。
そのため、海上運賃の見積もりを入手するまでに数ヶ月の時間を要し、トルコへ輸送するには季節的に遅くなってしまうことが影響した。トルコおよびイランの冬場は道路が凍結するため、冬季の走行は避けなければならない。
オーストラリアへの輸送も検討したが、輸送業者がなかなか見つからないこと、オーストラリアへ中古オートバイを海外から持ち込む際の輸入コストがスチーム燻蒸消毒等を含む業務のため割高になること、更にオーストラリアから東ティーモールへ渡る際の海上輸送業者が見つからなかったため諦めた。
結局、マレーシアのポートケラン(Port Kelang)へオートバイを海上輸送して、同地からツーリングをスタートした。
計画した走行ルートは東南アジアからインドへ抜けパキスタン・イランを経てトルコのイスタンブールを目指す。イスタンブール到着後は3つの選択肢を用意した。
第一の選択肢はドバイまで南下してオーストラリアまでオートバイを輸送して、オーストラリアから帰国すること、第二はイスタンブールからジョージアを経てロシア・ウラジオストックまで行き、フェリーで韓国経由帰国すること、最後の選択肢はスペイン等欧州まで行きオートバイを同地で一時的に預ける、あるいは同地から日本へ送り返すことだった。
結局、スペインのマドリッドがツーリングの最終地点となり、同地から日本へオートバイを海上輸送にて送り返すことになったが。
更に、未解決な課題があった。閉鎖中のミャンマーの陸路国境がいつ再開されるかだった。
陸路国境が開けば、タイからミャンマーを経由してインドへ入国できる。しかし、国境が閉鎖されたままだと、オートバイを東南アジアからインドへ海上輸送するか、ネパールへ空輸せねばならない。
(当初計画したアジア・中近東・オーストラリアの走行ルート(案)。タイからインドへミャンマー経由陸路で移動する計画だったが、結果的には実現できなかった。)
結果的にはミャンマー国境は閉鎖されたままで、タイのバンコクからインドのムンバイへオートバイを海上輸送した。その時点で当初考えていたイスタンブール到達後ドバイ経由オーストラリアへ渡る選択肢は時間的に難しくなった。
東南アジア6カ国ツーリング中の前半はマレーシア、インドネシア及びタイだ。後半はラオス、カンボジア、そしてベトナムとなる。 インドネシアとベトナムはレンタル・バイクを使用してのツーリングだった。
前半は自由主義国家群であり、東南アジア諸国の中では経済が開放された国々で、人々も外国人に対してオープンで、外国人観光客を歓迎してくれる。
他方、後半の3カ国は社会主義だが市場経済主義を採用して経済発展に繋げようとしている。社会主義体制のためか、あるいは市場経済主義を導入しているが歴史が浅いためか、人々は閉鎖的である印象をもった。
マレーシア 1,900km
(マレー半島のマレーシア走行ルート=赤線)
首都クアラルンプール(Kuala Lumpur)に隣接するポート・ケラン(Port Kelang)
にて輸入手続きをした。当方が空路クアラルンプールへ到着後5日目にオートバイを引き取ることができた。その際の輸入手続きは比較的にスムーズであった。
マレーシアは高速道路網が発達していた。そして、オートバイの通行は無料となっていた。
当方は未舗装のダート道でも問題なく走行できるようにと250ccのオフロードタイプのオートバイでツーリングしたが、マレーシア及びその後のタイでも大型のオートバイの方が道路事情には適していると思った。
マレー半島を2回に分けて合計1,900km走行した。
ポート・ケランからマレーシア領ボルネオ島へは貨物のみを運ぶフェリー船が2週間に一回ぐらいとあるようだった。しかしながら、輸送するタイミングが合わないと日時がかかりすぎることと、更にフェリー船の貨物運賃が高いことを事前の調査で知った。そのため、マレーシア領ボルネオ島へ渡ることは諦めていた。
前半はクアランプールからマレー半島を南下して、マラッカ(Malacca)~ジョホールバール(Johor bahru)~クアンタン(Kuantan)~クアラルンプール(Kuala Lumpur)へと戻った。
このルートで印象に残ったのはマラッカだった。マラッカは15世紀にポルトガル人が入植後、オランダそしてイギリスの植民地となった歴史があり、その歴史的建物が良く保存されていた。西洋諸国のアジア進出の歴史が刻まれた場所であり、またインド人街や中国人街も残っているので旅情が味わえる港町だった。
逆にがっかりした場所としてはジョホールバールである。マレーシア第二の都市であるが、同地で宿泊した宿のオーナーに<ジョホールバールはシンガポールへ通勤する人のベットタウンであり、見るべきものはあまりない>と教えられたが、その通り見るべきものが無い都市だった。
後半はクアラルンプール~キャメロン・ハイランド(Cameron Highlands)~ペナン島(Penang)~コタバル(Kota Bharu)の約1,000kmで、タイへ入国するまでのツーリングであった。
キャメロン・ハイランドは高地であったため、熱帯のマレーシアでも毛布が必要な位寒かった。キャメロン・ハイランドは涼しい気候を利用した茶の栽培やイチゴの栽培が盛んであり、お茶栽培のプランテーションを見学した。
(マレーシアのポート・ケラン港の輸入倉庫でオートバイを引取り後、ツーリングを開始する。)
(クアラルンプール郊外のプーチョンの幹線道路)
(マレー半島の地方道)
(マラッカ海峡に面するマラッカ市の海へ通じる運河)
(マラッカ市のインド人街)
(15世紀にポルトガル人がマラッカへ上陸した当時の想像絵)
(インド洋に突き出たマラッカの海上モスク)
(ユーラシア大陸最南端のタンジュン・ピアイ=Tanjun Piai。沖合のかなたにはシンガポールの港が見えた。)
(マレーシアのオートバイライダーの集団)
(キャメロン・ハイランズのお茶畑で茶葉を袋につめる労働者)
ペナン島とマレー半島の間には2つの橋が架かっていた。
第二ペナン大橋の長さは十数キロメートルの長さに及ぶ。オートバイは幅2.5mほどの左右をコンクリートの製の低い壁に囲まれた区間を走行するため時速80kmでの走行では、通行帯が非常に狭く感じられて、橋から海上の景色を見る余裕はほとんど無かった。
ペナン島では、観光地から離れた島の西側にあったゲストハウスに投宿した。島の西部地域はあまり観光化されておらず、人口も少ない。また、物価もジョージタウンより安い場所であったので気に入った。
ペナン島の後はタイへ入国するためにマレー半島を横断して、半島の東部コタバルへと移動した。外国籍車両を使ってタイへの入国は2019年ごろから法律によって規制されていた。
同規制では外国車両を使って入国する場合はタイ人のガイド同伴と事前の許可が必要とのことだったが、規制が徹底されていない入国管理事務所があった。
規制が徹底されていない国境の一つはコタバルからタイへ入国するルートだった。
(ペナン島西部の高地より西側の海岸地帯を見晴らす。)
(ペナン島南部の海岸と漁船)
(世界遺産ペナン島のジョージタウンの旧市街の歴史的建物群)
(マレーシア半島北部を横断してコタバルへ向かう途中の高地。夜間は野生の象が道路を横断すると言う。)
タイ 3,200km
前述したように外国籍車両でのタイ入国には規制が導入されていたが、国境検問所によっては規制が徹底されておらず、従来通りタイのガイド無しでも入国が可能だった。
当方はタイのパタヤで長年オーバーランダー向けのゲストハウスを経営するイギリス人と事前に連絡を取り合い、同イギリス人にタイのオートバイ保険と入国時の書類をそろえてもらい、マレーシアのコタバルからスンガイ・コロク(Sungai Kolok)国境からタイへ入国した。
その後、細長いマレー半島を北上してバンコクを目指した。マレーシア国境からバンコクまで1,300kmと比較的長い直線的なルートだった。幹線道路は片側2車線のハイウェイであり、高速での移動が可能だった。
道路沿いの大きな仏教寺院や仏像を頻繁に目にしてイスラムの国(マレーシア)から仏教国へ入ったという実感が湧く。当方は見学を兼ねて仏教寺院を訪問して、旅の無事を祈念した。
タイでは親切な人々に出会った。連日のオートバイツーリングで疲れがたまり、休憩を兼ねて道路わきの食堂でスープのみを求めたら、スープ代は無料でいいと言ってくれた食堂のおかみさん、休憩したドライブインで土産用のカットフルーツを<持って行け>とくれた土産屋の店主、多くのゲストハウスでは室料金を割り引いてくれた宿のオーナーの人々等。
首都バンコクはタイにしてタイにあらずとの印象を持った。当方がバンコクを観光で訪れたのは1980年代末であった。その当時はバンコクにはさほど多くの高層ビルは無く、高架の高速道路も無かったと記憶するのんびりとした時代だった。
しかしながら、現在のバンコクのビジネス街は働く人々も、オフィースビルも東京都心のビジネス街と変わらず、休憩時にはスターバックスのコーヒーを片手に持ち急ぎ早に歩いているOLの姿を多く見かけた。
それもそのはずで、バンコク首都圏の一人当たりの国民所得(GDP)は他県の2倍ほどの17,000米ドル(200万円~230万円)と日本の1980年代と同じレベルになっている。
バンコクからタイ内陸部を経てタイ北部を目指した。走行ルート上にはアユタヤ(Ayuthaya)、スコタイ(Sukhothai)やチェンマイ(Chiang Mai)等タイを代表するような観光地があり、当方は世界遺産を巡る等の観光をした。
アユタヤとスコタイの間のナコン・サワン(Nakhon Sawan)ではガイドブックに載っていない寺院を宿の主人に勧められて訪れた。その寺院Wat Sri Uthumpornは当方が見た限り、寺院の内装がタイで一番絢爛豪華に施されていた。寺院というより王宮のような内装だった。
感心したのはラオスとの国境に至る道路インフラが立派なことだった。当方の経験では国境近くの辺境地の道路は,多くの場合、舗装がはがれたり、未舗装のダートのダタガタ道であった。
しかしながら、国境に通じるチェン・コーン(Chiang Khong)への道路は他の主要幹線道と同様に片側2車線の立派なハイウェイだった。
当方はチェン・コーンからファーサイ(Huay Xay)国境を経由してラオス(Laos)へ入国した。
その後、ラオスとカンボジアを経てコー・コン(Koh Khong)国境経由タイ南部へ入りパタヤを経てバンコクへ戻った。そしてオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送した。
バンコク以北のタイの走行ルート)
(タイ南部の道路沿いには高さ20m程度の大きな鶏の像が立っていた。鶏を祭った寺院も多かった。)
(首都バンコクのビジネス街の高層ビル群)
(バンコクの商業地区)
(タイ中部スコタイの世界遺産の仏教遺跡)
(アユタヤの仏教遺跡群の中に木の根にうずもれた仏頭があった)
(ナコン・サワンのWat Sri Uthumporn)
(Wat Sri Uthumpornの内部装飾)
(チェンマイへ向かう途中に出会ったタイ人の68歳のシニア・サイクリスト。タイ一周ツーリング中と言っていた。)
(ドライブインの土産物店のオーナーと同オーナーがくれたカットフルーツ)
(パタヤでお世話になったイギリス人が経営するゲストハウス)
(バンコクの港からムンバイへ海上輸送する当方のオートバイ)
インドネシア(レンタルバイクにて2,200km)
インドネシアには約4週間滞在した。11月には雨季が始まるため、マレーシアで一週間程度のマレー半島南部をツーリングした後、自分のオートバイをクアラルンプールのオートバイ店に預けて、防水バックパックに最小限の荷物をいれて10月初旬にまずバリ島へと飛んだ。
インドネシアのビザ(アライバル・ビザ)の滞在期限は1ヶ月のため、一週間づつバリ島、スラウェシ島南部、ジャワ島東部とジャワ島中西部の4地域に分け、それぞれの地域で120ccクラスのスクーターを借りてミニツーリングをした。 ただしジャワ島中西部は移動距離が長いため、レンタルバイクではなく鉄道を利用したバックパックの旅であった。
インドネシア全島をカバーするバイク(オートバイ)のレンタル業者は無く、島ごとあるいは地域ごとにバイクを借りた。ただし、レンタルバイクの業者を探すため、それぞれの地域で丸一日費やした。これにはなかなか骨が折れる。
バリ島はリゾート地として世界中に知られているが、州都があるテンバサル(Denpasar)周辺以外は意外と素朴な場所であり、レンタルバイクでも景色を見ながらゆったりバイクツーリングを楽しめる場所だった。
全島一周で約500kmの距離があり、一日の走行距離を約100km~150kmとして、デンバサル(Denpasar)~アメッド(Amed)~ロビナ(Lovina)~メデウィ(Medewi)~ウブド(Ubud)~クタ(Kuta)の
順に宿泊した。
乾季と言えども午後3時ごろには雲行きが怪しくなり、ほぼ毎日夕立が降る。夕立を避けるため、午後3時ごろまでには目的地に到着できるようにした。
バリ島北部のアメッドからロビナ区間の一部では海岸沿いの丘陵地を通る道路を走行する。このルートは静岡県の西伊豆を小規模にしたような風景が広がり、当方は気に入った。
ウブドとクタは州都デンバサルの周辺地域とあって、観光客が多く道路も渋滞しているので当方の好みの場所ではなかった。
スラウェシ島南部はあまり観光された地域では無く当方は気に入った。当方はレンタルバイクで約1,000kmとインドネシアのツーリングでは最長距離を走行した。
走行ルートは州都のマカッサル(makassar)~パレパレ(Parepare)~タナトラジャ(Tana Toraja)~シワ(Siwa)~シンジャイ(Sinjai)~マカッサル(Makassar)。
観光ガイドブックにはあまり多くの場所が紹介されていない分、タナ・トラジャ以外は外国人観光客は見かけなかった。当方が走行した南部地域の東側海岸沿いは田植え中の田園や畑が多く、カラフルな色の民家が建つ牧歌的な場所でインドネシアらしく感じた。
親切な人々とも出会った。レンタルバイクが道路上でガス欠になった時にペットボトルにガソリン入れて持ってきてくれた少年、夕食をごちそうしてくれた3人姉妹が経営する食堂等良い思い出となった。
他方ジャワ島東部をツーリング中には嫌なハプニングもあった。Booking.Com等のオンラインの大手宿泊予約サイトで予約した宿で予約料金の2倍の宿泊料を支払わないと宿泊させないと言われ、予約を反故にされ、もめた。
ジャワ島東部ではスラバヤ(Surabaya)~ポロボリンゴ(Porobolingo)~バンユーワンギ(Banyuwangi)~ジュマジャン(Jumajang)~スラバヤと約700kmの周回ルートを走行した。
ジャワ島東部は交通量が多く、大型トラックも多いため、道路の舗装面がデコボコで走行しづらかった。
赤道直下の地域でも雨上がりの山の裾野の森林地帯はヒンヤリとして夏のライダーズジャケットでは寒く感じられた。
スラバヤからジャワ島中部のジョゴジャカルタ(JogYakarta)を経て首都ジャカルタ(Jakarta)へは鉄道を利用して移動した。スラバヤからジャカルタまで約800km弱ある。東京から広島ぐらいの距離だ。
仮にレンタルバイクで移動したら借りた場所にレンタルバイクを戻すため往復の距離となる。小型スクーターで一週間で移動できる距離ではない。
ジョグジャカルタ(JogYakarta)は落ち着いた感じの町だった。目抜き通りは西洋的なプロムナード(街路樹がある通り)となり、観光客でにぎわっていた。JogYakartaでは近郊の仏教遺跡を見学するためにスクーターを借りてミニ・ツーリングをした。
ジャワ島はインドネシアで一番人口密度が高い島だったが、当方の想像に反して都市部を除いては人口密度は高いと感じなかった。鉄道沿線沿いには広大な平原や農地が広がり、大陸的な景色が広がっていた。
ジャカルタはインドネシア第二都市のスラバヤの比では無く、商業地やビジネス街には高層ビルが樹林する大都市だった。また地下鉄もある。
インドネシアは原油、石炭、ニッケル等を地下資源豊富な国だ。経済(GDP)は過去10年年率約5%で成長していた。人口はアセアン諸国の半分以上を占め、平均人口は30歳と若く、巨大な消費マーケットだ。
この巨大マーケットをにらんで多くの多国籍企業がインドネシアへ進出している。日系企業でも製造業を中心に約1,500社がインドネシアへ進出していると聞く。
(バリ島の走行ルート=赤線)
(アメッド=Amed近くの棚田)
(アメッド=Amedの宿から見た付近ののどかな風景)
(国際リゾート地のバリ島レギャンの海岸)
(スラウェシ島の走行ルート=赤線)
(スラウェシ島州都マッカサル=Makassarの夕方の通勤ラッシュ時の様子)
(マッカサルからパレパレ途中の道路沿いには養殖池が多かった。)
(ガス欠になりペットボトルにガソリンを入れて持ってきてくれた少年と母親。)
(タナ・トラジャの神殿は海を渡ってきた先祖を祭って船の形をしている。)
(スラウェシ島の小学校の校舎の壁は青色に塗られていて目立った)
田植え直後のスラウェシ島の田園地帯)
(スラウェシ島内陸部の棚田)
(ジャワ島の地図。赤線の東部の周回ルート700kmを走行した。)
(ジャワ島の活火山ブロモ山=Gunung Bromo)
(がけ崩れのため、臨時の迂回路では川渡の部分もあった。)
(ジャワ島の古都ジョグジャカルタのプロムナード)
(ジャワ島中部の仏教の最大遺跡ボロブドウール=Borobudur)
(首都ジャカルタのビジネス街)
(首都ジャカルタの地下鉄)
以上