インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -6ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

ムンバイを出発~プネ~アウランガバード~ソラプール~ハンピ~バンガルールまでの約1,500km(2/12/8) Travel in India has started with motorcycle.


 

ムンバイ港でオートバイ引取り

オートバイを輸送した本船がムンバイ港へ到着したのは1/16のことだった。その18日後の2/1に通関を終えたオートバイをNhava Sheva(ムンバイ港)の輸入倉庫で引き取ることが出来た。ムンバイで通関業者に買いそろえてもらった現地メーカー製のバッテリーとペットボトルに入れたガソリンを持って船会社代理店の輸入倉庫へ向かった。


 

輸入倉庫敷地内では火気厳禁のため、バッテリーのオートバイへの取付と燃料タンクへのガソリンの注入は輸入倉庫の敷地外で行った。現地メーカー製のバッテリーがオートバイの狭いスペースに収まるか心配していたが、何とか収まり、エンジンが始動して一安心した。


 

船会社の代理店の費用請求書は最後まで不透明で説明もなかった。事前に調べた費用より多く請求され、当方の問い合わせにはほとんど応じることは無かった。

 

結局、当方のオートバイの輸入費用には約11万ルピー弱(約17万円)の費用と18日間の日数がかかった。

バンコク輸出時の費用と輸送費用の約16万円を加えると33万円位の費用がかかった計算になる。

ムンバイの滞在費を考慮すると、バンコクから航空便でネパールのカトマンズへ輸送しても良かったと思った。 

 

航空便でオートバイをカトマンズへ輸送する方が、ムンバイでの滞在費を加えた船便より少し高くなる計算だが、時間の節約とムンバイでの船会社代理店の不透明な費用請求に不満やいらだちを感じることは無かっただろう。

 

インド・ツーリングの出発(走行ルート)

最初の一週間はムンバイ~170km~プネ(Pune)~250km~アウランガバード(Aurangabad)~エローラ(Ellora)~アウランカバード~320km~ソラプール(Solapur)~330km~ハンピ(Hampi)355km~ベンガルル(Bengaluru)のルート約1,500km。 標高600m前後の広大なデカン高原を南下するような形だ。走行ルートは下記の地図を参照してほしい。


(インド地図上の赤線が走行ルート)

 

良好な主要幹線道路

インドの主要幹線道路は想像以上に良好だった。上述のルートはオートバイも通行可能な有料道路だったが、オートバイは無料。ハイウェイ(Highway)と呼ばれているが、オートバイの通行が禁止されている高速道路(Express way)とは区別している。

 

日本の主要高速道路に似て片側2から3車線通行で、中央分離帯で上り車線と下り車線が完全に分離している。 交通量が非常に少ないので、オートバイ走行は快適だった。 制限速度は普通乗用車が時速80km、オートバイは時速70kmとなっている。当方の250ccエンジンのセローにはちょうど心地よいスピードだ。

 

交通量少ないながら7割~8割は大型の貨物トラックだ。 大型トラックはスピードを出さない(出ない?)から、走行中にあおられることは無い。ただ、見渡す限り平らな大地の直線道路ゆえ、走行には飽きてしまう。

 

 

(立派な有料道路だが、オートバイは無料でライダーにはありがたい。アウランガバード(Aurangabad)~ソラプール間(Solapur))

(片側2車線の通常の主要国道。プネ(Pune)~アウランガバード(Aurangabad)間)

(横に大きく飛び出た荷物を輸送する大型貨物トラック)

 

朝夕は冷えるが昼間は真夏の暑さ

インドの乾季の時期を選んだツーリング計画だ。インド到着以来25日間経つが一度も雨は降っていない。この時期はインドの冬だ。

 

しかし暑い冬だ。デカン高原のこのあたりは海抜600mの高地地形が影響してか、朝夕は冷える。半そで半ズボンでは朝夕寒く感じるが、セーターやダウンジャケットを着込むほどでは無い。長袖のTシャツあるいはトレーナーで十分だ。朝夕の気温は摂氏1617度程度だろう。

しかし、日中には気温は30度以上となり、炎天下で肌に当たる太陽は痛く感じるほど暑い。もちろんTシャツ姿でも汗がでる。

 

オートバイでの走行風は熱波となり、顔や肌を隠すよう対応が必要だ。空気が乾燥しているため、蒸し暑さは感じない。そのため、オートバイ走行中に汗だくになるようなことは無い。地元の人の話では2月は季節の変わり目で、3月になれば更に暑くなるという。

(サトウキビの収穫)

(サトウキビを運ぶ牛車は自動運転)

(デカン高原は降雨量が少なく乾いた大地だ)

(デカン高原の灌漑用と思われる水路)

(豹の横断に注意の交通標識)

(宗教上の修行のため炎天下の道路を素足で歩くグループ)

 

オートバイの運転は思ったより怖くない

インド到着直後にムンバイの道路で見た酷い交通渋滞の中を車や人を避けて走るオートバイを見て、危ない運転だと思った。しかし、自分でオートバイを運転すると違う目線になる。

 

当方はオートバイ走行中に、歩行者の車道への飛び出しが、一番危ないと感じた。 ムンバイのような都市部では歩行者が歩道から溢れて車道を歩いている。その歩行者は車道を我が物のように信号無視で渡る。いつ飛び出してくるか判らない歩行者に注意しながら、オートバイを運転すると神経をすり減らす。

 

走行中の他のオートバイや車の逆走は当たり前だが、ベトナム等の東南アジア諸国ほど運転マナーは悪くない。

 

同じ質問にうんざり

多くのインド人が必ず外国人に対する質問が、<どこの国から来たか?>だ。注目されるのは有難いことかも知れないが、歩いていても、オートバイに乗っていても遠慮なく質問を浴びせてくる。 どこにいても、当方の状況がどのようになっていようと関係無く、あいさつ代わりに爆弾のように浴びせてくる。

 

お互いの会話のなかから<どこの国から来たのか?>と質問されるのなら、良いのだが、そうで無い。道を歩いて突然、Helloの代わりにWhich coutry are you from?(どこの国から来たか)と質問される。

 

ガソリンスタンドでオートバイに燃料を給油した時の事だった。当方は疲れていた。また眠かった。

オートバイの給油を済ませた後に、当方はガソリンスタンドの日陰にある椅子に腰を下ろし、目を閉じて少し眠ろうとした。その状況で、ガソリンスタンドの従業員は当方に<どこの国から来たか?>としつこく聞いてくる。

 

当方が相手の質問を無視して、目を閉じて寝ようとしていると、その従業員は当方に近づいて、当方の腕をゆすって当方を起そうとしながら、<どこの国から来たか?>しつこく聞いてくる。

 

相手のこのしつこい態度には当方はいささか腹立たしさを覚えた。当方が疲れていて寝たいのなら、そっとしておいてやるか、あるいは<大丈夫か?>かと当方を気遣うのが普通の態度だと思うのだが....

 

ツーリングのハイライト

エローラ(Ellora)の巨大石窟寺院

アウランカバード(Aurangabad)の北西約35kmに位置する村に巨大石窟寺院群(Cave Temples)がある。インドでも主要観光地だろう。7世頃から16世紀ごろ作られた30余りの石窟寺院群(Cave Temples)がある場所でユネスコ世界遺産にも登録されている。

 

目玉の巨大石窟寺院はヒンズー教寺院だ。岩山を上から約100m四方の広さで深さ30m40m掘り下げ、その中に彫刻を彫るように作った巨大な寺院がある。寺院の中には入場可能だ。寺院の敷地(掘り下がった部分)から垂直に削った壁を見上げると、壁の高さ(掘り下げた深さ)に驚く。

見るからに圧巻のスケールだ。岩山の壁の上から眼下の寺院を見下ろすと、その深さ(高さ)に足が震えてすくむ。

 

コロナ禍の為か、外人観光客は数えるほどしかいなかった。小中学校の課外授業か遠足かで集団で訪れている児童、生徒が多かった。ほどんどの訪問者は地元インド人のようである。メインの巨大石窟寺院は観光客で混んでいた。

 

ムンバイ滞在中にムンバイ湾に浮かぶエレファンタ島の石窟寺院へ訪れたが、規模ににおいても石窟寺院の精緻な造りにおいてもエローラの巨大寺院の足元にも及ばない。

(エローラの巨大ヒンズー寺院遺跡No.16 岩山を彫って約100年かけて寺院を造った)

(巨大ヒンズー寺院遺跡の内部敷地)

(巨大寺院遺跡を周囲の回廊部分から見るとこんな幻想的な風景になる)

(巨大ヒンズー寺院の内部敷地。回廊部の垂直に切彫った壁は高さ30~40mある)

(巨大ヒンズー寺院を岩山上部から覗く)

(巨大ヒンズー寺院を遺跡後部の岩山から覗く)

 

ハンピの寺院遺跡群(Hampi

インドでも外国人旅行者に人気の遺跡群がみられる場所だとムンバイの通関業者から聞いた。それまで当方はその存在を全く知らなかった。

 

14世紀から16世紀までデカン高原中部を支配していたヴィジアヤナグル王朝時代の都が置かれていた場所だった。 しかしイスラム勢力の侵入により王国は滅び、多くの寺院が破壊されたと言う。

岩山や岩場に建つ小型のローマ時代の神殿風の寺院が周26平方キロメートル四方に散らばっている。 これらの遺跡群もユネスコ世界遺産に登録されている。

 

現在も使われている寺院(Virupaksha Temple)がある。その寺院の高さ約30mの巨大な入口門はバビロニア(現在のイラク)のバベルの塔(Babel)の想像絵を彷彿させる。その大きさと異様な形に驚いた。

 

遺跡群の中にゲストハウス(民宿)や土産物等を販売する約30戸ほどの小さな村がある。村の中には車は入れず、3輪車タクシーか徒歩で入る。

 

当初、当方はオートバイで村の中へ入ろうとした。その際、村の入口の警備員にオートバイでの乗り入れを阻まれた。 しかし、<当方の宿が村の中にあるのでオートバイで乗り入れる必要がある>と警備員に説明してオートバイでの乗り入れを許可してもらった。

(ハンピ=HampiのVieupaksha Templeの塔門=ハベルの塔の想像絵に似る高さ30mの塔門)

 

(上部の煉瓦造りの部分は当時の原型だが、中段以下の基礎部分は修復したものだ。Stone Car 神殿の入口門)

(ハンピ村の遺跡群の一帯。林の向こう側に見える塔はVieupaksha Templeの塔門=ハベルの塔の想像絵に似た塔)

(岩山に直径5mほどの巨大な岩を載せた岩場。信仰の対象だったのだろう)

(ハンピ村の商店街)

(投宿したゲストハウスのオーナー。夫人は日本人の女性だ。ただし夫人は子供の教育のためベンガルールに住む)

 

領収書なしで宿代値引き

インドでは外国人が宿泊可能な宿とそうでない宿がある。外国人が宿泊可能なホテルの場合、ホテル側はフォームCForm C)と呼ばれる外国人の顔写真入りのデータを記載した書類を作成して、地元警察署に同書類を提出せねばならない。

 

アウランガバードで当方が最初に宿泊を試みたホテルは、最近オーナーが替わり、外国人登録用の書類の準備が出来ないとの理由で断られた。2軒目のホテルでも外国人の宿泊は同じ理由で不可と言われた。

 

3軒目のホテルでは外国人の宿泊は可能だったが、部屋料金が少し高めだった。そこのオーナーは部屋料金の少しの値引きには応じるが、それ以上の値引きには応じようとしない。 そのホテルで働く年配のスタッフがこっそり教えてくれた。 

 

オーナーに<現金払いで、領収書は不要>と言えば、オーナーは更に値引きしてくれるはずだとそのスタッフは言う。領収書を発行しなければ部屋料金の12%分の税金が節約できるということらしい。

 

当方は<現金払いで、領収書は不要だから、部屋料金をもっと値引きしてほしい>とオーナーへ伝えたら、同オーナーはにっこりして更なる値引きに応じてくれた。

 

行先々で色々ハプニングがあった。ムンバイ出発後最初に訪れたプネ(Pune)の町にはフォルクスワーゲンやGM等の欧米の自動車メーカーが進出しているインドでは有望な外国資本の受け皿になっている都市だと日系の調査機関から聞いた。

 

それなら一度プネの町を見ておきたいと興味が湧き、プネに寄ることにした。 しかし、のんびりしているとムンバイ滞在中に生じた腰痛が悪化して身動きが取れなくなると考え、プネには長居をせずに先を急ぐことにした。

 

プネではオートバイのエンジンオイルの交換を小さなバイク店で行った位だった。自分でエンジンオイルをバイク用部品等を販売する店で買ってきて、バイク修理店で交換作業を依頼した。

 

最初の一週間は順調の滑り出しだが、この先腰痛悪化の懸念が残る。

(プネ(Pune)で工賃無料でエンジンオイルの交換をしてくれたバイク修理店の皆さん。ブログにバイク修理店の写真を載せると言ったらエンジンオイル交換の作業代金を無料にしてくれた。余ったエンジンオイルは修理店へお礼のつもりであげた。)

 

(プネからアウランガバードへ向かう国道沿いの食堂)

 

(ベンガルール=Bengaluruの高架鉄道の駅)

(ベンガルールで使い古しのタイヤを再生して販売する業者がいた。50ルピー=約80円で使い古したタイヤ=写真右を仕入れ、再生後(写真左側のタイヤ)400ルピー=約640円で三輪タクシー車用に販売する。再生タイヤは一年間の使用に耐えると言う。インド人のたくましさを感じた。)

 

以上

ムンバイ滞在(Mumbai waiting for customs permit)(オートバイの輸入通関途中と市内滞在記)1/221/28


 

輸入諸掛り費用の過大請求

ムンバイ港での荷下ろし費用の一部(Rupee Deprecian Surchargeと呼ばれる費用項目)請求額がバンコクの輸出業者からの事前説明と異なり、過大に請求されていた。


バンコクの輸出業者は<請求額に過大な額があれば、業者間の契約に基づき訂正させるので心配ない>とバンコクからオートバイを船積する際に当方へ説明していたが、当方が少し懸念していたとおり、バンコクの業者は頼りにならなかった。 

 

バンコクの業者からバンコクの船会社代理店経由インド側の船会社代理店へ問い合わせても、約一週間進展がない。

 

最終的にはインドの輸入通関業者でお世話になっているSeco Shiptpingの協力を得て過大請求をしてきたインド側の船会社の代理店に直接コンタクトした。

 

インド側の船会社の代理店は日本の大手海運会社が共同出資するONEOcean Network Express)の代理店でもあるので、過大請求の懸念は少ないと思っていた。しかしながら、同代理店は<システムエラーで請求金額に誤りがあった>と言って、最終的には一部の費用項目を当初請求額の1/5に訂正してきた。

 

輸入許可を督促するため税関訪問

当方のオートバイを輸送した本船が1/15にムンバイ港に到着して、1/16に船から荷下ろしされた。輸入通関業者は1/16に税関に輸入許可の申請を行い、税関は1/17に申請を受理した。


その後一週間たっても税関手続きが進んでいる連絡が無い。前ブログで既述したようにカルネを利用した輸入手続きは税関でオンライン化されておらず、税関の関係部署を持ちまわって複数関係者の承認を経て輸入許可が下りると言う。

 

通関業者(Seco Shipping)から当方へ連絡が入り、<当方の申請書類は税関のコミッショナー(Commissioner)と呼ばれる高官の机上で5日間放置されているので、当方が直接税関へ出向いて同高官と直接談判してほしい>と要請された。 

 

輸入許可申請書受理日(1/17)から11日目(9営業日目)の1/27にムンバイの中央駅から片道約2時間かけて税関があるムンバイ市の湾を隔てて反対側にあるナバ・シェバ港(Nhava Sheva)の税関へ輸入業者のスタッフを同伴して行くことになった。

 

税関のコミッショナーは大きな個室で執務デスクを構えていた。当方がコミッショナーに当方のツーリング内容を説明の上、<可及的速やかに当方の申請を承認してほしい>と依頼するとコミッショナーは<前日に当方の申請は承諾した>と柔らかな口調で返答。

 

当方の申請書はそのコミッショナーの下位の高官(Additional Commissionerのタイトル)の手元にあるらしい。 同高官と面談するため2時間待つ。 短時間の面談で同高官は<書類が来たら速やかに承認するようにしている>と言う。 しかしながら、実務者レベルの部署には同高官の承認は届いていないようだ。


このような煩雑で時間がかかる手続きがインド行政の問題だろう。

(ムンバイ市とムンバイ湾。写真左側=西側の半島下部で赤マークが多い場所がムンバイ市の中心。湾の中の赤マークがエレファンタ島。地図右側=東側の緑色▲マークがNhava Shevaの港の場所で、税関はこの▲マークの場所にある)

 

(インド自動車市場でマーケットシェアが高いマルチ・スズキは公共交通機関の小型バスとしても多く使われている。車内を改造してこのバンに10人の乗客を乗せる。税関へは電車、ミニバンとオート三輪車=オートリキシャと呼ぶを乗り継いで行った。)

(庶民の足の三輪自動=オートリキシャの中から前方を走るオートリクシャ見る)

 

 

観光名所見学(エレファンタ島の石窟寺院、ガンジー博物館等)

 

エレファンタ島(Elefanta Island

ムンバイ湾の中にエレファンタ島と言う名の小さな観光名所がある。その島には岩山の中に掘られた8世紀~9世紀ごろのヒンズー教の寺院がある。その石窟寺院はユネスコの世界遺産に登録されている。


ムンバイ旧市街のインド門(Gate of India)の横にある船乗り場から5060名乗りの小型フェリーに約1時間乗りエレファンタ島に到着する。

 

最大なもので50m(縦) x 30m(横) x 6m(高さ)位の広い空間を作り、その広い空間や岩の壁面にヒンズー教の神々の彫刻を掘ったものだ。寺院と言うよりは地下倉庫の様相だ。十分な道具な無かった古の時代にこれほどの規模の地下空間を作った人々の執念と努力に感動する。

 

観光ガイドを雇えば、同所の詳しい説明が聞けた。しかし、観光ガイドと思われる人達から何回も声をかけられ、うっとおしいと感じて、無条件に<No Thank you>と断ってしまった。

(エレファント島へ向かうフェリー)

(ムンバイ湾上のエレファンタ島)

(エレファンタ島最大の石窟寺院の入口)

(最大石窟寺院の内部)

(最大石窟寺院の内部)

 

ガンジー博物館(Gandhi Memorial Museum

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)の名前を聞いたことが無い人はほとんどいないだろう。世界中で一番有名なインド人と言っても良いだろう。マハトマ(Mahatma)とは偉大な聖人の意味だ。

 

インドの紙幣はマハトマ・ガンジーの顔を印刷している。 同氏は1869(明治2)にインド西部のグラジャーラート州(Gujarat)の沿岸部の村Probadarのヒンズー教徒の両親のもとに生まれた。 青少年時代は内気な性格だったとのことだ。18歳で弁護士にるためロンドンへ3年間留学。 留学後、インドへ一時帰国したが、インドでは弁護士として成功せず、22歳で南アフリカへ渡り、同国で会社を経営する知人の元で弁護士として21年間同国で活動した。

 

南アフリカで同氏自身が有色人種として差別を受けて、白人専用の汽車から暴力を受けながら強制的に降ろされた事件をきっかけに、人種差別反対、女性の権利取得、社会的弱者の救済等の社会問題解決のための活動に積極的に関わった。


南アフリカの社会活動により同氏の名声がインドにも伝わり、インドの国民の権利獲得、弱者救済等の活動のリーダー的役割を期待されて45歳でインドへの帰国乞われたと言う。 

 

同氏の活動は最終的にはインドのイギリスからの独立へと向かった。同氏が唱えた非暴力主義は1960年代のアメリカでの黒人の権利を訴えたキング牧師や南アフリカの初代黒人大統領となったネルソン・マンデーラ氏に大きな影響を与えたと言う。

 

インド独立の一年後の1948(昭和23)に当時対立していたヒンズー教徒とイスラム教徒の融和を試みていたガンジーをイスラム教徒の味方と見做した熱狂的なヒンズー教徒青年の凶弾で倒れた(享年79歳)。

 

凶弾に倒れた時でさえ、<犯人を恨まず、口元に笑みを浮かべて皆の為になるなら死ぬのも厭わない>と最後まで非暴力の精神を訴えた。 世界的に稀有な社会活動家と言うしかない。

 

ガンジー記念博物館(Gandhi Memorial Museum)は同氏がムンバイに滞在中の十数年間、知人の家の一間を住居として利用した場所だった。築100年以上経た3階建ての建物の保存状態は良く、周りのビルよりも立派で奇麗に保たれている。

 

新興国の博物館や歴史的建物あるいは観光名所の入場料は外国人の場合、現地人より5倍~10倍ぐらい高い場合が多いが、同博物館の入場料は現地人も外国人も同一金額(20ルピー=約35円)で安価に抑えられていた。ガンジーが唱えた平等主義精神が活かされていると思った。

(ムンバイ滞在中にガンジーが居住したMani Bhavanと言う建物。現在はガンジー記念博物館=Gandhi Memorial Museumとなっている)

(ガンジーの居住空間。簡素な寝具と糸織り器具があった)

 

(20歳代のガンジー)

(インド農村部の貧困化の原因となっていたイギリスからの織物の輸入に反対して、自ら糸を引き布をつくるガンジー)

 

(南アフリカのピーターマリッツブルグ駅=Petermaritzburgで汽車から強制的に引き下ろされるガンジーの様子を伝えるミニチュア人形)

 

路上生活者(ホームレスの人)は思ったより少ない

インドのひと昔までのイメージは良くなかっただろう。貧困と混雑が一緒になったイメージを思い浮かべる人が多いだろうが、実態は異なる。

 

人々の貧富の差はどの国にもあるが、人口2千万人弱を抱えるムンバイ市で路上生活者(ホームレス)の姿は頻繁には見かけない。寧ろ5年前に南米をオートバイでツーリングした際にアルゼンチンのブエノスアイレスやブラジルのサンパウロやリオデジャネイロ等では、頻繁に路上生活者を見かけた。

 

大変だと思ったのは、路上の屋台店舗で商売をする人達だろう。

昼間は広い歩道に数十店舗以上の衣料品を販売している店主達は夜になれば、その歩道にフェルトのような敷物を敷き、その場所で寝泊まりをしている。 

 

朝方その場所を通ると、その路上で食事を作り、生活の場としているそこで働く多くの人達を見た。 キャンプ生活は一週間程度なら我慢できるが、毎日となると厳しい生活ではと思う。

(朝方のムンバイ市は少し肌寒い。路上で寝るホームレスの人)

 

(路上の商店経営者は夜となれば警備を兼ねて路上で寝泊まりする)

 

(昼間の路上の衣料品販売店)

 

小規模経営の小売(少し真面目な話)

ムンバイ市の中心部で食料・日用品は間口一間ほどの超小規模店舗で販売されている。1980年代中ごろまでの日本では小規模小売店を保護する目的で7-11ホールディングスやイオン等の大規模小売店舗が都市部に出店できないような規制があった。

 

しかしながら、その後その規制は撤廃され、都市部には大型の小売店舗がつぎつぎと出店して、個人経営の小規模小売店は閉店や廃業、あるいはコンビニのフランチャイズ店に衣替えした。

 

当方はインド都市部に何故スーパーマーケットのような品ぞろえが豊富な大型小売店が無いのかと不思議に思った。実際には数は多くないが、スーパーマーケットは存在する。しかし、当方が滞在したムンバイCSMT(中央駅)付近に皆無だった。

 

後日インターネットで読んだインドの小売業態に関する調査機関のレポートでは、食料品・日用品の9割は依然近所の個人経営の超小規模店舗で購入されていると言う。

 

その主な理由は、近所にあるので買い物に便利である(まとめ買いするには自動車等の運搬手段が必要だが、自家用自動車の普及率高くない)、洗剤等は一回分、二回分と言うように小口に分けてくれる(貧困層には有難い)、配達してくれる等使い勝手良いためだと言う。

 

確かに、ビスケット5~6枚入った小パッケージが5~10ルピー(8~16円程度)、手のひらサイズの小さな袋に入ったポテトチップ(15g)が5ルピー(8円程度)と少しお腹を満たす程度の量としてはちょうどよい分量で販売されている。

 

当方が当初推測した都市部における大規模店舗の出店に関する規制は無いようだ。

 

一方ではスマホ(Smartphone)の普及により、EC小売市場も急拡大中だとの報告がある。 コロナ禍前(Covid-19)2019年の調査ではEC(インターネット経由等の電子取引)小売市場での販売額はインド小売市場の約6%規模となり、ムンバイ、デリー等の大都市では30%まで拡大したと言う。

 

コロナ禍以降にはEC小売市場は更に拡大したのは必至であろう。

(写真のような小さな食料雑貨店が多い)

 

(日本では姿を消した個人経営の小さなカメラ店も健在だ。小さなカメラ専門店が軒を並べる。)

 

食事場所

当方は食べ物に関しては無頓着である。食べ物は栄養になればよいとの考えだ。うまいものが食べたいとか旅行の楽しみの一つが当地のうまいものを食べるような旅行とは無縁だ。

 

懸念していた食事による下痢は今のところムンバイでは無い。当方の胃腸は普通の人より弱いと自認している。

日本でもアイスクリームを食べたり、外食で油を使った揚げ物料理でお腹を壊すことが頻繁にある。

 

しかし、インドに到着して2週間ほぼ毎日カレーあるいはスパイスの利いたカレー風味の食べ物に口にしている。

すこしお腹が緩くなったことが12回あった程度だ。

 

むしろインドネシアやベトナム等の東南アジア諸国で鶏肉や豚肉の煮物の料理を食べた直後に頻繁に少しお腹が痛くなったり、下痢気味になったりしていた。

 

下町の通りの屋台で軽食を作る男はどう見ても手を洗っている形跡がない。まな板、ナイフや食事の材料(野菜)さえ洗っているかどうか判らない。しかしこの屋台でサンドイッチを2回かって食べたが、大丈夫だった。

(トマトをカレーで味付けしたトマトカレーとナン)

 

(野菜カレーとチャパティ)

 

(タンドリーと呼ばれる窯でチキンを焼く)

(チキン・ティカと呼ばれる骨なし窯焼きチキン)

 

(昼間の屋台でカレーに浸してプリバジ=PuriBhajiと呼ばれる油で揚げた小麦粉でつくった皮パンに食べた。30ルピー=50円程度。油で揚げてある為か、後でお腹が緩くなった。)

 

(屋台のトースト・サンドイッチ。炭火を使ってパンを焼く)

 

(マサラ・ドサ=Masala Dosaと呼ばれる小麦粉の生地とカレー味のポテトをクレープのように

鉄板で焼く。)

(街角の紅茶ショップで鍋に紅茶を作る。おちょこサイズの生姜味が効いたミルクティーは10ルピー=約16円)

 

その他の写真

 

(ムンバイ市内の人気のヒンズー教寺院=Mahalakshimi Madirを訪れようとしたら500人以上の長蛇の列だった。参拝は諦めた)

(ムンバイ市の旧市街にはビクトリアン・ゴシック=Victorian Gothicと呼ばれる

イギリス植民地時代の重厚なゴシック様式の建築物が多い。写真はWest Railway鉄道会社本社建物)

 

(ビクトリアン・ゴシック建築のムンバイ大学時計塔University of Mumbai=写真右と高等裁判所=High Court写真左)

(ムンバイの人気散歩スポットと言われるマリーン・ドライブ=Marine Drive)

 

(マリーン・ドライブの遊歩道)

(大学の年に一度の正装の日にサリーを来て登校する女子大学生。サリーは日本の和服のようなものだ。町では普段、サリーを着た女性をほとんど見かけない。)

(ムンバイ最大の屋外洗濯場=Dhobi Ghatは商業ベースでも使用されている。

人件費が安いため手洗いで洗濯。洗濯物が所狭しと乾かしてある。)

 

(市内のいたるところにある公衆トイレ。有料だが中は清掃が行き届いている。)

 

次回こそムンバイ港でのオートバイの引取りからスタート予定。

 

以上

 

 


 

バンコク(タイ)からムンバイ(インド)へ空路入国後オートバイの輸入手続き開始(2023/1/151/21


ベトナムのハノイから荷物を置いてあるタイのバンコクへ飛び、バンコクで3泊後にバンコクから海上輸送中のオートバイを受け取るため、次のオートバイツーリング再開場所であるインドのムンバイへ向かった。

 

ムンバイへのフライト前日の夜になって、問題が発覚した。

インド政府がインドへ入国する旅客のコロナ(Covid19)対応策を今年の11日から厳しくしていたことを当方は、ムンバイへ行く前日夜に知った。

 

昨年秋口から世界各国では入国旅客に対するコロナ対応策を緩和している。そのため、当方はインドの最近のコロナ対応策は確認していなかった。 

 

しかしながら、気になってインターネットで確認したら、日本を含むコロナ感染が拡大しているタイ、中国、韓国、シンガポール等からの入国旅客については出発72時間以内のPCRが義務づけられていた。 厳しい措置は今年11日から導入済みだった。

 

インターネットにPCR検査を受けられるクリニック等の広告が多数あったが、どれも緊急でテストを行っても結果が出るのに3時間かかる。色々調べている内に深夜になったため、今夜は何も出来ない。

 

PCR検査での陰性証明書(Certificate of Negative proof on PCR Test)無しで、翌日航空会社は当方をフライトに搭乗させてくれるだろうか? 航空会社と交渉の余地はあるだろうか?

当方の航空券(Air Ticket)は格安航空券のため搭乗日の変更が出来ない、購入済みの航空券は無駄になることを考慮して、善後策を考えた。

 

マレーシア等インド政府がPCR検査の陰性証明証を要求していない国へ飛び、その国からインドへ入国するのも対応策の一つだ。翌日早めに空港へ行き、空港でインド行のフライトを予約している航空会社に相談することにした。 

 

翌日朝、<フライトには乗れないだろう。空港へ行くこと自体が無駄だろう>と暗い気持ちで荷物を抱えて空港へ向かった。

 

航空会社のスタッフから空港にPCR検査場があり、搭乗手続き時間中にPCR検査の陰性証明書を作成できることを教えてもらった。当方以外にもPCR検査の陰性証明証を持参していない旅客が3名いた。

 

PCR検査場での検査は早かった。待ち時間なしで検査を行い、約40分ほどで英文陰性証明書を作成してくれた。ただし、検査費用は原則現地通貨の現金払いだったが、交渉して持参していた米ドル払いで受けてもらった。

 

検査費用は約100米ドルお札をだして、200タイバーツ=約800円のお釣りをもらった) つまり検査費用は9293米ドル程度(12,000円程度)だろう。

 

PCR検査の陰性証明書をインターネット上でインド政府のコロナ対応用の入国フォームに記入してインターネット上で申請しなければならなかった。細かいことを話すと長くなるが、この場でも当方のスマホにトラブルが生じた。

 

スマホでの手続きも航空会社のスタッフの協力を得てチェックインカウンターが閉まる寸前に何とか済ませて、予定していたフライトに当方の搭乗が許されることになった。

 

結果オーライ(All Right)だったが、他国へ出発する前には、余裕を持った事前の確認やチェックが必要だったと改めて反省。

 

 

(ムンバイ空港から市内中心部へ行く空港バス。市内中心部まで約20kmあるが、バス料金は175ルピー=約280円)

(日曜日の夕方、ムンバイ空港から市内中心部へ向かう途中)

 

ムンバイの雑踏

 

ムンバイに到着したのは日曜日の午後の遅い時間だった。コロナ対策が厳しくなったせいかしらないが、当方のような外国人旅客の数は少なかった。


空港のイミグレーションでの入国手続きも短時間で終了して、空港バスに乗りムンバイ市内の中心部を目指した。CSMT駅=中央駅がある市内中心部に到着したのは日没後となってしまった。日曜日の夕方とあって、道路は思っていたより混んでいなかった。


それでも市内の幹線道路の車の流れは悪く、ドライバーは我先にと前に進もうと、クラクションを鳴らしながら車と車の隙間へ自分の車を押し込んでくる。

 

バスの運転が一番荒かった。バスの運転手は<道を開けろ>と言わんばかりにクラクションをずっと鳴らしっぱなしだ。バスに行く手を阻まれたオートバイライダーが怒鳴り声で、バスの運転手に文句をいっている。バスの運転手はさらに大きな声をはりあげてオートバイライダーに怒鳴っている。

 

ムンバイ市中心部は人が多かった。歩道から人々が溢れて車道を歩いている。すれ違う人とはしょっちゅう肩がぶつかりあう。肩をぶつけられると<気を付けろ>と文句を言いたくなるが、人が多いインドの都会では当たり前のことだろう。誰も文句も言わないし、謝りもしない。

 

いつもの様に宿泊先は予約していない。目星をつけてある宿泊先ホテルを訪ねた。ホテルの立地場所と部屋の状況を自分の目で確かめないとホテル選びに失敗することになる。荷物もあるので、1件目のホテルで宿泊を決めた。

 

前日は闇にまみれて道路の汚れや老朽化した建物はあまり目立たなかった。

翌朝周りが明るくなるとやはり道路上のゴミ、老朽化した建物や掃除が行き届いていない街角等が目につく。

一言で言うとゴチャゴチャしている街並みだ。

 

騒音もすさまじい。車やバイクのクラクションの音。歩道から溢れて道路を行きかう人々の群れ。 

町や人々の活気も感じるが、それ以上に東南アジア諸国ではあまり感じなかった無秩序で混とんとした雰囲気に圧倒される。

ムンバイの中央駅CSMT=Chhatrapati Shivaji Maharaj Terminusは世界遺産の建物だった)

(CSMT駅。列車のドアは走行中でも開けっ放しだった)

(列車車両内は幅が広い。ステンレス製の三人掛けの座席が通路を挟み横に2列並ぶ。昼間の時間帯のため、近郊列車の車両内は混んでいない)

(写真奥のドーム屋根の建物は世界遺産のCSMT駅の駅舎)

(CSTM駅近くの住宅街路上には多数のバイクが無秩序に駐輪してあり、路上の通行を妨げていた)

 

(ムンバイの観光名所のひとつインド門=Gate of India 1911年建立)

 

(稀に市内の路上でつながれた牛を見た。おそらく宗教的な意味で牛に手で触っていく通行人がいた。確認はしていないが、

宗教的な意味合いがある行為か、賽銭目的のビジネスではないか思った。)

 

(公園では少年から大人まで多くのチームがクリケットの試合を行っていた)

 

ムンバイ(Mumbai)到着後通関業者との打ち合わせ

 

通関業者(Sadikally Esoofally Co)のオフィースはムンバイの中央駅に相当するCSMT駅近くの中小の建物群が密集するビル内にあった。スタッフは5名程度の小さな会社ながらしっかりしたオフィースがあると言うだけでも、安心感が持てた。

 

同事務所のオーナーであるMustafa Merchant氏とは事前にE-メールやWhatsAppでやり取りしていたから初めてあった気がしなかった。 同氏の言葉を借りれば、同社はムンバイ港でカルネを利用する中古車両の輸出入の9割の通関業務を請け負っていると言う。

 

事実、Facebookのアジアツーリング関連のグループ情報ではムンバイ港の通関では同社におせわになったとか、手際良い輸出入の手続きだった等の同社を利用した外国人オーバーランダーの投稿を目にした。

 

同社訪問日と同日の1/16に当方のバイクを運んでいる本船がムンバイ港(実際にはNsheva Havaと言うコンテナー専用港)に到着した。

 

当方のオートバイはカルネ(Carnet de Passage en Douane)を使う輸入手続きのため、同氏からオートバイを受け取るのに最短でも10営業日程度時間がかかると言われる。このことは事前に伝えられていたので特に新たなニュースでは無かった。 

 

通常貨物の輸入通関手続きは税関内での各部署がコンピューターでオンライン化されているため、情報の共有化ができ、許認可がスムーズ行なわれる。


 

しかしながら、カルネでの輸入手続きについては、カルネ利用者が当方のよう外国人オーバーランダーか海外に住んでいたインド人が帰国時に車両を持ち込むケースに限定される。 利用頻度が少ないため、手続きはオンライン化されておらず、関係部署へ係官が書類を持ち回りする手作業となっている。

 

どの位の数の関係部署を持ちまわるのか知らないが、その手続きに一週間以上の時間がかかるとのことである。 

 

また、カルネを使った輸入手続きの際は、インドの自動車連盟(Federation of Indian Automobile Association=FIAA)に当方のオートバイのインド持ち込みについて、<インド自動車連盟が保証する>旨のレター(Non Objection Letter=NOC)を作成してもらう必要がある。

 

この手続きは通関業者が有償(約2,000ルピー=3,200円)で代行してくれるが、FIAANOC発行に際して、当方のカルネ発行元である日本自動車連盟(JAF)へ当方のカルネが本物であるかどうか確認を求め、JAFから書面で確認を取りつける。

 

FIAAから前週末の土曜日にJAFへカルネが本物であるか電子メールにて確認を求めたが、月曜日の午後(2日後)になってもJAFから返答がない。そのため、FIAAJAFからの返事が遅いと考え、当方へJAFへの問い合わせを依頼してきた。 FIAAはインドでは土曜日は営業日なので、他国も土曜日は営業日だと思っていたらしい。

 

FIAANOC書類の入手が遅れれば、その分通関手続きが遅れるため、当方もJAF宛にメールで

状況を説明したあと、電話を入れてJAFFIAAへの返答を急ぐように依頼した。 JAFが善処してくれたこともあり、JAFの確認書類はFIAAへ翌日(火曜日)には送付された。

 

当方は同社にはオートバイ用のバッテリーの入手もお願いしていた。

バンコク(Bangkok)から当方のオートバイを海上輸送する際、バッテリーは完全にオートバイから取り去ることを条件に混載貨物として荷受してもらった。 当方はムンバイの複数のヤマハオートバイの販売店に電子メールで純正バッテリーの入手が可能かと問い合わせたが返事がないため、同社へバッテリー探しの協力を依頼していた。

 

同社から純正バッテリー(GS-YUASA製)の入手不可というとの連絡を得て、同じ仕様(サイズ)のインド製のバッテリーを事前に買いそろえてもらうことにした。

 

気になるのが、輸入時に関わる諸掛り費用である。同社が関与する輸入手続き関連費用については事前に連絡を受けているので問題ないが、船会社の代理店が本船からの荷下ろしから始まり、保税倉庫で荷物を保管するまでの作業分が不透明である。業界用語ではDestination Charges(到着港での費用)と言う。

 

同社からはインドでは船会社代理店が過大請求する場合があるので、荷物を本船に積み込む際にバンコクで、到着港での費用も全て前払い(Prepaid)にした方が良いとのアドバイスを受けていた。 

 

同社が輸入通関した複数の外国人オーバーランダーの場合でも、後日船会社代理店からの過大な請求額を同社顧客が見てびっくりし、同社が顧客対応に苦慮したケースがあったと言う。同社は船会社代理店からの請求額を単に顧客に伝える立場なので、損な役回りだとこぼしていた。

 

後日トラブルにならないように、積出港で業者(輸送会社が)事前にしっかりと顧客に説明すべきであるとの同社の意見には頷ける。ただし、バンコクの輸送業者はその対応ができていなかった。

 

同社では船会社代理店の過大請求の事を<隠れた費用(Hidden Charges)>と呼んでいる。 

 

既にムンバイ港で本船からの貨物荷下ろしに関わる費用の一部の請求書が通関業者(フォワーダー)の手元にも届いている。 請求書には直ぐに納得できない金額があるので、当方はバンコクの業者を通じて船会社の代理店に説明を求めているが、返答は期待できないだろう。

Sadikally Esoofally Coのオフィース。写真左端がMustafa氏)

 

経済情報 (真面目な話)

 

インドの総人口が中国を抜き世界最大の人口(約14.2億人)になったとかインドの新車販売台数がの日本の販売台数を初めて抜いたとかのニュースが最近あった。

 

インド経済は約十数年前のBRICSブーム(経済規模が大きく躍進している新興国Brasil,Russia,India, Chainaの総称)から世界的に目立つ存在になってきた。

 

2016年年には日本のGDPの半分にも満たなかったインドのGDPは2030年には日本を追い越して、中国、米国に次ぐ世界第3位の経済大国になるとの予想が民間のシンクタンクから出ている。

 

インド政府が外資の直接投資の規制を緩和してから、多くの外国企業がインドの巨大消費マーケットをにらみ製造業からサービス業までの広い分野でこぞってインドに進出している。

 

日本企業では1980年代にインドに進出して、インド国内で乗用車の販売台数が50%近くのマーケットシャアを占めるまで大きくなったスズキ自動車の成功例がある。最近では製造業のみならず、良品計画、ユニクロ(ファーストリーテイリング)やセブンイレブンと言った小売業やクレジットカード系の金融業の日系企業もインドに進出している。

 

インドの一人当たりのGDP1,920米ドル(約25万円)とベトナムの2,650ドル(35万円)よりも少ないが、州により大きく異なることに留意すべきだろう。

 

ゴア州=Goa(インド南西部)や首都があるデーリー準州では約5,3005,700米ドル(約69万円~75万円)に対して最貧州のビハール州=Bihar(インド北東内陸州)では700ドル (9万円)にも満たない。最貧州のGDPはアフリカの最貧国のマリ共和国やコンゴ民主共和国とあまり変わらない水準だ。

 

州によりこれほど所得に格差があれば、インドをひとくくりに説明するのは困難だろう。やはり州単位あるいは地域単位で理解すべきだろう。

 

インドで経済発展が著しいのはインド西部・南部地区だ。

 

北は首都ニューデリーが所在するデリー準州(Delhi)、その西のスズキ自動車やホンダが製造拠点を構えるハリヤナ州(Haryana)、石油化学工業が盛んな西部グジャラート州(Gujarat)や南西部の大都市ムンバイを控えるマハーラーシュトラ州(Maharashtra)やインドのシリコンバレーと呼ばれるバンガロール(Bangalore)があるカルナータカ州(Karnataka)だろう。

 

当方のインドのツーリングルートは偶然ではあるが、経済発展が著しいムンバイから出発してマハーラーシュトラ州~カルナータカ州~インド最南端タミルドウ州(Tamil Nadu)からインド中央部のデカン高原を経由して東部コルナタ(カルカッタ)=Kolnataがある西ベンガル州(West Bengal)を想定している。

 

カルカッタ以降は北東からニューデリーがある北西まで、途中ネパールにも寄りながらインド周回ルートを考えている。ツーリング期間は約2ヶ月~3ヶ月。走行距離は1.5km位になるだろうと推測している。

 

次回はムンバイ港でのオートバイの受取から

 

 

(ムンバイ証券取引所)

 

(ムンバイの金融街Bandra Kurla Complexにはインド中央銀行や数多くの外国金融機関が所在している)

 

(役所前の歩道でタイプライターを使用して書類作成する代行業者)

 

(CSMT駅付近にヘルメットを中心にオートバイ用品店を販売する小さな店舗があった。30m2にも満たないような狭い店内の

賃料は月額約1,100米ドル=約14万円とインドの物価水準では安くない。ムンバイ南部の地価や家賃はかなり高いと言っていた。それでもムンバイのビジネスのスピードが速いので、家賃は十分補えると言う。)

 

(経済発展優先のため、ムンバイ近郊のKurla駅付近の川の水はどす黒く異臭を放すドブ川状態だった。環境問題を解決するにはまだ時間がかかるようだ。)


(インドの州別の一人当たりGDP。インド西側の州が経済的に豊かな州だ。Jetro資料)

 

(インドの一人当たりのGNI=国民所得はカンボジアとベトナムの間であるが、州により大幅に異なることに留意する

必要がある。インドを一言では語れない。Jetro資料)

 

(インド進出の日系企業の拠点=Jetro資料)

(赤い点線が当方の走行ルート案)

 

以上

ベトナム北部(Vietnam)後編 ホア・ビン~ニン・ビン~ハロン湾~ハノイ(約900km2023/1/41/11

 

ベトナムは思っていたより広かった。 ベトナム北部地域を10日間でツーリングした距離は1,800km弱となった。北部のハノイ市から南部のホーチミン市までの直線距離は1,100kmと東京から長崎までの距離に匹敵する。ベトナム南部地域までオートバイ足を延ばすとすれば1ヶ月あっても足らないかもしれない。 

 

ハノイを中心としたベトナム北部地域にはVisa無しで入国できる期限の15日間滞在(内レンタルバイクでのツーリングは10日間)したが、晴れた日は無かった。2日のみベト・クアンとハノイで一時的に小雨が降ったが、後は曇天だった。この時期は乾季だが、晴天の乾季では無いようだ。

 

(黄緑色部分がベトナム。赤線がレンタルバイクでツーリングしたベトナム北部地域のルート)

(ベトナム北部地域の地図とツーリングルート。赤字の線がツーリングルート。地図右上の周回ルートがハザン・ループと呼ばれる周回約300kmの絶景の山岳ルート。 赤字ルート上左側最上部がラオ・カイ、左側最下部がニン・ビン、最も右側がハロン湾)

 

ラオ・カイ(Lao Cai)~ホア・ビン(Hoa Binh)~ニン・ビン(Ninh Binh) 約550km

 

ラオ・カイからハノイまでは高速道路があるが、オートバイの通行は禁止されているため、川沿いの二級国道のような対面通行のルートを通った。 

 

ニン・ビン(Ninh Binh)には観光する場所が多いと聞いていたので、ガイド・ブックで調べ2泊することにした。 ラオ・カイからニン・ビンまで約420kmある。一般道を一日で走行するには無理がある距離なので、途中の町ホア・ビン(Hoa Binh)で一泊することにした。

 

ラオ・カイからホア・ビンまででも約300km強の距離だった。一般道での走行は一日がかりだ。ホア・ビン(Hoa Binh)はホア・ビン県の県庁所在地でハノイにも通じる紅河(Red River)沿いの町だった。このあたりはハノイからも100km程度の距離となり、他の主要な都市も点在しているためか交通量が多くツーリングを楽しむと言うより単なる移動のためのツーリングだ。

 

ホア・ビンの周辺ではまだ肌寒いのに、水田では田植え準備が進んでいた。

紅河(Red River)下流地域の海から100km以上の上流地域に位置するが、川の水量は豊富で、船を使った物流にも利用されている。

 

ホア・ビンの周辺地区はもやがかかっていて視界が良くない。このもやの正体は畑や住宅地でよく見かけた焚火の煙なのか、工場からの煙なのか、道路で舞い上がる土煙なのかはっきりしないが、一日中走行した夕方には当方は喉に痛みを感じた。

(ホア・ビン=Hoa Binhの町の中を紅河=Red riverが流れる。遠くはもやのためか、かすんで見える。)

 

(ホア・ビンの郊外の集落にキリスト教会があった)

(田植えが始まっている沿岸部地域)

 

ニン・ビン(Ninh Binh)で宿泊したホテルは家族経営の感じが良い小さなミニ・ホテルだった。その一角は10年ほど前に区画整備され、観光客誘致を主眼に開発されたと聞いた。同じく区画には56階建の似たようなミニ・ホテルが多数あった。 ベトナムの町とは思えないような西洋風のビルと大型住宅がある場所だった。

 

ニン・ビンの町自体には観光スポットはあまりなかったが、周辺には平地から垂直に立つ奇岩の山々が多く思わず目を見張った。また、同地区周辺は小さな河川を利用した水路が発達している。その水路を観光にも利用している。

昔ながらの手漕ぎの小型船に観光客を乗せて、周囲の奇岩の山々を見物しながら水路・運河でのちょっとした船旅気分を与えてくれる。

(ニン・ビン=Ninh Binhでは観光業に力を入れてる。一文字の高さ5mぐらいのHOMESTAY表示。ベトナムの民泊スタイルのHomestayは欧米の観光客に人気あると言う。遠くはかすんで見える。)

(ニン・ビン=Ninh Binhの入口門)

(ハン・ムア=Hang Muaの小高い山(展望台)から奇岩の小山群を撮影)

(ハン・ムアの展望台 約250m~300m位の小山の頂上が展望台になっている。写真の上部の山の上の展望台からは一コマ前の景色が見える)

(山と山の間の水路に数名程度しか乗れない手漕ぎ観光船が行く)

 

(19世紀に高層2名が山の中に建立した寺の入口=Bichi Dong Pagoda)

(ニン・ビン市内の古い裏町の路地)

(ニンビン郊外の昔の村を描いた民家の壁絵)

 

ニン・ビン(Ninh Binh)~ハイ・ホン(Hai Phong)~ハロン湾(観光船ツアー)Ha Long Bay~ハノイへ戻る(350km

 

ハノイ周辺100km圏内は人口密度過密地帯でもあり、産業の集積地でもある。 ハノイの西約100kmに位置するハイ・ホン(Hai Phong)には外国資本が多く進出する工業団地があると言う。実際にニン・ビンからハロン湾へ通じる道路を走行中に大手韓国企業の工場を目にしたり、現在造成中の

工業団地を目にした。

 

この地域の主要幹線道路にはコンテナーを運ぶ大型貨物トラックが多くなり、オートバイでのツーリングは全く楽しくない。また、平野でもあり景色が良いと言う場所も無い。 

 

この地域に来たのはベトナム北部では観光地として有名なハロン湾の奇岩群を見るためだった。約7080名ぐらい乗船可能な3階建ての観光船で洋上に点在する奇岩群や海上からそそり立つ島々がある海域を約6時間航行する。途中2つの島にも上陸して石灰岩が作り出した鍾乳洞を見学する。

 

最初の1時間は奇岩や海底から垂直に盛り上がったような島々に感動したが、時間が経つに従いどの島々を見ても違いが判らず最初の感動が少しずつ薄れていく。3時間ほど経過すれば、どの島を見ても同じようにしか見えず、景色に飽きてきた。

(ハイ・フォン=Hai Pong近くの河には砂利を満載して波をかぶれば沈みそうな運搬船が往来している)

(ハイ・ホン=Hai Pongの工業団地内の韓国大手電機メーカー)

(ニン・ビン近くの韓国大手自動車会社の工場)

 

(ハロン湾=Ha Long Bay近くの造成中の工業団地)

(ハイ・ホン周辺のセメント工場近くには石灰岩が採掘できる山がある)

 

養殖池があるタイ・ビン=Thai Bin周辺の民家は大きかった。)

 

(ハロン湾=Ha Long Bayの観光船ルート。地図の上部が観光船のターミナル。

 

(ハロン湾観光)

(ハロン湾観光その② 鍾乳洞がある島に上陸)

(ハロン湾観光その③ 海上からそそり立つ岩山)

 

真面目な経済関係の話

 

ベトナムの一人当たりのGDP(年収とみなしてよい)は4,000米ドル(約45万円~50万円)とタイの半分ほどであるが、統計が示すほどベトナムの実質個人所得は少なくないようだ。因みには日本の場合は4万米ドル(約450万円~500万円)だ。

 

都市部ではサラリーマンや公務員でも副業が許されていると言う。不動産投資の収入や個人事業を行っている場合もあると言う。これらは統計上に反映されにくい。

 

地方では勤労所得の他に、自己消費分の食料は耕作農地で得ている。その為、生活には余裕が感じられる。当方が驚いたのは、集落の車一台しか通れないような生活道路でも隅々まで舗装が施されていることだった。

 

また、家が大きい。地方では大きな家には祖父母、両親、成人した子供夫婦と3世代(世帯)が同居している場合が多いと聞いたが、それでも十分余裕があるサイズの家だ。

 

あるベトナム人へ当方が撮った比較的大きな民家の写真をみせたら、<こんな家は大きくない>と言われた。

 

ニン・ビン市内でドーム屋根の4~5階建ての大きな建物を見かけた際に、その建物の守衛に<何の建物か>と尋ねたことがあった。 その際、その守衛は<個人の住宅だ>と返答した。当方はこんな大きな家に住んでいる個人がいるのかと驚いた。

 

もちろん、山村、農村、地方都市やハノイのような大都市では生活環境や経済環境がそれぞれ異なるので、全地域の住民が等しく豊かだと言うことではないが、統計上の一人当たりのGDPでは測ることが出来ない生活の余裕度は高いと感じた。

 

ドル建てGDPは対ドルの為替レートで大きく変動する。たぶんドン(ベトナム通貨)が米ドルに対して割安になっているのではと直感した。

 

ベトナム経済が飛躍的に伸びるきっかけはWTO(世界貿易機関)への加盟だろう。中国の経済飛躍の原動力もWTO加盟だった。WTO加盟により多国間と透明なルールや関税率で公平な貿易や投資が可能になるからだ。 

 

WTO加盟に際してベトナムは国内法をWTOのルールに沿って整備し、外国企業が安心してベトナムへ製造拠点等を作る資本投下を可能にした。

 

その外国企業の製造拠点およびベトナム企業からも<Made in Vietman>として多くの製品が海外へ輸出され、雇用を生み、新たな消費に結びつくように経済が上手く回っている。 WTO加盟のお陰だ。

 

日系企業だけでも約2,000社強がベトナムに進出していると言う。

 

WTO加盟のみならず、最近では日本が主導的役割を果たしたTPP(環太平洋パートナーシップ)、RCEP(中国、韓国、日本、アセアン諸国等加盟の自由貿易協定)やEUとの自由貿易協定(EVFTA)等の国際間の自由貿易協定も締結している。

(ニン・ビンで宗教関連施設の建物だと思ったら、個人の住宅とのことだった)

 

(ハノイ証券取引所。アポイント依頼を事前にメールでお願いしたが、返事が無いためアポイント無しで訪問した)

 

(ハノイ市内の道路は小型オートバイであふれている)

(ハノイ証券取引所横の裏道の昼食時の様子。昼食時には路上のミニテーブルはサラリーマンやOLで満席になる)

 

(ハノイ中心部下町。歩道は生活と仕事の場所だ。歩道でオートバイの修理を行うオートバイ修理店)

(宿泊したハノイのミニホテルを経営する兄=写真右と日本の札幌で飲食店で働く弟=左。兄弟の夢はベトナム中部のダナンで日本料理も取り入れたレストランを出店する事と語る)

 

ベトナム戦争(1965年~1975年)

 

戦争の内容を中立的に説明するのは難しいが、一般に理解されている経緯は以下の通りだ。 

 

そもそも第二次世界大戦終結と同時に、日本軍に一度インドシナ半島から追い出されたフランス軍がベトナムへ再度侵攻した第一次インドシナ戦争(1946年~19954年)から始まっている。

 

フランス軍はベトナム人民軍(共産党軍)に大敗をきして、結局1956年にはインドシナ半島から撤退することになるが、その過程においてベトナムは中国やソビエト連邦が支持する社会主義の北ベトナムとアメリカ等が支援する資本主義の南ベトナムとに分離した(1954年)。

 

北ベトナムは分裂当時から南北ベトナムの統一を掲げ、南ベトナムの政府に反対する南ベトナム解放民族戦線(いわゆる反政府組織のベトコン)を軍事的に支援した。

 

南ベトナムを支援するアメリカは、1964年のトンキン湾事件(ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ軍駆逐艦が北ベトナム哨戒艇から魚雷攻撃を受けたとする事件。その後、この事件はアメリカ政府によって捏造されたものだと判明)をきっかけにベトナム戦争に軍事介入を行い、北ベトナムへ爆撃するとともに南ベトナム政府軍とともに反政府ゲリラ(ベトコン)、北ベトナムと戦った。

 

アメリカはベトナム戦争で数万人兵士が犠牲になる等、軍事加入のコストが高くつき、またアメリカ国内の世論も反戦ムードになる等したため、結局1973年に米軍をベトナムから撤退させた。

 

その後の戦争の行方は南ベトナム政府軍に任せた。結果は19754月に南ベトナムの当時首都だったサイゴン(現在ホーチミン市)へベトコンと北ベトナム軍が進軍(いわゆるサイゴン陥落)。そして、南ベトナム政府は自壊して戦争が終結した。

 

 

(第一次インドシナ戦争でフランス軍に捕らえられたスパイ容疑のベトナム女性たち)

(ハノイを爆撃する米軍のB52戦略爆撃機)

(米国キッシンジャー国務長官=写真右が北ベトナム政府代表団とベトナム和平=米軍の撤退について話し合うパリ会談1973年)

 

ベトナムの後はオートバイの海上輸送先であるインドのムンバイへ向かう予定である。


以上


 

Vietnam前半編 ハノイ(Hanoi)~北部ハザン・ループ(Ha Giang Loop)~ラオ・カイ(Lao Cai) 800km2022/12/29~2023/1/3

自分のオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送している期間を利用して年末から約2週間の予定でハノイを中心としたベトナム北部地域へ行くことにした。

 

ベトナムには当方が高校生頃に終わったベトナム戦争や社会主義国家でも市場経済と外国資本を招きいれた開放経済を取り入れたベトナムの経済発展に興味があった。しかしながら、日本等の外国籍のオートバイで走行するには地元のガイドと特別な許可が必要であり、ハードルが高い。

 

そのような理由で、ベトナムは当方のツーリング計画には無かったが、現地でレンタルバイクを利用したツーリングなら可能だ。 ただし、ベトナムは国際運転免許証についてジュネーブ条約締結国でないため、日本の国外運転免許証(International Driving Permit)は有効でない。 しかしながら、ハノイで外国人が主に利用するレンタルバイクの店フラミンゴ・トラベル(Flamingo Travel)では運転免許証の提示を求められなかった。

 

ハノイから中国と国境を接するハザン県(Ha Giang)にある約300kmの山岳部の周回ルート(Loop)上では石灰岩の浸食が作り出したカルスト地形の絶景が観られる。その絶景はユネスコの世界遺産にも登録されている。 

25年以上ベトナム北部の山村に住む日本人O氏にツーリング場所を相談した。 一にも二にも前述のハザン・ループ(Ha Ginag Loop)だった。 ハノイからは約300km強の道のりだったが、行く価値は十分あった。

(ハザン=Ha Giangの山々)

 

ハノイ(Hanoi)~ハザン(Ha Giang) 約300km

ハノイでYAMAHA製の135ccのスクーターを一日10米ドルで借りた。ハノイ市内のみのレンタルバイクの利用ならもっと安いのだが、遠距離での走行はプレミアム料金がかかる。 当初はレンタルバイク料金は一日15米ドルと言われた。 しかしながら、その店のオーナーを知る人の紹介で来たと従業員へ伝えると、何故か10米ドルになった。

 

ハノイからハザンまで約300kmの道のりがある。高速道路がないので全て一般道での移動だ。最もベトナムでは高速道路およびバイパス道路はオートバイの通行が禁止されているので、仮に高速道路があっても、一般道での走行になる。 


ハノイでのオートバイの運転マナーは当方がツーリングした東南アジア6か国で一番悪かった。 

信号無視、逆走は当たり前ながら、当方が直進する所に前方から来るオートバイが当方の前を横切り左折する。非常に危ない運転マナーである。また、対面通行の道路を車もオートバイも逆走していたため一方通行の道路と勘違いした。インドネシアのスラバヤでも、オートバイの運転マナーはこれほど酷くなかった。

 

ハノイから100km位遠ざかると道路の交通量が減り、やっと地方道を走行している感じになる。正月直前の道路に国旗の横断幕を付けた飾り付けが通過する町々であった程度の記憶しか残らなかった。

 

ハザンの町が100km程度に迫ると周囲の景色が変わってきた。平地から突然そびえ立つ小山が多くなった。石灰岩の地層が長い年月の風雨で浸食されたためだろう。 300kmの道のりながらハノイから8時間近くかかってハザンの町に到着した。

(ハノイ空港の出入国管理は比較的厳格だった。入国審査に1時間ほど時間がかかった。写真は空港ビル入国審査前の列)

 

 

(ハノイ中心部の下町。ベトナムの町では電柱が無いので景観がすっきりしている)

(ハノイからハザンへ向かう途中の町にはベトナム国旗の横断幕)

 

(ハノイからハザン=Ha Giangに向けてレンタルバイクで走り出す。ハザン手前100kmぐらいから写真のような山々が見え始める)

(ハザン県への入口門)

 

ハザン・ループ(Ha Giang Loop)一泊二日の走破(300km

新年はハザンの町で向かえた。元旦でも平日のように商店が営業している。西暦の正月元旦は現地の人々には平日と変わらない。旧暦の正月(120日頃)が現地の人達には新年を祝う大事な行事である。

 

ハザンのホテルで少し腹立たしいことがあった。家族経営のホテルだった。当方が、家族の一人である中年女性にバイクを何処に駐輪してよいかグーグル翻訳で尋ねたが、ほとんど無視される。そのホテルの横も同じ家族が経営する食料品店だった。

 

同店舗で食料品を買った際に、ハノイで買った冬用の手袋を置き忘れたと思い、店番をしていた同じ女性に<当方の手袋が店のどこかに置き忘れていたら、取り置きしておいてほしい>とグーグル翻訳でまた依頼した。 これも無視された。

 

店の他の客とは長話しているのに、何故この女性は当方の話に耳を傾けないのだろうと当方は怒った口調で再度その女性に日本語で問いただしたら、やっと聞く耳をもった。

 

全長約300kmのハザン・ループ(周回道路)は狭い山岳道路である。深い山の中には山腹を段々畑にして農業で生計を建てている人が多いのだろう。山里の集落の民家はどれも小さい。

 

伊豆半島の山岳地帯にあるような狭い道だ。、小型のマイクロバスや土砂を運ぶ大型ドラックも通行するが、ほとんどは地元の人が小型オートバイで通るか、観光客がレンタルした小型バイク位しか通行しない。連続した登り坂のカーブを突き進むと視界が広がり、雲がかかった山々の姿が見える。深さ数百メートルの断崖を眺めると足がすくむようなところもある。

 

このルートを2泊~3泊かけてツーリングする人もいるが、当方は周回ルート(ループ)の中間地点であるドン・バン(Dong Van)の町で一泊したのみだった。

 

ドン・バン(Dong Van)の町では宿探しに苦労した。いつものように事前の宿の予約なしだった。簡単に宿は見つけられるだろうと思ったが、正月休みの観光客で多くの宿は満室状況だった。 5~6軒のゲストハウスを訪れたが、満室かハザンの2倍ぐらいの料金を提示してきた。

 

やっと見つけたゲストハウスは古く、暖房設備も無い所だった。その割には割高な価格を提示してきた。 当方はオーナーの女性に<この宿の古さと設備では部屋料金が高すぎる。値引きするなら宿泊しても良い>と申し出たら、女性オーナーは価格を大幅に割り引いで応じた。

 

周回道路のツーリング2日目になると風光明媚な絶景にも目が慣れて、多少の事では驚かなくなるが、ハノイから一般道路を丸一日かけて、訪れる価値が十分あった。

(ハザンの町中を流れる川。温泉町の雰囲気があった)

(ハザン・ループ=Ha Giang Loopの道。社会主義国家らしさがあるスローガン看板。)

 

(山の中腹の段々畑)

(深い谷間と見晴らし台の建物。谷間の川には小型の観光船)

(道路脇から眼下の谷間をこわごわと見下ろす人達)

(道路の横は崖となっている。崖から落ちるのが怖いためセンターライン寄りの道路真ん中を走ってしまう)

(寒かったドン・バン=Dong・Vanの町)

(ハザン・ループの景色の一つ)

(ハザン・ループ内の棚田を建設機械で作る)

 

ハザン(Ha Giang)~ベト・クアン(Viet Quang)~ラオ・カイ(Lao Cai180km 

ハザン・ループの後は、ラオス国境に近い北部山岳地帯のサパ(Sapa)を目指すことにした。

サパには複数の山岳民族が集まる市場が(Market)がたつと言う。 しかし考えが甘かった。

サパはハザンより標高が高く、冬場に雪が降る山もあると言う。 

 

サパの手前のまだ標高が高くない平地のラオ・カイ辺りで、持っていた服を全部着込んでも夕方のオートバイ走行は寒い。

前述のベトナム在住歴25年のO氏の言葉を借りれば、<サパはハザンより寒いところなので、行く前に(気温等を)調べた方が良い>と忠告を受けていたが、その通りであった。

 

結局サパへ行くことをサパ手前40km50kmで断念。より暖かい南東方向(ハノイ方向)へと進路を変更した。

 

ベトナム北部の一般道は交通量が少なく、レンタルバイクでのツーリングは快適であった。大きな町以外には信号機が無いため、走行中にオートバイを止める必要はない。

 

この区間では珍しく小雨が降った。もっとも未明から午前中にかけての小雨だったので、この時はホテルで雨があがるまで待った。雑貨屋で日本の100円ショップで販売しているようなビニール製の薄いレインコートを買い、雨上がりの道路を走行し始めた。 

 

このルートで通過した集落や町の民家は立派だった。3階建ての家もある。茅葺屋根の新築民家でも大きい。日本の県道クラスの地方道はしっかり舗装がされ、一般道から奥に進む農道のような道路でもコンクリート舗装がほどしっかりと施されていた。この豊かさはどこからくるのだろうと思った。

 

ラオ・カイ(Lao Cai)の町は県庁所在地だけあって、町の規模が大きく、東南アジアの国とは思えないほど立派なビルや商店が建ち並んでいた。

(雨上がりは路肩の赤土で道路が赤く染まる)

 

(ラオ・カイ=Lao Caiへ向かう途中の立派な民家)

(屋根は茅葺だが、新築らしい田舎の大きな高床式民家)

(正面のみ三角形の屋根に見せる民家)

 

(ラオ・カイ=Lao Caiの中心部広場。ロシア・地方都市の広場の造りに似ている。広場の周りには立派な建物が多い)


次回はベトナム後半編(ラオ・カイ~ホア・ビン~ニン・ビン~ハロン湾~ハノイ 約800km)

 

以上


 

タイ再入国~パタヤ経由首都バンコクまで440km12/1812/23)とオートバイの海上輸送の準備

 

タイ入国検問所の税関では日本国籍のオートバイの入国を扱うのは初めてのようだった。


 

日本国籍のバイクは前例がないので一時輸入許可証の作成が難しいと当初税関係官にいわれた。 

しかしながら、当方は前月にマレーシアからタイへ入国した際にはタイの国境検問所で一時輸入許可証を作成してもらったことをパスポートの入出国印を示して伝えると、税関職員は書類を作成してくれた。

その書類をもって複数の税関窓口を回ったが、入国できた。


 

タイへ再入国すると前回の入国時と異なる感じをもった。 タイがすごく先進国に見えてきた。コンビニ(7-11)はあるし、好きなものはすぐ手に入り便利だと感じた。また道路も立派だった。


 

国境から約300km先のパタヤへと向かった。タイ入国時に書類作成やオートバイの保険加入でお世話になったイギリス人が経営する宿(Plodd Stop)に投宿することを事前に連絡しておいた。


(タイへ再入国後、パタヤへ向けて高速道路並みの片側2車線の幹線道路を走り出す。道路の路肩まで

舗装が行き届いてタイのインフラ充実度を再認識した)

 

(タイ再入国後、当日国境から約300km走行。夕刻にパタヤに近づき、パタヤ市内の高層ビルが見えてきた)

 

 パタヤのオーバーランダー(Overlander)向けのゲストハウスPloddo  Stop 

 

経営者のDavid Goodchild氏自身がオーバーランダー(Overlander)だった。 オーバーランダーとはオートバイや車で陸路のツーリングを行う人々の事をさす。

同氏はメルセデスベンツのトラックハウスを運転してモンゴル・中国経由タイとイギリス間を往復する等の数々の国際ツーリングを行っている。

そしてパタヤの宿(Plodd Stop)はオーバーランダー同士が情報交換できるようにと趣味で宿を経営するに至ったと言う。 既に25年パタヤに一年の内半年暮らしている。当方は同氏と同年ということもあり、気が合った。日本人ライダーが同宿に投宿するのは初めてのことだと同氏から聞いた。


 

イギリス流の全てが整った小ぎれいな部屋で一泊400バーツ(約1,600円)と相場より安い部屋を提供している。

同宿には3泊した。バンコクで次のツーリング地インドへとオートバイ海上輸送する準備のため、オートバイを洗車したり、サイドバック等の荷物ケースも洗ったりと色々やることがあった。観光する時間は無い。


 

同宿には当方一人しか宿泊者がいなかったが、23日後にイギリス人のオーバーランダーがインドから到着する予定になっていて、当方は同イギリス人とインド等について情報交換をお願いするつもりでいた。


 

しかしながら、インドへの海上輸送の手配を依頼しているロジスティックス会社から、今すぐバンコクへ来てオートバイの輸送手続きを行えば今年中にバンコクからオートバイを送り出せると連絡を受け、急遽パタヤからバンコクに向かうことになった。

結局インドから来るイギリス人オーバーランダーとは一日違いで合えずじまいになった。

(パタヤのオーバーランダー=Overlander向けの宿 Plodd Stop。大型のキャンピングカーを駐車するスペースもある)

 

(Plodd Stopの3階屋上テラス。パタヤ市でも郊外のため都会の喧騒は無い)

 


(Plodd Stopの経営者David Goodchild氏)

 

パタヤからバンコクへの移動、そしてバンコクでのオートバイのインドへの海上輸送の準備

 

パタヤからバンコクまでは130kmと近い。高速道路も通っているが、オートバイは高速道路の走行が禁止されているため、一般道にてバンコクへ向かう。パタヤからバンコクは家並みが続き、信号も多くまた、交通量が多い混雑した道だった。

 

9月下旬にクアラルンプールからスタートした自分のオートバイを使った東南アジアのツーリンはバンコクで終了。走行距離は約9,200km。 インドネシアでのレンタルバイクでのツーリングを含めると約11,400kmの走行距離となる。

 

バンコクでは前回滞在した時と同じ宿(12/14 HOME STUDIOと言う名のゲストハウス)に投宿。

勝手知った宿は居心地よかった。またオーナーのタイ人が英語が堪能で、いろいろ教えてもらえたり、また話し相手になってもらえるメリットもあった。

 

バンコク到着の翌日、バンコク郊外の指定の梱包倉庫にオートバイを持ち込み、木枠梱包を開始した。

木枠だけの簡単な造りの梱包で、当方が現場に留まっている間の約2時間ほどで、梱包作業を終了する。

 

翌日は荷物の通関予定だと言う時にロジスティックス会社(兄姉妹の3名で行っている小さな会社)から

予定していた本船の予約が満杯で取れず、ほぼ一か月後出航予定の本船に荷物を載せることを提案してきた。

 

この期に及んで予定していた本船に載せられないのでは、はしごを外されたようなものだ>と当方との連絡をオーストラリヤに居住しながらリモートで顧客との連絡や船会社との交渉を担当する姉妹の一人に文句を言った。

 

説教口調になってしまったが、<仕事の段取りが悪く、ワークフローの順番が間違っている。荷物を載せる船を確保してから、梱包作業の日程を当方へ伝えるべきだった>と言うと、その女性は<自分には責任がない>と言いだした。 この会社にオートバイ輸送を任せられるだろうかと当方の頭に疑念が横切った。


木枠梱包を開梱してオートバイを取り出して持ち帰るべきか、他の業者を使い航空便でネパールへ輸送すべきか等、当方は色々考えをめぐらせた。 


いずれにしても本日出来ることは少ないので、ロジスティックス会社の女性へは<出来るだけ早い日程で船積みするため、他の船会社にも予約状況を当たってほしい>と依頼して連絡を終え、ガッカリしながら宿に戻った。

 

夜になると同女性から他の船会社で船積を当初予定の日程で予約できたとの連絡があり、当方はホットして胸をなでおろした。

しかしながら、翌日荷物の通関の立会検査のため税関へ向かう途中に、またその女性から連絡が入った。 内容は<船会社が一時輸入許可証の書類ではオートバイの船積は出来ない>と言っているとのことだった。

 

<この期におよんで何をいいだすのか>と当方は飽きれた。

税関係官の立会検査終了後に同女性にその後の状況を確認すると<当方に連絡するのを忘れていたが、問題は解決した。>との事であった。

 

荷物を載せた本船の出航が確認ができるまでは、まだ安心できないと感じる。

 

バイクをインドへ輸送する約2週間強の期間を利用して年末から急遽ベトナムへ行くことにする。


(インド・ムンバイへの海上輸送のため木枠梱包されたオートバイ)

 

(バンコク港での輸出通関検査のためトラックで持ち込まれた木枠梱包のオートバイ。税関係官が

オートバイの車体番号とエンジン番号を確認する際、当方も検査に立ち会う)

 

(税関検査後に通りの屋台でおもちに似た格好の食べ物を買う。餅の中には野菜が入っていた)

(バンコク郊外のオートバイの梱包会社からの帰りは列車でバンコクへ戻る。約20kmの

距離の列車料金は6バーツ=25円。バンコク中心部Phaya Thai駅)

 

以上

 

マレーシアからタイ入国~首都バンコクまで約1,400km(2022年11/14~11/20)

 

マレーシア東北部のコタ・バル(Kota Bharu)に近いランタウ・パンジャン(Rantau Panjang)国境からタイ側のスンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境へと陸路でタイに入国後、一週間かけてタイ領マレー半島を首都バンコクまで走行した。

 

スンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境からタイ入国~パッターニー(Pattani)~ナコン・シ・タマラート(Nakhon Si Thammarat)~スラー・ターニー(Surat Thani)~チュムポーン(Chumphon)~フア・ヒン(Hua Hin)~バンコク(Bangkok)の順のルート。

 

(タイの地図。地図の下部がマレーシア。赤線がタイ入国からバンコクまでの走行ルート)

 

イスラム圏から仏教圏へ

 

タイ入国から最初の宿泊地であったパッターニーはタイ最南部であり、イスラム色が強い地域だった。モスクが多く、人々もイスラム教徒の服装をまとっていたが、ナーコン・シ・タマラートまで北上するとモスクが仏教寺院にとって代わり、仏教国タイに入国した実感がした。

 

道路沿いには立派な仏教寺院や仏塔が目につくようになり、いかにタイの人々が仏教を大事にしているか感じることができた。詳細は調べていないが、鶏を祀った寺院が多いことに驚いた。

 

道路沿いに高さ2m~3m位の鶏の像が10m間隔で複数立っていた。近くに養鶏場があるのかなと思い、鶏の像に導かれるように幹線道路から横道に入り込むと、そこには大きな鶏の像が寺院の正面に仁王像のように立っていた。 

(高さ5mほどの鶏の像が立つ寺院)

 

(高さ15m位ある巨大な鶏の像もある。車の大きさから像の大きさが判る)

 

タイの幹線道路状況

 

タイの幹線道路は立派である。余裕を持った車道幅がある片側2車線道路で、制限速度は時速90kmと高速道路並みである。

 

ただし、幹線道路は道路沿いの家並みや生活道路ともつながっているため、突然横道から車が幹線道路に入ってくるとドッキとする。道路沿いの道路や家にも注意を払いつつ高速走行する必要がある分、神経を使う。

 

平地が多いためか直線的な道路が多い。効率的な道路ではあるが、景色の変化に乏しいため、オートバイでのツーリングとして面白みに欠ける。

(直線的な主要幹線道路は高速道路並みだ。中央分離帯は幅15m位の溝になっている。)

 

有料高速道路(Toll Express Road)はオートバイ乗り入れ禁止

 

タイの有料高速道路はオートバイの乗り入れが禁止されている。もっとも有料の高速道路はバンコク首都圏以外には無い。

 

当方はバンコク到着初日に危うく有料高速道路に入りかけた。料金所手前でUターンして有料高速道路に入らなかった。現場にいた警察官が当方を呼び止め、運転免許証を提示を求めてきた。

 

同警察官は当方に反則金のチケットを切ろうとするが、当方の国外運転免許証を見てめんどくさく思ったのか、あるいは当方が世界ツーリング中であるといろいろ説明したことが奏功したのか不明だが、無罪放免となった。

 

しかし、その翌日、当方が夜間にカーナビが誘導するままにバンコク郊外からバンコク市内へ入る道路に入ったら、東京の首都高速道路のような高架の高速道路となっていた。その高架道路を10km程度走行後に料金所が現れた。高架の道路から一般道に降りる道は見当たらない。料金所の係の通報を受けて、警察官がどこからともなくスクーターで来た。その警察官に反則金を支払った。 同警察官は当方に運転免許証の提示を求めず、単に反則金チケットの裏表紙に1,000(約4千円)バーツの文字を書き込んで<払え>と言う。

 

当方が<そんな大きな現金は持っていない>と小銭用の財布の中身をみせると、警察官は当方の小銭入れにはいっていた400バーツ(約1,600円)を受け取り、ポケットに入れる。私的に流用するのだろう。警察官が先導するスクーターの後に続き、下道へ降りた。警察官の顔には微笑みがあった。

(高速道路の料金所付近で警察官を待つ)

 

雨季から乾季への変わり目

 

マレー半島部のマレーシアでは乾季から雨季へと季節が変わろうとしていた。タイ領マレー半島部分では

半島の西側(インド洋側)と東側(タイ湾=南シナ海)では雨季と乾季の時期がが異なるようだ。当方が走行した半島東側(タイ湾側)は、まだ雨季の最中であった。しかし雨季と言っても昼間と夜間にスコールのような雨がそれぞれ1~2時間降る程度であり、ツーリングには大きな問題は無かった。1時間ほど雨宿りしたり、短い距離を雨具を着て走行する程度だった。

 

マレーシア出国からタイ入国~パッターニ(Pattani)220km

 

国境通過

 

マレーシアの北東部の主要都市コタ・バル(Kota Bharu)から約50km弱の走行でマレーシア側の国境の町ランタウ・パンジャン(Rantau Panjang)に着く。国境手前のガソリンスタンドで手持ちのマレーシア・リンギット(マレーシア通貨)を利用して、オートバイのガソリンタンクを満タンにしてから出国手続きをとる。パスポートチェックはオートバイに乗ったままオートバイ専用レーンで行う。いたって簡単だ。

 

しかしながら、オートバイをカルネ(Carnet de Passage en douane)を使ってマレーシアへ輸入したため、関税係官に同カルネに出国押印と署名してもらう必要があった。係官はカルネの扱いに慣れていないため、手続きを終了するのに30分程度時間がかかった。

 

タイへの入国手続きが上手くいくか気になった。2019年ごろからタイでは近隣諸国以外の外国籍車両をタイに持ち込む場合には地元のガイド同伴が義務化される規制が導入されたからである。ただし国境によって、その規制の運用が緩い。

 

スンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境は規制が緩い国境のひとつだと聞いていた。フェースブックで知ったタイのパタヤで外人オーバーランダー(自ら運転する車両で旅をする人)向けの宿を経営するイギリス人にタイのバイク保険や車両での入国書類(TM2の名称の書類形式)を事前に整えてもらいタイへの入国を試みる。

 

果たしてうまくいくだろうか?と少し心配した。パスポートの入国審査は簡単だった。果たして税関で外国籍オートバイを問題なく通してくれるだろうか。税関係官はせっかちな男だった。

 

当方が<このような短期輸入許可書(Temporal Import Permit)を作成してほしい>と上述のイギリス人からもらった見本書類(他の外国人あてに過去に発行された短期輸入許可書のコピー)を同係官へ見せると、係官はその見本を当方の手から奪い取り、<この書類は出国時に税関に返却せねばならいのに、なぜ当方がもっているのか>と非難するように問いただす。

 

当方は、<見本はコピーであり、オリジナル書類は返却されたはずだ>と言っても、同係官はなかなか納得しない。最後まで当方の説明をよく聞かないからだ。同係官が当方の説明に納得するのに時間がかかった。当方は余分な書類は見本であっても係官に見せるべきでは無かったと反省する。

 

一時間半ぐらい時間がかかったが、何とかタイへオートバイと共に入国することが出来た。スンガイ・コロクは国境の町しては寂寥感がなく小ぎれいで活気ある町だった。ここで地元の銀行ATMでタイパーツをクレジットカードを使用してキャッシングする。

 

また、手持ちのマレーシア紙幣も両替商でタイ通貨に両替する。同時にタイの携帯電話用シムカード(SIM)も買う。30日間データー回線及び国内通話使い放題で250バーツだ(約1,000円)。使い放題のデーター回線SIMがあると行先々の宿でWiFiがあるかどうか気にせずに済む。

 

マレーシア国境に近いタイ南部ではイスラム教徒が多数派だ。過去に政治問題を起しているらしい。その為、ガイドブックでは治安が悪い地域とのレッテルが貼られている。

 

この地の幹線道路では約30kmごとに武装警察官が通行車両を検問していることから治安が良いとは言えないだろうが、当方のような旅行者には判らない。 

 

イスラム色が強い投宿したパッターニー(Pattani)の町では治安が悪いとは感じかなった。町では人々が普段の生活をしていた。投宿ホテルでも治安状況については一切の言及は無かった。

(マレーシア側の国境検問所ランタウ・パンジャン)

 

(タイ側のスンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境検問所)

 

(パッタニー=Pattaniの市内中心部へ入る手前の門)

 

(パッターニ=Pattani市内中心部の時計台はモスクのミナレット=尖塔に似る)

 

パッターニー(Pattani)~ナコン・シ・タマラート(Nakhon Si Thammarat)290km

 

日中に雨が降るようになった。マレーシアでは夕方から夜間にかけてスコールがあったが、この辺りでは降雨の時間帯が異なる。300km近く走行すると、走行途中には雨の地域もあるが、大体は1時間程度のスコールだ。ただし降雨量が多いため、道路が乾くのを待つと更に一時間程度雨宿りすることになる。

 

タイ国境から200km~300km北のこの辺りになると、仏塔や仏教寺院が沿道沿いに目立ち始める。モスクは見かけないし、道行く人もイスラム教徒の服装ではない。仏教国タイへ来たと実感する。また、道路上の検問所も無くなる。

(道路沿いには巨大な仏像がある無名な寺院もあった。)

 

(ヤシの実ジュースを飲んだ後に、ココナッツミルクの原料となるヤシの実の白い部分を食べる。ヤシの実はひとつ40バーツ=約160円)

 

ナコン・シ・タマラート~スラー・タニー(Surat Thani)155km

 

ナコン・シ・タマラートにこの地域では二番目に大きい高さ50m強の仏塔がある有名寺院(Wat Phra Mahathat)を見学するため、本日の移動距離を短くする。

 

オートバイのエンジンオイル交換のタイミングが来ている。エンジンオイルを交換するため、オートバイ修理工場等を探す時間も欲しい。スラー・タニーのホテルに午後の早い時間に到着したおかげで、ホテル近くのオートバイ修理工場でヤマハ純正のエンジンオイルに交換する。料金は工賃を含め600バーツ(約2,400円)

 

投宿したホテルの外観は立派だが、宿泊客がほとんどいない。全室60あると言うが、数名程度の宿泊客しかいないのではと思う。この地域は外国人観光客はほどんど来ないのだろう。コロナ禍から宿泊業の回復は感じられない。

(ナコン・シ・タマラートの高さ50m強の巨大仏塔)

 

(宿泊客が非常に少なかったスラー・タニーのホテル)

 

(スラー・タニーのホテル近くの雑貨店ではアンパンが20バーツ=約40円で販売されていた。)

 

スラー・タニー~チャムポーン(Chamuphon)240km

 

驚いた(感激した)ことが一つあった。走行開始して100kmも経ない内に、連日の移動で疲れてきた。とにかく休憩したかったので、幹線道路を逸れて、小さな町へ入った。

 

最初に目に入った食堂で<休憩させてくれ>と頼んだ。まだ昼食前の時間だった。少しお腹がすいてきたが、昼食をとると眠くなるので、あえて昼食は取らないようにしている。

 

暖かいスープを頼んだ。当方は半分の飲みかけのコカ・コーラのペットボトルを手にしていた。顔が穏やかなそのこ女将は当方の飲みかけコカコーラのために氷とコップを用意してくれた。

スープ代金の支払いを頼むと、<お金は不要です>と言うのではないか。

 

当方がお金がないように哀れに見えたのか、余程疲れた顔をしていたのか知らないが、見も知らずの外国人に無料でサービスを提供してくれる態度に感動した。

 

チャムポーンの最初の投宿候補の宿では管理人と思われる目つき悪い年配の女性が宿の設備を説明するも、一方的にまくし立てて、当方の話を聞かない。当方の話と言ってもグーグル翻訳を使っての文章だが。

 

このような接客態度の宿では適切なサービスは受けらないと判断して、他の宿を探すことにした。

 

投宿を決めたゲストハウスはオーナーの良い人柄を反映して、期待通りのリーズナブルな価格、良好な設備とサービスがあった。

 

チャムポーンはタイ領マレー半島で最小の幅(60km強)に立地している。過去、この場所に運河を作って南シナ海とインド洋を運河でつなぐ構想が出たと記憶している。

(無料でスープを出してくれた食堂)

 

マレー半島で幅が一番狭い位置に立地するチョムポーン)

 

(チョムポーンの夜店通りで見つけたあんこを販売する甘党の屋台)

 

チャムポーン~フア・ヒン(Hua Hin)300km

 

前泊した民宿は広大なヤシ林の中にあるコッテージ風の宿であった。ヤシ林を散策出来きる。敷地内の池のほとりにある別棟のコッテージは趣味が良く作られていた。長期滞在にはもってこいの民宿(Guest House)だった。

 

フア・ヒンへ向かう途中に2カ所で雨に遭遇。一回目は雨宿りしたが、2回目の降雨時は雨宿りをせずに雨具を着て走行。宿探しもあるので早く目的地へ到着したかった。

 

ホア・ヒンに到着したのは16時ごろだった。しかし、普段のルーティンでは行わないことを行ってしまったため、2時間以上の時間ロスで、投宿ホテルのチェックインが20時ごろとなってしまった。

 

宿泊候補のホテルの受付でオートバイで旅をしているドイツ人と意気投合した。そのドイツ人も本日の宿を探していたため、一緒に宿探しの行動をとった。単独行動を基本とする当方は他人と同伴行動をとるべきではなかった。

 

そのドイツ人が見つけた宿泊候補地をオートバイで一緒に2カ所回っているうちに夜になってしまった。結局そのドイツ人と分かれ、当方が納得いくホテルを探して投宿した。

 

フア・ヒンは国王の別荘がある落ち着いた保養地としてタイ国民の間でも人気がある町だ。

バンコクの南約200kmに立地するタイ湾に面した町だ。バンコクから自動車での交通の便も良い。

 

日本の関東地区で言えば、三浦半島の逗子・葉山だろう。

 

連日の疲れをいやすため、当方はフア・ヒンに2泊した。この町にはインドネシアのバリ島のように欧米の外国観光客の姿が多い。

(チョムポーン=Chomuphonで投宿したゲストハウスAriya Garden House 敷地内のヤシの林)

(敷地内の池にほとりに立つAriya  Green Houseの別棟)

 

(落ち着いたフア・ヒン=Hua Hinの住宅地)

 

(丘の上の展望台から見たフア・ヒン=Hua Hinの海岸線。高層のホテルが目立つ)

 


(フア・ヒンの丘の上の展望台には多くの野生サルがたむろしていた。当方が目を離したすきにオートバイのハンドルに

付けていたボトル・ホールダーからコカ・コーラのベットボトルに入れていた水を野生の

サルに持ち去られてしまった。)

 

フア・ヒン(Hua Hin)~首都バンコク(Bangkok) 220km

 

バンコク首都圏へ向かう道路の交通量は多い。片側3車線の高速専用レーンの他にも2車線の側道がある。つまり合計片側5車線があると言うことだ。ルート上に渋滞している箇所はないものの、十分な車間距離が取れないぐらい近距離で前後の車が走行している。 オートバイでは走行したくない道路だ。

 

インターネット上でバンコクの日本人宿についての記述を見つけた。バンコクの中心部にある割には部屋料金が安いので、電話で日本人宿に問い合わせた。

 

一番の老舗の日本人宿は廃業していた。コロナ禍のせいだろう。2つ目の日本人宿へは現場までオートバイで行ったが、オーナーやスタッフが不在で敷地内に入れず。門柱に書いてあった連絡先へ電話しても誰も電話には出ず、タイ語で留守録が流れるのみ。

 

翌日、インターネット上の同ゲストハウスへの問い合わせ書式を使って、下見が可能かどうか問い合わせすると、<60歳以上の男性の宿泊はお断り>との返事が来た。

 

当方は郊外のインターネット予約サイトで評判が良いゲストハウスに投宿することにした。<12/14 Home Studio>と言う名のゲストハウスだった。

 

オーナーは英語が堪能な30代のタイ人兄弟。当方がオートバイで世界ツーリング中であり、宿泊費用を少しでも安く抑えたいと今までのツーリングの説明を説明すると、気前よく部屋料金を800バーツ(約3,200円)から500バーツ(約2,000円)へと割り引いてくれた。

(主要幹線道路沿いで目立った日系トラックメーカーの販売店。タイでの販売シェアはトヨタに次ぐと言う)

(バンコク市内の幹線道路は慢性的な渋滞だ。オートバイでの車と車の間のすり抜けも難しい)

(バンコクで投宿したゲストハウス 12/14 Home Studio)

 

次回はバンコク滞在記から

 

 

 

ラオスからカンボジア入国~アンコールワット見学後、首都プノンペンを経て最南端のタイとの国境へ 1,200km12/1212/18

 

ラオス南部の都市パクシ(Pakse)から約150km南にノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名の国境がある。その国境からカンボジアへ入国後、ストン・トレン(Stung Treng)~シエム・リープ(Siem Reap)=アンコール・ワットの観光地~首都プノンペン(Phnon Penh)を経てタイとの最南端の国境コー・コーン(Koh Khong)のルート辿る。

 

当初10日~14日間程度のツーリング日程を考えていたが、バンコク(Bangkok)からインドのムンバイ(Munbai)へオートバイを海上輸送するため、あまりのんびりしていられない。 そのためカンボジアは7日間のツーリングとなった。

 

カンボジアの目当てはアンコール・ワット(Angkor Wat)の見学だった。また、ベトナム戦争当時やカンボジア内戦時のニュースで首都プノンペンの名を度々耳にしたのでプノンペンにも興味があった。

 

カンボジアについては当方は事前の知識が欠如していた。あまりにも無知だった。世界的観光地のアンコールワットがあるくらいだからラオスより豊かだろうと思っていたが、実態はその逆だった。


カンボジア入国時の税関職員の国辱とも言えるたかり体質にはうんざりした。公務員の職務を忘て私利私欲に走る税関職員の対応には憤りを感じ、カンボジアに対するイメージが当初は一気に悪くなった。

 

他方、首都プノンペンではカンボジア経済の復興のシンボルともいえるカンボジア証券取引所を訪れた。証券取引所の職員から見学を薦められたカンボジア内戦時の収容所を訪れた。

 

ポーランドにあった第二次世界大戦時のナチスドイツよるアウシュビッツ収容所を5年前に見学したことがあったが、プノンペンの内戦時の収容所の方が冷酷、非人道的な収容所だと感じた。

 

後述するが、当時この収容所で何が行なわれていたか、説明を耳にすると吐き気をもよおしそうになり、気分が悪くなるぐらいショッキングな場所であった。

(ストン・トレン=Stung Trengからシエム・リープ=Siem Reapへ向かう地方幹線道路にはわずかの車の往来しかなかった)

(ストン・トレン=Stung Treng付近のメコン川は海のように川幅が広かった)

(左側はカンボジアの走行地図。右側はインドシナ半島全体の走行ルート)

 

カンボジア入国手続きで難儀(Nong Noi KheaneTrapaeng Kreal) 

 

ラオスのパクセ(Pakse)から150km程南下してラオス側の国境の町で一泊後、翌日朝一番でカンボジアへ入国することを計画していたが、当日国境の町へ昼頃到着したため、国境の町では宿泊せず、一気にカンボジアへ入国することにした。

 

ラオス側の国境検問所の場所はノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名だ。カンボジア側の国境検問所はトラパン・ケアル(Trapaeng Kreal)と言う。同じ場所だが、それぞれの国では別の名前を付けている。

 

ラオスからの出国手続きは10分程度で済み簡単だった。税関で2米ドルの不当なお金を要求されたが、当方がノー・サンキュー(No Thank you)と無視すると税関史は何も言ってこなかった。不当な金銭の要求は全て断っている。

 

この調子ならカンボジア入国も簡単だろうと期待したが、そうではなかった。

この国境での当方のような外国籍のオートバイでの通過については情報がほとんど無かった。

 

タイ入国ではお世話になったパタヤ在住のイギリス人からは、<この国境から外国人ライダーがカンボジアへ入国するケースはあまり無いので、ダメもとで入国を試みてくれ>とのアドバイスだった。

また、<仮に入国出来なかったら、ラオスのパクシへ戻り、パクシからタイへ出国後、タイからカンボジアへ容易に入国する方法がある>と同氏は付け加えた。

 

カンボジアの国境検問所では、少し日本語を話す外見上は税関係官のような男が当方に声をかけて税関事務所へ案内する。

 

当方は税関史だと思ったが、後で税関とグルになっている民間人だと判った。 この男が、税関の部屋へ当方を案内して、税関係官の前で税関費用は70米ドル(約9,000円強)だという。70ドル米ドルはカンボジアの平均労働者の10日~2週間分の給与に匹敵する金額だ。

 

当方はその男へ、<米ドルは持っていない。持っているのはラオスのお金だ。>と言って財布の中身を見せると、その男は無造作に当方の財布からラオスの札を抜き取り、数えはじめた。当方が持っていたのは50米ドル程度(約7千円)のラオス通貨だった。 (米ドルの現金は緊急時用として持っているが、通常は秘密にしている)

 

当方は、<何をするか!他人の金を勝手に数えて>と、その男に文句を言いながら、お金を奪い返した。

そして、<税関にはお金は払わないし、払う義務は無い。税関は他国のように無料でバイクを通関させる書類を作成する義務がある>と持論を唱える。

 

その男は<一時輸入許可の書類を作成するための申請書を所定の形式でウェッブサイト上で作成せねばならない。その為の費用だ>というが、当方は<領収書を出せないお金は支払わない>とその男の要求をつっぱねる。そんな言い合いを繰り替えしたが、全く進展が無い。

 

当方が<日本大使館と相談する>と言い出すと、他の税関史が<上司が来るので待ってほしい>と言う。

しばらくして、税関長と名のる男が来て当方へ<税関では一切お金は請求しないが、自分で一時輸入許可書の作成の可否を審査する申請書をウェブ上で作成してください。その申請書に基づき、私が一時輸入を許可するかどうか審査します。>と言う。

 

< ええ?ウェブ上で申請書を作成する?>当方は数多くの国境を越えてきたが、そんな事は今まで聞いたことも、やったことも無かった。

 

税関史は当方がどのように出るか伺っているようだった。そしてどこかへ行ってしまった。 当方はどのウェブサイトでどのようにするか判らない。他の税関職員も非協力的だった。 全員がグルになって事情に疎い外国人からお金を巻き上げることを考えているようだ。 

 

後日フェイスブックの情報交換グループに投稿したら、<おれは税関で200米ドル払ったとか>、<40米ドルで済んでラッキーだった>等の反響があった。

 

事実、当方は米ドル紙幣を含む札束の金額を数えている税関職員を目撃した。その税関職員は当方が見ていることに気づき、お金を数えるのをやめて、当方から見えない場所行ってしまった。

 

その税関建物内には<日本国民からの贈り物>と英語で表示してあった手荷物のX線検査の機械があった。不法な金銭の要求にまみれた税関に、日本政府からの無償援助に腹立たしさを覚えた。

 

ラオスのSIMで当方のスマホがインターネットに接続できたため、ウェブ上で申請書の記入を試みた。

しかしながら、手続きするウェブサイトが途中で止まり、申請書作成まで辿り着けない。そして、当方が文句を言い続けているのに対して、税関史は何か思ったのか<無料で申請書を作成する>と言い出す。

 

当方はビザ代(35米ドル相当額をラオス通貨支払う)以外のお金は払わなかったが、この国境検問所を通過するのに3時間弱かかってしまった。 

 

その間、この国境を外国車両で通過した外国人は誰もいなかった。

3時間の間に、この国境検問所にはラオス側からとカンボジア側からそれぞれ一回づつバスで到着した十数名程度の外国人が通過したのみだった。閑散とした国境検問所だった。 

 

税関職員を含むここで働く職員は暇を持て余し、スマホでゲームに興じたり、飲食や仲間とのおしゃべりで時間をつぶしていた。また、税関長は国境検問所に詰めているのではなく、自宅にいる様子だった。

 

職員が必要な時にバイクで税関長宅へ行き書類の決済を仰いでいるようだ。このような税関職員の勤務状況で、この国の発展は大丈夫だろうかと疑ってしまう。

 

また、この税関職員は近隣住民からの採用のようだ。当方が国境検問所から数百メートルも離れていない

食堂兼両替店でラオス通貨を両替していたら、先ほどまで税関事務所にいた税関史が小さな子供抱いているのではないか。

 

家族が自宅で商売を行い、本人は税関に勤務しいるのだろう。税関史は国家公務員だと思うが、近隣住民からの採用で優秀な人物が採用できるだろうか。

 

カンボジア側の入国手続きに時間がかかったため、国境から一番近い70km先の町へたどり着くまでに日没となり、車の通行がほとんどないダート道を2時間程度かけ埃まみれになりながら、ストン・トレン(Stung Treng)の町へ到着した。 

(カンボジア側Trapaeng Kreal国境の国境検問所建物)

(夜に到着したため、よくわからなかったStung Trengの中心部。車の往来は少ない)

 

カンボジア観光の一押し。アンコールワット(Angkor Wat)遺跡群の見学

 

シエム・リープ(Siem Reap)と言うカンボジア入国2日目に到着した町の近郊に、ユネスコの世界遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡群が数キロメートルの広い範囲で点在している。

 

当方はシエム・リープの町に宿をとった。Maps.MeGPS上に表示されていたゲスト・ハウスを5軒探したが、いずれも存在しなかった。コロナ禍中に廃業したのだろう。

 

結局Booking.Comサイトで見つけたゲスト・ハウスに投宿した。 ゲスト・ハウスの名称だったが、設備の大きさからホテルに近い快適な宿泊施設で欧米系の外国人で賑わってた。

 

アンコール・ワット遺跡群は広範囲に点在しているため、オートバイは重宝した。

普通の観光客はタクシーや2人掛け乗用キャビンを牽引するバイク(Tuktukと言う乗り物)等を雇わなければ遺跡群を回れないほど広い。

 

アンコール・ワットは12世紀から約600年栄えたクメール帝国の城塞都市として機能していた。遺跡の周りには水を入れた広い外堀を張り巡らせ、本殿の周りには頑丈な石造りの外壁を備えて外敵の侵入を難しくした。

本殿の上階には石造りの大きなスイミング・プールのような施設が数ヶ所あった。いざと言う籠城時の水の確保かハレームでの水浴に使ったのだろう。 粗づくりの石造りの遺跡ではあるが、その規模には圧倒される。

 

アンコール・ワットの他にも日本政府の資金援助で修復中のアンコール・トム(Angkor Thom)や長い年月で樹木の根が遺跡に絡まったプラサット・タプロー(Prasat Ta Prohm)等を見学したが、規模や保存状態ではアンコールワットに及ばない。 

 

当方が購入した遺跡群への入場チケットは1日券(37米ドル)だった。全部の遺跡を回るには3日間必要と宿で言われたが、朝から一日かけて7つの遺跡を見学して終了した。

(アンコールワット=Angkor Watを外堀から見る。外堀の後ろには屋根がある立派な外壁。そして外壁の背後遠くに本殿建物見える)

(外壁門入口からアンコールワットの本殿建物を臨む。アンコールワットの敷地=外壁の内側かなり広い。外壁入口から本殿建物まで約300m~400mある)

アンコールワット本殿の塔)

(アンコールワットの壁には女官のレリーフ=彫刻が多い)

 

(クメール帝国時代の衣装を身に着けたカンボジアの人達)

(アンコールトム=Angkor Thom遺跡正面)

(アンコール・トムの遺跡側面。建物が崩れていてアンコールワットより遺跡らしく見える)

(アンコール・トムに通じる門)

 

(巨木の根が遺跡に絡まるプラサット・タプロー=Prasat Ta Prohmはインディージョーズの

映画にる出るような遺跡だった)

 

(アンコールワット遺跡群の中の道路)

 

首都プノンペン(Phnon Penh)の内戦時代の収容所博物館(Tuol Sleng Genocide Museum

 

カンボジア証券取引所で面談した若手の職員にカンボジア内戦時代の収容所が博物館になっているので是非見学したらよいと薦められた。博物館の名前はトウール・スレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)と言うショッキングの名前だった。

 

カンボジア内戦は1970年代初頭から1991まで続いた。

クーデターで政権を握った親米右派のロン・ノル(Lon Nol)将軍率いる政権に対して、ポル・ポト(Pol Pot)率いる親中国の共産主義クメール・ルージュ(Les Khmers Rouges)とクーデターで政権から引き下ろされたシアヌーク(Norodom Sihanouk)国王派が共同して戦ったことから始まった。

 

最初の内戦ではロン・ノル将軍派が負けて、ポル・ポト派のクメール・ルージュが勝ち、クメール・ルージュがカンボジアを支配した。

 

この支配が恐怖政治の始まりで、クメール・ルージュが首都プノンペンで政権を握った1975年から1979年の間に170万人とも言われる主に都市部の知識人がポル・ポト政権のクメール・ルージュ派により大量虐殺された。

 

ポル・ポト政権は当時の中国の文化大革命の影響を受けて、農業を中心とした原始共同社会を造ろうとした。原始農業共同体に医者、教師、弁護士等の知識人は邪魔だった。都市部の住民は農村へ強制移住させられ、知識人と言う理由だけで強制収容所に入れられ多くの人が拷問の上、虐殺されたと言う。

 

見学したトウール・スレン(Tuol Sleng )収容所は元高校だった建物だった。そこに12,00020,000名の人々が収容され、確認された生存者は12名だったと言う。同様の極秘の収容所は200か所あったと言う。

 

クメール・ルージュは1979年に反中国のベトナム軍によりプノンペンから追い出され、ベトナムが支援する親ソ連のヘン・サムリン(Heng Samrin)が政権に着いた。

 

しかしながら、親ソ連(=親ベトナム)のヘン・サムリン政権は国際的に承認されず、カンボジアの辺境地に逃れたポル・ポト派(クメール・ルージュ)がカンボジアの正式政権として国連(UN)を始め主要国で認められていたと言う。

 

1991年にカンボジアで和平が成立するまで、サン・ヘムリン派に対してクメール・ルージュとシアヌーク国王派等が連合して、内戦を展開していた。 つまりカンボジアは1970年~1991年までの20年間内戦状態だった悲惨な歴史がある。 

 

内戦を長引かせた理由はソ連と中国の対立、更にソ連と米国との対立があり、カンボジア内戦の当事者達はそれぞれの大国の支援で大国間の代理戦争を展開していたとも言う。

(つりあげ拷問器具で後ろ手に縛りあげた人が気絶すると、拷問器具から降ろして人糞と尿のカメの中に頭を入れて目覚めさせたと言う)

(拷問された人を家畜のように運んだ。この時運ばれていた人はまだ生きていたと言う)

(拷問部屋。ベットに横たわらせて動けないように手足を固定したと言う)

(虐殺された人々の頭蓋骨は証拠品として保管されている)

 

近隣諸国との経済格差は歴然

 

先にタイからラオスへ入国した時には時代が数十年後戻りして、アフリカ諸国に入ったような印象をうけたが、

そのラオスからカンボジアへ入国すると、カンボジアが更に経済的に遅れていることが直ぐに判った。

 

入国したカンボジア国境から一番近い主要都市のストン・トレン(Stung Treng)までの70kmは未舗装のダート道であった。主要都市につながる幹線道路がダートとはアフリカの最貧国と同じだ。

 

アンコールワットがあるシエム・リープ(Siem Reap)と首都プノンペンをつなぐ主要幹線道路にはそれなりの交通量があったが、ストン・トレン~シエム・リープのような地方の幹線道路では車の数はまばらで、自動車が全く普及していないことを示していた。

 

農業人口が多い地方では当方が30年前のタイ旅行時に地方で多く見た耕運機に荷車を牽引させた運搬車に農作物や人々を載せ運んでいた。ラオスでは見かけた小型ピックアップトラックやトラクターはほとんど見かけなかった。

 

交通量が少ないので当方のバイクツーリングは快適だったが、農作物の運搬を始め、人々の暮らしが厳しいことを物語っていた。

 

因みに2021年の統計ではタイの一人当たりの国民所得=年間収入(GDP)は約7,200米ドル(75万円)、ラオスは約2,600米ドル(約27万円)、カンボジアは約1,600米ドル(約17万円)となっている。日本の一人当たりのGDPは約40,000米ドル(約420万円強)だった。

(カンボジア北部は台地に位置するため、乾期には荒地として放置されていた。)

(新築後の高床式民家)

(広い水田。カンボジア中央部は低地のため、湖から水を引いて乾季でも稲作が可能だ)

(カンボジア証券取引所の建物は立派だ。8銘柄の株式が上場され市場時価総額は約5,500億円)

 

カンボジアのゲストハウスはラブホテル?

 

ラオスではMaps.MeGPSアプリに表示されているゲストハウスを頼りに現地で気ままに

投宿を決めていた。

 

カンボジアもラオスのようにGPS上のゲストハウスを頼って宿を決めれば良いと気楽に考えていたが、そうでは無かった。 

 

GPS上のゲスト・ハウスの多くはラブホテルだった。 通りから見えないような曲がりくねった入り口から敷地に入ると車庫付きの部屋へ繋がるゲスト・ハウスがあった。

 

車庫には駐車する車が外から見えないようにカーテンがある。

何故カーテンがあるかと思い、管理人にグーグル翻訳でたずねてみるとやはりラブ・ホテルとのことだった。シエム・リープとプノンペンでは宿は決めるため数軒のラブ・ホテルに迷い込んだ。

(プノンペン市内のラブホテル)

 

町の人々親切だった

 

入国時の税関職員の態度から受けたカンボジアの印象は悪かったが、町の人々は親切だった。

プノンペンの宿ではオートバイを路上駐車していたが、宿の従業員が夜には当方のバイクを宿の店舗内に運び込み、また朝には店舗からバイクを路上へ出してくれた。少し骨が折れる作業を黙々としてくれた。

 

カンボジア証券取引所で面談した職員は前日にメールでアポイントをお願いしたら、即答してもらい面談が可能となった。カンボジアの事について歴史や地理等いろいろ教えてもらった。

 

コー・コンの宿ではカンボジア最後の夜とあって、当方が<手持ちの現金があまりない>と宿の管理人へ伝えると、管理人は宿代を約3割値引いてくれた。

 

バイクで立ちごけした際には、通りすがりの人が助けにきてくれた。助けてくれたカンボジア人は当たり前のことをしたかのように、当方がお礼をいう前にさっさと立ち去った。

 

20年余りにわたる悲惨な内戦を経験したからこそ、相互扶助の精神が強いと感じた。また挨拶もしっかりしている。当方が声をかけても、必ず笑顔で返事が返って来る。外国人慣れしているともいえるが、町の人々は気持ちがオープンとの好印象を持った。

(カンボジア側の国境の町Koh Khongで宿泊したゲストハウス。エアコンが無い扇風機のみ備わったシングルルームの1泊料金は約1,000円だった)

 

カンボジア出国とタイ入国

 

首都プノンペンから最南端のタイとの国境があるコー・コーン(Koh Khong)へ向かった。

 

カンボジア南西部のコー・コン(Koh Khong)はタイのハット・レック(Hat Lek)国境へと繋がるカンボジア側の国境の町だ。 タイへの再入国が待ち構えている。

 

外国籍の車両がタイへ入国してタイ国内を走行するにはタイのガイドを同伴させねばならない規制があるが、国境管理事務所によってはこの規制が徹底されておらず、外国籍車両単独でも入国が可能だ。

 

Hat Lek国境検問所は、規制が緩いと事前の調べで判っていた。果たしで規制が緩いだろうか?

 

カンボジアからの出国は簡単だった。10分程度すんだ。税関だとは気が付かずに、何もしないで通り過ぎたら、既に幅約100メートルの中立地帯をバイクで進み、タイ側の入国検問所手前まで進んだことに気が付いた。

 

入国時に苦労して手に入れた一時輸入許可証(Temporal Import Permit)をカンボジア側の税関へ返却するのを忘れてしまった。 中立地帯を徒歩でカンボジア側へと戻り、税関へ一時輸入許可証を手渡して<これで全て終了か?>と尋ねた。 係官はあっさり<そうだ>と返事をしたのみだ。 手続きらしいことは無く、あまりにも簡単な出国だった。

(カンボジア側の国境の町Koh Knogへ通じる幹線道路は森を切り開いた道路だった。部分的に舗装面が削れて赤土がむき出しになっていた)

(国境の町コーコーン=Koh Khongのクリーク=入り江に面した海岸の夕日)

 

以上

 

タイ北部からラオス入国後、首都ビエンチャンを経て第二都市パクシまで1,500km(12/211

 

外国籍の車両(オートバイ)で東南アジア諸国の国境を通過する場合には色々規制がある。

ラオス入国に関しても、税関で賄賂を要求されたとかと聞くため、国境での入国手続きがスムーズな国境検問所を事前に調べた。 


当方はマレーシアからタイへ入国する際に情報とアドバイスをもらったタイのパタヤ居住のイギリス人からタイ北部のチェンコーンからラオスへの入国が比較的容易であると聞き、そのアドバイスに従った。


ツーリングルートは以下の通り:

タイ・チェーンコン(Chiang Khong)にて出国~ファーサイ(Huay Xay)にてラオス入国~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・ブラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)~メコン川沿いに南下~タケーク(Thakehk)~第二都市パクシ(Pakse

(左側がラオスの地図。右側はインドシナ半島全体地図。赤線が走行したルート)

 

タイとの経済的な格差が大きい

タイ北部チェンコーン(Chiang Khong))からメコン川を渡りラオス領ファーサイ(Huay Xay

へ入った。ラオス入国は初めてだ。どんな国だろうかと興味があった。ラオス領に入るとタイとの経済格差が一目瞭然だった。

 

ラオスの一人当たりの国民所得(GDP per Capita)は約2,500米ドル(約35万円)とタイの1/31/4程度だ。 ラオスの最初の町であったファーサイは、アフリカ諸国の街並みと似ていると思った。道路は舗装してあるもの広い路肩の赤土の未舗装部分が商店や民家の軒先までのびていて、建物の屋根や壁が全体的に赤茶に染まっている。

 

道路を走行する車やバイクは極端に少なく、町の賑わいは感じない。むしろ寂しい感じがする。

時間が数十年前に戻ったような感じだ。

 

ラオスは中国やベトナムと同様に共産主義の国だ。経済は市場原理を導入しているため、民間では近隣の自由主義(資本主義)国々と同様に民間の活力を利用して、資本主義のルールを用いて経済活動を行っている。

 

しかしながら、人々のビジネスに対する対応が他の近隣諸国と少し違うような感じがした。ホテルやレストラン等の接待業なら顧客に愛想よくするのが、ビジネスのイロハであるが、ラオスはそうでは無いようだ。

 

顧客に対して不愛想で有ったり、顧客を友達のように扱っている振る舞いがある。ビジネスを行うプロに徹し切れていないと感じた。また、商品やサービスを買った際に、かずかずの納得いかない対応を受けた。ラオスの習慣かも知れないが、不愉快だった。

 

英語が話せるラオスの人達数名から情報をもらったり、親切にしてもらった。ラオスの中等教育では英語を教えていると聞いたが、英語を話す人はほんの一部だ。英語を話すこと自体、グローバル社会の一員であることを認識しているため、他国の人達と価値観は同じだと感じた。

 

ラオスは内陸国でもあり、共産主義の社会だからかもしれないが、人々が閉鎖的にも感じた。共産主義や社会主義の国々は人々がお互いに監視し合っていると聞く。不審な人物や外国人との接触があればスパイ容疑をかけられる可能性があると聞いたことがあるが、ラオスはどうであろうか。

 

当方がオートバイで村々や町々を通過する際に街角や家の中から人々がじっと当方を見つめる。子供たちは無邪気に当方に手を振ってくれるが、大人の態度は明らかに違う。

 

(寒村の民家)

 

(山村では女性が荷物を背負って歩いている姿を多く見かけた)

 

(ルアン・ナムサ=Luang Namthaへ向かう途中の集落)

 

(山村の集落)

 

ラオスの民宿(Guesthouse

インターネットの大手宿泊予約サイトのBooking.Comはラオスの地方都市はカバーしきれていない。予約可能なホテルやゲストハウスが数軒あるに過ぎない。しかも宿泊料金は相場より高い。

 

しかしながら、主な街道沿いには多くのゲストハウスがある。Maps.Meのカーナビアプリやグーグルマップ上の宿泊施設では予約なしで、宿泊が可能だ。英語は通じないが田舎町にもゲストハウスはある。


アメリカのモーテルのように自動車で移動する人を対象としているため、専用の駐車があり、バスルームとエアコン付きの個室だ。また、WiFiも完備しているので、便利である。また、宿泊料金も安い。

 

道路の路面が悪くて、予定していた目的地に到着できず、名も無いような田舎町のゲストハウスで宿泊する場面があった。宿泊する場所を予約せずに、通りすがりの町のゲストハウスで宿泊するのも自由気ままで楽な場合がある。

 

(田舎町PakMongで一泊した国道沿いのゲストハウス)

 

(ビエンチャン=Vientiane郊外のゲストハウス)

 

ガソリン代が高い

ラオスは内陸国のため、ガソリン等の燃料は全てトラック輸送に頼っているようだ。そのためかタイのような周辺国よりガソリン代が高い。リッターあたり約2万クップ(Kips)=約170円だ。同国の個人所得との比較で言えば、日本の1500円位に相当する価格ではないだろうか。

 

不思議なことに車やバイクが少ないのにガソリンスタンドの数が多い。田舎町でも必ず3~4軒ぐらいのガソリンスタンドがある。日本ではガソリンスタンドは薄利多売で経営が上手くいかないところが多いと聞くが、ラオスでは、ガソリンの販売量が少ないが、利益幅が大きいのだろう。

(立派なガソリンスタンドが多い)

 

タイ出国とラオス入国

チェンコーンの出入国管理事務所は午前8時から開く。当方は朝一番で出入国管理事務所へ赴き出国手続きを行う。

イミグレーションでパスポートに出国印を押印してもらい、その後税関でタイ入国時に税関で作成してもらったオートバイの一時輸入許可証(TIP)を提出して終了。約10分程度の手続き時間だった。

 

ラオス入国に際して、イミグレーションでは日本パスポートでならビザは不要だ。15日間の滞在期間が与えられる。ただし滞在期間の延長は不可だ。

当方はカンボジアのビザを首都ビエンチャンで取得する場合も考慮して、30日間有効の国境で取得できるアライバルビザ(VOA)を有償で取得した。ビザ代は40米ドル(約5,000円強)あるいは1,800タイバーツ(THB)。その他に申請時に手数料で20バーツ。

 

次に税関でオートバイの一時輸入許可証(TIP)を作成してもらう。この一時輸入許可証を基に

自販機のような機械でステッカーを作成。ステッカー作成代として自販機に100タイバーツを投入する。

 

この手続きをしている時に民間の服を着た男が当方に英語で話しかけてきた。

<税関終了後にツーリストポリスの事務所で当方と話をしたい>と言ってきた。その男の横には警察官の制服を着た中年の人相が良くない男が当方を見つめていた。

 

当方はフェースブックのグループ情報にてラオス入国時に賄賂を請求されたとの投稿を読んでいた。

これがフェースブックの投稿記事で読んだことだろうとピンと来た。 当方は英語で話しかけてきた男に

<ツーリストポリススに当方から話すことは無いので、事務所には行かない。そちらから話したいことがあれば、この場で(税関)、今すぐ話してほしい>と言った。 その二人同士で何か話して、立ち去った。

 

ラオス入国手続きは一時間半ぐらいの時間がかかった。

 

ラオスでは車両の損害保険加入が義務化されている。

国境で損害保険の代理店がある場合が多いが、この国境では保険を販売している代理店はなかった。

入国した日は金曜日であったが、ラオスの祭日であったためファーサイ(Huay Xay)の保険代理店も休み。

結局、ラオス入国4日目に滞在したルアン・プラバンのアリアンツ保険(Allianz Insurance)でやっと保険が買えた。

 

ファーサイ(Huay Xay)~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・プラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)まで850kmの山岳道路

上り坂の連続の後は下り坂の連続が続く。ラオス北部は深い山の中に位置している。入国した国境から首都ビエンチャンまで4日間山岳道路を走行する。 神奈川県の箱根に至る道路が数百キロメートル続くようなイメージだ。

この道路を通る車は中国から物資を運んでいる大型の貨物トラックが主だ。

 

山の天気は変わり易く、一山超えたら急に雲が出てきて雨になることもあり、ラオス入国初日目のルアン・ナムザ(Luang Namtha)へは雨の中、しかも日没後の暗くなってから到着した。

道路は舗装してあってもところどころ未舗装部分がある。未舗装部分の赤土の道が雨で泥沼化して、オートバイと雨具は泥まみれになってしまった。

 

大型トラックの駆動輪が登り坂のカーブで舗装面を削っている。 削られた道路は赤土がむき出しのダート化している。大型トラックが赤土のダートを走ると、赤土の煙幕をはられたように前が見えなくなる。

 

前日宿で洗濯したライダーズジャケットやズボンが埃まみれとなり、ビエンチャン(Vientiane)到着後また洗濯する羽目になった。

(タイから出国して国境のメコン川に架かる第四タイ・ラオス友好橋をラオス領へと渡る)

 

(ラオス国境からルアン・ナムサ=Luang Namthaへ向かう途中の山岳道路からの景色)

 

(ルアン・ナムサ=Luang Namthaの街。ここから中国国境は数十キロメートルと近い)

 

(写真では分かりずらいが急な登坂で立ち往生する大型貨物トラック)

 

(坂のカーブは舗装が剥がれ土がむき出しとなっている)

 

(高地のため、雲が下に見える場所があった)

 

(高地道路のため、雲が低い)

 

(町全体が世界遺産のルアン・プラバン=Luang Prabang)

 

(ルアン・プラバン旧市街の古い街並み)

 

ベトナム戦争の暗い影

町全体がユネスコ世界遺産(Unesco World Heritage)に登録されているルアン・プラバン(Luang Prabang)にUXO Visitor Centerという国連(UN)がサポートする組織の展示施設がある。

 

UXOとは不発弾のことだ。19641973にソ連と中国が支援する共産主義の北ベトナムとアメリカが肩入れをする自由主義の南ベトナムが戦争していた。南ベトナムを支援するため米国は軍事介入を行っていた。

北ベトナムは共産主義勢力が事実上支配するラオスを経由して南ベトナムにいる共産主義ゲリラにソ連製の武器を送り込んでいた。ラオス経由で北ベトナム側が武器を運ぶルートを当時ホーチミンルートと呼んでいた。

 

米国は北ベトナムからの武器補給を絶つため、ラオス国内で激しい空爆を行っていた。特にひとつの爆弾の中に数百の小型の爆弾が入って殺傷能力が高いクラスター爆弾が不発弾とし約3億個ラオス国内に残っていると言う。

 

通常の爆弾が破裂した際に被害が及ぶ範囲は半径50m位と限定的だったのに対して、クラスター爆弾はサッカー場3個ぐらいの広さに被害を及ぼしたと言う。投下されたクラスター爆弾の3割は爆発せず、不発弾として残ったという分析がある。

 

子供が不発弾のクラスター爆弾を土の中から拾いだして、爆弾で遊んでいるうちに爆発して犠牲になったり、地中に埋まっている爆弾の上で焚火をして爆弾が破裂して犠牲者が出たりしているという。

 

国連(UN)は地元の組織共同して不発弾の撤去や不発弾の危険性を啓蒙する活動を行っている。

 

50年前に終わった戦争だが、今までの不発弾処理のペースだと全部処理するには100年ぐらいかかると言う。

(ベトナム戦争当時の米軍のB52戦略爆撃機=UXO Visitor Center展示写真)

 

(長さ1.5m程の爆弾の中にテニスボールより少し小さい子爆弾が500個弱入っているクラスター爆弾の実物)

 

(ラオス地図。赤い印が米軍が爆撃した場所と言う)

 

ラオス証券取引所(Lao Securities Exchange)訪問

共産主義国家でも資本主義の良いところは取り入れている例だろう。2011年に韓国証券取引所との合弁でラオス証券取引所が設立された。


現在、電力、銀行、石油等インフラ産業を中心に11銘柄(企業)が上場されている。時価総額は約10Kips=800億円。

日々の取引の75%がタイ等の外国人の個人投資家からの注文だと言う。日本の個人投資家からも注文があると言う。

 

人口約740万人のラオスでは近隣諸国に太刀打ちできるのだろうか?タイは7000万人、ベトナムは9800万人とラオスの10倍の人口を擁す。

 

面談に対応してくれた若手スタッフは流暢な英語を話した。一人は女性で日本の大学へ2年間の留学経験があると日本語で当方に挨拶をしてくれた。

 

ラオス政府は内陸国の弱点を強みに変えるべく中国の援助で新幹線のような中国と結ぶ高速電車網を整備する等、隣国と隣国をラオスでつなぐロジスティックスと豊富な水量の川の水を利用した発電・売電事業に力を入れていると言う。

(ラオス証券取引所ビル)

(メコン川支流のビエンチャン近くの水力発電ダム)

 

ビエンチャン(Vientiane~タケーク(Thakehk~パクシ(Pakse)はメコン川沿いに南下する約700kmのルート 

川の流れのように平坦で直線的な道路だが、舗装面が劣化してダート化した部分が多い。3km~5kmの距離ごとに50m~100mのダート部分があるイメージ。また、舗装の張り替え工事区間も多い。

山岳ルートよりは格段に走行し易くなった。山岳ルートでは肌寒く感じていたが、メコン川沿いのルートは乾燥して陽ざしが強い。

 

放牧中の牛が多く、道路を横切る。リーダー格の牛が先導する群れは行儀よく道路を渡るが、はぐれ牛(若い一頭の牛)の場合は危険だ。

当方が走行中に、すぐ目の前ではぐれ牛が突然道路を渡りだした。牛が道路中央まで進むの見計らって、牛が通り過ぎた道路脇をオートバイで通過しようとしたら、牛が驚いて後ろに戻りしだすのではないか。 当方は急ブレーキをかけて牛との衝突を避けたが、冷や汗をかいた。

 

パクシから200km程度南下すればカンボジアとの国境となる。ラオスからカンボジアへ入国するつもりだ。そしてカンボジアからタイへ再入国する計画を

している。

(首都ビエンチャンの大通り。パリの凱旋門を模倣した高さ48mの戦争慰霊碑が見える)

 

(ビエンチャンの下町。車が多くないため、酷い交通渋滞は無い)

 

(ビエンチャンからタケーク=Thakhekへ向かう途中の工事中の道路)

 

(赤土がこびりつきダート道路に見えるが、舗装道路だ)

 

(メコン川沿いの大きな農家。メコン川沿いの集落は裕福に見えた)


(メコン川沿いでは乾季のため、もやは稲の作付けは行わず、収穫後の田には牛を放牧していた)

 

(小学校の校庭。校庭の整備が追い付かないように見えた)

 

(陽ざしが強いため、日陰で休憩)

 

(第二都市パクシ=Pakseの街並み。どこの町でもトヨタの販売店の看板が目立った)

 

(メコン川西側の丘から見たパクシの町とメコン川。川幅は1.3km程度。この辺りはメコン川両岸がラオス領となっている)

以上

 

バンコク(Bangkok)4連泊後ラオスとの国境の町チェン・コーン(Chiang Khong)まで約1,200kmタイを北上する (11/21~12/1)

 

バンコクではいろいろやることがあった。

 

オートバイの海上輸送業者への訪問

 

一番の関心事は約一か月後にバンコクからオートバイをインドのムンバイへ海上輸送するため、事前に連絡を取りあっていた業者への訪問だ。

 

マレーシアからインドのチェンナイあるいはムンバイへの混載貨物の海上輸送が3,500~4,000米ドル(50~60万円)位かかることが判ったため、3ヶ月前からコンタクトをしていたバンコクの輸送業者を訪ねることにした。バンコクの業者は約2,000米ドル(約28万円)の見積額を提示していた。

 

その業者はバンコクから約北50kmの他県に所在した。訪問する目的は、打ち合わせを行うことと、直接会って信用に足りる輸送業者かどうかチェックすることを兼ねている。むしろ後者の目的の方が主である。

 

マレーシアのクアラルンプールではインターネット上には立派なホームページを持っていたが、実態は自宅マンションでひとりで業務を行った業者がいた。 当方からのその後の問い合わせには、その業者から返答が無いため交渉は打ち切った。

 

バンコクの業者がバンコク郊外で自宅兼事務所で兄姉妹の3人で輸出入の業務を行っているとのことだったが、当方とEメールでコンタクトして返事が早く英語も堪能な女性(妹)は不在中とのことであった。

 

バンコクの兄姉は英語があまりできないので当方との打ち合わせはほどんど進まない。その為、姉が気を利かせて、コンタクトを取っていた妹にワッツアップ=スマホの無料オンライン電話アプリ(WhatsApp)で打ち合わせに英語で参加するようにアレンジしてくれた。

 

この妹はバンコクではなくオーストラリアに居住中あり、兄姉とオーストラリアからEメールやワッツアップで連絡を取り合っていることが初めて判った。当方はこの事実を知って驚いた。コロナ禍でリモートでの業務が社会に浸透してきた現在、このような仕事形態も可能だが、リモートで大丈夫かと一抹の不安を覚えた。

 

タイ経済の情報収集(真面目な話)

 

タイ南部からバンコクにオートバイで入った時から、バンコクの豊かさには驚いていた。他の地方都市とは比べもにならない規模である。高速道路や高架鉄道や地下鉄が通る大都市だ。バンコク中心部から半径40~50km圏内は大バンコク首都圏といっていいだろう。

 

交通渋滞が、世界でも稀に見る酷さだ。都心の約10kmの距離をオートバイで車と車の間をすり抜けて走行しても、1時間弱かかる。郊外の輸送業者へ行った時も50kmの距離で3時間かかった。

 

インドネシアのジャカルタに次いでまだJetroバンコク事務所を訪ねた。

 

バンコク首都圏県の一人当たりのGDP(国民所得)は他県の2倍の約17,000米ドル(200~230万円)とのことで日本の1980年の所得と同等だ。日本は比較的富の所在が均一だが、タイには超富裕層や富裕層が多く存在するので、統計データだけでは市民の豊かさは判断できない。

 

しかしながら、バンコクのビジネス街やそこで働くOLやオフィースワーカーを見ていると東京にいるのかバンコクにいるのか区別できないぐらい成熟した経済社会の様だ。

 

ジェトロ(Jetro)の専門家によるとタイ経済は自動車や電気製品の輸出主導のもと景気が上向いてきているとのことで経済は回復基調だ。

 

ただし、タイには構造的な問題が生じつつある。それはアセアン諸国の中では一番早く少子高齢化社会が訪れようとしているからだ。タイの出生率は1.5人(日本は1.4人)。人口に占める65歳以上の高齢者の割合は既に全人口の12%となっている。

 

65歳以上の人口比率が14%になると高齢化社会と言う。更に25%になると超高齢化社会となる。日本の場合2022年には高齢化比率が29%と超高齢化社会となっている。

 

 

近い将来には内需拡大では経済の拡大は望めない状況になるため、タイ政府は製造業の集積化を図り、他のアセアン諸国とのサプライチェーンを通じて自動車関連製品や電気製品の輸出に力を入れ、輸出主導の経済成長を描いていると言う。

 

産業の集積化には依然外国資本の直接投資が必要だ。タイ政府は外国資本に対して法人税の減税等の優遇策を導入している。中国企業は米中の貿易摩擦を回避するため、タイに製造拠点を構えてタイ製品として米国へ製品輸出し始めている。タイ政府の輸出主導の経済成長に貢献していると言えよう。

 

タイでの日系企業の存在感は大きい。タイ進出の日系企業は6千社だという。近年では中国企業が直接投資額を伸ばして、国別ではトップになっているが、国別の累積直接投資額は日本が一番大きい。

(バンコクのビジネス街の高層ビル群 ルムビニー地区=Lumphinee)

 

(バンコクのラーチャダムリ通りの商業地区)

(バンコクの中心部を流れるチャオプラヤ川=Chao Prayaと水上バス)

(Wat Arun横の通りに京都の町屋風の建物があった。)

(チャオプラヤ川西岸のWat Arunは三島由紀夫の暁の寺のモデルになった寺院だ)

(タイ証券取引所入居のビルといっても証券取引所の初心者向けの証券啓蒙の施設があっただけだった)

 

バンコクから北上して約1,200km走行してチェンマイ経由ラオス国境との町チェン・コーン(Chiang Khong)目指す

 

バンコクに4泊滞在後~タイの旧都アユタヤ(Ayuthaya)~ナコン・サワン(Nakhon Sawan)~スコタイ(Sukhthai)~チェンマイ(Chiang Mai)~ラオス国境との町チェン・コーン(Chiang Khong)へ1週間程かけて約1,200km北上した。

 

チェーン・コーンから国境となっているメコン川を渡りラオスに入国するつもりだ。

 

 

ラオス入国後は首都のビエンチャン(Vientiane)を目指して南下。メコン川沿いに更に南下してカンボジア(Cambodia)へ入国する計画だ。

 

カンボジアでは世界的に有名なアンコールワットを見学後、首都プノンペンを経て、カンボジア最南端の国境からタイへ再入国を考えている。ざっくり2,000km位ののツーリングとなるだろう。

(バンコクからラオスと国境を接するチェン・コーン=Chiang Khongまで北へ約1,200km走行する)

 

バンコクからアユタヤへ約140km

 

バンコクからアユタヤへ抜ける道路は混雑していた。特にバンコクの中心から半径40km~50km範囲の首都圏を抜け出すのに2時間以上走行。オートバイの走行が禁止されている有料高速道路に入り込まないようにMaps.Meのカーナビとグーグル・マップを表示するようにスマホを2台オートバイのハンドルに付けて走行する。 

 

2つのカーナビアプリは時には全く異なるルートを表示する。どちらのカーナビ表示通りに進むべきか迷う。ある区間ではMaps.Meのルート表示に従って走行したり、別の区間ではグーグル・マップ通りに進んでみたりするが、両方とも誤っていた場合もある。最終的には交通標識の道案内が頼りとなる。

 

アユタヤには30年以上前に家族共に観光旅行で行ったことがあった。しかしバンコクで日帰りのツアーバスに乗り込み観光したため、どの道を通ったかとか、どこへ行ったとかはあまり覚えていない。覚えていることは、道路は渋滞しておらず、のんびりと日帰りツアーが出来たことぐらいだ。 

 

当時と比較すると、やはりバンコクでの交通渋滞がひどい。バンコクの郊外に出てものんびりとした雰囲気ではない。

 

 

アユタヤとアユタヤの後に訪れたスコタイにはユネスコの世界遺産に登録されている遺跡群がある。この機会を逃したら二度と来ないだろうと考えて、それぞれの町には2泊して世界遺産の遺跡群や寺院をめぐることにした。

 

アユタヤは1351年から1767年にビルマ(現在のミャンマー)との戦いに敗れ、ビルマ軍に構造物を破壊つくされるまでアユタヤ王国として35代の王が続いたとされている。

 

日本の江戸時代初期には山田長政が率いる日本人が1,000人から1,500人アユタヤに住み、ご朱印船貿易の名で商業活動に従事していた。その後、徳川幕府の鎖国政策のため、ご朱印船貿易は途絶え、アユタヤに住んできた日本人は帰国が許されなかったと言う。

 

日本人のような顔つきのタイ人がいると、帰国を許されなかった日本人の血をひく子孫の一人ではないだろうかと思ってしまう。

(ワット・マハタート=Wat Mahathatの木の根に取り込まれた仏像の頭)

ワット・マハタートの仏塔と仏像

(長さ28mの寝仏像=ワット・ローカヤスーッター=Wat Lokayasutha)

(アユタヤで投宿したRiverside Guesthouseには川に係留してある船内に泊まれる部屋もあった)

 

(アユタヤの日本人町跡には日本政府が援助して建設した展示施設がある)

 

(山田長政の紹介。山田長政はタイ王室の身辺警護役として仕えていたと言う。晩年はマレーシアに近いタイ南部のナコン・シ・タマラット=Nakhon Sri Tamamaratへ左遷され、そこで生涯を終えた)

 

アユタヤ(2泊)~ナコン・サワン(1泊)~スコタイ(2泊) 約400km

 

アユタヤからスコタイまで一気に進むのは疲れるため、中間地点にあるナコン・サワン(Nakhon Sawan)に一泊した。

 

ナコン・サワンでやることや見るべきものがあるため宿泊したのではなかったが、結果的には宿のオーナーの勧めで訪れた旅行ガイドブックには載っていない仏教寺院(Wat Sri Uthumporn)が素晴らしかった。

 

当方の仏教寺院の常識を覆すような多様の色彩と贅を凝らした装飾が施された宮殿のように美しい仏教寺院を訪れることが出来た。

 

まるでロシアのサンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館(当時はエカテリーナ女帝の宮殿)の内装のように美しかった。

 

(ナコン・サワンのワット・ウトンポーン=Wat Utumporn)

(Wat Uthumpornの内部は宮殿のように飾ってあった)

(ナコン・サワンで宿泊したKalae Resortの経営者兼弁護士のプン女史)

 

(タイには沼地が多い。沼地で釣りをする女性達。フナのような小さな淡水魚やナマズを釣っていた)

 

世界遺産のスコタイ(Sukhotai)遺跡群

 

13世紀~14世紀に絶頂期であったスコタイ王国はその後アユタヤ王国に滅ぼされたと言う。

ユネスコ世界遺産に登録されているスコタイ王国の仏教建築物跡が約1km四方の歴史公園の中にある。

 

この遺跡を見るため2泊することにした。ここには現役の寺院は無く、あくまでもスコタイ王国時代の遺跡跡に残る仏像や仏塔とその構築物跡の柱、壁、床ぐらいしか残っていない。

 

平日のためか訪れる観光客の姿は少なく、一人で遺跡群をめぐっていると心細いぐらいである。過去には日本人女性の観光客がこの地で殺害されると言う不幸な出来事があった。

 

訪れる遺跡によっては周囲に人が誰もいない場所があるので、さもありなんと気を引きしめて行動した。

スコタイ歴史公園から少し離れた丘の上のワット・サバーン・ヒン=Wat Saphan Hin 高さ12m)

スコタイ歴史公園内のメインの遺跡ワット・マハタート=Wat Mahathat)

スコタイ歴史公園内の池の中の島にあるワット・スラ・シー=Wat Sra Sri)

(スコタイ歴史公園の入口)

 

スコタイ~チェンマイ 約330km

 

スコタイから30km程走りだすと、片側一車線の対面通行道路ながら、車があまり通らないルートになった。更に進むと森や林間ルートとなり、今までに暑さに代わり走行風が涼しくなりだした。 

 

いままでのただ広い平野の景色から山が見える景色へと変わる。このままこのような林間コースが続けばいいなと思っていたが、ルートの後半は交通量が多く、平地の暑い道路になってしまった。

 

真北へ進行しているが、気温はますます上昇しているような気がする。チェンマイに着くころに背中には汗が流れ、暑さと汗で顔もぐしょぐしょになった。

 

チェンマイはタイの北の都であったと観光ガイドブックに記されていたが、アユタヤに比較すると訪問した現役の寺院は小粒だった。

(チェンマイへ向かう途中の林の中の道路)

(日本人のサイクリストと思い声をかけたらタイ人だった。67歳で一ヶ月間自転車でタイ国内を旅行中だと流暢な英語で説明

してくれた)

 

(稲の収穫作業は鎌を片手に手作用で行っていた)

 

チェンマイのワット・チューディー・ルアン=Wat Chedi Luangの塔は高さ86mあったと言うが、16世紀の地震で上部がくずれ、現在は高さ30m位になってしまった)

(釈迦が悟りを開いた地インドのブッタガヤをモデルに作ったとされるワット・チョット・ヨート=Wat Chet Yot)

 

チェンマイ~ラオスとの国境の町チェン・コーン(Chiang Khong)310km

 

チェンマイを出発した時にはチェン・コーン手前の歴史的な都市チェン・ライ(Chiang Rai)で宿泊する予定だったが、チェン・ライに早く到着したため、チェン・ライから約100km先のラオスとの国境を接するチェーン・コーンまで進むことにした。

 

森を切り開いた山岳道路を通過するころには気温が低下して、体に心地よい風があたる。長距離を走行する割には、不思議と眠くならない。

 

当方のツーリング経験では国境へ向かう道路は、みすぼらしく路面が傷んでいるのが常だったが、タイの場合は違った。片側2車線の立派な高速道路になっている。インフラ整備への政府の力の入れようを実感する。

 

国境手前の町で前泊後、予期せぬトラブルに備え国境は午前中の早い時間に通過したい。

(森林を切り開いた道路は立派だ。幾分涼しさを感じる)

(メコン川=Mekong River。メコン川手前側がタイ領。向こう側はラオスだ。)

 

タイ人との交流

 

タイの人に道路やドライブインの食堂で休憩中に話しかけられる。テレビやニュースを見ていなかったので、知らなかったが、<サッカーワールドカップで日本がドイツに勝ったとアジア人として嬉しい>と言って路上で休憩中の当方にバイクで駆け寄り話しかけてきた年配の農夫がいた。

 

農夫なのになぜ英語が話せるかと聞いたら、ブルネイ等で外資系の企業で働いていたことがあると言う。

 

また、ドライブインの食堂でコーヒーを飲みながら休憩中にはその食堂の主人が拙い英語ではあるが、当方に興味を持ったようで、いろいろ尋ねてくる。当方のツーリングに感動して、売り物だった柑橘類のフルーツ・ポメロを<持って行け>とくれた。

(食堂のオーナーともらった柑橘類の王者Pomelo。Pomeloはすこし甘い程度の味だった。)

 

スコタイの町中では、書類のコピーができる店を探していた。スコタイでは英語はほとんど通じない。しかし歩道でコーヒーを販売している親父が英語を話した。

 

そして当方をバイクで先導してコピー屋までつれていってくれるではないか。その男はスイスのホテルでシェフをしていたことがあると言う。そのコーヒー屋で旅の話等をアイスコーヒーを飲みながら一時間ほどした。そのコーヒー屋の親父は当方と同年配だけに、話が合う。

(67歳の割には年を感じさせないコーヒー屋の親父だった)

 

次回はラオス入国から

 

以上