インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -5ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

イラン ( 中編)シラーズ(Shiraz)~エスタファン(Estafan)を経て首都テヘラン(Tehran) 1,400km (5/95/18

(イランの標高差を表したジオラマ地図。下の走行地図と照らし合わすと内陸の主要都市は標高1,000m以上の高地に位置することが判る。)

 


(イランの走行地図。赤線は走行ルート。一番左上の赤丸印はアルメニア国境に近いタブリーズ=Tabriz。一番右の赤丸印はパキスタンのダルバンディン=Dalbandin。右側2番目の赤丸印がイラン東部のザヘーダン=Zahedan。地図下の海はアラビア湾。地図上部の海はカスピ海。)


イランビザ(Visa)を置き忘れて往復400kmの走行

シラーズ(Shiraz)でデータ回線が繋がり易いと評判の携帯電話会社イランセル(Iran Cell)のSIMカード

を買うためにイランセル(携帯電話のキャリア)代理店を探したが、なかなか見つからない。

 

前日投宿していたホステルのオーナーに連れられて2軒のイランセルの代理店を訪問したが、外国人向けの受付はしていないと断られた。

 

やっと道行く人に教えてもらった代理店へ行くと、システム故障で直に加入出来ないと言われる。諦めて次の投宿地ヤスジ(Yasuj)へ向かった。

 

翌日Yasujのホテルをチェックアウトする際に、紙に印刷したイランのビザが無いことに気が付いた(*イランビザはパスポート上に直接押してあると、米国等への入国を拒否される可能性があるため、パスポートとは別の紙上にビザを発給する。そしてイラン入国時のイミグレーションではそのビザの紙にイラン入国印を押印する)。

 

ビザの紙をパスポートに挟んで持っていたはずだったが。

前日シラーズの町でイランセルの携帯電話用SIMカードを買おうとした際にビザの紙を代理店に見せたことを思い出した。

 

ヤスジのホテルのスタッフにシラーズのイランセルの代理店を探し出してもらった。やはりイランセルの代理店にビザの紙を置き忘れていたことが判った。

 

前日シラーズから200km走行してヤスジまで来たと言うのに、またシラーズに戻らなければならなくなった。 ビザの紛失よりマシかと思い、ビザを取戻すためシラーズへ戻ることにした。

 

ヤスジのホテルのスタッフは1時間以上シラーズの複数のイランセルの代理店へ電話してもらい大変有難かった。

 

また、当方がビザを置き忘れたシラーズの代理店スタッフはインスタグラム(SNSの一つ)で当方を探し出して、当方宛にビザの紙を預かっている旨のメッセージを送付していた。しかしながら、当方はインスタグラムはほとんど使わないため、そのメッセージに気が付かなかった。

 

イランではSNSの通信手段としてインスタグラムを使う人が多い。

 

カーナビアプリの位置情報が狂いだす

シラーズはテヘランから700800km離れている。シラーズでスマホに入れているカーナビアプリの

Maps.Meが動かない。

 

当方はシラーズいるのに当方の現在位置は数百キロメートル離れた首都テヘランの位置が出てくる。 グーグルマップや他の位置情報アプリでも同じように当方の位置情報はテヘランにいることになっている。

もう一つのスマホでも同様にカーナビアプリが誤った位置を示す。 

 

但しカーナビの位置情報が狂う特定区域から数キロメートル離れると正常に戻る。


6年前ロシアでもエカテンブルグとか戦略都市ではガーミン製のカーナビやMaps.Meの地図アプリが動かなかったことがある。恐らくカーナビ用の衛星シグナルを妨害されているのだろう。

 

後日テヘランをオートバイで走行中にもある数キロメートルに渡る特定区間ではスマホのMaps.Meのカーナビが作動しなくなった。

 

写真好きなイラン人

写真を撮るのが好きな人は多いが、個人情報の保護意識が浸透して自らが他人の写真に撮られるのが好きな人は多くない。

 

しかしイランでは写真を撮るのも、他人に撮られるのも好きな人が多い。シラーズのエラム公園で民族衣装を着た庭園内の歴史的建物の係の女性を写真で撮っていると、その女性の隣に庭園内を訪れていた若い女性が写真の撮影視野に入って来る。 邪魔だなと思っているとその女性は自分の写真を撮ってくれと言う。 

 

庭園内には複数の女子中学生か高校生のグループが制服姿で来園していた。当方が写真を撮っているのに気が付くと女子中高生グループが集団で写真を取ってほしいと当方にアピールする。イスラム教の国々では基本的に女性を写真に撮ることはタブーとされているがイランではそうではないらしい。

 

女性のみならず、当方がバザールを散策時にも靴屋の職人が<俺の写真を撮っていけ>とか若者の集団が写真のポーズで構えたりと他人の写真に撮られるのが好きだ。

 

(シラーズのエラム公園で写真撮影をアピールする女子中高生グループ。)


イラン人宅に招待される

エスタファンの宿で知り合った30歳代半ばのイラン人がいた。 テヘラン在住だと言いい、当方がテヘランへ来るなら是非自宅を訪ねてくれと言った。

 

当方はイラン人がどのように暮らしているか興味もあり、言葉に甘えてテヘランで同氏宅を訪れた。同氏は独身で3人兄弟の長男だった。両親と一緒にテヘラン市内の広いマンションに家族5名で暮らしている。

 

父親は大学でアラビア語の教授だと言い、同氏自身もテヘランで有名な工科大学のメタル・エンジニアリングの博士課程を終了後、一般企業で職を得ていると言うエリートだ。

 

同氏の大学院時代の友人も加わり、主に日本の社会や習慣について当方に矢継ぎ早に質問してきた。同氏は海外での留学経験は無いと言うが、流暢な英語を話した。

 

当日両親はイラン国内を旅行に出かけ不在であったが、母親が作ってくれておいた夕食をご馳走になった。

(テヘランのモーセン・アブディ氏(Mohsen Abdi)=緑色のTシャツを着た男と兄弟及び友人。)

 

(テヘランのモーセン・アブディ氏宅で夕食をご馳走になる。)

 

テヘラン証券取引所を訪問

イランに入国するまでイランに証券取引所があることを知らなかった。

 

イランの株式会社に投資する投資信託等のファンドも聞いたことも無かったし、米国主導の金融制裁を受け対外的な経済活動に制限を課せられているイランに投資機会があることすら知らなかった。

 

早速テヘラン証券取引所に電子メールで面談を依頼すると、翌日には面談可能な旨の返事を受け取った。

当方が問い合わせしても、返事すらよこさない多くの国々の証券取引所とは段違いのスピードだ。

 

テヘラン取引所訪問では当方が受付でもたもたしていると伝統的な黒い服をきた女性が2名現れて当方へ流暢な英語で自己紹介と簡単に取引所の説明をしてくれた上、建物上階のミーティングルームへと案内してくれる。 

 

イランは他のアラブ湾岸諸国等のイスラム諸国とは異なり、女性の社会進出が進んでいる。ホテル、銀行、両替商、小売店等旅行者の目がとまる場所には女性が働いている。女性の社会進出は社会の成熟度を測るバロメーターだろう。

 

テヘラン証券取引所(TSE)には約380社の企業の株式が上場されている。時価総額は85,730兆リアル=約22兆円)と言う。

 

同証券取引所の他にも店頭取引(OTC)の取引所もあると言う。イラン企業にとって株式を取引所に上場するメリットは資金調達等の他に利益に課せられる税金の軽減目的があると言う。上場すると20%25%事業利益に課せられる税金が軽減されると言う。

 

過去3年間のテヘラン証券取引所の代表的なインデックス(指数)TEDPIXTehran Dividend & Price Index)のトータルリターンは約350%と高い。現状のインフレ率55%を考慮しても十分利益になるようだ。

 

株式投資の主役はオンライン投資家だと言う。日々の売買の9割がオンライン経由の注文と言う。アラブ湾岸諸国、パキスタンやアフガニスタンからも投資資金が流入していると言うが、外国人投資家の株式保有率は約4%強と少ない。

 

上場企業の発行済み株式数の10%未満を保有する非戦略的投資家は投資利益を国外へ持ち出す制限が無いと言う。ただし、10%以上を株式を保有する戦略投資家は2年間株式の売却が出来ない等の制限がさせられている。

 

上場企業の平均PER9倍、PBR5倍、配当利回り6%と国際的な水準だが、インフレ率55%ではこれらの投資指標も虚しく映る。

 

イランは米国主導の経済制裁を課せられているため、経済が上手く言っていないのは誰の目にも明らかだ。高率のインフレは原油の生産量や輸出が思うように伸びず、国家財政が厳しい為だと面談した取引所の調査部の部長が言う。 

 

政治問題が絡むだけに、イランへの米国主導の経済制裁の行方は判らない。ただし、イラン国外には約8百万人イラン系の人々が居住し、イラン本国への援助を惜しまないだろうとイラン経済発展の可能性を同部長は指摘する。

 

米国主導の経済制裁が解除されない限り海外投資家は投資しづらいだろう。

 

ただし、当方は現状マーケットでの実勢為替レート(政府発表の公式レートは実勢レートの10倍イランレアルが高い))では、イランリアル(通過)が割安だと感じる。物価がドルや円建てで測ると余りにも安い。東南アジア諸国や南アジアの国々よりも安い。

 

マーケット実勢レートでは1米ドルあたり約50万レアル(1円当たり約3,700レアル)だ。

(テヘラン証券取引所のビル)

 

(テヘラン証券取引所の1階吹き抜けはスペースは証券会社ブースがガラス張りの奥に並ぶ。)

 

(テヘラン証券取引所で面談したリサーチ部長と国際部門の女性スタッフ。)

 

(テヘラン証券取引所のビルから見たテヘランのビジネス街=市内北部。)

 

走行ルート(約1,400km

シラーズShiraz2泊)~190km~ヤスジYasuj1泊)~190km~Shiraz1泊=ビザを忘れたため引返す)~Abadeh経由510km~イスタファンEstafan3泊)~アブヤネAbyaneh(ピンク色の村)経由~250km~カシャーンKashan(1泊)~280km~首都テヘランTehran(3泊)

(シラーズ=Shiraz~首都テヘラン=Tehranの走行ルート。シラーズは左側一番下の赤丸印。テヘランは左側一番上の赤丸印の位置にある。)

 

以下走行ルートのコメントを記す

 

シラーズ(Shiraz)~ヤスジ(Yasuj)~シラーズ(Shiraz) 380km

前述したようにシラーズにビザを置き忘れたため190km離れたヤスジへ入って、そこからシラーズに引返した。

 

シラーズ~ヤスジの谷間の平野部にはリンゴの果樹園が多かった。また、降雨が少しある山岳地帯もあるため、山の裾には小さな草が生え春の訪れを感じた。 このルートは景色の良いワイディングロードの山岳地帯を通過すると聞いて選んだルートであった。

 

ヤスジから更に先のイスタファン(Estafan)へ抜ける山岳ルートも景色が良く、オートバイツーリングには最高と聞いていたが、ヤスジからシラーズに引返したため走行できず残念であった。

(シラーズ=Shiraz~ヤスジ=Yasuj間にはリンゴの果樹園が目立った。)

 

(シラーズ~ヤスジ間の緑の牧場)

(シラーズ~ヤスジ間の山岳地帯の景色)

 

(ヤスジ=Yasujの中心部の歩道に人の列があるのでのぞき込むとパン屋だった。夕食用の焼き立てパンを買い求めて人々が列を作っていた。)

(ヤスジのパン屋の厨房)

 

シラーズ(Shiraz)~イスファハン(Estafan510km

今回のオートバイツーリングの一日の最長距離の走行だった。 本来なら景色の良いワインディングロード

があるヤスジ経由のルートを通りたかったが、時間を優先してハイウェイが整っている主要幹線道路を走行した。

 

午後になると砂漠が熱せられるためか、台風のような強い西風が吹く。 オートバイを傾けながらの走行だ。

風に負けないように首と肩に力が入る。そのためかイスタファン到着後はいつもより疲れを感じた。

 

イスファハンでは前泊したシラーズのホステルZiba Traditional Hostelの経営者の兄弟が経営する

Taha Traditional Hostelに投宿した。 旧市街の伝統的家並みがある地区の中庭がある古い家構えの宿だった。当方は木陰がある宿の中庭の椅子に座りお茶をすする生活スタイルすっかり気に入った。 

 

ヤスード(Yazd)、シラーズ(Shiraz)、イスタファン(Estafan)とこの先のカシャーン(Kashan)では旧市街の伝統的な中庭がある家構えの宿に宿泊した。

 

イスタファンはサファビー朝のアッパーズ大帝が1597年に首都にして以来1795年にテヘランへ首都が移されるまでの約200年間イランの都として栄えた。

当時の栄華を誇るモスクや庭園等のユネスコ世界遺産があり、観光客必見の都市である。 日本で言えば京都のような感じだろう。

(シラーズ~エスタファン=Estafanへのハイウェイ沿いには写真のような禿山が続いていた。)

 

(エスタファンの有名なMajesed Eman=エマーム・モスク 。ドームの高さは54m。メナーレ(塔)の高さは48mある。1638年完成)

(エスタファンのMajesed Jame=ジャメ・モスク。エマームモスクほどは大きくないが、数世紀にわたる増築はイランの建築様式のパレードだと言われている。)

 

(エスタファンのエマーム公園では金曜日は友人同士や家族が揃って出かけて芝生でお茶を飲みながらくつろぐ。)

(エスタファンのエマーム公園の北側はバザールの入口門となっている。)

 

(エスタファンの下町商店街)

 

(エスタファンの中心街でも古びれて使われていない建物群があった。)

 

(エスタファンの中心街の歩行者専用道路と専門店街。)

 

(恵まれない人々への寄付金箱。)

 

(エスタファンの旧市街はこのような民家の土壁で覆われている。)

(エスタファンで宿泊した宿=Taha Traditional Houseの中庭。強い陽ざしも木陰では涼しく感じる。)

 

イスファハン(Esfahan)~アバヤネ(Abyaneh)経由~カシャーン(Kashan250km

ピンク色の壁で統一された家並みがあるというアバヤネ(Abayaneh)の村が観光名所と聞いて訪れた。

 

主要幹線道路からそれて山道を進んだ谷間の村だった。自然環境の厳しい木も生えない岩山に囲まれた谷間の村だ。ピンク色に統一された家並み以外これと言ったものは無い。 耕作地も殆ど無い谷間の村故、人々はどのように生計をたてているのだろうかと思った。

 

ハイウェイとは別のエクスプレスウェイという日本の東名高速道路のような自動車専門道路がある。オートバイの通行は禁止されている。 しかしカーナビに誘導されエクスプレスウェイに入ってしまった。

エクスプレスウェイで速度違反を取り締まり中の警察官がいたが、当方へ<行け、行け>の合図をする。

(アバヤーネ=Abyanehへ向かう地方道。)

 

(アバヤネの村の建物はこのような色で統一されている。)

 

(アバヤネ村を訪れるイラン人観光客。)

 

(エクスプレス・ウェイ=高速道路は車が少なかった。オートバイの通行は禁止されている。)

(カシャーン=Kashanで宿泊した旧市街の伝統的な建築様式の宿。)

 

カシャーン(Kashan)~首都テヘラン(Tehran280km

カシャーンからエクスプレス・ウェイ(自動車専用道路)に乗り、テヘラン方面へ向かう。 途中エクスプレス・ウェイ上にオートバイ通行禁止の道路標識を見つけるが、無視した。

 

コム(Qom)の町を通り過ぎてからエクスプレスウェイの右側数キロメートル先に白い湖が見える。塩湖の水が干上がり、ボリビアのウユニ塩湖のようになっているのだろうと思い、エクスプレスウェイから下りて荒野の一本道を抜けて塩湖を見学した。

 

塩湖に通じる荒野の一本道を土煙を上げながら当方へ向かってくる車がいた。警察の車だった。塩湖周辺は原子力発電所があり立ち入り禁止になっていると言う。(当方はそんな標識は見なかったが)

 

何もない荒野で当方は見張られていた。警察官は当方を怪しいやつとみて、当方のカメラの撮影データや荷物を調べ始める。20分~30分後に当方は放免となったが、その場所でドローンを飛ばしていたらスパイ容疑で厳しく取り調べられただろう。


テヘランで欧米の外国人旅行者がよく利用するというホステルを最初に2軒訪ねた。 一軒目は満室だった。共同部屋のベット(ドミトリー形式と言う)なら空きベッドがあると言うが、プライバシーが保てないので断った。

 

二軒目はバスルームが無いベット一つしか置いていない独房のような狭い個室の部屋代は24ユーロ(約4千円)と言う。外国人向けの割高な料金だ。

通常24ユーロ出せば3星クラスのホテルの部屋に泊まれる。 当方は既にイランに3週間滞在しているので、イランの相場観がある。

 

当方は24ユーロは相場以上の割高な料金と判断して、外国人旅行者にはあまり知られていないホステルを訪ねた。そのホステルの部屋代は11米ドル(約1,500円)だった。

(イランの各町の主要道路沿いには1980年代初頭のイラン・イラク戦争の戦没者の写真を掲げている。)

(カシャーン=Kashan~首都テヘラン=Tehranへ向かうエクスプレス・ウェイ)

 

(遠くに白い塩湖が見える)

 

(塩湖に近づくと白く見えない。沖では採掘した塩の塊が見える。)

 

(塩抗で見つかった3世紀のミイラ。Saltman=塩の男と呼ばれている。テヘラン国立博物館蔵)

 

以上


 

イラン(上編)国境の町ザヘーダン(Zahedan)~シラーズ(Shiraz1500km(40/305/7)


 

イランは車社会

インドやパキスタンでは車は庶民には普及していない。小型オートバイが庶民の移動の主な手段となっていた。

 

しかしながら、イランではオートバイをほとんど見かけない。その代わり町には車があふれている。新品の車と言うわけでないが、しっかり手入れをしているフランスのブジョーの乗用車が多い。

 

あるドイツ人の旅行者からイランにはフランスのプジョーの工場があるため、プジョーの乗用車が多いと聞いた。 

 

ハイウェイでは貨物トラックも多い。インドやパキスタンでは3040年位は使っていると思える古くて、上り坂は徒歩位の速度しか出ない貨物トラックがほとんどだったが、イランの貨物トラックは比較的新しく、ハイウェーをすっ飛ばすぐらいで高速走行する。

 

国境を跨いだらイランほど状況が変わる国は多くない。


インターネットの接続状況が非常に悪い

イランでは政府がインターネット接続可能なサイトに制限をかけている。そのため、Lineも含めフェースブックやTwitter等の欧米系SNSには繋がらない。また当方がブログ投稿するAmebloへも繋がらない。

 

抜け道としてVPN(私設のインターネット回線)が普及しているが、通信速度が遅い。ある年配の英語を話すイラン人は<革命後の政府はだめだ>と吐き捨てるように言った。

 

ゴミが落ちていない奇麗な町

感心するのが、道路や公園等にゴミがほとんど落ちていない。インドやパキスタンでは人々は道路に当たり前のようにゴミを捨ていた。

 

また、インドやパキスタンでは道路はゴミと牛の糞尿で酷く汚かったが、イランはそれとは対照的にきれいであることに驚いた。 飲料のペットボトルや買い物時にくれるプラスチック製のレジ袋さえ道路や公園に落ちていない。

 

英語が全く通じない

外国人観光客が少ないためか、英語が全く通じない。 ホテルでもYESNO位の言葉さえも出てこない。街には商店が軒を連ねているが、アルファベット表記の看板が全くない。数字もアラビア数字に似た独自のもので、世界的に普及している数字を使用しない。

 

当方が商品の値段を尋ねると、イランの若い人でも価格をペルシア数字で書いて教えてくれるが、当方にはペルシア数字は理解し難い。日本に置き換えると一、二、三の漢数字しか使わず、通常の1,2,3と言う数字表示は使用しないということだ。

 

アラブ社会ですら、世界的に普及している数字を使用しているのに、何故イランはペルシャの数字を使うのだろうかと不思議に思う。グローバル化から取り残されたガラパゴス的な存在なのだろうか。

 

ガソリン価格は激安だが、ガソリンスタンドが非常に少ない

ガソリンの品質は判らないが、1リットルあたり、3万リアル(約8円)と非常に安い。10リットル入れても80円相当だから、水より安い。

 

ガソリンスタンドの経営には妙味がないためか、ガソリンスタンド数が極端に少ない。大きな都市でもガソリンスタンドは常時給油を待つ車の列が出来ている。 100km200kmの距離を走行してやっとガソリンスタンドがあるといった状況だ。

 

人懐こいイラン人

インドやパキスタンのように外国人へ<どこの国から来たか?>等やたらと声をかけてこないのは有難い。

 

しかし、人々は外国人には興味があるようだ。英語が出来ない、みだりに話しかけるのは礼儀を欠く等の配慮もあるだろう。

 

当方には心地よい距離感だと感じるが、当方が誰かに道等を尋ねると周りの人々が集まって、

当方に説明しようとしてくれる。言葉は通じなくても、心に通じるものがある。

 

世界遺産の遺跡があるペルセポリスの庶民的なホテルではイラン人の宿泊客達に親切にしてもらった。

英語が出来る息子を携帯電話で呼び出して、その息子に通訳をしてもらったり、当方が<飲料水をほしいので、どこで買えるか?>と聞けば、飲料水をどこかで買ってきてくれ、無料でくれたり等、いろいろ親切にしてもらった。

 

イラン人は親切だと聞いていたが、その通りだった。

(ペルセポリスに近いホテル・ダルビッシュで親切にしてくれたテヘランからの宿泊客)

 

イランに入国後の最初の10日の走行ルートは以下の通り。

 

パキスタンからイラン入国~Zahedan(2泊)~340kmBam(1泊)=世界遺産のバム要塞跡見学~350kmKerman(2泊)~360kmYazd(2泊)=中世にイタリア人旅行家のマルコ・ポールも訪れた美しい町~410kmMarvdasht(1泊)=世界遺産Persepolisの古代遺跡見学~70kmShiraz2泊)

(イラン入国から最初の10日間の走行ルート。地図の一番右側の赤丸はパキスタンのダルバンディン。一番右(ダルバンディン)から2番目の赤丸の位置がイラン入国最初の投宿地ザヘーダン。地図の一番左の赤丸はシラーズの位置。地図の下部の海はペルシャ湾(アラビア湾))。

 

 

以下各走行ルートのショートコメント

 

ザヘーダン(Zahedan)~バム(Bam) 340km

ザヘーダン(Zahedan)の町ではイランの携帯電話のSIMカード購入とイランでのオートバイの強制保険の加入手続きで忙しかった。イランには携帯電話の会社が2つ存在する。

 

インターネット回線の繋がりが良いのはIran Cellと言う携帯電話会社だと事前に聞いていたが、もう一つの携帯電話会社(MCI)SIMカードを買ってしまった。 

 

事前にスマホにインストールした無料VPN(私設ネット回線)アプリが作動せず、フェーズブックやライン等のSNSには繋がらない。後日Shirazの町で有料のVPNをスマホに入れてから、やっとフェーズブック等のSNSにつながるようになった。

 

オートバイの強制保険の代理店を探し出して訪ねた。同代理店では外国人の保険の加入手続きが初めてとあって、23時間程度待っても手続きが終わりそうもない。当方はしびれを切らして、この代理店での手続きを諦める。 

 

イランへ入国時、国境での入国手続きとオートバイのカルネ手続きを手助けしてもらったイラン観光省に雇われているハミッドというイラン人(自称King of Taftan Border=タフタン国境の王)に電話してバイク保険の代理店を教えてもらった。

 

同氏はたまたま仕事上の関係でザヘーダンの町に居合わせていた。

同氏に案内されて市内のイラン保険の代理店を訪問すると1020分程度で短時間で保険の加入手続きが済んだ。もちろんハミッド氏は手数料を取らない。

 

ザヘーダンからバムへの道は月面にいるかの様に岩と荒野の殺伐とした大地だった。

荒野を一本の道路(ハイウェイ)が一直線に伸びる。この区間の最初の200kmにはガソリンスタンドが無いため、少し不安に感じた。


ガソリンスタンドを見つけた時はほっとした。

(ザヘーダン=Zahedanの保険会社。女性職員もいる。結局この保険会社では手続きに時間がかかりすぎたため、バイク保険に加入することを断念)

(ザヘーダンの焼肉店。ミンチした肉を串に付ける料理人)

 

(ザヘーダンからバムへ向かうハイウェイ)
 

 

(バム=Bam市内のヤシの木の街路樹。南国の旅情を感じる)

 

バム(Bam)~ケルマン(Kerman350km

バムの宿(Akabar Guesthouse)ではドイツからYAMAHAテネレ700のオートバイでイランまでツーリング中の中高年ライダーと出会い、情報交換ができた。

 

当方は一足先にケルマンへと向かうが、同ドイツ人ライダーも一日遅れでケルマンの同宿に投宿する。

 

バムの市内にユネスコ世界遺産のひとつのバム城塞遺跡があった。

 

城塞遺跡の中には、復元前で原型を留めていない住居跡が多数ある。復元後の民家や町並みは立派だが、紀元前の時代に復元後のような立派な建物が本当にあったか疑問に思った。

 

ザヘイダンからバムへの移動時と同様に草木が無い荒野の一本道をただひたすらバイクで走り続ける。

 

ケルマンの手前のモハン(Mohan)の町に評判が良いゲストハウスがあるとのI Overlander(陸路旅行者用の情報アプリ)の書き込みを参考に同ゲストハウスを探した。 

 

しかしながら、同書き込みはコロナ前の事であり、同ゲストハウスは廃業していた。 とんだ道草になってしまった。

 

ケルマンでもI Overlanderの書き込みを参考に宿泊先を決めた。小さな宮殿のような煉瓦造りの立派なゲストハウス(Khorram Hostel)だった。ペルシャ絨毯を敷き詰めた部屋は広くて居心地が良い。部屋料金は5百万リアル(約1,300円)と割安だった。

 

30歳前半と思われる若手のオーナー兼経営者に聞くと、軍の高官だった祖父が残した建物を改造したと言う。バムで知り合ったドイツ人ライダーに電子メールでケルマンのゲストハウスを紹介すると、同氏も是非投宿したいとのことで予約を依頼してきた。同ドイツ人ライダーは一日遅れて、同ゲストハウスで当方と合流する。

 

ケルマンは物静かな都市だった。

バザール以外これと言った見どころは無かった。

 

イランに入国以降、食事には手こずっている。 ハンバーガーやピザ等のファストフート店はあるが、レストランや食堂が殆ど無い。イランには外食の習慣は余り無いようだ。 

(世界遺産のバムの要塞跡。復元された部分)

(世界遺産バムの要塞跡全体)

 

(バムからケルマンへの向かうハイウェイ)

(ケルマンのバザール)

(ケルマン市内の風を建物内に取り入れる塔=Wind Towerがある歴史的建物=写真左側)

(ケルマン市内の公衆浴場博物館。昔の浴場でのあか落とし様子を伝える蝋人形=写真奥と大きな浴槽)

(ケルマン市内で投宿したゲストハウス)

(バムとケールマンの宿で一緒だったヤマハのテネレ700でドイツからツーリング中のクラウツ・ピーター氏)

 

ケルマン(Kerman)~ヤスード(Yazd360km

ケルマンからヤスードへの道路も荒野の一本道だった。道路が通る平地は標高千メートル以上の高地だが、照りつける太陽の日差しは強く、暑く感じる。

 

ここの景色は5年間前にオートバイで走行したアメリカ(USA)・アリゾナ州の禿山がある荒野の景色に似ていると思った。直線道路の走行ゆえ、眠気を誘う。何回も眠気覚ましの休憩を取りながら、ヤスードに辿り着く。

 

ヤスードは中世の時代にイタリア人旅行家のマルコ・ポーロが西洋人として初めてヤスードを訪れた記録がある。マルコ・ポーロはヤスードは美しい町だと記述したと言う。

 

日本の都市や町に例えるとヤスードは歴史があり、こじんまりとした神奈川県の鎌倉に相当するだろう。エスタファン(Estafan)は京都、シラーズ(Shiraz)は奈良だろう。

(ヤスードの旧市街。風を建物内に取り入れる塔が目立つ。エアコンが無い時代に室内を冷やす工夫だ)

 

(ヤスードで投宿した伝統的建物のゲストハウスの内庭。内庭には木陰でお茶を飲む縁台がある)

 

(14世紀~15世紀に建てられたヤスードのジャメ・モスク=Majesed Jame。メナーレ(塔)はイランで一番高いと言われている。)

(15世紀に建てられたヤスードのAmir Chakhmagh Complex=

モスクとバザールの複合施設)

ヤスードの沈黙の塔=Tower of Silence。(ゾロアスター教徒=火を崇める宗教の鳥葬の場所)1930年代には衛生問題のため鳥葬は禁止された。)

(鳥葬の塔の頂上=直径約30mに死体を並べ死肉をハゲタカに食べさせたと言う。ハゲタカが残した骨を中央の直径約5mの穴に入れた。)

 

(砂漠に広がるヤスードの町)

 

ヤスード(Yazd)~マルブダシュト(Marvdasht410km

紀元前の遺跡ペルセポリスがあるマルダシュト(Marvdasht)を目指した。

途中の山々には雪渓が見える。標高が高い峠道では肌寒く感じる。峠道の標高は2千メートル位はあるだろう。

 

マルブダシュトは数万人規模の町だが、ホテルがほとんど無い。地元の人達に聞いてやっと見つけたホテル・ダルビッシュ(Hotel Darvish)に投宿する。

 

同ホテルはイラン人しか利用しないような小さな宿で、ローマ字表示が無い。ペルシャ語が判る人でないとホテルの看板を見ても理解できない。

 

日本のプロ野球で活躍したダルビッシュ投手の父親はイラン人だったと思う。当方はこのホテルのスタッフや宿泊客にダルビッシュ投手のことを話した。現在は米国大リーグで活躍中で年収25百万米ドル(30億円)と説明すると宿泊客は年収額の大きさに目を丸くしていた。

 

年収25百万米ドルと言えば、イランの相対的価値では300億円位に相当するだろう。

(ヤスードからシラーズ途中のハイウェイから雪が残る山が見える)

 

(灌漑を使って小麦を栽培)

 

マルブダシュト(Marvdasht)~ペルセポリス(Persepolis)~シラーズ(Shiraz) 約70km

ペルセポリスは中東の三大観光名所(英語の頭文字のPを取って3Pと表現する)の一つと旅行書の<地球の歩き方>に紹介されていた。

 

当方の記憶だと3Pとはエジプトのピラミッド、シリアのペルミラとヨルダンのペトラだった。イランのペルセポリスの記憶は無かった。

 

ペルセポリスがユネスコ世界遺産の一つと知って、同遺跡を見学する事にした。紀元前の宮殿遺跡と判る大理石の円柱がかろうじて残っている程度であった。

 

シラーズ(Shiraz)の町もユネスコの文化遺産に登録されている歴史がある都市だった。当方は狭い路地に土壁で囲われた住宅や寺院がある旧市街の地区のホステル(Ziba Traditional Hostel)に投宿した。後で知ったが、評判が良いホステルだった。

 

築年数が100年位の古民家を改造したホステルだった。

ホステルの中庭では宿泊客どうしがお茶をの飲みながら、旅の話をさかなに和気あいあいと歓談する。35歳のオーナーのハミッドは朝から夜まで働きづめで当方は感心する。

同氏はいくら頑張って働いても経済環境が改善しないイランの現状に不満を隠さない。

 

シラーズの町では観光よりもオートバイの調整(前輪ブレーキのディスクパッドの交換)とスマホとパソコンで

フェースブックやライン等のSNSに繋がるようにVPNの有料アプリに加入することだった。

 

宿のオーナーの知り合いのバイク店とインターネット関連店舗に同氏が運転する小型オートバイの後ろに乗って連れて行ってもらった。 ハミッドは今まで投宿したアジア諸国ではめずらしく<宿泊客ファースト>のポリシーを実行する男だった。

(紀元前の遺跡ペルセポリス正面入り口)

(ペルセポリスの当時の石柱)

 

(シラーズのオートバイ店。インドのオートバイメーカーBajajの販売代理店でオイル交換と前輪ブレーキパッドの交換を行った)

(シラーズの鮮魚店。内陸の都市ながら1mサイズの大型の海洋魚を売っていた)

(シラーズ投宿したZiba Traditional Hostelの内庭とオーナーのハミッド氏)

 

以上

イラン政府はインターネットの特定サイトの閲覧を禁止してる。その為、4月末から5月下旬までのイラン滞在中はアメブロへのアクセスが出来なかった。約一ヶ月遅れのブログとなってしまった。

 

 

Pakistan(後編)PeshawarQuetta~イラン入国 1,680km (4/244/29

ペシャワール(Peshawar)は日本外務省の安全情報では危険度4(最も危険)となって退避勧告がでている地区だが、危険だとは感じなかった。

 

過去に政府関係施設で爆弾テロがあったためだろう。

 

ペシャワールが属する州はパキスタンの中央政府の行政が及ばない部族自治地区(Federally Administered Tribal Area)になっている。そのためか、ペシャワールの郊外へ続く道路には治安維持にあたる軍隊の複数の検問所があった。同地区では密かに多くの武器が製造されていると言う。

 

1,250kmに及ぶ警察車両の警護

デラ・イスマイル・カーン(Dera Ismail Khan)からバルチスタン州の州都クエッタ(Quetta)を経てイランとの国境までの1,250kmでは警察の車両による警護がついた。(Dera Ismail Khan380kmQila Saifullah200kmQuetta360kmDalbandin310kmTaftan国境)

 

この区間の走行には34日かかった。Qila Saifullah,QuettaDalbandin3カ所でそれぞれ一泊づつ宿泊した。

 

Quettaでのみホテルで宿泊が許されたが、Qila SaifullahDalbandin2泊は警察署の堅い床の上で持参していたシュラフ・カバーの中に身を入れて寝た。

 

荷物を最小限にするため、キャンプ用のエアーマット等のクッションを持参していない。堅い床の上では1時間もすれば、背やお尻が痛くなり、よく眠れない。日中は終日オートバイ走行のため身体的には辛い。

 

また宿泊した警察署から外出は許されないので、持参していたチャパティ(Chapati)やビスケット等の乾燥食材で空腹を満たした。

 

警護車両は20km30kmの距離で次々と交替する。次の警護車両が駅伝走者のように事前に交替地点で待ち構えていれば、効率的に走行できる。

 

しかし次の区間の警護を受け持つ交替車両が来ていない交替場所もある。時には70ccの小型バイクの警察官が一人で警護するのんびりした警護走行もあった。

 

警備車両が付くと目立つ。仮にテロ行為があるとすれば、警備車両が襲われやすいだろう。

当方は警察車両が無い方が安全だと思った。

また、警察署等の公的施設は反政府武装勢力によるテロ行為の標的になり易いので、警察署での宿泊は逆に安全では無いと思った。

 

警護車両がつく区間では自由に走行したり、停車することが出来ないため、走行中に奇妙な形の山々等印象的な景色があっても写真に収めることが出来なくて残念だった。

 

(先導する警備車両と武装警察官たち)

(当方をエスコートする武装警察官たち)

 

パキスタン出国とイラン入国手続き(Taftan=パキスタン側国境/Mirjaveh=イラン側国境)

 

パキスタン出国手続き

パキスタンの出国手続きは、最初に税関でカルネ上にオートバイ出国の押印をしてもらう。税関建物まで警備車両が案内してくれる。手続きに約1時間以上かかった。


その後イミグレーションオフィースに向かうが、税関建物と300m400m程離れて判り難い。税関職員に案内して貰うとよい。

 

イミグレーション・オフィース手前で検問所が2カ所ある。一つ目は秘密警察の検問所だ。名前を名乗らず目つきが鋭いパキスタン人が<どこに泊まったか?、パキスタン人の友人はいるか?、パキスタンのビサ申請に当たり招待状は誰から入手したのか?>が等執拗に質問してくる。

 

当方の直前に出国手続きをしたキャンピングカーで旅行中の若いドイツ人夫婦には特に秘密警察がしつこく質問した。当初はこの検問所の質問者が誰か知らなかったが、二つ目の検問所の警察官に聞いたら、秘密警察だと教えてくれた。秘密警察の検問には40分位かかった。

 

最後に(三つ目)イミグレーション・オフィースでの出国手続きとなる。10分程度で終了する。尚、イミグレーション・オフィースの裏に小さな売店があり、そこの売店で余ったパキスタンルピーをイラン・リアルに両替してくれる。

 

両替レートは良くない。 1パキスタンルピー当たり1,550イラン・レアル)と公式レートとより少し良いが、市中のマーケットレートより良くないだろう。

 

ただし、経験則では国境から離れると両替はしづらくなり、両替レートも悪くなると考え、手持ちのパキスタンルピーを全てイラン・リアルに両替した。

 

一緒にいたドイツ人夫婦はこの売店での両替レートは悪いとしてここでは両替をしなかった。イラン入国後の最初の都市、ザヘイダンで両替をすると言っていたが、果たしで両替出来たかどうか知りたいと思う。

 

パキスタン側の出国手続きには税関手続きも含め2時間~3時間の時間を要した。

 

イラン入国手続き

イランの時刻はパキスタンより1時間半遅れている(日本との時差は5時間半)。イラン側へ入国したのは1430分ぐらいだった。イランの国境手続きは7:0015:00365日無休)だったので、イランの入国手続きにギリギリ間に合った。

 

イラン入国手続きは、イラン観光省の職員と名乗るハミッド(Hamid)が、道先案内人となり誘導してくれた。

最初のコンテナーのような小さな建物が税関だった。税関でカルネでのオートバイの入国手続きを済ませた後、立派な建物のイミグレーション・オフィースで入国手続きをする。 

 

イラン側の職員は英語が全くできないので、英語を話すハミッド=Hamidは重宝だった。当初、当方はHamidのことを後でお金を請求する国境手続きのブローカーだと疑った。しかしながらが、Hamidは最初から<お金は不要だ。自分を信用してほしいと>言っていた。 実際、お金の請求は無かった。Hamidは自分自身のことを<タフタン国境の王=King of Taftan Border>自称していた。

 

また、翌日、国境から100km離れたザヘイダンの町でオートバイ用のイランの強制保険加入の際に再度同氏の世話になった。

 

イラン入国の手続きはハミッドの手際良い案内のお陰で、1時間未満で済んだ。

(イラン側の税関建物とセロー250)

 

国境でまさかのオートバイ事故

パキスタンの出国ゲートで当方のオートバイが事故にあった。 当方の直前を行くドイツ人夫婦のキャンピング・カーが検問ゲートで一旦止まった後、突然バックしてきた。

 

キャンピングカーの後ろ約2mの距離に当方がオートバイに跨り、順番待ちをしていた。検問ゲートのパキスタン人が<BackBack>とキャンピングカーに後へ戻ることを促している。 

 

キャンピングカーが突然当方に向かって後退してきたので、当方は慌ててオートバイの向きを変えて横に逃げようとするが、間に合わずキャンピングカーはそのまま当方に衝突した。

 

当方のオートバイの前輪がキャンピングカーの後ろ側バンバーを<バッキ>と音を立てて、壊しながらバンパー内部へと入り込んだ。キャンピングカーの下にオートバイが倒れる寸前でキャンピングカーの運転手が異変に気付き車を停止させた。

 

キャンピングカーの運転手からは真後ろの当方のオートバイが直接見えず、バックを誘導するパキスタン人の誘導に従うしか無かったのは頷ける。誘導していたパキスタン人の不注意だろうが、当方は被害者だ。

 

当方オートバイの前輪フェンダー(泥除け)はフロントフォークの付け根から曲がり、無残の形になってしまった。 しかしこのフェンダーは強化プラスチック製で傷跡は残すものの、何とか元通りの形に治すことができた。 

 

心配なのはフロントフォークに衝突のダメージが生じて、走行時の前輪の安定性に問題が生じるかどうかだ。

 

その後、イラン側の最初の投宿地のザヘイダン(Zahedan)の町へと100km位の距離を高速で走行したが、前輪が揺れるようなことは無かった。 トルコに入ったら念のためヤマハの代理店で前輪フロントフォークの検査をしてもらうつもりだ。

 

残念だったのは、キャンピングカーのドイツ人夫婦が、当方のイラン側の入国手続きが終了するのは待たず、当方が知らぬ間に立ち去ったことだった。ドイツ人夫婦は当方のオートバイに修理費用が発生した際のコンタクト先として住所と電話番号を残していたが。

 

当方がハイウェイを走り出し、オートバイのフロントフォークに問題が無いかどうか確認するまで待つ位の配慮があっても良いと思った。

(先導する警察車両とドイツ人夫婦が載るキャンピングカー。当方のオートバイは2つの車両に挟まれている)

 

走行ルート(1680km

Peshawar330kmDera Ismail Khan=警察の警護走行開始~380kmQila Saifullah(警察署に一泊)~200kmQuetta(ホテル一泊後NOC=バルチスタン州の通行許可証を入手)~360kmDalbandin(警察署に一泊)~310km~警察の警護警護終了=パキスタン(Taftan/イラン(Mirjiveh)国境にてイラン入国~100kmZahedan(イランの最初の投宿地)

(パキスタンの走行ルート。一番右側の下がラホール=インドとの国境。一番左側はイラン側の最初の宿泊地ザヘーダン=Zahedan。赤丸の印は宿泊地)

 

以下各走行区間のコメント。

 

PeshawarDera Ismail Khan 330km

主要道の要所要所で軍隊の検問所が複数ある。 ある検問所では一時間弱の検問を受けた。軍隊の駐屯地の拠点長であった軍の大尉が当方と話をしたいというので、応じたら、30分ぐらいの長話となってしまった。

 

同大尉から同地域には密かに武器が製造されている拠点が多数あることを知らされた。 尚、当方が走行する少し前にポルトガル人カップルがオートバイで同地区を走行しようとしたが、外国人女性は目立つため、治安上好ましくないとの判断して、ポルトガル人カップルがそれ以上先へ進む許可を出さなかったと言う。

 

尚、Dera Ismail Khanの町の上級ホテルでは当方が同地域のNOC(通行許可証)を持っていないとの理由で宿泊を断られる。同市では警察の留置場のように窓が無く、コンクリートむき出しの部屋だった安ホテルに投宿した。

 

同ホテルでもNOCの提示を求められたが、当方は<翌日警察署で入手するので1日待ってほしい>とホテル側へ伝えて宿泊した。 (翌日NOCは入手出来ず、そのままチェックアウトしたが)

(軍の拠点の隊長は流暢な英語を話した)

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンへ行く途中の峠道からの写真)

 

(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中の道端の日陰で小休止)

 

(デラ・イスマイル・カーンの入口門)

 

Dera Ismail  KhanQila Saifullah 380km(警察車両の警護走行開始)

NOCNon Objection Certificateと呼ばれる同州を走行するための通行許可証が必要であると検問を行っていた治安維持の軍隊駐屯地の拠点長から聞いていたこともあり、同地区の管轄警察署を訪れた。

 

管轄警察署(District Police Offier)では同州の通行にはNOCは不要とのコメント得たが、これより先の当方単独でのオートバイ走行は不可との理由で、この都市から警察車両が当方を先導して警護することになった。

 

管轄警察署を訪れたことが藪蛇となってしまった。 

 

同市から120km程先へ進むとバロチスタン州となり、民間ホテルでの投宿が制限されるようになる。

当方は当日に出発したDera Ismail Khanから約280km程度先のZhobの町で投宿を考えていたが、Zhobの警察署長は同地での当方の宿泊はなんとしても阻止したかった。

 

当方のような外国人に問題が発生すると同警察署の署長の責任問題になる。そのため、その様な事態にならないように当方を上手く管轄外へ出したかった。警察署の同僚は<署長は責任を取りたくない男だからな~>と皮肉っていた。

 

同署長は当方に嘘をつき当方を上手くZhob警察の管轄外へ出した。警察署長は<Zhobから25km先にホテルがあるので、そこで投宿したらよい>と当方に言う。当方は同地で投宿すると主張したが、両者の話がかみ合わなかった。当方は、結局Zhobの町を警察車両に誘導されて25km先のホテルを目指した。

 

しかしながら、Zhobの町から40km走行してもホテルらしい建物は無い。その内に違う管轄の警察車両とバトンタッチとなった。新たな警護役は10km先にゲストハウスがあると言うが、それも嘘だった。そんなゲストハウスは無かった。そこでまた警護役が入れ替わり、<この先にゲストハウスがあるので、そこで投宿したらよい>と同じことを言う。これは外国人を先に進ませるための常套文句だった。

 

真っ暗闇の道路をZhobの町から140km進みQila Saifullahと言う田舎町の警察署に辿り着いたのは午後11時に迫る頃となっていた。

 

夜のハイウェイ走行は危険だった。対向車線を走行する大型トラックはヘッドライトを上向きのまま疾走する。

トラックの上向きのヘッドライトは目つぶしとなり、当方は前方が全く見えなくなる。後で知ったが、バロチスタン州では日没後に外国人が車両を運転することは禁止されていると言う。

 

Qila Saifullahの警察署では、当直の警察官達が宿泊する部屋に案内され、堅い床(コンクリートの上に絨毯が敷いてあるが)の上で雑魚寝をした。横たわると床が堅い。また、朝方は寒かった。結局、よく眠れず、朝を迎えた。

(ゾフ=Zhobの警察署の署長)

 

(小さな警察署の警察官)

 

(当方のオートバイが珍しくてQila Saifullahの警察署の前に集まった地元の子供達)

 

(荒地の一軒家)

(パキスタンのトラック野郎はこのようにトラックを飾っている)

 

Qila SaifullahQuetta 200km 

前日同様に警護車両が先導する。20km30km毎に警備車両が駅伝の様に交代する。

 

Quettaの町に到着すると、バックパック姿の中国人若者3名を載せた警備車両について行けと言われた。この警備車両がバスターミナルまで行きそこから動かないため、当方は単独でホテル探しを始めた。

 

前日のZhobの警察署長や警備についた警察官達の嘘で、当方は不機嫌になっていた。そして警察の言葉を信じなくなっていた。複数の警察のパトロールカーが逃亡犯のように当方の所在を探し回ったと翌日説明された。

 

この日はQuetta市内で外国人宿泊先として指定されているホテルのひとつBloomStar Hotelに宿泊する。外国人はGuetta市内を単独で行動できない上、午後5時以降(日没前)はホテルから外出も禁止され、軟禁状態に置かれる。

 

外国人が単独行動をとると、日本の江戸時代末期のように攘夷を唱える討幕派武士や浪人が外国人を襲うように反政府武装勢力に生命を脅かされると言う理由だ。 果たしてそこまで治安が悪化しているかどうか疑わしい。

 

QuettaDalbandin 360km(砂漠地帯だが、景色が良い)

午前9時にNOC(バルチスタン州の走行許可証)を発行するHome Department(役所)へ警察車両に先導され訪問して、即刻NOCを発行してもらう。 

 

同役所はNOCを20分ぐらいで発行してくれたため、その役所から次の目的地であるDalbandinに向けて直ちに出発する。通常はNOCを入手するためQuetta2泊するとの事前情報があったが、当方が単独行動のためか役所手続きが簡単に済み、Quettaでは一泊で済んだ。

 

この区間の景観は良かった。恐竜の背のような奇妙な形の山々があったり、ピラミッドのような形の山があったり、南米チリのアタカマ砂漠で見た水墨画で描いたような山が有ったりと、写真に収めたいような景色が多かった。しかし、立ち止まることが許されず、写真は撮れなかった。

 

また、南米のアルゼンチンのパタゴニアのような強風が吹き、砂漠の砂が舞い上がり前方の視界が遮られるような区間もあり、一日の内で一番変化に富んだ走行であった。

 

Dalbandinでも警察署で宿泊する部屋に案内され、そこの床で寝ることになる。当日の朝Quettaのホテルで焼いてもらったオムレツをチャパティ(インドのナンに似た小麦を薄く焼いたパン)に挟んで夕食とした。

(Quettaの役所でNOCを発行してもらった)

 

(Quettaは高さ500~600mぐらいの山に囲まれていた)

 

(強風で舞い上がる埃がすごくて視界が遮られる)

 

(交代する警備車両)

 

Dalbandin310kmTaftan/Mirijaveh国境~イラン入国後100kmZahedan(410km)

午前8時に警察署を出発して、別行動でDalbandinまで来たキャンピングカーの若いドイツ人夫婦と合流する。キャンピングカーで寝泊まりするドイツ人夫婦はDalbandin市内の別の警察施設で一夜を過ごした。

 

この区間は土砂漠の区間で、見渡す限りの土砂漠が続き、景色はつまらない。

通行車両はほとんど無い。時速90km100kmで走行して13:00頃には国境に到着する。

 

幸い当日は暑く無く、苦労なく走行で来た。ガソリンスタンドが無いと経験者から聞いていたが、ガソリンスタンはあった。そのガソリンスタンドではガソリンを入れたポリタンクから給油を受けた。

 

パキスタン警察の警備は国境で終了する。

 

イラン入国後Zahedanまでの100kmの道のりは単独で自由な走行だった。 パキスタンと比較して、イランの道路は格段良い。車も時速100km110kmで走行するため、巡航速度が時速80km90kmの当方はあおられ気味だった。

(Dalbandinの警察署。建物左側は留置場となっていた。留置されていた人達が珍しそうに当方を眺めていた。)

(Dalbandinの警察署で提供された部屋。この床の上でシュラフ・カバーにもぐり寝た)

 

以上

Pakistan (前半)LahoreIslamabadBeshamPeshawar 1,100km(4/144/23

パキスタンはイランへ行くため通過(Transit)するのみと当初考えていたが、首都イスラマバードから中国との国境へと続くキルギット・バルチスタン州の山あり谷ありのカラコラム・ハイウェイ(Karakoram Highway)はオートバイライダーにとって絶好のツーリングルートであることを知った。

 

折角パキスタンまで来たのだから、少し時間をかけて北部ルートをツーリングしたいと思い、同ルート途中まで行ったが、連日の雨天と交通渋滞で断念する。

 

パキスタンでは当方より2ヶ月先に日本を出国してアラビア半島へ渡った知人の日本人ライダーと合うことを楽しみにしていた。

 

同氏はUAE,サウジアラビア、シリア等のアラビア半島からイラク、イランを経てパキスタン入りした。当方は同氏とパキスタンのラホールで会うつもりでいたが、パキスタン入りしてからは同氏とはなかなか連絡がつかなかった。ラホールでは会えず、首都イスラマバードで会うことができた。

(写真右側の山の裾の白い線がカラコラム・ハイウェイ)

 

パキスタンの走行ルートは以下の通り。

ラホール(Lahore)320km~首都イスラマバード(Islamabad)~120km~アボッタバード(Abbottabad)~150km~カラコラムハイウェイを通行してベチャム(Becham)~ダス(Dasu)=引き返し地点~180km~再度ベチャム~210km~マルダン(Mardan)~120km~ペシャワール(Peshawar

 

(赤線がパキスタン北部の走行ルート。赤線の右側最下部がラホールの位置。赤線最上部がキルギットへ向かう途中のダスの位置。赤線左側の最後はペシャワール)

 

アラブ諸国・イランからパキスタン入りした日本人ライダーN

アラブ諸国とイランを経てパキスタン入りした日本人ライダーN氏はパキスタン入り後、過酷な走行を余儀なくされていた。パキスタンの西部に広がる砂漠地帯のバルチスタン州(Balchistan)はアフガニスタンとの長い国境を控え、警察やパキスタン政府を標的とした反政府組織がテロ等を度々起していた。

 

パキスタン政府はこの地域を陸路で横断する外国人旅行者には警備車両を同行させていた。同州は長さ600kmある。近年は同州のみならず、首都イスラマバードやインド国境近くのラホールまでパキスタン全土を横断するぐらいの長距離を全て警察車両がが外国人旅行者を護衛するようになった。

 

その例に漏れず、同氏はイランからパキスタン領へ入ると直ぐに警察車両に護衛され首都イスラムバードまで約1,500kmの距離を約1週間かけてやってきた。警察車両の護衛がつく期間は連日警察施設で雑魚寝同様の宿泊を余儀なくされ、日中は炎天下の中を走行し続けるため、体力の消耗が著しいと言う。

 

その過酷な走行が祟って、同氏は上半身に帯状疱疹が発生した。同氏はイスラマバードへ到着した際には疲労困憊の状況だったと言う。当方はラホールから同氏に会うためイスラマバードへ向かった。

 

オートバイのエンジン・スタート・キーが壊れる。

エンジンのスタート・キーが回りづらくなってきた。キーを回してもエンジンのスイッチが入らないのだ。

スタート・キーの調子が悪くなった翌日には、エンジンのスイッチが入らなくなった。

 

原因は不明だが、予備のキーを使ったら、エンジンのスイッチが入った。オートバイは既に6万km以上走行している。その間何千回とスタート・キーを回し続けているため、キー自体が多少曲がったりして鍵穴の接触が悪くなった可能性がある。

 

親切と興味本位は紙一重

パキスタン人は外国人に親切だ。当方が立ち止まって、スマホのカーナビアプリで現在位置等を確認していると道行く人やオートバイで通りすがりの人は止まって、当方に声をかけてくれる。当方は全く困っていないが、外国人が道に迷って困っているのだろうと思われている。

 

ただし、声をかけてくれる意図は、外国人は珍しいので一緒に写真を撮る、外国人と話をすることが多分にある。

 

イスラマバードからキルギット方面へ向かう渋滞道路で当方は歩くような遅い速度でオートバイで走行していた。道路脇を歩く男が、英語で当方へ話しかけてくる。当方は渋滞道路の運転に集中しているため歩行者と話す余裕は無い。 当方はその男を無視していた。

 

その男は、それでも執拗に当方に話しかけてくる。歩いている男が先に行く。道路脇の警察官が当方へ道路脇へオートバイを寄せて止まれのジェスチャーをする。当方は警察の検問だろう思い、オートバイを道路脇に寄せてとめると、先ほどから執拗に当方に話しかけている男がその場所にいた。

 

しかし、その男は警察官ではない。当方を止めた警察官は当方には何も用事は無いようだ。当方に話しかけようとしていた男に頼まれて、当方に止まれの合図をしたようだ。

 

この男のしつこさには腹が立った。当方は<お前と話すことは無い>とその男へ伝え、走り去った。

 

飴をむさぼり立ち去った少年。

イスラマバードからキルギット方面へ向かう田舎道で周囲の景色を写真に収めようと当方は道路脇にオートバイを止めた。

 

道路脇に山から流れてくる水を畑の灌漑用に利用するための水路があった。水路の水流は速く冷たそうだった。12歳ぐらいの男の子が、幅1mほど水路を跨いで、ズボンを水にぬらしながら水路の水を飲んだ後、オートバイに跨って止まっていた当方の処へやってきた。

 

当方にお金をせびるのかなと思ったが、お金をせびる様子は無い。当方のところで立ち止まって、その場を動こうとしない。当方がその男の子にポケットに入れていた飴を差し出した。男の子は飴をつかむと、歯で飴の包装を食いちぎり、飴を口中にいれると声にならないうめき声を上げてその場を立ち去った。

 

あの男の子は一体何だったんだろうと思った。

 

ラホール(Lahore)~イスラマバード(Islamabad) 330km

ラマダン中のツーリングや観光は体力的に厳しい

パキスタン入りした時から、既にラマダン中だった。パキスタンはイスラム教徒の国である。ラマダン中は日中の飲食はできなく、レストランや食堂は閉まっている。

 

当方は現地人がいる場所での飲食は避けている。そのため、水分の摂取不足となり易い。ラホールでは

炎天下の市内のモスクとユネスコの世界遺産だと言うラホール要塞を徒歩で観光した。気温は摂氏40度以上はある。モスク敷地の石の上は熱くて裸足では歩けなかった。素足で歩くところには水がまかれた絨毯が敷いてあった。水を含んだ絨毯や水たまりは強い日差しで熱くなっていた。

 

そんな炎天下で、水分を補給せず数時間歩いていたら熱中症になってしまった。暑さで気分が悪くなり、ホテルに戻った後でも風邪を引いたように熱がでて食欲がなくなった。翌日はホテルで静養を余儀なくされる。

(インドのアムリトサルとパキスタンのワガ国境では毎日派手な国境閉門式が行われる。写真奥はインド側の観衆とベージュ色のインド式典部隊。インド側は5~6千人ぐらいの観衆が動員されスタジアムを埋め尽くしていた。写真手前の黒い制服姿はパキスタンの式典部隊。国境線で両国の式典部隊が応援合戦を繰り広げる。)

(パキスタン側の観衆は3百名程度と少なかった)

 

イスラマバード(Islamabad)~アボッタバード(Abbottabad130km

日本人ライダーN氏とはイスラマバードで2日間行動を共にした後、パキスタン北部のキルギットを目指してイスラマバードを後にした。ただその日は午前中雨だったため、雨が上がった午後にイスラマバードを出発した。 


 

オートバイは高速道路の通行が禁止されている。全て下道(一般国道)ので通行のため、移動には時間がかかり、日没となったアボタバードで投宿した。


 

日没を知らせるモスクから流れるコーランの声が断食時間の終了を伝える。その時間になると、人々が一斉に食事を取り始めるため、商店が閉まり、道路上の車両の通行が無くなる。


 

アボダバードのホテルオーナーは当方へ食事を勧めてくれた。ヨーグルト味のフルーツとジャガイモの周りに小麦を付けて油で上げたたべものだったが、当方も日中は何も口にしていなかったので、この食事の提供は有難かった。

 

尚、ラマダン中は他の場所でも、日没後の食事を度々勧められた。

(ラホールからイスラマバードへ向かう途中の小麦畑。景色はインドのパンジャブ州と変わらない。この日は曇っていて暑くならずに済んだ)


(首都イスラマバードは緑が多い落ち着いた街だった)

 

アボタバード~ベシャム(Besham)150km

キルギットの観光業者からイスラマバードからベシャムは車で1日の距離(約280km)だと聞いていた。ただし、オートバイは高速道路の通行が禁止されているため、途中の町や村での渋滞を考慮すると一日で到達できる距離では無かった。


 

アボタバードからマンセーラ(Mansehra)を過ぎると、小高い山々の裾野に沿った道路を進むようになる。この道はギルギット・バルチスタン州を通過して中国との国境まで至る全長約1kmのカラコラムハイウェイ(Karakoram Highway)の始まりだ。 


 

ただし、カラコルムハイウェイというと立派な高速道路があるのかのような誤解を与える。実態はハイウェイでは無く、日本でいえば2級国道か市町村道の扱いだろう。

(ガソリンスタンドで給油後、子供達が珍しいものを見たさに集まって来た)

(インドのTATA製の古い乗用車だったが、トヨタのロゴをバンパーに張り付けていた)

(ベチャムへ向かう途中の田舎道)

(徐々に山の中へ入っていく=ベチャムへ向かう途中)

 

ベチャム~ダス(Dasu)=折り返し点~再度ベチャムへ戻る180km

あいにく前日から雨の中の走行が続いている。 山の中腹を這うような道路をひたすら進むのだが、山に降り注ぐ雨が滝となり、道路に落ちてくる。

 

いたるところで道路が冠水して滝からの水流が20cm位となり道路を右から左へと勢いよく川のように流れる。オートバイが水流に流さるのではと心配した。

 

連日の雨で支流が氾濫してこの先の道路が崩壊し通行止めになっていると前日聞いていた。中国の土木会社が道路の復旧工事中に当たっているらしい。


この道路は落石も多い。道路のいたるところに直径50cm位の岩がごろごろしている。その岩を避けながら道路を先に進む。連なる山々には雲がかかったり、途切れたりしている。後2日間天気は雨の予報だ。

 

ベチャムから80km進んだダス(Dasu)の集落の先が前日通行止めになっていた場所らしい。通行止めは解除になったが、貨物トラックが数珠つながりとなり長い列となっている。おまけに狭い道路には我先に先へ進もうとする乗用車が対向車線にも広がり、対向車が身動き取れない。


 

周囲には集落が無い山間部の道路なので、渋滞が解消しない場合には雨の中、夜中もこの場所で過ごさなければならい。しばらく待ったが交通渋滞が解消する兆しが全くない。これ以上先へ進むのを諦め、元来た道を戻り、前夜泊まったベシャムへ引き返すことにした。

 

(谷間のカラコラムハイウェイ)

(カラコラム・ハイウェイでワンショット。雨模様のため雨具を着たままだった)

(引き返した地点のトラックの長い列)

 

ベシャム~ミンゴーラ(Mingora)~マルダン(Mardan210km

キルギット行は諦めたが、イスラマバードへ元来た道を戻る気にはなれず、周回するルートを探した。

道路の状況や高低差は判らないが、ベシャムからマルダン(Mardan)やペシャワール(Peshawar)方面へ行くルートがあった。 

 

ちょうど群馬県の佐久から長野県の蓼科へ抜けるようななだらかな山々の中を走り峠道を通るようなルートがミンゴーラ(Mingora)まで続いていた。

 

マルダンには約2000年前の仏教遺跡があると聞き、訪れたいと思った。しかし宿がなかなか見つからなかった。ラマダン最終日でもあり、翌日からラマダン明けの連続休暇(日本でいえば正月のような休暇)のため多くのホテルが本日から臨時休業していた。

 

日没後、ホテルと思って迷い込んだ大きな民家の主人が、当方が日本からのライダーと知ると<まず食事をして行け>と断食明けの食事(朝食に相当する軽食)を勧められる。そこで簡単な食事をご馳走になり、出発しようとすると、今度は<是非泊まって行け>と言う。

 

好意に甘えて、泊めてもらうことにしたが、泊めてもらった部屋はその民家の住み込みの使用人の部屋だった。当方は使用人部屋とは知らずに宿泊したが、その部屋を使っている使用人は当方のせいで、他の場所で寝ることを余儀なくされていた。

 

夜になると近所の人達、親戚や友人があつまり、男同士で話を楽しむ。当方が話のネタにちょうどよい具合になったようだ。 

(ベチャムからミンゴラ途中のシャングラ峠からの景色)


(ミンゴラ手前の峠道からの景色)

(ミンゴラでエンジンオイルの交換をしたバイク店とメカニック。タイヤの空気圧メーターを使っていたのには驚いた)

(マルダンで一泊お世話になったHazam氏=写真右側とその息子。写真左は同氏の弟)

 

マルダン~仏教遺跡見学~ペシャワール 120km

紀元1世紀~3世紀の仏教遺跡Takhit-i-Bahiがマルダン郊外にあることをフェースブックで知り合ったパキスタン人の観光ガイドから聞いた。 同遺跡はユネスコの世界遺産だと言う。


 

この地には外国人観光客はほとんどいない。当方が同遺跡へ行くと中学生から高校生ぐらいの男子生徒20名ぐらいに囲まれた。皆から握手を求められる。また一緒に写真を撮らせてくれと言う。 当方が歩き出すと当方を囲むよう一斉に動き出す。


 

映画スター並の扱いだが、当方は身の危険やうっとうしさを感じる。警備員が付きまとう少年達を家畜を扱うように棒を振りかざして追っ払おうとするが、少年達はまたすぐに戻って来る。


 

当方は仏教遺跡をゆっくりと見学できず、ちょっと見て足早に同遺跡を去った。

(仏教遺跡Takhit-i-Bahi。マレーシアからの団体客がポーズを作って写真をとっていると遺跡周囲の高台で子供達が歓声を上げていた。)


(ペシャワールではヘレニズムの影響をうけたガンダーラ美術が発展した。ブッタの頭象はギリシャ彫刻に似る)

(レスラーの取り組みは日本の相撲に似ていると思った。ペシャワール博物館蔵)

(ペシャワールの下町の入口門)

(ラマダン中の日没後、炭火でチキンを焼く男。大き目サイズの一串は250パキスタンルピー=約120円)

 

以上


 

(IndiaDehliからAmritsar そしてPakistanへ入国 950km(4/34/13

 

風光明媚な山岳道路

デリーからはパキスタンへの入国を目指してアムリトサル(Amrtsar)へ向かうだけの走行ルートだが、デリーから最短距離でアムリトサルへ12日間で到達する。

 

それでは面白くないと考えた。チベット亡命政府があるダラムサラ(Dharamsala)を経由してインドの山岳地帯をかすめる迂回ルートを通り、アムリトサルへ行くことにした。距離は最短距離の約2倍となる。

 

更に北の迂回ルートを通ればインドのヒマラヤ山脈地帯の裾のラダック地方へ行くことになるが、ラダックはまだ冬だ。富士山より高い標高4m級の峠道があるというので、この最北端の迂回路は避けた。

 

北の迂回ルートは正解だった。ネパールのような山岳道路であったが、道路事情はネパールより数段良い。全て舗装道路だ。

(標高5000m級の雪をかぶった山がまじかに見える)

(山岳道路から谷川を見る)

胃腸の調子が悪い

チャンディガル(Chandigarh)で食べたソモッサ(カレー風味の油で上げたジャガイモ)とモモとよばれる

水餃子を食べた後、胃腸の調子が悪い。

 

下痢等はインドで数回しているが、今回は一番調子が悪くなった。 下痢と胃の痙攣のため2日間食欲が無く、気持ち悪くて丸一日何も食べれなかった。薬局で薬を調合してもらうが、効き目が無い。

 

3日後に何とか収まった。それ以来ソモッサとモモを見るのが嫌になってしまった。

 

パキスタン・ビザとイラン・ビザ申請のその後

パキスタンのEビザについては申請後78営業日に電子メールで入手した。

 

しかしイランのEビザに関しては申請後約2週間経過しても、音沙汰無しだ。フェイス・ブックの陸路旅行者のグループ情報のスレッドで他の旅行者達からアドバイスや情報をもらった。

 

あるドイツ人カップルの場合、本人はEビザの許可が出るまでに申請後5週間かかったと言う。ある人は個人が申請した場合はイラン政府はビザを発給しないと言う。

 

また、ある人はインターネット上のイランのEビザ申請サイトの画面では常時<ビザ発給待ち=Waiting for Verification>の表示が現れても、待つだけ時間の無駄だと言う。

 

当方が駐日イラン大使館へ電話で問い合わせすると、イランの外交官は当方の申請はEビザの申請システム上に残っていないので、再度申請をしたほうが良いとアドバイスをする。

 

当方がチェックする限り、イランのEビサ申請サイト上では当方は<ビザ申請済み>と表示される。一体どうなっているのだろう?

 

当方は既にパキスタン入国のため、国境の町アムリサトル(Amritsar)まで来ている。イランのEビザが無くては、パキスタンでの滞在期限が1ヶ月しか許可されていないことを考慮するとパキスタンへはうかつに入国できない。

 

以前コンタクトが有った外国人旅行者に聞いたイランの旅行会社Tap Persiaと連絡を取り、同旅行会社経由Eビザの申請を再度行うことにした。

 

申請翌日に同旅行会社からイランEビザが発給される知らせを受け取った。なんと早いスピードだ。

旅行会社曰く、個人が自らEビザを申請してもイラン政府はほとんどビザを発給しないと言う。イラン政府は観光業者経由の方が申請者(外国人入国者)をコントロールし易いとの理由だった。


 

以下デリーからインド出国(パキスタン入国)までの走行ルートと各走行ルートのショートコメントを記す

デリー(Dehli)~280km~チャンディガル(Chandigarh)~迂回路スタート~210km~マンディ(Mandi)~120km~ダラムサラ(Dharamsala=チベット亡命政府所在)~140km~パタンコン(Pathankon)~90km~迂回路終了~アムリトサル(Amritsar=シーク教徒の都市~国境(パキスタン入り)~90km~ラホール(Lahore)=パキスタン第二の都市

(デリーからアムリトサルまでの走行ルート。赤線が走行ルート。地図下部の赤丸印がデリーの位置。地図上段の赤線ルート最後がアムリトサル)

(インド・ネパール走行ルート地図。ムンバイ=地図左側中央のスタート地点からアムリトサル=地図最上部まで約10,000km弱だった。当方はムンバイに1/15に到着して、2/1からオートバイ・ツーリングを開始して反時計回りに赤線ルートに沿って進んだ。)

 

デリーからチャンディガル(Chandigarh280km

デリー周辺は巨大な首都圏を形成するため、デリーから150km離れてもハイウェイ沿いの町並みは途切れることは無い。 やっとチャンディガル近くになるとのどかな田園風景が広がる。 車や人々の往来が少なくなり、気持ち良いツーリングとなる。

 

チャンディガルはインドでは珍しく市街地が計画的に造られている。著名なスイス人が設計したと言う。

大学のキャンパス内のように緑の木立ちが多い街並みとなっており、インドで一番美しい街だと言われている。

 

当方はチャンディガルの郊外に宿泊し、ここで胃腸の調子を崩した。

(チャンディガル付近ののどかな地方道)

(チャンディガル市内の道路)

 

(チャンディガル郊外で宿泊したホテル=写真左側)

(チャンディガル郊外の投宿ホテル屋上から付近を臨む)

 

(廃材でオブジェを作ったと言うチャンディガル市内のRock Garden。スペイン・バロセロナのガウディー公園に少し似た部分がある。)

 

チャンディガル~マンディ(Mandi210km

山あり、谷あり、ワインディングロードありの地方道を進む。

期待した通り、ネパールの山岳地帯の道路のように景色が良く、交通量も多くない。インドで初めて景色を楽しむツーリングとなる。

(山岳道路に入っていくと景色は良くなる)

 

マンディ~ダルマサラ(Dharamsala)120km

マンディから更に北上してラダック地方への出発点になるマナリ(Manali)を目指すか、あるいはダルマサラへ向かうかどうか少し悩む。マナリは標高が更に高くなり最低気温は0℃になる予報がでている。

 

最低気温をチェックしてマナリ行はあっさり諦めた。寒すぎる。ダルマサラ方面へ向かうと雪をかぶった高い岩山が見える。遠くの空には積乱雲がかかっていてダラムサラあたりの天気が怪しくなっている。

 

雨がポツリと降り出してきたため、ダルマサラ手前の街道沿いのホテルで宿泊することにした。

(写真奥の積乱雲がかかっている付近はダラムサラ。天気が崩れることが判る)

(ダラムサラへ通じる山岳道路)

 

ダルマサラ~パタンコン(Pathankon140km

宿泊地を決めていなかった。夕方までに辿り着ける町で投宿すれば良いと考えていた。 小さな地方都市だとBooking.com等のホテルのオンライン予約業者はカバーしていないし、カーナビのアプリにもホテルの表示は少ない。 

 

飛び込みで宿を当たり、4軒目で投宿する宿を決める。ホテルホーナーは妹夫婦が仕事(ITエンジニア)で横浜市に半年ほど滞在したと言う。日本に興味あるようだ。

(山の上のダラムサラの街)

(ダラムサラの街と背後の山々)

(ダラムサラの中心部)

(ダラムサラ中心部のチベットの住民が蜂起している壁絵)

 

(ダラムサラのチベット仏教の本尊)

(ダラムサラのチベット仏教寺院の境内ではチベット僧たちが声を出して押し問答式の修行をしていた。)

(ダラムサラのダライ・ラマ14世の公邸)

(パタンコンで投宿したHotel Parag)


パタンコン~アムリトサル(Amritsar90km

既に山岳地帯のルートは終わり、平地になってきたため暑い。アムリトサルはパンジャブ州の州都であり、シーク教徒の聖地でもある。

 

プロレスラーのアントニオ猪木が活躍していた頃、インド出身のプロレスラーがいた。タイガー・ジェット・シンと言う名のシーク教徒で、頭にターバン巻き、手にサーベル持ってリングに登場していた。アントニオ猪木と対戦したテレビ中継を思い出した。

 

シーク教徒の男は頭にターバンを巻く。名前の最後にシンを付けるのもシーク教徒の特徴だ。

(アムリトサル駅前の喧騒とした道路)

 

(アムリトサルの歴史的建物がある地区)

 

 

(アムリトサルで1919年に集まった住民に対してイギリス軍が発砲して無差別な大量虐殺を行った。400名弱の住民が死亡して1000人以上が負傷したと言うジャリアンワラ公園=Jallianwalah Bagh。写真中央に慰霊碑が建つ。当方は過去にガンジーの映画でこの場面を見たことがあった。)

 

(ジャリアンワラ公園内の壁には多量虐殺時の弾痕が残る。弾痕は白い線で囲っている。)

(アムリトサルのシーク教徒の聖地ゴールデン・テンプル)

(アムリトサル。シーク教徒の正装。腰には短剣を差す。)

(アムリトサル。シーク教徒の警察官)

(アムリトサル。食料品とフード店の店主=写真中央とその息子=写真右。写真左はフード店のシェフ。当方がトマトを売っている場所を探していると言ったら、店主は隣のフード店で使うトマト数個を無料で持っていけと提供してくれた)

 

アムリトサル~Attari国境(インド側)/Wangah国境(パキスタン側)~ラホール(Lahore

アムリトサルから30km強の距離でAttari国境に着く。 インドとパキスタンの冷めた外交関係を反映してこの国境の往来は少ない。貨物の往来は皆無だ。 しかも国境は10:00AMに開き、夕方早くには閉鎖される。


 

毎日夕刻に行なわれるパキスタン側とインド側それぞれの国境閉会式のパーフォーマンスは派手だが、往来が少ない国境では寂しい。当方は午前10時に国境ゲートが開門されることを知らず、早く国境へ着きすぎてしまった。


 

国境の往来が少ないため、国境通過はスムーズで待ち時間含め2時間程度でインド出国とパキスタン入国手続きが済んだ。


(アムリトサルからアタリ=Attari国境へ向かう立派なインド側の道路)

(パキスタン・ラホール市内の世界最大級規模のモスク)

(ラホール市内のアラブ様式の出窓がある建物。ラマダン中のため飲食店は閉まっていた)

(ラホール市内のラホール要塞=Lahore Fort。世界遺産登録。写真のエレファント階段の建物壁には1847年シーク戦争当時の弾痕が残る。)

 

以上

ワラナシ(Varanasi)から首都デリー(Delhi)まで、1300km(3/234/2)

インドでのバイク・ツーリング日程の78割を終了して、インド・ツーリング始めて2ヶ月過ぎようとしている。

インドの次に訪れるパキスタンとイランのビザをインターネット経由で申請する作業のため、ツーリングでの移動距離が短くなる一方、それぞれの町での滞在が長くなる。

 

アグラ(Agra)ではインド観光では一番人気のタジ・マハール(TajMahal=ムガール帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハールの霊廟)を見学。

(タジマハール=Taji Mahal 1653年完成。 ドームの高さは67m、4つのミナレットは高さ43m。当時の金額で金50トン分の費用と22年の際月を要した。1983年世界遺産登録)

(タジ・マハールはモスクになっている。モスクの内部中央にはムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンとその妃ムムターズ・マハールの棺が納められている)

(タジ・マハールの裏を流れるヤムナー川は残念ながらドブ川のような異臭を放していた。第5代皇帝シャー・ジャハーンは自らの霊廟を川を挟みタジ・マハールとは反対側に造ろうとしたらしいが、後継者の息子に幽閉され夢はかなわなかったと言う)

 

 

アグラの後に訪れたジャイプール(Jaipur)は他のインドの街並みと異なっていた。

城壁で取り囲まれ旧市街の建物はピンク色に統一され、アラブ諸国の色彩が強い街並みにだった。

 

この地は乾燥した低木のステップ気候のラジャスタン州(Rajastan)に位置する。この一帯を18世紀に治めていた藩王が天文学好きで、当時では世界最先端の天文台をインド全国5カ所に造り天体の観測を通して現在の時刻と20秒しか違わない正確な時刻を計測していたことには驚いた。

 

走行ルートは以下の通り

ワラナシ(Varanasi)~385km~ランプール(Ranpur)~310km~アグラ(Agra)=タジ・マハール見学~260km~ジャイプール(Jaipur)=建物がピンク色に統一~300km~グルガオン(Gurgaon)=多国籍企業が多い近代都市~60km~ニューデリー(New Delhi)=インド首都でタイヤ交換

 

 

(インドとネパールの走行ルート図。赤線の上部左側最後の地点がデリーの位置)

(ネパールからワラナシ経由デリーまでの走行地図。赤線が走行ルート。地図右側上の赤丸印はネパールのポカラ。地図左側上部の赤丸印はデリーの位置。ワラナシは赤線ルートの右側最下部の赤丸印の位置。)


パキスタンとイランのEビザ申請について

パキスタンのEビザ申請

パキスタンのビザ取得は難易度が高いと聞いていた。2018年当時、イランからパキスタンへオートバイで入国した日本人ライダーはパキスタンのビザを取得するため、イランの国境にオートバイを残したまま日本に一時帰国して、日本のパキスタン大使館でビザを取得したと聞いていた。

 

コロナ禍以降はインターネット経由Eビザを取得する方法に替わっているが、Eビザ申請にはパキスタンで旅行者の身元を保証するスポンサーからの招聘状(Letter of Invitation)が必要とか、駐日パキスタン大使館で面接を求められる場合があったり等ビザの申請がめんどくさくなっている。 

 

インターネット経由の申請と言えども、面接場所は自国(日本)の駐日パキスタン大使館とせねばならないのがひっかかる。

 

駐日パキスタン大使館の領事部・外交官に電話で<当方はインドをツーリング中故、インドにあるパキスタン大使館を面接場所に指定することは可能か?>と相談したら、面接が必要な場合は駐日パキスタン大使館の外交官と電話で行うことが可能とのことだった。 

 

また、パキスタンのスポンサーからの招聘状が無くても、旅行計画書の提出で代用できることも同外交官に教えてもらい、自分自身でEビザの申請が出来ることが判った。わざわざビザ業者を通さずに済むし、日本への一時帰国も不要だ。

 

ただし、VPNVirtual Private Networkの略。 詳細は右記サイトをクリック https://surfshark.com/ja/learn/what-is-vpn)の回線を介してもインターネット経由でのEビザ申請時のビザ代金の支払いが出来ない。 結局、日本にいる留守家族に自宅のインターネットを介してEビザの申請を行ってもらった。

 

イランのEビザ申請

イランのEビザ申請についても自分自身で行う。

出国前に自宅インターネットで同国のEビザ申請を試してみたが、本人写真のアップロードが受理されず完了できなかった。しかし、ランプール(Ranpur)滞在中に持参のポータブルPCにてEビザの申請したら、あっさり受理された。

 

イランのEビザの場合、実際のビザは申請者が希望する在外イラン大使館ないし領事館へ行き、そこで発行されることになっている。ビザ料金は実際に発行され時に支払うことになっている。

 

当方はパキスタンのラホール(Lahore)にあるイラン領事館でビザの発行を希望する旨を伝えている。

 

以下ツーリングールートでのコメント

 

ワラナシ(Varanasi)~ランプール(Ranpur385km

ハイウェイ(国道)は3車線道路が整い、交通量も少なく概ね快調だったが、ライプール市内でカーナビ用アプリのMaps.Meの誘導は酷かった。狭くて人混みの道、獣道のような荒地、挙句の果てには鉄道専用の橋も通行する誘導になっていた。

 

都市部内の移動ではMaps.Meの誘導に頼らず、比較的大通り(=容易に通行可能)を自ら選ぶ必要がある。

 

ワラナシからアグラへは距離が長すぎて一日では行けないため、ランプールにはアグラへ行く途中にあるという理由で滞在しただけだった。2泊しただけだったが、観光は全くしていない。ホテルの自室に留まりイランのEビザ申請に集中した。

 

ランプールの宿はなかなか決まらなかった。目星をつけていたホテルは駐車場も無く、通りの交通量が多く環境が悪い場所だった。広い落ち着いた通りに面した少し高そうなホテルを見つけて、部屋料金の交渉をした。

 

当初、部屋料金は2,800ルピー(4,500円)だと言われた。当方は800ルピー(約1,300円)の予算で部屋を探していると言うと、1,000ルピーの部屋が有ると言う。つまりホテル側は高い部屋から紹介して、宿泊客が安い価格や値引きを要求すると価格が低い部屋を紹介する仕組みになっている。

 

当方はホテルの部屋価格の交渉は以下のように行っている。

まず、価格交渉を急がないことが大事だろう。

 

まず部屋を見せてもらい、その料金に値するかどうか確認する。

 

Booking.Com等のインターネット予約業者経由の予約を行っていないため、同業者に支払う手数料分の割引余地があるはずと交渉する。

ホテル側はBooking.com等のインターネット予約業者へは部屋料金の2割程度の手数料を支払う。

この際インターネット業者経由の料金は事前に調べておく必要がある。

 

なかなか割引に応じない場合は、一旦交渉を終了させて、<他のホテルへ行く>と言う。一旦交渉を打ち切ってから、ホテル側は<ちょっと待ってくれ>と、価格割引に応じる場合が多い。

 

自らの希望価格(指値)を伝える。(低めの料金を伝える。)

 

 責任者(できればオーナー)と直接交渉する。

(ワラナシからランプールへ行く途中のハイウェイ)

 

(ランプールの町は中心部は古く廃墟のようだった。朝方撮影したため通行人はほどんどいなかった)

 

ランプール~アグラ 310km

アグラでは3泊したが、観光はタジ・マジハールを半日したのみで、後はパキスタンのEビザ申請の準備と申請のため日本の留守家族と連絡を取り合っていた。

 

タジ・マハールは旧市街の一角に位置する。旧市街への車両でのアクセスは狭く、迷路のような生活道路を通る。

 

今までに、アラブ諸国でも巨大なモスクを見てきているが、タジ・マハールの白く巨大なモスク(霊廟)はそれなりの一見の価値が有ると思った。

 

(ランプールからアグラまでのハイウェイ)

(アグラ旧市街で宿泊したホテル屋上から300m先のタジ・マハールを見る)

(アグラの旧市街のレストランはサル避けの金網が張られている。朝夕にはサルの集団が建物の屋上沿いにえさを求めて住宅地を徘徊する)

(当方オートバイの後輪に刺さった釘を見つけた。ブロックタイヤの山の部分だったためパンクは免れた)

 

アグラ~ジャイプール260km

インドには地名の最後にOOOプール(pur)が着く都市が多い。プール(pur)は城壁に囲まれた町を意味する。

 

アグラから同地へ入ると乾いた土地になる。丘や小高い山がポツリポツリ目立つようになり、緑豊かな平野部から乾燥地帯へ入ったことを実感する。

 

ジャイプールの要塞はこのような町を見下ろす小高い丘の上に位置していた。旧市街全体も高い城壁に囲まれ、城壁門からのみ通じている。当時は外敵から守るため、このような城門、城壁、要塞が必要だったぐらい戦乱があったのだろう。

 

旧市街の観光をバイクで行うが、インド滞在中3回目となる腰痛が生じた。オートバイのスタンドを立てかけるのをうっかり忘れてオートバイを駐輪した際、倒れそうになったオートバイを倒れる寸前で支えた為だった。

そのため腰痛がひくまで延泊。

(ジャイプールの旧市街へ入る門)

(旧市街はこのような色で統一されている。)

 

(18世紀の天文台。写真奥の階段状の最高部の高さは27m。天文台建物の角度は北極星へ向いている。)

(18世紀の地球儀に日本が載っていた)

(ジャイプールの風の宮殿=Hawa Mahal。外観は美しいが薄ぺらい建物で宮殿というよりディズニーランドのアトラクションの建物に近い)

(ジャイガル要塞=Jaigarh Fortの世界最大の巨砲。一回だけ使われたと言う。1720年製 射程距離20km 長さ約9m、砲身の高さは約2.7m、重量50トン。移動には象が使用されたと言う。)

 

(果物の量り売りには分銅が使われる)

 

ジャイプル~グルガオン300km

グルガオンはデリーから3040km離れた新しい町だった。 デリーの家賃高騰を嫌って多くの多国籍企業がオフィースをグルガオンに移すようになって町が発展したという新興都市。 多くの日本企業がオフィースを構え、日本企業に勤める駐在員が住むと言う。

 

当方は大都市デリーの交通渋滞を嫌って、グルガオンに滞在することを考えていた。しかしグルガオンでは外国人が宿泊可能な割安なホテルが無いことが判った。インドにはOYO Hotelという割安なホテルチェーンが多いが、グルガオンのOYO Hotelはインド人専用となっている。

 

インドではホテル等の宿泊施設が外国人を宿泊させるには、当局にある形式の書類を提出することが義務付けられている。グルガオンではその形式をそなえているのは比較的高額なホテルに限定される。78軒目に訪れた立派なホテルでやっと宿泊できた。

 

複数のホテル関係者からグルガオンのホテル料金はデリーより割高だと教えてもらい、翌日デリーに向かうことにした。

 

グルガオン~デリー 60km

(デリーの入口)

 

ニュー・デリーでオートバイのタイヤ交換

デリーを訪れた理由は当方オートバイのタイヤを交換するためだった。日本から輸送する直前にブロックタイヤ(ダンロップ製D605)に交換後、約18,000km走行した。タイヤの山は3割程度残っているが、この先のパキスタンやイランでタイヤが見つかるかどうか判らなかった。また、ネパールでの後輪タイヤのパンク修理が上手にできているか自信が無い。

 

アグラ市内でオイル交換したYamahaの看板を掲げたオートバイ修理店(Yamahaの正規代理店では無かったが)で、デリーのオートバイ部品店が集まる地区へ行けばタイヤが見つかると教えてもらった。

 

具体的なタイヤ店の名前は判らないが、デリー到着早々その地区(Karol Bagh)へ行った。通りを歩く数名に<オートバイのタイヤ販売店がある場所はどこか?>と聞いたら、ニューデリー駅から3km離れた車やオートバイのアクセサリーや部品を販売する店舗が建ち並ぶ地区に辿り着き、タイヤショップを見つけた。

 

当方オートバイ(Yamahaセロー250)サイズにあったインド製のタイヤが見つかり、前後輪とも交換した。料金は工賃含め6,500ルピー(約1万円強)

(タイヤ店では手作業でタイヤを交換する)

(前輪をフロントフォークにはめ込むにもバイクスタンドは使用せず、二人で作業する)

 

日常茶飯事な割り込み運転

デリーはとにかく人が多い。町中の車や三輪車タクシー、バイクの運転もインドで最悪だった。

インドの都市部の渋滞道路では一日2~3回三輪車タクシーやオートバイにぶつけられる。低速運転中だから事故に繋がらないが、不愉快だ。当方が衝突を回避しなければ、もっと多く衝突される。

 

相手は当方が衝突を回避する行動を期待して、混雑する道路で割り込んだり、飛び出したりする。当方が<危ない>と思ったり、ヒヤリとする場面がしょっちゅうある。

 

ある時は三輪車タクシーが5cm位の幅で当方の横に並び、当方の行く手を遮りように割り込もうとする。

当方は三輪車のタクシーの運転手の体に肘鉄をくらわして、三輪車タクシーの運転手をけん制した。

また、ある時は三輪車タクシーの車体を叩いて、相手の無茶な割り込みをけん制する必要があった。

 

横入りと言うことは日常茶飯事だ。アグラではタジ・マハールの入場券を買うためにチケット販売所で列を

つくって順番をまっていると、観光ガイドらしい人が順番を無視し割り込もうとする。

 

当方は思わず持参している笛を<ピー>と吹いて、強い口調でそのガイドに割り込みを止めるように注意をする。当方は、割り込みには腹が立っていた。

 

するとガイドは<当方が列をつくっている場所は正式な列では無い>と難癖を言い張ったが、最後には当方の勢いに押されてバツが悪そうな顔をして、割り込みを止めた。 当方の無謀とも思える注意に外国人観光客のひとりが、<良いことをしてくれた>と称えてくれた。

 

インドには人々がルールやマナーを遵守する国になってもらいたいと思う。

 

人混みを嫌いデリーには2泊のみしか滞在しなかった。パキスタンとの国境があるインド北部方面へと向かった。

(デリー旧市街の中心。レッド・フォート= Red Fort。レッドフォート内への入場待ちの列が300m位続いていたので、入場は諦めた)

 

以上

ネパール(Nepal)後編からインドへ再入国~ヒンズー教最大聖地ワラナシ(Varanasi)まで950km(3/1522

(Pokhara郊外から見たアンナプルナ山系のマチャプチャレ山。標高6,993m)

 

走行ルートは以下の通り。 ブッダ(Buddha)にゆかりがある地3カ所を訪問する巡礼のようになる。

 

ポカラ(Pokhara)~ローアームスタング(Lower Mustang)アドベンチャーコースの途中を目指すが途中で断念~ルンビニ(Lumbini)=ブッタ生誕地~ネパール出国/インド再入国~クシナガール(Kushinagar)=ブッタ入滅の地~ワラナシ(Varanasi)=ヒンズー教徒聖地/サルナート(Sarnath)=ブッタが最初に説法をした地

(ネパールとインド北部の地図。赤線がツーリングルート。ポカラは一番上の赤線上の最も左側で赤丸をした場所。マーカーで印した場所は宿泊地)

 

ポカラでオートバイの調子が悪い

エアークリーナーを新品に交換後、当方のオートバイのエンストは直ったように見えたが、オートバイを信号待ち等で停止中、エンジンがアイドリング状態でエンストするようになってしまった。

 

ポカラ(Pokhara)からの出発を延期して滞在中に知り合ったバイク修理店Raju Bulat Surjeryへ当方のバイクを持ち込んだ。

 

バイク修理店でアイドリングの調整(エンジン回転数を高めに設定)とエンジンのバルブ・クリアランスの調整を行った。バルブ・クリアランスの調整は走行距離約5.8kmで初めて行った。この調整後、約2週間経過するが、エンストは再発していない。

 

(当方のオートバイの修理を行ったメカニックBaju Bulat Surjery氏と当方のYAMAHAセロー250)

 

(当方のオートバイの修理調整をしていたら、後輪タイヤに長さ3cmくらいの釘が刺さっていたことを発見。持参のパンク修理キットで直す)

 

ネパール北部山岳地帯のムスタング行きを計画したが、出発して序の口の段階で断念する。

当方のオートバイの修理を行ったバイク修理店は外国人むけにネパールでオートバイツーリングのツアーを行う業務を行っていた。オートバイで山岳地帯の悪路をガンガン走行するアドベンチャーツーリングだ。

本格的なモトクロッサーのようなオフロード・オートバイのレンタルも行う。

 

標高7,000m8,000m級のアンナプルナ山系があるポカラの北部にムスタング(Mustang)と言う秘境の町がある。

通常,観光客は飛行機でムスタングへ行くのだが、悪路の山岳道路でも繋がっている。

ただし,外国人はムスタングへ行くためには同地域の自然保護とトレッキング費用として入場料約500米ドル(6万円)程支払うことになる。

 

ムスタングへのツーリングは約6万円の入場料がかかるが、その手前のローアー・ムスタング(Lower Musutang)なら6千円程度の入場料で済む。ローアームスタングでも標高3,800mの峠道がある。

 

ローアームスタングでもアドベンチャー気分は十分に味わえ、アンナプルナ山を始めヒマラヤ山脈が目の前姿を現す絶景がみれるとバイク修理屋のガイド兼メカニックのアシスタントに言われ、当方は当初の計画を変更してローアームスタングへ23日で行く計画を立てた。

 

その計画変更で、ビザ期限の延長と同地域への入場許可証の入手手続きを行った。ビザ期限の延長と入場許可証の費用は約1.2万円。

その夜になって翌日以降の同地域の天気と気温をインターネットで調べると、同地域の気温は0℃5℃と東京の真冬並みの寒さに加え、雨天が続く予報になっている。 この情報でやる気がすこし失せてきた。

 

その翌日の早朝、エンジンの調子が良くなったオートバイでローアー・ムスタングへとポカラ(Pokhara)を出発した。

 

最初の60km距離は舗装道路で順調に進むが、ローアームスタングよりかなり手前の一泊目の目的地Leteの遥か手前から凸凹のダート道が始まり、その後、山からでる水で道路がぬかるみと泥道となり、更に進むと大きな水たまりが連続するダート道となった。

 

明日から連日の雨天になれば、この道路の状況がもっと酷い泥道になるだろうと考え、すっかり気が萎えてしまった。こんなことなら事前にもっと調べて、同地域へのツーリング計画を立てるべきだったと反省しつつ、あっさり道路をUターンしてポカラへ戻ることにした。

折角のビザ期限の延長と入場許可証が無駄になってしまった。

(アンナプルナ山系がある地域の地図。地図中央の赤丸印の場所がローアー・ムスタング=Lower Mustang地域の目指した場所)

(山間部でスクールバスを待つ子供達。ネパールの生徒は制服を着用する)

(川に沿った谷間の道路を走行する。ローアームスタングへ向かう途中)

(長さ100mぐらいのつり橋上を荷物を背負って運ぶ地元の女性)

(河原では死者を火葬していた)

(ローアームスタング方面へ向かう道路。山から出る水で道路はぬかるむ)

(ローアームスタングへ向かう道を更に進むと、山から出た水で水たまりが多くなった)

 

ブッダゆかりの地を訪問する半巡礼ツーリング

3月上旬に訪問したインド・ビハール州のブッダガヤBuddhgaya)はシダルータ(覚りを開きブッダになる前の名前=Shiddartha)が菩提樹の下で覚りを開き、ブッダ(=覚りを開いた人)になった地であった。

 

訪れた場所は仏教の聖地となっているが、ブッダ生誕地のルンビニ(Lumbini)を除けば、巡礼者や観光客の数は多くなく静かな場所であった。ヒンズー教やキリスト教の聖地と比較すると寂しい感じだ。

 

巡礼地その① ルンビニ(Lumbini)とその郊外のTilauratKudan

インドとのソナウリ(Sonauli)国境に近いルンビニ(Lumbini)は身ごもっていた母親が実家へ里帰りする途中にシッダ-ルタを生んだ場所であった。

シッダ-ルタは紀元前6世紀(BC6th Century)当時サクヤ王国(Sakya Kingdom)の王子として生まれた。ここには生誕地を記念してその後に建てられた寺院跡が残っている。その寺院跡にシッダ-ルタの生まれた場所の石が安置かれている。その生誕場所の石を見ようと多数の巡礼者や観光客が詰めかける。

 

Lumbiniから西へ約20kmの位置にサヤク王国の都であったティラウラット(Tilaurat)がある。

 

当時はカピラバツ(Kapilavatsu)と呼ばれていた。その地にはシダルタの父親であったシュッドーダナ王(King Suddodhana)の宮殿があったと言う。シッダールタは29歳までこの宮殿で暮らした後、妻子を残して旅立ってしまう。この場所は巡礼地でもあるが、まだ未発掘の遺跡もあると言う。

 

ティラウラット(Tilaurat)から3km程度の距離にクダン(Kudanと言う地がある。

シッダ-ルタとなった後、父のシュッドーダナ王に再会した場所であった。現在は仏塔跡が残る程度の公園となっている寂しい場所だった。当方が訪れた時には数名程度の現地の観光客がいた程度だった。

(ルンビニ聖園内のブッdタ誕生の地へ向かう通路には多くの観光客や巡礼者がつめかけていた)


(写真後ろの白い建物の中にブッダの生誕地を記念して後に建てられた寺院の遺跡とブッダが誕生した場所の石がある)

 

Tilauratのブッダ父親のシュッドーダナ王の宮殿と王国都市の遺跡跡。タイの巡礼者が集団で訪れていた)

 

(ブッダが父親のシュッドーダナ王と再会したKudan。周囲には何もない。2千年以上前と変わらない風景だろう)

 

巡礼地その② クシナガール(Kushinagar)=ブッダ入滅(死去)の地

クシナガール(Kushinagar)はLumbiniから200kmしか離れていない。ブッダが入滅した地(死去)である。説法を説きながら各地を回ったブッダは高齢(80歳)になっていた。沙羅双樹(さらそうじゅ)の木の下に横たわったブッダは二度と起き上がらなかったと言う。

 

現在はブッタの入滅の地として小さなマハパヴィニルヴァナ寺院(Mahapavinirvana Temple)が建ち、寺院内には長さ5m程度の横たわる仏像が置かれている。その仏像のまわりにタイからの巡礼者と思われる人達がグループで座り祈りを捧げていた。寺院内の巡礼者はそれほど多くなかった。

(クシガナールのブッダ入滅の地に建てられて寺院)

 

巡礼地その③ サルナート(Sarnath=ブッダが最初に説法した場所

ヒンズー教の最大聖地のワラナシ(Varanasi)の郊外にある。当方はサルナートとは名知らずに、この地のゲストハウスに投宿した。千年も経たような古い煉瓦造りの大きな仏塔(Damekh Stupa)が宿から見え、周辺を歩いている多くのタイの巡礼僧を見かけた。

 

その仏塔のことを調べてみるとブッダが最初に説法した場所だと判った。この一帯は記念公園になっている。

 

記念公園の一角には第二次世界大戦前に日本人の画家だった野生司香雪(のうこうせつ=Kousetsu Nou)が壁にブッダの生涯を描いた大きな壁絵がある寺院がある。

(サルナートでブッダが最初に説法をした場所に建つ仏塔)

 

(サルナートの日本人画家・野生司香雪=のう・こうせつが寺院内の壁にブッダの生涯を描いた寺院。)

 

(野生司香雪=のうこうせつが描いた壁絵の一部)

 

ゲストハウスやプチホテルの経営者

当方は多くのゲストハウスや家族経営のプチホテルに投宿している。

 

共通するのが当方と同年配の経営者は30代前半の息子達に後をたくしているのだが、若い息子たちはホテル立ち上げの苦労や経験が少ない。

 

また、自分が好きで跡継ぎになったわけでもないようだ。出会った2つの宿の経営者の息子たちは、それぞれ大学ではエンジニアリング等の理科系に進んだ。折角の知識も自分の職業キャリアには活かせない。

 

そのような境遇に息子たち本人も満足していない様子が仕事ぶりや接客の様子を見ると当方にも伝わる。

父親は人生の機微を知るホテル経営者だが、この息子たちは跡継ぎとして大丈夫だろうかと思う。

 

ルンビニのゲストハウスの経営者とは息が統合して身の上話も聞かせてもらった。インド・ビハール州がインド最貧州になった理由のひとつも聞いた。

 

イギリスとの独立戦争でビハール州の戦士たちは多くのイギリス人兵士を殺したために、その後、酷い復しゅうや制裁を受けたと言う。多くのビハール州戦士は、その後身元を隠すため、カーストの出身や氏を換え隠れ住んだと言う。

 

ビハール州では中央政府から意図的に教育の機会を奪われた人が多く、また、現地でのインフラ投資も他州より少かかったと言う。そのため、多くの住民が他州への出稼ぎを余儀なくされ、州全体が貧しい状態になっていると言う。 

 

そのオーナーの先祖は船乗りのカーストで、イギリスとの独立戦争では勇猛にイギリス軍と戦ったと言う。そのため、ゲストハウスの経営を手掛ける前の銀行員時代には差別を受けたと言う。

 

十数回にわたる支店の転勤や治安が悪い地での勤務をしいられたという。ある支店時代には、毛沢東系の共産主義者が多い地域で、銀行の支店が襲われ、銀行員が殺されるることもあったと言う。


銀行の支店職員の中にも共産主義者がいて外部の共産主義組織と繋がっていたりして、人事面でも苦労が絶えなかったと銀行員時代の苦労話をしてくれた。 同氏は銀行支店長まで昇格して銀行を退職したが、同氏が属するカーストのため、銀行での処遇では差別を受けたと言う。

 

銀行員の傍ら20年前から始めたゲストハウスが軌道に乗り、長男は外科医となり、32歳の次男が最近家業を次ぐようになったと言う。

(ルンビニで投宿したゲストハウスを経営する元銀行員だった経営者。同氏はゲストハウスを2軒経営する)

 

インターネットが繋がらない。 VPN(私設インターネット回線)で解決

インドの次に訪れるパキスタンのEビザ(インターネットを使用して申請するビザ)をそろそろ申請せねばと考えて、その申請タイミングを伺っていた。

インターネットでパキスタンのEビザ申請サイトを開けようとしても、そのサイトがブロックされていて閲覧できない。ネパール滞在中にも試したが、閲覧できなかった。

 

フェイス・ブック(FaceBook)のグループ情報で問い合わせすると、インドから通常のインターネット回線では

パキスタンのEビザ申請サイトが開けないことが判った。

 

VPNVertual Private Network)と呼ばれる私設のインターネット回線を使えばビザ申請のサイトに繋がることを知った。

 

IT関連分野に強い日本のライダー仲間にVPNについて教えてもらい、何とかVPNのアプリを当方のスマホにダウンロードするとパキスタンのEビザ申請サイトに繋がった。 

 

イランやロシア等の特定国ではインターネット上のサイト閲覧が制限されている。VPNを使用すれば通常のインターネット回線では制限されているサイトにも繋がるようだ。

 

 

以下走行順のショートコメントを記す。

 

ポカラ(Ppokhara)~ルンビニ(Lumbini210km

山間部を通り抜けるジグザグ道路だが、交通量が少ないお陰で、オートバイのライディングが気持ちが良い。ルート上の道路はほぼ舗装道路であり、ヘタウダ(Hetauda)からカトマンズへ行く道路と比較すると各段良好だ。一部区間では工事中のためダート道となっているが、通行には問題ない。

 

ルンビニ付近は平野で住民や民家は国境を隔てて隣接するインド北部州と似ている。道路に牛が多い状況はネパールの他の地域とは異なり、インドにいるようだ。住民もネパール北部のアジア系というよりインド系の顔立ちをしているので、インド人と同じように見える。

(ポカラは落ち着いた雰囲気の町だった)

 

(ネパールの麵料理。日本のラーメンに似ているが、麺はスパゲッティーをゆでたような麵だった)

(ポカラからルンビニへ至る山間部の道路)

(ポカラからルンビニへ向かう道路は山の中腹を通る。道路上に青色のバスが小さく見える)

(山間部では段々畑が多い)

(バスの屋根にも乗客は乗る)

 

(集落では畑の種まきをしていた)

(峠の茶屋の女性経営者。夫の妹夫婦が福岡に住んでいると言っていた)

 

(ある茶店ではお茶カップ内部=写真右は上げ底の上、すり鉢型になっていた。当方は当初ミルクティーが多く飲めると期待していたが、飲み干すと量が本来の1/2以下と少ないのでがっかりした)

 

(ルンビニが近づくと道路上の牛が多くなってきた。道路の真ん中で寝込む牛)

ルンビニ村の中心部

(当方がルンビニで投宿したゲストハウスの周りには何もなかった。当方は静かな場所で気に入っていた。)

(ゲストハウスの窓から見たルンビニ。ブッタ誕生の2500年前とあまり変わっていないと想像する)

(ルンビニの隣の村の母親と息子。当初、姉と弟だと思ったが親子だった。)

 

ルンビニ(Lumbini)~スノウリ国境経由インドへ再入国(Reentry to India via Sunouli landborder)~クシナガール(Kushinagar200km

 

ネパール出国手続き

ルンビニはスノウリ(Sunouli)国境から約30kmしか離れていない。

ネパール側のイミグレーションオフィースは国境に向かってメイン道路側面のサービス道路左側に位置する。国境から約500m位離れた場所だ。

 

メイン道路に多くのトラックが駐車されているため、メイン道路からではイミグレーションオフィースの建物が見えない場合がある。

当方は当初イミグレーションオフィースを見逃し、国境まで行ってしまった。

 

ネパール側の税関は国境約50m手前の道路右側にあり、関係者がその場所にたむろしているので、それとなくわかる。

同税関ではカルネ(Carnet du Passage en Douane)の扱いに慣れているため、1020分程度で手続きが終了する。

ただし, この国境は貨物車両も通過するので、通常の税関手続きをする人々が多く窓口は混んでいる。 係官に<カルネの手続いだ>と言えば、直ぐに奥の事務室に通してもらえる。

(写真奥がネパール側から見たスノウリ国境)

 

インド入国手続き

通常の入国の場合はイミグレーションオフィースで入国手続き後、税関でオートバイの輸入手続きをおこなうが、この国境では順序が逆だった。

 

国境から約50m入った道路右側に軒先で商いをする小さな店舗のような事務所がある。税関とは書いてないので直ぐには判らない。また、手続きを行う税関史も道路横に机を並べて、民間人の服を着ている。

カルネでの輸入手続きには慣れているので、10分程度の待ち時間で済む。

 

イミグレーションオフィースは国境から300m程度進んだ道路右側の少し奥まったところにある。立派な建物。タイから巡礼者が約100名ぐらいのグループで順番待ちしていたが、当方は個人ということで、優先的に対応してもらった。

 

ネパールの出国手続きとインドの入国手続きは移動時間を含め合計1時間半程度で、思っていたより早く済んだ。

ただし、手続きを早く済ませるためには、順番待ちしている列の最前線まで行き、係官に手続きを早く済ませられるように依頼するなり、多少ずうずうしく振る舞わなければならない。

(写真奥がインド側から見たスノウリ国境。ネパール入国の順番待ちをしている貨物トラックが多かった)

 

国境からクシナガールまでは180km程度の距離だったが、雲行が怪しくなっていた。

午前中の早い時間に雨が降ったらしく道路上に少し水たまりがあったり、まだ路面の雨水が乾いていない場所があった。雨が再度降り出す前に宿に到着したいと先を急いだ。

 

クシナガールに到着すると、今にも雨が降りそうな空模様となり、宿を選んでいる暇がない。いつものように宿の予約は無い。最初に訪ねたゲストハウスに躊躇なくチェックインした。すると小雨が降り出した。

清掃が行き届いた宿ではなかったため、長居はしたくないと思いクシナガールは一泊のみとした。

 

宿でオートバイでブッタゆかりの地を訪れようとレインコートを着る準備をしていたら、当方と同年配のゲストハウスのオーナーが、<俺がブッタゆかりの地を案内してやるから、おれのバイクの後ろに乗れ。このくらいの小雨はインドでは何でもない>と案内役を買って出てくれた。 

 

当方はすこし躊躇したが、同氏の好意に甘えて、同氏が運転するバイクの後ろに乗り約一時間ぐらい

ブッタゆかりの地を案内してもらった。

(インドへ再入国後クシナガールへ向かう国道)

 

(クシナガールで投宿したゲストハウスの経営者は親切にも当方をバイクで案内してくれた)

(クシナガールのブッタゆかりの地へ入るゲート)

 

クシナガール~ワラナシ(Varanasi290km

小麦畑が続き平野部の国道を行く。ウッター・プランデシュ(Utter Prandesh)州の道路はよく整備されている。 片側23車線のハイウェイが主要都市間を結ぶ。

 

町の中央部を避けるようなバイパス道路も整備されているため、渋滞した町の中央部に入らず済んだ。

ただし、工事中の区間があるので、多少の我慢は必要だ。

 

ワラナシ(Varanasi)はビンズー教の最大の聖地。ガンジス河(Ganges)沿いに数キロに及ぶ階段状の沐浴場と火葬場がある。インド観光のポスターやガイドブックにはワラナシの沐浴場の写真がよく掲載されているので、当方は訪れてみたいと思っていた。

 

神話ではヒンズー教の創造神のブラフマーが儀式を行ったとされ、ワラシナで一番人気がある沐浴場(沐浴場のことをガート=Ghatと呼ぶ)ダシャシュワメード・ガート(Dashashwameth Ghat)へオートバイで乗り付けた。 沐浴場に至る道路は多くの人や車で非常に混雑していた。

 

ガンジス川で沐浴している人々は当方が思ったほど多くなかった。数名のグループで川に入り、頭まで水に浸かる人、一人寡黙に水に浸かる人等、思い思い形でガンジス川に浸かっている。

 

ガンジス川で沐浴するとこの世で大罪を犯した人でも、その罪は浄化されるという。

 

当方はその後、船に乗り約1時間ほどガンジス川クルーズで船上から多くの沐浴場や火葬場を見た。その景色にはインドの他の都市では見られないない異様さを感じた。

尚、乗船料は200ルピー(約320円)と言われたが、船が岸を離れるところで値切って通常の半額(100ルピー=約160円)乗船した。

 

当方が半額で乗船していることを知った他のインド人乗客が船頭に<当方だけ何故優遇されるのか>と文句を言っていた。観光地ではいつも現地人より10倍ぐらい高い外国人用入場料を払っているので、この時ばかりは逆差別で優遇され、気分が良かった。

 

(立派なコンクリート製の国道=ハイウェイ)

 

(国道=ハイウェイには象も通行していた)

 

(ワラナシのダシャシュワメート・ガートを船から撮る)

(ダシャシュワメート・ガートで沐浴するヒンズー教徒)

 

(ワラナシのガート=階段状の沐浴場の高さに注目。ガンジス川の水位は10m以上と思われる階段上部に達する)

(ガンジス川のガートの火葬場。煙が上がっている場所で死者を火葬していた。遺灰はガンジス川に流される。ヒンズー教徒には墓は無い。)

 

 

 

以上


 

インドからネパールへ入国(Nepal)。首都カトマンズ経由ポカラへ 約900km(3/63/13

ブッタガヤは居心地が良かった。ホテルやゲストハウス等の宿はたくさんあり、掃除が行き届いた上に宿代はインドで一番安かった。

 

また、ブッタガヤでは食事処にも恵まれた。宿近くの多国籍料理を提供していたレストランは、当方のリクエストに応じて醤油で味付けした<野菜炒め>を作ってくれた。久しぶりの和風中華を味わった。2日連続同じ<野菜炒め>を食べた。

一週間同じ<野菜炒め>を食べてもいいなと思ったが、日本出国前の昨年9月に在日ネパール大使館で取得したネパールビザの失効期日が迫っている。


有効期限内の39日までにネパールに入国しようと、後ろ髪を引かれる思いでブッタガヤを出発して、ネパール方面へ向かった。ブッタガヤはインド最貧州であるビハール州(Bihar)の南部に位置する。ビハール州の一人当たりのGDPは約800米ドル台(年間10万円強)とアフリカの最貧諸国に近い。

(ブッタガヤで投宿したRahul Gesthhouse=写真右側の車が止まっている建物が位置する通りには多くのゲストハウスがあった。ゲストハウスは清掃が行き届き過ごし易かった。ダブルベットルームの部屋料金は一泊700インドルピー=約1,100円強)

 

(ブッタガヤの床屋は丸刈りで50ルピー=約80円の散髪料金)

 

走行ルートは以下の通り(約900km

ブッダガヤ(Budhgaya)300km~モティハリ(Motihari)60km~ラクサル(Raxaul)=インド側国境~ビルガンジ(Birganj=ネパール側国境~60km~ヘタウダ(Hetauda)~145km~ネパール首都カトマンズ(Kathmandu)150km~ゴルカ(Gorkhka)=ネパールの古都~115km~ポカラ(Pokhara)~30km~ダンパス(Dhampus)南アンナプルナ山を見る~30km~ポカラ(Pokhara

(インドとネパールの走行地図。地図右側の赤線最上部の赤字で丸く印をつけた場所がネパールのポカラ。その下のマル印はブッタガヤの位置)

(ネパールの走行地図。赤線が走行ルート。走行ルートの最終地点の赤字印の場所がポカラの位置)

 

インド・ビハール州(Bihar)はインド最貧州で道路インフラの整備は他州より遅れている(ブッダガヤ~モティハリ~ラクサル国境の360km

ビハール州をネパールとの国境がある北部へと進むが、インド最貧州のためか道路インフラが他州より劣っていると感じた。南北にはハイウェイ(国道)が無く、狭くて人口密集地を通過する州道しかない。

 

州道と言っても日本でいえば対面通行の県道や市道といった狭い道だ。


州道では人口密集地が続くため、日本の祭りや縁日の人出でごった返すような町中の道を多くの車やバイクが警笛を鳴らし続け、のろのろ運転で走行したり、止まったりする。時には他のバイクや三輪車タクシー(リキシャ)の割り込み運転でぶつかりそうになったりする。


インドで一番ストレスが溜まる運転を余儀なくさせられた。こんな運転にはもはや我慢が出来ず、早く他国へ行きたいと思うほどだった。

(うっかり迷い込んだビハール州の農道)

 

(ビハール州の民家には窓枠はあるが、窓にガラス等は入っていなかった。)

 

インド出国とネパール入国。 国境通過にには2時間以上かかった。

インドのラクサル(Raxaul)国境からネパール側のビルガンジ(Birganj)国境へと越境した。

越境前にインドのモティハリ(Motihari)で前泊して、モティハリから60km先の国境の町ラクサル(Raxaul)へと急いだ。 60kmしかない距離だが、途中に村々や町等の人口密集地を通過するため国境まで2時間以上かかった。

 

また、ラクサル国境では誤ってラクサル郊外にある貨物トラック専用の税関がある国境検問所へ行ってしまった。外国人旅行者や一般旅客はラクサルの町中にある国境検問所を通過する必要があった。


インドの出国ではイミグレーションと税関で合計1時間以上の時間がかかった。税関職員がカルネ(Carnet du passage en duane)を使った出国手続きに慣れていなかった。しかしながら、税関職員は最後に当方へ甘いミルクティーを振る舞ってくれた。


この国境はインド人とネパール人は出入国の手続き無しで日本の県境を跨ぐように往来している。


外国人旅客のみイミグレーションオフィースで出入国手続きをする。出入国審査を待つ外国人はほとんどいないが、イミグレーションオフィースの職員はのんびり構え、税関職員は手続きに慣れていないため審査に時間がかかっている。

(インド側国境の町ラクサル=Raxaulまで30kmの標識)

 

ネパール入国手続き

ネパール入国後、道路脇にイミグレーションオフィースを見付けて立ち寄る。しかし、職員がいない。

当方はオフィースでしばらく待った。しばらくして、職員が食事から戻ってきた。

 

当方はその職員へ<ネパールビザが2日後に失効する。どこでビザの延長手続きが出来るか?>と相談した。

 

その職員はその場であっさりビザの失効日を2週間延長してくれた。本来の手続きは、税関にて有償(一日当たり3米ドル)で、延長手続きをするとのことだった。

 

日本自動車連盟(JAF)では外国籍車両をネパールへ持ち込む場合、カルネ対象国として扱っていない。しかしながら、フェイスブックのアジアツーリングのグループ情報やカトマンズの輸入代行業者の情報では国境の税関でカルネを利用して入国することになっている。

 

当方はカルネを税関職員に提出して、入国印と署名を求めたが、上席職員はカルネのことは全く分かっていなかった。 当方がカルネ上の書き方、押印と署名の場所を説明して、オートバイの輸入手続きを済ませた。


この国境の税関はカルネを使用して入国する外国籍車両をオンラインで管理している様子はない。係官の机上には書類が散らかっていて書類のひとつやふたつ紛失しても、気が付かないし、気にも留めないだろう。

 

国境を無事に通過後、ネパールの現金を入手するため銀行を探した。クレジットカードでキャッシング後、携帯電話のSIMカードの販売店を探す。SIMカードを入手したら、時刻は既に午後の3時を回っていた。

事前の想定では午前中に出入国手続きとSIMカード購入等を済ませて、国境から約200km先のカトマンズを目指すつもりでいたのだが。

(インド側からネパール側へ越境するとネパール側の門が見える。)

 

ネパールは居心地が良い国

ネパールは居心地が良い国だと感じた。

 

ネパール人から<当方がどこの国から来たか?>等の質問を頻繁にされないことが居心地が良いと感じた理由の一つだ。

 

人口がインドのように多くないため、ゆったりできる気分になる。


また、当方が苦手な牛糞がほとんど道路上に無い。路上や町中のゴミも少ない。牛は稀に路上で見かける程度。さらに暑くないので過ごし易い点も当方には有難い。


車やオートバイの運転マナーはインドよりはるかに良い。車やバイクはクラクションを余り鳴らさないので、道路は騒がしく無い等インドの隣国ながらインドとは全く異なる。久しぶりにリラックス出来る保養地へ着た気分になった。

 

外国人旅行者が現地人と接する範囲だが、インドよりも英語が通じると感じた。また、日本語を話す複数のネパール人とも出会った。日本から観光客が多かったためだろう。

 

インドは英語が準公用語になっている。しかしながら、旅行者が接する範囲の雑貨店、飲食店、ガソリンスタンド等ではほとんど英語が通じない。

(カトマンズ市内へ市外から入る道路)

 

道路インフラは非常に悪い

他方、道路インフラは非常に悪い。

 

道路工事中でダート道の区間が多い。また、舗装道路であっても経年劣化の上、補修が無いため酷い凸凹が無数にあり、凹凸を避けながら低速でオートバイ走行をせざるを得ない。車両での移動は一日100km150kmが限度である。

 

道路の補修が行き届かないのは、コロナ(Covid-19)の影響で観光業主体の国民経済が大きな影響を受け、厳しい国家財政の運営を余儀なくされているからだろう。

 

ネパールの国際収支(国の海外との経済活動での資金のやりくり=貿易収支+サービス収支+経常移転収支)を見ると貿易収支は経常的に大幅な輸入超過で赤字、サービス収支は海外から観光客が大幅に減少して赤字に転じている。

従来は貿易収支とサービス収支の赤字を海外からの出稼ぎ労働者からの本国への送金等の経常移転収支が埋めていた。

 

しかしながら、海外からの観光客の減少分を埋めるには出稼ぎ労働者の本国への送金だけでは足らず、国の海外とのやり繰り(経常収支)は赤字になっていた。

 

2008年以前の国際統計ではこの赤字は国の外貨準備の増減に反映された。

国際収支が赤字分だけ、外貨準備額が減る。海外で借入金等の負債があれば、負債返済能力に懸念が生じて、その国の通貨は弱くなる傾向がある。

 

上記を家計に置き換えると、他人へ物品を販売する金額より、他人から買う分の方が多くて赤字(貿易赤字に相当)。

 

家計では適当な例が見当たらないが、旅行代金や保険料金は他人から受け取る分より、自分が使う分の方が多い(サービス収支の赤字に相当)。

家計の赤字の穴埋めを親族からの送金(援助)で賄っている(経常移転収支に相当)。

 

家計で使う分の方が多くて、赤字分を親族からの送金で賄えないと、家計の預貯金を取り崩す(外貨準備額が減少に相当)。家計の預貯金が減少すると、借金が多い家計は、借金の支払い能力(信用度)が低下する。

 

カトマンズ滞在

カトマンズには3泊した。カトマンズは標高1500mの盆地に位置する。カトマンズ盆地は小高い山に囲まれている。カトマンズからヒマラヤ山脈が見えるかなと期待したが、埃で視界が悪いせいもあるが、ヒマラヤ山脈は全く見えなかった。

 

標高が高いため、朝夕と夜の気温は10℃台まで下がる。ダウンジャケットが必要だ。

しかし、日中に太陽が出れば、気温は27℃28℃位まで上昇して、Tシャツで一枚ですごせる暑さになる。この気候だと街歩きもし易く、ガイドブックに紹介されている有名寺院や観光名所をバイクや徒歩で巡り、観光らしい観光をした。

 

物価はインドより安いと感じた。カトマンズの中心部のタメール地区(Thamel)のプチホテルのような設備が整ったBag Packer's Lodgeと言うゲストハウスに宿泊した。ダブルベッドルームの部屋料金はバイクの駐車料金を含め一泊1,200ネパールルピー(約1,200円強)だった。

(カトマンズで投宿したゲストハウスがある通り)

(カトマンズ旧市街中心部のアサン・チョーク=Asan Chowkは多くの通りが集中する賑やかな広場だ。チョーク=Chowkとは広場のような場所で古くからランドマーク=道印的な存在になっている)

 

(カトマンズ旧市街で一番賑やかなアサン・チョークとインドラ・チョークを結ぶ通り)

(カトマンズ旧市街のダバール広場=Dubar Squareの寺院が見える)

 

(カトマンズ旧市街ダバール広場の寺院近くには寺院に備える花を売る人がいる)

 

(カトマンズ旧市街の紳士服店が十数軒並ぶ通り。店の前にはネパールの正装を身につけたマネキン人形が置いてある。)

 

(ネパールで最大の仏塔ボダナート寺院=Boudhanath Templeは街中の広場のような場所にあった。世界遺産)

(ボダナート寺院の周囲約300mをうつ伏せで祈りながら回る仏教徒)

 

(カトマンズ市内のパシュパティナート・ヒンズー教寺院=Pashupatinath Templeの沐浴場=写真右側と川の反対側の火葬場=写真左側)

(パシュパティナート寺院横の川の石段では布に包まれていた死者の足と頭を川の水で清めていた。写真奥に布で包んだ死者が見える。冥福を祈り合掌)

小高い丘の上のスワヤンブナート仏教寺院=Swayambhunath Temple。ネパールでも古い寺院。寺院からカトマンズ市内が見渡せる。世界遺産)

(スワヤンブナート寺院から見たカトマンズ市内。写真奥に高さ50m以上ある白い色のBhismsen Tower=1832年建設の見張り塔が見える)

 

ある出会いが新たな出会いを呼んだ。

カトマンズの中心地で、当方が投宿している場所から徒歩5分程度の距離に地元の食堂があった。惹かれるようにその食堂に入っていくと、そこの経営者に日本語で話しかけられた。その経営者は東京都の八王子市に約6年間住んでいたと言うネパール人だった。

 

翌日もその食堂へ行くと日本人の青年が入ってきた。その青年はネパール人研修生のサポートをネパールの企業と協働する京都市内のベンチャー企業の若手経営者だった。

 

その青年からカトマンズの後に訪れるポカラ(Pokhara)でコーヒーショップを経営するネパール人を紹介された。ポカラ周辺の観光情報は同氏に聞けば、すぐわかるとのことだった。

 

その後訪れたポカラでは同コーヒー店の経営者から地元のバイク修理店や同氏の友人で外国人向けレンタルマンションとコーヒー園を経営するネパール人を紹介された。

 

当方がポカラを訪れた理由の一つはヒマラヤ山脈の山々を見ることだった。乾季で土埃が霧のように視界を遮る今頃はポカラからでも遠くの山々は見えない。

 

そこで、レンタルマンションとコーヒー園を経営するネパール人から同氏の出身地であるポカラから30km程度離れたダンパス(Dhampus)と言う山村へ訪れることを薦められた。その山村からはヒマラヤ山系のアンナプルナ山(Annapurna)が見えると言うことだった。

 

同氏のアドバイスに従い、当方はポカラを訪れた翌日にダンパス村を訪れ、そこで一泊した。

 

ダンパスは標高約1650mの高地にあった。霧のような土埃で視界が悪く、同地でもヒマラヤ山脈はなかなか見えない。

 

しかしながら、午前9時ごろから11時ごろの2時間位の間のみダンパス村の北側に南アンナプルナ山=Annapurna South(標高7229m)が見上げる高さに見えた。標高1650mから見上げる高さ7000m強の南アンナプルナ山は雲のはるか上の高いところに見えた。太陽の光が山の雪に反射して南アンナプルナ山が空に浮かび上がるように見えた。

(カトマンズ市内でOld House Cafe&Resutrantを経営するAle氏。八王子市に6年住んだことが有ると言う)

 

(日本での就労を希望するネパール人研修生をネパール企業と協働してサポートする京都市内のベンチャー企業の経営者=木山氏)

(ポカラ市内でコーヒーショップ=Bikas Coffeeを経営するゴクール氏。同氏は観光ガイドとして日本語も堪能だ)

(ポカラ市内で評判が良いバイク修理店=Raju Bultn Surjeryと店主。店主の名前がそのまま店の名前になっている。店主のRaju氏=写真左とBikas Coffeeのゴクール氏=写真右)

(ポカラ市内でコーヒー店及びコーヒー園、そしてレンタルマンションを経営するStar Coffee Center社長のJagan Bdr. Gurung氏。同社のコーヒー豆は日本にも輸出されている。同氏は十数年前には観光ガイドを行っていたと言う。日本語も堪能だ。)

 

以下通過したルートと町のショートコメント

 

ブッダガヤ~モティハリ(300km

上述したように、混雑した市街地が多々あり、ストレスを一番感じたルート。ビハール州では小麦の栽培がさかんであった。インド北部では米作は行わない。

 

このルート途中でガンジス川を渡る。乾季のため水が流れている部分の幅は狭かったが、河川敷を含めると川幅は約1.6kmある。ガンジス川に架かる片側2車線の鉄橋は長さが約5kmと長かった。

(ビハール州の道路工事区間)

 

(ビハール州の小麦畑)

(道路脇の砂糖キビジューズ販売。暑さと長時間のバイク走行で疲れていた時に飲んだサトウキビ・ジューズは最高だった。長さ1m=写真左側のサトウキビの半分でコップ一杯分=180cc位のサトウキビの汁を圧縮機械で搾り取る。1杯20ルピー=約30円強の価格)

 

モティハリ(Motihari)~インド出国・ネパール入国~ヘタウダ(Hetauda120km

インド出国とネパール入国の手続きに時間がかかる。ネパール国境から約60km進んだヘタウダ(Hetauda)で一泊した後、翌日に首都カトマンズへ向かった。

 

このヘタウダで投宿したことは間違いではなかった。ヘタウダからカトマンズまでの距離は145kmと短い。しかし、この区間は道路状態が悪い山岳道路だった。そのため、午後の遅い時間にネパール国境からカトマンズまで一気に進むには無理があることが、翌日走行してみて判った。

(ヘタウダ=Hetauda市内の交差点には仏塔のように複数の旗が掲げられていた)

(投宿ホテルの外廊下から見たヘタウダの幹線通り)

 

ヘタウダ(Hetauda)~カトマンズ(Kathmandu) 145km

ヘタウダから最初の30kmは狭いながら良好な道路であった。しかし、その後は舗装面が崩れていたり、道路工事中の区間で有ったり、ガタガタのダート道であったりと走りづらい区間であった。この区間の走行には時々休憩を入れながら56時間かかった。

 

カトマンズへ近づく路面が悪い国道で、危うくバスに接触してオートバイを倒されそうになった。上り坂で前方を行くバスが遅いため、当方はそのバスを追い越そうとしてバスの左側面へ出た。するとそのバスが突然、道路の真ん中方向へと進路を換え、当方の行く手を遮る形になった。

 

対面からは観光バスが迫ってきていたため、当方は直進するしかすべが無かった。追い越そうとしたバスの側面が当方オートバイのハンドル左側端に接触した。

 

当方はふらつきバランスを失って道路中央で転倒しそうになる。バスの運転手が気づきバスを止めた。当方も止まり、足で踏ん張りオートバイの転倒を回避。

 

バスの運転手が<気を付けろ>と言わんばかりに怒鳴っている。怒鳴りたいのは当方の方だったが、怒鳴る余裕は無かった。

(道路工事中の区間)

(山岳道路の周辺景色)

 

(山岳道路沿いあった茶店の家族。当方がお茶を飲んで話をしているうちに主人が家族を紹介してくれた。写真左から、主人の兄弟、主人(41歳)、主人の妻、主人の長男(22歳)の嫁、主人の次男(15歳)。ネパール結婚年齢は早いようだ)

(ヘタウダからカトマンズへ抜けるルートの最高地点は標高2,448mあった。)

(カトマンズ盆地)

 

カトマンズ~ゴルカ(Gorkha150km

カトマンズ~ポカラまでの約220km強の距離の中間地点に近い位置にゴルカがあった。 カトマンズで通った食堂の日本語を話すネパール人経営者がゴルカ出身ということで、同氏と話しているうちに、ゴルカがネパールの古都であることを知った。

 

ゴルカが英語読みでなまり、グルカとして世界に知れ渡った。グルカ兵として英国の傭兵となりその強さが知られた。当方は中学生か高校生の時、グルカ兵のことを教科書で見たことを思い出した。

 

ゴルカは静岡県東部の熱海市のように山の斜面に広がる町だった。ゴルカの町が見渡せる小山の頂上にかっての王宮があった。旧王宮は現在ヒンズー教の寺院として使われている。

(カトマンズからゴルカやポカラ方面へはこのような川の流れる谷沿いのルートを進む)

 

(ゴルカ市街地の遠景)

(投宿ホテルから撮影した斜面に広がるゴルカ市街)

 

(小山の頂上にある旧王宮はヒンズー教寺院となっていた)

(旧王宮を守るゴルカの兵士)

(旧王宮横の坂道階段を薪を背負って下る女性達)

 

ゴルカ~ポカラ(Pokhara115km

短距離の割には移動に4~5時間を要した。道路工事中の区間が多く、ダート道となっている。貨物トラックやバスの後ろを走行すると舞い上がった土埃で前方がほどんど見えなくなる。この日は、オートバイをアイドリング状態から発進したり、ギアを上段に上げる際に10回ぐらいエンストする。

 

正確なエンストの原因は判らない。但し、後日ポカラ市内で紹介された評判良いバイク修理店のメカニック(店主)からは、エアーフィルターが目詰まりして、当方オートバイがエンストした可能性があると指摘される。 

 

エアーフィルターを調べてみると、油汚れがこびり着き、確かにフィルターが目詰まりしていたようだった。

 

エアーフィルターを持参していた新品と交換する。エアフィルター交換後のポカラ~ダンパスの往復60kmの走行ではエンストは無かった。

ゴルカからポカラへ行くルートは道路工事中のダート道区間が多かった。工事を請け負った中国企業の看板が見える)

 

(崖で作業する建設機械が崖にある岩を道路上に落としていた。道路は落石で一時通行止めとなった)

 

(休憩した茶店。茶店の外の駐車場奥で中年の女性がお尻を出して放尿している姿には驚いた)

(ポカラ付近の子供達。片言ながら英語で<Which country are you from?>と当方へ質問してきた。)

 

ポカラ~ダンパス(Dhampus)往復60km

ポカラから一時間半の距離であるが、午前9時から午後3時か4時頃まで道路工事のため交通が制限されている区間があるとして早朝の出発をアドバイスされた。

 

また、この時期天気が良くても、土埃でヒマラヤ山系の山々が見える時間は早朝から午前中のみであることを教えてもらい、ポカラを日の出前の暗い午前5時台に出発してダンパスに向かう。

 

ポカラからダンパス村に通じる道路は石ころだらけのダート道となり、当方のオフロードオートバイ(セロー250)が威力を発揮する。

(ダンパス村=Dhampus村へ通じる道路)

 

(ダンパス村から見る周囲の山々の景色)

 

(ダンパス村は標高約1,650mの高地だ。ポカラ=標高800mからダンパス村へは坂道を登り続ける)

 

(ダンパス村の投宿ホテルから見えた標高7,219mの南アンナプルナ山=Annapurna South。写真だと山が小さく写る。)

ダンパス村からポカラに戻った日に雨が降ったため、翌朝=3/14にポカラ市内からもアンナプルナの山々が見えた。写真左側の山Annapurna IV峰=標高7,526m。写真中央はAnnapurna II峰=標高7,937m。写真右側の尾根が長い山はラムジェン・ヒマール=標高6,986m)

 

(ポカラ市内から雨後の翌日早朝に見えた標高6,993mのマチャプチャレ=Machapuchare。山の形からネパールのマッターホルンとも呼ばれている。ネパール政府が長く登山許可を出していないため、いまだ未踏峰の山と言う)

 

以上


 

インド東部を北上(チェンナイからブッダガヤまで2,200km) 2023/2/20~3/2

 

インドでのバイクツーリングを開始してから1ヶ月経つと風景や人々との接し方にも慣れ新鮮味が薄れてくる時期だ。 そんな中、オートバイがハイウェイ上でエンストして動かなくなった。燃料系統の問題だとインドではスペアーパーツが入手できないので、インドツーリングもここで終了かと思った。しかしながら、ヤマハ発動機の現地駐在員及び現地のヤマハオートバイの販売店の協力を得て、ツーリングの再開ができた。

 

そしてチェンナイから途中宿泊しつつもブッダガヤ(Budhgaya)まで一気に約2,200km走行して、チェンナイの次の主要目的地としたビハール州のブッダガヤに到達した。

 

鹿児島から北海道の最北端(宗谷岬)まで2,400kmの距離だから、それにほぼ匹敵する距離を9日間で走行。

この区間で2連泊したのはベンガル湾(インド東部)側のオディッシャ州(Odisha)のコナルク(Konark)と言う村だけだった。 


コナルクには世界遺産に登録されている太陽神を祀ったヒンズーの巨大寺院遺跡があったからだ。また、コナルクから約35km離れたプリ(Puri)にあるインド東部では最大規模のヒンズー教寺院が見どころだと聞きき、興味を持った。

(ブッダガヤ(Budhagaya)のMahabodhi Temple内にブッダが瞑想した菩提樹がある。各国の仏教徒が巡礼する)

 

走行ルートは以下の通り。(詳細は下記写真地図参照)

Chennai390kmOngole(エンジントラブル発生)~150kmVijayawada370kmVisakhapatnam(貿易港)340kmChilika(吃水湖畔の村)160kmKonark(世界遺産)~270kmBalasoreUSBチャージャー取付)~330kmRanchi(内陸州のJharkhand州都)230kmBudhgaya(ブッダが悟りに目覚めた場所)


(赤い線が走行ルート。チェンナイは地図東側=右側中段下部のマル印の場所。ブッタガヤは赤線の最上部)

 

チェンナイ(Chennnai)で外国企業が進出する工業団地を見学

日系の調査機関でチェンナイ地域は日系企業も含む多くの自動車関連の外国企業が進出している場所だと教えてもらった。チェンナイは同市および近郊に貿易港を持つ戦略的な場所に立地する。

 

自動車関連産業が集積するチェンナイはインドのデトロイトと呼ばれている。

 

インドで製造した製品をアフリカ等の第三国へ輸出する際には、道路インフラが整備され、州の税制優遇策も導入されているチェンナイが魅力的だと判った。エアコン大手の日系企業ダイキンはアフリカへの輸出を考慮してチェンナイへ進出したと聞く。

 

チェンナイ市内から約40km離れたバラム・バダガル(Vallam Vadagal)と言う工業団地内の日系の大手オートバイメーカーの工場を目指した。工業団地内は広かった。 団地というからには工場同士が隣接していると想像していたが、隣の工場とは数キロメートル単位離れていた。このメーカーは日本の本社工場の3倍ぐらいの従業員を雇用してる大規模な工場を工業団地内構える。工場敷地がかなり広い。

 

この日系企業を表敬訪問したことが、翌日当方のオートバイのエンジントラブルを解決するための大きな手助けとなった。

(チェンナイ地区の工業団地一覧表)

 

(ヴィラム・ヴァダガル=Vallam Vadagal工業団地内の一部の地区の企業案内)

 

(工業団地内の日系大手オートバイメーカーの工場敷地外側)

 

オートバイのエンジントラブル

その日はチェンナイを出発して、約400km北に位置するアンドラ・ブランデシュ州(Andhra Brandesh)のグントウールGuntur)と言う町へ向かう途中だった。


ハイウェイの路肩にオートバイを止め小休止した後、エンジンが始動しない。エンジンをかけようとしてもセルモーターがシュルシュルと唸るだけだった。ハイウェイ上の200m先に簡易宿泊施設があるパーキングエリアがあった。そこまでオートバイを押して、移動した。そして自分自身でスパークプラグの状態を確認したが、スパークプラグからは火花がでる。

 

燃料系統のトラブルだと電子制御方式になっているので、燃料噴射ユニットの交換となる。直ぐに修理できるようなトラブルではない。日本から部品の取り寄せが必要だろうとか、インドで修理が可能だろうか等の不安が頭を横切った。

 

前日表敬訪問した日系大手オートバイメーカーは当方のオートバイを日本で製造しているヤマハ発動機だった。

当方はその駐在員へ電話連絡をして善後策を相談した。その駐在員はサービス部門を担当する別の駐在員に直ぐに連絡をとってくれた。 そして、サービス部門担当の駐在員から当方へ連絡が入った。


そのサービス部門の駐在員は現場から一番近くにあるそのメーカーの現地販売店に連絡を付けてくれた。その販売店のスタッフがレッカー車で当方を迎えに来てくれると言うのではないか。 陽も暮れかけ、暗くなってくるさなか、有難い。こんな時、緊急対応に慣れた人達に出会えて運が良かったと思った。

 

販売店のメカニックが現場でスパークプラグの点火状況等をチェックするが、その場で修理するのは難しいと判断して、バイクを約60km離れた販売店までレッカー車の荷台に乗せ運ぶことにした。 その間、その販売店のオーナーは当方のホテルと軽食まで用意する手際良い対応をとってくれた。

 

翌日販売店へ行くと、オートバイの修理は終了していた。スパークプラグへ高圧電気を発生させる電気コイルに不具合があったと言う。そして、電気コイルを交換したとのことだった。

 

前日のホテル代や修理代金を払おうとすると、その販売店のオーナーは<当方はゲストだから無料で良い>と言い、当方から代金を受け取ろうとしない。当方はそのオーナーの好意に甘えることにしたが、この対応には感激した。

 

(当方オートバイを修理してくれたSri Vishu Motorの二代目社長のVishu氏=写真右)

 

(Sri Vishu Motorの修理工場)

 

お茶休憩の接客

インド人はおちょこサイズより少し大きいカップにいれた甘いミルクティーを頻繁に飲む。 街角やレストランの近くにはミルクティーを販売するスタンド店がある。

 

当方はオートバイの運転に疲れてきたら、道路沿いのお茶スタンドでこの甘いミルクティーを飲み、休憩する。 あるとき食事がとれる道路脇のレストランでお茶を飲み、椅子に座って休憩していると、そこの親父がお茶を飲み終えたらさっさと引き取ってくれと言わんばかりの態度を示す。

当方をネパール人だと思っている。

 

他方ある時は、当方がお茶代(10ルピーから15ルピー=16円~25円程度)を額面が大きい紙幣で払おうした際に、そこの女性オーナーは釣り銭が無いから、無料で良いという。

 

当方は無料ではその女性に悪いから、隣にあった雑貨店で両替をお願いして、ちょうどの金額をその女性に渡した。すると女性の口から<有難う>とお礼の言葉あった。インド人でこんなに控えめな人がいるとは驚き感動した。


 

観光地を清掃して奇麗にしたら外国人観光客も呼び込めるのに

ヴィシャーカパトナム(Visakhapatnam)から約300km北東にチルカー湖(Chilika)というベンガル湾に面した吃水湖がある。琵琶湖の2倍の広さだ。当方はこのチルカー湖があるチルカー村のホテルに一泊した。200m程度長さの村の通り沿いにゲストハウスとホテルがあり、あとは民家と雑貨店等からなる村だった。

 

地元ではチルカー湖のイルカやフラミンゴを見るツアーがあるようだ。しかしながら、小型の観光船が係留されている場所は、ペットボトル、ポリ袋等のプラスチックごみや他の生活ごみで岸辺が埋め尽くされて景観を大きく損ねている。

 

折角の観光資源を有効利用できていないと感じる。そもそもゴミを出さない、捨てないことが大事だが、清掃人を雇うなり、あるいは自分たちで大規模に清掃したらチリカーのイメージアップに繋がると思った。

(チリカー湖の小型観光船)

 

インドの田舎の村に住むハードルの高さ

チルカーからプリーへ抜ける際に田舎道の村を通る機会があった。 Maps.Me(カーナビアプリ)でもこのルートの表示が出ないほどの小さな村だった。

 

素朴な寒村だった。周囲は大きな水田地帯になっていた。当方が低速でオートバイで通過したり、停止すると村人の視線を感じるほど、その村はよそ者を注意深く見ていると感じた。

 

ここの村の様子は、100年前の過去に戻ったような感じの静かな場所だったが、電化製品等生活に便利な物なしで生活する不便さの方を感じた。当方が苦手な牛の糞の燃料を造ったりする作業も素手で行う。 余程の覚悟が無い限り、文明の力の便利さに慣れた人が、この環境で生活するにはハードルが高いと感じた。

(田舎町の商店街)

(比較的小ぎれいだったある村の通り)

 

(薄く伸ばした牛糞を道路端で乾燥させて家庭用燃料とする)

 

コナルク(Konark)の世界遺産 太陽寺院(Sun Temple

13世紀建てられていうヒンズー教の太陽神Suryaを祀る神殿だった。世界遺産登録の言葉にひかれて同地を訪れた。

 

遠くから見ると中米メキシコやグアテマラのマヤ文明やアステカ文明時代のピラミッドに似た神殿に見えた。

現存する部分は高さ38mの釣り鐘型の神殿だ。この神殿の周囲の壁部分には多くの男女の性の営みを描いたエロチックな彫刻が彫られていた。

ヒンズー教の性表現の大胆さには驚く。

(コナルクの太陽寺院=Sun Temple)

(太陽寺院=Sun Temple壁面彫刻)

 

以下各走行ルート区間の簡単なコメントを記す。

 

ChennnaiOngole 390km

チェンナイ市内の渋滞を抜け出すのに数十キロメートルの距離を走行。大都市の道路の混雑にはいつもうんざりする。 チェンナイ市はタミール・ナドウ州の北部に位置する。

 

イギリス植民地時代にチェンナイはマドラス(Madras)と呼ばれ、植民地政策の先兵となったイギリス東インド会社が拠点していた。現在その拠点は州政府の建物と博物館及び当時の聖マリー教会(St Mary's Church)があるぐらいだった。 

 

オンゴール(Ongole)はアンドラ・ブランデシュ州に属する。オートバイのエンジントラブルのためこの町に泊まることになった。小さな町だと思ったが意外と大きかった。

(チェンナイ市内の植民地時代のイギリス東インド会社拠点があった場所(Fort)にある聖マリー教会=St Mary's Church)

 

 

OngoleVijayawadaVisakhapatnam 420km

アンドラ・ブランデッシュ州を走行する。ハイウェイ沿いの広大な農地から農業が盛んなことが判り、事前に聞いていた通り農業が盛んだということが頷けた。

 

Vijayawadaでは市場の中にあるような人々でごった返すような場所に有るホテルに投宿した。同ホテルの、一部のスタッフが最後までチップをねだる態度にはすこしうんざりした。

 

Visakhapatnamでは渋谷に似た景観を見た。両側にビルで挟まれた中を高架の道路が通る。坂道が多く首都高速道路がビル街を通る渋谷に似ていると思った。

 

(アンドラ・ブランデッシュ州の水田地帯)

 

(Ongole近くのハイウェイの4km区間は大型飛行機が離発着可能な緊急用の滑走路として使用できるようになっていた。この区間はコンクリート製の道路面と飛行機の離着陸区間の印=写真の横断歩道のようなマークがあった。)

 

(オンゴール=Ongole市内の金の宝飾店の宣伝車。金はインド人の伝統的な蓄財方法としても人気が高い)

 

 

(乾季の枯れた川。橋の上から撮影したが、川は砂漠にしか見えない)

 

(Vijayawadaで投宿したホテル近くの金細工店の職人たち)

 

(Vijayawadaで投宿したホテル近くの商店街)

 

(Visakhapatnamの街並み)

 

VisakhpatnamChilika 340km

アンドラ・プランデッシュ州からオディッシャ州(Odisha)となる。今まで見渡す限りの平地だったが、低い山が見え始める。ハイウェイには貨物トラックが多くなる。チルカー湖畔のチルカー村のホテルに投宿。チルカー湖の見物に出かけたが、船を係留している岸辺にごみが多くてガッカリ。

(山が見えるオディッシャ州=Odisha。菜の花畑あり、季節が判らない)

 

(チルカー村=Chilikaの通り。写真右側から2番目の建物が投宿したホテル。一泊1,000ルピー=約1,600円)

 

(チリカー湖で獲れた干し魚を売るオープンマーケット。)

 

ChilikaPuriKonark 160km

近道をするため田舎道を通る。通過する村々の生活は想像したより厳しいと思った。集落の外に出れば水田地帯が開け、のんびりとオートバイ走行ができ気持ちがよかった。

 

Puriの町で一泊する予定であったが、当方が気に入る清潔で手頃な価格のホテルがなかったため、Konarkへ移動した。Puriにはインド東地域で最大規模のヒンズー教寺院があると聞いて、見学しようと思った。しかしながら、参詣者が非常に多く断念した。日本の元日の有名神社の参詣のように数万人と思われる信者が列を作って入場を待っていた。

 

同寺院にはヒンズー教徒以外は入れないと後で知った。

 

Konarkでの滞在は予定していなかったが、滞在してみると静かな村で気に入った。ここでは日本に十数年住んだことがあるインド人が経営するゲストハウスに投宿する。そのインド人の夫人は日本人女性であった。

(プリ=Puriにある東インド地域で最大のヒンズー教寺院。中央の塔は60m位の高さがあり、目を見はるような大きさだった。写真では実際の大きさを伝えられない。)

(寺院の外から祈るヒンズー教信者)

(プリ=Puriの海岸)

 

(コナルク=Konarkの太陽寺院近くのOkaasan Guest Houseのオーナーと夫人)

 

KonarkkBalasore 270km

Balasoreではヤマハオートバイの現地販売店を見付け、同店でヤマハ製(インド製)のUSBチャージャーを購入して取り付けてもらう。

従来から使用しているデイトナ製のUSBチャージャーでスマホへの充電が最近上手く出来ていなかったからだ。

夕方の忙しい時間帯にUSBチャージャーを取り付けてもらい、ワークショップのスタッフの働きぶりに感心した。

しかも、手間がかかった取付の工賃を無料にしてくれた。

 

当初Ballasoreからインド東部の最大都市カルカッタ(Kolkata)を目指すつもりでいた。Balasoreからカルカッタ(Kolkata)まで300km程度の距離だ。

 

しかしながら、大都市でのオートバイ走行にはうんざりしていた。加えてコナルカ(Konark)で投宿した宿の主人にカルカッタでのオートバイ走行は一番危険であり、止めた方が良いと忠告を受けた。そのため、あっさりとカルカッタ行は取りやめた。

(オートバイへUSBチャージャーの取付作業をしてくれたSai Annanta Automobilesの人達)

 

(Balasore市内中心部の道路を横断しようとする牛。牛は道路を自由に闊歩する。)

(Balasore市内中心部の通りで休息する犬。通りの中央で横たわったり、寝たりしている犬が多い。車やバイクは犬を上手に避けて通る。)

 

BalasoreRanchi 330km

Balasoreから海沿いを離れて内陸部のデカン高原の東端地域へと移動する。空気が乾燥しているため、森林の木々の葉が枯れている。

 

コナルカで引いた風邪が悪化して声がかすれてしまう。

新しいUSBチャージャーでもスマホに上手く充電できない。問題はスマホ側にあるのではと疑う。

 

ハイウェイ一本道での走行ではカーナビは使用せず、道の分岐点で確認のためカーナビを使用する程度に留める。

このルート上にはお茶休憩ができるお茶スタンドやレストランが少なく、眠くなっても休憩する場所が無い。

ランチ(Ranchi)はジャガールカンド州(Jharkhnad)の州都であったが、街中はほとんど見かった。寝るだけの場所になってしまった。

 

あるガソリンスタンドの店員に<どこから来たか?>と聞かれた。当方が<日本だ>と答えるとそこはどの州にあるんだと聞き返された。

 

当方は日本の国旗ステッカーをヘルメットの後ろとナンバープレートに張り付けているが、日の丸の国旗が日本だと知っている人はほとんどいない。

(内陸部の乾季は沿岸部より乾燥している。森林の樹木は枯れている。)

 

(ヤギが牛に体格差をものとせず、頭突きをくらわしていた)


RanchiBudhgaya 230km

最貧州のビハール州(Bihar)へ入る。やはりハイウェイの状態が他の州より良くないようだ。

煙突から黒い煙を上げているレンガ工場が多い。

 

ブッタガヤ(Budhgaya)はブッタが菩提樹の下で49日間座り、悟りを開いた場所だ。同地で連泊を予定していたので、到着してホッとする。

 


(体重の倍以上有ると思われる大きな木を運んでいる女性たちがいた。眠くなっていた当方は

この状況を見て目が覚める思いだった)

 

(ブッタガヤでブッタが瞑想した菩提樹には多くの仏教徒が訪れる)

 

(ブッタガヤのMahabodhi Temple本堂奥の本尊)

(ブッタガヤの景色。投宿したゲストハウス屋上から周囲を撮る)

 

以上


 

南インド(South India) ベンガルールからインド最南端経由チェンナイまで1700km(2/9~2/19

 

ベンガルール(Bengaluru)で懸念していた腰痛が悪化した。 ベンガルールは2泊の予定だったが、静養の為3泊とした。また、更にその先のコインバトール(Coimbatore)でも、腰痛のため延泊する等腰痛の状況を心配しながらインド最南端のコモリン岬(Cape of Comorin)を目指した。 コモリン岬はカニャクマリ(Kanyakumari)という町に位置する。

(バンガルールの州政府建物)

(バンガルール市内の官庁街に通じる落ち着いた通り)

 

走行ルート

走行ルートはベンガルール~140km~マイソール(Mysore)~230km~コインバトール(Coimbatore)190km~コチ(Kochi)~330km~カニャクマリ(Kanyakumari)=コモリン岬~410km~ティルティラパッリ(Tiruchirappalli)~230km~ポンティチェリー(Ponticherry)~160km~チェンナイ(Chennai)まで

(下記地図を参照)


(赤い線が走行ルート。赤色でマークした町は宿泊地。チェンナイは地図の右側(東側))

 

日中は30度を越す日本の夏の暑さだ。

空気が乾燥しているため、日本の真夏のような汗はかかないが、ライディングジャケット内は汗ばんでくる。

インドの真夏(4月~6月)は恐らく過酷な暑さとなり、オートバイツーリングどころではないだろう。


 

南インドは別なインド人

ベンガルールが位置するカルナータカ州(Karnataka)からケララ州(Kerala)を通り最南部のタミール・ナドウ州(Tamil Nadu)まで来るとタミール語となる。文字の形もヒンディー文字とは異なり丸みを帯びた形だ。人々の顔の形もなぜか丸みを帯びた人が多くなる。男は長いスカートのような腰巻を身に着ける人が多い。


 

タミール人として誇りを持っている。今までのように当方へ<どこの国から来たか?>(Which country are you from?)とはあまり聞かれなくなった。そうかと言って、外国人に興味が無いわけでは無い。ガソリンスタンドや道路脇の喫茶店でお茶のみ休憩中に誰かが当方に話しかけると、それをきっかけに辺りにいた他の人々が当方の回り集まって来る。

タミール人は少し遠慮しているのか、控えめにするのを美徳とするのか判らないが、当方に取っては居心地が良い。

(街の通りには甘いミルクティーを販売する小さな屋台のような喫茶店多い。一杯10~20ルピー=約16円~32円)

(ミルクティーを飲みながら世間話するタミール・ナドウ州の男達。短パンの上に長スカートのような腰巻きを付けるが、邪魔な時は腰巻を膝上まで上げている。直射日光が当たるのを避けるには便利だろう。頭にかぶれば日除けにもなる。)

 

はだしで歩く人が多い

ヒンズー教寺院では境内に入る前に素足になるので、インドの人々は境内の土の上や、石畳の参道を素足で歩くことには抵抗が無い。当たり前の事だろう。

 

当方がハンピ滞在中に、通りの屋台で夕食中のはだしの若者に<何故はだしで歩くのか?>と聞いたことがあった。その若者は<近くの寺院で仕事をしているので、寺院外でもずっとはだしのままでいた方が便利だ>と答えた。

 

しかし、地方道路でははだしで歩く人の姿を多く見かける。日中の舗装道路面は熱いが裸足だ。お金が無くて靴が買えないわけではないだろう。

 

サリー姿の女性でもはだしで道路を普通に歩いている。近くには人家がないので、長い距離はだしで歩いていると思う。通学中の中学生位の少年、少女でもはだしで歩いている姿を見かける。

(裸足で歩く人)

 

牛糞は神聖な物?

住宅街の狭い生活道路の道端に牛が23頭に繋がれていると、その道路は牛糞と牛の尿で、あたかも泥の道のようになる。しかし臭い。外国からの旅行者にとっては路上の牛糞とその匂いが最初の試練だろう。


オートバイで走行中も路上の牛糞を踏まないように路上に目くばせしながら走行するが、インドの人々は日本人が思うほど牛糞に対して抵抗は無い。牛糞は良く燃える燃料となったりする。理由は判らないが何か神聖な物に感じていると思う。

 

ある時、田舎道の路上で中年の女性がまだ新しい牛糞を手で拾い、牛糞の水分を落とすため、手に持っては路上に数回牛糞を投げつけて牛糞の水分を落とし、その後牛糞を持ち帰る姿を見た。多分の燃料にするのだろう。牛糞は床のワックス代わりにも使えると聞いたことがある。

 

マイソール宮殿では像を飼育している。マイソール宮殿の敷地内で、30歳代の女性が、履いていたサンダルを脱ぎ、素足になってまだ新鮮な象の糞を踏みつけのを見かけた。何故素足で象の糞を踏みつけるのか理由を聞かなかった。

 

母親と思われるその女性は同伴していた10歳ぐらいの女児にも裸足になり、糞を踏みつけるように促していた。 たぶん、糞は汚物では無く、何か神聖なものに感じているのだろう。

 

誇張気味なセールストーク

インドのSIMカードを携帯電話(Smart phone)に入れている。インド国内の通話はかけ放題だが、データ回線の使用は一日1.5GBに制限されている。

 

しかしながら、SIMカードを販売する人は<データ回線は一日2GBまで>と説明する。2SIMカードを更新(Recharge)したが、2回とも同じ説明だった。 当方が<携帯電話会社の確認用SMSでは一日の利用限度は1.5GBになっている>と指摘すると、販売店では2GBの説明を1.5GBに訂正した。

 

また、SIMカードの有効期限は1ヶ月と販売店は説明するが、実際は28日である。

 

インド人は細かいことには無頓着なのか、多少の誇張は当たり前か判らない。細かいことに無頓着なことで都合が良い場合も多い。

値段の交渉ごとに<No Problem>と言って融通が効く時は便利だ。

 

IT企業の盛んなバンガルール(Bangaluru)では急遽バンガルール工科大学の授業を見学させてもらう機会を得た。アポイント無しで同大学の学長に授業見学を依頼すると、同学長は<No Problem>と快く承諾して授業見学を手配してくれた。 

 

日本なら、色々な手続きを経ないと部外者は大学の授業見学は出来ないだろう。

(携帯電話SIMや関連商品を販売する人)

 

危ない運転の車やオートバイ

渋滞道路ではやはり細心の注意が必要だった。

 

マイソール(Mysore)市内へ入る交差点で、当方は赤信号でオートバイを停車中だった。バイクも車も我先へと先に進むため、車と車やバイクと車の隙間をじわじわ狭めてくる。そんな時に、当方の横へ強引に入り込もうとする若い男が運転するSUVの四輪駆動車が来た。赤信号から青信号へと替わると列の前に位置する車やバイクから動き出した。その車は前方にスペースが無いのに強引に進もうと当方の横を通ろうとする。 

 

当方のバイクは横からその車に当てられ、当方はバランスを失い転倒する。幸いスタートしようとした時で立ちごけのような状態だが、この車の強引さには当方は腹立たしく思い、文句を言った。

 

その車はそのまま立ち去ったと思ったが、交差点の先で当方を待っていた。そして運転していた若い男は当方に詫びた。

転倒した当方のオートバイを起すのを手伝ったのはその車に同乗していた若者だったこともその時判った。

当初、分別が無いドライバーだと思ったが、当方の無事を確認して詫びたり、同乗していた若者が直ぐ転倒したバイクを起す伝いをしてくれたことを考えるとしっかりした人間だった。

 

一番危ない運転はリキシャと呼ばれる三輪タクシーと若者のオートバイだろう。

 

当方がオートバイで走行中にもハッとして危ないと思う瞬間が何回かある。ある時は走行中に当方の後ろを走行するオートバイの前輪が当方のオートバイ後輪へ接触したことがあった。

 

また、ある時には、当方が直進中に、並走していた他のオートバイが、当方の目の前を横切って曲がろうとした。瞬時に衝突を回避したが、いずれも若いライダーが無茶な運転をしていた。

 

リキシャは幅が狭い小型三輪車タクシーなので小回りが利く。幅2m程度のスペースがあればUターンできる。オートバイで走行中の当方の目の前で道端で停車していたリキシャが突然Uターンしてくる時が一番危ない。当方がリキシャとの衝突を回避せねばならない。

(マイソールの交差点で当方のバイクを押し倒した車と運転手)

 

バンガルール(Bangaluru

IT産業が盛んでインドのシリコンバレーと呼ばれる都市。Google, InfosysSAP等世界的なIT企業が進出しているが、IT関連の企業に訪問する機会は無かった。

 

インドには生まれながら職業や身分が決められていたカースト制度があった。カースト制度は1950年代に憲法で禁止されたが、その後も社会的には意識されているようだ。

 

当方がムンバイ滞在中にオートバイ用品を購入した時、その店の経営者は自分のカーストは商人だと言っていた。名字で職業カーストは判るようだが、その経営者は同業のカーストの人なら信用できると言っていた。カーストは同業意識を高めるのだろう。日本で言えば、同郷意識に似た感覚だろう。

 

IT産業には職業カーストが存在しなかった。カーストに縛られずに優秀な人材がIT産業に集まり、インドのIT産業が盛んになったと説明する人が多い。

 

バンガルールではバンガルール工科大学(Bangalore Institute of Technology)の授業を見学させてもらう機会を得た。

20名~30名程度の少人数のクラスで企業の社会的責任(Corporate Social Responsibiliry)についてグループに分かれてプレゼンしている最中だった。 パソコンで作成した資料を教室の白板へ投影して歯切れのよい英語でプレゼンして出来の優劣を競い合っている。 

 

女子学生がクラスの1/3程度占めていることに多少の驚きを感じた。

 

IT産業に知られている都市だが、当方が滞在した下町のホテル周辺には多くの縫製工場、機械加工や古タイヤの再生を手掛ける零細企業が多かった。間口3メートル奥行き4m5m程度の小さい工場内部と道路で作業をしていた。

(リキシャと呼ばれる200ccのインド製エンジンを搭載した三輪車タクシーは零細企業で作られる。1台35万ルピー=約56万円の新車価格だと言っていた。)

(リキシャ=三輪車タクシー用のホロ=屋根を縫う人)

 

(小さなアパレル縫製工場。従業員は男だけだった)

 

(バンガロール工科大学のキャンパス)

(バンガロール工科大学の授業でプレゼンをする女子学生)

 

(夜行長距離バスは屋根上に貨物トラックのように荷物主から委託された貨物を満載する)

(夜行長距離バスの内部は2層になっていた。上部は寝台。下部は通常の座席)


バンガルール(Bangaluru)~マイソール(Mysore140km

走行距離は140kmと短いが、片側3車線の横浜・東京間を結ぶ第三京浜のような高速道路を走行した。他のハイウェイより速く走行する乗用車が多く、貨物トラックは余り見かけない。デカン高原中央部の高速道路とは状況が異なり、先進国の都市間の道路事情に似ていると思った。

 

マイソールではインドで観光客が一番多いタジマハールの次に観光客が多いと言われるマイソール宮殿を見学。聞いていた通り、巨大で豪華な宮殿だ。Palace(宮殿)の名にふさわしい宮殿であった。

 

しかしながら、宮殿内は満員電車内のように現地の観光客で混んでいた。ここでは外国人観光客はほどんど見かけない。その為か、外国人も現地人も同一の入場料だった。

(ベンガルール~マイスール間のハイウェイ)
 

(マイスール宮殿。夜はライトアップされ一層豪華に見えると言う)

(マイソール宮殿の大広間。大広間内部には立ち入りできない)

 

(マイソール宮殿内は観光客で混んでいた)

 

マイソール~コインバトール(Coimbatore)230km

マイソールからコチ(Kochi)まで一日で進むのは遠いと考え、途中のコインバトールで宿泊した。この区間には高速走行できるハイウェイは無く、2車線ながら時速50km60km程度で走行できる国道があった。この区間には野生の象が道路を横切る森の区域もあったが、野生の象は見かけなかった。

 

デカン高原から一気に700800m位の高さを下ると気温急上昇して34℃35℃になり暑さを感じる。

コインバトールでは腰痛を伴った尿管結石の再発のためか、腰と腎臓のある背中脇が痛くて延泊して静養する。この時、23日間茶色の尿がでる。多分結石が尿道管を傷めて血液が尿に混じったためだと思うが、

大事にならないようにと祈った。

(野生の象が横断する森林)

(夕暮れのコインバトール=Coimbatoreの中心街)

 

(コインバトールのレストラン)

(コインバトールは繊維産業が盛んな町だ。インドのマンチェスターと呼ばれている。体育館のように広い店舗で衣料品が売られていた)

 

 

コインバトールからコチ(Kochi330km

腰痛が少し改善したので、痛みがぶり返す前にと一気にケララ州の(Kerala)のコチ(Kochi)へと進んだ。

コチは海辺の町で、まさに南国の風情があるエキゾチックな町だった。

 

 

南アフリカの喜望峰(Cape of Good Hope)を経由してインドへ辿り着く航路を最初に発見したポルトガル人バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)1502年にコチに到達した。そして16世紀にはコチはポルトガル領となった。

 

バスコ・ダ・ガマは三回目の航海途中の1524年に死亡して当地の聖フランシスコ教会に埋葬された。世界史の舞台となった場所だ。バスコ・ダ・ガマの遺骸はその後1538年に同氏の息子によって母国へ持ち去られた。

 

コチはその後ポルトガル領からオランダ領となり、更にその後イギリスの植民地となったため、当初ポルトガル人によって造られたカトリック教会もオランダ統治以降はプロテスタントの教会になっていった。この歴史的変遷は昨年9月に訪れたマレーシアのマラッカと共通する。

(バスコ・ダ・ガマ=Vasco da Gamaが埋葬された聖フランシスコ教会=Church of St. Fransisco)

(聖フランシスコ教会内の奥にはここがバスコ・ダ・ガマの墓と書かれていた)

(中国の漁法を取り入れた網の仕掛け)

(ダッチ・パレス=Dutch Palaceと呼ばれるオランダ統治時代の建物)

(コチ市内のカラフルな建物)

 

コチ~カニャクマリ(Kanyakumari330km

インド最南端のコモリン岬(Cape of Comorin)が有るカニャクマリの町を目指した。距離は330kmしかないが到着するのに9時間要した。 ケララ州は人口密度が高い州だと聞いてたが、実感した。ハイウェイを走行していても町々が繋がっていて、人口密集地が途切れることが少ない。そのため、車や人の通行が多くてのろのろ運転の区間が多くなる。

 

幹線道路で渋滞を嫌って、途中から田舎道へとルートを変更した。しかしながら、今度は道路工事中であったりして、迂回路や片側相互通行とでのろのろ運転であった。 田舎道を走行しても人家が全く無い区間は少なく、人口密度が高いことを思い知った。

 

インド最南端のコモリン岬があるカニャクマリは寂しい所だろうと想像したが、観光化していた。インドで海から陽が昇り、海に陽が沈むのを見れるのは当地だけとのことだ。ヒンズー教徒の聖地として陽の出と日没時に海で沐浴する信者が多いと観光ガイドブックに紹介されていたが、昼間の海で沐浴する人の姿は多くなかった。

 

最南端のコモリン岬の沖合約300m位置に周囲500m程の大きな岩がある。岩と言うより小島だろう。その小島は19世後半にヒンズー教の宗教改革者であったヴィヴェカンンダ(Vivekananda)が瞑想にふけったことで有名になり、その後大きな寺院のような記念堂が建設された。小島(岩)の名をヴィヴェカンンダ岩(Vivekananda Rock)と言う。


このヴィヴェカンンダ岩へは約100名が乗れるフェリー船で渡れる。折角ここまで来たのだからと思い、フェリー船でヴィヴェカンンダ岩まで行ったが、船上で大波をかぶり、ずぶ濡れになってしまった。

 

この地域は季節風が強く、沖合の波が台風の時のようにうねっている。沖合約300m先の小島(岩)へ港から行くにしても強風で大波がたつ海上を小型のフェリー船は木の葉のように大きく揺れて航行する。船が進行方向を変える際に船体に横波を受ける。 

 

フェリー船は窓もドアも無いため、右舷側で受けた大きな波が左舷側へ船内デッキ上を通り抜ける。 フェリー船は転覆こそしないが、船内デッキ上を通り抜ける波で、乗船客はずぶ濡れになる。当方も靴の中から頭まで海水をかぶりずぶ濡れになった。当方の周囲にいたインド人乗客はずぶ濡れになり笑っていた。当方も笑うしかなかったが、身に付けていたスマホ、カメラやパスポート等の貴重品が大丈夫か気になった。

 

(こんな田舎道もあったが、長い距離は続かなかった)

 


(幹線道路を抜けると郊外には景色が良い場所が多かった)


(インド最南端のコモリン岬。大きな像が立つ背後の小島の横にもう一つの岩の小島がある=ヴィヴェカンンダ岩(Vivekananda Rockは沖合300m位にある

(コモリン岬から見たヴィヴェカンンダ岩の記念堂とその横の岩(小島)にある高さ40m程度の像)


(コモリン岬で沐浴するヒンズー教徒)

(ヴィヴェカンンダ岩の船乗り場からみたフェリー船と波立つ海)

(フェリー船の内部。乗客は大きな救命胴衣を身につけるがバックルが壊れたりしていた。)

 

カニャクマリ~ティルティラパッリ(Tiruchirappalli410km

この地域の季節風を利用した大規模の風力発電プラントがあった。風車の数は恐らく数百基規模とアメリカのテキサス州をツーリング時に見たときのように大がかりものだった。タミール・ナドウ州(Tamil Nadu)は州内の電力需要の約半分を風力発電等の再生エネルギーが占めていると後で知ったが、風力発電の大がかりな規模に圧倒された。

 

同州で製造された風車はアメリカ合衆国やメキシコへも輸出されていると言う。

 

ティルティラパッリの町はチェンナイへ向かう為に、一泊するだけの場所と思っていたが、世界遺産に登録されているインド最大のヒンズー教寺院都市(門前町)があることを知った。その為、翌日の午前中にその門前町を形成するランガナータスワーミ寺院(Sri Ranganathaswamy Temple)を見学することにした。

 

2.5平方メートル(km2)面積の四方を城壁で囲まれた寺院町であり、最深部の寺院境内に中に入るのに複数の塔門をくぐる。一番大きな塔門の高さは72mと高層ビル並の高さがある。遠くからでも目立つ建物である。ここで驚いたのはヒンズー教の性的表現である。

 

性はタブー視されるのが宗教のイメージであったが、ここでは寺院の境内の塔門の内側の人物像の中には大胆な女性の裸体像複数あり、生々しく表現されていた。

(風力発電の風車が無数ある)

(道路を挟んだ左側の水田では稲穂をつけていたが、右側の水田では田植えの準備をしていた)

 

(サリー姿の女性達)

(ランガナータスワーミ寺院=Sri Ranganathaswamy Temple境内)

(門前町内部と外部を隔てる高さ72mの南の塔門)

(門前町内部の道路を象が行く。左側の城壁内は寺院の境内となっている。ヒンズー教徒でなくでも境内へ入場可能。)

 

(北塔門の大胆な女性の裸像)

 

ティルティラパッリ(Tiruchirappalli)~ポンディチェリー(Pondicherry230km

前日の走行距離が長く9時間オートバイに乗り続け疲れていたため、当日は走行距離を短くした。

イギリス統治下のインドにフランス領の地域があることを知らなかった。ポンディチェリーはインドがイギリスの植民地となった後でもフランス領として統治された町であった。

 

コロニアル風の建物が多いとの観光ガイドブックの説明に惹かれ一泊した。どの建物がコロニアル風か良くわからなかったが、通りの名前がフランス語になっていたり、ノートルダム教会があったりとフランス領であった名残があった。

 

ポンディチェリーにはインドの観光客が多く訪れるようだ。いつものように宿泊の事前予約は無かった。週末の土曜日のためか、4~5軒のホテルで満室と言われ宿泊を断られた。6軒目位の宿でやっと部屋が確保できた。

 

しかしながら、確保できたホテルの部屋は値段の割に、部屋の掃除が行き届かず、しかもエアコンやTVが無く、温水シャワーがない設備だった。

 

 

(道路脇の交通標識にチェンナイ=Chennaiの表示が見えてきた)

 

(ポンディチェリーの岩場の海岸には夕涼みの人達が大勢いた。写真奥まで多くの人がいる)

 

(ポンディチェリーの灯台=写真左側と海岸通り)

 

ポンディチェリー~チェンナイ(Chennai160km

ポンディチェリーからチェンナイはハイウェイを利用せずに海に近い場所を通る地方道を走行した。

地方道はのんびり走行できる分、周りの景色を見る余裕もあり、気に入った景色がある場所でオートバイを止めて写真を撮ったりできる。

 

時々海が見える景色もあり、また河川や入り江、内海のようは場所も通過して走行に飽きない。

チェンナイは人口500万人弱のインドでも四大都市の一つに数えられる。道路を走行しているうちにチェンナイに入ってしまった。ムンバイのような酷い交通渋滞は無かった。

 

(チェンナイまでの海岸に近い道路)

(道路脇の水田では男達が田植え用の稲の苗を準備していた)

以上