インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -6ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

(IndiaDehliからAmritsar そしてPakistanへ入国 950km(4/34/13

 

風光明媚な山岳道路

デリーからはパキスタンへの入国を目指してアムリトサル(Amrtsar)へ向かうだけの走行ルートだが、デリーから最短距離でアムリトサルへ12日間で到達する。

 

それでは面白くないと考えた。チベット亡命政府があるダラムサラ(Dharamsala)を経由してインドの山岳地帯をかすめる迂回ルートを通り、アムリトサルへ行くことにした。距離は最短距離の約2倍となる。

 

更に北の迂回ルートを通ればインドのヒマラヤ山脈地帯の裾のラダック地方へ行くことになるが、ラダックはまだ冬だ。富士山より高い標高4m級の峠道があるというので、この最北端の迂回路は避けた。

 

北の迂回ルートは正解だった。ネパールのような山岳道路であったが、道路事情はネパールより数段良い。全て舗装道路だ。

(標高5000m級の雪をかぶった山がまじかに見える)

(山岳道路から谷川を見る)

胃腸の調子が悪い

チャンディガル(Chandigarh)で食べたソモッサ(カレー風味の油で上げたジャガイモ)とモモとよばれる

水餃子を食べた後、胃腸の調子が悪い。

 

下痢等はインドで数回しているが、今回は一番調子が悪くなった。 下痢と胃の痙攣のため2日間食欲が無く、気持ち悪くて丸一日何も食べれなかった。薬局で薬を調合してもらうが、効き目が無い。

 

3日後に何とか収まった。それ以来ソモッサとモモを見るのが嫌になってしまった。

 

パキスタン・ビザとイラン・ビザ申請のその後

パキスタンのEビザについては申請後78営業日に電子メールで入手した。

 

しかしイランのEビザに関しては申請後約2週間経過しても、音沙汰無しだ。フェイス・ブックの陸路旅行者のグループ情報のスレッドで他の旅行者達からアドバイスや情報をもらった。

 

あるドイツ人カップルの場合、本人はEビザの許可が出るまでに申請後5週間かかったと言う。ある人は個人が申請した場合はイラン政府はビザを発給しないと言う。

 

また、ある人はインターネット上のイランのEビザ申請サイトの画面では常時<ビザ発給待ち=Waiting for Verification>の表示が現れても、待つだけ時間の無駄だと言う。

 

当方が駐日イラン大使館へ電話で問い合わせすると、イランの外交官は当方の申請はEビザの申請システム上に残っていないので、再度申請をしたほうが良いとアドバイスをする。

 

当方がチェックする限り、イランのEビサ申請サイト上では当方は<ビザ申請済み>と表示される。一体どうなっているのだろう?

 

当方は既にパキスタン入国のため、国境の町アムリサトル(Amritsar)まで来ている。イランのEビザが無くては、パキスタンでの滞在期限が1ヶ月しか許可されていないことを考慮するとパキスタンへはうかつに入国できない。

 

以前コンタクトが有った外国人旅行者に聞いたイランの旅行会社Tap Persiaと連絡を取り、同旅行会社経由Eビザの申請を再度行うことにした。

 

申請翌日に同旅行会社からイランEビザが発給される知らせを受け取った。なんと早いスピードだ。

旅行会社曰く、個人が自らEビザを申請してもイラン政府はほとんどビザを発給しないと言う。イラン政府は観光業者経由の方が申請者(外国人入国者)をコントロールし易いとの理由だった。


 

以下デリーからインド出国(パキスタン入国)までの走行ルートと各走行ルートのショートコメントを記す

デリー(Dehli)~280km~チャンディガル(Chandigarh)~迂回路スタート~210km~マンディ(Mandi)~120km~ダラムサラ(Dharamsala=チベット亡命政府所在)~140km~パタンコン(Pathankon)~90km~迂回路終了~アムリトサル(Amritsar=シーク教徒の都市~国境(パキスタン入り)~90km~ラホール(Lahore)=パキスタン第二の都市

(デリーからアムリトサルまでの走行ルート。赤線が走行ルート。地図下部の赤丸印がデリーの位置。地図上段の赤線ルート最後がアムリトサル)

(インド・ネパール走行ルート地図。ムンバイ=地図左側中央のスタート地点からアムリトサル=地図最上部まで約10,000km弱だった。当方はムンバイに1/15に到着して、2/1からオートバイ・ツーリングを開始して反時計回りに赤線ルートに沿って進んだ。)

 

デリーからチャンディガル(Chandigarh280km

デリー周辺は巨大な首都圏を形成するため、デリーから150km離れてもハイウェイ沿いの町並みは途切れることは無い。 やっとチャンディガル近くになるとのどかな田園風景が広がる。 車や人々の往来が少なくなり、気持ち良いツーリングとなる。

 

チャンディガルはインドでは珍しく市街地が計画的に造られている。著名なスイス人が設計したと言う。

大学のキャンパス内のように緑の木立ちが多い街並みとなっており、インドで一番美しい街だと言われている。

 

当方はチャンディガルの郊外に宿泊し、ここで胃腸の調子を崩した。

(チャンディガル付近ののどかな地方道)

(チャンディガル市内の道路)

 

(チャンディガル郊外で宿泊したホテル=写真左側)

(チャンディガル郊外の投宿ホテル屋上から付近を臨む)

 

(廃材でオブジェを作ったと言うチャンディガル市内のRock Garden。スペイン・バロセロナのガウディー公園に少し似た部分がある。)

 

チャンディガル~マンディ(Mandi210km

山あり、谷あり、ワインディングロードありの地方道を進む。

期待した通り、ネパールの山岳地帯の道路のように景色が良く、交通量も多くない。インドで初めて景色を楽しむツーリングとなる。

(山岳道路に入っていくと景色は良くなる)

 

マンディ~ダルマサラ(Dharamsala)120km

マンディから更に北上してラダック地方への出発点になるマナリ(Manali)を目指すか、あるいはダルマサラへ向かうかどうか少し悩む。マナリは標高が更に高くなり最低気温は0℃になる予報がでている。

 

最低気温をチェックしてマナリ行はあっさり諦めた。寒すぎる。ダルマサラ方面へ向かうと雪をかぶった高い岩山が見える。遠くの空には積乱雲がかかっていてダラムサラあたりの天気が怪しくなっている。

 

雨がポツリと降り出してきたため、ダルマサラ手前の街道沿いのホテルで宿泊することにした。

(写真奥の積乱雲がかかっている付近はダラムサラ。天気が崩れることが判る)

(ダラムサラへ通じる山岳道路)

 

ダルマサラ~パタンコン(Pathankon140km

宿泊地を決めていなかった。夕方までに辿り着ける町で投宿すれば良いと考えていた。 小さな地方都市だとBooking.com等のホテルのオンライン予約業者はカバーしていないし、カーナビのアプリにもホテルの表示は少ない。 

 

飛び込みで宿を当たり、4軒目で投宿する宿を決める。ホテルホーナーは妹夫婦が仕事(ITエンジニア)で横浜市に半年ほど滞在したと言う。日本に興味あるようだ。

(山の上のダラムサラの街)

(ダラムサラの街と背後の山々)

(ダラムサラの中心部)

(ダラムサラ中心部のチベットの住民が蜂起している壁絵)

 

(ダラムサラのチベット仏教の本尊)

(ダラムサラのチベット仏教寺院の境内ではチベット僧たちが声を出して押し問答式の修行をしていた。)

(ダラムサラのダライ・ラマ14世の公邸)

(パタンコンで投宿したHotel Parag)


パタンコン~アムリトサル(Amritsar90km

既に山岳地帯のルートは終わり、平地になってきたため暑い。アムリトサルはパンジャブ州の州都であり、シーク教徒の聖地でもある。

 

プロレスラーのアントニオ猪木が活躍していた頃、インド出身のプロレスラーがいた。タイガー・ジェット・シンと言う名のシーク教徒で、頭にターバン巻き、手にサーベル持ってリングに登場していた。アントニオ猪木と対戦したテレビ中継を思い出した。

 

シーク教徒の男は頭にターバンを巻く。名前の最後にシンを付けるのもシーク教徒の特徴だ。

(アムリトサル駅前の喧騒とした道路)

 

(アムリトサルの歴史的建物がある地区)

 

 

(アムリトサルで1919年に集まった住民に対してイギリス軍が発砲して無差別な大量虐殺を行った。400名弱の住民が死亡して1000人以上が負傷したと言うジャリアンワラ公園=Jallianwalah Bagh。写真中央に慰霊碑が建つ。当方は過去にガンジーの映画でこの場面を見たことがあった。)

 

(ジャリアンワラ公園内の壁には多量虐殺時の弾痕が残る。弾痕は白い線で囲っている。)

(アムリトサルのシーク教徒の聖地ゴールデン・テンプル)

(アムリトサル。シーク教徒の正装。腰には短剣を差す。)

(アムリトサル。シーク教徒の警察官)

(アムリトサル。食料品とフード店の店主=写真中央とその息子=写真右。写真左はフード店のシェフ。当方がトマトを売っている場所を探していると言ったら、店主は隣のフード店で使うトマト数個を無料で持っていけと提供してくれた)

 

アムリトサル~Attari国境(インド側)/Wangah国境(パキスタン側)~ラホール(Lahore

アムリトサルから30km強の距離でAttari国境に着く。 インドとパキスタンの冷めた外交関係を反映してこの国境の往来は少ない。貨物の往来は皆無だ。 しかも国境は10:00AMに開き、夕方早くには閉鎖される。


 

毎日夕刻に行なわれるパキスタン側とインド側それぞれの国境閉会式のパーフォーマンスは派手だが、往来が少ない国境では寂しい。当方は午前10時に国境ゲートが開門されることを知らず、早く国境へ着きすぎてしまった。


 

国境の往来が少ないため、国境通過はスムーズで待ち時間含め2時間程度でインド出国とパキスタン入国手続きが済んだ。


(アムリトサルからアタリ=Attari国境へ向かう立派なインド側の道路)

(パキスタン・ラホール市内の世界最大級規模のモスク)

(ラホール市内のアラブ様式の出窓がある建物。ラマダン中のため飲食店は閉まっていた)

(ラホール市内のラホール要塞=Lahore Fort。世界遺産登録。写真のエレファント階段の建物壁には1847年シーク戦争当時の弾痕が残る。)

 

以上

ワラナシ(Varanasi)から首都デリー(Delhi)まで、1300km(3/234/2)

インドでのバイク・ツーリング日程の78割を終了して、インド・ツーリング始めて2ヶ月過ぎようとしている。

インドの次に訪れるパキスタンとイランのビザをインターネット経由で申請する作業のため、ツーリングでの移動距離が短くなる一方、それぞれの町での滞在が長くなる。

 

アグラ(Agra)ではインド観光では一番人気のタジ・マハール(TajMahal=ムガール帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハールの霊廟)を見学。

(タジマハール=Taji Mahal 1653年完成。 ドームの高さは67m、4つのミナレットは高さ43m。当時の金額で金50トン分の費用と22年の際月を要した。1983年世界遺産登録)

(タジ・マハールはモスクになっている。モスクの内部中央にはムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンとその妃ムムターズ・マハールの棺が納められている)

(タジ・マハールの裏を流れるヤムナー川は残念ながらドブ川のような異臭を放していた。第5代皇帝シャー・ジャハーンは自らの霊廟を川を挟みタジ・マハールとは反対側に造ろうとしたらしいが、後継者の息子に幽閉され夢はかなわなかったと言う)

 

 

アグラの後に訪れたジャイプール(Jaipur)は他のインドの街並みと異なっていた。

城壁で取り囲まれ旧市街の建物はピンク色に統一され、アラブ諸国の色彩が強い街並みにだった。

 

この地は乾燥した低木のステップ気候のラジャスタン州(Rajastan)に位置する。この一帯を18世紀に治めていた藩王が天文学好きで、当時では世界最先端の天文台をインド全国5カ所に造り天体の観測を通して現在の時刻と20秒しか違わない正確な時刻を計測していたことには驚いた。

 

走行ルートは以下の通り

ワラナシ(Varanasi)~385km~ランプール(Ranpur)~310km~アグラ(Agra)=タジ・マハール見学~260km~ジャイプール(Jaipur)=建物がピンク色に統一~300km~グルガオン(Gurgaon)=多国籍企業が多い近代都市~60km~ニューデリー(New Delhi)=インド首都でタイヤ交換

 

 

(インドとネパールの走行ルート図。赤線の上部左側最後の地点がデリーの位置)

(ネパールからワラナシ経由デリーまでの走行地図。赤線が走行ルート。地図右側上の赤丸印はネパールのポカラ。地図左側上部の赤丸印はデリーの位置。ワラナシは赤線ルートの右側最下部の赤丸印の位置。)


パキスタンとイランのEビザ申請について

パキスタンのEビザ申請

パキスタンのビザ取得は難易度が高いと聞いていた。2018年当時、イランからパキスタンへオートバイで入国した日本人ライダーはパキスタンのビザを取得するため、イランの国境にオートバイを残したまま日本に一時帰国して、日本のパキスタン大使館でビザを取得したと聞いていた。

 

コロナ禍以降はインターネット経由Eビザを取得する方法に替わっているが、Eビザ申請にはパキスタンで旅行者の身元を保証するスポンサーからの招聘状(Letter of Invitation)が必要とか、駐日パキスタン大使館で面接を求められる場合があったり等ビザの申請がめんどくさくなっている。 

 

インターネット経由の申請と言えども、面接場所は自国(日本)の駐日パキスタン大使館とせねばならないのがひっかかる。

 

駐日パキスタン大使館の領事部・外交官に電話で<当方はインドをツーリング中故、インドにあるパキスタン大使館を面接場所に指定することは可能か?>と相談したら、面接が必要な場合は駐日パキスタン大使館の外交官と電話で行うことが可能とのことだった。 

 

また、パキスタンのスポンサーからの招聘状が無くても、旅行計画書の提出で代用できることも同外交官に教えてもらい、自分自身でEビザの申請が出来ることが判った。わざわざビザ業者を通さずに済むし、日本への一時帰国も不要だ。

 

ただし、VPNVirtual Private Networkの略。 詳細は右記サイトをクリック https://surfshark.com/ja/learn/what-is-vpn)の回線を介してもインターネット経由でのEビザ申請時のビザ代金の支払いが出来ない。 結局、日本にいる留守家族に自宅のインターネットを介してEビザの申請を行ってもらった。

 

イランのEビザ申請

イランのEビザ申請についても自分自身で行う。

出国前に自宅インターネットで同国のEビザ申請を試してみたが、本人写真のアップロードが受理されず完了できなかった。しかし、ランプール(Ranpur)滞在中に持参のポータブルPCにてEビザの申請したら、あっさり受理された。

 

イランのEビザの場合、実際のビザは申請者が希望する在外イラン大使館ないし領事館へ行き、そこで発行されることになっている。ビザ料金は実際に発行され時に支払うことになっている。

 

当方はパキスタンのラホール(Lahore)にあるイラン領事館でビザの発行を希望する旨を伝えている。

 

以下ツーリングールートでのコメント

 

ワラナシ(Varanasi)~ランプール(Ranpur385km

ハイウェイ(国道)は3車線道路が整い、交通量も少なく概ね快調だったが、ライプール市内でカーナビ用アプリのMaps.Meの誘導は酷かった。狭くて人混みの道、獣道のような荒地、挙句の果てには鉄道専用の橋も通行する誘導になっていた。

 

都市部内の移動ではMaps.Meの誘導に頼らず、比較的大通り(=容易に通行可能)を自ら選ぶ必要がある。

 

ワラナシからアグラへは距離が長すぎて一日では行けないため、ランプールにはアグラへ行く途中にあるという理由で滞在しただけだった。2泊しただけだったが、観光は全くしていない。ホテルの自室に留まりイランのEビザ申請に集中した。

 

ランプールの宿はなかなか決まらなかった。目星をつけていたホテルは駐車場も無く、通りの交通量が多く環境が悪い場所だった。広い落ち着いた通りに面した少し高そうなホテルを見つけて、部屋料金の交渉をした。

 

当初、部屋料金は2,800ルピー(4,500円)だと言われた。当方は800ルピー(約1,300円)の予算で部屋を探していると言うと、1,000ルピーの部屋が有ると言う。つまりホテル側は高い部屋から紹介して、宿泊客が安い価格や値引きを要求すると価格が低い部屋を紹介する仕組みになっている。

 

当方はホテルの部屋価格の交渉は以下のように行っている。

まず、価格交渉を急がないことが大事だろう。

 

まず部屋を見せてもらい、その料金に値するかどうか確認する。

 

Booking.Com等のインターネット予約業者経由の予約を行っていないため、同業者に支払う手数料分の割引余地があるはずと交渉する。

ホテル側はBooking.com等のインターネット予約業者へは部屋料金の2割程度の手数料を支払う。

この際インターネット業者経由の料金は事前に調べておく必要がある。

 

なかなか割引に応じない場合は、一旦交渉を終了させて、<他のホテルへ行く>と言う。一旦交渉を打ち切ってから、ホテル側は<ちょっと待ってくれ>と、価格割引に応じる場合が多い。

 

自らの希望価格(指値)を伝える。(低めの料金を伝える。)

 

 責任者(できればオーナー)と直接交渉する。

(ワラナシからランプールへ行く途中のハイウェイ)

 

(ランプールの町は中心部は古く廃墟のようだった。朝方撮影したため通行人はほどんどいなかった)

 

ランプール~アグラ 310km

アグラでは3泊したが、観光はタジ・マジハールを半日したのみで、後はパキスタンのEビザ申請の準備と申請のため日本の留守家族と連絡を取り合っていた。

 

タジ・マハールは旧市街の一角に位置する。旧市街への車両でのアクセスは狭く、迷路のような生活道路を通る。

 

今までに、アラブ諸国でも巨大なモスクを見てきているが、タジ・マハールの白く巨大なモスク(霊廟)はそれなりの一見の価値が有ると思った。

 

(ランプールからアグラまでのハイウェイ)

(アグラ旧市街で宿泊したホテル屋上から300m先のタジ・マハールを見る)

(アグラの旧市街のレストランはサル避けの金網が張られている。朝夕にはサルの集団が建物の屋上沿いにえさを求めて住宅地を徘徊する)

(当方オートバイの後輪に刺さった釘を見つけた。ブロックタイヤの山の部分だったためパンクは免れた)

 

アグラ~ジャイプール260km

インドには地名の最後にOOOプール(pur)が着く都市が多い。プール(pur)は城壁に囲まれた町を意味する。

 

アグラから同地へ入ると乾いた土地になる。丘や小高い山がポツリポツリ目立つようになり、緑豊かな平野部から乾燥地帯へ入ったことを実感する。

 

ジャイプールの要塞はこのような町を見下ろす小高い丘の上に位置していた。旧市街全体も高い城壁に囲まれ、城壁門からのみ通じている。当時は外敵から守るため、このような城門、城壁、要塞が必要だったぐらい戦乱があったのだろう。

 

旧市街の観光をバイクで行うが、インド滞在中3回目となる腰痛が生じた。オートバイのスタンドを立てかけるのをうっかり忘れてオートバイを駐輪した際、倒れそうになったオートバイを倒れる寸前で支えた為だった。

そのため腰痛がひくまで延泊。

(ジャイプールの旧市街へ入る門)

(旧市街はこのような色で統一されている。)

 

(18世紀の天文台。写真奥の階段状の最高部の高さは27m。天文台建物の角度は北極星へ向いている。)

(18世紀の地球儀に日本が載っていた)

(ジャイプールの風の宮殿=Hawa Mahal。外観は美しいが薄ぺらい建物で宮殿というよりディズニーランドのアトラクションの建物に近い)

(ジャイガル要塞=Jaigarh Fortの世界最大の巨砲。一回だけ使われたと言う。1720年製 射程距離20km 長さ約9m、砲身の高さは約2.7m、重量50トン。移動には象が使用されたと言う。)

 

(果物の量り売りには分銅が使われる)

 

ジャイプル~グルガオン300km

グルガオンはデリーから3040km離れた新しい町だった。 デリーの家賃高騰を嫌って多くの多国籍企業がオフィースをグルガオンに移すようになって町が発展したという新興都市。 多くの日本企業がオフィースを構え、日本企業に勤める駐在員が住むと言う。

 

当方は大都市デリーの交通渋滞を嫌って、グルガオンに滞在することを考えていた。しかしグルガオンでは外国人が宿泊可能な割安なホテルが無いことが判った。インドにはOYO Hotelという割安なホテルチェーンが多いが、グルガオンのOYO Hotelはインド人専用となっている。

 

インドではホテル等の宿泊施設が外国人を宿泊させるには、当局にある形式の書類を提出することが義務付けられている。グルガオンではその形式をそなえているのは比較的高額なホテルに限定される。78軒目に訪れた立派なホテルでやっと宿泊できた。

 

複数のホテル関係者からグルガオンのホテル料金はデリーより割高だと教えてもらい、翌日デリーに向かうことにした。

 

グルガオン~デリー 60km

(デリーの入口)

 

ニュー・デリーでオートバイのタイヤ交換

デリーを訪れた理由は当方オートバイのタイヤを交換するためだった。日本から輸送する直前にブロックタイヤ(ダンロップ製D605)に交換後、約18,000km走行した。タイヤの山は3割程度残っているが、この先のパキスタンやイランでタイヤが見つかるかどうか判らなかった。また、ネパールでの後輪タイヤのパンク修理が上手にできているか自信が無い。

 

アグラ市内でオイル交換したYamahaの看板を掲げたオートバイ修理店(Yamahaの正規代理店では無かったが)で、デリーのオートバイ部品店が集まる地区へ行けばタイヤが見つかると教えてもらった。

 

具体的なタイヤ店の名前は判らないが、デリー到着早々その地区(Karol Bagh)へ行った。通りを歩く数名に<オートバイのタイヤ販売店がある場所はどこか?>と聞いたら、ニューデリー駅から3km離れた車やオートバイのアクセサリーや部品を販売する店舗が建ち並ぶ地区に辿り着き、タイヤショップを見つけた。

 

当方オートバイ(Yamahaセロー250)サイズにあったインド製のタイヤが見つかり、前後輪とも交換した。料金は工賃含め6,500ルピー(約1万円強)

(タイヤ店では手作業でタイヤを交換する)

(前輪をフロントフォークにはめ込むにもバイクスタンドは使用せず、二人で作業する)

 

日常茶飯事な割り込み運転

デリーはとにかく人が多い。町中の車や三輪車タクシー、バイクの運転もインドで最悪だった。

インドの都市部の渋滞道路では一日2~3回三輪車タクシーやオートバイにぶつけられる。低速運転中だから事故に繋がらないが、不愉快だ。当方が衝突を回避しなければ、もっと多く衝突される。

 

相手は当方が衝突を回避する行動を期待して、混雑する道路で割り込んだり、飛び出したりする。当方が<危ない>と思ったり、ヒヤリとする場面がしょっちゅうある。

 

ある時は三輪車タクシーが5cm位の幅で当方の横に並び、当方の行く手を遮りように割り込もうとする。

当方は三輪車のタクシーの運転手の体に肘鉄をくらわして、三輪車タクシーの運転手をけん制した。

また、ある時は三輪車タクシーの車体を叩いて、相手の無茶な割り込みをけん制する必要があった。

 

横入りと言うことは日常茶飯事だ。アグラではタジ・マハールの入場券を買うためにチケット販売所で列を

つくって順番をまっていると、観光ガイドらしい人が順番を無視し割り込もうとする。

 

当方は思わず持参している笛を<ピー>と吹いて、強い口調でそのガイドに割り込みを止めるように注意をする。当方は、割り込みには腹が立っていた。

 

するとガイドは<当方が列をつくっている場所は正式な列では無い>と難癖を言い張ったが、最後には当方の勢いに押されてバツが悪そうな顔をして、割り込みを止めた。 当方の無謀とも思える注意に外国人観光客のひとりが、<良いことをしてくれた>と称えてくれた。

 

インドには人々がルールやマナーを遵守する国になってもらいたいと思う。

 

人混みを嫌いデリーには2泊のみしか滞在しなかった。パキスタンとの国境があるインド北部方面へと向かった。

(デリー旧市街の中心。レッド・フォート= Red Fort。レッドフォート内への入場待ちの列が300m位続いていたので、入場は諦めた)

 

以上

ネパール(Nepal)後編からインドへ再入国~ヒンズー教最大聖地ワラナシ(Varanasi)まで950km(3/1522

(Pokhara郊外から見たアンナプルナ山系のマチャプチャレ山。標高6,993m)

 

走行ルートは以下の通り。 ブッダ(Buddha)にゆかりがある地3カ所を訪問する巡礼のようになる。

 

ポカラ(Pokhara)~ローアームスタング(Lower Mustang)アドベンチャーコースの途中を目指すが途中で断念~ルンビニ(Lumbini)=ブッタ生誕地~ネパール出国/インド再入国~クシナガール(Kushinagar)=ブッタ入滅の地~ワラナシ(Varanasi)=ヒンズー教徒聖地/サルナート(Sarnath)=ブッタが最初に説法をした地

(ネパールとインド北部の地図。赤線がツーリングルート。ポカラは一番上の赤線上の最も左側で赤丸をした場所。マーカーで印した場所は宿泊地)

 

ポカラでオートバイの調子が悪い

エアークリーナーを新品に交換後、当方のオートバイのエンストは直ったように見えたが、オートバイを信号待ち等で停止中、エンジンがアイドリング状態でエンストするようになってしまった。

 

ポカラ(Pokhara)からの出発を延期して滞在中に知り合ったバイク修理店Raju Bulat Surjeryへ当方のバイクを持ち込んだ。

 

バイク修理店でアイドリングの調整(エンジン回転数を高めに設定)とエンジンのバルブ・クリアランスの調整を行った。バルブ・クリアランスの調整は走行距離約5.8kmで初めて行った。この調整後、約2週間経過するが、エンストは再発していない。

 

(当方のオートバイの修理を行ったメカニックBaju Bulat Surjery氏と当方のYAMAHAセロー250)

 

(当方のオートバイの修理調整をしていたら、後輪タイヤに長さ3cmくらいの釘が刺さっていたことを発見。持参のパンク修理キットで直す)

 

ネパール北部山岳地帯のムスタング行きを計画したが、出発して序の口の段階で断念する。

当方のオートバイの修理を行ったバイク修理店は外国人むけにネパールでオートバイツーリングのツアーを行う業務を行っていた。オートバイで山岳地帯の悪路をガンガン走行するアドベンチャーツーリングだ。

本格的なモトクロッサーのようなオフロード・オートバイのレンタルも行う。

 

標高7,000m8,000m級のアンナプルナ山系があるポカラの北部にムスタング(Mustang)と言う秘境の町がある。

通常,観光客は飛行機でムスタングへ行くのだが、悪路の山岳道路でも繋がっている。

ただし,外国人はムスタングへ行くためには同地域の自然保護とトレッキング費用として入場料約500米ドル(6万円)程支払うことになる。

 

ムスタングへのツーリングは約6万円の入場料がかかるが、その手前のローアー・ムスタング(Lower Musutang)なら6千円程度の入場料で済む。ローアームスタングでも標高3,800mの峠道がある。

 

ローアームスタングでもアドベンチャー気分は十分に味わえ、アンナプルナ山を始めヒマラヤ山脈が目の前姿を現す絶景がみれるとバイク修理屋のガイド兼メカニックのアシスタントに言われ、当方は当初の計画を変更してローアームスタングへ23日で行く計画を立てた。

 

その計画変更で、ビザ期限の延長と同地域への入場許可証の入手手続きを行った。ビザ期限の延長と入場許可証の費用は約1.2万円。

その夜になって翌日以降の同地域の天気と気温をインターネットで調べると、同地域の気温は0℃5℃と東京の真冬並みの寒さに加え、雨天が続く予報になっている。 この情報でやる気がすこし失せてきた。

 

その翌日の早朝、エンジンの調子が良くなったオートバイでローアー・ムスタングへとポカラ(Pokhara)を出発した。

 

最初の60km距離は舗装道路で順調に進むが、ローアームスタングよりかなり手前の一泊目の目的地Leteの遥か手前から凸凹のダート道が始まり、その後、山からでる水で道路がぬかるみと泥道となり、更に進むと大きな水たまりが連続するダート道となった。

 

明日から連日の雨天になれば、この道路の状況がもっと酷い泥道になるだろうと考え、すっかり気が萎えてしまった。こんなことなら事前にもっと調べて、同地域へのツーリング計画を立てるべきだったと反省しつつ、あっさり道路をUターンしてポカラへ戻ることにした。

折角のビザ期限の延長と入場許可証が無駄になってしまった。

(アンナプルナ山系がある地域の地図。地図中央の赤丸印の場所がローアー・ムスタング=Lower Mustang地域の目指した場所)

(山間部でスクールバスを待つ子供達。ネパールの生徒は制服を着用する)

(川に沿った谷間の道路を走行する。ローアームスタングへ向かう途中)

(長さ100mぐらいのつり橋上を荷物を背負って運ぶ地元の女性)

(河原では死者を火葬していた)

(ローアームスタング方面へ向かう道路。山から出る水で道路はぬかるむ)

(ローアームスタングへ向かう道を更に進むと、山から出た水で水たまりが多くなった)

 

ブッダゆかりの地を訪問する半巡礼ツーリング

3月上旬に訪問したインド・ビハール州のブッダガヤBuddhgaya)はシダルータ(覚りを開きブッダになる前の名前=Shiddartha)が菩提樹の下で覚りを開き、ブッダ(=覚りを開いた人)になった地であった。

 

訪れた場所は仏教の聖地となっているが、ブッダ生誕地のルンビニ(Lumbini)を除けば、巡礼者や観光客の数は多くなく静かな場所であった。ヒンズー教やキリスト教の聖地と比較すると寂しい感じだ。

 

巡礼地その① ルンビニ(Lumbini)とその郊外のTilauratKudan

インドとのソナウリ(Sonauli)国境に近いルンビニ(Lumbini)は身ごもっていた母親が実家へ里帰りする途中にシッダ-ルタを生んだ場所であった。

シッダ-ルタは紀元前6世紀(BC6th Century)当時サクヤ王国(Sakya Kingdom)の王子として生まれた。ここには生誕地を記念してその後に建てられた寺院跡が残っている。その寺院跡にシッダ-ルタの生まれた場所の石が安置かれている。その生誕場所の石を見ようと多数の巡礼者や観光客が詰めかける。

 

Lumbiniから西へ約20kmの位置にサヤク王国の都であったティラウラット(Tilaurat)がある。

 

当時はカピラバツ(Kapilavatsu)と呼ばれていた。その地にはシダルタの父親であったシュッドーダナ王(King Suddodhana)の宮殿があったと言う。シッダールタは29歳までこの宮殿で暮らした後、妻子を残して旅立ってしまう。この場所は巡礼地でもあるが、まだ未発掘の遺跡もあると言う。

 

ティラウラット(Tilaurat)から3km程度の距離にクダン(Kudanと言う地がある。

シッダ-ルタとなった後、父のシュッドーダナ王に再会した場所であった。現在は仏塔跡が残る程度の公園となっている寂しい場所だった。当方が訪れた時には数名程度の現地の観光客がいた程度だった。

(ルンビニ聖園内のブッdタ誕生の地へ向かう通路には多くの観光客や巡礼者がつめかけていた)


(写真後ろの白い建物の中にブッダの生誕地を記念して後に建てられた寺院の遺跡とブッダが誕生した場所の石がある)

 

Tilauratのブッダ父親のシュッドーダナ王の宮殿と王国都市の遺跡跡。タイの巡礼者が集団で訪れていた)

 

(ブッダが父親のシュッドーダナ王と再会したKudan。周囲には何もない。2千年以上前と変わらない風景だろう)

 

巡礼地その② クシナガール(Kushinagar)=ブッダ入滅(死去)の地

クシナガール(Kushinagar)はLumbiniから200kmしか離れていない。ブッダが入滅した地(死去)である。説法を説きながら各地を回ったブッダは高齢(80歳)になっていた。沙羅双樹(さらそうじゅ)の木の下に横たわったブッダは二度と起き上がらなかったと言う。

 

現在はブッタの入滅の地として小さなマハパヴィニルヴァナ寺院(Mahapavinirvana Temple)が建ち、寺院内には長さ5m程度の横たわる仏像が置かれている。その仏像のまわりにタイからの巡礼者と思われる人達がグループで座り祈りを捧げていた。寺院内の巡礼者はそれほど多くなかった。

(クシガナールのブッダ入滅の地に建てられて寺院)

 

巡礼地その③ サルナート(Sarnath=ブッダが最初に説法した場所

ヒンズー教の最大聖地のワラナシ(Varanasi)の郊外にある。当方はサルナートとは名知らずに、この地のゲストハウスに投宿した。千年も経たような古い煉瓦造りの大きな仏塔(Damekh Stupa)が宿から見え、周辺を歩いている多くのタイの巡礼僧を見かけた。

 

その仏塔のことを調べてみるとブッダが最初に説法した場所だと判った。この一帯は記念公園になっている。

 

記念公園の一角には第二次世界大戦前に日本人の画家だった野生司香雪(のうこうせつ=Kousetsu Nou)が壁にブッダの生涯を描いた大きな壁絵がある寺院がある。

(サルナートでブッダが最初に説法をした場所に建つ仏塔)

 

(サルナートの日本人画家・野生司香雪=のう・こうせつが寺院内の壁にブッダの生涯を描いた寺院。)

 

(野生司香雪=のうこうせつが描いた壁絵の一部)

 

ゲストハウスやプチホテルの経営者

当方は多くのゲストハウスや家族経営のプチホテルに投宿している。

 

共通するのが当方と同年配の経営者は30代前半の息子達に後をたくしているのだが、若い息子たちはホテル立ち上げの苦労や経験が少ない。

 

また、自分が好きで跡継ぎになったわけでもないようだ。出会った2つの宿の経営者の息子たちは、それぞれ大学ではエンジニアリング等の理科系に進んだ。折角の知識も自分の職業キャリアには活かせない。

 

そのような境遇に息子たち本人も満足していない様子が仕事ぶりや接客の様子を見ると当方にも伝わる。

父親は人生の機微を知るホテル経営者だが、この息子たちは跡継ぎとして大丈夫だろうかと思う。

 

ルンビニのゲストハウスの経営者とは息が統合して身の上話も聞かせてもらった。インド・ビハール州がインド最貧州になった理由のひとつも聞いた。

 

イギリスとの独立戦争でビハール州の戦士たちは多くのイギリス人兵士を殺したために、その後、酷い復しゅうや制裁を受けたと言う。多くのビハール州戦士は、その後身元を隠すため、カーストの出身や氏を換え隠れ住んだと言う。

 

ビハール州では中央政府から意図的に教育の機会を奪われた人が多く、また、現地でのインフラ投資も他州より少かかったと言う。そのため、多くの住民が他州への出稼ぎを余儀なくされ、州全体が貧しい状態になっていると言う。 

 

そのオーナーの先祖は船乗りのカーストで、イギリスとの独立戦争では勇猛にイギリス軍と戦ったと言う。そのため、ゲストハウスの経営を手掛ける前の銀行員時代には差別を受けたと言う。

 

十数回にわたる支店の転勤や治安が悪い地での勤務をしいられたという。ある支店時代には、毛沢東系の共産主義者が多い地域で、銀行の支店が襲われ、銀行員が殺されるることもあったと言う。


銀行の支店職員の中にも共産主義者がいて外部の共産主義組織と繋がっていたりして、人事面でも苦労が絶えなかったと銀行員時代の苦労話をしてくれた。 同氏は銀行支店長まで昇格して銀行を退職したが、同氏が属するカーストのため、銀行での処遇では差別を受けたと言う。

 

銀行員の傍ら20年前から始めたゲストハウスが軌道に乗り、長男は外科医となり、32歳の次男が最近家業を次ぐようになったと言う。

(ルンビニで投宿したゲストハウスを経営する元銀行員だった経営者。同氏はゲストハウスを2軒経営する)

 

インターネットが繋がらない。 VPN(私設インターネット回線)で解決

インドの次に訪れるパキスタンのEビザ(インターネットを使用して申請するビザ)をそろそろ申請せねばと考えて、その申請タイミングを伺っていた。

インターネットでパキスタンのEビザ申請サイトを開けようとしても、そのサイトがブロックされていて閲覧できない。ネパール滞在中にも試したが、閲覧できなかった。

 

フェイス・ブック(FaceBook)のグループ情報で問い合わせすると、インドから通常のインターネット回線では

パキスタンのEビザ申請サイトが開けないことが判った。

 

VPNVertual Private Network)と呼ばれる私設のインターネット回線を使えばビザ申請のサイトに繋がることを知った。

 

IT関連分野に強い日本のライダー仲間にVPNについて教えてもらい、何とかVPNのアプリを当方のスマホにダウンロードするとパキスタンのEビザ申請サイトに繋がった。 

 

イランやロシア等の特定国ではインターネット上のサイト閲覧が制限されている。VPNを使用すれば通常のインターネット回線では制限されているサイトにも繋がるようだ。

 

 

以下走行順のショートコメントを記す。

 

ポカラ(Ppokhara)~ルンビニ(Lumbini210km

山間部を通り抜けるジグザグ道路だが、交通量が少ないお陰で、オートバイのライディングが気持ちが良い。ルート上の道路はほぼ舗装道路であり、ヘタウダ(Hetauda)からカトマンズへ行く道路と比較すると各段良好だ。一部区間では工事中のためダート道となっているが、通行には問題ない。

 

ルンビニ付近は平野で住民や民家は国境を隔てて隣接するインド北部州と似ている。道路に牛が多い状況はネパールの他の地域とは異なり、インドにいるようだ。住民もネパール北部のアジア系というよりインド系の顔立ちをしているので、インド人と同じように見える。

(ポカラは落ち着いた雰囲気の町だった)

 

(ネパールの麵料理。日本のラーメンに似ているが、麺はスパゲッティーをゆでたような麵だった)

(ポカラからルンビニへ至る山間部の道路)

(ポカラからルンビニへ向かう道路は山の中腹を通る。道路上に青色のバスが小さく見える)

(山間部では段々畑が多い)

(バスの屋根にも乗客は乗る)

 

(集落では畑の種まきをしていた)

(峠の茶屋の女性経営者。夫の妹夫婦が福岡に住んでいると言っていた)

 

(ある茶店ではお茶カップ内部=写真右は上げ底の上、すり鉢型になっていた。当方は当初ミルクティーが多く飲めると期待していたが、飲み干すと量が本来の1/2以下と少ないのでがっかりした)

 

(ルンビニが近づくと道路上の牛が多くなってきた。道路の真ん中で寝込む牛)

ルンビニ村の中心部

(当方がルンビニで投宿したゲストハウスの周りには何もなかった。当方は静かな場所で気に入っていた。)

(ゲストハウスの窓から見たルンビニ。ブッタ誕生の2500年前とあまり変わっていないと想像する)

(ルンビニの隣の村の母親と息子。当初、姉と弟だと思ったが親子だった。)

 

ルンビニ(Lumbini)~スノウリ国境経由インドへ再入国(Reentry to India via Sunouli landborder)~クシナガール(Kushinagar200km

 

ネパール出国手続き

ルンビニはスノウリ(Sunouli)国境から約30kmしか離れていない。

ネパール側のイミグレーションオフィースは国境に向かってメイン道路側面のサービス道路左側に位置する。国境から約500m位離れた場所だ。

 

メイン道路に多くのトラックが駐車されているため、メイン道路からではイミグレーションオフィースの建物が見えない場合がある。

当方は当初イミグレーションオフィースを見逃し、国境まで行ってしまった。

 

ネパール側の税関は国境約50m手前の道路右側にあり、関係者がその場所にたむろしているので、それとなくわかる。

同税関ではカルネ(Carnet du Passage en Douane)の扱いに慣れているため、1020分程度で手続きが終了する。

ただし, この国境は貨物車両も通過するので、通常の税関手続きをする人々が多く窓口は混んでいる。 係官に<カルネの手続いだ>と言えば、直ぐに奥の事務室に通してもらえる。

(写真奥がネパール側から見たスノウリ国境)

 

インド入国手続き

通常の入国の場合はイミグレーションオフィースで入国手続き後、税関でオートバイの輸入手続きをおこなうが、この国境では順序が逆だった。

 

国境から約50m入った道路右側に軒先で商いをする小さな店舗のような事務所がある。税関とは書いてないので直ぐには判らない。また、手続きを行う税関史も道路横に机を並べて、民間人の服を着ている。

カルネでの輸入手続きには慣れているので、10分程度の待ち時間で済む。

 

イミグレーションオフィースは国境から300m程度進んだ道路右側の少し奥まったところにある。立派な建物。タイから巡礼者が約100名ぐらいのグループで順番待ちしていたが、当方は個人ということで、優先的に対応してもらった。

 

ネパールの出国手続きとインドの入国手続きは移動時間を含め合計1時間半程度で、思っていたより早く済んだ。

ただし、手続きを早く済ませるためには、順番待ちしている列の最前線まで行き、係官に手続きを早く済ませられるように依頼するなり、多少ずうずうしく振る舞わなければならない。

(写真奥がインド側から見たスノウリ国境。ネパール入国の順番待ちをしている貨物トラックが多かった)

 

国境からクシナガールまでは180km程度の距離だったが、雲行が怪しくなっていた。

午前中の早い時間に雨が降ったらしく道路上に少し水たまりがあったり、まだ路面の雨水が乾いていない場所があった。雨が再度降り出す前に宿に到着したいと先を急いだ。

 

クシナガールに到着すると、今にも雨が降りそうな空模様となり、宿を選んでいる暇がない。いつものように宿の予約は無い。最初に訪ねたゲストハウスに躊躇なくチェックインした。すると小雨が降り出した。

清掃が行き届いた宿ではなかったため、長居はしたくないと思いクシナガールは一泊のみとした。

 

宿でオートバイでブッタゆかりの地を訪れようとレインコートを着る準備をしていたら、当方と同年配のゲストハウスのオーナーが、<俺がブッタゆかりの地を案内してやるから、おれのバイクの後ろに乗れ。このくらいの小雨はインドでは何でもない>と案内役を買って出てくれた。 

 

当方はすこし躊躇したが、同氏の好意に甘えて、同氏が運転するバイクの後ろに乗り約一時間ぐらい

ブッタゆかりの地を案内してもらった。

(インドへ再入国後クシナガールへ向かう国道)

 

(クシナガールで投宿したゲストハウスの経営者は親切にも当方をバイクで案内してくれた)

(クシナガールのブッタゆかりの地へ入るゲート)

 

クシナガール~ワラナシ(Varanasi290km

小麦畑が続き平野部の国道を行く。ウッター・プランデシュ(Utter Prandesh)州の道路はよく整備されている。 片側23車線のハイウェイが主要都市間を結ぶ。

 

町の中央部を避けるようなバイパス道路も整備されているため、渋滞した町の中央部に入らず済んだ。

ただし、工事中の区間があるので、多少の我慢は必要だ。

 

ワラナシ(Varanasi)はビンズー教の最大の聖地。ガンジス河(Ganges)沿いに数キロに及ぶ階段状の沐浴場と火葬場がある。インド観光のポスターやガイドブックにはワラナシの沐浴場の写真がよく掲載されているので、当方は訪れてみたいと思っていた。

 

神話ではヒンズー教の創造神のブラフマーが儀式を行ったとされ、ワラシナで一番人気がある沐浴場(沐浴場のことをガート=Ghatと呼ぶ)ダシャシュワメード・ガート(Dashashwameth Ghat)へオートバイで乗り付けた。 沐浴場に至る道路は多くの人や車で非常に混雑していた。

 

ガンジス川で沐浴している人々は当方が思ったほど多くなかった。数名のグループで川に入り、頭まで水に浸かる人、一人寡黙に水に浸かる人等、思い思い形でガンジス川に浸かっている。

 

ガンジス川で沐浴するとこの世で大罪を犯した人でも、その罪は浄化されるという。

 

当方はその後、船に乗り約1時間ほどガンジス川クルーズで船上から多くの沐浴場や火葬場を見た。その景色にはインドの他の都市では見られないない異様さを感じた。

尚、乗船料は200ルピー(約320円)と言われたが、船が岸を離れるところで値切って通常の半額(100ルピー=約160円)乗船した。

 

当方が半額で乗船していることを知った他のインド人乗客が船頭に<当方だけ何故優遇されるのか>と文句を言っていた。観光地ではいつも現地人より10倍ぐらい高い外国人用入場料を払っているので、この時ばかりは逆差別で優遇され、気分が良かった。

 

(立派なコンクリート製の国道=ハイウェイ)

 

(国道=ハイウェイには象も通行していた)

 

(ワラナシのダシャシュワメート・ガートを船から撮る)

(ダシャシュワメート・ガートで沐浴するヒンズー教徒)

 

(ワラナシのガート=階段状の沐浴場の高さに注目。ガンジス川の水位は10m以上と思われる階段上部に達する)

(ガンジス川のガートの火葬場。煙が上がっている場所で死者を火葬していた。遺灰はガンジス川に流される。ヒンズー教徒には墓は無い。)

 

 

 

以上


 

インドからネパールへ入国(Nepal)。首都カトマンズ経由ポカラへ 約900km(3/63/13

ブッタガヤは居心地が良かった。ホテルやゲストハウス等の宿はたくさんあり、掃除が行き届いた上に宿代はインドで一番安かった。

 

また、ブッタガヤでは食事処にも恵まれた。宿近くの多国籍料理を提供していたレストランは、当方のリクエストに応じて醤油で味付けした<野菜炒め>を作ってくれた。久しぶりの和風中華を味わった。2日連続同じ<野菜炒め>を食べた。

一週間同じ<野菜炒め>を食べてもいいなと思ったが、日本出国前の昨年9月に在日ネパール大使館で取得したネパールビザの失効期日が迫っている。


有効期限内の39日までにネパールに入国しようと、後ろ髪を引かれる思いでブッタガヤを出発して、ネパール方面へ向かった。ブッタガヤはインド最貧州であるビハール州(Bihar)の南部に位置する。ビハール州の一人当たりのGDPは約800米ドル台(年間10万円強)とアフリカの最貧諸国に近い。

(ブッタガヤで投宿したRahul Gesthhouse=写真右側の車が止まっている建物が位置する通りには多くのゲストハウスがあった。ゲストハウスは清掃が行き届き過ごし易かった。ダブルベットルームの部屋料金は一泊700インドルピー=約1,100円強)

 

(ブッタガヤの床屋は丸刈りで50ルピー=約80円の散髪料金)

 

走行ルートは以下の通り(約900km

ブッダガヤ(Budhgaya)300km~モティハリ(Motihari)60km~ラクサル(Raxaul)=インド側国境~ビルガンジ(Birganj=ネパール側国境~60km~ヘタウダ(Hetauda)~145km~ネパール首都カトマンズ(Kathmandu)150km~ゴルカ(Gorkhka)=ネパールの古都~115km~ポカラ(Pokhara)~30km~ダンパス(Dhampus)南アンナプルナ山を見る~30km~ポカラ(Pokhara

(インドとネパールの走行地図。地図右側の赤線最上部の赤字で丸く印をつけた場所がネパールのポカラ。その下のマル印はブッタガヤの位置)

(ネパールの走行地図。赤線が走行ルート。走行ルートの最終地点の赤字印の場所がポカラの位置)

 

インド・ビハール州(Bihar)はインド最貧州で道路インフラの整備は他州より遅れている(ブッダガヤ~モティハリ~ラクサル国境の360km

ビハール州をネパールとの国境がある北部へと進むが、インド最貧州のためか道路インフラが他州より劣っていると感じた。南北にはハイウェイ(国道)が無く、狭くて人口密集地を通過する州道しかない。

 

州道と言っても日本でいえば対面通行の県道や市道といった狭い道だ。


州道では人口密集地が続くため、日本の祭りや縁日の人出でごった返すような町中の道を多くの車やバイクが警笛を鳴らし続け、のろのろ運転で走行したり、止まったりする。時には他のバイクや三輪車タクシー(リキシャ)の割り込み運転でぶつかりそうになったりする。


インドで一番ストレスが溜まる運転を余儀なくさせられた。こんな運転にはもはや我慢が出来ず、早く他国へ行きたいと思うほどだった。

(うっかり迷い込んだビハール州の農道)

 

(ビハール州の民家には窓枠はあるが、窓にガラス等は入っていなかった。)

 

インド出国とネパール入国。 国境通過にには2時間以上かかった。

インドのラクサル(Raxaul)国境からネパール側のビルガンジ(Birganj)国境へと越境した。

越境前にインドのモティハリ(Motihari)で前泊して、モティハリから60km先の国境の町ラクサル(Raxaul)へと急いだ。 60kmしかない距離だが、途中に村々や町等の人口密集地を通過するため国境まで2時間以上かかった。

 

また、ラクサル国境では誤ってラクサル郊外にある貨物トラック専用の税関がある国境検問所へ行ってしまった。外国人旅行者や一般旅客はラクサルの町中にある国境検問所を通過する必要があった。


インドの出国ではイミグレーションと税関で合計1時間以上の時間がかかった。税関職員がカルネ(Carnet du passage en duane)を使った出国手続きに慣れていなかった。しかしながら、税関職員は最後に当方へ甘いミルクティーを振る舞ってくれた。


この国境はインド人とネパール人は出入国の手続き無しで日本の県境を跨ぐように往来している。


外国人旅客のみイミグレーションオフィースで出入国手続きをする。出入国審査を待つ外国人はほとんどいないが、イミグレーションオフィースの職員はのんびり構え、税関職員は手続きに慣れていないため審査に時間がかかっている。

(インド側国境の町ラクサル=Raxaulまで30kmの標識)

 

ネパール入国手続き

ネパール入国後、道路脇にイミグレーションオフィースを見付けて立ち寄る。しかし、職員がいない。

当方はオフィースでしばらく待った。しばらくして、職員が食事から戻ってきた。

 

当方はその職員へ<ネパールビザが2日後に失効する。どこでビザの延長手続きが出来るか?>と相談した。

 

その職員はその場であっさりビザの失効日を2週間延長してくれた。本来の手続きは、税関にて有償(一日当たり3米ドル)で、延長手続きをするとのことだった。

 

日本自動車連盟(JAF)では外国籍車両をネパールへ持ち込む場合、カルネ対象国として扱っていない。しかしながら、フェイスブックのアジアツーリングのグループ情報やカトマンズの輸入代行業者の情報では国境の税関でカルネを利用して入国することになっている。

 

当方はカルネを税関職員に提出して、入国印と署名を求めたが、上席職員はカルネのことは全く分かっていなかった。 当方がカルネ上の書き方、押印と署名の場所を説明して、オートバイの輸入手続きを済ませた。


この国境の税関はカルネを使用して入国する外国籍車両をオンラインで管理している様子はない。係官の机上には書類が散らかっていて書類のひとつやふたつ紛失しても、気が付かないし、気にも留めないだろう。

 

国境を無事に通過後、ネパールの現金を入手するため銀行を探した。クレジットカードでキャッシング後、携帯電話のSIMカードの販売店を探す。SIMカードを入手したら、時刻は既に午後の3時を回っていた。

事前の想定では午前中に出入国手続きとSIMカード購入等を済ませて、国境から約200km先のカトマンズを目指すつもりでいたのだが。

(インド側からネパール側へ越境するとネパール側の門が見える。)

 

ネパールは居心地が良い国

ネパールは居心地が良い国だと感じた。

 

ネパール人から<当方がどこの国から来たか?>等の質問を頻繁にされないことが居心地が良いと感じた理由の一つだ。

 

人口がインドのように多くないため、ゆったりできる気分になる。


また、当方が苦手な牛糞がほとんど道路上に無い。路上や町中のゴミも少ない。牛は稀に路上で見かける程度。さらに暑くないので過ごし易い点も当方には有難い。


車やオートバイの運転マナーはインドよりはるかに良い。車やバイクはクラクションを余り鳴らさないので、道路は騒がしく無い等インドの隣国ながらインドとは全く異なる。久しぶりにリラックス出来る保養地へ着た気分になった。

 

外国人旅行者が現地人と接する範囲だが、インドよりも英語が通じると感じた。また、日本語を話す複数のネパール人とも出会った。日本から観光客が多かったためだろう。

 

インドは英語が準公用語になっている。しかしながら、旅行者が接する範囲の雑貨店、飲食店、ガソリンスタンド等ではほとんど英語が通じない。

(カトマンズ市内へ市外から入る道路)

 

道路インフラは非常に悪い

他方、道路インフラは非常に悪い。

 

道路工事中でダート道の区間が多い。また、舗装道路であっても経年劣化の上、補修が無いため酷い凸凹が無数にあり、凹凸を避けながら低速でオートバイ走行をせざるを得ない。車両での移動は一日100km150kmが限度である。

 

道路の補修が行き届かないのは、コロナ(Covid-19)の影響で観光業主体の国民経済が大きな影響を受け、厳しい国家財政の運営を余儀なくされているからだろう。

 

ネパールの国際収支(国の海外との経済活動での資金のやりくり=貿易収支+サービス収支+経常移転収支)を見ると貿易収支は経常的に大幅な輸入超過で赤字、サービス収支は海外から観光客が大幅に減少して赤字に転じている。

従来は貿易収支とサービス収支の赤字を海外からの出稼ぎ労働者からの本国への送金等の経常移転収支が埋めていた。

 

しかしながら、海外からの観光客の減少分を埋めるには出稼ぎ労働者の本国への送金だけでは足らず、国の海外とのやり繰り(経常収支)は赤字になっていた。

 

2008年以前の国際統計ではこの赤字は国の外貨準備の増減に反映された。

国際収支が赤字分だけ、外貨準備額が減る。海外で借入金等の負債があれば、負債返済能力に懸念が生じて、その国の通貨は弱くなる傾向がある。

 

上記を家計に置き換えると、他人へ物品を販売する金額より、他人から買う分の方が多くて赤字(貿易赤字に相当)。

 

家計では適当な例が見当たらないが、旅行代金や保険料金は他人から受け取る分より、自分が使う分の方が多い(サービス収支の赤字に相当)。

家計の赤字の穴埋めを親族からの送金(援助)で賄っている(経常移転収支に相当)。

 

家計で使う分の方が多くて、赤字分を親族からの送金で賄えないと、家計の預貯金を取り崩す(外貨準備額が減少に相当)。家計の預貯金が減少すると、借金が多い家計は、借金の支払い能力(信用度)が低下する。

 

カトマンズ滞在

カトマンズには3泊した。カトマンズは標高1500mの盆地に位置する。カトマンズ盆地は小高い山に囲まれている。カトマンズからヒマラヤ山脈が見えるかなと期待したが、埃で視界が悪いせいもあるが、ヒマラヤ山脈は全く見えなかった。

 

標高が高いため、朝夕と夜の気温は10℃台まで下がる。ダウンジャケットが必要だ。

しかし、日中に太陽が出れば、気温は27℃28℃位まで上昇して、Tシャツで一枚ですごせる暑さになる。この気候だと街歩きもし易く、ガイドブックに紹介されている有名寺院や観光名所をバイクや徒歩で巡り、観光らしい観光をした。

 

物価はインドより安いと感じた。カトマンズの中心部のタメール地区(Thamel)のプチホテルのような設備が整ったBag Packer's Lodgeと言うゲストハウスに宿泊した。ダブルベッドルームの部屋料金はバイクの駐車料金を含め一泊1,200ネパールルピー(約1,200円強)だった。

(カトマンズで投宿したゲストハウスがある通り)

(カトマンズ旧市街中心部のアサン・チョーク=Asan Chowkは多くの通りが集中する賑やかな広場だ。チョーク=Chowkとは広場のような場所で古くからランドマーク=道印的な存在になっている)

 

(カトマンズ旧市街で一番賑やかなアサン・チョークとインドラ・チョークを結ぶ通り)

(カトマンズ旧市街のダバール広場=Dubar Squareの寺院が見える)

 

(カトマンズ旧市街ダバール広場の寺院近くには寺院に備える花を売る人がいる)

 

(カトマンズ旧市街の紳士服店が十数軒並ぶ通り。店の前にはネパールの正装を身につけたマネキン人形が置いてある。)

 

(ネパールで最大の仏塔ボダナート寺院=Boudhanath Templeは街中の広場のような場所にあった。世界遺産)

(ボダナート寺院の周囲約300mをうつ伏せで祈りながら回る仏教徒)

 

(カトマンズ市内のパシュパティナート・ヒンズー教寺院=Pashupatinath Templeの沐浴場=写真右側と川の反対側の火葬場=写真左側)

(パシュパティナート寺院横の川の石段では布に包まれていた死者の足と頭を川の水で清めていた。写真奥に布で包んだ死者が見える。冥福を祈り合掌)

小高い丘の上のスワヤンブナート仏教寺院=Swayambhunath Temple。ネパールでも古い寺院。寺院からカトマンズ市内が見渡せる。世界遺産)

(スワヤンブナート寺院から見たカトマンズ市内。写真奥に高さ50m以上ある白い色のBhismsen Tower=1832年建設の見張り塔が見える)

 

ある出会いが新たな出会いを呼んだ。

カトマンズの中心地で、当方が投宿している場所から徒歩5分程度の距離に地元の食堂があった。惹かれるようにその食堂に入っていくと、そこの経営者に日本語で話しかけられた。その経営者は東京都の八王子市に約6年間住んでいたと言うネパール人だった。

 

翌日もその食堂へ行くと日本人の青年が入ってきた。その青年はネパール人研修生のサポートをネパールの企業と協働する京都市内のベンチャー企業の若手経営者だった。

 

その青年からカトマンズの後に訪れるポカラ(Pokhara)でコーヒーショップを経営するネパール人を紹介された。ポカラ周辺の観光情報は同氏に聞けば、すぐわかるとのことだった。

 

その後訪れたポカラでは同コーヒー店の経営者から地元のバイク修理店や同氏の友人で外国人向けレンタルマンションとコーヒー園を経営するネパール人を紹介された。

 

当方がポカラを訪れた理由の一つはヒマラヤ山脈の山々を見ることだった。乾季で土埃が霧のように視界を遮る今頃はポカラからでも遠くの山々は見えない。

 

そこで、レンタルマンションとコーヒー園を経営するネパール人から同氏の出身地であるポカラから30km程度離れたダンパス(Dhampus)と言う山村へ訪れることを薦められた。その山村からはヒマラヤ山系のアンナプルナ山(Annapurna)が見えると言うことだった。

 

同氏のアドバイスに従い、当方はポカラを訪れた翌日にダンパス村を訪れ、そこで一泊した。

 

ダンパスは標高約1650mの高地にあった。霧のような土埃で視界が悪く、同地でもヒマラヤ山脈はなかなか見えない。

 

しかしながら、午前9時ごろから11時ごろの2時間位の間のみダンパス村の北側に南アンナプルナ山=Annapurna South(標高7229m)が見上げる高さに見えた。標高1650mから見上げる高さ7000m強の南アンナプルナ山は雲のはるか上の高いところに見えた。太陽の光が山の雪に反射して南アンナプルナ山が空に浮かび上がるように見えた。

(カトマンズ市内でOld House Cafe&Resutrantを経営するAle氏。八王子市に6年住んだことが有ると言う)

 

(日本での就労を希望するネパール人研修生をネパール企業と協働してサポートする京都市内のベンチャー企業の経営者=木山氏)

(ポカラ市内でコーヒーショップ=Bikas Coffeeを経営するゴクール氏。同氏は観光ガイドとして日本語も堪能だ)

(ポカラ市内で評判が良いバイク修理店=Raju Bultn Surjeryと店主。店主の名前がそのまま店の名前になっている。店主のRaju氏=写真左とBikas Coffeeのゴクール氏=写真右)

(ポカラ市内でコーヒー店及びコーヒー園、そしてレンタルマンションを経営するStar Coffee Center社長のJagan Bdr. Gurung氏。同社のコーヒー豆は日本にも輸出されている。同氏は十数年前には観光ガイドを行っていたと言う。日本語も堪能だ。)

 

以下通過したルートと町のショートコメント

 

ブッダガヤ~モティハリ(300km

上述したように、混雑した市街地が多々あり、ストレスを一番感じたルート。ビハール州では小麦の栽培がさかんであった。インド北部では米作は行わない。

 

このルート途中でガンジス川を渡る。乾季のため水が流れている部分の幅は狭かったが、河川敷を含めると川幅は約1.6kmある。ガンジス川に架かる片側2車線の鉄橋は長さが約5kmと長かった。

(ビハール州の道路工事区間)

 

(ビハール州の小麦畑)

(道路脇の砂糖キビジューズ販売。暑さと長時間のバイク走行で疲れていた時に飲んだサトウキビ・ジューズは最高だった。長さ1m=写真左側のサトウキビの半分でコップ一杯分=180cc位のサトウキビの汁を圧縮機械で搾り取る。1杯20ルピー=約30円強の価格)

 

モティハリ(Motihari)~インド出国・ネパール入国~ヘタウダ(Hetauda120km

インド出国とネパール入国の手続きに時間がかかる。ネパール国境から約60km進んだヘタウダ(Hetauda)で一泊した後、翌日に首都カトマンズへ向かった。

 

このヘタウダで投宿したことは間違いではなかった。ヘタウダからカトマンズまでの距離は145kmと短い。しかし、この区間は道路状態が悪い山岳道路だった。そのため、午後の遅い時間にネパール国境からカトマンズまで一気に進むには無理があることが、翌日走行してみて判った。

(ヘタウダ=Hetauda市内の交差点には仏塔のように複数の旗が掲げられていた)

(投宿ホテルの外廊下から見たヘタウダの幹線通り)

 

ヘタウダ(Hetauda)~カトマンズ(Kathmandu) 145km

ヘタウダから最初の30kmは狭いながら良好な道路であった。しかし、その後は舗装面が崩れていたり、道路工事中の区間で有ったり、ガタガタのダート道であったりと走りづらい区間であった。この区間の走行には時々休憩を入れながら56時間かかった。

 

カトマンズへ近づく路面が悪い国道で、危うくバスに接触してオートバイを倒されそうになった。上り坂で前方を行くバスが遅いため、当方はそのバスを追い越そうとしてバスの左側面へ出た。するとそのバスが突然、道路の真ん中方向へと進路を換え、当方の行く手を遮る形になった。

 

対面からは観光バスが迫ってきていたため、当方は直進するしかすべが無かった。追い越そうとしたバスの側面が当方オートバイのハンドル左側端に接触した。

 

当方はふらつきバランスを失って道路中央で転倒しそうになる。バスの運転手が気づきバスを止めた。当方も止まり、足で踏ん張りオートバイの転倒を回避。

 

バスの運転手が<気を付けろ>と言わんばかりに怒鳴っている。怒鳴りたいのは当方の方だったが、怒鳴る余裕は無かった。

(道路工事中の区間)

(山岳道路の周辺景色)

 

(山岳道路沿いあった茶店の家族。当方がお茶を飲んで話をしているうちに主人が家族を紹介してくれた。写真左から、主人の兄弟、主人(41歳)、主人の妻、主人の長男(22歳)の嫁、主人の次男(15歳)。ネパール結婚年齢は早いようだ)

(ヘタウダからカトマンズへ抜けるルートの最高地点は標高2,448mあった。)

(カトマンズ盆地)

 

カトマンズ~ゴルカ(Gorkha150km

カトマンズ~ポカラまでの約220km強の距離の中間地点に近い位置にゴルカがあった。 カトマンズで通った食堂の日本語を話すネパール人経営者がゴルカ出身ということで、同氏と話しているうちに、ゴルカがネパールの古都であることを知った。

 

ゴルカが英語読みでなまり、グルカとして世界に知れ渡った。グルカ兵として英国の傭兵となりその強さが知られた。当方は中学生か高校生の時、グルカ兵のことを教科書で見たことを思い出した。

 

ゴルカは静岡県東部の熱海市のように山の斜面に広がる町だった。ゴルカの町が見渡せる小山の頂上にかっての王宮があった。旧王宮は現在ヒンズー教の寺院として使われている。

(カトマンズからゴルカやポカラ方面へはこのような川の流れる谷沿いのルートを進む)

 

(ゴルカ市街地の遠景)

(投宿ホテルから撮影した斜面に広がるゴルカ市街)

 

(小山の頂上にある旧王宮はヒンズー教寺院となっていた)

(旧王宮を守るゴルカの兵士)

(旧王宮横の坂道階段を薪を背負って下る女性達)

 

ゴルカ~ポカラ(Pokhara115km

短距離の割には移動に4~5時間を要した。道路工事中の区間が多く、ダート道となっている。貨物トラックやバスの後ろを走行すると舞い上がった土埃で前方がほどんど見えなくなる。この日は、オートバイをアイドリング状態から発進したり、ギアを上段に上げる際に10回ぐらいエンストする。

 

正確なエンストの原因は判らない。但し、後日ポカラ市内で紹介された評判良いバイク修理店のメカニック(店主)からは、エアーフィルターが目詰まりして、当方オートバイがエンストした可能性があると指摘される。 

 

エアーフィルターを調べてみると、油汚れがこびり着き、確かにフィルターが目詰まりしていたようだった。

 

エアーフィルターを持参していた新品と交換する。エアフィルター交換後のポカラ~ダンパスの往復60kmの走行ではエンストは無かった。

ゴルカからポカラへ行くルートは道路工事中のダート道区間が多かった。工事を請け負った中国企業の看板が見える)

 

(崖で作業する建設機械が崖にある岩を道路上に落としていた。道路は落石で一時通行止めとなった)

 

(休憩した茶店。茶店の外の駐車場奥で中年の女性がお尻を出して放尿している姿には驚いた)

(ポカラ付近の子供達。片言ながら英語で<Which country are you from?>と当方へ質問してきた。)

 

ポカラ~ダンパス(Dhampus)往復60km

ポカラから一時間半の距離であるが、午前9時から午後3時か4時頃まで道路工事のため交通が制限されている区間があるとして早朝の出発をアドバイスされた。

 

また、この時期天気が良くても、土埃でヒマラヤ山系の山々が見える時間は早朝から午前中のみであることを教えてもらい、ポカラを日の出前の暗い午前5時台に出発してダンパスに向かう。

 

ポカラからダンパス村に通じる道路は石ころだらけのダート道となり、当方のオフロードオートバイ(セロー250)が威力を発揮する。

(ダンパス村=Dhampus村へ通じる道路)

 

(ダンパス村から見る周囲の山々の景色)

 

(ダンパス村は標高約1,650mの高地だ。ポカラ=標高800mからダンパス村へは坂道を登り続ける)

 

(ダンパス村の投宿ホテルから見えた標高7,219mの南アンナプルナ山=Annapurna South。写真だと山が小さく写る。)

ダンパス村からポカラに戻った日に雨が降ったため、翌朝=3/14にポカラ市内からもアンナプルナの山々が見えた。写真左側の山Annapurna IV峰=標高7,526m。写真中央はAnnapurna II峰=標高7,937m。写真右側の尾根が長い山はラムジェン・ヒマール=標高6,986m)

 

(ポカラ市内から雨後の翌日早朝に見えた標高6,993mのマチャプチャレ=Machapuchare。山の形からネパールのマッターホルンとも呼ばれている。ネパール政府が長く登山許可を出していないため、いまだ未踏峰の山と言う)

 

以上


 

インド東部を北上(チェンナイからブッダガヤまで2,200km) 2023/2/20~3/2

 

インドでのバイクツーリングを開始してから1ヶ月経つと風景や人々との接し方にも慣れ新鮮味が薄れてくる時期だ。 そんな中、オートバイがハイウェイ上でエンストして動かなくなった。燃料系統の問題だとインドではスペアーパーツが入手できないので、インドツーリングもここで終了かと思った。しかしながら、ヤマハ発動機の現地駐在員及び現地のヤマハオートバイの販売店の協力を得て、ツーリングの再開ができた。

 

そしてチェンナイから途中宿泊しつつもブッダガヤ(Budhgaya)まで一気に約2,200km走行して、チェンナイの次の主要目的地としたビハール州のブッダガヤに到達した。

 

鹿児島から北海道の最北端(宗谷岬)まで2,400kmの距離だから、それにほぼ匹敵する距離を9日間で走行。

この区間で2連泊したのはベンガル湾(インド東部)側のオディッシャ州(Odisha)のコナルク(Konark)と言う村だけだった。 


コナルクには世界遺産に登録されている太陽神を祀ったヒンズーの巨大寺院遺跡があったからだ。また、コナルクから約35km離れたプリ(Puri)にあるインド東部では最大規模のヒンズー教寺院が見どころだと聞きき、興味を持った。

(ブッダガヤ(Budhagaya)のMahabodhi Temple内にブッダが瞑想した菩提樹がある。各国の仏教徒が巡礼する)

 

走行ルートは以下の通り。(詳細は下記写真地図参照)

Chennai390kmOngole(エンジントラブル発生)~150kmVijayawada370kmVisakhapatnam(貿易港)340kmChilika(吃水湖畔の村)160kmKonark(世界遺産)~270kmBalasoreUSBチャージャー取付)~330kmRanchi(内陸州のJharkhand州都)230kmBudhgaya(ブッダが悟りに目覚めた場所)


(赤い線が走行ルート。チェンナイは地図東側=右側中段下部のマル印の場所。ブッタガヤは赤線の最上部)

 

チェンナイ(Chennnai)で外国企業が進出する工業団地を見学

日系の調査機関でチェンナイ地域は日系企業も含む多くの自動車関連の外国企業が進出している場所だと教えてもらった。チェンナイは同市および近郊に貿易港を持つ戦略的な場所に立地する。

 

自動車関連産業が集積するチェンナイはインドのデトロイトと呼ばれている。

 

インドで製造した製品をアフリカ等の第三国へ輸出する際には、道路インフラが整備され、州の税制優遇策も導入されているチェンナイが魅力的だと判った。エアコン大手の日系企業ダイキンはアフリカへの輸出を考慮してチェンナイへ進出したと聞く。

 

チェンナイ市内から約40km離れたバラム・バダガル(Vallam Vadagal)と言う工業団地内の日系の大手オートバイメーカーの工場を目指した。工業団地内は広かった。 団地というからには工場同士が隣接していると想像していたが、隣の工場とは数キロメートル単位離れていた。このメーカーは日本の本社工場の3倍ぐらいの従業員を雇用してる大規模な工場を工業団地内構える。工場敷地がかなり広い。

 

この日系企業を表敬訪問したことが、翌日当方のオートバイのエンジントラブルを解決するための大きな手助けとなった。

(チェンナイ地区の工業団地一覧表)

 

(ヴィラム・ヴァダガル=Vallam Vadagal工業団地内の一部の地区の企業案内)

 

(工業団地内の日系大手オートバイメーカーの工場敷地外側)

 

オートバイのエンジントラブル

その日はチェンナイを出発して、約400km北に位置するアンドラ・ブランデシュ州(Andhra Brandesh)のグントウールGuntur)と言う町へ向かう途中だった。


ハイウェイの路肩にオートバイを止め小休止した後、エンジンが始動しない。エンジンをかけようとしてもセルモーターがシュルシュルと唸るだけだった。ハイウェイ上の200m先に簡易宿泊施設があるパーキングエリアがあった。そこまでオートバイを押して、移動した。そして自分自身でスパークプラグの状態を確認したが、スパークプラグからは火花がでる。

 

燃料系統のトラブルだと電子制御方式になっているので、燃料噴射ユニットの交換となる。直ぐに修理できるようなトラブルではない。日本から部品の取り寄せが必要だろうとか、インドで修理が可能だろうか等の不安が頭を横切った。

 

前日表敬訪問した日系大手オートバイメーカーは当方のオートバイを日本で製造しているヤマハ発動機だった。

当方はその駐在員へ電話連絡をして善後策を相談した。その駐在員はサービス部門を担当する別の駐在員に直ぐに連絡をとってくれた。 そして、サービス部門担当の駐在員から当方へ連絡が入った。


そのサービス部門の駐在員は現場から一番近くにあるそのメーカーの現地販売店に連絡を付けてくれた。その販売店のスタッフがレッカー車で当方を迎えに来てくれると言うのではないか。 陽も暮れかけ、暗くなってくるさなか、有難い。こんな時、緊急対応に慣れた人達に出会えて運が良かったと思った。

 

販売店のメカニックが現場でスパークプラグの点火状況等をチェックするが、その場で修理するのは難しいと判断して、バイクを約60km離れた販売店までレッカー車の荷台に乗せ運ぶことにした。 その間、その販売店のオーナーは当方のホテルと軽食まで用意する手際良い対応をとってくれた。

 

翌日販売店へ行くと、オートバイの修理は終了していた。スパークプラグへ高圧電気を発生させる電気コイルに不具合があったと言う。そして、電気コイルを交換したとのことだった。

 

前日のホテル代や修理代金を払おうとすると、その販売店のオーナーは<当方はゲストだから無料で良い>と言い、当方から代金を受け取ろうとしない。当方はそのオーナーの好意に甘えることにしたが、この対応には感激した。

 

(当方オートバイを修理してくれたSri Vishu Motorの二代目社長のVishu氏=写真右)

 

(Sri Vishu Motorの修理工場)

 

お茶休憩の接客

インド人はおちょこサイズより少し大きいカップにいれた甘いミルクティーを頻繁に飲む。 街角やレストランの近くにはミルクティーを販売するスタンド店がある。

 

当方はオートバイの運転に疲れてきたら、道路沿いのお茶スタンドでこの甘いミルクティーを飲み、休憩する。 あるとき食事がとれる道路脇のレストランでお茶を飲み、椅子に座って休憩していると、そこの親父がお茶を飲み終えたらさっさと引き取ってくれと言わんばかりの態度を示す。

当方をネパール人だと思っている。

 

他方ある時は、当方がお茶代(10ルピーから15ルピー=16円~25円程度)を額面が大きい紙幣で払おうした際に、そこの女性オーナーは釣り銭が無いから、無料で良いという。

 

当方は無料ではその女性に悪いから、隣にあった雑貨店で両替をお願いして、ちょうどの金額をその女性に渡した。すると女性の口から<有難う>とお礼の言葉あった。インド人でこんなに控えめな人がいるとは驚き感動した。


 

観光地を清掃して奇麗にしたら外国人観光客も呼び込めるのに

ヴィシャーカパトナム(Visakhapatnam)から約300km北東にチルカー湖(Chilika)というベンガル湾に面した吃水湖がある。琵琶湖の2倍の広さだ。当方はこのチルカー湖があるチルカー村のホテルに一泊した。200m程度長さの村の通り沿いにゲストハウスとホテルがあり、あとは民家と雑貨店等からなる村だった。

 

地元ではチルカー湖のイルカやフラミンゴを見るツアーがあるようだ。しかしながら、小型の観光船が係留されている場所は、ペットボトル、ポリ袋等のプラスチックごみや他の生活ごみで岸辺が埋め尽くされて景観を大きく損ねている。

 

折角の観光資源を有効利用できていないと感じる。そもそもゴミを出さない、捨てないことが大事だが、清掃人を雇うなり、あるいは自分たちで大規模に清掃したらチリカーのイメージアップに繋がると思った。

(チリカー湖の小型観光船)

 

インドの田舎の村に住むハードルの高さ

チルカーからプリーへ抜ける際に田舎道の村を通る機会があった。 Maps.Me(カーナビアプリ)でもこのルートの表示が出ないほどの小さな村だった。

 

素朴な寒村だった。周囲は大きな水田地帯になっていた。当方が低速でオートバイで通過したり、停止すると村人の視線を感じるほど、その村はよそ者を注意深く見ていると感じた。

 

ここの村の様子は、100年前の過去に戻ったような感じの静かな場所だったが、電化製品等生活に便利な物なしで生活する不便さの方を感じた。当方が苦手な牛の糞の燃料を造ったりする作業も素手で行う。 余程の覚悟が無い限り、文明の力の便利さに慣れた人が、この環境で生活するにはハードルが高いと感じた。

(田舎町の商店街)

(比較的小ぎれいだったある村の通り)

 

(薄く伸ばした牛糞を道路端で乾燥させて家庭用燃料とする)

 

コナルク(Konark)の世界遺産 太陽寺院(Sun Temple

13世紀建てられていうヒンズー教の太陽神Suryaを祀る神殿だった。世界遺産登録の言葉にひかれて同地を訪れた。

 

遠くから見ると中米メキシコやグアテマラのマヤ文明やアステカ文明時代のピラミッドに似た神殿に見えた。

現存する部分は高さ38mの釣り鐘型の神殿だ。この神殿の周囲の壁部分には多くの男女の性の営みを描いたエロチックな彫刻が彫られていた。

ヒンズー教の性表現の大胆さには驚く。

(コナルクの太陽寺院=Sun Temple)

(太陽寺院=Sun Temple壁面彫刻)

 

以下各走行ルート区間の簡単なコメントを記す。

 

ChennnaiOngole 390km

チェンナイ市内の渋滞を抜け出すのに数十キロメートルの距離を走行。大都市の道路の混雑にはいつもうんざりする。 チェンナイ市はタミール・ナドウ州の北部に位置する。

 

イギリス植民地時代にチェンナイはマドラス(Madras)と呼ばれ、植民地政策の先兵となったイギリス東インド会社が拠点していた。現在その拠点は州政府の建物と博物館及び当時の聖マリー教会(St Mary's Church)があるぐらいだった。 

 

オンゴール(Ongole)はアンドラ・ブランデシュ州に属する。オートバイのエンジントラブルのためこの町に泊まることになった。小さな町だと思ったが意外と大きかった。

(チェンナイ市内の植民地時代のイギリス東インド会社拠点があった場所(Fort)にある聖マリー教会=St Mary's Church)

 

 

OngoleVijayawadaVisakhapatnam 420km

アンドラ・ブランデッシュ州を走行する。ハイウェイ沿いの広大な農地から農業が盛んなことが判り、事前に聞いていた通り農業が盛んだということが頷けた。

 

Vijayawadaでは市場の中にあるような人々でごった返すような場所に有るホテルに投宿した。同ホテルの、一部のスタッフが最後までチップをねだる態度にはすこしうんざりした。

 

Visakhapatnamでは渋谷に似た景観を見た。両側にビルで挟まれた中を高架の道路が通る。坂道が多く首都高速道路がビル街を通る渋谷に似ていると思った。

 

(アンドラ・ブランデッシュ州の水田地帯)

 

(Ongole近くのハイウェイの4km区間は大型飛行機が離発着可能な緊急用の滑走路として使用できるようになっていた。この区間はコンクリート製の道路面と飛行機の離着陸区間の印=写真の横断歩道のようなマークがあった。)

 

(オンゴール=Ongole市内の金の宝飾店の宣伝車。金はインド人の伝統的な蓄財方法としても人気が高い)

 

 

(乾季の枯れた川。橋の上から撮影したが、川は砂漠にしか見えない)

 

(Vijayawadaで投宿したホテル近くの金細工店の職人たち)

 

(Vijayawadaで投宿したホテル近くの商店街)

 

(Visakhapatnamの街並み)

 

VisakhpatnamChilika 340km

アンドラ・プランデッシュ州からオディッシャ州(Odisha)となる。今まで見渡す限りの平地だったが、低い山が見え始める。ハイウェイには貨物トラックが多くなる。チルカー湖畔のチルカー村のホテルに投宿。チルカー湖の見物に出かけたが、船を係留している岸辺にごみが多くてガッカリ。

(山が見えるオディッシャ州=Odisha。菜の花畑あり、季節が判らない)

 

(チルカー村=Chilikaの通り。写真右側から2番目の建物が投宿したホテル。一泊1,000ルピー=約1,600円)

 

(チリカー湖で獲れた干し魚を売るオープンマーケット。)

 

ChilikaPuriKonark 160km

近道をするため田舎道を通る。通過する村々の生活は想像したより厳しいと思った。集落の外に出れば水田地帯が開け、のんびりとオートバイ走行ができ気持ちがよかった。

 

Puriの町で一泊する予定であったが、当方が気に入る清潔で手頃な価格のホテルがなかったため、Konarkへ移動した。Puriにはインド東地域で最大規模のヒンズー教寺院があると聞いて、見学しようと思った。しかしながら、参詣者が非常に多く断念した。日本の元日の有名神社の参詣のように数万人と思われる信者が列を作って入場を待っていた。

 

同寺院にはヒンズー教徒以外は入れないと後で知った。

 

Konarkでの滞在は予定していなかったが、滞在してみると静かな村で気に入った。ここでは日本に十数年住んだことがあるインド人が経営するゲストハウスに投宿する。そのインド人の夫人は日本人女性であった。

(プリ=Puriにある東インド地域で最大のヒンズー教寺院。中央の塔は60m位の高さがあり、目を見はるような大きさだった。写真では実際の大きさを伝えられない。)

(寺院の外から祈るヒンズー教信者)

(プリ=Puriの海岸)

 

(コナルク=Konarkの太陽寺院近くのOkaasan Guest Houseのオーナーと夫人)

 

KonarkkBalasore 270km

Balasoreではヤマハオートバイの現地販売店を見付け、同店でヤマハ製(インド製)のUSBチャージャーを購入して取り付けてもらう。

従来から使用しているデイトナ製のUSBチャージャーでスマホへの充電が最近上手く出来ていなかったからだ。

夕方の忙しい時間帯にUSBチャージャーを取り付けてもらい、ワークショップのスタッフの働きぶりに感心した。

しかも、手間がかかった取付の工賃を無料にしてくれた。

 

当初Ballasoreからインド東部の最大都市カルカッタ(Kolkata)を目指すつもりでいた。Balasoreからカルカッタ(Kolkata)まで300km程度の距離だ。

 

しかしながら、大都市でのオートバイ走行にはうんざりしていた。加えてコナルカ(Konark)で投宿した宿の主人にカルカッタでのオートバイ走行は一番危険であり、止めた方が良いと忠告を受けた。そのため、あっさりとカルカッタ行は取りやめた。

(オートバイへUSBチャージャーの取付作業をしてくれたSai Annanta Automobilesの人達)

 

(Balasore市内中心部の道路を横断しようとする牛。牛は道路を自由に闊歩する。)

(Balasore市内中心部の通りで休息する犬。通りの中央で横たわったり、寝たりしている犬が多い。車やバイクは犬を上手に避けて通る。)

 

BalasoreRanchi 330km

Balasoreから海沿いを離れて内陸部のデカン高原の東端地域へと移動する。空気が乾燥しているため、森林の木々の葉が枯れている。

 

コナルカで引いた風邪が悪化して声がかすれてしまう。

新しいUSBチャージャーでもスマホに上手く充電できない。問題はスマホ側にあるのではと疑う。

 

ハイウェイ一本道での走行ではカーナビは使用せず、道の分岐点で確認のためカーナビを使用する程度に留める。

このルート上にはお茶休憩ができるお茶スタンドやレストランが少なく、眠くなっても休憩する場所が無い。

ランチ(Ranchi)はジャガールカンド州(Jharkhnad)の州都であったが、街中はほとんど見かった。寝るだけの場所になってしまった。

 

あるガソリンスタンドの店員に<どこから来たか?>と聞かれた。当方が<日本だ>と答えるとそこはどの州にあるんだと聞き返された。

 

当方は日本の国旗ステッカーをヘルメットの後ろとナンバープレートに張り付けているが、日の丸の国旗が日本だと知っている人はほとんどいない。

(内陸部の乾季は沿岸部より乾燥している。森林の樹木は枯れている。)

 

(ヤギが牛に体格差をものとせず、頭突きをくらわしていた)


RanchiBudhgaya 230km

最貧州のビハール州(Bihar)へ入る。やはりハイウェイの状態が他の州より良くないようだ。

煙突から黒い煙を上げているレンガ工場が多い。

 

ブッタガヤ(Budhgaya)はブッタが菩提樹の下で49日間座り、悟りを開いた場所だ。同地で連泊を予定していたので、到着してホッとする。

 


(体重の倍以上有ると思われる大きな木を運んでいる女性たちがいた。眠くなっていた当方は

この状況を見て目が覚める思いだった)

 

(ブッタガヤでブッタが瞑想した菩提樹には多くの仏教徒が訪れる)

 

(ブッタガヤのMahabodhi Temple本堂奥の本尊)

(ブッタガヤの景色。投宿したゲストハウス屋上から周囲を撮る)

 

以上


 

南インド(South India) ベンガルールからインド最南端経由チェンナイまで1700km(2/9~2/19

 

ベンガルール(Bengaluru)で懸念していた腰痛が悪化した。 ベンガルールは2泊の予定だったが、静養の為3泊とした。また、更にその先のコインバトール(Coimbatore)でも、腰痛のため延泊する等腰痛の状況を心配しながらインド最南端のコモリン岬(Cape of Comorin)を目指した。 コモリン岬はカニャクマリ(Kanyakumari)という町に位置する。

(バンガルールの州政府建物)

(バンガルール市内の官庁街に通じる落ち着いた通り)

 

走行ルート

走行ルートはベンガルール~140km~マイソール(Mysore)~230km~コインバトール(Coimbatore)190km~コチ(Kochi)~330km~カニャクマリ(Kanyakumari)=コモリン岬~410km~ティルティラパッリ(Tiruchirappalli)~230km~ポンティチェリー(Ponticherry)~160km~チェンナイ(Chennai)まで

(下記地図を参照)


(赤い線が走行ルート。赤色でマークした町は宿泊地。チェンナイは地図の右側(東側))

 

日中は30度を越す日本の夏の暑さだ。

空気が乾燥しているため、日本の真夏のような汗はかかないが、ライディングジャケット内は汗ばんでくる。

インドの真夏(4月~6月)は恐らく過酷な暑さとなり、オートバイツーリングどころではないだろう。


 

南インドは別なインド人

ベンガルールが位置するカルナータカ州(Karnataka)からケララ州(Kerala)を通り最南部のタミール・ナドウ州(Tamil Nadu)まで来るとタミール語となる。文字の形もヒンディー文字とは異なり丸みを帯びた形だ。人々の顔の形もなぜか丸みを帯びた人が多くなる。男は長いスカートのような腰巻を身に着ける人が多い。


 

タミール人として誇りを持っている。今までのように当方へ<どこの国から来たか?>(Which country are you from?)とはあまり聞かれなくなった。そうかと言って、外国人に興味が無いわけでは無い。ガソリンスタンドや道路脇の喫茶店でお茶のみ休憩中に誰かが当方に話しかけると、それをきっかけに辺りにいた他の人々が当方の回り集まって来る。

タミール人は少し遠慮しているのか、控えめにするのを美徳とするのか判らないが、当方に取っては居心地が良い。

(街の通りには甘いミルクティーを販売する小さな屋台のような喫茶店多い。一杯10~20ルピー=約16円~32円)

(ミルクティーを飲みながら世間話するタミール・ナドウ州の男達。短パンの上に長スカートのような腰巻きを付けるが、邪魔な時は腰巻を膝上まで上げている。直射日光が当たるのを避けるには便利だろう。頭にかぶれば日除けにもなる。)

 

はだしで歩く人が多い

ヒンズー教寺院では境内に入る前に素足になるので、インドの人々は境内の土の上や、石畳の参道を素足で歩くことには抵抗が無い。当たり前の事だろう。

 

当方がハンピ滞在中に、通りの屋台で夕食中のはだしの若者に<何故はだしで歩くのか?>と聞いたことがあった。その若者は<近くの寺院で仕事をしているので、寺院外でもずっとはだしのままでいた方が便利だ>と答えた。

 

しかし、地方道路でははだしで歩く人の姿を多く見かける。日中の舗装道路面は熱いが裸足だ。お金が無くて靴が買えないわけではないだろう。

 

サリー姿の女性でもはだしで道路を普通に歩いている。近くには人家がないので、長い距離はだしで歩いていると思う。通学中の中学生位の少年、少女でもはだしで歩いている姿を見かける。

(裸足で歩く人)

 

牛糞は神聖な物?

住宅街の狭い生活道路の道端に牛が23頭に繋がれていると、その道路は牛糞と牛の尿で、あたかも泥の道のようになる。しかし臭い。外国からの旅行者にとっては路上の牛糞とその匂いが最初の試練だろう。


オートバイで走行中も路上の牛糞を踏まないように路上に目くばせしながら走行するが、インドの人々は日本人が思うほど牛糞に対して抵抗は無い。牛糞は良く燃える燃料となったりする。理由は判らないが何か神聖な物に感じていると思う。

 

ある時、田舎道の路上で中年の女性がまだ新しい牛糞を手で拾い、牛糞の水分を落とすため、手に持っては路上に数回牛糞を投げつけて牛糞の水分を落とし、その後牛糞を持ち帰る姿を見た。多分の燃料にするのだろう。牛糞は床のワックス代わりにも使えると聞いたことがある。

 

マイソール宮殿では像を飼育している。マイソール宮殿の敷地内で、30歳代の女性が、履いていたサンダルを脱ぎ、素足になってまだ新鮮な象の糞を踏みつけのを見かけた。何故素足で象の糞を踏みつけるのか理由を聞かなかった。

 

母親と思われるその女性は同伴していた10歳ぐらいの女児にも裸足になり、糞を踏みつけるように促していた。 たぶん、糞は汚物では無く、何か神聖なものに感じているのだろう。

 

誇張気味なセールストーク

インドのSIMカードを携帯電話(Smart phone)に入れている。インド国内の通話はかけ放題だが、データ回線の使用は一日1.5GBに制限されている。

 

しかしながら、SIMカードを販売する人は<データ回線は一日2GBまで>と説明する。2SIMカードを更新(Recharge)したが、2回とも同じ説明だった。 当方が<携帯電話会社の確認用SMSでは一日の利用限度は1.5GBになっている>と指摘すると、販売店では2GBの説明を1.5GBに訂正した。

 

また、SIMカードの有効期限は1ヶ月と販売店は説明するが、実際は28日である。

 

インド人は細かいことには無頓着なのか、多少の誇張は当たり前か判らない。細かいことに無頓着なことで都合が良い場合も多い。

値段の交渉ごとに<No Problem>と言って融通が効く時は便利だ。

 

IT企業の盛んなバンガルール(Bangaluru)では急遽バンガルール工科大学の授業を見学させてもらう機会を得た。アポイント無しで同大学の学長に授業見学を依頼すると、同学長は<No Problem>と快く承諾して授業見学を手配してくれた。 

 

日本なら、色々な手続きを経ないと部外者は大学の授業見学は出来ないだろう。

(携帯電話SIMや関連商品を販売する人)

 

危ない運転の車やオートバイ

渋滞道路ではやはり細心の注意が必要だった。

 

マイソール(Mysore)市内へ入る交差点で、当方は赤信号でオートバイを停車中だった。バイクも車も我先へと先に進むため、車と車やバイクと車の隙間をじわじわ狭めてくる。そんな時に、当方の横へ強引に入り込もうとする若い男が運転するSUVの四輪駆動車が来た。赤信号から青信号へと替わると列の前に位置する車やバイクから動き出した。その車は前方にスペースが無いのに強引に進もうと当方の横を通ろうとする。 

 

当方のバイクは横からその車に当てられ、当方はバランスを失い転倒する。幸いスタートしようとした時で立ちごけのような状態だが、この車の強引さには当方は腹立たしく思い、文句を言った。

 

その車はそのまま立ち去ったと思ったが、交差点の先で当方を待っていた。そして運転していた若い男は当方に詫びた。

転倒した当方のオートバイを起すのを手伝ったのはその車に同乗していた若者だったこともその時判った。

当初、分別が無いドライバーだと思ったが、当方の無事を確認して詫びたり、同乗していた若者が直ぐ転倒したバイクを起す伝いをしてくれたことを考えるとしっかりした人間だった。

 

一番危ない運転はリキシャと呼ばれる三輪タクシーと若者のオートバイだろう。

 

当方がオートバイで走行中にもハッとして危ないと思う瞬間が何回かある。ある時は走行中に当方の後ろを走行するオートバイの前輪が当方のオートバイ後輪へ接触したことがあった。

 

また、ある時には、当方が直進中に、並走していた他のオートバイが、当方の目の前を横切って曲がろうとした。瞬時に衝突を回避したが、いずれも若いライダーが無茶な運転をしていた。

 

リキシャは幅が狭い小型三輪車タクシーなので小回りが利く。幅2m程度のスペースがあればUターンできる。オートバイで走行中の当方の目の前で道端で停車していたリキシャが突然Uターンしてくる時が一番危ない。当方がリキシャとの衝突を回避せねばならない。

(マイソールの交差点で当方のバイクを押し倒した車と運転手)

 

バンガルール(Bangaluru

IT産業が盛んでインドのシリコンバレーと呼ばれる都市。Google, InfosysSAP等世界的なIT企業が進出しているが、IT関連の企業に訪問する機会は無かった。

 

インドには生まれながら職業や身分が決められていたカースト制度があった。カースト制度は1950年代に憲法で禁止されたが、その後も社会的には意識されているようだ。

 

当方がムンバイ滞在中にオートバイ用品を購入した時、その店の経営者は自分のカーストは商人だと言っていた。名字で職業カーストは判るようだが、その経営者は同業のカーストの人なら信用できると言っていた。カーストは同業意識を高めるのだろう。日本で言えば、同郷意識に似た感覚だろう。

 

IT産業には職業カーストが存在しなかった。カーストに縛られずに優秀な人材がIT産業に集まり、インドのIT産業が盛んになったと説明する人が多い。

 

バンガルールではバンガルール工科大学(Bangalore Institute of Technology)の授業を見学させてもらう機会を得た。

20名~30名程度の少人数のクラスで企業の社会的責任(Corporate Social Responsibiliry)についてグループに分かれてプレゼンしている最中だった。 パソコンで作成した資料を教室の白板へ投影して歯切れのよい英語でプレゼンして出来の優劣を競い合っている。 

 

女子学生がクラスの1/3程度占めていることに多少の驚きを感じた。

 

IT産業に知られている都市だが、当方が滞在した下町のホテル周辺には多くの縫製工場、機械加工や古タイヤの再生を手掛ける零細企業が多かった。間口3メートル奥行き4m5m程度の小さい工場内部と道路で作業をしていた。

(リキシャと呼ばれる200ccのインド製エンジンを搭載した三輪車タクシーは零細企業で作られる。1台35万ルピー=約56万円の新車価格だと言っていた。)

(リキシャ=三輪車タクシー用のホロ=屋根を縫う人)

 

(小さなアパレル縫製工場。従業員は男だけだった)

 

(バンガロール工科大学のキャンパス)

(バンガロール工科大学の授業でプレゼンをする女子学生)

 

(夜行長距離バスは屋根上に貨物トラックのように荷物主から委託された貨物を満載する)

(夜行長距離バスの内部は2層になっていた。上部は寝台。下部は通常の座席)


バンガルール(Bangaluru)~マイソール(Mysore140km

走行距離は140kmと短いが、片側3車線の横浜・東京間を結ぶ第三京浜のような高速道路を走行した。他のハイウェイより速く走行する乗用車が多く、貨物トラックは余り見かけない。デカン高原中央部の高速道路とは状況が異なり、先進国の都市間の道路事情に似ていると思った。

 

マイソールではインドで観光客が一番多いタジマハールの次に観光客が多いと言われるマイソール宮殿を見学。聞いていた通り、巨大で豪華な宮殿だ。Palace(宮殿)の名にふさわしい宮殿であった。

 

しかしながら、宮殿内は満員電車内のように現地の観光客で混んでいた。ここでは外国人観光客はほどんど見かけない。その為か、外国人も現地人も同一の入場料だった。

(ベンガルール~マイスール間のハイウェイ)
 

(マイスール宮殿。夜はライトアップされ一層豪華に見えると言う)

(マイソール宮殿の大広間。大広間内部には立ち入りできない)

 

(マイソール宮殿内は観光客で混んでいた)

 

マイソール~コインバトール(Coimbatore)230km

マイソールからコチ(Kochi)まで一日で進むのは遠いと考え、途中のコインバトールで宿泊した。この区間には高速走行できるハイウェイは無く、2車線ながら時速50km60km程度で走行できる国道があった。この区間には野生の象が道路を横切る森の区域もあったが、野生の象は見かけなかった。

 

デカン高原から一気に700800m位の高さを下ると気温急上昇して34℃35℃になり暑さを感じる。

コインバトールでは腰痛を伴った尿管結石の再発のためか、腰と腎臓のある背中脇が痛くて延泊して静養する。この時、23日間茶色の尿がでる。多分結石が尿道管を傷めて血液が尿に混じったためだと思うが、

大事にならないようにと祈った。

(野生の象が横断する森林)

(夕暮れのコインバトール=Coimbatoreの中心街)

 

(コインバトールのレストラン)

(コインバトールは繊維産業が盛んな町だ。インドのマンチェスターと呼ばれている。体育館のように広い店舗で衣料品が売られていた)

 

 

コインバトールからコチ(Kochi330km

腰痛が少し改善したので、痛みがぶり返す前にと一気にケララ州の(Kerala)のコチ(Kochi)へと進んだ。

コチは海辺の町で、まさに南国の風情があるエキゾチックな町だった。

 

 

南アフリカの喜望峰(Cape of Good Hope)を経由してインドへ辿り着く航路を最初に発見したポルトガル人バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)1502年にコチに到達した。そして16世紀にはコチはポルトガル領となった。

 

バスコ・ダ・ガマは三回目の航海途中の1524年に死亡して当地の聖フランシスコ教会に埋葬された。世界史の舞台となった場所だ。バスコ・ダ・ガマの遺骸はその後1538年に同氏の息子によって母国へ持ち去られた。

 

コチはその後ポルトガル領からオランダ領となり、更にその後イギリスの植民地となったため、当初ポルトガル人によって造られたカトリック教会もオランダ統治以降はプロテスタントの教会になっていった。この歴史的変遷は昨年9月に訪れたマレーシアのマラッカと共通する。

(バスコ・ダ・ガマ=Vasco da Gamaが埋葬された聖フランシスコ教会=Church of St. Fransisco)

(聖フランシスコ教会内の奥にはここがバスコ・ダ・ガマの墓と書かれていた)

(中国の漁法を取り入れた網の仕掛け)

(ダッチ・パレス=Dutch Palaceと呼ばれるオランダ統治時代の建物)

(コチ市内のカラフルな建物)

 

コチ~カニャクマリ(Kanyakumari330km

インド最南端のコモリン岬(Cape of Comorin)が有るカニャクマリの町を目指した。距離は330kmしかないが到着するのに9時間要した。 ケララ州は人口密度が高い州だと聞いてたが、実感した。ハイウェイを走行していても町々が繋がっていて、人口密集地が途切れることが少ない。そのため、車や人の通行が多くてのろのろ運転の区間が多くなる。

 

幹線道路で渋滞を嫌って、途中から田舎道へとルートを変更した。しかしながら、今度は道路工事中であったりして、迂回路や片側相互通行とでのろのろ運転であった。 田舎道を走行しても人家が全く無い区間は少なく、人口密度が高いことを思い知った。

 

インド最南端のコモリン岬があるカニャクマリは寂しい所だろうと想像したが、観光化していた。インドで海から陽が昇り、海に陽が沈むのを見れるのは当地だけとのことだ。ヒンズー教徒の聖地として陽の出と日没時に海で沐浴する信者が多いと観光ガイドブックに紹介されていたが、昼間の海で沐浴する人の姿は多くなかった。

 

最南端のコモリン岬の沖合約300m位置に周囲500m程の大きな岩がある。岩と言うより小島だろう。その小島は19世後半にヒンズー教の宗教改革者であったヴィヴェカンンダ(Vivekananda)が瞑想にふけったことで有名になり、その後大きな寺院のような記念堂が建設された。小島(岩)の名をヴィヴェカンンダ岩(Vivekananda Rock)と言う。


このヴィヴェカンンダ岩へは約100名が乗れるフェリー船で渡れる。折角ここまで来たのだからと思い、フェリー船でヴィヴェカンンダ岩まで行ったが、船上で大波をかぶり、ずぶ濡れになってしまった。

 

この地域は季節風が強く、沖合の波が台風の時のようにうねっている。沖合約300m先の小島(岩)へ港から行くにしても強風で大波がたつ海上を小型のフェリー船は木の葉のように大きく揺れて航行する。船が進行方向を変える際に船体に横波を受ける。 

 

フェリー船は窓もドアも無いため、右舷側で受けた大きな波が左舷側へ船内デッキ上を通り抜ける。 フェリー船は転覆こそしないが、船内デッキ上を通り抜ける波で、乗船客はずぶ濡れになる。当方も靴の中から頭まで海水をかぶりずぶ濡れになった。当方の周囲にいたインド人乗客はずぶ濡れになり笑っていた。当方も笑うしかなかったが、身に付けていたスマホ、カメラやパスポート等の貴重品が大丈夫か気になった。

 

(こんな田舎道もあったが、長い距離は続かなかった)

 


(幹線道路を抜けると郊外には景色が良い場所が多かった)


(インド最南端のコモリン岬。大きな像が立つ背後の小島の横にもう一つの岩の小島がある=ヴィヴェカンンダ岩(Vivekananda Rockは沖合300m位にある

(コモリン岬から見たヴィヴェカンンダ岩の記念堂とその横の岩(小島)にある高さ40m程度の像)


(コモリン岬で沐浴するヒンズー教徒)

(ヴィヴェカンンダ岩の船乗り場からみたフェリー船と波立つ海)

(フェリー船の内部。乗客は大きな救命胴衣を身につけるがバックルが壊れたりしていた。)

 

カニャクマリ~ティルティラパッリ(Tiruchirappalli410km

この地域の季節風を利用した大規模の風力発電プラントがあった。風車の数は恐らく数百基規模とアメリカのテキサス州をツーリング時に見たときのように大がかりものだった。タミール・ナドウ州(Tamil Nadu)は州内の電力需要の約半分を風力発電等の再生エネルギーが占めていると後で知ったが、風力発電の大がかりな規模に圧倒された。

 

同州で製造された風車はアメリカ合衆国やメキシコへも輸出されていると言う。

 

ティルティラパッリの町はチェンナイへ向かう為に、一泊するだけの場所と思っていたが、世界遺産に登録されているインド最大のヒンズー教寺院都市(門前町)があることを知った。その為、翌日の午前中にその門前町を形成するランガナータスワーミ寺院(Sri Ranganathaswamy Temple)を見学することにした。

 

2.5平方メートル(km2)面積の四方を城壁で囲まれた寺院町であり、最深部の寺院境内に中に入るのに複数の塔門をくぐる。一番大きな塔門の高さは72mと高層ビル並の高さがある。遠くからでも目立つ建物である。ここで驚いたのはヒンズー教の性的表現である。

 

性はタブー視されるのが宗教のイメージであったが、ここでは寺院の境内の塔門の内側の人物像の中には大胆な女性の裸体像複数あり、生々しく表現されていた。

(風力発電の風車が無数ある)

(道路を挟んだ左側の水田では稲穂をつけていたが、右側の水田では田植えの準備をしていた)

 

(サリー姿の女性達)

(ランガナータスワーミ寺院=Sri Ranganathaswamy Temple境内)

(門前町内部と外部を隔てる高さ72mの南の塔門)

(門前町内部の道路を象が行く。左側の城壁内は寺院の境内となっている。ヒンズー教徒でなくでも境内へ入場可能。)

 

(北塔門の大胆な女性の裸像)

 

ティルティラパッリ(Tiruchirappalli)~ポンディチェリー(Pondicherry230km

前日の走行距離が長く9時間オートバイに乗り続け疲れていたため、当日は走行距離を短くした。

イギリス統治下のインドにフランス領の地域があることを知らなかった。ポンディチェリーはインドがイギリスの植民地となった後でもフランス領として統治された町であった。

 

コロニアル風の建物が多いとの観光ガイドブックの説明に惹かれ一泊した。どの建物がコロニアル風か良くわからなかったが、通りの名前がフランス語になっていたり、ノートルダム教会があったりとフランス領であった名残があった。

 

ポンディチェリーにはインドの観光客が多く訪れるようだ。いつものように宿泊の事前予約は無かった。週末の土曜日のためか、4~5軒のホテルで満室と言われ宿泊を断られた。6軒目位の宿でやっと部屋が確保できた。

 

しかしながら、確保できたホテルの部屋は値段の割に、部屋の掃除が行き届かず、しかもエアコンやTVが無く、温水シャワーがない設備だった。

 

 

(道路脇の交通標識にチェンナイ=Chennaiの表示が見えてきた)

 

(ポンディチェリーの岩場の海岸には夕涼みの人達が大勢いた。写真奥まで多くの人がいる)

 

(ポンディチェリーの灯台=写真左側と海岸通り)

 

ポンディチェリー~チェンナイ(Chennai160km

ポンディチェリーからチェンナイはハイウェイを利用せずに海に近い場所を通る地方道を走行した。

地方道はのんびり走行できる分、周りの景色を見る余裕もあり、気に入った景色がある場所でオートバイを止めて写真を撮ったりできる。

 

時々海が見える景色もあり、また河川や入り江、内海のようは場所も通過して走行に飽きない。

チェンナイは人口500万人弱のインドでも四大都市の一つに数えられる。道路を走行しているうちにチェンナイに入ってしまった。ムンバイのような酷い交通渋滞は無かった。

 

(チェンナイまでの海岸に近い道路)

(道路脇の水田では男達が田植え用の稲の苗を準備していた)

以上


 


 

ムンバイを出発~プネ~アウランガバード~ソラプール~ハンピ~バンガルールまでの約1,500km(2/12/8) Travel in India has started with motorcycle.


 

ムンバイ港でオートバイ引取り

オートバイを輸送した本船がムンバイ港へ到着したのは1/16のことだった。その18日後の2/1に通関を終えたオートバイをNhava Sheva(ムンバイ港)の輸入倉庫で引き取ることが出来た。ムンバイで通関業者に買いそろえてもらった現地メーカー製のバッテリーとペットボトルに入れたガソリンを持って船会社代理店の輸入倉庫へ向かった。


 

輸入倉庫敷地内では火気厳禁のため、バッテリーのオートバイへの取付と燃料タンクへのガソリンの注入は輸入倉庫の敷地外で行った。現地メーカー製のバッテリーがオートバイの狭いスペースに収まるか心配していたが、何とか収まり、エンジンが始動して一安心した。


 

船会社の代理店の費用請求書は最後まで不透明で説明もなかった。事前に調べた費用より多く請求され、当方の問い合わせにはほとんど応じることは無かった。

 

結局、当方のオートバイの輸入費用には約11万ルピー弱(約17万円)の費用と18日間の日数がかかった。

バンコク輸出時の費用と輸送費用の約16万円を加えると33万円位の費用がかかった計算になる。

ムンバイの滞在費を考慮すると、バンコクから航空便でネパールのカトマンズへ輸送しても良かったと思った。 

 

航空便でオートバイをカトマンズへ輸送する方が、ムンバイでの滞在費を加えた船便より少し高くなる計算だが、時間の節約とムンバイでの船会社代理店の不透明な費用請求に不満やいらだちを感じることは無かっただろう。

 

インド・ツーリングの出発(走行ルート)

最初の一週間はムンバイ~170km~プネ(Pune)~250km~アウランガバード(Aurangabad)~エローラ(Ellora)~アウランカバード~320km~ソラプール(Solapur)~330km~ハンピ(Hampi)355km~ベンガルル(Bengaluru)のルート約1,500km。 標高600m前後の広大なデカン高原を南下するような形だ。走行ルートは下記の地図を参照してほしい。


(インド地図上の赤線が走行ルート)

 

良好な主要幹線道路

インドの主要幹線道路は想像以上に良好だった。上述のルートはオートバイも通行可能な有料道路だったが、オートバイは無料。ハイウェイ(Highway)と呼ばれているが、オートバイの通行が禁止されている高速道路(Express way)とは区別している。

 

日本の主要高速道路に似て片側2から3車線通行で、中央分離帯で上り車線と下り車線が完全に分離している。 交通量が非常に少ないので、オートバイ走行は快適だった。 制限速度は普通乗用車が時速80km、オートバイは時速70kmとなっている。当方の250ccエンジンのセローにはちょうど心地よいスピードだ。

 

交通量少ないながら7割~8割は大型の貨物トラックだ。 大型トラックはスピードを出さない(出ない?)から、走行中にあおられることは無い。ただ、見渡す限り平らな大地の直線道路ゆえ、走行には飽きてしまう。

 

 

(立派な有料道路だが、オートバイは無料でライダーにはありがたい。アウランガバード(Aurangabad)~ソラプール間(Solapur))

(片側2車線の通常の主要国道。プネ(Pune)~アウランガバード(Aurangabad)間)

(横に大きく飛び出た荷物を輸送する大型貨物トラック)

 

朝夕は冷えるが昼間は真夏の暑さ

インドの乾季の時期を選んだツーリング計画だ。インド到着以来25日間経つが一度も雨は降っていない。この時期はインドの冬だ。

 

しかし暑い冬だ。デカン高原のこのあたりは海抜600mの高地地形が影響してか、朝夕は冷える。半そで半ズボンでは朝夕寒く感じるが、セーターやダウンジャケットを着込むほどでは無い。長袖のTシャツあるいはトレーナーで十分だ。朝夕の気温は摂氏1617度程度だろう。

しかし、日中には気温は30度以上となり、炎天下で肌に当たる太陽は痛く感じるほど暑い。もちろんTシャツ姿でも汗がでる。

 

オートバイでの走行風は熱波となり、顔や肌を隠すよう対応が必要だ。空気が乾燥しているため、蒸し暑さは感じない。そのため、オートバイ走行中に汗だくになるようなことは無い。地元の人の話では2月は季節の変わり目で、3月になれば更に暑くなるという。

(サトウキビの収穫)

(サトウキビを運ぶ牛車は自動運転)

(デカン高原は降雨量が少なく乾いた大地だ)

(デカン高原の灌漑用と思われる水路)

(豹の横断に注意の交通標識)

(宗教上の修行のため炎天下の道路を素足で歩くグループ)

 

オートバイの運転は思ったより怖くない

インド到着直後にムンバイの道路で見た酷い交通渋滞の中を車や人を避けて走るオートバイを見て、危ない運転だと思った。しかし、自分でオートバイを運転すると違う目線になる。

 

当方はオートバイ走行中に、歩行者の車道への飛び出しが、一番危ないと感じた。 ムンバイのような都市部では歩行者が歩道から溢れて車道を歩いている。その歩行者は車道を我が物のように信号無視で渡る。いつ飛び出してくるか判らない歩行者に注意しながら、オートバイを運転すると神経をすり減らす。

 

走行中の他のオートバイや車の逆走は当たり前だが、ベトナム等の東南アジア諸国ほど運転マナーは悪くない。

 

同じ質問にうんざり

多くのインド人が必ず外国人に対する質問が、<どこの国から来たか?>だ。注目されるのは有難いことかも知れないが、歩いていても、オートバイに乗っていても遠慮なく質問を浴びせてくる。 どこにいても、当方の状況がどのようになっていようと関係無く、あいさつ代わりに爆弾のように浴びせてくる。

 

お互いの会話のなかから<どこの国から来たのか?>と質問されるのなら、良いのだが、そうで無い。道を歩いて突然、Helloの代わりにWhich coutry are you from?(どこの国から来たか)と質問される。

 

ガソリンスタンドでオートバイに燃料を給油した時の事だった。当方は疲れていた。また眠かった。

オートバイの給油を済ませた後に、当方はガソリンスタンドの日陰にある椅子に腰を下ろし、目を閉じて少し眠ろうとした。その状況で、ガソリンスタンドの従業員は当方に<どこの国から来たか?>としつこく聞いてくる。

 

当方が相手の質問を無視して、目を閉じて寝ようとしていると、その従業員は当方に近づいて、当方の腕をゆすって当方を起そうとしながら、<どこの国から来たか?>しつこく聞いてくる。

 

相手のこのしつこい態度には当方はいささか腹立たしさを覚えた。当方が疲れていて寝たいのなら、そっとしておいてやるか、あるいは<大丈夫か?>かと当方を気遣うのが普通の態度だと思うのだが....

 

ツーリングのハイライト

エローラ(Ellora)の巨大石窟寺院

アウランカバード(Aurangabad)の北西約35kmに位置する村に巨大石窟寺院群(Cave Temples)がある。インドでも主要観光地だろう。7世頃から16世紀ごろ作られた30余りの石窟寺院群(Cave Temples)がある場所でユネスコ世界遺産にも登録されている。

 

目玉の巨大石窟寺院はヒンズー教寺院だ。岩山を上から約100m四方の広さで深さ30m40m掘り下げ、その中に彫刻を彫るように作った巨大な寺院がある。寺院の中には入場可能だ。寺院の敷地(掘り下がった部分)から垂直に削った壁を見上げると、壁の高さ(掘り下げた深さ)に驚く。

見るからに圧巻のスケールだ。岩山の壁の上から眼下の寺院を見下ろすと、その深さ(高さ)に足が震えてすくむ。

 

コロナ禍の為か、外人観光客は数えるほどしかいなかった。小中学校の課外授業か遠足かで集団で訪れている児童、生徒が多かった。ほどんどの訪問者は地元インド人のようである。メインの巨大石窟寺院は観光客で混んでいた。

 

ムンバイ滞在中にムンバイ湾に浮かぶエレファンタ島の石窟寺院へ訪れたが、規模ににおいても石窟寺院の精緻な造りにおいてもエローラの巨大寺院の足元にも及ばない。

(エローラの巨大ヒンズー寺院遺跡No.16 岩山を彫って約100年かけて寺院を造った)

(巨大ヒンズー寺院遺跡の内部敷地)

(巨大寺院遺跡を周囲の回廊部分から見るとこんな幻想的な風景になる)

(巨大ヒンズー寺院の内部敷地。回廊部の垂直に切彫った壁は高さ30~40mある)

(巨大ヒンズー寺院を岩山上部から覗く)

(巨大ヒンズー寺院を遺跡後部の岩山から覗く)

 

ハンピの寺院遺跡群(Hampi

インドでも外国人旅行者に人気の遺跡群がみられる場所だとムンバイの通関業者から聞いた。それまで当方はその存在を全く知らなかった。

 

14世紀から16世紀までデカン高原中部を支配していたヴィジアヤナグル王朝時代の都が置かれていた場所だった。 しかしイスラム勢力の侵入により王国は滅び、多くの寺院が破壊されたと言う。

岩山や岩場に建つ小型のローマ時代の神殿風の寺院が周26平方キロメートル四方に散らばっている。 これらの遺跡群もユネスコ世界遺産に登録されている。

 

現在も使われている寺院(Virupaksha Temple)がある。その寺院の高さ約30mの巨大な入口門はバビロニア(現在のイラク)のバベルの塔(Babel)の想像絵を彷彿させる。その大きさと異様な形に驚いた。

 

遺跡群の中にゲストハウス(民宿)や土産物等を販売する約30戸ほどの小さな村がある。村の中には車は入れず、3輪車タクシーか徒歩で入る。

 

当初、当方はオートバイで村の中へ入ろうとした。その際、村の入口の警備員にオートバイでの乗り入れを阻まれた。 しかし、<当方の宿が村の中にあるのでオートバイで乗り入れる必要がある>と警備員に説明してオートバイでの乗り入れを許可してもらった。

(ハンピ=HampiのVieupaksha Templeの塔門=ハベルの塔の想像絵に似る高さ30mの塔門)

 

(上部の煉瓦造りの部分は当時の原型だが、中段以下の基礎部分は修復したものだ。Stone Car 神殿の入口門)

(ハンピ村の遺跡群の一帯。林の向こう側に見える塔はVieupaksha Templeの塔門=ハベルの塔の想像絵に似た塔)

(岩山に直径5mほどの巨大な岩を載せた岩場。信仰の対象だったのだろう)

(ハンピ村の商店街)

(投宿したゲストハウスのオーナー。夫人は日本人の女性だ。ただし夫人は子供の教育のためベンガルールに住む)

 

領収書なしで宿代値引き

インドでは外国人が宿泊可能な宿とそうでない宿がある。外国人が宿泊可能なホテルの場合、ホテル側はフォームCForm C)と呼ばれる外国人の顔写真入りのデータを記載した書類を作成して、地元警察署に同書類を提出せねばならない。

 

アウランガバードで当方が最初に宿泊を試みたホテルは、最近オーナーが替わり、外国人登録用の書類の準備が出来ないとの理由で断られた。2軒目のホテルでも外国人の宿泊は同じ理由で不可と言われた。

 

3軒目のホテルでは外国人の宿泊は可能だったが、部屋料金が少し高めだった。そこのオーナーは部屋料金の少しの値引きには応じるが、それ以上の値引きには応じようとしない。 そのホテルで働く年配のスタッフがこっそり教えてくれた。 

 

オーナーに<現金払いで、領収書は不要>と言えば、オーナーは更に値引きしてくれるはずだとそのスタッフは言う。領収書を発行しなければ部屋料金の12%分の税金が節約できるということらしい。

 

当方は<現金払いで、領収書は不要だから、部屋料金をもっと値引きしてほしい>とオーナーへ伝えたら、同オーナーはにっこりして更なる値引きに応じてくれた。

 

行先々で色々ハプニングがあった。ムンバイ出発後最初に訪れたプネ(Pune)の町にはフォルクスワーゲンやGM等の欧米の自動車メーカーが進出しているインドでは有望な外国資本の受け皿になっている都市だと日系の調査機関から聞いた。

 

それなら一度プネの町を見ておきたいと興味が湧き、プネに寄ることにした。 しかし、のんびりしているとムンバイ滞在中に生じた腰痛が悪化して身動きが取れなくなると考え、プネには長居をせずに先を急ぐことにした。

 

プネではオートバイのエンジンオイルの交換を小さなバイク店で行った位だった。自分でエンジンオイルをバイク用部品等を販売する店で買ってきて、バイク修理店で交換作業を依頼した。

 

最初の一週間は順調の滑り出しだが、この先腰痛悪化の懸念が残る。

(プネ(Pune)で工賃無料でエンジンオイルの交換をしてくれたバイク修理店の皆さん。ブログにバイク修理店の写真を載せると言ったらエンジンオイル交換の作業代金を無料にしてくれた。余ったエンジンオイルは修理店へお礼のつもりであげた。)

 

(プネからアウランガバードへ向かう国道沿いの食堂)

 

(ベンガルール=Bengaluruの高架鉄道の駅)

(ベンガルールで使い古しのタイヤを再生して販売する業者がいた。50ルピー=約80円で使い古したタイヤ=写真右を仕入れ、再生後(写真左側のタイヤ)400ルピー=約640円で三輪タクシー車用に販売する。再生タイヤは一年間の使用に耐えると言う。インド人のたくましさを感じた。)

 

以上

ムンバイ滞在(Mumbai waiting for customs permit)(オートバイの輸入通関途中と市内滞在記)1/221/28


 

輸入諸掛り費用の過大請求

ムンバイ港での荷下ろし費用の一部(Rupee Deprecian Surchargeと呼ばれる費用項目)請求額がバンコクの輸出業者からの事前説明と異なり、過大に請求されていた。


バンコクの輸出業者は<請求額に過大な額があれば、業者間の契約に基づき訂正させるので心配ない>とバンコクからオートバイを船積する際に当方へ説明していたが、当方が少し懸念していたとおり、バンコクの業者は頼りにならなかった。 

 

バンコクの業者からバンコクの船会社代理店経由インド側の船会社代理店へ問い合わせても、約一週間進展がない。

 

最終的にはインドの輸入通関業者でお世話になっているSeco Shiptpingの協力を得て過大請求をしてきたインド側の船会社の代理店に直接コンタクトした。

 

インド側の船会社の代理店は日本の大手海運会社が共同出資するONEOcean Network Express)の代理店でもあるので、過大請求の懸念は少ないと思っていた。しかしながら、同代理店は<システムエラーで請求金額に誤りがあった>と言って、最終的には一部の費用項目を当初請求額の1/5に訂正してきた。

 

輸入許可を督促するため税関訪問

当方のオートバイを輸送した本船が1/15にムンバイ港に到着して、1/16に船から荷下ろしされた。輸入通関業者は1/16に税関に輸入許可の申請を行い、税関は1/17に申請を受理した。


その後一週間たっても税関手続きが進んでいる連絡が無い。前ブログで既述したようにカルネを利用した輸入手続きは税関でオンライン化されておらず、税関の関係部署を持ちまわって複数関係者の承認を経て輸入許可が下りると言う。

 

通関業者(Seco Shipping)から当方へ連絡が入り、<当方の申請書類は税関のコミッショナー(Commissioner)と呼ばれる高官の机上で5日間放置されているので、当方が直接税関へ出向いて同高官と直接談判してほしい>と要請された。 

 

輸入許可申請書受理日(1/17)から11日目(9営業日目)の1/27にムンバイの中央駅から片道約2時間かけて税関があるムンバイ市の湾を隔てて反対側にあるナバ・シェバ港(Nhava Sheva)の税関へ輸入業者のスタッフを同伴して行くことになった。

 

税関のコミッショナーは大きな個室で執務デスクを構えていた。当方がコミッショナーに当方のツーリング内容を説明の上、<可及的速やかに当方の申請を承認してほしい>と依頼するとコミッショナーは<前日に当方の申請は承諾した>と柔らかな口調で返答。

 

当方の申請書はそのコミッショナーの下位の高官(Additional Commissionerのタイトル)の手元にあるらしい。 同高官と面談するため2時間待つ。 短時間の面談で同高官は<書類が来たら速やかに承認するようにしている>と言う。 しかしながら、実務者レベルの部署には同高官の承認は届いていないようだ。


このような煩雑で時間がかかる手続きがインド行政の問題だろう。

(ムンバイ市とムンバイ湾。写真左側=西側の半島下部で赤マークが多い場所がムンバイ市の中心。湾の中の赤マークがエレファンタ島。地図右側=東側の緑色▲マークがNhava Shevaの港の場所で、税関はこの▲マークの場所にある)

 

(インド自動車市場でマーケットシェアが高いマルチ・スズキは公共交通機関の小型バスとしても多く使われている。車内を改造してこのバンに10人の乗客を乗せる。税関へは電車、ミニバンとオート三輪車=オートリキシャと呼ぶを乗り継いで行った。)

(庶民の足の三輪自動=オートリキシャの中から前方を走るオートリクシャ見る)

 

 

観光名所見学(エレファンタ島の石窟寺院、ガンジー博物館等)

 

エレファンタ島(Elefanta Island

ムンバイ湾の中にエレファンタ島と言う名の小さな観光名所がある。その島には岩山の中に掘られた8世紀~9世紀ごろのヒンズー教の寺院がある。その石窟寺院はユネスコの世界遺産に登録されている。


ムンバイ旧市街のインド門(Gate of India)の横にある船乗り場から5060名乗りの小型フェリーに約1時間乗りエレファンタ島に到着する。

 

最大なもので50m(縦) x 30m(横) x 6m(高さ)位の広い空間を作り、その広い空間や岩の壁面にヒンズー教の神々の彫刻を掘ったものだ。寺院と言うよりは地下倉庫の様相だ。十分な道具な無かった古の時代にこれほどの規模の地下空間を作った人々の執念と努力に感動する。

 

観光ガイドを雇えば、同所の詳しい説明が聞けた。しかし、観光ガイドと思われる人達から何回も声をかけられ、うっとおしいと感じて、無条件に<No Thank you>と断ってしまった。

(エレファント島へ向かうフェリー)

(ムンバイ湾上のエレファンタ島)

(エレファンタ島最大の石窟寺院の入口)

(最大石窟寺院の内部)

(最大石窟寺院の内部)

 

ガンジー博物館(Gandhi Memorial Museum

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)の名前を聞いたことが無い人はほとんどいないだろう。世界中で一番有名なインド人と言っても良いだろう。マハトマ(Mahatma)とは偉大な聖人の意味だ。

 

インドの紙幣はマハトマ・ガンジーの顔を印刷している。 同氏は1869(明治2)にインド西部のグラジャーラート州(Gujarat)の沿岸部の村Probadarのヒンズー教徒の両親のもとに生まれた。 青少年時代は内気な性格だったとのことだ。18歳で弁護士にるためロンドンへ3年間留学。 留学後、インドへ一時帰国したが、インドでは弁護士として成功せず、22歳で南アフリカへ渡り、同国で会社を経営する知人の元で弁護士として21年間同国で活動した。

 

南アフリカで同氏自身が有色人種として差別を受けて、白人専用の汽車から暴力を受けながら強制的に降ろされた事件をきっかけに、人種差別反対、女性の権利取得、社会的弱者の救済等の社会問題解決のための活動に積極的に関わった。


南アフリカの社会活動により同氏の名声がインドにも伝わり、インドの国民の権利獲得、弱者救済等の活動のリーダー的役割を期待されて45歳でインドへの帰国乞われたと言う。 

 

同氏の活動は最終的にはインドのイギリスからの独立へと向かった。同氏が唱えた非暴力主義は1960年代のアメリカでの黒人の権利を訴えたキング牧師や南アフリカの初代黒人大統領となったネルソン・マンデーラ氏に大きな影響を与えたと言う。

 

インド独立の一年後の1948(昭和23)に当時対立していたヒンズー教徒とイスラム教徒の融和を試みていたガンジーをイスラム教徒の味方と見做した熱狂的なヒンズー教徒青年の凶弾で倒れた(享年79歳)。

 

凶弾に倒れた時でさえ、<犯人を恨まず、口元に笑みを浮かべて皆の為になるなら死ぬのも厭わない>と最後まで非暴力の精神を訴えた。 世界的に稀有な社会活動家と言うしかない。

 

ガンジー記念博物館(Gandhi Memorial Museum)は同氏がムンバイに滞在中の十数年間、知人の家の一間を住居として利用した場所だった。築100年以上経た3階建ての建物の保存状態は良く、周りのビルよりも立派で奇麗に保たれている。

 

新興国の博物館や歴史的建物あるいは観光名所の入場料は外国人の場合、現地人より5倍~10倍ぐらい高い場合が多いが、同博物館の入場料は現地人も外国人も同一金額(20ルピー=約35円)で安価に抑えられていた。ガンジーが唱えた平等主義精神が活かされていると思った。

(ムンバイ滞在中にガンジーが居住したMani Bhavanと言う建物。現在はガンジー記念博物館=Gandhi Memorial Museumとなっている)

(ガンジーの居住空間。簡素な寝具と糸織り器具があった)

 

(20歳代のガンジー)

(インド農村部の貧困化の原因となっていたイギリスからの織物の輸入に反対して、自ら糸を引き布をつくるガンジー)

 

(南アフリカのピーターマリッツブルグ駅=Petermaritzburgで汽車から強制的に引き下ろされるガンジーの様子を伝えるミニチュア人形)

 

路上生活者(ホームレスの人)は思ったより少ない

インドのひと昔までのイメージは良くなかっただろう。貧困と混雑が一緒になったイメージを思い浮かべる人が多いだろうが、実態は異なる。

 

人々の貧富の差はどの国にもあるが、人口2千万人弱を抱えるムンバイ市で路上生活者(ホームレス)の姿は頻繁には見かけない。寧ろ5年前に南米をオートバイでツーリングした際にアルゼンチンのブエノスアイレスやブラジルのサンパウロやリオデジャネイロ等では、頻繁に路上生活者を見かけた。

 

大変だと思ったのは、路上の屋台店舗で商売をする人達だろう。

昼間は広い歩道に数十店舗以上の衣料品を販売している店主達は夜になれば、その歩道にフェルトのような敷物を敷き、その場所で寝泊まりをしている。 

 

朝方その場所を通ると、その路上で食事を作り、生活の場としているそこで働く多くの人達を見た。 キャンプ生活は一週間程度なら我慢できるが、毎日となると厳しい生活ではと思う。

(朝方のムンバイ市は少し肌寒い。路上で寝るホームレスの人)

 

(路上の商店経営者は夜となれば警備を兼ねて路上で寝泊まりする)

 

(昼間の路上の衣料品販売店)

 

小規模経営の小売(少し真面目な話)

ムンバイ市の中心部で食料・日用品は間口一間ほどの超小規模店舗で販売されている。1980年代中ごろまでの日本では小規模小売店を保護する目的で7-11ホールディングスやイオン等の大規模小売店舗が都市部に出店できないような規制があった。

 

しかしながら、その後その規制は撤廃され、都市部には大型の小売店舗がつぎつぎと出店して、個人経営の小規模小売店は閉店や廃業、あるいはコンビニのフランチャイズ店に衣替えした。

 

当方はインド都市部に何故スーパーマーケットのような品ぞろえが豊富な大型小売店が無いのかと不思議に思った。実際には数は多くないが、スーパーマーケットは存在する。しかし、当方が滞在したムンバイCSMT(中央駅)付近に皆無だった。

 

後日インターネットで読んだインドの小売業態に関する調査機関のレポートでは、食料品・日用品の9割は依然近所の個人経営の超小規模店舗で購入されていると言う。

 

その主な理由は、近所にあるので買い物に便利である(まとめ買いするには自動車等の運搬手段が必要だが、自家用自動車の普及率高くない)、洗剤等は一回分、二回分と言うように小口に分けてくれる(貧困層には有難い)、配達してくれる等使い勝手良いためだと言う。

 

確かに、ビスケット5~6枚入った小パッケージが5~10ルピー(8~16円程度)、手のひらサイズの小さな袋に入ったポテトチップ(15g)が5ルピー(8円程度)と少しお腹を満たす程度の量としてはちょうどよい分量で販売されている。

 

当方が当初推測した都市部における大規模店舗の出店に関する規制は無いようだ。

 

一方ではスマホ(Smartphone)の普及により、EC小売市場も急拡大中だとの報告がある。 コロナ禍前(Covid-19)2019年の調査ではEC(インターネット経由等の電子取引)小売市場での販売額はインド小売市場の約6%規模となり、ムンバイ、デリー等の大都市では30%まで拡大したと言う。

 

コロナ禍以降にはEC小売市場は更に拡大したのは必至であろう。

(写真のような小さな食料雑貨店が多い)

 

(日本では姿を消した個人経営の小さなカメラ店も健在だ。小さなカメラ専門店が軒を並べる。)

 

食事場所

当方は食べ物に関しては無頓着である。食べ物は栄養になればよいとの考えだ。うまいものが食べたいとか旅行の楽しみの一つが当地のうまいものを食べるような旅行とは無縁だ。

 

懸念していた食事による下痢は今のところムンバイでは無い。当方の胃腸は普通の人より弱いと自認している。

日本でもアイスクリームを食べたり、外食で油を使った揚げ物料理でお腹を壊すことが頻繁にある。

 

しかし、インドに到着して2週間ほぼ毎日カレーあるいはスパイスの利いたカレー風味の食べ物に口にしている。

すこしお腹が緩くなったことが12回あった程度だ。

 

むしろインドネシアやベトナム等の東南アジア諸国で鶏肉や豚肉の煮物の料理を食べた直後に頻繁に少しお腹が痛くなったり、下痢気味になったりしていた。

 

下町の通りの屋台で軽食を作る男はどう見ても手を洗っている形跡がない。まな板、ナイフや食事の材料(野菜)さえ洗っているかどうか判らない。しかしこの屋台でサンドイッチを2回かって食べたが、大丈夫だった。

(トマトをカレーで味付けしたトマトカレーとナン)

 

(野菜カレーとチャパティ)

 

(タンドリーと呼ばれる窯でチキンを焼く)

(チキン・ティカと呼ばれる骨なし窯焼きチキン)

 

(昼間の屋台でカレーに浸してプリバジ=PuriBhajiと呼ばれる油で揚げた小麦粉でつくった皮パンに食べた。30ルピー=50円程度。油で揚げてある為か、後でお腹が緩くなった。)

 

(屋台のトースト・サンドイッチ。炭火を使ってパンを焼く)

 

(マサラ・ドサ=Masala Dosaと呼ばれる小麦粉の生地とカレー味のポテトをクレープのように

鉄板で焼く。)

(街角の紅茶ショップで鍋に紅茶を作る。おちょこサイズの生姜味が効いたミルクティーは10ルピー=約16円)

 

その他の写真

 

(ムンバイ市内の人気のヒンズー教寺院=Mahalakshimi Madirを訪れようとしたら500人以上の長蛇の列だった。参拝は諦めた)

(ムンバイ市の旧市街にはビクトリアン・ゴシック=Victorian Gothicと呼ばれる

イギリス植民地時代の重厚なゴシック様式の建築物が多い。写真はWest Railway鉄道会社本社建物)

 

(ビクトリアン・ゴシック建築のムンバイ大学時計塔University of Mumbai=写真右と高等裁判所=High Court写真左)

(ムンバイの人気散歩スポットと言われるマリーン・ドライブ=Marine Drive)

 

(マリーン・ドライブの遊歩道)

(大学の年に一度の正装の日にサリーを来て登校する女子大学生。サリーは日本の和服のようなものだ。町では普段、サリーを着た女性をほとんど見かけない。)

(ムンバイ最大の屋外洗濯場=Dhobi Ghatは商業ベースでも使用されている。

人件費が安いため手洗いで洗濯。洗濯物が所狭しと乾かしてある。)

 

(市内のいたるところにある公衆トイレ。有料だが中は清掃が行き届いている。)

 

次回こそムンバイ港でのオートバイの引取りからスタート予定。

 

以上

 

 


 

バンコク(タイ)からムンバイ(インド)へ空路入国後オートバイの輸入手続き開始(2023/1/151/21


ベトナムのハノイから荷物を置いてあるタイのバンコクへ飛び、バンコクで3泊後にバンコクから海上輸送中のオートバイを受け取るため、次のオートバイツーリング再開場所であるインドのムンバイへ向かった。

 

ムンバイへのフライト前日の夜になって、問題が発覚した。

インド政府がインドへ入国する旅客のコロナ(Covid19)対応策を今年の11日から厳しくしていたことを当方は、ムンバイへ行く前日夜に知った。

 

昨年秋口から世界各国では入国旅客に対するコロナ対応策を緩和している。そのため、当方はインドの最近のコロナ対応策は確認していなかった。 

 

しかしながら、気になってインターネットで確認したら、日本を含むコロナ感染が拡大しているタイ、中国、韓国、シンガポール等からの入国旅客については出発72時間以内のPCRが義務づけられていた。 厳しい措置は今年11日から導入済みだった。

 

インターネットにPCR検査を受けられるクリニック等の広告が多数あったが、どれも緊急でテストを行っても結果が出るのに3時間かかる。色々調べている内に深夜になったため、今夜は何も出来ない。

 

PCR検査での陰性証明書(Certificate of Negative proof on PCR Test)無しで、翌日航空会社は当方をフライトに搭乗させてくれるだろうか? 航空会社と交渉の余地はあるだろうか?

当方の航空券(Air Ticket)は格安航空券のため搭乗日の変更が出来ない、購入済みの航空券は無駄になることを考慮して、善後策を考えた。

 

マレーシア等インド政府がPCR検査の陰性証明証を要求していない国へ飛び、その国からインドへ入国するのも対応策の一つだ。翌日早めに空港へ行き、空港でインド行のフライトを予約している航空会社に相談することにした。 

 

翌日朝、<フライトには乗れないだろう。空港へ行くこと自体が無駄だろう>と暗い気持ちで荷物を抱えて空港へ向かった。

 

航空会社のスタッフから空港にPCR検査場があり、搭乗手続き時間中にPCR検査の陰性証明書を作成できることを教えてもらった。当方以外にもPCR検査の陰性証明証を持参していない旅客が3名いた。

 

PCR検査場での検査は早かった。待ち時間なしで検査を行い、約40分ほどで英文陰性証明書を作成してくれた。ただし、検査費用は原則現地通貨の現金払いだったが、交渉して持参していた米ドル払いで受けてもらった。

 

検査費用は約100米ドルお札をだして、200タイバーツ=約800円のお釣りをもらった) つまり検査費用は9293米ドル程度(12,000円程度)だろう。

 

PCR検査の陰性証明書をインターネット上でインド政府のコロナ対応用の入国フォームに記入してインターネット上で申請しなければならなかった。細かいことを話すと長くなるが、この場でも当方のスマホにトラブルが生じた。

 

スマホでの手続きも航空会社のスタッフの協力を得てチェックインカウンターが閉まる寸前に何とか済ませて、予定していたフライトに当方の搭乗が許されることになった。

 

結果オーライ(All Right)だったが、他国へ出発する前には、余裕を持った事前の確認やチェックが必要だったと改めて反省。

 

 

(ムンバイ空港から市内中心部へ行く空港バス。市内中心部まで約20kmあるが、バス料金は175ルピー=約280円)

(日曜日の夕方、ムンバイ空港から市内中心部へ向かう途中)

 

ムンバイの雑踏

 

ムンバイに到着したのは日曜日の午後の遅い時間だった。コロナ対策が厳しくなったせいかしらないが、当方のような外国人旅客の数は少なかった。


空港のイミグレーションでの入国手続きも短時間で終了して、空港バスに乗りムンバイ市内の中心部を目指した。CSMT駅=中央駅がある市内中心部に到着したのは日没後となってしまった。日曜日の夕方とあって、道路は思っていたより混んでいなかった。


それでも市内の幹線道路の車の流れは悪く、ドライバーは我先にと前に進もうと、クラクションを鳴らしながら車と車の隙間へ自分の車を押し込んでくる。

 

バスの運転が一番荒かった。バスの運転手は<道を開けろ>と言わんばかりにクラクションをずっと鳴らしっぱなしだ。バスに行く手を阻まれたオートバイライダーが怒鳴り声で、バスの運転手に文句をいっている。バスの運転手はさらに大きな声をはりあげてオートバイライダーに怒鳴っている。

 

ムンバイ市中心部は人が多かった。歩道から人々が溢れて車道を歩いている。すれ違う人とはしょっちゅう肩がぶつかりあう。肩をぶつけられると<気を付けろ>と文句を言いたくなるが、人が多いインドの都会では当たり前のことだろう。誰も文句も言わないし、謝りもしない。

 

いつもの様に宿泊先は予約していない。目星をつけてある宿泊先ホテルを訪ねた。ホテルの立地場所と部屋の状況を自分の目で確かめないとホテル選びに失敗することになる。荷物もあるので、1件目のホテルで宿泊を決めた。

 

前日は闇にまみれて道路の汚れや老朽化した建物はあまり目立たなかった。

翌朝周りが明るくなるとやはり道路上のゴミ、老朽化した建物や掃除が行き届いていない街角等が目につく。

一言で言うとゴチャゴチャしている街並みだ。

 

騒音もすさまじい。車やバイクのクラクションの音。歩道から溢れて道路を行きかう人々の群れ。 

町や人々の活気も感じるが、それ以上に東南アジア諸国ではあまり感じなかった無秩序で混とんとした雰囲気に圧倒される。

ムンバイの中央駅CSMT=Chhatrapati Shivaji Maharaj Terminusは世界遺産の建物だった)

(CSMT駅。列車のドアは走行中でも開けっ放しだった)

(列車車両内は幅が広い。ステンレス製の三人掛けの座席が通路を挟み横に2列並ぶ。昼間の時間帯のため、近郊列車の車両内は混んでいない)

(写真奥のドーム屋根の建物は世界遺産のCSMT駅の駅舎)

(CSTM駅近くの住宅街路上には多数のバイクが無秩序に駐輪してあり、路上の通行を妨げていた)

 

(ムンバイの観光名所のひとつインド門=Gate of India 1911年建立)

 

(稀に市内の路上でつながれた牛を見た。おそらく宗教的な意味で牛に手で触っていく通行人がいた。確認はしていないが、

宗教的な意味合いがある行為か、賽銭目的のビジネスではないか思った。)

 

(公園では少年から大人まで多くのチームがクリケットの試合を行っていた)

 

ムンバイ(Mumbai)到着後通関業者との打ち合わせ

 

通関業者(Sadikally Esoofally Co)のオフィースはムンバイの中央駅に相当するCSMT駅近くの中小の建物群が密集するビル内にあった。スタッフは5名程度の小さな会社ながらしっかりしたオフィースがあると言うだけでも、安心感が持てた。

 

同事務所のオーナーであるMustafa Merchant氏とは事前にE-メールやWhatsAppでやり取りしていたから初めてあった気がしなかった。 同氏の言葉を借りれば、同社はムンバイ港でカルネを利用する中古車両の輸出入の9割の通関業務を請け負っていると言う。

 

事実、Facebookのアジアツーリング関連のグループ情報ではムンバイ港の通関では同社におせわになったとか、手際良い輸出入の手続きだった等の同社を利用した外国人オーバーランダーの投稿を目にした。

 

同社訪問日と同日の1/16に当方のバイクを運んでいる本船がムンバイ港(実際にはNsheva Havaと言うコンテナー専用港)に到着した。

 

当方のオートバイはカルネ(Carnet de Passage en Douane)を使う輸入手続きのため、同氏からオートバイを受け取るのに最短でも10営業日程度時間がかかると言われる。このことは事前に伝えられていたので特に新たなニュースでは無かった。 

 

通常貨物の輸入通関手続きは税関内での各部署がコンピューターでオンライン化されているため、情報の共有化ができ、許認可がスムーズ行なわれる。


 

しかしながら、カルネでの輸入手続きについては、カルネ利用者が当方のよう外国人オーバーランダーか海外に住んでいたインド人が帰国時に車両を持ち込むケースに限定される。 利用頻度が少ないため、手続きはオンライン化されておらず、関係部署へ係官が書類を持ち回りする手作業となっている。

 

どの位の数の関係部署を持ちまわるのか知らないが、その手続きに一週間以上の時間がかかるとのことである。 

 

また、カルネを使った輸入手続きの際は、インドの自動車連盟(Federation of Indian Automobile Association=FIAA)に当方のオートバイのインド持ち込みについて、<インド自動車連盟が保証する>旨のレター(Non Objection Letter=NOC)を作成してもらう必要がある。

 

この手続きは通関業者が有償(約2,000ルピー=3,200円)で代行してくれるが、FIAANOC発行に際して、当方のカルネ発行元である日本自動車連盟(JAF)へ当方のカルネが本物であるかどうか確認を求め、JAFから書面で確認を取りつける。

 

FIAAから前週末の土曜日にJAFへカルネが本物であるか電子メールにて確認を求めたが、月曜日の午後(2日後)になってもJAFから返答がない。そのため、FIAAJAFからの返事が遅いと考え、当方へJAFへの問い合わせを依頼してきた。 FIAAはインドでは土曜日は営業日なので、他国も土曜日は営業日だと思っていたらしい。

 

FIAANOC書類の入手が遅れれば、その分通関手続きが遅れるため、当方もJAF宛にメールで

状況を説明したあと、電話を入れてJAFFIAAへの返答を急ぐように依頼した。 JAFが善処してくれたこともあり、JAFの確認書類はFIAAへ翌日(火曜日)には送付された。

 

当方は同社にはオートバイ用のバッテリーの入手もお願いしていた。

バンコク(Bangkok)から当方のオートバイを海上輸送する際、バッテリーは完全にオートバイから取り去ることを条件に混載貨物として荷受してもらった。 当方はムンバイの複数のヤマハオートバイの販売店に電子メールで純正バッテリーの入手が可能かと問い合わせたが返事がないため、同社へバッテリー探しの協力を依頼していた。

 

同社から純正バッテリー(GS-YUASA製)の入手不可というとの連絡を得て、同じ仕様(サイズ)のインド製のバッテリーを事前に買いそろえてもらうことにした。

 

気になるのが、輸入時に関わる諸掛り費用である。同社が関与する輸入手続き関連費用については事前に連絡を受けているので問題ないが、船会社の代理店が本船からの荷下ろしから始まり、保税倉庫で荷物を保管するまでの作業分が不透明である。業界用語ではDestination Charges(到着港での費用)と言う。

 

同社からはインドでは船会社代理店が過大請求する場合があるので、荷物を本船に積み込む際にバンコクで、到着港での費用も全て前払い(Prepaid)にした方が良いとのアドバイスを受けていた。 

 

同社が輸入通関した複数の外国人オーバーランダーの場合でも、後日船会社代理店からの過大な請求額を同社顧客が見てびっくりし、同社が顧客対応に苦慮したケースがあったと言う。同社は船会社代理店からの請求額を単に顧客に伝える立場なので、損な役回りだとこぼしていた。

 

後日トラブルにならないように、積出港で業者(輸送会社が)事前にしっかりと顧客に説明すべきであるとの同社の意見には頷ける。ただし、バンコクの輸送業者はその対応ができていなかった。

 

同社では船会社代理店の過大請求の事を<隠れた費用(Hidden Charges)>と呼んでいる。 

 

既にムンバイ港で本船からの貨物荷下ろしに関わる費用の一部の請求書が通関業者(フォワーダー)の手元にも届いている。 請求書には直ぐに納得できない金額があるので、当方はバンコクの業者を通じて船会社の代理店に説明を求めているが、返答は期待できないだろう。

Sadikally Esoofally Coのオフィース。写真左端がMustafa氏)

 

経済情報 (真面目な話)

 

インドの総人口が中国を抜き世界最大の人口(約14.2億人)になったとかインドの新車販売台数がの日本の販売台数を初めて抜いたとかのニュースが最近あった。

 

インド経済は約十数年前のBRICSブーム(経済規模が大きく躍進している新興国Brasil,Russia,India, Chainaの総称)から世界的に目立つ存在になってきた。

 

2016年年には日本のGDPの半分にも満たなかったインドのGDPは2030年には日本を追い越して、中国、米国に次ぐ世界第3位の経済大国になるとの予想が民間のシンクタンクから出ている。

 

インド政府が外資の直接投資の規制を緩和してから、多くの外国企業がインドの巨大消費マーケットをにらみ製造業からサービス業までの広い分野でこぞってインドに進出している。

 

日本企業では1980年代にインドに進出して、インド国内で乗用車の販売台数が50%近くのマーケットシャアを占めるまで大きくなったスズキ自動車の成功例がある。最近では製造業のみならず、良品計画、ユニクロ(ファーストリーテイリング)やセブンイレブンと言った小売業やクレジットカード系の金融業の日系企業もインドに進出している。

 

インドの一人当たりのGDP1,920米ドル(約25万円)とベトナムの2,650ドル(35万円)よりも少ないが、州により大きく異なることに留意すべきだろう。

 

ゴア州=Goa(インド南西部)や首都があるデーリー準州では約5,3005,700米ドル(約69万円~75万円)に対して最貧州のビハール州=Bihar(インド北東内陸州)では700ドル (9万円)にも満たない。最貧州のGDPはアフリカの最貧国のマリ共和国やコンゴ民主共和国とあまり変わらない水準だ。

 

州によりこれほど所得に格差があれば、インドをひとくくりに説明するのは困難だろう。やはり州単位あるいは地域単位で理解すべきだろう。

 

インドで経済発展が著しいのはインド西部・南部地区だ。

 

北は首都ニューデリーが所在するデリー準州(Delhi)、その西のスズキ自動車やホンダが製造拠点を構えるハリヤナ州(Haryana)、石油化学工業が盛んな西部グジャラート州(Gujarat)や南西部の大都市ムンバイを控えるマハーラーシュトラ州(Maharashtra)やインドのシリコンバレーと呼ばれるバンガロール(Bangalore)があるカルナータカ州(Karnataka)だろう。

 

当方のインドのツーリングルートは偶然ではあるが、経済発展が著しいムンバイから出発してマハーラーシュトラ州~カルナータカ州~インド最南端タミルドウ州(Tamil Nadu)からインド中央部のデカン高原を経由して東部コルナタ(カルカッタ)=Kolnataがある西ベンガル州(West Bengal)を想定している。

 

カルカッタ以降は北東からニューデリーがある北西まで、途中ネパールにも寄りながらインド周回ルートを考えている。ツーリング期間は約2ヶ月~3ヶ月。走行距離は1.5km位になるだろうと推測している。

 

次回はムンバイ港でのオートバイの受取から

 

 

(ムンバイ証券取引所)

 

(ムンバイの金融街Bandra Kurla Complexにはインド中央銀行や数多くの外国金融機関が所在している)

 

(役所前の歩道でタイプライターを使用して書類作成する代行業者)

 

(CSMT駅付近にヘルメットを中心にオートバイ用品店を販売する小さな店舗があった。30m2にも満たないような狭い店内の

賃料は月額約1,100米ドル=約14万円とインドの物価水準では安くない。ムンバイ南部の地価や家賃はかなり高いと言っていた。それでもムンバイのビジネスのスピードが速いので、家賃は十分補えると言う。)

 

(経済発展優先のため、ムンバイ近郊のKurla駅付近の川の水はどす黒く異臭を放すドブ川状態だった。環境問題を解決するにはまだ時間がかかるようだ。)


(インドの州別の一人当たりGDP。インド西側の州が経済的に豊かな州だ。Jetro資料)

 

(インドの一人当たりのGNI=国民所得はカンボジアとベトナムの間であるが、州により大幅に異なることに留意する

必要がある。インドを一言では語れない。Jetro資料)

 

(インド進出の日系企業の拠点=Jetro資料)

(赤い点線が当方の走行ルート案)

 

以上

ベトナム北部(Vietnam)後編 ホア・ビン~ニン・ビン~ハロン湾~ハノイ(約900km2023/1/41/11

 

ベトナムは思っていたより広かった。 ベトナム北部地域を10日間でツーリングした距離は1,800km弱となった。北部のハノイ市から南部のホーチミン市までの直線距離は1,100kmと東京から長崎までの距離に匹敵する。ベトナム南部地域までオートバイ足を延ばすとすれば1ヶ月あっても足らないかもしれない。 

 

ハノイを中心としたベトナム北部地域にはVisa無しで入国できる期限の15日間滞在(内レンタルバイクでのツーリングは10日間)したが、晴れた日は無かった。2日のみベト・クアンとハノイで一時的に小雨が降ったが、後は曇天だった。この時期は乾季だが、晴天の乾季では無いようだ。

 

(黄緑色部分がベトナム。赤線がレンタルバイクでツーリングしたベトナム北部地域のルート)

(ベトナム北部地域の地図とツーリングルート。赤字の線がツーリングルート。地図右上の周回ルートがハザン・ループと呼ばれる周回約300kmの絶景の山岳ルート。 赤字ルート上左側最上部がラオ・カイ、左側最下部がニン・ビン、最も右側がハロン湾)

 

ラオ・カイ(Lao Cai)~ホア・ビン(Hoa Binh)~ニン・ビン(Ninh Binh) 約550km

 

ラオ・カイからハノイまでは高速道路があるが、オートバイの通行は禁止されているため、川沿いの二級国道のような対面通行のルートを通った。 

 

ニン・ビン(Ninh Binh)には観光する場所が多いと聞いていたので、ガイド・ブックで調べ2泊することにした。 ラオ・カイからニン・ビンまで約420kmある。一般道を一日で走行するには無理がある距離なので、途中の町ホア・ビン(Hoa Binh)で一泊することにした。

 

ラオ・カイからホア・ビンまででも約300km強の距離だった。一般道での走行は一日がかりだ。ホア・ビン(Hoa Binh)はホア・ビン県の県庁所在地でハノイにも通じる紅河(Red River)沿いの町だった。このあたりはハノイからも100km程度の距離となり、他の主要な都市も点在しているためか交通量が多くツーリングを楽しむと言うより単なる移動のためのツーリングだ。

 

ホア・ビンの周辺ではまだ肌寒いのに、水田では田植え準備が進んでいた。

紅河(Red River)下流地域の海から100km以上の上流地域に位置するが、川の水量は豊富で、船を使った物流にも利用されている。

 

ホア・ビンの周辺地区はもやがかかっていて視界が良くない。このもやの正体は畑や住宅地でよく見かけた焚火の煙なのか、工場からの煙なのか、道路で舞い上がる土煙なのかはっきりしないが、一日中走行した夕方には当方は喉に痛みを感じた。

(ホア・ビン=Hoa Binhの町の中を紅河=Red riverが流れる。遠くはもやのためか、かすんで見える。)

 

(ホア・ビンの郊外の集落にキリスト教会があった)

(田植えが始まっている沿岸部地域)

 

ニン・ビン(Ninh Binh)で宿泊したホテルは家族経営の感じが良い小さなミニ・ホテルだった。その一角は10年ほど前に区画整備され、観光客誘致を主眼に開発されたと聞いた。同じく区画には56階建の似たようなミニ・ホテルが多数あった。 ベトナムの町とは思えないような西洋風のビルと大型住宅がある場所だった。

 

ニン・ビンの町自体には観光スポットはあまりなかったが、周辺には平地から垂直に立つ奇岩の山々が多く思わず目を見張った。また、同地区周辺は小さな河川を利用した水路が発達している。その水路を観光にも利用している。

昔ながらの手漕ぎの小型船に観光客を乗せて、周囲の奇岩の山々を見物しながら水路・運河でのちょっとした船旅気分を与えてくれる。

(ニン・ビン=Ninh Binhでは観光業に力を入れてる。一文字の高さ5mぐらいのHOMESTAY表示。ベトナムの民泊スタイルのHomestayは欧米の観光客に人気あると言う。遠くはかすんで見える。)

(ニン・ビン=Ninh Binhの入口門)

(ハン・ムア=Hang Muaの小高い山(展望台)から奇岩の小山群を撮影)

(ハン・ムアの展望台 約250m~300m位の小山の頂上が展望台になっている。写真の上部の山の上の展望台からは一コマ前の景色が見える)

(山と山の間の水路に数名程度しか乗れない手漕ぎ観光船が行く)

 

(19世紀に高層2名が山の中に建立した寺の入口=Bichi Dong Pagoda)

(ニン・ビン市内の古い裏町の路地)

(ニンビン郊外の昔の村を描いた民家の壁絵)

 

ニン・ビン(Ninh Binh)~ハイ・ホン(Hai Phong)~ハロン湾(観光船ツアー)Ha Long Bay~ハノイへ戻る(350km

 

ハノイ周辺100km圏内は人口密度過密地帯でもあり、産業の集積地でもある。 ハノイの西約100kmに位置するハイ・ホン(Hai Phong)には外国資本が多く進出する工業団地があると言う。実際にニン・ビンからハロン湾へ通じる道路を走行中に大手韓国企業の工場を目にしたり、現在造成中の

工業団地を目にした。

 

この地域の主要幹線道路にはコンテナーを運ぶ大型貨物トラックが多くなり、オートバイでのツーリングは全く楽しくない。また、平野でもあり景色が良いと言う場所も無い。 

 

この地域に来たのはベトナム北部では観光地として有名なハロン湾の奇岩群を見るためだった。約7080名ぐらい乗船可能な3階建ての観光船で洋上に点在する奇岩群や海上からそそり立つ島々がある海域を約6時間航行する。途中2つの島にも上陸して石灰岩が作り出した鍾乳洞を見学する。

 

最初の1時間は奇岩や海底から垂直に盛り上がったような島々に感動したが、時間が経つに従いどの島々を見ても違いが判らず最初の感動が少しずつ薄れていく。3時間ほど経過すれば、どの島を見ても同じようにしか見えず、景色に飽きてきた。

(ハイ・フォン=Hai Pong近くの河には砂利を満載して波をかぶれば沈みそうな運搬船が往来している)

(ハイ・ホン=Hai Pongの工業団地内の韓国大手電機メーカー)

(ニン・ビン近くの韓国大手自動車会社の工場)

 

(ハロン湾=Ha Long Bay近くの造成中の工業団地)

(ハイ・ホン周辺のセメント工場近くには石灰岩が採掘できる山がある)

 

養殖池があるタイ・ビン=Thai Bin周辺の民家は大きかった。)

 

(ハロン湾=Ha Long Bayの観光船ルート。地図の上部が観光船のターミナル。

 

(ハロン湾観光)

(ハロン湾観光その② 鍾乳洞がある島に上陸)

(ハロン湾観光その③ 海上からそそり立つ岩山)

 

真面目な経済関係の話

 

ベトナムの一人当たりのGDP(年収とみなしてよい)は4,000米ドル(約45万円~50万円)とタイの半分ほどであるが、統計が示すほどベトナムの実質個人所得は少なくないようだ。因みには日本の場合は4万米ドル(約450万円~500万円)だ。

 

都市部ではサラリーマンや公務員でも副業が許されていると言う。不動産投資の収入や個人事業を行っている場合もあると言う。これらは統計上に反映されにくい。

 

地方では勤労所得の他に、自己消費分の食料は耕作農地で得ている。その為、生活には余裕が感じられる。当方が驚いたのは、集落の車一台しか通れないような生活道路でも隅々まで舗装が施されていることだった。

 

また、家が大きい。地方では大きな家には祖父母、両親、成人した子供夫婦と3世代(世帯)が同居している場合が多いと聞いたが、それでも十分余裕があるサイズの家だ。

 

あるベトナム人へ当方が撮った比較的大きな民家の写真をみせたら、<こんな家は大きくない>と言われた。

 

ニン・ビン市内でドーム屋根の4~5階建ての大きな建物を見かけた際に、その建物の守衛に<何の建物か>と尋ねたことがあった。 その際、その守衛は<個人の住宅だ>と返答した。当方はこんな大きな家に住んでいる個人がいるのかと驚いた。

 

もちろん、山村、農村、地方都市やハノイのような大都市では生活環境や経済環境がそれぞれ異なるので、全地域の住民が等しく豊かだと言うことではないが、統計上の一人当たりのGDPでは測ることが出来ない生活の余裕度は高いと感じた。

 

ドル建てGDPは対ドルの為替レートで大きく変動する。たぶんドン(ベトナム通貨)が米ドルに対して割安になっているのではと直感した。

 

ベトナム経済が飛躍的に伸びるきっかけはWTO(世界貿易機関)への加盟だろう。中国の経済飛躍の原動力もWTO加盟だった。WTO加盟により多国間と透明なルールや関税率で公平な貿易や投資が可能になるからだ。 

 

WTO加盟に際してベトナムは国内法をWTOのルールに沿って整備し、外国企業が安心してベトナムへ製造拠点等を作る資本投下を可能にした。

 

その外国企業の製造拠点およびベトナム企業からも<Made in Vietman>として多くの製品が海外へ輸出され、雇用を生み、新たな消費に結びつくように経済が上手く回っている。 WTO加盟のお陰だ。

 

日系企業だけでも約2,000社強がベトナムに進出していると言う。

 

WTO加盟のみならず、最近では日本が主導的役割を果たしたTPP(環太平洋パートナーシップ)、RCEP(中国、韓国、日本、アセアン諸国等加盟の自由貿易協定)やEUとの自由貿易協定(EVFTA)等の国際間の自由貿易協定も締結している。

(ニン・ビンで宗教関連施設の建物だと思ったら、個人の住宅とのことだった)

 

(ハノイ証券取引所。アポイント依頼を事前にメールでお願いしたが、返事が無いためアポイント無しで訪問した)

 

(ハノイ市内の道路は小型オートバイであふれている)

(ハノイ証券取引所横の裏道の昼食時の様子。昼食時には路上のミニテーブルはサラリーマンやOLで満席になる)

 

(ハノイ中心部下町。歩道は生活と仕事の場所だ。歩道でオートバイの修理を行うオートバイ修理店)

(宿泊したハノイのミニホテルを経営する兄=写真右と日本の札幌で飲食店で働く弟=左。兄弟の夢はベトナム中部のダナンで日本料理も取り入れたレストランを出店する事と語る)

 

ベトナム戦争(1965年~1975年)

 

戦争の内容を中立的に説明するのは難しいが、一般に理解されている経緯は以下の通りだ。 

 

そもそも第二次世界大戦終結と同時に、日本軍に一度インドシナ半島から追い出されたフランス軍がベトナムへ再度侵攻した第一次インドシナ戦争(1946年~19954年)から始まっている。

 

フランス軍はベトナム人民軍(共産党軍)に大敗をきして、結局1956年にはインドシナ半島から撤退することになるが、その過程においてベトナムは中国やソビエト連邦が支持する社会主義の北ベトナムとアメリカ等が支援する資本主義の南ベトナムとに分離した(1954年)。

 

北ベトナムは分裂当時から南北ベトナムの統一を掲げ、南ベトナムの政府に反対する南ベトナム解放民族戦線(いわゆる反政府組織のベトコン)を軍事的に支援した。

 

南ベトナムを支援するアメリカは、1964年のトンキン湾事件(ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ軍駆逐艦が北ベトナム哨戒艇から魚雷攻撃を受けたとする事件。その後、この事件はアメリカ政府によって捏造されたものだと判明)をきっかけにベトナム戦争に軍事介入を行い、北ベトナムへ爆撃するとともに南ベトナム政府軍とともに反政府ゲリラ(ベトコン)、北ベトナムと戦った。

 

アメリカはベトナム戦争で数万人兵士が犠牲になる等、軍事加入のコストが高くつき、またアメリカ国内の世論も反戦ムードになる等したため、結局1973年に米軍をベトナムから撤退させた。

 

その後の戦争の行方は南ベトナム政府軍に任せた。結果は19754月に南ベトナムの当時首都だったサイゴン(現在ホーチミン市)へベトコンと北ベトナム軍が進軍(いわゆるサイゴン陥落)。そして、南ベトナム政府は自壊して戦争が終結した。

 

 

(第一次インドシナ戦争でフランス軍に捕らえられたスパイ容疑のベトナム女性たち)

(ハノイを爆撃する米軍のB52戦略爆撃機)

(米国キッシンジャー国務長官=写真右が北ベトナム政府代表団とベトナム和平=米軍の撤退について話し合うパリ会談1973年)

 

ベトナムの後はオートバイの海上輸送先であるインドのムンバイへ向かう予定である。


以上