インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -5ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

イスタンブールからスペイン・マドリッドまで9日間で約3,800km走行(7/57/14

 

個人的な都合で急遽日本へ帰国せねばならなくなった。介護施設に入居中の高齢の母が、看取りの状況になったとの連絡を受けたからだ。

 

イスタンブールからオートバイを日本へ送り返すため、イスタンブールの輸送会社数社へコンタクトを試みたが、やはり返答がない。

 

昨年春に今回のアジア・中近東ツーリングを計画した際にも、当初日本からイスタンブールへオートバイを海上輸送しようと考え、イスタンブールのフォワーダー数社へ電子メールで問い合わせをしたが、一切返事が無かった。 

 

2019年春にアフリカツーリングの出発地として日本からスペインのバロセロナに当方のオートバイを海上輸送した。その際バロセロナの港で輸入手続きでお世話になったバロセロナの輸送会社を頼るため、最短距離でイスタンブールからスペインのバロセロナまでオートバイを走らせることにした。

 

トルコ・イスタンブール~ブルガリア~セルビア~クロアチア~スロベニア~イタリア~フランスを通過するルートがバロセロナまで最短距離となる。約3,000km強の距離だが、約一週間で到達できる距離だ。

 

(トルコ・イスタンブールからマドリッドまでのルート地図)

 

ブルガリア入国後一泊

欧州地域でのオートバイの強制保険がブルガリアへの入国国境で加入できるだろうか気になった。

 

最近は欧州へ入国前にインターネットのオンラインで強制保険の加入をするオーバーランダーが増えているようだ。

 

しかしながら、昨年日本人ライダーがインターネットオンラインでスペインの保険会社から事前に購入した欧州の強制保険でロシアからフィンランドへ入国した際に、国境の税関で事前購入した保険が有効でないといわれたケースがあった。 その日本人ライダーはフィンランド国境で欧州の保険を買ったが、保険料が数万円とかなり高額だったと言う。

 

ブルガリア入国のカピタン・アンドレボ(Kapitan Andreevo)国境検問所では、イミグレーション窓口にパスポートを一旦預けて検問敷地外のブルガリア領内にある保険販売所で欧州の強制保険に加入することが出来た。

 

保険加入後、イミグレーション窓口でパスポートを受け取る手順だ。保険料金は有効期間1ケ月で57ユーロ(現金払いのみ)。

 

その日は午前中にイスタンブールのヤマハ製オートバイの現地代理店で妻が日本から持参したスプロケット、チェーンと後輪のブレーキパッドを交換する作業を行ったため、正午ごろにイスタンブールを出発してブルガリアとの国境を目指した。

 

そして、ブルガリアの国境から80km程度入ったハルマンリ(Harmanli)という小さな町のホテルに投宿した。

ブルガリアの地方では英語はほとんど通じない。ロシア語なら広く通じる。ブルガリア語とロシア語は似ているらしい。ブルガリア語もロシア語と同様なキルリ文字を使用している。

 

旧ソ連圏の習慣や文化が影響しているのかよくわからないが、トルコからブルガリアに入ると人々が不愛想に見えた。

(ヤマハ・イスタンブールのメカニック達)

(ヤマハ・イスタンブールでスプロケットとチェーンの交換作業中の様子)

 

(ブルガリア入国時の国境検問所)

 

(欧州のオートバイ保険=グリーンカードは道路横のキャンピングカーを改造した店で取り扱っていた。)

(高速道路わきの広大なひまわり畑)

 

セルビア入国後一泊

ブルガリアの高速道路は無料だった。前日宿泊したハルマンリの町から330km一気に走行してセルビアとのカロティナ(Kalotina)国境に到着した。ブルガリア出国とセルビア入国手続きはそれぞれ約20分と簡単に済んだ。

 

セルビア国境にはATMが無い。そのため、セルビア通貨をATMで引き出すには国境から約40km離れたピロト(Pirot)の町まで行かなければならない。 セルビアの高速道路は有料で、現金の持ち合わせがないため、田舎の一般道を進んだ。

 

この日は国境から約100km進んだニス(Nis)の町で投宿した。セルビアには約6年前の最初のオートバイツーリングで訪れていた。前回訪問時にはあまり気が付かなかったが、セルビアでは多くの人たちが英語を流ちょうに話す。 

政治的にはEU加盟はまだ遠いようだが、いい意味でブルガリやより欧州の文化的な影響を受けている。

(セルビア入国時の国境検問所)

(セルビア田舎の一般道は当方オートバイのツーリングにちょうど良い)

 

(ニス=Nis手前で道路わきの木立の中で夕立の雨宿りをしたら、隣は葬儀屋だった。葬儀屋の経営者は流ちょうな英語を話した。記念にと葬儀屋の名前入りのボールペンと名刺入れをくれた。)

 

クロアチア入国後一泊

セルビアのニス(Nis)の町から約360km一気に走行してクロアチアへ入国した。

この日は途中3回雨が降り、ほとんど雨具をつけたまま高速道路を走行した。

 

クロアチアから西側にある国々はユーロ通貨が使用されているEU圏内となる。

クロアチアは今年の年初にユーロが導入された。ユーロ導入の影響のためか、6年前に当方が訪問した時より物価が高く感じられた。

 

クロアチアのシッド(Sid)国境から約100km入ったスラボンスキー・ブロッド(Slavonski Brod)という小さな町の民宿に投宿した。 民宿の小さな屋根裏部屋でも部屋料金は25ユーロ(約4千円)と安くない。

(スラボンスキーブロッド=Slavonski Brodの住宅街を投宿した宿から見る。)

 

(スラボンスキー・ブロッドの住宅街はゆったりした場所だった)

 

(スラボンスキーブロッドで投宿した民宿)

(民宿の屋根裏部屋でも一泊25ユーロ=約4千円)

 

スロベニアを素通りしてイタリアへ入国(イタリア2泊)

前泊のスラボンスキー・ブロッドからスロベニア国境まで約230kmあった。クロアチア以西の国境は検問所がないため、日本の県境をまたぐように通過できる。

 

その後、スロベニアは国内を約200km一気に走行してイタリア東部ベネチア県のポルトグルアロ(Portogruaro)という小さな町まで進み、同地で宿泊した。 

 

この日は約540kmと今回のツーリングで一番長い距離を走行。 夏の欧州は日没が午後9時~10時となるので、長距離走行が可能だ。

 

イタリアは高速道路を使っても一日で走行できる距離ではない。

 

ポルトグルアロの後はイタリア北部を通過してイタリア西部のジェノバ(Genova)県のオバダ(Ovada)という山間部の町まで約460km走行。 

 

イタリアの港町ジェノバは旧市街の一角が世界遺産に登録されている人気の観光地だ。そのため夏場の宿泊料金は高い。オバダはジェノバから30km程北に位置する山間部の小さな町だ。観光地ではないため、ホテルの部屋料金はジェノバの1/22/3とお得になっている。

(クロアチアとスロベニアのかっての国境検問所。6年前のオートバイ・ツーリング時にはここでパスポート検査等を受けたが、シェンゲン条約加盟後は国境の検問は無くなった。)

 

(スロベニア入国直後のスロベニアの高速道路パス=E-Venietaの販売所。 スロベニアの高速道路には料金所がなく検査もないが、通行パスを販売している。当方は最短期間=8日間有効の通行パスを8ユーロで購入したが、実際には通行パスはノーチェックだった。)

(スイスの様に美しいスロベニア)

(イタリアへ入国)

 

(ベネチア県の田舎道。道路わきにはブドウ畑が広がっている。道路わきには複数のワインの醸造工場を見かけた。)

 

(イタリア・ジェノバ県オバダのHotel Vittoriaの経営者=写真左の青シャツの男。日本のアニメ映画で日本語を覚えたと言い、当方に日本語であいさつをした。日本人観光客が訪れる観光地ではないので、同氏は日本語を話す機会があるとは思っていなかった。)

 

フランス入国(一泊)

イタリアで2泊後、地中海側沿いに南仏をアビニョン(Avignon)まで進む。前泊のアバダから

フランス国境まで180kmある。地中海近くの丘陵地帯の深い谷に橋を架け、山を削りトンネルとして高速道路を作った場所だ。曲がりくねっている道路なので、高速道路でもオートバイ走行は面白いが、交通量が多いため周りの景色を楽しむほどの余裕は無い。

 

フランス入国後は南仏のエクサンプロバンスを経由してアビニョンまで進み同地の民宿に投宿した。6年前のツーリングにもアビニョンのホテル(Ibis)に投宿したが、部屋料金が当時よりかなり上昇しているので同じホテルに投宿するのは諦めた。

 

Booking.Comのサイトで目星をつけていた民宿を探したが、なかなか見つからない。付近を車で通行中の若者に道を尋ねると、その若者の友人にも電話で協力を仰ぎ、当方をその民宿まで案内してくれた。やはり田舎の人は親切だ。

 

その民泊施設は夏の期間中のみ小さな学校(私塾)を改造して23部屋の民宿としているので、民宿の看板ではなく学校の看板が掛かっていた。外国人旅行者には見つけられない場所だ。

(アビニョン=Avignonの学校(私塾)で夏季のみ宿泊施設を提供していた)

(学校兼民宿を経営の母子。母は教員でスペイン語を話した。娘は高校生でお手伝いをしていた。夕食の寿司と中華料理込みで60ユーロ=約9,600円払った)

 

スペイン入国・バロセロナ到着(一泊)

アビニョンからスペインのバロセロナまでは約450kmの距離。バロセロナまで一日の走行で行ける距離まで来たが、気になることが浮上した。

 

スペイン・バロセロナの輸送会社の担当者が中古オートバイの国外への輸送に不慣れな雰囲気がメールを通じて伝わってくる。 オートバイと一緒に個人の荷物は輸送出来ないと言ってきた。またスペインから輸出する際にはカルネが必要とも言う。 当方の経験ではカルネは不要で、個人荷物もオートバイと一緒に輸送できるはずだ。

 

スペインのバロセロナ地区をはじめ、地中海沿岸地域はこの時期欧州地域の観光客やバックパーカーの若者が殺到する。 宿の確保が容易ではなくなる。

 

Booking.Comのサイトでバロセロナ地区で一番安いホステルに前日予約を入れ、宿泊場所を一泊分確保したが、連泊は出来ない。 8人部屋のドミトリータイプでも宿泊料金は34ユーロ(5,500円)だった。夕方に予約していたホステル(民宿)に到着すると、やはりその時点では空き室は無かった。

 

当方は宿の事前予約をしないでツーリングするが、バロセロナでは事前予約していて正解だった。 翌日のバロセロナ市内の一番安い部屋料金はドミトリー形式でも80ユーロ(約1.3万円)だ。

(フランスからスペインへ入国。道路わき建物の横でスペイン国旗がなびく)

 

バロセロナから急遽マドリッドへツーリング最終地点を変更

バロセロナの輸送会社は懸念があるため、6年前にマドリッドからアルゼンチンのブエノスアイレスへ当方のオートバイを空輸した際にお世話になったマドリッドの小さな輸送会社に急遽相談した。

 

その輸送会社の担当者とはフェースブック(Facebook)とワッツアップ(WhatsApp)でつながっていて、年に1~2回ぐらい連絡を取り合う仲になっていた。

 

その担当者からはマドリッドにある多くのオーバーランダーのオートバイをスペインから外国への輸送を手がけている会社を紹介するので、直ぐにマドリッドに来いという。

 

バロセロナからマドリッドまで約650kmの距離がある。無理をすれば1日で行ける距離でもあるが、イスタンブールから連日走行して疲れがたまっている。バロセロナとマドリッドの中間に位置するサラゴサ(Zaragoza)の町に途中一泊して、イスタンブールを出発して9日目にマドリッドに到着した。

 

マドリッド到着の翌日に輸送会社を訪れ、オートバイを海上輸送のための梱包倉庫へ搬入した。

 

イスタンブールからの走行距離は約3,800kmになっていた。ツーリングをスタートしたマレーシアのポートケラン(Port Kelang)からは約35,000kmの走行距離となる。インドネシアとベトナムでのレンタルバイクでの走行を含めると約3.9kmの距離となる。

(スペイン高さ7~8mの牡牛の巨大看板。この看板をみるとスペインに入った実感がわく)

 

(バロセロナ~サラゴサ間の国道2号線。乾いた大地をまっすぐな道路が通る)

 

(ツーリングの最終地点の輸送会社倉庫兼事務所はマドリッド郊外のコスラダ=Cosladaにあった。)

(マドリッド郊外のコスラダ(Coslada)の輸送会社Cargo Marketing Sea &Airの責任者セサール・フェルナンデス=Cesar Fernandez氏)

(マドリッド郊外のメホラーダ・デ・カンポ=Mejorada de Campoにあるオートバイの輸出梱包を行う会社へオートバイを持ち込む)

 

(輸出用の木枠梱包前の当方オートバイと荷物。ハンドル周りのバックミラーとウインドシールドは

取り外した。)

 

 

以上


 

 

イスタンブール滞在(6/227/4

 

イスタンブール観光

イスタンブールの市街地は東京の首都圏より広いのではないだろうか。

 

ヤマハ製オートバイの代理店のヤマハ・イスタンブールはイスタンブール旧市街から40km西のアブシラール(Avcilar)地区に位置していた。当方はその付近のホテルに滞在したが、旧市街から40km離れた場所でも高層マンションや商業地域が幹線道路沿いに広がっていた。

 

イスタンブールの中心部からどこまで離れれば市街地は終わるのだろうかと言うほど、広い市街地がイスタンブールにはある。

新市街のビジネスの中心地まででも東京の首都高速道路のような高速道路を利用して約1時間かかった。

 

当方が滞在したイスタンブールの郊外にはメトロバス(Metrobus)と呼ばれる一般車両が一切入れないように囲いがある専用道路を走行するバスがあった。 

 

専用道路をほぼ1分から2分間隔で2つの車両を連結した大型バスが市内の中心地域とつなぐ。バス停はさながら電車の駅の様になっているので、外国人観光客でも判り易く、利用しやすかった。

 

このメトロバスとイスタンブールの旧市街を走るトラム(路面電車)を利用して、旧市街の歴史観光地区まで行き、イスタンブールの観光名所の定番であるオスマン帝国皇帝が居住したトプカプ宮殿、西暦4世紀東ローマ帝国時代にキリスト教会として建てられたが、15世紀のオスマン帝国時代以降はモスクとなったアヤソフィア(Ayasofya)、ブルーモスク=正式名称はスルタンアフメット・モスク等を見学した。

 

アヤソフィアは世界遺産にも登録されているイスタンブール観光の目玉である。1935年から2020年まで博物館として入場料を徴収していたが、2020年以降は再度モスクとなり、有難いことに入場料無しとなった。

(イスタンブールの中心部から約40km離れた地区のメトロバスの駅とバス専用の走行車線=写真中央)

(アヤソフィア外観)

(トプカプ宮殿のハーレムで警備にあたったアフリカからの黒人警護隊長の人形)

(トプカプ宮殿の正面ゲート)

 

(トプカプ宮殿ハーレムで皇帝が使用した風呂)

(トプカプ宮殿のハレーム内の通路)

 

(トプカプ宮殿の秘宝。世界最大のダイアモンド。ダイヤモンドには不幸を呼ぶ歴史が有ったと言う。)

(トプカプ宮殿宝物殿でイスラム教の創始者モハメッドのあごひげを見入る女性)

(サウジアラビア・メッカのカーバモスクと同じ5本のミナレット=尖塔を持つスルタンアフメット・モスク=通称ブルーモスク。尖塔の数が多いほどモスクの格式が高いと言われる。)

(アジアと欧州の間にあるボスポラス海峡とボスポラス大橋)

 

旧市街に架かる橋で釣りを楽しむ人たち)

(奥さんの実家がある日本から居住中のイスタンブールへオートバイツーリングを計画していたラマザン・マリさん夫妻。当方のブログを見て問い合わせてきた。仕事の関係で日本ートルコ間のオートバイ2人乗りツーリングは延期になった。)

 

 

 

 

経済状況

トルコの経済の現状を把握したいと思いイスタンブールの日系の調査機関を訪れた。

 

トルコは人口約85百万人で日本の約2倍強の国土を有する中近東の大国だ。また、欧州とアジア及びロシアを繋ぐ地理的な要所に位置するため、過去の時代から地政学的に重要な役割を演じてきた。

 

現在でも軍事的にはNATOのメンバーとして欧州の安全保障の重要な国である一方、黒海を隔てた隣国ロシアや中国とは融和政策を取るなどして、対外政策は欧州や米国とは一線を画している。

 

今年5月のトルコ大統領選挙で再選を果たしたエルドワン大統領の過去10年の政治手腕には、国民の貧富の差を縮小させた等の評価がある一方、今回の大統領選挙では得票率は前回の大統領選より下げた。やはり同国の年率40%の高インフレが国民の生活を苦しくしていることが大きな要因だ。

 

エルドワン大統領は1970年代の田中角栄元首相の日本改造に似てインフラ整備に財政をばらまき、高い経済成長率を遂げた一方、高インフレも招いたと言われる。

 

高インフレを抑制するためには、高金利政策を採用するのが常識的な経済政策だが、熱心なイスラム教徒であるエルドアン大統領はイスラムの教えに反する金利には否定的な態度で臨み、国民の生活を助けるためとして高インフレにもかかわらず、低めの金利設定した。

 

低金利は借入金がある企業・国民には有難く見えるが、インフレが収まらないどころか、為替レートの悪化(トルコリラ安)を通して、輸入物価の上昇を招き、インフレが更に進行するのは経済の常識だ。

 

しかしながら、エルドワン大統領は大統領選挙には勝利したものの、経済政策には失敗しているため、大統領選挙後の財務大臣や中央銀行総裁の要職にはエルドワン大統領の低金利政策には与せず、更迭され た元閣僚経験者をロンドンやアメリカから呼び戻す等の経済政策の変更に手を付けざるを得なくなった。

 

8.5%だった政策金利を6月中旬に15%へ引き上げ、今年末には25%まで引き上げられるだろうとの予測が出ている。高インフレを抑制するにはやもう得ない高金利政策への変更だが、問題は政府の政策の朝令暮改だと言う。

(イスタンブール新市街のビジネス街)

(イスタンブール証券取引所入口。個人投資家の見学は受け付けていないとして当方は見学ができなかった。)

 

(イスタンブール郊外のショッピング・モール=Pelikan Mall)

 

パキスタン出国時のキャンピングカーとの衝突事故の後始末

パキスタンからイランへ入国する際のタフタン国境で突然後退してきたキャンピングカーに当方オートバイの前輪部分をぶつけられたハプニングがあった。 

 

走行に大きな支障は無いものの、低速走行中にハンドルがフラフラするような感じがした。気のせいならいいなと思いつつ、設備が整ったイスタンブールのヤマハ製オートバイの現地代理店(Yamaha Istanbul)で前輪部分の状況を検査してもらった。

 

前輪のスポークが変形しているためタイヤを回転させると左右と上下の2方向にブレが生じていると言う。

当方のオートバイはセロー250の名で日本で販売されているが、トルコを始め海外の多くの国では販売されていない。そのためトルコではスペアーパーツが入手できない。

 

前輪リムの3カ所に重りを取付て、タイヤの左右のブレは許容範囲に調整できたが、上下のブレはそのままだ。タイヤの左右のブレを抑えただけで、走行時の直進性は驚くほど改善された。

 

他方、衝突してきたキャンピング・カーの若いドイツ人夫婦のその後の対応にはガッカリした。

衝突後、E-メール等の連絡先を残したものの現場を逃げように去った対応からして、予想はしていたが。

 

当方がトルコのアンカラあるいはイスタンブールまでヤマハのオートバイの代理店がないことや設備が整った整備工場が無いため、当方オートバイ前輪部分のへのダメージは正確には伝えられないと説明しても、ドイツ人若夫婦は<補償は保険金で対応したいので、当方がトルコへ着くまでは待てない、当方がトルコまで走行できるならオートバイには問題がないだろう>と言う。

 

最後には、裁判で対応したいと言いだす。受けた連絡からは加害者の責任意識は感じられない。

 

(パキスタンのバルチスタン州を警察車両にエスコートされ走行したドイツ人夫婦のキャンピングカー=写真最後尾と当方のオートバイ。)

(イスタンブールのヤマハ・オートバイの代理店で当方オートバイの前輪のバランスを検査)

(バランス検査の結果を受けて前輪リムに重りを三カ所取り付けた。)

 

以上


 

アンカラからトルコ南西部地方経由イスタンブール1,500km(6/146/21)

 

旧所・名跡巡りの観光ルート

ロシア・韓国経由で日本までオートバイで自走して帰ることを諦めたら、あれやこれやと帰国ルートの検討をすることが減り、ツーリングが観光旅行化していく。

 

白い石灰岩に覆われたパムッカレ(Pamukkale)は写真やポスターを見て訪れてみたい場所だった。

その他の場所については事前の知識が無いためガイドブックの<地球の歩き方>を参考に旧所名跡を訪れるルートに決めた。

 

その結果、パムッカレ(石灰岩棚)~セルチェック(エフェス遺跡=ローマ・ギリシャ時代の遺跡)~ベルガマ(古代ローマ時代のアクロポリス遺跡)~チャナッカレ(トロイ遺跡)~イスタンブールへの約1,500kmの走行ルートとなった。

 

観光地を巡るツーリングならバイクでなくてもバスや鉄道等の公共交通機関でも回れる。そのため

ツーリングを通して<驚いた>、<びっくりした>、<感動した>と言うような事があまり期待できない凡庸な旅となった。 また、トルコの状況にも慣れてきたため、感動が少なくなった。

 

パムッカレ(Pamukale)の石灰岩棚とへリオポリス

暑いのに何故こんなところに<雪の丘があるのだろう>と言うのが第一印象だった。

丘の上から流れる水が石灰岩を溶かし、石灰が丘の岩に付着して雪山の様に白くなるのだろう。

このような景色をみるのは初めてだったが、驚きと感動は30分と長続きしなかった。

 

それより、小さなパムッカレの町の人々の暮らしに興味が湧いた。

 

投宿した宿の経営者はパムッカレの町に向かって当方が走行中に、車から声をかけて着た中年男だった。

当方が道路脇にオートバイを止めている時、パムッカレで奇麗で割安なホテルがあるので、その男の車について来いという。

 

親切な男と思いつつも、何か魂胆があるのだろうとも考えたが、その男の車について行った。

 

着いた場所はパムッカレでその男が経営するホテルだった。その男は庭にプールがあり、部屋も改装して奇麗だとアピールするが、当方が期待したほど安くない。700リラ(4,500円)だと言う。

 

当方の予算は他の地方都市の相場である400リラ(約2,700円)だとその男に伝えると、<そんな安いところはパムッカレには無い>と言い、当方をそのホテルに宿泊させるように仕向ける。

 

当方が<他のホテルを当たるからもういい>とその場を立ち去ろうとすると、男は当方を引き留め始める。男は <未改装の部屋があるので、そこなら500リラでいい>と言う。 

 

当方はその男の提案を断り、<他のホテルへ行く>と再度伝えると室料が450リラになり、最後にはその男は400リラまで引き下げた。その男は当方に値切られて半分怒っているようなしぐさをした。

 

パムッカレはホテルが整っている最寄りの都市から20km位しか離れていないので、トルコの観光客は割高なパムッカレには宿泊しないだろうと思った。                                      

事情を知らない、あるいは交通手段が限定される外国人旅行者なら宿泊するだろうが、まだ外国人宿泊客は多くない。 

 

この男はホテルの改装やプール設備にお金をかけすぎて、資金回収に貧窮しているように見えた。

 

また、1時間~2時間あれば見学可能な石灰岩棚の観光地しかない場所のホテルに長期宿泊する観光客がどれほどいるのだろうか?小規模なホテルにプール設備が必要だろうか?

(パムッカレの投宿ホテル。ホテル左横にプールがあった。上階は改修工事を保留中のため窓が無い。)

(パムッカレ=Pamukkaleの石灰岩棚を上って丘の頂上を目指す)

(石灰岩棚の池で水着姿の観光客もいた。)


(石灰岩棚の丘頂上からパムッカレの村を見る。)

 

セルチュウク(Selcuk)のエフェス(Efes)遺跡

東アナトリア地域で最も有名なローマ時代の城塞都市遺跡の一つであろう。 世界遺産の一つで、規模も大きく野外劇場跡や図書館が修復され、2千年前の時代にタイムスリップしたように観光客の目を楽しませてくれた。 

 

この遺跡の野外劇場には2千前のローマ時代にイエス・キリストが伝道に訪れたと言う歴史的な場所でもあり、キリスト教巡礼地の旅としてアメリカから牧師同伴の巡礼者グループもいた。

(エフェス遺跡の入口=写真奥。参道には大理石の円柱が所々に立っていた。)

(エフェス遺跡の円形野外劇場。ここで2千年前イエス・キリストも説法したと言う。)

(エフェス遺跡の復元された図書館建物正面)

(エフェス遺跡の復元前の図書館建物写真)

 

ベルガマ(Bergama)のアクロポリス(Akropolis)遺跡

地中海沿いのルートに入ると道路の交通量が増える。このあたりのハブ的な都市はイズミール(Izmir)だが、人口3百万人と大きな都市で道路が混むため、大都市での宿泊は避けた。

 

イズミールを通り過ぎ、イスタンブールへ向かう途中のルート上にベルガマ(Bergama)という人口6万人程度小都市があった。


6万人程度の小都市なら、町の規模が小さく、道路も混んでいないと考えこの町のペンションに宿泊すると、この町には世界遺産のローマ時代の遺跡アクロポリスがあることを知った。 投宿した場所から56kmの距離の丘の上のアクロポリス遺跡を次の町へ移動する前に訪れた。

 

ローマ時代(紀元前4世ごろ)の神殿の高さ10mの大理石の円柱が復元され、2千年以上の昔に大きな神殿があったことを語っていた。

(復元された神殿の円柱)

(アクロポリス遺跡からベルガマの街を見る。)

 

チャナッカレ(Canakkale)のトロイ遺跡

日本人に一番なじみがあるのが、トロイの木馬がある世界的に有名なトロイ遺跡だろう。

19世紀後半にドイツ人の実業家が、ギリシャ神話トロイアの戦争を信じて全財産をつぎ込み数十年にわたり発掘して遺跡を発見した。 

 

紀元前3千年前から紀元後まで数千年の長い歴史にあった城塞都市遺跡だ。

当時を想像した高さ6m7mのトロイの木馬は残念ながら修復中だった。

 

遺跡は崩れた城壁ぐらいしか無く、観光客の目を楽しませるには乏しい。

観光ガイドないし案内所で貸し出す音声ガイドでの遺跡についての解説が無かったら、城壁沿いに進む散歩ルートを足早進んで、あっさり終わるような場所だ。 同遺跡の解説を聞かないと、遺跡の価値は理解しづらいだろう。

(修復中のトロイの木馬。木馬は周囲を覆いで囲われていた。)

(トロイ遺跡の城壁門の跡)

(上記写真のいにしえの時代の想像図)

(トロイ遺跡のきれいに積まれた城壁。鉄器が無い紀元前3千年前に垂直に加工が施されていることに専門家は高い評価をしていると言う。)

(発掘前のトロイ遺跡があった丘。)

 

ツーリングルートは以下の通り

 

アンカラ(Ankara)~270km~アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar)~240km~パムッカレ=Pamukkale(石灰岩棚とヘリオポリス見学)~200km~セルチューク=Selcuk(エフェス遺跡の見学)~210km~ベルガマ=Bergama(アクロポリス遺跡の見学)~230km~チャナッカレ=Canakkale(トロイ遺跡見学)~ダーダネルス海峡のフェリー横断を含む140km~サルキョイ(Sarkoy)=トルコ欧州側~220km~イスタンブール(Istanbul

 


(トルコのツーリングルートを赤線で示す。地図最右側=東側はジョージアとの国境。地図中央の赤丸印は首都アンカラの位置。イスタンブールは地図左側上部の赤丸部分。)

 

 

以下ツーリングルートのショートコメント

 

アンカラ(Ankara)~アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar270km

アンカラ市内の投宿ホテルから20km程度市内を走行して郊外へ続くハイウェイへ出る。アンカラ市内は交通量こそ多かったが、大きな渋滞が無かった。信号が少なく、広い道路と交差点を少なくする立体交差の道路網で交通渋滞が生じしにくくなっている。

 

アフヨンカイサールには観光の見どころが少ないと考え、夕方到着し翌朝に次の目的地に向け出発する寝るだけの町だった。市内中心部一角にあるホテルに投宿した。

 

この辺りにはビジネスホテルが多く、部屋料金はどのホテルも申し合わせたように朝食付付きで350リラ(2千円程度)だった。

(アフヨンカラヒサール市内のオートバイ店。日本モーターの看板を掲げるが、中国製オートバイを販売。)

(アフヨンカラヒサールの中心部。投宿宿は写真左側から2番目のビル)

 

アフヨンカラヒサール(Afyonkarahisar)~パムッカレ(Pamukkale240km

途中迷い込んだ農村は都市とは全く異なる様相だった。のんびりとした牧草地帯に位置するものの、

家の壁は土色の干し煉瓦がむき出して、一部崩れている等、農村の厳しい生活環境が垣間見れた。家畜小屋からの糞尿の匂いが一部未舗装の道路まで流れ、当方が憧れている田園風情とは異なる現実的な農村の状態を表していた。

 

パムッカレへ向かうハイウェイでのパムッカレのホテル経営者との出会いは前述の通り。

(農村の家)

(19世紀に印象派画家たちが描いた南フランス・エクサンプロバンスの山に似た山。)

(これが南フランス・エクサンプロバンスのサンクト・ヴィクトワール山=2017年7月に撮影)

 

(パムッカレに向かう途中の丘には発電用の大型風車が多くあった)

(パムッカレでレストランを経営する若者。4年間韓国でトルコ料理店で働いた経験を生かしてパムッカレでレストランを開業。)

 

パムッカレ(Pamukkale)~セルチューク(Selcuk190km

パムッカレを出発して50km走行すると、雷雲が見え始め、強風が吹き始める。間もなく雨になる前兆だ。

オートバイを路上に止めて、レインウェアを着終わると同時に雨が降り始めた。 雨粒が大きい。雨粒が腕にあたると腕が痛くなるほど、雨粒のインパクトを感じた。

 

エフェス(Efes)遺跡があるセルチュークの町のホテル、ペンション等の部屋代は高かった。

この地域の随一の世界遺産のエフェス遺跡を控えて、ホテル側は強気の部屋代を示した。

 

宿泊料金とは対照的にこの町の歩道や空き地に広がる簡易テントの野菜・果物の市場では

サクランボ1kg35リラ(220円程度)とかなり安い。また、焼き鳥肉をそいでフランスパンに入れた

ドネール(Doner)は今まで立ち寄ったどのトルコ都市のものより安く25トルコリラ(約300円弱)、味もよかった。

 

エフェス遺跡は前述の通り。

 

(セルチューク=Selcukで投宿したTuncan Pensionの内庭とオーナー。他のペンションより安く、また清潔だった。当方はシングルの小さな部屋に450リラ=約2700円支払った。)

 

(セルチュークの市場でデーツや乾物を販売するショップ。当方はデーツを1kg買った。)

 

セルチューク(Selcuk)~ベルガマ(Bergama210km

午前中に古代ローマ時代のエフェス遺跡(Efes)の見学(前述)を済ませてエフェスを出発する頃は晴天だった空が、徐々に黒い雷雲に覆われ始めた。しばらくすると雨が降り始め、雨宿りして雨が止むのを待つか、レインウェアを着て雨の中を進むか迷う。

 

しばらく雨宿りをしたが、雨が止む気配が無いためレインウェアを着込みベルガマを目指して進む。毎日午後になると天気が崩れて雨が降るが、1時間ぐらいの夕立になるのが常だった。しかしこの日の雨は終日続いた。

 

時折雷を伴った豪雨にもなり、終日雨の中をオートバイ走行するとレインウェイを着用しても衣服まで

雨水が染みてくる。

 

翌朝には晴天になっていた。ベルガマの宿をチェックアウト後に、宿から数キロメート離れた世界遺産の古代ローマ時代の遺跡アクロポリス(Akropolis)を見学(前述)。あまり見るべきものが無い小規模な遺跡の割には入場料が200リラ(約1,300円)と高い。

(ベルガマの旧市街の一角。下町には男達が談話するトルコ式喫茶店が多くあった。)

 

ベルガマ(Bergama)~チャナッカレ(Canakkale230km

地中海沿岸沿いの一般道を走行する。海岸にはビーチパラソルが立ち海水浴を楽しむ人達の姿が目立つようになる。

 

やはり午後になると進む方向の空に雷雲が現れ始めた。雨が少し降り始めたが、幸にも長さ6km位の長いトンネルの中に入り、トンネルを抜け山の裏側に出ると、空には雷雲は無かった。トンネルがあった山が雷雲の動きを止めていた。

 

トロイ遺跡は最寄りの都市チャナッカレ(Canakkale)から30km程離れテヴフィキイ(Tevfikiye)の村にある。

当方はこの村にあるペンションに泊まった。

 

この村の中心部で当方が村人に宿泊施設はないかと聞いたら、村人がペンションのオーナーに電話をして、そのオーナーが車で当方がいた場所まで駆けつけてくれた。

そのペンションの宿泊料は250リラ(約1600円)と村の入口の目立つ場所で欧米客を相手にしていた大きなペンションの1/3の良心的な室料だった。

(ベルガマ~チャナッカレへ進む途中のエーゲ海。)

 

(チャナッカレ付近では小麦の刈入時期を迎えていた。)

(シンプルなペンションだったが、オーナーは感じの良い親切な当方と同年配のトルコ人だった。)

 

チャナッカレ(Canakkale)~フェリーに乗船してマルマラ海を横断~サルキョイ(Sarkoy)まで140km

トロイ遺跡見学後、エーゲ海からイスタンブールに通じる内海のマルマラ海を通る海峡をダーダネルス海峡(Dardanelles)と呼ぶ。この海峡を挟んだチャナッカレの対岸はトルコの欧州側だ。この海峡の最短幅は約1.2kmと泳いで渡れそうな幅だ。 フェリー船もこの海峡をバスの様に頻繁に往復している。

 

当方はフェリー船にオートバイと一緒に乗船して、マルマラ海を横断して欧州側のトルコへ渡り、マルマラ海に面したサルキョイ(Sarkoy)の町に投宿した。

 

サルキョイ周辺の丘陵地の小麦畑は一面黄金色になり収穫を待つばかりとなっていた。この周辺にはハイウェイも無く対面通行の一般道をのんびりと進む。

 

この日も午後3時ごろから当方が進むサルキョイ方面が雨雲に覆われ始め、あっという間に雨が降り始めた。交差する高速道路の高架下にオートバイを止め、レインウェアを着こみサルキョイを目指す。

(チャナッカレ=Canakkaleとエセアバット=Eceabat間を航行するフェリー。オートバイと一緒の乗船料は45リラ=約270円)

 

(マルマラ海のダダーネルス海峡をタッグボートに付き添われて通過するLNG=液化天然ガスを運搬する大型タンカー)

 

(マルマラ海のアジア側と欧州側をつなぐつり橋。有料のハイウェイとなっている。)

(サルキョイ=Sarkoyのこじんまりとした海岸)

 

サルキョイ(Sarkoy)~イスタンブール(Istanbul)220km

今回のアジア中近東ツーリングの第一目標としていたイスタンブールまでは一本道で行ける距離まで近づいた。

 

ハイウェイの交通量が増え、大都会へ通じる道路であることを認識させられる。

 

イスタンブールでは2ヶ月前にパキスタンからイランへ出国する国境でキャンピングカーに当方オートバイの前方部分をぶつけられた。そのぶつけられた前輪部分のダメージをヤマハの現地代理店で診てもらう予定だ。

 

また、トルコの経済状況を調べるため日系の経済調査機関を訪れる予定にしている。

 

イスタンブールの宿はヤマハの代理店に近い場所ので確保することにした。

 

昨年9月末にマレーシアからスタートした当方のオートバイは約31,000km走行していた。インドネシアとベトナムでのレンタル・オートバイでの走行距離約3,900kmを加えると当方のツーリング距離は約3.5万kmとなる

 

以上

トルコ入国からカッパドキア経由首都アンカラまで1,200km(6/56/12

 

トルコに入国するとジョージアとの経済格差がいやでも判る。トルコの道路インフラ、近代的な建物や掃除が行き届いた街や新車が多い道路を見るとジョージアより一人当たりの国民所得が約2倍あることが理解できる。ジョージア国民所得は一人当たり6,700米ドル(約90万円)に対してトルコは12,000米ドル(160万円)だ。

 

美しい国

黒海沿岸からトルコに入国後、標高2000m台の高地の内陸部へと向かった。黒海沿岸は温暖で湿潤な気候のため緑の木々で覆われた山々が美しい。

 

高地の内陸部には丘陵地帯に幹線道路が通っている。丘陵地には木々が生えていないが、季節が日本の関東地方の4月ぐらいの陽気になり、草花が野に山に咲き始めた時期だ。

 

滞在した町々の景観も奇麗だ。 住宅用のコンドミニアムや商業ビルは新しい建物が多い。また住宅地のニュータウンも多く目にした。イスラム風の建物はモスクぐらいしかなく、トルコにいることを知らなければ西欧の町と変わらない景観だ。

 

(ジョージアからトルコへ入国して間もない黒海沿いのハイウェイをRize・Trabzon方面へと向かう。)

 

親切で気前のいい人達

入国時の税関職員の印象は良くなかったが、行く先々では親切な人達に出会った。

 

初日の黒海沿岸のリゼ(Rize)の街のコンビニで働くお兄さんは当方が日本からのオートバイライダーだと知ると歓迎の意味で食料品を無料で提供してくれた。

 

エルジンシャン(Erzincan)で投宿したペンションの経営者は当方と同い年だと言うことが分かり親切にしてもらった。朝食は提供しない小さな宿だったが、当方に簡単なナン、チーズと甘い蜂蜜の朝食を提供してくれた。

 

ガソリンスタンドでたむろしていた中高年の地元の人たちは、当方が給油で停まった際に、<急いでなければコーヒーかお茶でもどうぞ>と言って当方をくつろがせてくれた。

 

最後にはトルコのライダーグループに出会い、トルコ全土から集まる一泊二日のカッパドキアでの大集会に誘ってもらった。

ハーレーのような大型バイクのチョッパーに乗り、刺しゅう入りの革ジャンを着て一見怖そうな人達だったが、陽気で面倒見がよい人達だった。

(Rizeのコンビニでは買い物代金を無料にしてもらった。博士課程の大学院生だと言った。)

 

 

(ガソリンスタンドでお茶でも飲んで行けと誘ってくれた人達。真ん中の人は白バイ乗りの元警察官だと言った。)

(エルジンシャン=Erizoincanで投宿したペンションと経営者のアリ氏)

 

世俗的な宗教

イスラム教が厳格なパキスタンでは女性の素顔は全く見なかった。女性は男の目が届かない家の奥に留まっていた。

 

イランでは女性は髪の毛をスカーフで隠すことが義務づけられていたが、トルコでは素顔をだして男性と一緒の職場でも活躍する機会を得ていた。

 

トルコではスカーフで髪の毛を隠すのは任意だと言う。中年以上の女性はスカーフで髪を隠して目立たない衣服を着用しているが、若い女性達はおへそや肩をだして街を闊歩している。男と女も手をつなぎ合って歩く姿を見た。イスラムの戒律に縛られていないようだ。

 

トルコはイスラム教徒が多い国ながら、宗教と政治を切り離した先進国だ。

 

トルコ入国後の最初の一週間のツーリングルートは以下の通り。

 

ジョージアのBatumiからSarpi国境経由入国~黒海沿いに120kmRize(2泊)~険しい山道もあった270kmErzincan1泊)~260kmSivas(1泊)~300kmOzkonak(カッパドキア地方)のライダー集合場所(1泊)~70kmHacibektas(2泊)~240km~首都アンカラ(Ankara2

(トルコの走行地図。地図右端=東側はジョージアとの国境。中央よりやや左側=西側の赤丸印は首都アンカラ)

 

ジョージアのBatumi~国境SarpiRize(2泊) 120km

黒海沿いのリゾート地帯だろう。黒海沿いにはリゾートマンションが建ち並ぶような町が点在していた。

黒海沿いの海辺近くまで山が迫っている地形は静岡県東部の東伊豆の地形に似ていると思った。

 

Rizeの町も平野部が少なく山に続く坂道が多いおしゃれな町だった。

 

投宿したホテルの直ぐ近くのコンビニでミネラルウォーターや菓子類を買ったが、金額は多くないがそこの店員が当方を歓迎すると言い、代金を無料にしてくれた(前述)

 

Rizeの町ではバイク屋を見付けてエンジンオイルの交換をする。代金はエンジンオイル代だけ(約1,200円程度)で工賃は受け取らない。当方のオートバイのエンジンオイル交換には1.2Lと中途半端な量のエンジンオイルを使用する。通常だと1リットル容量の缶を2本買わざるを得ないが、ここでは1.2Lの分量を分けてくれた。

(ジョージアからトルコへ入国して間もない黒海沿いの地域)

 

(リゼ=Rizeの街中心部の広場)

(リゼ=Rizeの町でエンジンオイルの交換をしたバイク屋の皆さん)

 

リゼ(Rize)270km~エルジンシャン(Erzincan)1

黒海側から内陸部に入る幹線道路が無い。当方は殆どルートの検討をせずにカーナビが導くままに進むと道路がどんどん狭く急坂がある山村に入り込む。

 

村の人々にゼスチャーとグーグル翻訳でこの道で当方が目指している町へいけるかと訪ねると、目の前の高い山を指さしてこの山を上り山の向こう側へ出れば良いと言う。 しかし山道は車一台が通過できる狭いダート道だと言う。

 

山道が急坂でひとりでは心細く思い、先に進めばもっと厳しい道になるだろうと考え、幹線道路へ出るため来た道を引返したら、反対方面からやって来たBMWの大型アドベンチャーバイクのライダーに出会った。

そのライダーはルーマニアから来ていた。2年前からこのルートの完走を検討していたと自信ありげに言う。

 

当方はBMWの大型バイクでも通行できるなら、当方の250ccのオフロードバイクならより容易だろうと考えを変え、このライダーの後について行くことにした。

 

後で知ったが、このルートは世界でも危険なルートとされる黒海側のオフ(Of)の町と内陸のバイブルト(Bayburt)を繋ぐD915と言うルートだった。 雲に覆われた峠にさしかかる十数キロメートルのダート道の片側はカードレールも無い深い谷底になっている。

 

走行中はわき目もふらず、目の前の石が多い路面を注視しいるため、谷底は目に入らない。その為、怖いとは思わなかった。しかし、走行後に改めて谷底を見ると足がすくむ。

 

エルジンシャン=Erzincanの町は雪渓がある山々に囲まれた盆地にあった。2千メートル級の峠道では寒く感じた空気も盆地では少し暑く感じた。ただし、この盆地でも千メートル以上の標高がある。

 

他の国では室料が安い家族経営の宿泊施設をホステル(Hostel)とかゲストハウス(Guest House)と呼んでいたが、トルコではペンションと呼んでいる。

(危険な山道とされるD915線)

(D915線で少し休憩)

(エリジンシャン=Erzincanの町を囲む山々)

(エルジンシャン=Erzincanの街の中心部)

 

エルジンシャン(Erzincan)260km~シバス(Sivas)1

なだらかな高地の丘陵地帯の中、西方面にあるカッパドキアを目指すが、春ような陽気に誘われて走行中に幾度も睡魔が襲ってくる。

 

路肩で休憩するだけは十分でないため、幹線道路から少し入った湖のほとりにレストランを見付けてお茶を飲みながら1時間ほど休憩することにした。

 

ここのレストランではオーナーと思われる年配の男が、給仕をしながら釣り針の代わりに漁網をつけた釣り竿を湖に垂れている。漁網で釣り上げた魚を料理して客に提供しているようだ。 当方が休憩している間にも、魚を釣り上げていた。

(エルジンシャン=Erzincan~シバス=Sivasへ向かう途中の景色)

 

(湖で釣りをするレストランオーナー)

(シバス=Sivasの中心街)

(シバスの公衆浴場。入浴料は120リラ=約700円)

 

シバス(Sivas)300km~オズコナック(Ozkonak)(カッパドキア地方の小さな村で1泊)

当方がシバス(Sivas)から幹線道路をカッパドキアを目在して走行中に、5台の革ジャン姿の大型のチョーパー(ハーレーダビットソンのようなハンドルが長いオートバイ)が当方を抜き去る。最後に抜き去った男が当方に手招きで<ついて来い>と合図する。

 

その合図に誘われてしばらく時速100km以上の高速で走行するバイク集団について行く。当方のオートバイは250ccのエンジンゆえに時速100km以上の高速走行では安定性に欠け、心地よい走行ではない。

 

休憩時にそのグループがカッパドキアでトルコのチョッパーバイク集団(Turk Ridersと言う全国組織のクラブ)の大集会があると教えてもらい、当方もその大集会に誘われる。

 

当方は決まったプランがあるわけでも無いので、その誘いにのり大集会会場を目指してついて行くことにした。 

 

 

カッパドキア地域にあるOzkonakは地図にも載っていないような小さな村だったが、集会場所にはホテルと複数のテントが張れる広い芝生の庭があった。トルコ全国から爆音をたててチョッパー集団が集まり、当方を歓迎してくれた。因みにカッパドキアは日本の県や地域を示すような広範囲の地域の名称だ。

(シバス=Sivas~オズコナック=Ozkonak途中の景色)

(日本の歌手・吉幾三氏に似るオートバイのライダーズ・クラブTurk Ridersの一人。)

(大集会に参加したTurk Ridersメンバーの大型バイク)

(トルコ国旗を付けるバイク)

(ライダー達の集合場所だったオズコナック=Ozkonakの宿泊施設)

 

オズコナック(Ozkonak)90km~ハシベクタス(Hacibektas)2泊 

チョッパー集団と別れて、カッパドキア観光の中心地であるGoremeの町で宿を探したが、質素な民宿ホステルでも6千円~7千円と他の都市の3倍くらいの部屋料金を取る。一ヶ月前のインターネット上の書き込みだと民宿ホステルの室料は半値だったが、観光シーズンとなった現在は強気の商売だ。

 

当方はイランでカッパドキアに似たカンドバン(Kandvan)の村を既に訪問していたので、カッパドキアに宿泊することには固執せず、Goremeから約50km離れたハシベクタス(Hacibektas)と言う小さな町の郊外のホテルに投宿して、更新が遅れていたブログを書き上げるための時間を作った。

 

思っていたように小麦畑に囲まれたHacibektasのホテル(3星)は観光地でないため、部屋が広く、料金も一泊2千円程度と安かった。

 

このホテルの受付係の20歳代と思われる女性はトルコで働いても給料が安い一方、物価が高いので生活するのが大変だと言う。チャンスがあれば給与が高い海外で働きたいとの希望を語った。

 

ホテルの受付係になる前は衣料品の縫製工場で働いていたが、月給は5,500トルコリラ(約3万円)だったと言う。 因みに小さなアパートでも最近家賃が急上昇して月額4,000トルコリラ(約2.5万円)すると言う。

(カッパドキア=Cappadocia地域の中心地のギョローム=Goremeの町)

(カッパドキアの一部。高台からギョローム=Goreme方向を見る)

(カッパドキア地域のウチサール=Uchisarの町)

(カッパドキア地域のオズコナック=Ozkonakの地下都市の通路。カッパドキア地域には150~200の地下都市があると言う。敵が来る前に地下に一時的に避難したと言う。住民は常時地下に住んでいたわけではない)

 

(地下都市の通路の石の扉。直径約1.5m、厚さが40~50cmあった。数百キロ~1トン位の重さがあると思う。)

(トルコの中央高原はこのような丘陵地帯が延々と広がっている。)

 

ハシベクタス(Hacibektas)~首都アンカラ(Ankara)240km 2泊

前日から雨だ。レインウェアを着て走り出すも、途中から豪雨となり前方の視界が悪くなり、高速道路のような幹線道路から一旦逸れて、村の雑貨店の軒先で雨の勢いが弱くなるまで待機する。

 

休憩を兼ねた雨宿りを繰り返しならI Overlanderのアプリで書き込みがあったアンカラの安ホテルに到着する。

 

アンカラでは在トルコのロシア領事館でロシアビザの取得が可能かどうかヒアリングするつもりだった。

当方オートバイのスプロケットや駆動チェーン等の交換部品を妻が日本から持参してイスタンブールに急遽来ることになったからだ。

 

イスタンブールでオートバイの主要部品の交換整備すれば、トルコから約1万km走行してロシア極東のウラジオストックまで行き、そこからフェリーで韓国経由日本へ自走して帰国するのも選択肢のひとつだろうと考えたからだ。 

 

ロシア極東のウラジオストックから韓国まで韓国船籍のフェリーが運行している。

韓国のフェリー運航会社に電子メールで運賃等を問い合わせすると、500cc以下のオートバイの輸送運賃は1,050米ドル(約14万円)と高い。フェリーへの船積み費用や書類作成費用等を含めると運賃は1,2001,300米ドル(16万円~18万円位)になる。

 

オートバイの輸送料金に加えて、乗客の運賃が別途必要だ。 欧州からオートバイを日本へ海上輸送する費用とあまり変わらない。

韓国から日本へのフェリー運賃については運航会社へ問い合わせしなかったが、韓国から日本までの費用を含めるとウラジオストックから韓国経由日本までの輸送費用は、恐らく欧州から日本への海上輸送費用より高くつくだろう。

 

ロシア・韓国経由の帰国ルートは諦め、英国あるいはスペインから帰国する方針にした。

アンカラまで来てロシア領事館へのビザの問い合わせが不要となった。その為、アンカラは2泊したのみで、その後はアンカラから南下してパムッカレ(Pamukkale)やイズミール(Izumir)方面へ向かうことにした。

(雷雲迫るハシバクタス=Hacibaktasの町)

 

(ハシベクタス=Hacibaktasで投宿したホテル)

(ハイウェイ沿いの穀物貯蔵倉庫。直径約10m、高さ約20mの円形貯蔵庫が18個あった。)

(トルコの建国の父と言われる初代大統領ムスタファ・ケマール・アタチューク=Mustafa Kemal Ataturkの霊廟がある公園からアンカラ市内を見る)

(ムスタファ・ケマール・アタチューク=Mustafa Kemal Ataturk霊廟。卒業式姿の大学生グループが多かった。)

 

以上

アルメニア及びジョージアのツーリング約1,100km5/256/5

当初のツーリング計画ではアルメニアとジョージアを訪れる計画ではなかった。イランツーリング中に出会ったドイツ人ライダーからの<アルメニアとジョージアは素晴らしい場所>だったとの言葉に惹かれて、急遽アルメニアとジョージアをツーリングルートに加えた。 アルメニアに5泊、ジョージアに6泊しただけの短い期間だったが、アジアや中近東とは異なるロシアに非常に近い文化圏だと言うことが判った。

(ノアの箱舟伝説があるアララト山(標高5,137m)=写真右側と富士山に似た小アララト山(標高3,935m)。トルコ領にある山々だが、アルメニア領からの眺めも良い。これらの高い山々のため、天気が不安定になる)

 

アルメニア5590km(5/255/30

前回(イランPart3)のブログで報告したようにイランとの国境から入国するとアルメニアの町や人々がロシアに似ていることを思い知らされた。

 

入国時のイミグレーションの係官の冷たく入念な対応。町で微笑しない人々。当方が挨拶しても、当方の顔をじっと見返すだけの人々等。当方が会社員時代の15年前にモスクワ駐在を2年半経験したが、駐在当初に感じた嫌な思い出と重なった。

 

人懐こいインド等の南アジアやイランの人々とあまりにも違う人達だ。

 

ロシアとの連携を選んだアルメニア

アルメニアは人口約三百万人の小国だ。面積は九州より二割程度小さく海が無い山国だ。国の周りをトルコやアゼルバイジャンのような非友好国とイランのような大国に囲まれている。競争力がある産業や地下資源にも乏しい。

 

この小国が経済的にも軍事的にも単独で生き残るのは難しいだろう。大国の後ろ盾が必要だ。アルメニアは旧ソ連邦の中央アジアの国々のようにロシアと連携して先へ進むことを選んだ。 

 

カパン(Kapan)の宿のあきれた経営者

アルメニア入国後、首都のエルバン(Yerevan)を目指して、アゼルバイジャンと国境問題を抱えるナゴルノ・カラバフ(Nagorno-Karabakh)地域に近い主要道路方向へと進んだ。途中で軍隊の兵士が<この先の道路は通行止めだ>と先に行かしてくれない。  

 

他のルートを探し出して進むと今度はロシア兵が道路を封鎖しいて、<この先は行けないので別のルートを通行されたし>と言う。

 

そんな訳で、首都エルバン方向へ進むのに時間がかかり、日没直前にやっと国境から70km程度進んだカパン(Kapan)という町に辿り着いた。 当方のようなオーバーランダーが利用するスマホのアプリ<I Overlander>で、走路沿いにホステルがあることを思い出してそのホステルへ投宿した。

 

場末のあまり掃除が行き届いていない宿だったが、これから暗くなるし、疲れもあって寝るだけならこの宿で我慢しようと荷物を解いた。 宿の経営者は70歳の不愛想な男だった。

 

翌朝、当方がチェックアウトしようとすると、宿の経営者は当方へ便器を掃除して行けと言う。 部屋にはトイレが無くその宿の親父も使用する汚くて、汚物を便器から宿が立地する川の河原に垂れ流しする便所だった。 

 

当方がトイレを利用する前から糞が便器にこびりついて汚いトイレだと思っていたが、その親父は当方が汚したと勘違いして掃除しなければパスポートを返却しないジェスチャーをする。

 

当方が<おれはトイレを汚していない>と怒ってパスポートの返却を求めると、当方の剣幕におされてか、宿の親父はパスポートを返却した。 

 

今度は当方がプラスチックのレジ袋にゴミをまとめて入れて廊下に出しておくと、宿の親父は<ゴミは持って行け>とのゼスチャーをする。投宿した部屋にはゴミ箱が無かったので、当方はここの親父が片づけやすいようにと慮ってレジ袋に空きペットボトルやティッシュ・ペパー等のゴミをまとめて入れ、廊下に出しておいた。


 

当方はこの親父の<ゴミを持っていけ>のゼスチャーに再度怒りを発して、レジ袋を床に叩きつけた(但しゴミが出ないように)。客を客扱いしない宿の親父にはあきれた。

 

(川べりの小さな建物がKapanのあきれた経営者のGetap Hostel)

 

山岳道路

手を伸ばせば届くような雪渓がある山が迫る。そんなワインディング・ロードの山岳道路を通り、峠道を上ったり、下ったりの連続が続く。

 

全ルート舗装道路ではあるが、所々アピンカーブのアスファルト路面が大型貨物トラックのタイヤに削られて石と土がむき出しになっている。 このような山岳ルートは今回のアジア・中近東ツーリングではなかなか無い。

 

(イランからアルメニアに入ると直ぐにこんな景色の山道になる。)

(雪が残るアルメニアの標高2千メートル台の山々)

(アルメニアの山岳道路)

 

天気が刻々と変わる

雷雲が迫り、雷の音が聞こえる。山を一つ越えたあたりでは激しい雨が局地的に降っているのが判る。

当方の方に雨雲が来なければいいなと祈るように走行するが、雨が降り始める。しかし雨は長続きしない。

そのうち雲が途切れ、晴れ間になるが、この晴れ間も長くは続かない。走行中は、レインウェイを着用したり脱いだりの連続だった。

 

アルメニアの世界遺産は入場無料

アルメニアには世界遺産が3カ所ある。全て約千年前から続くキリスト教の修道院だったり、教会だったりだ。アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした国だった。 

 

当方は首都エルバン周辺のエチミアジン・カテドラル(Cathedral of Echimiadzin)とジョージアとの国境に近い近いハグパット修道院(Haghpat Monastery)の2カ所の世界遺産を訪れた。

 

これらの世界遺産は全て入場無料だ。東南アジア及び南アジア諸国やイランの世界遺産の旧所名跡では外国人観光客は現地人の1020倍の入場料金を徴収していたが、無料の対応には感動した。

(首都エレバン近くのエチミアジン・カテドラル=アルメニア正教の総本山 世界遺産 Cathedral of Echimiadzin)

 

(世界遺産ハグパット修道院=Monastery ofHaghpat。ジョーギアとの国境手前40kmにあるアラベルディから10kmの村にある。)

 

アルメニア出国とジョージア入国手続き

陸路の国境検問所は3カ所あるが、当方は一番東側のBtghsvan(アルメニア側)/Sadakhlo(ジョージア側)を通過した

 

事前に調べた結果、一番東側の国境が道路状態が良く、ジョージアのバイク保険を入手できる等の便利さが判った。バイク保険については加入の有無を入国時にチェックされるとのI Overlander上(車両で陸路の国際旅行を行う専用情報アプリ)の書き込み情報もあったので、国境でジョージアのバイク保険に確実に加入できる(買える)国境検問所を選んだ。

 

ジョージアとの国境の手前40kmにあるアラベルディ(Alaverdi)の町に前泊して朝一番で国境を通過できるようにした。

 

アルメニア側のイミグレーション建物の手前数百メートルのところに車両保険の代理店があった。この保険代理店ではジョージアのオートバイ保険も取扱っていたので、この代理店でジョージアのオートバイ保険に加入した。 

 

更に先に進むと両替所があったので、余ったアルメニア通貨(ドラム)をジョージア通貨(ラリ)へ両替。

 

アルメニアの出国は簡単だった

イミグレーション窓口の数メートル手前の税関職員に入国時に発給された一時輸入手続きの書類を渡す。

そしてイミグレーション窓口でパスポートに出国印を押してもらいう。ただし、当方の順番になって、窓口担当官が手続きになれていない係官に入れ替わったため、当方は1015分程度待たされる。

 

通常なら1分程度の手続きだろう。


 

ジョージア入国も簡単な手続きだった。

オートバイに跨ったままイミグレーションのブースでパスポート、国外運転免許証とオートバイの登録証(Registration Certificate)を係官に手渡すと、係官がパソコンにデータを打ち込み終了する。

 

この際に係官が、当方がジョージアでのオートバイ保険に加入しているかどうか聞いて来た。当方は<もちろん保険に加入しています。>と返答。ただし係官は<保険証を提示してくれ>とは要請しなかった。

 

入国時の税関では外国籍のオートバイの一時輸入許可証(Temporary Import Permit)のような書類は作成しない。オートバイでの入国はオンライン・システムで管理しているようだ。

 

この国境には銀行ATMが無い。国境から約40km進んだマルネウリ(Marneuli)まで行かないと銀行ATMで現地通貨の引き出しが出来ない。

 

以下アルメニアの走行ルート

 

イラン・タブリーズ(Tabriz)~イラン国境(Nurduz)/アルメニア側国境(Agarak)~70km~カパン1泊(Kapan)~280km~首都エルバン3泊(Yerevan)200km~アラベルディ1泊(Alaverdi)~40km先のPtghavan/Sadakhlo国境からジョージアへ出国~80km~首都トビリシ(Tbilisi)3泊~250km~クタイシ(Kutaisi)2泊~160km~バトミ(Batumi)1泊~20km~Sarpi国境からトルコへ出国


(地図下部の最右側の赤丸印ははイランのArbadilの位置。その左側がイランのTabriz。Tabrizの上がアルメニアとイランの国境。地図の最左側の赤丸はジョージアのBatumi=トルコとの国境)

 

イランとのNurduz国境からアルメニア入国~アルメニア最初の宿泊地カパン(Kapan70km

前述の通り、ロシアへ入国したように人々の態度が冷淡との印象を受けた。当方のオートバイを見ると道路沿いの野犬が吠え、走りながらオートバイを追っかけてくる。ロシアでも同じようにのら犬に敵意を向けられた。

 

山あり谷ありの山道を首都に向けて進もうとするが、軍事関係上の理由で通行止めが多く、ルート選びに多少苦戦する。

(アルメニア領の幹線道路が主要水道管のトラブルで勢いよく水が道路に流れ出して通行止めとなった。迂回路を探すもなかなか見つからず先に進むのに時間がかかった。アルメニア領のAgarakの町)

 

(カパン=Kapanの旧ソビエト時代の無味乾燥とした住居用のアパート群)

 

カパン(Kapan)~首都エレバン(Yerevan250km

前日の様に山岳地帯を進むも、途中から高原をひたすら進む。この日は雨が降ったり、止んだり、晴れ間が見えり、再度雨が降ったりと天気が何回も変わる。

 

ノアの箱舟伝説があるアララト山を見ながら首都エレバンへ近づく。アララト山はトルコ領にあるが、首都エルバンから高原上にそびえ立つ雄峰が良く見える。

 

エレバンから20km程度離れた場所に世界遺産のエチミアジン・カテドラル(アルメニア正教の総本山))があると言うので見学したが、カテドラル内部は修復中で入れなかった。質素な造りだが、千年以上の歴史に耐えた外観を見学。

 

世界遺産だが、拝観者は少ない。

(アララト山=標高5,137m 天気が刻々と変わるためシャッター・チャンスになかなか恵まれなかった。)

 

(小アララト山=標高3,935m。写真右側にはアララト山の一部が見える。首都エレバンへ向かう途中。)

(途中で出会ったドイツ人の女性ライダー。ヤマハXT500に乗り単独でワイルドキャンプもしながらツーリングをしていた。)

 

(イラン国境から首都エレバンへ行く途中にこのような広い高原が広がっていた。)

 

(首都エレバンの一角。ロシアを感じさせる街並みだ。)
 

首都エレバン~アラヴェルディ(Alaverdi200km

朝から雨のためレインウェアを着込んで走り出す。雨の日は視界が悪い上、冷たい雨で気温が低くなるためオートバイには乗りたくない。

 

谷川沿いを進み長いトンネルをくぐり抜けると天気は晴天になっていた。アラヴェルディは小さな町だったが、4年前までは大きな金属精錬工場があったと言う。今は廃墟となった工場が町を暗くしている。

 

環境問題で工場が閉鎖されたと聞いた。工場で働いていた多くの人々は仕事を求めてロシアへ渡ったと言う。

 

この町から10kmしか離れていない村に世界遺産のハガパット修道院(Haghpat Monastery)があるが、

町の活性化には余り役立っていないようだ。

 

アラヴェルディの約40km先はジョージアとの国境になる。

(首都エレバンからアラバルディ方面へ向かう途中の高原の牧場。直前まで雨が降っていたので、曇り空にっていた。)

(首都エレバンからアラバルディ方面への広い高原農地)

 

(トンネルを抜けるとアラバルディ付近は晴れていた。)

(アラバルディで4年前に環境問題のため閉鎖された金属精錬工場。大きな建物で長さは200m~300mあった。)

 

ジョージア6510km

数年前まではグルジアと呼ばれていたが、国名をジョージアに変更した。アルメニア同様、旧ソビエト連邦に属していたが、ソビエト連邦崩壊後独立した。

 

面積が北海道の8割程度の国であり、人口約400万人の農業、牧畜業が盛んな国だ。良質なぶどうを活かしたワインの生産が盛んだ。ジョージアワインは世界にも有名だ。

 

ジョージアは同国北部の南オセチア地域(首都トビリシの北の地域)を巡り、ロシアと2008年に軍事衝突し、その後停戦したが、今でもロシアとの緊張状態は継続している。そして、アルメニアと異なり同国は欧州と連携することを選び、EUへの加盟を申請した(まだEU加盟は認められていない)。

 

アルメニアとの国境から80km程度進み首都のトビリシ(Tbilisi)に到着した。トビリシに至るルートは広い平野が開けている場所で牛が放牧されている光景を目にするのどかな場所だ。

 

ジョージアはアルメニアから入国後、トビリシ(Tbilisi)~250km~クタイシ(Kutaisi)~150km~黒海沿岸のバトミ(Batumi)へと進みトルコへと出国した。

 

首都トビリシ(Tbilisi3

首都トビリシ(Tbilisi)は人口100万人強の都市だが、市街地が広く思っていたより大きかった。旧市街の建物が欧州的な感じがする町だった。トビリシでは旧市街の台所付きの部屋があるホステルに投宿した。

 

偶然通りがかった狭い路地にホステルの看板を見付け、部屋があるかどうか尋ねたら、そこで物置を整理りしていた初老の大柄な男が<部屋はある>と言う。 この年配では珍しく、英語を話す男だった。

 

その大柄な男が主人かどうか最後までわからなかったが、ホステルのオーナーは70歳手前位の初老の女性だった。ロシア語は話すが、英語はYesNo位しか理解しない、笑顔が無い厳しい顔つきの女性だった。 たぶん厳しいソ連時代とソ連崩壊後の混乱期を生き抜いたため、厳しい顔つきになったのだろう。

 

そんな女性だが、当方のライディングジャケットやズボン及び下着まで無料で洗濯して乾かしてくれた。

 

台所は重宝した。簡単な料理なら自分でもつくれる。当方は投宿後、早速食料の買い出しへ出かけ、たまご、ハム、野菜等を買い、その夜は自炊してラーメンを食べた。

 

アルメニア首都エルバンでは観光をする気になれなかったが、トビリシでは、散策を楽しみながら街並みを見て回った。トビリシには何故か町の散策を誘惑するような雰囲気と魅惑的な街並みがあった。

(ジョージアの世界遺産 Mtskhetaのカテドラル=首都トビリシ(Tbilisi)から50kmの距離)

 

(高台からみたジョージアの首都トビリシ=Tbilisi)
 

(大きな街路樹がある首都トビリシの目抜き通り)

(首都トビリシの国会議事堂正面にはまだ未加盟のEU国旗がなびいている。

EU加盟は同国の最優先事項である。)

(首都トビリシの中心的存在の自由広場=Liberty Square)

(首都トビリシの温泉街。小川の両側のレンガの建物は温泉の風呂)

(旧市街の住宅街。建物のベランダに洗濯物が干してあり、生活感がある。)

(トビシリ旧市街の狭い路地にも入れる日本から中古輸入したホンダの軽トラックは重宝だ。)

(ジョージア語の文字と英文字を表記した建物。アルメニア語の文字もジョージア語の文字に似ていた。)

(ジョージアの伝統的造りの民家。回廊のようなベランダがある。)

 

ジョージア第三の都市クタイシ(Kutaisi)2

トビリシから東へ250km程度広い平野部(盆地)を進み、第三の都市クタイシ(Kutaisi)を次の投宿地とした。

第三の都市と言ってもトビリシに比べると規模も人口も小さい(人口15万人程度)。クタイシの主だったところは徒歩圏内にあるこじんまりとした都市だが、町の起源は欧州でも最古の部類で紀元前5~6世紀に遡ると言う。また、11世紀~12世紀にはジョージアの首都であったこともある。


 

いつもように宿の予約なしでクタイシに到着した。最初に回った3軒の宿では満室との理由で宿泊を断られ、投宿宿が確定しない。住宅地の5軒目の自宅の一室をホステルとしている民宿に投宿した。

 

その宿は近所の生活音や夕食を作る匂いがする場所だった。

 

宿のベランダでくつろいでいると近所の小さい子供達の遊ぶ声、幼い兄弟の喧嘩を大声でしかりつける母親の声、またピアノを練習する音が聞こえてくる。食事時には焼き魚のにおいまでした。

こんな風に生活しているんだなとジョージアの人々を身近に感じた。

 

宿を切り盛りしていたのは大柄の65歳の女性だった。肝っ玉母さん風で笑顔を絶やさず、当方へもロシア語で話しかけてくる。 当方はこの女性を50歳代の主婦と思っていた。このホステルの親戚の集まりで英語を話す孫が18歳だと聞いて驚いた。ジョージアの人々は早婚のため、65歳の女性に18歳の孫がいることは珍しくないと言う。 

 

当方がその女性に50歳ぐらいだと思ったと伝えたら(英語を話す孫を介して)、朝食付きの宿ではなかったが、翌朝に笑顔で当方へ朝食用のケーキとチーズ入りパイを持ってきてくれた。

 

また、親戚の集まりでの残り物だと思うが、自家製ワインやらケーキやらのおすそ分けをもらい、ジョージアの下町人情を感じた。


宿の肝っ玉母さんの夫は物静かな人だった。当方がクタイシ近隣の世界遺産を2つ見学すると伝えたら、初老の夫はその場所から遠くない穴場的な山の中の小さな修道院の見学をそっと勧めてくれた。

 

(首都トビリシの周りは広い農地が広がっている)

(デンマークからバイクツーリング中のシニアの二人組(63歳と68歳)。一人はホンダのアフリカツイン、もう一人はトライアンフのタイガーに乗っていた。)

(クタイシから10km程度の場所にあるジョージアの世界遺産ゲラティ修道院=Gelati Monastery)

(クタイシ市内の投宿ホステルの親父が教えてくれた山の中の隠れ教会)

 

(クタイシ市のBagrathi Cathedral=世界遺産)

(クタイシ市内の石畳の中心部はヨーロッパの街のようだった。)

(クタイシの伝統的ケバブ=Bikentia’s Kababi写真右側 値段は10ジョージア・ラリ=約550円 Restaurant Bikentia)

 

 

(クタイシ市内で投宿したHostel Temuriの女主人)


黒海沿岸のバトミ(Batumi)一泊

トルコへと出国するために一泊したのみの通過町だった。近代的な高層ビルが建ち並び貿易港を有するジョージア第二の都市であった。


 

観光はせずに寝るだけの町であったため、もう一泊して町を見て回れば良かったと後で思った。

黒海はイラン北部で見たカスピ海とは違い薄緑の奇麗な色をしていた。砂利でおおわれた狭い海岸には水着姿の人がちらほらしていたが、海に入っている人はいなかった。恐らく海水が冷たいのだろう。

 

バトミでは黒海の影響か、ジョージアの内陸部より湿度が高く、すこし肌寒く感じた。

 

翌朝には20km先にあるトルコとの国境(Sarpi)に向かった。

(ジョージアの地方道=日本にも似たような風景がある)

(Batumiの黒海=Black Sea)

(Batumiの海岸と黒海沿いの街並み)

 

ジョージア出国とトルコ入国手続き

 

ジョージア出国手続き

月曜日の朝のためバトミから10km郊外までの国境へ向かう幹線道路は混んでいた。<トルコへ向かう車がこんなに多いとは国境通過は時間がかかるだろう>と危惧したが、国境手前10km位からは国境へ向かう車は疎らになった。

 

オートバイに乗ったままドライブスルー形式のジョージアのイミグレーションのブースでパスポートに出国印を押印してもらった後、100m程進んだ2番目のブースの税関で運転免許証、パスポート、オートバイの登録証(Registration Certificate)の提示を求められた。


 

このブースの税関職員に予期せぬことを言われた。ジョージアでは当方のジュネーブ条約に基づき発行された国外運転免許証は有効では無く、日本の運転免許証とアポスティーユ認証済み(公証人役場で翻訳証明をした公式書類)の英文翻訳の運転免許証が必要だったと言う。当方を直ぐに出国させてくれない。 

 

当方は<それならジョージア入国時の税関でその様に言ってほしかった。当方に責任は無い。>と反論した。税関職員も当方に落ち度がない事ないことを認め、誰かと電話で確認して約10分程度で出国を許可した。 

 

当方は80ヶ国以上の国々をオートバイツーリングして来たが、国外運転免許証にケチが付いたのは初めてだった。


 

後で調べてみるとジョージアは日本同様に国外運転免許証のジュネーブ条約の締結国あることが判った。

税関の人達が知らなかったのか、あるいはその後ジョージアの国内法が変わったのか不明である。

 

出国をする他の車が数台程度と少なかったこともあり、税関での待ち時間を入れても手続きは約20分程度で済んだ。

 

トルコ入国手続き

ジョージア出国後100m程度進みトルコのイミグレーションの建物をオートバイに乗ったままドライブスルーで進む。 最初のブースでパスポートに入国押印を得た後、税関職員が4名ほど出てきて横柄な態度でオートバイの荷物検査を始める。

 

特に若い女性の税関職員は<ハラム、ハラム>と言いながらオートバイ搭載の荷物をごそごそとかき回し始める。お酒のようなイスラム教で禁止されているものを<ハラム>と言うが、それを探していたのだろう。

 

当方は荷物の中にコカコーラの空きペットボトルに飲料水を入れておいた。税関職員はそのペットボトルにウォッカが入っているのではないかと疑い、キャップをあけて匂いを嗅いでいた。

 

多分ペットボトルにアルコールを入れて入国を試みる人が多いのだろう。

 

税関職員は当方の荷物をかき回すだけかき回して、検査が終了すると、<検査の順番待ちの人がいるので早く先へ進め>と言わんばかりの横柄な口調で命令する。

 

当方は荷物を整理して、しっかりオートバイに固定しないとオートバイを動かせないので、当方の荷物の状況を無視する言い回しには腹がっ立った。 こんな態度の税関職員はトルコの第一印象を悪くさせる。

 

更に先に進むとドライブスルー形式の2番目の建物があり、オートバイの登録を行う。トルコのバイク保険の提示を求められたが、当方は持っていなかった。 

 

<この建物に強制保険に加入する窓口がある>とブース係官に教えてもらい、保険期間が3ヶ月間のバイク保険の加入後手続きを済ませた。トルコ入国でも一時輸入許可証(Temporary Import Permit)のような紙ベースの書類作成は無かった。 

 

イミグレーションと車両の入国手続きを行うビルの間の空き地にはトルコの銀行ATMがあり、そこでトルコリラの現金を用意した。

 

当方の前に56台程度、車両で入国する人達がいた。その順番待ちも入れて小一時間でトルコの入国手続きが終了した。 簡単な手続き故、この国境には手続きを手助けする業者はいなかった。

(トルコのイミグレーション建物)


以上


 

イラン(下編)テヘラン~カスピ海沿岸~タブリーズ~アルメニア入国 1,200m (5/1825


 

カスピ海沿岸は湿潤な気候

首都テヘランから山越えしてカスピ海沿岸に出ると今までとは全く違う景色が広がっていた。山々には草木が生い茂り、荒地は緑の牧場となっていた。田植え中の水田も広がっていた。 カスピ海がもたらす湿潤な気候が降雨をもたらしてくれるお陰だろう。 

 

水田が広がる風景は日本のようだ。カスピ海のお陰で気温は上がらず、晴天でも暑さを余り感じない過ごし易い気候だ。

 

ただし、その反面,湿度が内陸部より高く、洗濯物が乾きにくい。内陸部では前日夜に手洗いして室内干したナイロン生地のTシャツは翌日朝にはすっかり乾いている。しかし、カスピ海沿岸ではそうはいかなかった。翌朝でも洗濯物は湿ったままだった。

(首都テヘランからカスピ海方面へ向かう途中の山脈の南側(テヘラン側)は降雨が無いため禿山。)

(テヘランからカスピ海方面へ向かう途中の山脈の北側=カスピ海側)

 

温泉地サリーン(Sarien

当方があるイラン人へ<イラン北部のアルダビル(Ardabil)へ行く>とイラン人へ言ったら、温泉があるサリーン(Sarien)を是非訪れ温泉浴をすることを勧められた。 アルダビルから約35km程度西(タブリス方面)に天然温泉が出るサリーンという町がある。 

 

サリーンは畑の真ん中に突然ビルが建っているような場所だった。温泉が湧き近代的なビルの温泉浴場やホテルができたようだ。

 

ブールサイズの温泉浴場が男女別にある。 水着を着てプールに入るように温泉風呂に入る。温泉風呂で泳いでいる入浴客もいるが、特に禁止されていない。 ただし、飛び込みだけは<水深が十分無いため禁止>との注意書きがあった。

 

温泉施設には湯舟サイズ個人用バスタブもある。 当方は8か月ぶりに全身をお湯につかり、リラックスした気分になった。

尚、水着は温泉施設の脱衣場で販売している物を買った。

(温泉の大浴場は長さ20mx幅10mスイミングプールのサイズ。)

(個人用の温泉浴槽)

(土産屋が軒を連ねる温泉町サリーン=Sarien)

 

山の洞窟を利用した住居があるカンドバン(Kandovan)村

タブリーズ(Tabriz)の南50km先に山の洞窟を利用した住居群があるカンドバン村のことを旅行書で知った。カンドバン村にはトルコのカッパドキアに似た景観があるので<ミニ・カッパドキア>とその旅行書は紹介していた。

 

カンドバン村では洞窟を利用した住居の内部を見学することができた。 オーナーの女性が快く住居の居間を見せてくれた。床にペルシャ絨毯敷き、エアコンがある部屋は洞窟内とは思えないほど快適そうな空間だった。

 

タブリースで嫌なこと

イランでは親切で親日的な人達に多く出会い、夕食をご馳走になったりと良い思いをしたが、不愉快なことが二つあった。

 

ひとつはタブリーズ街中で当方が散策中に45名の男子高校生グループにしつこく絡まれたこと。

もうひとつはチェックインしたホテルの受付係が当方が外出するためにパスポートを一時返却してほしいと依頼した際、受付係と口論したことだった。

 

高校生ぐらいの男子グループは当方をからかうように言いより、<どこの国から来たか>とか、<スマホで一緒に写真を撮らせてくれ>とせがんだりする。

 

無礼な対応をする高校生グループに対して当方は無視して歩道を進み続けたら、グループの一人が突然当方の両肩を後方から手て抑えて当方の歩行を阻止して写真を撮ろうとする。 

 

当方は怒って、日本語で<バカヤロー何をするか!>と大声で高校生を怒鳴りつけた。びっくりした高校生グループは当方から離れ、逃げ出したが、嫌な思いをした。

 

もう一つはホテルの受付に預けたパスポートを外出中は返却してほしいと受付係の男に依頼した時だった。イランではホテル等の宿ではイラン人でも外国人でも宿泊中は受付にパスポートを預けることになっている。 

 

当方は、外出中警察官等に検問された際に身分を示すものが無いと困るため、常時パスポートとビザを携帯する。外出する際には、当方の経験ではホテルは一時的にパスポートを返却してくれる。 

 

しかしながら、このホテルの受付係は当方がパスポートの一時返却を求めても、応じない。

当方と押し問答をしてるうちに、受付係は<パスポートが必要だったら、チェックアウトして出ていけ>と前払いした宿泊料金を自分のポケットから取り出して、激高した口調で言うではないか。

 

結局、当方が折れて、パスポート無しで外出をした。

その翌日に当方がオートバイで日帰りツーリングをする際にはパスポート持参が必要だと考え、他のホテルへ移るため候補先のホテルを下見した。

 

受付係は翌日の日帰りツーリングの際には、パスポートを一時当方へ返却してくれたが、前日受付係が何故そこまで激高したのか判らない。

 

イラン出国からアルメニアへ入国手続き

イランの国境手前に公式な両替所は無かった。

ただし、国境直前の複数の商店が並ぶマーケット街の雑貨店で余ったイラン通貨をアルメニア通貨へ両替することが出来た。

 

イラン側のマーケット街ではアルメニアから越境してイランで買い物をするアルメニア人が多いのだろう。

 

イラン出国

すこし分かりずらい。

 

英語で<Border Terminal>の表示がある建物の横の入口ゲートで係官からチケットのような紙切れをもらい(この紙切れは出国ゲートで他の係官に渡すことになる)イミグレーション・税関の敷地内へ入る。

 

入口から300m程度進むと<Passport Terminal>と表示した建物がある。

このPassport Terminal でパスポートに出国印を押印してもらった後、出国ゲート直前の税関の小さな事務所(詰め所のような場所)でカルネに押印してもらう。 

 

その小さな税関事務所の20m程先に出国ゲートがあり、出国ゲートの係官へBorder Terminal建物横の入口ゲートで渡された紙切れを渡して終了する。税関職員はオートバイの本体確認さえしない。

 

意外と簡単な手続きでイミグレーションと税関手続き両方合わせても通常だったら1時間もかからないだろう。ただし、敷地が広く、どこへ行けば分かりずらいため、当方は出国手続きに一時間以上かかった。

 

アルメニア入国手続き

国境の川にかかる橋を渡るとアルメニアになる。

 

イミグレーション

入国検問所の後に警備員の詰め所みたいな小さな建物ある。その小さな建物がイミグレーションの手続き場所である。当方はイミグレーションとは気が付かずに先に進んでしまい、折り返して戻ってきた。

 

イミグレーションでパスポートに押印してもらうのに2030分位時間がかかった。係官は当方のパスポートにおされている多数の他国のビザを一つ一つチェックした上、パスポートの顔写真を当方の顔と何回も見比べた。 

 

当方の追加ページがある分厚いパスポートが怪しいと思ったのか、本人顔写真のページをルーペを使って細部までチェックした挙句、同僚を呼んで当方がパスポートの本人かどうか再確認をしていた。

 

税関手続き

税関で一時輸入の書類を作成してもらい、書類作成の費用として5,800ドラム(アルメニアの通貨で約1600円)を同じ場所にある銀行窓口で支払う。この銀行窓口の裏側に銀行ATMがあり、クレジットカードで現地通貨のドラムをキャッシングできる。

 

その後、オートバイを税関エリア内へ持ち込み、荷物をオートバイから降ろして、歩行入国者と同じ建物のX線検査機まで運び、荷物検査を受けて終了する。

 

入国管理官や税関職員は英語を全く話さないため、グーグル翻訳が必要だった。コミュニケーションの問題もあり、手続きがスムーズに行かずに当方は2時間近く時間がかかった。

 

アルメニアの入国管理官や税関職員の対応は冷たく横柄だった。三十数年前までソビエト連邦の一部だったため、ロシアの体質が残っているのだろう。

(イラン側の高台からNurduz国境付近を見る。写真下側はイラン領。少し分かりずらいが、写真の真ん中あたりは国境の橋。写真上部はアルメニアの町)

 

(国境の橋をアルメニア側からイラン側を見る。)
 

走行ルート

テヘラン(Tehran)~210km~チャールス(Chalus(1泊)~230km~バンダール・アンザリ(Bandar Anzali(2泊)~250km~アルダビル(Ardabil(2泊)~日帰りツーリングで温泉町サリーン(Sarien)往復70km~アルダビル~230km~タブリーズ(Tabriz)~日帰りツーリングで洞窟住居のカンドバン村(Kandovan)往復110km~タブリーズ~150km~アルメニアとの国境ノルドス(Norduz)でアルメニア入国後~70km~アルメニア最初の宿泊地カパン(Kapan)で投宿


(赤線は首都テヘランからタブリースまでの走行ルート。 テヘランは地図右側の下から2番目の赤丸印の位置。タブリースは一番左の赤丸印の位置。地図上部の海は世界最大の塩湖、カスピ海)

 

 

以下同ルートのコメント。

 

テヘラン(Tehran)~チャールズ(Chalus210km

カスピ海側へ一般道路を北上する。テヘランの北には山脈があり、山脈の南側(テヘラン側)は雨が降らない乾燥地帯だが、山脈の北側(カスピ海側)は降雨が多いため風景が全く異なる。(前述)

これほど山の南北で景色が異なる国は少ないだろう。

 

カスピ海沿岸はリゾート地帯になっている。海岸沿いには家族旅行者用の台所設備があるアパート型ホテルが多かった。

(チャールズ=Chalusの投宿ホテル6階からカスピ海を望む)

 

(チャールズ=Chalusのカスピ海浜辺)

 

(カスピ海浜辺の有料休憩座敷ベンチ)

 

チャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)230km

カスピ海沿いに連なる町々を通過して幹線道路を走行する。

幹線道路沿いは町が多いため、道路には多くのハンプス(車のスピードを落させるための道路上の凸型の突起物)がある。そのため、スピードは時速50km60km位しか出せず時間がかかる。 

 

バンダル・アンザリのホテルは前泊したチャールズのアパート型ホテルと経営者が同じで、ホテルの部屋代は割り引いてもらった。また、無料で昼食まで提供してもらった。ただし、後で経営者に同ホテルの事をブログで紹介してほしいと依頼されたので、お礼の意味をこめて快諾した。

 

バンダル・アンザリには貿易港がある。港周辺は警備が厳重だろうと思ったが、実際には写真は撮り放題で警備員の姿は見なかった。

(チャールス=Chalusからバンダル・アンザリ=Bandar Anzaliへ向かう途中のカスピ海沿いの幹線道路。歩道の植木が上手に剪定されていた。)

 

(チャールスからバンダル・アンザリへ行く途中の町のロータリー。何故か旗でなびいていた。)

 

 

(オートバイで走行中に無性にスイカが食べたくなった。当方が<スイカを1/4切り売りしてほしい>と依頼すると、スイカ売りの男は<切り売りはできないが>と言って見世物用に半分に切ってあったスイカを<食べていけ>と少し分けてくれた。)

 

(カスピ海沿岸地方の田植え直前の水田)

(カスピ海沿岸地方の田植え風景。手押し式の田植え機を使用していた。)

 

(サフランで色を付けたバターライスとシチューのカスピ海沿岸地方の名物料理バガラガト=Baghaleh-ghatogh)

 

(写真左側のイラン系カナダ人女性ロザさんはカスピ海沿地方出身だった亡き父親の土地の管理のため毎年数か月同地に滞在中だった。彼女は上の写真の郷土料理を当方にご馳走してくれた。)

(バンダル・アンザリで投宿のHotel Olympicの本館)

(Hotel Olympicの上階から平屋の別館とカスピ海を見る。当方は紫色の屋根の平屋の別館に宿泊した。)

(バンダル・アンザリの港からタグボートに曳航され出港する貨物船。)

(バンダル・アンザリの海岸=港の岸壁から臨む。)

 

バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)~アルダビル(Ardabil250km

バンダル・アンザリから160kmはカスピ海沿いを北上するが、そのままカスピ海沿いを進むとアゼルバイジャン領に入る。

 

アゼルバイジャンは外国籍の車両での入国を現在許可していない。そのため、アゼルバイジャンと国境を接する町アスタラ(Astara)でイランの内陸部(西側)へと向かう。

 

高地のアルダビルに至るまでに標高1,000m程度の峠越えがある。その峠に到着するまでは道路は深い濃霧(雲)に覆われて、前方が見えず怖い思いをした。峠を越すと雲の上の高地となり、晴れ間が広がっていた。

 

アルダビルから約30km西に温泉町サリーン(Sarien)がある。温泉へ入るため、日帰りツーリングで訪れた。(前述)

 

アルダビルの町ではツーリング中では珍しく3つ星ホテル(Hotel Nigen)に投宿した。ホテル代がイランの他の都市より断然安かった。ビュッフェ(Buffet)形式の朝食付きのツイン・ベッドルームの部屋代が12米ドル(約1,600円)だった。

(バンダル・アンザリからアゼルバイジャンとの国境の町アスタラ=Astaraへ向かう途中。水田の向こうにはカスピ海が少し見える)

(アスタラからアルダビル=Ardabilへ向かう途中の峠道は深い濃霧=雲がかかっていた)

 

(アルダビルへ向かう途中の高原)

(アルダビルへ向かう途中の高原)

(アルダビルの旧市街の夕暮れ時)

(アルダビルの甘党の店。蜂蜜と黒ゴマ等を材料にしたあんこのような甘みのハルラ=Halra。小さなカップにいれて食べる)

(アルダビルの町で自慢げにカワサキのオフロードバイクに乗るイラン人。バイクのシートが高くて、当方は地面に足が届かなかった。)

 

アルダビル(Ardabil)~タブリーズ(Tabriz230km

高地だが、小麦畑が広がる大地を幹線道路が通る。この大地には木は生えていないが、この季節は降雨のためか、なだからな山々は草に覆われ緑色となり、植物の生命を感じさせる。

 

タブリースにはイランや中近東でも最大級の7000店舗があるユネスコ世界遺産のバザール(商店街)がある。

 

タブリーズの南方約50kmに位置して洞窟住居があるカンドバン村(Kandovan)を見学するため日帰りツーリングをした(前述)

(アルダビルからタブリース途中の高原の大規模農地。幅が100mぐらいの散水機械を使っている。)

 

 

(タブリーズ・モスクに残る高さ40m位の巨大な門。その昔には罪人をこの門の上から突き落としたと言う。)

 

(タブリーズの歩行者専用のショッピング街)

(ミニカッパドキアと呼ばれるカンドバンの村=Kandovan)

(カンドバン村の洞窟を利用した住居)

(カンドバン村の洞窟住居の居間)

(カンドバン村の土産店の店主。当方はお茶をごちそうしてもらった。)

 

タブリーズ~150km~アルメニアとの国境(ノルドス=Norduz)~アルメニア入国後~70km~カパン(Kapan) 合計220km

タブリーズからアルメニアとの国境までは山の中を通る最短ルートを進んだ。舗装道路かダート道かどうかも知らなかったが、ホテルの従業員は同ルートは舗装道路で問題ないと言う。

 

イランでは今までに見なかった谷あり、山あり、ワインディングロードありの変化に富むルートだった。久しぶりにオートバイの走行を楽しんだ。

 

国境には11時ごろに到着したが、国境での出国手続きの場所が判り難かった(前述)。

 

アルメニアへ入国すると、今まで通過した東南アジア諸国やインド等の南アジア及びイランと違う。

イミグレーションや税関職員のロシアと同じような冷淡な対応に、改めて旧ソ連邦の一部に入ったと実感した。

(タブリーズからアルメニアとの国境方面へ向かう途中の山岳道路。)

 

(タブリーズからアルメニアとのNorduz国境へ向かう途中。雨が降らない土地だが、灌漑を使って小麦を栽培する。)

(アルメニアとのNurduz国境付近は人が住むような環境ではない険しい山に挟まれた盆地だ。この道路の数キロメートル先に国境があった。)

 

 

以上


 

イラン ( 中編)シラーズ(Shiraz)~エスタファン(Estafan)を経て首都テヘラン(Tehran) 1,400km (5/95/18

(イランの標高差を表したジオラマ地図。下の走行地図と照らし合わすと内陸の主要都市は標高1,000m以上の高地に位置することが判る。)

 


(イランの走行地図。赤線は走行ルート。一番左上の赤丸印はアルメニア国境に近いタブリーズ=Tabriz。一番右の赤丸印はパキスタンのダルバンディン=Dalbandin。右側2番目の赤丸印がイラン東部のザヘーダン=Zahedan。地図下の海はアラビア湾。地図上部の海はカスピ海。)


イランビザ(Visa)を置き忘れて往復400kmの走行

シラーズ(Shiraz)でデータ回線が繋がり易いと評判の携帯電話会社イランセル(Iran Cell)のSIMカード

を買うためにイランセル(携帯電話のキャリア)代理店を探したが、なかなか見つからない。

 

前日投宿していたホステルのオーナーに連れられて2軒のイランセルの代理店を訪問したが、外国人向けの受付はしていないと断られた。

 

やっと道行く人に教えてもらった代理店へ行くと、システム故障で直に加入出来ないと言われる。諦めて次の投宿地ヤスジ(Yasuj)へ向かった。

 

翌日Yasujのホテルをチェックアウトする際に、紙に印刷したイランのビザが無いことに気が付いた(*イランビザはパスポート上に直接押してあると、米国等への入国を拒否される可能性があるため、パスポートとは別の紙上にビザを発給する。そしてイラン入国時のイミグレーションではそのビザの紙にイラン入国印を押印する)。

 

ビザの紙をパスポートに挟んで持っていたはずだったが。

前日シラーズの町でイランセルの携帯電話用SIMカードを買おうとした際にビザの紙を代理店に見せたことを思い出した。

 

ヤスジのホテルのスタッフにシラーズのイランセルの代理店を探し出してもらった。やはりイランセルの代理店にビザの紙を置き忘れていたことが判った。

 

前日シラーズから200km走行してヤスジまで来たと言うのに、またシラーズに戻らなければならなくなった。 ビザの紛失よりマシかと思い、ビザを取戻すためシラーズへ戻ることにした。

 

ヤスジのホテルのスタッフは1時間以上シラーズの複数のイランセルの代理店へ電話してもらい大変有難かった。

 

また、当方がビザを置き忘れたシラーズの代理店スタッフはインスタグラム(SNSの一つ)で当方を探し出して、当方宛にビザの紙を預かっている旨のメッセージを送付していた。しかしながら、当方はインスタグラムはほとんど使わないため、そのメッセージに気が付かなかった。

 

イランではSNSの通信手段としてインスタグラムを使う人が多い。

 

カーナビアプリの位置情報が狂いだす

シラーズはテヘランから700800km離れている。シラーズでスマホに入れているカーナビアプリの

Maps.Meが動かない。

 

当方はシラーズいるのに当方の現在位置は数百キロメートル離れた首都テヘランの位置が出てくる。 グーグルマップや他の位置情報アプリでも同じように当方の位置情報はテヘランにいることになっている。

もう一つのスマホでも同様にカーナビアプリが誤った位置を示す。 

 

但しカーナビの位置情報が狂う特定区域から数キロメートル離れると正常に戻る。


6年前ロシアでもエカテンブルグとか戦略都市ではガーミン製のカーナビやMaps.Meの地図アプリが動かなかったことがある。恐らくカーナビ用の衛星シグナルを妨害されているのだろう。

 

後日テヘランをオートバイで走行中にもある数キロメートルに渡る特定区間ではスマホのMaps.Meのカーナビが作動しなくなった。

 

写真好きなイラン人

写真を撮るのが好きな人は多いが、個人情報の保護意識が浸透して自らが他人の写真に撮られるのが好きな人は多くない。

 

しかしイランでは写真を撮るのも、他人に撮られるのも好きな人が多い。シラーズのエラム公園で民族衣装を着た庭園内の歴史的建物の係の女性を写真で撮っていると、その女性の隣に庭園内を訪れていた若い女性が写真の撮影視野に入って来る。 邪魔だなと思っているとその女性は自分の写真を撮ってくれと言う。 

 

庭園内には複数の女子中学生か高校生のグループが制服姿で来園していた。当方が写真を撮っているのに気が付くと女子中高生グループが集団で写真を取ってほしいと当方にアピールする。イスラム教の国々では基本的に女性を写真に撮ることはタブーとされているがイランではそうではないらしい。

 

女性のみならず、当方がバザールを散策時にも靴屋の職人が<俺の写真を撮っていけ>とか若者の集団が写真のポーズで構えたりと他人の写真に撮られるのが好きだ。

 

(シラーズのエラム公園で写真撮影をアピールする女子中高生グループ。)


イラン人宅に招待される

エスタファンの宿で知り合った30歳代半ばのイラン人がいた。 テヘラン在住だと言いい、当方がテヘランへ来るなら是非自宅を訪ねてくれと言った。

 

当方はイラン人がどのように暮らしているか興味もあり、言葉に甘えてテヘランで同氏宅を訪れた。同氏は独身で3人兄弟の長男だった。両親と一緒にテヘラン市内の広いマンションに家族5名で暮らしている。

 

父親は大学でアラビア語の教授だと言い、同氏自身もテヘランで有名な工科大学のメタル・エンジニアリングの博士課程を終了後、一般企業で職を得ていると言うエリートだ。

 

同氏の大学院時代の友人も加わり、主に日本の社会や習慣について当方に矢継ぎ早に質問してきた。同氏は海外での留学経験は無いと言うが、流暢な英語を話した。

 

当日両親はイラン国内を旅行に出かけ不在であったが、母親が作ってくれておいた夕食をご馳走になった。

(テヘランのモーセン・アブディ氏(Mohsen Abdi)=緑色のTシャツを着た男と兄弟及び友人。)

 

(テヘランのモーセン・アブディ氏宅で夕食をご馳走になる。)

 

テヘラン証券取引所を訪問

イランに入国するまでイランに証券取引所があることを知らなかった。

 

イランの株式会社に投資する投資信託等のファンドも聞いたことも無かったし、米国主導の金融制裁を受け対外的な経済活動に制限を課せられているイランに投資機会があることすら知らなかった。

 

早速テヘラン証券取引所に電子メールで面談を依頼すると、翌日には面談可能な旨の返事を受け取った。

当方が問い合わせしても、返事すらよこさない多くの国々の証券取引所とは段違いのスピードだ。

 

テヘラン取引所訪問では当方が受付でもたもたしていると伝統的な黒い服をきた女性が2名現れて当方へ流暢な英語で自己紹介と簡単に取引所の説明をしてくれた上、建物上階のミーティングルームへと案内してくれる。 

 

イランは他のアラブ湾岸諸国等のイスラム諸国とは異なり、女性の社会進出が進んでいる。ホテル、銀行、両替商、小売店等旅行者の目がとまる場所には女性が働いている。女性の社会進出は社会の成熟度を測るバロメーターだろう。

 

テヘラン証券取引所(TSE)には約380社の企業の株式が上場されている。時価総額は85,730兆リアル=約22兆円)と言う。

 

同証券取引所の他にも店頭取引(OTC)の取引所もあると言う。イラン企業にとって株式を取引所に上場するメリットは資金調達等の他に利益に課せられる税金の軽減目的があると言う。上場すると20%25%事業利益に課せられる税金が軽減されると言う。

 

過去3年間のテヘラン証券取引所の代表的なインデックス(指数)TEDPIXTehran Dividend & Price Index)のトータルリターンは約350%と高い。現状のインフレ率55%を考慮しても十分利益になるようだ。

 

株式投資の主役はオンライン投資家だと言う。日々の売買の9割がオンライン経由の注文と言う。アラブ湾岸諸国、パキスタンやアフガニスタンからも投資資金が流入していると言うが、外国人投資家の株式保有率は約4%強と少ない。

 

上場企業の発行済み株式数の10%未満を保有する非戦略的投資家は投資利益を国外へ持ち出す制限が無いと言う。ただし、10%以上を株式を保有する戦略投資家は2年間株式の売却が出来ない等の制限がさせられている。

 

上場企業の平均PER9倍、PBR5倍、配当利回り6%と国際的な水準だが、インフレ率55%ではこれらの投資指標も虚しく映る。

 

イランは米国主導の経済制裁を課せられているため、経済が上手く言っていないのは誰の目にも明らかだ。高率のインフレは原油の生産量や輸出が思うように伸びず、国家財政が厳しい為だと面談した取引所の調査部の部長が言う。 

 

政治問題が絡むだけに、イランへの米国主導の経済制裁の行方は判らない。ただし、イラン国外には約8百万人イラン系の人々が居住し、イラン本国への援助を惜しまないだろうとイラン経済発展の可能性を同部長は指摘する。

 

米国主導の経済制裁が解除されない限り海外投資家は投資しづらいだろう。

 

ただし、当方は現状マーケットでの実勢為替レート(政府発表の公式レートは実勢レートの10倍イランレアルが高い))では、イランリアル(通過)が割安だと感じる。物価がドルや円建てで測ると余りにも安い。東南アジア諸国や南アジアの国々よりも安い。

 

マーケット実勢レートでは1米ドルあたり約50万レアル(1円当たり約3,700レアル)だ。

(テヘラン証券取引所のビル)

 

(テヘラン証券取引所の1階吹き抜けはスペースは証券会社ブースがガラス張りの奥に並ぶ。)

 

(テヘラン証券取引所で面談したリサーチ部長と国際部門の女性スタッフ。)

 

(テヘラン証券取引所のビルから見たテヘランのビジネス街=市内北部。)

 

走行ルート(約1,400km

シラーズShiraz2泊)~190km~ヤスジYasuj1泊)~190km~Shiraz1泊=ビザを忘れたため引返す)~Abadeh経由510km~イスタファンEstafan3泊)~アブヤネAbyaneh(ピンク色の村)経由~250km~カシャーンKashan(1泊)~280km~首都テヘランTehran(3泊)

(シラーズ=Shiraz~首都テヘラン=Tehranの走行ルート。シラーズは左側一番下の赤丸印。テヘランは左側一番上の赤丸印の位置にある。)

 

以下走行ルートのコメントを記す

 

シラーズ(Shiraz)~ヤスジ(Yasuj)~シラーズ(Shiraz) 380km

前述したようにシラーズにビザを置き忘れたため190km離れたヤスジへ入って、そこからシラーズに引返した。

 

シラーズ~ヤスジの谷間の平野部にはリンゴの果樹園が多かった。また、降雨が少しある山岳地帯もあるため、山の裾には小さな草が生え春の訪れを感じた。 このルートは景色の良いワイディングロードの山岳地帯を通過すると聞いて選んだルートであった。

 

ヤスジから更に先のイスタファン(Estafan)へ抜ける山岳ルートも景色が良く、オートバイツーリングには最高と聞いていたが、ヤスジからシラーズに引返したため走行できず残念であった。

(シラーズ=Shiraz~ヤスジ=Yasuj間にはリンゴの果樹園が目立った。)

 

(シラーズ~ヤスジ間の緑の牧場)

(シラーズ~ヤスジ間の山岳地帯の景色)

 

(ヤスジ=Yasujの中心部の歩道に人の列があるのでのぞき込むとパン屋だった。夕食用の焼き立てパンを買い求めて人々が列を作っていた。)

(ヤスジのパン屋の厨房)

 

シラーズ(Shiraz)~イスファハン(Estafan510km

今回のオートバイツーリングの一日の最長距離の走行だった。 本来なら景色の良いワインディングロード

があるヤスジ経由のルートを通りたかったが、時間を優先してハイウェイが整っている主要幹線道路を走行した。

 

午後になると砂漠が熱せられるためか、台風のような強い西風が吹く。 オートバイを傾けながらの走行だ。

風に負けないように首と肩に力が入る。そのためかイスタファン到着後はいつもより疲れを感じた。

 

イスファハンでは前泊したシラーズのホステルZiba Traditional Hostelの経営者の兄弟が経営する

Taha Traditional Hostelに投宿した。 旧市街の伝統的家並みがある地区の中庭がある古い家構えの宿だった。当方は木陰がある宿の中庭の椅子に座りお茶をすする生活スタイルすっかり気に入った。 

 

ヤスード(Yazd)、シラーズ(Shiraz)、イスタファン(Estafan)とこの先のカシャーン(Kashan)では旧市街の伝統的な中庭がある家構えの宿に宿泊した。

 

イスタファンはサファビー朝のアッパーズ大帝が1597年に首都にして以来1795年にテヘランへ首都が移されるまでの約200年間イランの都として栄えた。

当時の栄華を誇るモスクや庭園等のユネスコ世界遺産があり、観光客必見の都市である。 日本で言えば京都のような感じだろう。

(シラーズ~エスタファン=Estafanへのハイウェイ沿いには写真のような禿山が続いていた。)

 

(エスタファンの有名なMajesed Eman=エマーム・モスク 。ドームの高さは54m。メナーレ(塔)の高さは48mある。1638年完成)

(エスタファンのMajesed Jame=ジャメ・モスク。エマームモスクほどは大きくないが、数世紀にわたる増築はイランの建築様式のパレードだと言われている。)

 

(エスタファンのエマーム公園では金曜日は友人同士や家族が揃って出かけて芝生でお茶を飲みながらくつろぐ。)

(エスタファンのエマーム公園の北側はバザールの入口門となっている。)

 

(エスタファンの下町商店街)

 

(エスタファンの中心街でも古びれて使われていない建物群があった。)

 

(エスタファンの中心街の歩行者専用道路と専門店街。)

 

(恵まれない人々への寄付金箱。)

 

(エスタファンの旧市街はこのような民家の土壁で覆われている。)

(エスタファンで宿泊した宿=Taha Traditional Houseの中庭。強い陽ざしも木陰では涼しく感じる。)

 

イスファハン(Esfahan)~アバヤネ(Abyaneh)経由~カシャーン(Kashan250km

ピンク色の壁で統一された家並みがあるというアバヤネ(Abayaneh)の村が観光名所と聞いて訪れた。

 

主要幹線道路からそれて山道を進んだ谷間の村だった。自然環境の厳しい木も生えない岩山に囲まれた谷間の村だ。ピンク色に統一された家並み以外これと言ったものは無い。 耕作地も殆ど無い谷間の村故、人々はどのように生計をたてているのだろうかと思った。

 

ハイウェイとは別のエクスプレスウェイという日本の東名高速道路のような自動車専門道路がある。オートバイの通行は禁止されている。 しかしカーナビに誘導されエクスプレスウェイに入ってしまった。

エクスプレスウェイで速度違反を取り締まり中の警察官がいたが、当方へ<行け、行け>の合図をする。

(アバヤーネ=Abyanehへ向かう地方道。)

 

(アバヤネの村の建物はこのような色で統一されている。)

 

(アバヤネ村を訪れるイラン人観光客。)

 

(エクスプレス・ウェイ=高速道路は車が少なかった。オートバイの通行は禁止されている。)

(カシャーン=Kashanで宿泊した旧市街の伝統的な建築様式の宿。)

 

カシャーン(Kashan)~首都テヘラン(Tehran280km

カシャーンからエクスプレス・ウェイ(自動車専用道路)に乗り、テヘラン方面へ向かう。 途中エクスプレス・ウェイ上にオートバイ通行禁止の道路標識を見つけるが、無視した。

 

コム(Qom)の町を通り過ぎてからエクスプレスウェイの右側数キロメートル先に白い湖が見える。塩湖の水が干上がり、ボリビアのウユニ塩湖のようになっているのだろうと思い、エクスプレスウェイから下りて荒野の一本道を抜けて塩湖を見学した。

 

塩湖に通じる荒野の一本道を土煙を上げながら当方へ向かってくる車がいた。警察の車だった。塩湖周辺は原子力発電所があり立ち入り禁止になっていると言う。(当方はそんな標識は見なかったが)

 

何もない荒野で当方は見張られていた。警察官は当方を怪しいやつとみて、当方のカメラの撮影データや荷物を調べ始める。20分~30分後に当方は放免となったが、その場所でドローンを飛ばしていたらスパイ容疑で厳しく取り調べられただろう。


テヘランで欧米の外国人旅行者がよく利用するというホステルを最初に2軒訪ねた。 一軒目は満室だった。共同部屋のベット(ドミトリー形式と言う)なら空きベッドがあると言うが、プライバシーが保てないので断った。

 

二軒目はバスルームが無いベット一つしか置いていない独房のような狭い個室の部屋代は24ユーロ(約4千円)と言う。外国人向けの割高な料金だ。

通常24ユーロ出せば3星クラスのホテルの部屋に泊まれる。 当方は既にイランに3週間滞在しているので、イランの相場観がある。

 

当方は24ユーロは相場以上の割高な料金と判断して、外国人旅行者にはあまり知られていないホステルを訪ねた。そのホステルの部屋代は11米ドル(約1,500円)だった。

(イランの各町の主要道路沿いには1980年代初頭のイラン・イラク戦争の戦没者の写真を掲げている。)

(カシャーン=Kashan~首都テヘラン=Tehranへ向かうエクスプレス・ウェイ)

 

(遠くに白い塩湖が見える)

 

(塩湖に近づくと白く見えない。沖では採掘した塩の塊が見える。)

 

(塩抗で見つかった3世紀のミイラ。Saltman=塩の男と呼ばれている。テヘラン国立博物館蔵)

 

以上


 

イラン(上編)国境の町ザヘーダン(Zahedan)~シラーズ(Shiraz1500km(40/305/7)


 

イランは車社会

インドやパキスタンでは車は庶民には普及していない。小型オートバイが庶民の移動の主な手段となっていた。

 

しかしながら、イランではオートバイをほとんど見かけない。その代わり町には車があふれている。新品の車と言うわけでないが、しっかり手入れをしているフランスのブジョーの乗用車が多い。

 

あるドイツ人の旅行者からイランにはフランスのプジョーの工場があるため、プジョーの乗用車が多いと聞いた。 

 

ハイウェイでは貨物トラックも多い。インドやパキスタンでは3040年位は使っていると思える古くて、上り坂は徒歩位の速度しか出ない貨物トラックがほとんどだったが、イランの貨物トラックは比較的新しく、ハイウェーをすっ飛ばすぐらいで高速走行する。

 

国境を跨いだらイランほど状況が変わる国は多くない。


インターネットの接続状況が非常に悪い

イランでは政府がインターネット接続可能なサイトに制限をかけている。そのため、Lineも含めフェースブックやTwitter等の欧米系SNSには繋がらない。また当方がブログ投稿するAmebloへも繋がらない。

 

抜け道としてVPN(私設のインターネット回線)が普及しているが、通信速度が遅い。ある年配の英語を話すイラン人は<革命後の政府はだめだ>と吐き捨てるように言った。

 

ゴミが落ちていない奇麗な町

感心するのが、道路や公園等にゴミがほとんど落ちていない。インドやパキスタンでは人々は道路に当たり前のようにゴミを捨ていた。

 

また、インドやパキスタンでは道路はゴミと牛の糞尿で酷く汚かったが、イランはそれとは対照的にきれいであることに驚いた。 飲料のペットボトルや買い物時にくれるプラスチック製のレジ袋さえ道路や公園に落ちていない。

 

英語が全く通じない

外国人観光客が少ないためか、英語が全く通じない。 ホテルでもYESNO位の言葉さえも出てこない。街には商店が軒を連ねているが、アルファベット表記の看板が全くない。数字もアラビア数字に似た独自のもので、世界的に普及している数字を使用しない。

 

当方が商品の値段を尋ねると、イランの若い人でも価格をペルシア数字で書いて教えてくれるが、当方にはペルシア数字は理解し難い。日本に置き換えると一、二、三の漢数字しか使わず、通常の1,2,3と言う数字表示は使用しないということだ。

 

アラブ社会ですら、世界的に普及している数字を使用しているのに、何故イランはペルシャの数字を使うのだろうかと不思議に思う。グローバル化から取り残されたガラパゴス的な存在なのだろうか。

 

ガソリン価格は激安だが、ガソリンスタンドが非常に少ない

ガソリンの品質は判らないが、1リットルあたり、3万リアル(約8円)と非常に安い。10リットル入れても80円相当だから、水より安い。

 

ガソリンスタンドの経営には妙味がないためか、ガソリンスタンド数が極端に少ない。大きな都市でもガソリンスタンドは常時給油を待つ車の列が出来ている。 100km200kmの距離を走行してやっとガソリンスタンドがあるといった状況だ。

 

人懐こいイラン人

インドやパキスタンのように外国人へ<どこの国から来たか?>等やたらと声をかけてこないのは有難い。

 

しかし、人々は外国人には興味があるようだ。英語が出来ない、みだりに話しかけるのは礼儀を欠く等の配慮もあるだろう。

 

当方には心地よい距離感だと感じるが、当方が誰かに道等を尋ねると周りの人々が集まって、

当方に説明しようとしてくれる。言葉は通じなくても、心に通じるものがある。

 

世界遺産の遺跡があるペルセポリスの庶民的なホテルではイラン人の宿泊客達に親切にしてもらった。

英語が出来る息子を携帯電話で呼び出して、その息子に通訳をしてもらったり、当方が<飲料水をほしいので、どこで買えるか?>と聞けば、飲料水をどこかで買ってきてくれ、無料でくれたり等、いろいろ親切にしてもらった。

 

イラン人は親切だと聞いていたが、その通りだった。

(ペルセポリスに近いホテル・ダルビッシュで親切にしてくれたテヘランからの宿泊客)

 

イランに入国後の最初の10日の走行ルートは以下の通り。

 

パキスタンからイラン入国~Zahedan(2泊)~340kmBam(1泊)=世界遺産のバム要塞跡見学~350kmKerman(2泊)~360kmYazd(2泊)=中世にイタリア人旅行家のマルコ・ポールも訪れた美しい町~410kmMarvdasht(1泊)=世界遺産Persepolisの古代遺跡見学~70kmShiraz2泊)

(イラン入国から最初の10日間の走行ルート。地図の一番右側の赤丸はパキスタンのダルバンディン。一番右(ダルバンディン)から2番目の赤丸の位置がイラン入国最初の投宿地ザヘーダン。地図の一番左の赤丸はシラーズの位置。地図の下部の海はペルシャ湾(アラビア湾))。

 

 

以下各走行ルートのショートコメント

 

ザヘーダン(Zahedan)~バム(Bam) 340km

ザヘーダン(Zahedan)の町ではイランの携帯電話のSIMカード購入とイランでのオートバイの強制保険の加入手続きで忙しかった。イランには携帯電話の会社が2つ存在する。

 

インターネット回線の繋がりが良いのはIran Cellと言う携帯電話会社だと事前に聞いていたが、もう一つの携帯電話会社(MCI)SIMカードを買ってしまった。 

 

事前にスマホにインストールした無料VPN(私設ネット回線)アプリが作動せず、フェーズブックやライン等のSNSには繋がらない。後日Shirazの町で有料のVPNをスマホに入れてから、やっとフェーズブック等のSNSにつながるようになった。

 

オートバイの強制保険の代理店を探し出して訪ねた。同代理店では外国人の保険の加入手続きが初めてとあって、23時間程度待っても手続きが終わりそうもない。当方はしびれを切らして、この代理店での手続きを諦める。 

 

イランへ入国時、国境での入国手続きとオートバイのカルネ手続きを手助けしてもらったイラン観光省に雇われているハミッドというイラン人(自称King of Taftan Border=タフタン国境の王)に電話してバイク保険の代理店を教えてもらった。

 

同氏はたまたま仕事上の関係でザヘーダンの町に居合わせていた。

同氏に案内されて市内のイラン保険の代理店を訪問すると1020分程度で短時間で保険の加入手続きが済んだ。もちろんハミッド氏は手数料を取らない。

 

ザヘーダンからバムへの道は月面にいるかの様に岩と荒野の殺伐とした大地だった。

荒野を一本の道路(ハイウェイ)が一直線に伸びる。この区間の最初の200kmにはガソリンスタンドが無いため、少し不安に感じた。


ガソリンスタンドを見つけた時はほっとした。

(ザヘーダン=Zahedanの保険会社。女性職員もいる。結局この保険会社では手続きに時間がかかりすぎたため、バイク保険に加入することを断念)

(ザヘーダンの焼肉店。ミンチした肉を串に付ける料理人)

 

(ザヘーダンからバムへ向かうハイウェイ)
 

 

(バム=Bam市内のヤシの木の街路樹。南国の旅情を感じる)

 

バム(Bam)~ケルマン(Kerman350km

バムの宿(Akabar Guesthouse)ではドイツからYAMAHAテネレ700のオートバイでイランまでツーリング中の中高年ライダーと出会い、情報交換ができた。

 

当方は一足先にケルマンへと向かうが、同ドイツ人ライダーも一日遅れでケルマンの同宿に投宿する。

 

バムの市内にユネスコ世界遺産のひとつのバム城塞遺跡があった。

 

城塞遺跡の中には、復元前で原型を留めていない住居跡が多数ある。復元後の民家や町並みは立派だが、紀元前の時代に復元後のような立派な建物が本当にあったか疑問に思った。

 

ザヘイダンからバムへの移動時と同様に草木が無い荒野の一本道をただひたすらバイクで走り続ける。

 

ケルマンの手前のモハン(Mohan)の町に評判が良いゲストハウスがあるとのI Overlander(陸路旅行者用の情報アプリ)の書き込みを参考に同ゲストハウスを探した。 

 

しかしながら、同書き込みはコロナ前の事であり、同ゲストハウスは廃業していた。 とんだ道草になってしまった。

 

ケルマンでもI Overlanderの書き込みを参考に宿泊先を決めた。小さな宮殿のような煉瓦造りの立派なゲストハウス(Khorram Hostel)だった。ペルシャ絨毯を敷き詰めた部屋は広くて居心地が良い。部屋料金は5百万リアル(約1,300円)と割安だった。

 

30歳前半と思われる若手のオーナー兼経営者に聞くと、軍の高官だった祖父が残した建物を改造したと言う。バムで知り合ったドイツ人ライダーに電子メールでケルマンのゲストハウスを紹介すると、同氏も是非投宿したいとのことで予約を依頼してきた。同ドイツ人ライダーは一日遅れて、同ゲストハウスで当方と合流する。

 

ケルマンは物静かな都市だった。

バザール以外これと言った見どころは無かった。

 

イランに入国以降、食事には手こずっている。 ハンバーガーやピザ等のファストフート店はあるが、レストランや食堂が殆ど無い。イランには外食の習慣は余り無いようだ。 

(世界遺産のバムの要塞跡。復元された部分)

(世界遺産バムの要塞跡全体)

 

(バムからケルマンへの向かうハイウェイ)

(ケルマンのバザール)

(ケルマン市内の風を建物内に取り入れる塔=Wind Towerがある歴史的建物=写真左側)

(ケルマン市内の公衆浴場博物館。昔の浴場でのあか落とし様子を伝える蝋人形=写真奥と大きな浴槽)

(ケルマン市内で投宿したゲストハウス)

(バムとケールマンの宿で一緒だったヤマハのテネレ700でドイツからツーリング中のクラウツ・ピーター氏)

 

ケルマン(Kerman)~ヤスード(Yazd360km

ケルマンからヤスードへの道路も荒野の一本道だった。道路が通る平地は標高千メートル以上の高地だが、照りつける太陽の日差しは強く、暑く感じる。

 

ここの景色は5年間前にオートバイで走行したアメリカ(USA)・アリゾナ州の禿山がある荒野の景色に似ていると思った。直線道路の走行ゆえ、眠気を誘う。何回も眠気覚ましの休憩を取りながら、ヤスードに辿り着く。

 

ヤスードは中世の時代にイタリア人旅行家のマルコ・ポーロが西洋人として初めてヤスードを訪れた記録がある。マルコ・ポーロはヤスードは美しい町だと記述したと言う。

 

日本の都市や町に例えるとヤスードは歴史があり、こじんまりとした神奈川県の鎌倉に相当するだろう。エスタファン(Estafan)は京都、シラーズ(Shiraz)は奈良だろう。

(ヤスードの旧市街。風を建物内に取り入れる塔が目立つ。エアコンが無い時代に室内を冷やす工夫だ)

 

(ヤスードで投宿した伝統的建物のゲストハウスの内庭。内庭には木陰でお茶を飲む縁台がある)

 

(14世紀~15世紀に建てられたヤスードのジャメ・モスク=Majesed Jame。メナーレ(塔)はイランで一番高いと言われている。)

(15世紀に建てられたヤスードのAmir Chakhmagh Complex=

モスクとバザールの複合施設)

ヤスードの沈黙の塔=Tower of Silence。(ゾロアスター教徒=火を崇める宗教の鳥葬の場所)1930年代には衛生問題のため鳥葬は禁止された。)

(鳥葬の塔の頂上=直径約30mに死体を並べ死肉をハゲタカに食べさせたと言う。ハゲタカが残した骨を中央の直径約5mの穴に入れた。)

 

(砂漠に広がるヤスードの町)

 

ヤスード(Yazd)~マルブダシュト(Marvdasht410km

紀元前の遺跡ペルセポリスがあるマルダシュト(Marvdasht)を目指した。

途中の山々には雪渓が見える。標高が高い峠道では肌寒く感じる。峠道の標高は2千メートル位はあるだろう。

 

マルブダシュトは数万人規模の町だが、ホテルがほとんど無い。地元の人達に聞いてやっと見つけたホテル・ダルビッシュ(Hotel Darvish)に投宿する。

 

同ホテルはイラン人しか利用しないような小さな宿で、ローマ字表示が無い。ペルシャ語が判る人でないとホテルの看板を見ても理解できない。

 

日本のプロ野球で活躍したダルビッシュ投手の父親はイラン人だったと思う。当方はこのホテルのスタッフや宿泊客にダルビッシュ投手のことを話した。現在は米国大リーグで活躍中で年収25百万米ドル(30億円)と説明すると宿泊客は年収額の大きさに目を丸くしていた。

 

年収25百万米ドルと言えば、イランの相対的価値では300億円位に相当するだろう。

(ヤスードからシラーズ途中のハイウェイから雪が残る山が見える)

 

(灌漑を使って小麦を栽培)

 

マルブダシュト(Marvdasht)~ペルセポリス(Persepolis)~シラーズ(Shiraz) 約70km

ペルセポリスは中東の三大観光名所(英語の頭文字のPを取って3Pと表現する)の一つと旅行書の<地球の歩き方>に紹介されていた。

 

当方の記憶だと3Pとはエジプトのピラミッド、シリアのペルミラとヨルダンのペトラだった。イランのペルセポリスの記憶は無かった。

 

ペルセポリスがユネスコ世界遺産の一つと知って、同遺跡を見学する事にした。紀元前の宮殿遺跡と判る大理石の円柱がかろうじて残っている程度であった。

 

シラーズ(Shiraz)の町もユネスコの文化遺産に登録されている歴史がある都市だった。当方は狭い路地に土壁で囲われた住宅や寺院がある旧市街の地区のホステル(Ziba Traditional Hostel)に投宿した。後で知ったが、評判が良いホステルだった。

 

築年数が100年位の古民家を改造したホステルだった。

ホステルの中庭では宿泊客どうしがお茶をの飲みながら、旅の話をさかなに和気あいあいと歓談する。35歳のオーナーのハミッドは朝から夜まで働きづめで当方は感心する。

同氏はいくら頑張って働いても経済環境が改善しないイランの現状に不満を隠さない。

 

シラーズの町では観光よりもオートバイの調整(前輪ブレーキのディスクパッドの交換)とスマホとパソコンで

フェースブックやライン等のSNSに繋がるようにVPNの有料アプリに加入することだった。

 

宿のオーナーの知り合いのバイク店とインターネット関連店舗に同氏が運転する小型オートバイの後ろに乗って連れて行ってもらった。 ハミッドは今まで投宿したアジア諸国ではめずらしく<宿泊客ファースト>のポリシーを実行する男だった。

(紀元前の遺跡ペルセポリス正面入り口)

(ペルセポリスの当時の石柱)

 

(シラーズのオートバイ店。インドのオートバイメーカーBajajの販売代理店でオイル交換と前輪ブレーキパッドの交換を行った)

(シラーズの鮮魚店。内陸の都市ながら1mサイズの大型の海洋魚を売っていた)

(シラーズ投宿したZiba Traditional Hostelの内庭とオーナーのハミッド氏)

 

以上

イラン政府はインターネットの特定サイトの閲覧を禁止してる。その為、4月末から5月下旬までのイラン滞在中はアメブロへのアクセスが出来なかった。約一ヶ月遅れのブログとなってしまった。

 

 

Pakistan(後編)PeshawarQuetta~イラン入国 1,680km (4/244/29

ペシャワール(Peshawar)は日本外務省の安全情報では危険度4(最も危険)となって退避勧告がでている地区だが、危険だとは感じなかった。

 

過去に政府関係施設で爆弾テロがあったためだろう。

 

ペシャワールが属する州はパキスタンの中央政府の行政が及ばない部族自治地区(Federally Administered Tribal Area)になっている。そのためか、ペシャワールの郊外へ続く道路には治安維持にあたる軍隊の複数の検問所があった。同地区では密かに多くの武器が製造されていると言う。

 

1,250kmに及ぶ警察車両の警護

デラ・イスマイル・カーン(Dera Ismail Khan)からバルチスタン州の州都クエッタ(Quetta)を経てイランとの国境までの1,250kmでは警察の車両による警護がついた。(Dera Ismail Khan380kmQila Saifullah200kmQuetta360kmDalbandin310kmTaftan国境)

 

この区間の走行には34日かかった。Qila Saifullah,QuettaDalbandin3カ所でそれぞれ一泊づつ宿泊した。

 

Quettaでのみホテルで宿泊が許されたが、Qila SaifullahDalbandin2泊は警察署の堅い床の上で持参していたシュラフ・カバーの中に身を入れて寝た。

 

荷物を最小限にするため、キャンプ用のエアーマット等のクッションを持参していない。堅い床の上では1時間もすれば、背やお尻が痛くなり、よく眠れない。日中は終日オートバイ走行のため身体的には辛い。

 

また宿泊した警察署から外出は許されないので、持参していたチャパティ(Chapati)やビスケット等の乾燥食材で空腹を満たした。

 

警護車両は20km30kmの距離で次々と交替する。次の警護車両が駅伝走者のように事前に交替地点で待ち構えていれば、効率的に走行できる。

 

しかし次の区間の警護を受け持つ交替車両が来ていない交替場所もある。時には70ccの小型バイクの警察官が一人で警護するのんびりした警護走行もあった。

 

警備車両が付くと目立つ。仮にテロ行為があるとすれば、警備車両が襲われやすいだろう。

当方は警察車両が無い方が安全だと思った。

また、警察署等の公的施設は反政府武装勢力によるテロ行為の標的になり易いので、警察署での宿泊は逆に安全では無いと思った。

 

警護車両がつく区間では自由に走行したり、停車することが出来ないため、走行中に奇妙な形の山々等印象的な景色があっても写真に収めることが出来なくて残念だった。

 

(先導する警備車両と武装警察官たち)

(当方をエスコートする武装警察官たち)

 

パキスタン出国とイラン入国手続き(Taftan=パキスタン側国境/Mirjaveh=イラン側国境)

 

パキスタン出国手続き

パキスタンの出国手続きは、最初に税関でカルネ上にオートバイ出国の押印をしてもらう。税関建物まで警備車両が案内してくれる。手続きに約1時間以上かかった。


その後イミグレーションオフィースに向かうが、税関建物と300m400m程離れて判り難い。税関職員に案内して貰うとよい。

 

イミグレーション・オフィース手前で検問所が2カ所ある。一つ目は秘密警察の検問所だ。名前を名乗らず目つきが鋭いパキスタン人が<どこに泊まったか?、パキスタン人の友人はいるか?、パキスタンのビサ申請に当たり招待状は誰から入手したのか?>が等執拗に質問してくる。

 

当方の直前に出国手続きをしたキャンピングカーで旅行中の若いドイツ人夫婦には特に秘密警察がしつこく質問した。当初はこの検問所の質問者が誰か知らなかったが、二つ目の検問所の警察官に聞いたら、秘密警察だと教えてくれた。秘密警察の検問には40分位かかった。

 

最後に(三つ目)イミグレーション・オフィースでの出国手続きとなる。10分程度で終了する。尚、イミグレーション・オフィースの裏に小さな売店があり、そこの売店で余ったパキスタンルピーをイラン・リアルに両替してくれる。

 

両替レートは良くない。 1パキスタンルピー当たり1,550イラン・レアル)と公式レートとより少し良いが、市中のマーケットレートより良くないだろう。

 

ただし、経験則では国境から離れると両替はしづらくなり、両替レートも悪くなると考え、手持ちのパキスタンルピーを全てイラン・リアルに両替した。

 

一緒にいたドイツ人夫婦はこの売店での両替レートは悪いとしてここでは両替をしなかった。イラン入国後の最初の都市、ザヘイダンで両替をすると言っていたが、果たしで両替出来たかどうか知りたいと思う。

 

パキスタン側の出国手続きには税関手続きも含め2時間~3時間の時間を要した。

 

イラン入国手続き

イランの時刻はパキスタンより1時間半遅れている(日本との時差は5時間半)。イラン側へ入国したのは1430分ぐらいだった。イランの国境手続きは7:0015:00365日無休)だったので、イランの入国手続きにギリギリ間に合った。

 

イラン入国手続きは、イラン観光省の職員と名乗るハミッド(Hamid)が、道先案内人となり誘導してくれた。

最初のコンテナーのような小さな建物が税関だった。税関でカルネでのオートバイの入国手続きを済ませた後、立派な建物のイミグレーション・オフィースで入国手続きをする。 

 

イラン側の職員は英語が全くできないので、英語を話すハミッド=Hamidは重宝だった。当初、当方はHamidのことを後でお金を請求する国境手続きのブローカーだと疑った。しかしながらが、Hamidは最初から<お金は不要だ。自分を信用してほしいと>言っていた。 実際、お金の請求は無かった。Hamidは自分自身のことを<タフタン国境の王=King of Taftan Border>自称していた。

 

また、翌日、国境から100km離れたザヘイダンの町でオートバイ用のイランの強制保険加入の際に再度同氏の世話になった。

 

イラン入国の手続きはハミッドの手際良い案内のお陰で、1時間未満で済んだ。

(イラン側の税関建物とセロー250)

 

国境でまさかのオートバイ事故

パキスタンの出国ゲートで当方のオートバイが事故にあった。 当方の直前を行くドイツ人夫婦のキャンピング・カーが検問ゲートで一旦止まった後、突然バックしてきた。

 

キャンピングカーの後ろ約2mの距離に当方がオートバイに跨り、順番待ちをしていた。検問ゲートのパキスタン人が<BackBack>とキャンピングカーに後へ戻ることを促している。 

 

キャンピングカーが突然当方に向かって後退してきたので、当方は慌ててオートバイの向きを変えて横に逃げようとするが、間に合わずキャンピングカーはそのまま当方に衝突した。

 

当方のオートバイの前輪がキャンピングカーの後ろ側バンバーを<バッキ>と音を立てて、壊しながらバンパー内部へと入り込んだ。キャンピングカーの下にオートバイが倒れる寸前でキャンピングカーの運転手が異変に気付き車を停止させた。

 

キャンピングカーの運転手からは真後ろの当方のオートバイが直接見えず、バックを誘導するパキスタン人の誘導に従うしか無かったのは頷ける。誘導していたパキスタン人の不注意だろうが、当方は被害者だ。

 

当方オートバイの前輪フェンダー(泥除け)はフロントフォークの付け根から曲がり、無残の形になってしまった。 しかしこのフェンダーは強化プラスチック製で傷跡は残すものの、何とか元通りの形に治すことができた。 

 

心配なのはフロントフォークに衝突のダメージが生じて、走行時の前輪の安定性に問題が生じるかどうかだ。

 

その後、イラン側の最初の投宿地のザヘイダン(Zahedan)の町へと100km位の距離を高速で走行したが、前輪が揺れるようなことは無かった。 トルコに入ったら念のためヤマハの代理店で前輪フロントフォークの検査をしてもらうつもりだ。

 

残念だったのは、キャンピングカーのドイツ人夫婦が、当方のイラン側の入国手続きが終了するのは待たず、当方が知らぬ間に立ち去ったことだった。ドイツ人夫婦は当方のオートバイに修理費用が発生した際のコンタクト先として住所と電話番号を残していたが。

 

当方がハイウェイを走り出し、オートバイのフロントフォークに問題が無いかどうか確認するまで待つ位の配慮があっても良いと思った。

(先導する警察車両とドイツ人夫婦が載るキャンピングカー。当方のオートバイは2つの車両に挟まれている)

 

走行ルート(1680km

Peshawar330kmDera Ismail Khan=警察の警護走行開始~380kmQila Saifullah(警察署に一泊)~200kmQuetta(ホテル一泊後NOC=バルチスタン州の通行許可証を入手)~360kmDalbandin(警察署に一泊)~310km~警察の警護警護終了=パキスタン(Taftan/イラン(Mirjiveh)国境にてイラン入国~100kmZahedan(イランの最初の投宿地)

(パキスタンの走行ルート。一番右側の下がラホール=インドとの国境。一番左側はイラン側の最初の宿泊地ザヘーダン=Zahedan。赤丸の印は宿泊地)

 

以下各走行区間のコメント。

 

PeshawarDera Ismail Khan 330km

主要道の要所要所で軍隊の検問所が複数ある。 ある検問所では一時間弱の検問を受けた。軍隊の駐屯地の拠点長であった軍の大尉が当方と話をしたいというので、応じたら、30分ぐらいの長話となってしまった。

 

同大尉から同地域には密かに武器が製造されている拠点が多数あることを知らされた。 尚、当方が走行する少し前にポルトガル人カップルがオートバイで同地区を走行しようとしたが、外国人女性は目立つため、治安上好ましくないとの判断して、ポルトガル人カップルがそれ以上先へ進む許可を出さなかったと言う。

 

尚、Dera Ismail Khanの町の上級ホテルでは当方が同地域のNOC(通行許可証)を持っていないとの理由で宿泊を断られる。同市では警察の留置場のように窓が無く、コンクリートむき出しの部屋だった安ホテルに投宿した。

 

同ホテルでもNOCの提示を求められたが、当方は<翌日警察署で入手するので1日待ってほしい>とホテル側へ伝えて宿泊した。 (翌日NOCは入手出来ず、そのままチェックアウトしたが)

(軍の拠点の隊長は流暢な英語を話した)

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンへ行く途中の峠道からの写真)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中の道端の日陰で小休止)

 

(デラ・イスマイル・カーンの入口門)

 

Dera Ismail  KhanQila Saifullah 380km(警察車両の警護走行開始)

NOCNon Objection Certificateと呼ばれる同州を走行するための通行許可証が必要であると検問を行っていた治安維持の軍隊駐屯地の拠点長から聞いていたこともあり、同地区の管轄警察署を訪れた。

 

管轄警察署(District Police Offier)では同州の通行にはNOCは不要とのコメント得たが、これより先の当方単独でのオートバイ走行は不可との理由で、この都市から警察車両が当方を先導して警護することになった。

 

管轄警察署を訪れたことが藪蛇となってしまった。 

 

同市から120km程先へ進むとバロチスタン州となり、民間ホテルでの投宿が制限されるようになる。

当方は当日に出発したDera Ismail Khanから約280km程度先のZhobの町で投宿を考えていたが、Zhobの警察署長は同地での当方の宿泊はなんとしても阻止したかった。

 

当方のような外国人に問題が発生すると同警察署の署長の責任問題になる。そのため、その様な事態にならないように当方を上手く管轄外へ出したかった。警察署の同僚は<署長は責任を取りたくない男だからな~>と皮肉っていた。

 

同署長は当方に嘘をつき当方を上手くZhob警察の管轄外へ出した。警察署長は<Zhobから25km先にホテルがあるので、そこで投宿したらよい>と当方に言う。当方は同地で投宿すると主張したが、両者の話がかみ合わなかった。当方は、結局Zhobの町を警察車両に誘導されて25km先のホテルを目指した。

 

しかしながら、Zhobの町から40km走行してもホテルらしい建物は無い。その内に違う管轄の警察車両とバトンタッチとなった。新たな警護役は10km先にゲストハウスがあると言うが、それも嘘だった。そんなゲストハウスは無かった。そこでまた警護役が入れ替わり、<この先にゲストハウスがあるので、そこで投宿したらよい>と同じことを言う。これは外国人を先に進ませるための常套文句だった。

 

真っ暗闇の道路をZhobの町から140km進みQila Saifullahと言う田舎町の警察署に辿り着いたのは午後11時に迫る頃となっていた。

 

夜のハイウェイ走行は危険だった。対向車線を走行する大型トラックはヘッドライトを上向きのまま疾走する。

トラックの上向きのヘッドライトは目つぶしとなり、当方は前方が全く見えなくなる。後で知ったが、バロチスタン州では日没後に外国人が車両を運転することは禁止されていると言う。

 

Qila Saifullahの警察署では、当直の警察官達が宿泊する部屋に案内され、堅い床(コンクリートの上に絨毯が敷いてあるが)の上で雑魚寝をした。横たわると床が堅い。また、朝方は寒かった。結局、よく眠れず、朝を迎えた。

(ゾフ=Zhobの警察署の署長)

 

(小さな警察署の警察官)

 

(当方のオートバイが珍しくてQila Saifullahの警察署の前に集まった地元の子供達)

 

(荒地の一軒家)

(パキスタンのトラック野郎はこのようにトラックを飾っている)

 

Qila SaifullahQuetta 200km 

前日同様に警護車両が先導する。20km30km毎に警備車両が駅伝の様に交代する。

 

Quettaの町に到着すると、バックパック姿の中国人若者3名を載せた警備車両について行けと言われた。この警備車両がバスターミナルまで行きそこから動かないため、当方は単独でホテル探しを始めた。

 

前日のZhobの警察署長や警備についた警察官達の嘘で、当方は不機嫌になっていた。そして警察の言葉を信じなくなっていた。複数の警察のパトロールカーが逃亡犯のように当方の所在を探し回ったと翌日説明された。

 

この日はQuetta市内で外国人宿泊先として指定されているホテルのひとつBloomStar Hotelに宿泊する。外国人はGuetta市内を単独で行動できない上、午後5時以降(日没前)はホテルから外出も禁止され、軟禁状態に置かれる。

 

外国人が単独行動をとると、日本の江戸時代末期のように攘夷を唱える討幕派武士や浪人が外国人を襲うように反政府武装勢力に生命を脅かされると言う理由だ。 果たしてそこまで治安が悪化しているかどうか疑わしい。

 

QuettaDalbandin 360km(砂漠地帯だが、景色が良い)

午前9時にNOC(バルチスタン州の走行許可証)を発行するHome Department(役所)へ警察車両に先導され訪問して、即刻NOCを発行してもらう。 

 

同役所はNOCを20分ぐらいで発行してくれたため、その役所から次の目的地であるDalbandinに向けて直ちに出発する。通常はNOCを入手するためQuetta2泊するとの事前情報があったが、当方が単独行動のためか役所手続きが簡単に済み、Quettaでは一泊で済んだ。

 

この区間の景観は良かった。恐竜の背のような奇妙な形の山々があったり、ピラミッドのような形の山があったり、南米チリのアタカマ砂漠で見た水墨画で描いたような山が有ったりと、写真に収めたいような景色が多かった。しかし、立ち止まることが許されず、写真は撮れなかった。

 

また、南米のアルゼンチンのパタゴニアのような強風が吹き、砂漠の砂が舞い上がり前方の視界が遮られるような区間もあり、一日の内で一番変化に富んだ走行であった。

 

Dalbandinでも警察署で宿泊する部屋に案内され、そこの床で寝ることになる。当日の朝Quettaのホテルで焼いてもらったオムレツをチャパティ(インドのナンに似た小麦を薄く焼いたパン)に挟んで夕食とした。

(Quettaの役所でNOCを発行してもらった)

 

(Quettaは高さ500~600mぐらいの山に囲まれていた)

 

(強風で舞い上がる埃がすごくて視界が遮られる)

 

(交代する警備車両)

 

Dalbandin310kmTaftan/Mirijaveh国境~イラン入国後100kmZahedan(410km)

午前8時に警察署を出発して、別行動でDalbandinまで来たキャンピングカーの若いドイツ人夫婦と合流する。キャンピングカーで寝泊まりするドイツ人夫婦はDalbandin市内の別の警察施設で一夜を過ごした。

 

この区間は土砂漠の区間で、見渡す限りの土砂漠が続き、景色はつまらない。

通行車両はほとんど無い。時速90km100kmで走行して13:00頃には国境に到着する。

 

幸い当日は暑く無く、苦労なく走行で来た。ガソリンスタンドが無いと経験者から聞いていたが、ガソリンスタンはあった。そのガソリンスタンドではガソリンを入れたポリタンクから給油を受けた。

 

パキスタン警察の警備は国境で終了する。

 

イラン入国後Zahedanまでの100kmの道のりは単独で自由な走行だった。 パキスタンと比較して、イランの道路は格段良い。車も時速100km110kmで走行するため、巡航速度が時速80km90kmの当方はあおられ気味だった。

(Dalbandinの警察署。建物左側は留置場となっていた。留置されていた人達が珍しそうに当方を眺めていた。)

(Dalbandinの警察署で提供された部屋。この床の上でシュラフ・カバーにもぐり寝た)

 

以上

Pakistan (前半)LahoreIslamabadBeshamPeshawar 1,100km(4/144/23

パキスタンはイランへ行くため通過(Transit)するのみと当初考えていたが、首都イスラマバードから中国との国境へと続くキルギット・バルチスタン州の山あり谷ありのカラコラム・ハイウェイ(Karakoram Highway)はオートバイライダーにとって絶好のツーリングルートであることを知った。

 

折角パキスタンまで来たのだから、少し時間をかけて北部ルートをツーリングしたいと思い、同ルート途中まで行ったが、連日の雨天と交通渋滞で断念する。

 

パキスタンでは当方より2ヶ月先に日本を出国してアラビア半島へ渡った知人の日本人ライダーと合うことを楽しみにしていた。

 

同氏はUAE,サウジアラビア、シリア等のアラビア半島からイラク、イランを経てパキスタン入りした。当方は同氏とパキスタンのラホールで会うつもりでいたが、パキスタン入りしてからは同氏とはなかなか連絡がつかなかった。ラホールでは会えず、首都イスラマバードで会うことができた。

(写真右側の山の裾の白い線がカラコラム・ハイウェイ)

 

パキスタンの走行ルートは以下の通り。

ラホール(Lahore)320km~首都イスラマバード(Islamabad)~120km~アボッタバード(Abbottabad)~150km~カラコラムハイウェイを通行してベチャム(Becham)~ダス(Dasu)=引き返し地点~180km~再度ベチャム~210km~マルダン(Mardan)~120km~ペシャワール(Peshawar

 

(赤線がパキスタン北部の走行ルート。赤線の右側最下部がラホールの位置。赤線最上部がキルギットへ向かう途中のダスの位置。赤線左側の最後はペシャワール)

 

アラブ諸国・イランからパキスタン入りした日本人ライダーN

アラブ諸国とイランを経てパキスタン入りした日本人ライダーN氏はパキスタン入り後、過酷な走行を余儀なくされていた。パキスタンの西部に広がる砂漠地帯のバルチスタン州(Balchistan)はアフガニスタンとの長い国境を控え、警察やパキスタン政府を標的とした反政府組織がテロ等を度々起していた。

 

パキスタン政府はこの地域を陸路で横断する外国人旅行者には警備車両を同行させていた。同州は長さ600kmある。近年は同州のみならず、首都イスラマバードやインド国境近くのラホールまでパキスタン全土を横断するぐらいの長距離を全て警察車両がが外国人旅行者を護衛するようになった。

 

その例に漏れず、同氏はイランからパキスタン領へ入ると直ぐに警察車両に護衛され首都イスラムバードまで約1,500kmの距離を約1週間かけてやってきた。警察車両の護衛がつく期間は連日警察施設で雑魚寝同様の宿泊を余儀なくされ、日中は炎天下の中を走行し続けるため、体力の消耗が著しいと言う。

 

その過酷な走行が祟って、同氏は上半身に帯状疱疹が発生した。同氏はイスラマバードへ到着した際には疲労困憊の状況だったと言う。当方はラホールから同氏に会うためイスラマバードへ向かった。

 

オートバイのエンジン・スタート・キーが壊れる。

エンジンのスタート・キーが回りづらくなってきた。キーを回してもエンジンのスイッチが入らないのだ。

スタート・キーの調子が悪くなった翌日には、エンジンのスイッチが入らなくなった。

 

原因は不明だが、予備のキーを使ったら、エンジンのスイッチが入った。オートバイは既に6万km以上走行している。その間何千回とスタート・キーを回し続けているため、キー自体が多少曲がったりして鍵穴の接触が悪くなった可能性がある。

 

親切と興味本位は紙一重

パキスタン人は外国人に親切だ。当方が立ち止まって、スマホのカーナビアプリで現在位置等を確認していると道行く人やオートバイで通りすがりの人は止まって、当方に声をかけてくれる。当方は全く困っていないが、外国人が道に迷って困っているのだろうと思われている。

 

ただし、声をかけてくれる意図は、外国人は珍しいので一緒に写真を撮る、外国人と話をすることが多分にある。

 

イスラマバードからキルギット方面へ向かう渋滞道路で当方は歩くような遅い速度でオートバイで走行していた。道路脇を歩く男が、英語で当方へ話しかけてくる。当方は渋滞道路の運転に集中しているため歩行者と話す余裕は無い。 当方はその男を無視していた。

 

その男は、それでも執拗に当方に話しかけてくる。歩いている男が先に行く。道路脇の警察官が当方へ道路脇へオートバイを寄せて止まれのジェスチャーをする。当方は警察の検問だろう思い、オートバイを道路脇に寄せてとめると、先ほどから執拗に当方に話しかけている男がその場所にいた。

 

しかし、その男は警察官ではない。当方を止めた警察官は当方には何も用事は無いようだ。当方に話しかけようとしていた男に頼まれて、当方に止まれの合図をしたようだ。

 

この男のしつこさには腹が立った。当方は<お前と話すことは無い>とその男へ伝え、走り去った。

 

飴をむさぼり立ち去った少年。

イスラマバードからキルギット方面へ向かう田舎道で周囲の景色を写真に収めようと当方は道路脇にオートバイを止めた。

 

道路脇に山から流れてくる水を畑の灌漑用に利用するための水路があった。水路の水流は速く冷たそうだった。12歳ぐらいの男の子が、幅1mほど水路を跨いで、ズボンを水にぬらしながら水路の水を飲んだ後、オートバイに跨って止まっていた当方の処へやってきた。

 

当方にお金をせびるのかなと思ったが、お金をせびる様子は無い。当方のところで立ち止まって、その場を動こうとしない。当方がその男の子にポケットに入れていた飴を差し出した。男の子は飴をつかむと、歯で飴の包装を食いちぎり、飴を口中にいれると声にならないうめき声を上げてその場を立ち去った。

 

あの男の子は一体何だったんだろうと思った。

 

ラホール(Lahore)~イスラマバード(Islamabad) 330km

ラマダン中のツーリングや観光は体力的に厳しい

パキスタン入りした時から、既にラマダン中だった。パキスタンはイスラム教徒の国である。ラマダン中は日中の飲食はできなく、レストランや食堂は閉まっている。

 

当方は現地人がいる場所での飲食は避けている。そのため、水分の摂取不足となり易い。ラホールでは

炎天下の市内のモスクとユネスコの世界遺産だと言うラホール要塞を徒歩で観光した。気温は摂氏40度以上はある。モスク敷地の石の上は熱くて裸足では歩けなかった。素足で歩くところには水がまかれた絨毯が敷いてあった。水を含んだ絨毯や水たまりは強い日差しで熱くなっていた。

 

そんな炎天下で、水分を補給せず数時間歩いていたら熱中症になってしまった。暑さで気分が悪くなり、ホテルに戻った後でも風邪を引いたように熱がでて食欲がなくなった。翌日はホテルで静養を余儀なくされる。

(インドのアムリトサルとパキスタンのワガ国境では毎日派手な国境閉門式が行われる。写真奥はインド側の観衆とベージュ色のインド式典部隊。インド側は5~6千人ぐらいの観衆が動員されスタジアムを埋め尽くしていた。写真手前の黒い制服姿はパキスタンの式典部隊。国境線で両国の式典部隊が応援合戦を繰り広げる。)

(パキスタン側の観衆は3百名程度と少なかった)

 

イスラマバード(Islamabad)~アボッタバード(Abbottabad130km

日本人ライダーN氏とはイスラマバードで2日間行動を共にした後、パキスタン北部のキルギットを目指してイスラマバードを後にした。ただその日は午前中雨だったため、雨が上がった午後にイスラマバードを出発した。 


 

オートバイは高速道路の通行が禁止されている。全て下道(一般国道)ので通行のため、移動には時間がかかり、日没となったアボタバードで投宿した。


 

日没を知らせるモスクから流れるコーランの声が断食時間の終了を伝える。その時間になると、人々が一斉に食事を取り始めるため、商店が閉まり、道路上の車両の通行が無くなる。


 

アボダバードのホテルオーナーは当方へ食事を勧めてくれた。ヨーグルト味のフルーツとジャガイモの周りに小麦を付けて油で上げたたべものだったが、当方も日中は何も口にしていなかったので、この食事の提供は有難かった。

 

尚、ラマダン中は他の場所でも、日没後の食事を度々勧められた。

(ラホールからイスラマバードへ向かう途中の小麦畑。景色はインドのパンジャブ州と変わらない。この日は曇っていて暑くならずに済んだ)


(首都イスラマバードは緑が多い落ち着いた街だった)

 

アボタバード~ベシャム(Besham)150km

キルギットの観光業者からイスラマバードからベシャムは車で1日の距離(約280km)だと聞いていた。ただし、オートバイは高速道路の通行が禁止されているため、途中の町や村での渋滞を考慮すると一日で到達できる距離では無かった。


 

アボタバードからマンセーラ(Mansehra)を過ぎると、小高い山々の裾野に沿った道路を進むようになる。この道はギルギット・バルチスタン州を通過して中国との国境まで至る全長約1kmのカラコラムハイウェイ(Karakoram Highway)の始まりだ。 


 

ただし、カラコルムハイウェイというと立派な高速道路があるのかのような誤解を与える。実態はハイウェイでは無く、日本でいえば2級国道か市町村道の扱いだろう。

(ガソリンスタンドで給油後、子供達が珍しいものを見たさに集まって来た)

(インドのTATA製の古い乗用車だったが、トヨタのロゴをバンパーに張り付けていた)

(ベチャムへ向かう途中の田舎道)

(徐々に山の中へ入っていく=ベチャムへ向かう途中)

 

ベチャム~ダス(Dasu)=折り返し点~再度ベチャムへ戻る180km

あいにく前日から雨の中の走行が続いている。 山の中腹を這うような道路をひたすら進むのだが、山に降り注ぐ雨が滝となり、道路に落ちてくる。

 

いたるところで道路が冠水して滝からの水流が20cm位となり道路を右から左へと勢いよく川のように流れる。オートバイが水流に流さるのではと心配した。

 

連日の雨で支流が氾濫してこの先の道路が崩壊し通行止めになっていると前日聞いていた。中国の土木会社が道路の復旧工事中に当たっているらしい。


この道路は落石も多い。道路のいたるところに直径50cm位の岩がごろごろしている。その岩を避けながら道路を先に進む。連なる山々には雲がかかったり、途切れたりしている。後2日間天気は雨の予報だ。

 

ベチャムから80km進んだダス(Dasu)の集落の先が前日通行止めになっていた場所らしい。通行止めは解除になったが、貨物トラックが数珠つながりとなり長い列となっている。おまけに狭い道路には我先に先へ進もうとする乗用車が対向車線にも広がり、対向車が身動き取れない。


 

周囲には集落が無い山間部の道路なので、渋滞が解消しない場合には雨の中、夜中もこの場所で過ごさなければならい。しばらく待ったが交通渋滞が解消する兆しが全くない。これ以上先へ進むのを諦め、元来た道を戻り、前夜泊まったベシャムへ引き返すことにした。

 

(谷間のカラコラムハイウェイ)

(カラコラム・ハイウェイでワンショット。雨模様のため雨具を着たままだった)

(引き返した地点のトラックの長い列)

 

ベシャム~ミンゴーラ(Mingora)~マルダン(Mardan210km

キルギット行は諦めたが、イスラマバードへ元来た道を戻る気にはなれず、周回するルートを探した。

道路の状況や高低差は判らないが、ベシャムからマルダン(Mardan)やペシャワール(Peshawar)方面へ行くルートがあった。 

 

ちょうど群馬県の佐久から長野県の蓼科へ抜けるようななだらかな山々の中を走り峠道を通るようなルートがミンゴーラ(Mingora)まで続いていた。

 

マルダンには約2000年前の仏教遺跡があると聞き、訪れたいと思った。しかし宿がなかなか見つからなかった。ラマダン最終日でもあり、翌日からラマダン明けの連続休暇(日本でいえば正月のような休暇)のため多くのホテルが本日から臨時休業していた。

 

日没後、ホテルと思って迷い込んだ大きな民家の主人が、当方が日本からのライダーと知ると<まず食事をして行け>と断食明けの食事(朝食に相当する軽食)を勧められる。そこで簡単な食事をご馳走になり、出発しようとすると、今度は<是非泊まって行け>と言う。

 

好意に甘えて、泊めてもらうことにしたが、泊めてもらった部屋はその民家の住み込みの使用人の部屋だった。当方は使用人部屋とは知らずに宿泊したが、その部屋を使っている使用人は当方のせいで、他の場所で寝ることを余儀なくされていた。

 

夜になると近所の人達、親戚や友人があつまり、男同士で話を楽しむ。当方が話のネタにちょうどよい具合になったようだ。 

(ベチャムからミンゴラ途中のシャングラ峠からの景色)


(ミンゴラ手前の峠道からの景色)

(ミンゴラでエンジンオイルの交換をしたバイク店とメカニック。タイヤの空気圧メーターを使っていたのには驚いた)

(マルダンで一泊お世話になったHazam氏=写真右側とその息子。写真左は同氏の弟)

 

マルダン~仏教遺跡見学~ペシャワール 120km

紀元1世紀~3世紀の仏教遺跡Takhit-i-Bahiがマルダン郊外にあることをフェースブックで知り合ったパキスタン人の観光ガイドから聞いた。 同遺跡はユネスコの世界遺産だと言う。


 

この地には外国人観光客はほとんどいない。当方が同遺跡へ行くと中学生から高校生ぐらいの男子生徒20名ぐらいに囲まれた。皆から握手を求められる。また一緒に写真を撮らせてくれと言う。 当方が歩き出すと当方を囲むよう一斉に動き出す。


 

映画スター並の扱いだが、当方は身の危険やうっとうしさを感じる。警備員が付きまとう少年達を家畜を扱うように棒を振りかざして追っ払おうとするが、少年達はまたすぐに戻って来る。


 

当方は仏教遺跡をゆっくりと見学できず、ちょっと見て足早に同遺跡を去った。

(仏教遺跡Takhit-i-Bahi。マレーシアからの団体客がポーズを作って写真をとっていると遺跡周囲の高台で子供達が歓声を上げていた。)


(ペシャワールではヘレニズムの影響をうけたガンダーラ美術が発展した。ブッタの頭象はギリシャ彫刻に似る)

(レスラーの取り組みは日本の相撲に似ていると思った。ペシャワール博物館蔵)

(ペシャワールの下町の入口門)

(ラマダン中の日没後、炭火でチキンを焼く男。大き目サイズの一串は250パキスタンルピー=約120円)

 

以上