インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle -7ページ目

インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアを周回ツーリングを行う。

Vietnam前半編 ハノイ(Hanoi)~北部ハザン・ループ(Ha Giang Loop)~ラオ・カイ(Lao Cai) 800km2022/12/29~2023/1/3

自分のオートバイをバンコクからインドのムンバイへ海上輸送している期間を利用して年末から約2週間の予定でハノイを中心としたベトナム北部地域へ行くことにした。

 

ベトナムには当方が高校生頃に終わったベトナム戦争や社会主義国家でも市場経済と外国資本を招きいれた開放経済を取り入れたベトナムの経済発展に興味があった。しかしながら、日本等の外国籍のオートバイで走行するには地元のガイドと特別な許可が必要であり、ハードルが高い。

 

そのような理由で、ベトナムは当方のツーリング計画には無かったが、現地でレンタルバイクを利用したツーリングなら可能だ。 ただし、ベトナムは国際運転免許証についてジュネーブ条約締結国でないため、日本の国外運転免許証(International Driving Permit)は有効でない。 しかしながら、ハノイで外国人が主に利用するレンタルバイクの店フラミンゴ・トラベル(Flamingo Travel)では運転免許証の提示を求められなかった。

 

ハノイから中国と国境を接するハザン県(Ha Giang)にある約300kmの山岳部の周回ルート(Loop)上では石灰岩の浸食が作り出したカルスト地形の絶景が観られる。その絶景はユネスコの世界遺産にも登録されている。 

25年以上ベトナム北部の山村に住む日本人O氏にツーリング場所を相談した。 一にも二にも前述のハザン・ループ(Ha Ginag Loop)だった。 ハノイからは約300km強の道のりだったが、行く価値は十分あった。

(ハザン=Ha Giangの山々)

 

ハノイ(Hanoi)~ハザン(Ha Giang) 約300km

ハノイでYAMAHA製の135ccのスクーターを一日10米ドルで借りた。ハノイ市内のみのレンタルバイクの利用ならもっと安いのだが、遠距離での走行はプレミアム料金がかかる。 当初はレンタルバイク料金は一日15米ドルと言われた。 しかしながら、その店のオーナーを知る人の紹介で来たと従業員へ伝えると、何故か10米ドルになった。

 

ハノイからハザンまで約300kmの道のりがある。高速道路がないので全て一般道での移動だ。最もベトナムでは高速道路およびバイパス道路はオートバイの通行が禁止されているので、仮に高速道路があっても、一般道での走行になる。 


ハノイでのオートバイの運転マナーは当方がツーリングした東南アジア6か国で一番悪かった。 

信号無視、逆走は当たり前ながら、当方が直進する所に前方から来るオートバイが当方の前を横切り左折する。非常に危ない運転マナーである。また、対面通行の道路を車もオートバイも逆走していたため一方通行の道路と勘違いした。インドネシアのスラバヤでも、オートバイの運転マナーはこれほど酷くなかった。

 

ハノイから100km位遠ざかると道路の交通量が減り、やっと地方道を走行している感じになる。正月直前の道路に国旗の横断幕を付けた飾り付けが通過する町々であった程度の記憶しか残らなかった。

 

ハザンの町が100km程度に迫ると周囲の景色が変わってきた。平地から突然そびえ立つ小山が多くなった。石灰岩の地層が長い年月の風雨で浸食されたためだろう。 300kmの道のりながらハノイから8時間近くかかってハザンの町に到着した。

(ハノイ空港の出入国管理は比較的厳格だった。入国審査に1時間ほど時間がかかった。写真は空港ビル入国審査前の列)

 

 

(ハノイ中心部の下町。ベトナムの町では電柱が無いので景観がすっきりしている)

(ハノイからハザンへ向かう途中の町にはベトナム国旗の横断幕)

 

(ハノイからハザン=Ha Giangに向けてレンタルバイクで走り出す。ハザン手前100kmぐらいから写真のような山々が見え始める)

(ハザン県への入口門)

 

ハザン・ループ(Ha Giang Loop)一泊二日の走破(300km

新年はハザンの町で向かえた。元旦でも平日のように商店が営業している。西暦の正月元旦は現地の人々には平日と変わらない。旧暦の正月(120日頃)が現地の人達には新年を祝う大事な行事である。

 

ハザンのホテルで少し腹立たしいことがあった。家族経営のホテルだった。当方が、家族の一人である中年女性にバイクを何処に駐輪してよいかグーグル翻訳で尋ねたが、ほとんど無視される。そのホテルの横も同じ家族が経営する食料品店だった。

 

同店舗で食料品を買った際に、ハノイで買った冬用の手袋を置き忘れたと思い、店番をしていた同じ女性に<当方の手袋が店のどこかに置き忘れていたら、取り置きしておいてほしい>とグーグル翻訳でまた依頼した。 これも無視された。

 

店の他の客とは長話しているのに、何故この女性は当方の話に耳を傾けないのだろうと当方は怒った口調で再度その女性に日本語で問いただしたら、やっと聞く耳をもった。

 

全長約300kmのハザン・ループ(周回道路)は狭い山岳道路である。深い山の中には山腹を段々畑にして農業で生計を建てている人が多いのだろう。山里の集落の民家はどれも小さい。

 

伊豆半島の山岳地帯にあるような狭い道だ。、小型のマイクロバスや土砂を運ぶ大型ドラックも通行するが、ほとんどは地元の人が小型オートバイで通るか、観光客がレンタルした小型バイク位しか通行しない。連続した登り坂のカーブを突き進むと視界が広がり、雲がかかった山々の姿が見える。深さ数百メートルの断崖を眺めると足がすくむようなところもある。

 

このルートを2泊~3泊かけてツーリングする人もいるが、当方は周回ルート(ループ)の中間地点であるドン・バン(Dong Van)の町で一泊したのみだった。

 

ドン・バン(Dong Van)の町では宿探しに苦労した。いつものように事前の宿の予約なしだった。簡単に宿は見つけられるだろうと思ったが、正月休みの観光客で多くの宿は満室状況だった。 5~6軒のゲストハウスを訪れたが、満室かハザンの2倍ぐらいの料金を提示してきた。

 

やっと見つけたゲストハウスは古く、暖房設備も無い所だった。その割には割高な価格を提示してきた。 当方はオーナーの女性に<この宿の古さと設備では部屋料金が高すぎる。値引きするなら宿泊しても良い>と申し出たら、女性オーナーは価格を大幅に割り引いで応じた。

 

周回道路のツーリング2日目になると風光明媚な絶景にも目が慣れて、多少の事では驚かなくなるが、ハノイから一般道路を丸一日かけて、訪れる価値が十分あった。

(ハザンの町中を流れる川。温泉町の雰囲気があった)

(ハザン・ループ=Ha Giang Loopの道。社会主義国家らしさがあるスローガン看板。)

 

(山の中腹の段々畑)

(深い谷間と見晴らし台の建物。谷間の川には小型の観光船)

(道路脇から眼下の谷間をこわごわと見下ろす人達)

(道路の横は崖となっている。崖から落ちるのが怖いためセンターライン寄りの道路真ん中を走ってしまう)

(寒かったドン・バン=Dong・Vanの町)

(ハザン・ループの景色の一つ)

(ハザン・ループ内の棚田を建設機械で作る)

 

ハザン(Ha Giang)~ベト・クアン(Viet Quang)~ラオ・カイ(Lao Cai180km 

ハザン・ループの後は、ラオス国境に近い北部山岳地帯のサパ(Sapa)を目指すことにした。

サパには複数の山岳民族が集まる市場が(Market)がたつと言う。 しかし考えが甘かった。

サパはハザンより標高が高く、冬場に雪が降る山もあると言う。 

 

サパの手前のまだ標高が高くない平地のラオ・カイ辺りで、持っていた服を全部着込んでも夕方のオートバイ走行は寒い。

前述のベトナム在住歴25年のO氏の言葉を借りれば、<サパはハザンより寒いところなので、行く前に(気温等を)調べた方が良い>と忠告を受けていたが、その通りであった。

 

結局サパへ行くことをサパ手前40km50kmで断念。より暖かい南東方向(ハノイ方向)へと進路を変更した。

 

ベトナム北部の一般道は交通量が少なく、レンタルバイクでのツーリングは快適であった。大きな町以外には信号機が無いため、走行中にオートバイを止める必要はない。

 

この区間では珍しく小雨が降った。もっとも未明から午前中にかけての小雨だったので、この時はホテルで雨があがるまで待った。雑貨屋で日本の100円ショップで販売しているようなビニール製の薄いレインコートを買い、雨上がりの道路を走行し始めた。 

 

このルートで通過した集落や町の民家は立派だった。3階建ての家もある。茅葺屋根の新築民家でも大きい。日本の県道クラスの地方道はしっかり舗装がされ、一般道から奥に進む農道のような道路でもコンクリート舗装がほどしっかりと施されていた。この豊かさはどこからくるのだろうと思った。

 

ラオ・カイ(Lao Cai)の町は県庁所在地だけあって、町の規模が大きく、東南アジアの国とは思えないほど立派なビルや商店が建ち並んでいた。

(雨上がりは路肩の赤土で道路が赤く染まる)

 

(ラオ・カイ=Lao Caiへ向かう途中の立派な民家)

(屋根は茅葺だが、新築らしい田舎の大きな高床式民家)

(正面のみ三角形の屋根に見せる民家)

 

(ラオ・カイ=Lao Caiの中心部広場。ロシア・地方都市の広場の造りに似ている。広場の周りには立派な建物が多い)


次回はベトナム後半編(ラオ・カイ~ホア・ビン~ニン・ビン~ハロン湾~ハノイ 約800km)

 

以上


 

タイ再入国~パタヤ経由首都バンコクまで440km12/1812/23)とオートバイの海上輸送の準備

 

タイ入国検問所の税関では日本国籍のオートバイの入国を扱うのは初めてのようだった。


 

日本国籍のバイクは前例がないので一時輸入許可証の作成が難しいと当初税関係官にいわれた。 

しかしながら、当方は前月にマレーシアからタイへ入国した際にはタイの国境検問所で一時輸入許可証を作成してもらったことをパスポートの入出国印を示して伝えると、税関職員は書類を作成してくれた。

その書類をもって複数の税関窓口を回ったが、入国できた。


 

タイへ再入国すると前回の入国時と異なる感じをもった。 タイがすごく先進国に見えてきた。コンビニ(7-11)はあるし、好きなものはすぐ手に入り便利だと感じた。また道路も立派だった。


 

国境から約300km先のパタヤへと向かった。タイ入国時に書類作成やオートバイの保険加入でお世話になったイギリス人が経営する宿(Plodd Stop)に投宿することを事前に連絡しておいた。


(タイへ再入国後、パタヤへ向けて高速道路並みの片側2車線の幹線道路を走り出す。道路の路肩まで

舗装が行き届いてタイのインフラ充実度を再認識した)

 

(タイ再入国後、当日国境から約300km走行。夕刻にパタヤに近づき、パタヤ市内の高層ビルが見えてきた)

 

 パタヤのオーバーランダー(Overlander)向けのゲストハウスPloddo  Stop 

 

経営者のDavid Goodchild氏自身がオーバーランダー(Overlander)だった。 オーバーランダーとはオートバイや車で陸路のツーリングを行う人々の事をさす。

同氏はメルセデスベンツのトラックハウスを運転してモンゴル・中国経由タイとイギリス間を往復する等の数々の国際ツーリングを行っている。

そしてパタヤの宿(Plodd Stop)はオーバーランダー同士が情報交換できるようにと趣味で宿を経営するに至ったと言う。 既に25年パタヤに一年の内半年暮らしている。当方は同氏と同年ということもあり、気が合った。日本人ライダーが同宿に投宿するのは初めてのことだと同氏から聞いた。


 

イギリス流の全てが整った小ぎれいな部屋で一泊400バーツ(約1,600円)と相場より安い部屋を提供している。

同宿には3泊した。バンコクで次のツーリング地インドへとオートバイ海上輸送する準備のため、オートバイを洗車したり、サイドバック等の荷物ケースも洗ったりと色々やることがあった。観光する時間は無い。


 

同宿には当方一人しか宿泊者がいなかったが、23日後にイギリス人のオーバーランダーがインドから到着する予定になっていて、当方は同イギリス人とインド等について情報交換をお願いするつもりでいた。


 

しかしながら、インドへの海上輸送の手配を依頼しているロジスティックス会社から、今すぐバンコクへ来てオートバイの輸送手続きを行えば今年中にバンコクからオートバイを送り出せると連絡を受け、急遽パタヤからバンコクに向かうことになった。

結局インドから来るイギリス人オーバーランダーとは一日違いで合えずじまいになった。

(パタヤのオーバーランダー=Overlander向けの宿 Plodd Stop。大型のキャンピングカーを駐車するスペースもある)

 

(Plodd Stopの3階屋上テラス。パタヤ市でも郊外のため都会の喧騒は無い)

 


(Plodd Stopの経営者David Goodchild氏)

 

パタヤからバンコクへの移動、そしてバンコクでのオートバイのインドへの海上輸送の準備

 

パタヤからバンコクまでは130kmと近い。高速道路も通っているが、オートバイは高速道路の走行が禁止されているため、一般道にてバンコクへ向かう。パタヤからバンコクは家並みが続き、信号も多くまた、交通量が多い混雑した道だった。

 

9月下旬にクアラルンプールからスタートした自分のオートバイを使った東南アジアのツーリンはバンコクで終了。走行距離は約9,200km。 インドネシアでのレンタルバイクでのツーリングを含めると約11,400kmの走行距離となる。

 

バンコクでは前回滞在した時と同じ宿(12/14 HOME STUDIOと言う名のゲストハウス)に投宿。

勝手知った宿は居心地よかった。またオーナーのタイ人が英語が堪能で、いろいろ教えてもらえたり、また話し相手になってもらえるメリットもあった。

 

バンコク到着の翌日、バンコク郊外の指定の梱包倉庫にオートバイを持ち込み、木枠梱包を開始した。

木枠だけの簡単な造りの梱包で、当方が現場に留まっている間の約2時間ほどで、梱包作業を終了する。

 

翌日は荷物の通関予定だと言う時にロジスティックス会社(兄姉妹の3名で行っている小さな会社)から

予定していた本船の予約が満杯で取れず、ほぼ一か月後出航予定の本船に荷物を載せることを提案してきた。

 

この期に及んで予定していた本船に載せられないのでは、はしごを外されたようなものだ>と当方との連絡をオーストラリヤに居住しながらリモートで顧客との連絡や船会社との交渉を担当する姉妹の一人に文句を言った。

 

説教口調になってしまったが、<仕事の段取りが悪く、ワークフローの順番が間違っている。荷物を載せる船を確保してから、梱包作業の日程を当方へ伝えるべきだった>と言うと、その女性は<自分には責任がない>と言いだした。 この会社にオートバイ輸送を任せられるだろうかと当方の頭に疑念が横切った。


木枠梱包を開梱してオートバイを取り出して持ち帰るべきか、他の業者を使い航空便でネパールへ輸送すべきか等、当方は色々考えをめぐらせた。 


いずれにしても本日出来ることは少ないので、ロジスティックス会社の女性へは<出来るだけ早い日程で船積みするため、他の船会社にも予約状況を当たってほしい>と依頼して連絡を終え、ガッカリしながら宿に戻った。

 

夜になると同女性から他の船会社で船積を当初予定の日程で予約できたとの連絡があり、当方はホットして胸をなでおろした。

しかしながら、翌日荷物の通関の立会検査のため税関へ向かう途中に、またその女性から連絡が入った。 内容は<船会社が一時輸入許可証の書類ではオートバイの船積は出来ない>と言っているとのことだった。

 

<この期におよんで何をいいだすのか>と当方は飽きれた。

税関係官の立会検査終了後に同女性にその後の状況を確認すると<当方に連絡するのを忘れていたが、問題は解決した。>との事であった。

 

荷物を載せた本船の出航が確認ができるまでは、まだ安心できないと感じる。

 

バイクをインドへ輸送する約2週間強の期間を利用して年末から急遽ベトナムへ行くことにする。


(インド・ムンバイへの海上輸送のため木枠梱包されたオートバイ)

 

(バンコク港での輸出通関検査のためトラックで持ち込まれた木枠梱包のオートバイ。税関係官が

オートバイの車体番号とエンジン番号を確認する際、当方も検査に立ち会う)

 

(税関検査後に通りの屋台でおもちに似た格好の食べ物を買う。餅の中には野菜が入っていた)

(バンコク郊外のオートバイの梱包会社からの帰りは列車でバンコクへ戻る。約20kmの

距離の列車料金は6バーツ=25円。バンコク中心部Phaya Thai駅)

 

以上

 

マレーシアからタイ入国~首都バンコクまで約1,400km(2022年11/14~11/20)

 

マレーシア東北部のコタ・バル(Kota Bharu)に近いランタウ・パンジャン(Rantau Panjang)国境からタイ側のスンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境へと陸路でタイに入国後、一週間かけてタイ領マレー半島を首都バンコクまで走行した。

 

スンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境からタイ入国~パッターニー(Pattani)~ナコン・シ・タマラート(Nakhon Si Thammarat)~スラー・ターニー(Surat Thani)~チュムポーン(Chumphon)~フア・ヒン(Hua Hin)~バンコク(Bangkok)の順のルート。

 

(タイの地図。地図の下部がマレーシア。赤線がタイ入国からバンコクまでの走行ルート)

 

イスラム圏から仏教圏へ

 

タイ入国から最初の宿泊地であったパッターニーはタイ最南部であり、イスラム色が強い地域だった。モスクが多く、人々もイスラム教徒の服装をまとっていたが、ナーコン・シ・タマラートまで北上するとモスクが仏教寺院にとって代わり、仏教国タイに入国した実感がした。

 

道路沿いには立派な仏教寺院や仏塔が目につくようになり、いかにタイの人々が仏教を大事にしているか感じることができた。詳細は調べていないが、鶏を祀った寺院が多いことに驚いた。

 

道路沿いに高さ2m~3m位の鶏の像が10m間隔で複数立っていた。近くに養鶏場があるのかなと思い、鶏の像に導かれるように幹線道路から横道に入り込むと、そこには大きな鶏の像が寺院の正面に仁王像のように立っていた。 

(高さ5mほどの鶏の像が立つ寺院)

 

(高さ15m位ある巨大な鶏の像もある。車の大きさから像の大きさが判る)

 

タイの幹線道路状況

 

タイの幹線道路は立派である。余裕を持った車道幅がある片側2車線道路で、制限速度は時速90kmと高速道路並みである。

 

ただし、幹線道路は道路沿いの家並みや生活道路ともつながっているため、突然横道から車が幹線道路に入ってくるとドッキとする。道路沿いの道路や家にも注意を払いつつ高速走行する必要がある分、神経を使う。

 

平地が多いためか直線的な道路が多い。効率的な道路ではあるが、景色の変化に乏しいため、オートバイでのツーリングとして面白みに欠ける。

(直線的な主要幹線道路は高速道路並みだ。中央分離帯は幅15m位の溝になっている。)

 

有料高速道路(Toll Express Road)はオートバイ乗り入れ禁止

 

タイの有料高速道路はオートバイの乗り入れが禁止されている。もっとも有料の高速道路はバンコク首都圏以外には無い。

 

当方はバンコク到着初日に危うく有料高速道路に入りかけた。料金所手前でUターンして有料高速道路に入らなかった。現場にいた警察官が当方を呼び止め、運転免許証を提示を求めてきた。

 

同警察官は当方に反則金のチケットを切ろうとするが、当方の国外運転免許証を見てめんどくさく思ったのか、あるいは当方が世界ツーリング中であるといろいろ説明したことが奏功したのか不明だが、無罪放免となった。

 

しかし、その翌日、当方が夜間にカーナビが誘導するままにバンコク郊外からバンコク市内へ入る道路に入ったら、東京の首都高速道路のような高架の高速道路となっていた。その高架道路を10km程度走行後に料金所が現れた。高架の道路から一般道に降りる道は見当たらない。料金所の係の通報を受けて、警察官がどこからともなくスクーターで来た。その警察官に反則金を支払った。 同警察官は当方に運転免許証の提示を求めず、単に反則金チケットの裏表紙に1,000(約4千円)バーツの文字を書き込んで<払え>と言う。

 

当方が<そんな大きな現金は持っていない>と小銭用の財布の中身をみせると、警察官は当方の小銭入れにはいっていた400バーツ(約1,600円)を受け取り、ポケットに入れる。私的に流用するのだろう。警察官が先導するスクーターの後に続き、下道へ降りた。警察官の顔には微笑みがあった。

(高速道路の料金所付近で警察官を待つ)

 

雨季から乾季への変わり目

 

マレー半島部のマレーシアでは乾季から雨季へと季節が変わろうとしていた。タイ領マレー半島部分では

半島の西側(インド洋側)と東側(タイ湾=南シナ海)では雨季と乾季の時期がが異なるようだ。当方が走行した半島東側(タイ湾側)は、まだ雨季の最中であった。しかし雨季と言っても昼間と夜間にスコールのような雨がそれぞれ1~2時間降る程度であり、ツーリングには大きな問題は無かった。1時間ほど雨宿りしたり、短い距離を雨具を着て走行する程度だった。

 

マレーシア出国からタイ入国~パッターニ(Pattani)220km

 

国境通過

 

マレーシアの北東部の主要都市コタ・バル(Kota Bharu)から約50km弱の走行でマレーシア側の国境の町ランタウ・パンジャン(Rantau Panjang)に着く。国境手前のガソリンスタンドで手持ちのマレーシア・リンギット(マレーシア通貨)を利用して、オートバイのガソリンタンクを満タンにしてから出国手続きをとる。パスポートチェックはオートバイに乗ったままオートバイ専用レーンで行う。いたって簡単だ。

 

しかしながら、オートバイをカルネ(Carnet de Passage en douane)を使ってマレーシアへ輸入したため、関税係官に同カルネに出国押印と署名してもらう必要があった。係官はカルネの扱いに慣れていないため、手続きを終了するのに30分程度時間がかかった。

 

タイへの入国手続きが上手くいくか気になった。2019年ごろからタイでは近隣諸国以外の外国籍車両をタイに持ち込む場合には地元のガイド同伴が義務化される規制が導入されたからである。ただし国境によって、その規制の運用が緩い。

 

スンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境は規制が緩い国境のひとつだと聞いていた。フェースブックで知ったタイのパタヤで外人オーバーランダー(自ら運転する車両で旅をする人)向けの宿を経営するイギリス人にタイのバイク保険や車両での入国書類(TM2の名称の書類形式)を事前に整えてもらいタイへの入国を試みる。

 

果たしてうまくいくだろうか?と少し心配した。パスポートの入国審査は簡単だった。果たして税関で外国籍オートバイを問題なく通してくれるだろうか。税関係官はせっかちな男だった。

 

当方が<このような短期輸入許可書(Temporal Import Permit)を作成してほしい>と上述のイギリス人からもらった見本書類(他の外国人あてに過去に発行された短期輸入許可書のコピー)を同係官へ見せると、係官はその見本を当方の手から奪い取り、<この書類は出国時に税関に返却せねばならいのに、なぜ当方がもっているのか>と非難するように問いただす。

 

当方は、<見本はコピーであり、オリジナル書類は返却されたはずだ>と言っても、同係官はなかなか納得しない。最後まで当方の説明をよく聞かないからだ。同係官が当方の説明に納得するのに時間がかかった。当方は余分な書類は見本であっても係官に見せるべきでは無かったと反省する。

 

一時間半ぐらい時間がかかったが、何とかタイへオートバイと共に入国することが出来た。スンガイ・コロクは国境の町しては寂寥感がなく小ぎれいで活気ある町だった。ここで地元の銀行ATMでタイパーツをクレジットカードを使用してキャッシングする。

 

また、手持ちのマレーシア紙幣も両替商でタイ通貨に両替する。同時にタイの携帯電話用シムカード(SIM)も買う。30日間データー回線及び国内通話使い放題で250バーツだ(約1,000円)。使い放題のデーター回線SIMがあると行先々の宿でWiFiがあるかどうか気にせずに済む。

 

マレーシア国境に近いタイ南部ではイスラム教徒が多数派だ。過去に政治問題を起しているらしい。その為、ガイドブックでは治安が悪い地域とのレッテルが貼られている。

 

この地の幹線道路では約30kmごとに武装警察官が通行車両を検問していることから治安が良いとは言えないだろうが、当方のような旅行者には判らない。 

 

イスラム色が強い投宿したパッターニー(Pattani)の町では治安が悪いとは感じかなった。町では人々が普段の生活をしていた。投宿ホテルでも治安状況については一切の言及は無かった。

(マレーシア側の国境検問所ランタウ・パンジャン)

 

(タイ側のスンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境検問所)

 

(パッタニー=Pattaniの市内中心部へ入る手前の門)

 

(パッターニ=Pattani市内中心部の時計台はモスクのミナレット=尖塔に似る)

 

パッターニー(Pattani)~ナコン・シ・タマラート(Nakhon Si Thammarat)290km

 

日中に雨が降るようになった。マレーシアでは夕方から夜間にかけてスコールがあったが、この辺りでは降雨の時間帯が異なる。300km近く走行すると、走行途中には雨の地域もあるが、大体は1時間程度のスコールだ。ただし降雨量が多いため、道路が乾くのを待つと更に一時間程度雨宿りすることになる。

 

タイ国境から200km~300km北のこの辺りになると、仏塔や仏教寺院が沿道沿いに目立ち始める。モスクは見かけないし、道行く人もイスラム教徒の服装ではない。仏教国タイへ来たと実感する。また、道路上の検問所も無くなる。

(道路沿いには巨大な仏像がある無名な寺院もあった。)

 

(ヤシの実ジュースを飲んだ後に、ココナッツミルクの原料となるヤシの実の白い部分を食べる。ヤシの実はひとつ40バーツ=約160円)

 

ナコン・シ・タマラート~スラー・タニー(Surat Thani)155km

 

ナコン・シ・タマラートにこの地域では二番目に大きい高さ50m強の仏塔がある有名寺院(Wat Phra Mahathat)を見学するため、本日の移動距離を短くする。

 

オートバイのエンジンオイル交換のタイミングが来ている。エンジンオイルを交換するため、オートバイ修理工場等を探す時間も欲しい。スラー・タニーのホテルに午後の早い時間に到着したおかげで、ホテル近くのオートバイ修理工場でヤマハ純正のエンジンオイルに交換する。料金は工賃を含め600バーツ(約2,400円)

 

投宿したホテルの外観は立派だが、宿泊客がほとんどいない。全室60あると言うが、数名程度の宿泊客しかいないのではと思う。この地域は外国人観光客はほどんど来ないのだろう。コロナ禍から宿泊業の回復は感じられない。

(ナコン・シ・タマラートの高さ50m強の巨大仏塔)

 

(宿泊客が非常に少なかったスラー・タニーのホテル)

 

(スラー・タニーのホテル近くの雑貨店ではアンパンが20バーツ=約40円で販売されていた。)

 

スラー・タニー~チャムポーン(Chamuphon)240km

 

驚いた(感激した)ことが一つあった。走行開始して100kmも経ない内に、連日の移動で疲れてきた。とにかく休憩したかったので、幹線道路を逸れて、小さな町へ入った。

 

最初に目に入った食堂で<休憩させてくれ>と頼んだ。まだ昼食前の時間だった。少しお腹がすいてきたが、昼食をとると眠くなるので、あえて昼食は取らないようにしている。

 

暖かいスープを頼んだ。当方は半分の飲みかけのコカ・コーラのペットボトルを手にしていた。顔が穏やかなそのこ女将は当方の飲みかけコカコーラのために氷とコップを用意してくれた。

スープ代金の支払いを頼むと、<お金は不要です>と言うのではないか。

 

当方がお金がないように哀れに見えたのか、余程疲れた顔をしていたのか知らないが、見も知らずの外国人に無料でサービスを提供してくれる態度に感動した。

 

チャムポーンの最初の投宿候補の宿では管理人と思われる目つき悪い年配の女性が宿の設備を説明するも、一方的にまくし立てて、当方の話を聞かない。当方の話と言ってもグーグル翻訳を使っての文章だが。

 

このような接客態度の宿では適切なサービスは受けらないと判断して、他の宿を探すことにした。

 

投宿を決めたゲストハウスはオーナーの良い人柄を反映して、期待通りのリーズナブルな価格、良好な設備とサービスがあった。

 

チャムポーンはタイ領マレー半島で最小の幅(60km強)に立地している。過去、この場所に運河を作って南シナ海とインド洋を運河でつなぐ構想が出たと記憶している。

(無料でスープを出してくれた食堂)

 

マレー半島で幅が一番狭い位置に立地するチョムポーン)

 

(チョムポーンの夜店通りで見つけたあんこを販売する甘党の屋台)

 

チャムポーン~フア・ヒン(Hua Hin)300km

 

前泊した民宿は広大なヤシ林の中にあるコッテージ風の宿であった。ヤシ林を散策出来きる。敷地内の池のほとりにある別棟のコッテージは趣味が良く作られていた。長期滞在にはもってこいの民宿(Guest House)だった。

 

フア・ヒンへ向かう途中に2カ所で雨に遭遇。一回目は雨宿りしたが、2回目の降雨時は雨宿りをせずに雨具を着て走行。宿探しもあるので早く目的地へ到着したかった。

 

ホア・ヒンに到着したのは16時ごろだった。しかし、普段のルーティンでは行わないことを行ってしまったため、2時間以上の時間ロスで、投宿ホテルのチェックインが20時ごろとなってしまった。

 

宿泊候補のホテルの受付でオートバイで旅をしているドイツ人と意気投合した。そのドイツ人も本日の宿を探していたため、一緒に宿探しの行動をとった。単独行動を基本とする当方は他人と同伴行動をとるべきではなかった。

 

そのドイツ人が見つけた宿泊候補地をオートバイで一緒に2カ所回っているうちに夜になってしまった。結局そのドイツ人と分かれ、当方が納得いくホテルを探して投宿した。

 

フア・ヒンは国王の別荘がある落ち着いた保養地としてタイ国民の間でも人気がある町だ。

バンコクの南約200kmに立地するタイ湾に面した町だ。バンコクから自動車での交通の便も良い。

 

日本の関東地区で言えば、三浦半島の逗子・葉山だろう。

 

連日の疲れをいやすため、当方はフア・ヒンに2泊した。この町にはインドネシアのバリ島のように欧米の外国観光客の姿が多い。

(チョムポーン=Chomuphonで投宿したゲストハウスAriya Garden House 敷地内のヤシの林)

(敷地内の池にほとりに立つAriya  Green Houseの別棟)

 

(落ち着いたフア・ヒン=Hua Hinの住宅地)

 

(丘の上の展望台から見たフア・ヒン=Hua Hinの海岸線。高層のホテルが目立つ)

 


(フア・ヒンの丘の上の展望台には多くの野生サルがたむろしていた。当方が目を離したすきにオートバイのハンドルに

付けていたボトル・ホールダーからコカ・コーラのベットボトルに入れていた水を野生の

サルに持ち去られてしまった。)

 

フア・ヒン(Hua Hin)~首都バンコク(Bangkok) 220km

 

バンコク首都圏へ向かう道路の交通量は多い。片側3車線の高速専用レーンの他にも2車線の側道がある。つまり合計片側5車線があると言うことだ。ルート上に渋滞している箇所はないものの、十分な車間距離が取れないぐらい近距離で前後の車が走行している。 オートバイでは走行したくない道路だ。

 

インターネット上でバンコクの日本人宿についての記述を見つけた。バンコクの中心部にある割には部屋料金が安いので、電話で日本人宿に問い合わせた。

 

一番の老舗の日本人宿は廃業していた。コロナ禍のせいだろう。2つ目の日本人宿へは現場までオートバイで行ったが、オーナーやスタッフが不在で敷地内に入れず。門柱に書いてあった連絡先へ電話しても誰も電話には出ず、タイ語で留守録が流れるのみ。

 

翌日、インターネット上の同ゲストハウスへの問い合わせ書式を使って、下見が可能かどうか問い合わせすると、<60歳以上の男性の宿泊はお断り>との返事が来た。

 

当方は郊外のインターネット予約サイトで評判が良いゲストハウスに投宿することにした。<12/14 Home Studio>と言う名のゲストハウスだった。

 

オーナーは英語が堪能な30代のタイ人兄弟。当方がオートバイで世界ツーリング中であり、宿泊費用を少しでも安く抑えたいと今までのツーリングの説明を説明すると、気前よく部屋料金を800バーツ(約3,200円)から500バーツ(約2,000円)へと割り引いてくれた。

(主要幹線道路沿いで目立った日系トラックメーカーの販売店。タイでの販売シェアはトヨタに次ぐと言う)

(バンコク市内の幹線道路は慢性的な渋滞だ。オートバイでの車と車の間のすり抜けも難しい)

(バンコクで投宿したゲストハウス 12/14 Home Studio)

 

次回はバンコク滞在記から

 

 

 

ラオスからカンボジア入国~アンコールワット見学後、首都プノンペンを経て最南端のタイとの国境へ 1,200km12/1212/18

 

ラオス南部の都市パクシ(Pakse)から約150km南にノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名の国境がある。その国境からカンボジアへ入国後、ストン・トレン(Stung Treng)~シエム・リープ(Siem Reap)=アンコール・ワットの観光地~首都プノンペン(Phnon Penh)を経てタイとの最南端の国境コー・コーン(Koh Khong)のルート辿る。

 

当初10日~14日間程度のツーリング日程を考えていたが、バンコク(Bangkok)からインドのムンバイ(Munbai)へオートバイを海上輸送するため、あまりのんびりしていられない。 そのためカンボジアは7日間のツーリングとなった。

 

カンボジアの目当てはアンコール・ワット(Angkor Wat)の見学だった。また、ベトナム戦争当時やカンボジア内戦時のニュースで首都プノンペンの名を度々耳にしたのでプノンペンにも興味があった。

 

カンボジアについては当方は事前の知識が欠如していた。あまりにも無知だった。世界的観光地のアンコールワットがあるくらいだからラオスより豊かだろうと思っていたが、実態はその逆だった。


カンボジア入国時の税関職員の国辱とも言えるたかり体質にはうんざりした。公務員の職務を忘て私利私欲に走る税関職員の対応には憤りを感じ、カンボジアに対するイメージが当初は一気に悪くなった。

 

他方、首都プノンペンではカンボジア経済の復興のシンボルともいえるカンボジア証券取引所を訪れた。証券取引所の職員から見学を薦められたカンボジア内戦時の収容所を訪れた。

 

ポーランドにあった第二次世界大戦時のナチスドイツよるアウシュビッツ収容所を5年前に見学したことがあったが、プノンペンの内戦時の収容所の方が冷酷、非人道的な収容所だと感じた。

 

後述するが、当時この収容所で何が行なわれていたか、説明を耳にすると吐き気をもよおしそうになり、気分が悪くなるぐらいショッキングな場所であった。

(ストン・トレン=Stung Trengからシエム・リープ=Siem Reapへ向かう地方幹線道路にはわずかの車の往来しかなかった)

(ストン・トレン=Stung Treng付近のメコン川は海のように川幅が広かった)

(左側はカンボジアの走行地図。右側はインドシナ半島全体の走行ルート)

 

カンボジア入国手続きで難儀(Nong Noi KheaneTrapaeng Kreal) 

 

ラオスのパクセ(Pakse)から150km程南下してラオス側の国境の町で一泊後、翌日朝一番でカンボジアへ入国することを計画していたが、当日国境の町へ昼頃到着したため、国境の町では宿泊せず、一気にカンボジアへ入国することにした。

 

ラオス側の国境検問所の場所はノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名だ。カンボジア側の国境検問所はトラパン・ケアル(Trapaeng Kreal)と言う。同じ場所だが、それぞれの国では別の名前を付けている。

 

ラオスからの出国手続きは10分程度で済み簡単だった。税関で2米ドルの不当なお金を要求されたが、当方がノー・サンキュー(No Thank you)と無視すると税関史は何も言ってこなかった。不当な金銭の要求は全て断っている。

 

この調子ならカンボジア入国も簡単だろうと期待したが、そうではなかった。

この国境での当方のような外国籍のオートバイでの通過については情報がほとんど無かった。

 

タイ入国ではお世話になったパタヤ在住のイギリス人からは、<この国境から外国人ライダーがカンボジアへ入国するケースはあまり無いので、ダメもとで入国を試みてくれ>とのアドバイスだった。

また、<仮に入国出来なかったら、ラオスのパクシへ戻り、パクシからタイへ出国後、タイからカンボジアへ容易に入国する方法がある>と同氏は付け加えた。

 

カンボジアの国境検問所では、少し日本語を話す外見上は税関係官のような男が当方に声をかけて税関事務所へ案内する。

 

当方は税関史だと思ったが、後で税関とグルになっている民間人だと判った。 この男が、税関の部屋へ当方を案内して、税関係官の前で税関費用は70米ドル(約9,000円強)だという。70ドル米ドルはカンボジアの平均労働者の10日~2週間分の給与に匹敵する金額だ。

 

当方はその男へ、<米ドルは持っていない。持っているのはラオスのお金だ。>と言って財布の中身を見せると、その男は無造作に当方の財布からラオスの札を抜き取り、数えはじめた。当方が持っていたのは50米ドル程度(約7千円)のラオス通貨だった。 (米ドルの現金は緊急時用として持っているが、通常は秘密にしている)

 

当方は、<何をするか!他人の金を勝手に数えて>と、その男に文句を言いながら、お金を奪い返した。

そして、<税関にはお金は払わないし、払う義務は無い。税関は他国のように無料でバイクを通関させる書類を作成する義務がある>と持論を唱える。

 

その男は<一時輸入許可の書類を作成するための申請書を所定の形式でウェッブサイト上で作成せねばならない。その為の費用だ>というが、当方は<領収書を出せないお金は支払わない>とその男の要求をつっぱねる。そんな言い合いを繰り替えしたが、全く進展が無い。

 

当方が<日本大使館と相談する>と言い出すと、他の税関史が<上司が来るので待ってほしい>と言う。

しばらくして、税関長と名のる男が来て当方へ<税関では一切お金は請求しないが、自分で一時輸入許可書の作成の可否を審査する申請書をウェブ上で作成してください。その申請書に基づき、私が一時輸入を許可するかどうか審査します。>と言う。

 

< ええ?ウェブ上で申請書を作成する?>当方は数多くの国境を越えてきたが、そんな事は今まで聞いたことも、やったことも無かった。

 

税関史は当方がどのように出るか伺っているようだった。そしてどこかへ行ってしまった。 当方はどのウェブサイトでどのようにするか判らない。他の税関職員も非協力的だった。 全員がグルになって事情に疎い外国人からお金を巻き上げることを考えているようだ。 

 

後日フェイスブックの情報交換グループに投稿したら、<おれは税関で200米ドル払ったとか>、<40米ドルで済んでラッキーだった>等の反響があった。

 

事実、当方は米ドル紙幣を含む札束の金額を数えている税関職員を目撃した。その税関職員は当方が見ていることに気づき、お金を数えるのをやめて、当方から見えない場所行ってしまった。

 

その税関建物内には<日本国民からの贈り物>と英語で表示してあった手荷物のX線検査の機械があった。不法な金銭の要求にまみれた税関に、日本政府からの無償援助に腹立たしさを覚えた。

 

ラオスのSIMで当方のスマホがインターネットに接続できたため、ウェブ上で申請書の記入を試みた。

しかしながら、手続きするウェブサイトが途中で止まり、申請書作成まで辿り着けない。そして、当方が文句を言い続けているのに対して、税関史は何か思ったのか<無料で申請書を作成する>と言い出す。

 

当方はビザ代(35米ドル相当額をラオス通貨支払う)以外のお金は払わなかったが、この国境検問所を通過するのに3時間弱かかってしまった。 

 

その間、この国境を外国車両で通過した外国人は誰もいなかった。

3時間の間に、この国境検問所にはラオス側からとカンボジア側からそれぞれ一回づつバスで到着した十数名程度の外国人が通過したのみだった。閑散とした国境検問所だった。 

 

税関職員を含むここで働く職員は暇を持て余し、スマホでゲームに興じたり、飲食や仲間とのおしゃべりで時間をつぶしていた。また、税関長は国境検問所に詰めているのではなく、自宅にいる様子だった。

 

職員が必要な時にバイクで税関長宅へ行き書類の決済を仰いでいるようだ。このような税関職員の勤務状況で、この国の発展は大丈夫だろうかと疑ってしまう。

 

また、この税関職員は近隣住民からの採用のようだ。当方が国境検問所から数百メートルも離れていない

食堂兼両替店でラオス通貨を両替していたら、先ほどまで税関事務所にいた税関史が小さな子供抱いているのではないか。

 

家族が自宅で商売を行い、本人は税関に勤務しいるのだろう。税関史は国家公務員だと思うが、近隣住民からの採用で優秀な人物が採用できるだろうか。

 

カンボジア側の入国手続きに時間がかかったため、国境から一番近い70km先の町へたどり着くまでに日没となり、車の通行がほとんどないダート道を2時間程度かけ埃まみれになりながら、ストン・トレン(Stung Treng)の町へ到着した。 

(カンボジア側Trapaeng Kreal国境の国境検問所建物)

(夜に到着したため、よくわからなかったStung Trengの中心部。車の往来は少ない)

 

カンボジア観光の一押し。アンコールワット(Angkor Wat)遺跡群の見学

 

シエム・リープ(Siem Reap)と言うカンボジア入国2日目に到着した町の近郊に、ユネスコの世界遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡群が数キロメートルの広い範囲で点在している。

 

当方はシエム・リープの町に宿をとった。Maps.MeGPS上に表示されていたゲスト・ハウスを5軒探したが、いずれも存在しなかった。コロナ禍中に廃業したのだろう。

 

結局Booking.Comサイトで見つけたゲスト・ハウスに投宿した。 ゲスト・ハウスの名称だったが、設備の大きさからホテルに近い快適な宿泊施設で欧米系の外国人で賑わってた。

 

アンコール・ワット遺跡群は広範囲に点在しているため、オートバイは重宝した。

普通の観光客はタクシーや2人掛け乗用キャビンを牽引するバイク(Tuktukと言う乗り物)等を雇わなければ遺跡群を回れないほど広い。

 

アンコール・ワットは12世紀から約600年栄えたクメール帝国の城塞都市として機能していた。遺跡の周りには水を入れた広い外堀を張り巡らせ、本殿の周りには頑丈な石造りの外壁を備えて外敵の侵入を難しくした。

本殿の上階には石造りの大きなスイミング・プールのような施設が数ヶ所あった。いざと言う籠城時の水の確保かハレームでの水浴に使ったのだろう。 粗づくりの石造りの遺跡ではあるが、その規模には圧倒される。

 

アンコール・ワットの他にも日本政府の資金援助で修復中のアンコール・トム(Angkor Thom)や長い年月で樹木の根が遺跡に絡まったプラサット・タプロー(Prasat Ta Prohm)等を見学したが、規模や保存状態ではアンコールワットに及ばない。 

 

当方が購入した遺跡群への入場チケットは1日券(37米ドル)だった。全部の遺跡を回るには3日間必要と宿で言われたが、朝から一日かけて7つの遺跡を見学して終了した。

(アンコールワット=Angkor Watを外堀から見る。外堀の後ろには屋根がある立派な外壁。そして外壁の背後遠くに本殿建物見える)

(外壁門入口からアンコールワットの本殿建物を臨む。アンコールワットの敷地=外壁の内側かなり広い。外壁入口から本殿建物まで約300m~400mある)

アンコールワット本殿の塔)

(アンコールワットの壁には女官のレリーフ=彫刻が多い)

 

(クメール帝国時代の衣装を身に着けたカンボジアの人達)

(アンコールトム=Angkor Thom遺跡正面)

(アンコール・トムの遺跡側面。建物が崩れていてアンコールワットより遺跡らしく見える)

(アンコール・トムに通じる門)

 

(巨木の根が遺跡に絡まるプラサット・タプロー=Prasat Ta Prohmはインディージョーズの

映画にる出るような遺跡だった)

 

(アンコールワット遺跡群の中の道路)

 

首都プノンペン(Phnon Penh)の内戦時代の収容所博物館(Tuol Sleng Genocide Museum

 

カンボジア証券取引所で面談した若手の職員にカンボジア内戦時代の収容所が博物館になっているので是非見学したらよいと薦められた。博物館の名前はトウール・スレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)と言うショッキングの名前だった。

 

カンボジア内戦は1970年代初頭から1991まで続いた。

クーデターで政権を握った親米右派のロン・ノル(Lon Nol)将軍率いる政権に対して、ポル・ポト(Pol Pot)率いる親中国の共産主義クメール・ルージュ(Les Khmers Rouges)とクーデターで政権から引き下ろされたシアヌーク(Norodom Sihanouk)国王派が共同して戦ったことから始まった。

 

最初の内戦ではロン・ノル将軍派が負けて、ポル・ポト派のクメール・ルージュが勝ち、クメール・ルージュがカンボジアを支配した。

 

この支配が恐怖政治の始まりで、クメール・ルージュが首都プノンペンで政権を握った1975年から1979年の間に170万人とも言われる主に都市部の知識人がポル・ポト政権のクメール・ルージュ派により大量虐殺された。

 

ポル・ポト政権は当時の中国の文化大革命の影響を受けて、農業を中心とした原始共同社会を造ろうとした。原始農業共同体に医者、教師、弁護士等の知識人は邪魔だった。都市部の住民は農村へ強制移住させられ、知識人と言う理由だけで強制収容所に入れられ多くの人が拷問の上、虐殺されたと言う。

 

見学したトウール・スレン(Tuol Sleng )収容所は元高校だった建物だった。そこに12,00020,000名の人々が収容され、確認された生存者は12名だったと言う。同様の極秘の収容所は200か所あったと言う。

 

クメール・ルージュは1979年に反中国のベトナム軍によりプノンペンから追い出され、ベトナムが支援する親ソ連のヘン・サムリン(Heng Samrin)が政権に着いた。

 

しかしながら、親ソ連(=親ベトナム)のヘン・サムリン政権は国際的に承認されず、カンボジアの辺境地に逃れたポル・ポト派(クメール・ルージュ)がカンボジアの正式政権として国連(UN)を始め主要国で認められていたと言う。

 

1991年にカンボジアで和平が成立するまで、サン・ヘムリン派に対してクメール・ルージュとシアヌーク国王派等が連合して、内戦を展開していた。 つまりカンボジアは1970年~1991年までの20年間内戦状態だった悲惨な歴史がある。 

 

内戦を長引かせた理由はソ連と中国の対立、更にソ連と米国との対立があり、カンボジア内戦の当事者達はそれぞれの大国の支援で大国間の代理戦争を展開していたとも言う。

(つりあげ拷問器具で後ろ手に縛りあげた人が気絶すると、拷問器具から降ろして人糞と尿のカメの中に頭を入れて目覚めさせたと言う)

(拷問された人を家畜のように運んだ。この時運ばれていた人はまだ生きていたと言う)

(拷問部屋。ベットに横たわらせて動けないように手足を固定したと言う)

(虐殺された人々の頭蓋骨は証拠品として保管されている)

 

近隣諸国との経済格差は歴然

 

先にタイからラオスへ入国した時には時代が数十年後戻りして、アフリカ諸国に入ったような印象をうけたが、

そのラオスからカンボジアへ入国すると、カンボジアが更に経済的に遅れていることが直ぐに判った。

 

入国したカンボジア国境から一番近い主要都市のストン・トレン(Stung Treng)までの70kmは未舗装のダート道であった。主要都市につながる幹線道路がダートとはアフリカの最貧国と同じだ。

 

アンコールワットがあるシエム・リープ(Siem Reap)と首都プノンペンをつなぐ主要幹線道路にはそれなりの交通量があったが、ストン・トレン~シエム・リープのような地方の幹線道路では車の数はまばらで、自動車が全く普及していないことを示していた。

 

農業人口が多い地方では当方が30年前のタイ旅行時に地方で多く見た耕運機に荷車を牽引させた運搬車に農作物や人々を載せ運んでいた。ラオスでは見かけた小型ピックアップトラックやトラクターはほとんど見かけなかった。

 

交通量が少ないので当方のバイクツーリングは快適だったが、農作物の運搬を始め、人々の暮らしが厳しいことを物語っていた。

 

因みに2021年の統計ではタイの一人当たりの国民所得=年間収入(GDP)は約7,200米ドル(75万円)、ラオスは約2,600米ドル(約27万円)、カンボジアは約1,600米ドル(約17万円)となっている。日本の一人当たりのGDPは約40,000米ドル(約420万円強)だった。

(カンボジア北部は台地に位置するため、乾期には荒地として放置されていた。)

(新築後の高床式民家)

(広い水田。カンボジア中央部は低地のため、湖から水を引いて乾季でも稲作が可能だ)

(カンボジア証券取引所の建物は立派だ。8銘柄の株式が上場され市場時価総額は約5,500億円)

 

カンボジアのゲストハウスはラブホテル?

 

ラオスではMaps.MeGPSアプリに表示されているゲストハウスを頼りに現地で気ままに

投宿を決めていた。

 

カンボジアもラオスのようにGPS上のゲストハウスを頼って宿を決めれば良いと気楽に考えていたが、そうでは無かった。 

 

GPS上のゲスト・ハウスの多くはラブホテルだった。 通りから見えないような曲がりくねった入り口から敷地に入ると車庫付きの部屋へ繋がるゲスト・ハウスがあった。

 

車庫には駐車する車が外から見えないようにカーテンがある。

何故カーテンがあるかと思い、管理人にグーグル翻訳でたずねてみるとやはりラブ・ホテルとのことだった。シエム・リープとプノンペンでは宿は決めるため数軒のラブ・ホテルに迷い込んだ。

(プノンペン市内のラブホテル)

 

町の人々親切だった

 

入国時の税関職員の態度から受けたカンボジアの印象は悪かったが、町の人々は親切だった。

プノンペンの宿ではオートバイを路上駐車していたが、宿の従業員が夜には当方のバイクを宿の店舗内に運び込み、また朝には店舗からバイクを路上へ出してくれた。少し骨が折れる作業を黙々としてくれた。

 

カンボジア証券取引所で面談した職員は前日にメールでアポイントをお願いしたら、即答してもらい面談が可能となった。カンボジアの事について歴史や地理等いろいろ教えてもらった。

 

コー・コンの宿ではカンボジア最後の夜とあって、当方が<手持ちの現金があまりない>と宿の管理人へ伝えると、管理人は宿代を約3割値引いてくれた。

 

バイクで立ちごけした際には、通りすがりの人が助けにきてくれた。助けてくれたカンボジア人は当たり前のことをしたかのように、当方がお礼をいう前にさっさと立ち去った。

 

20年余りにわたる悲惨な内戦を経験したからこそ、相互扶助の精神が強いと感じた。また挨拶もしっかりしている。当方が声をかけても、必ず笑顔で返事が返って来る。外国人慣れしているともいえるが、町の人々は気持ちがオープンとの好印象を持った。

(カンボジア側の国境の町Koh Khongで宿泊したゲストハウス。エアコンが無い扇風機のみ備わったシングルルームの1泊料金は約1,000円だった)

 

カンボジア出国とタイ入国

 

首都プノンペンから最南端のタイとの国境があるコー・コーン(Koh Khong)へ向かった。

 

カンボジア南西部のコー・コン(Koh Khong)はタイのハット・レック(Hat Lek)国境へと繋がるカンボジア側の国境の町だ。 タイへの再入国が待ち構えている。

 

外国籍の車両がタイへ入国してタイ国内を走行するにはタイのガイドを同伴させねばならない規制があるが、国境管理事務所によってはこの規制が徹底されておらず、外国籍車両単独でも入国が可能だ。

 

Hat Lek国境検問所は、規制が緩いと事前の調べで判っていた。果たしで規制が緩いだろうか?

 

カンボジアからの出国は簡単だった。10分程度すんだ。税関だとは気が付かずに、何もしないで通り過ぎたら、既に幅約100メートルの中立地帯をバイクで進み、タイ側の入国検問所手前まで進んだことに気が付いた。

 

入国時に苦労して手に入れた一時輸入許可証(Temporal Import Permit)をカンボジア側の税関へ返却するのを忘れてしまった。 中立地帯を徒歩でカンボジア側へと戻り、税関へ一時輸入許可証を手渡して<これで全て終了か?>と尋ねた。 係官はあっさり<そうだ>と返事をしたのみだ。 手続きらしいことは無く、あまりにも簡単な出国だった。

(カンボジア側の国境の町Koh Knogへ通じる幹線道路は森を切り開いた道路だった。部分的に舗装面が削れて赤土がむき出しになっていた)

(国境の町コーコーン=Koh Khongのクリーク=入り江に面した海岸の夕日)

 

以上

 

タイ北部からラオス入国後、首都ビエンチャンを経て第二都市パクシまで1,500km(12/211

 

外国籍の車両(オートバイ)で東南アジア諸国の国境を通過する場合には色々規制がある。

ラオス入国に関しても、税関で賄賂を要求されたとかと聞くため、国境での入国手続きがスムーズな国境検問所を事前に調べた。 


当方はマレーシアからタイへ入国する際に情報とアドバイスをもらったタイのパタヤ居住のイギリス人からタイ北部のチェンコーンからラオスへの入国が比較的容易であると聞き、そのアドバイスに従った。


ツーリングルートは以下の通り:

タイ・チェーンコン(Chiang Khong)にて出国~ファーサイ(Huay Xay)にてラオス入国~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・ブラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)~メコン川沿いに南下~タケーク(Thakehk)~第二都市パクシ(Pakse

(左側がラオスの地図。右側はインドシナ半島全体地図。赤線が走行したルート)

 

タイとの経済的な格差が大きい

タイ北部チェンコーン(Chiang Khong))からメコン川を渡りラオス領ファーサイ(Huay Xay

へ入った。ラオス入国は初めてだ。どんな国だろうかと興味があった。ラオス領に入るとタイとの経済格差が一目瞭然だった。

 

ラオスの一人当たりの国民所得(GDP per Capita)は約2,500米ドル(約35万円)とタイの1/31/4程度だ。 ラオスの最初の町であったファーサイは、アフリカ諸国の街並みと似ていると思った。道路は舗装してあるもの広い路肩の赤土の未舗装部分が商店や民家の軒先までのびていて、建物の屋根や壁が全体的に赤茶に染まっている。

 

道路を走行する車やバイクは極端に少なく、町の賑わいは感じない。むしろ寂しい感じがする。

時間が数十年前に戻ったような感じだ。

 

ラオスは中国やベトナムと同様に共産主義の国だ。経済は市場原理を導入しているため、民間では近隣の自由主義(資本主義)国々と同様に民間の活力を利用して、資本主義のルールを用いて経済活動を行っている。

 

しかしながら、人々のビジネスに対する対応が他の近隣諸国と少し違うような感じがした。ホテルやレストラン等の接待業なら顧客に愛想よくするのが、ビジネスのイロハであるが、ラオスはそうでは無いようだ。

 

顧客に対して不愛想で有ったり、顧客を友達のように扱っている振る舞いがある。ビジネスを行うプロに徹し切れていないと感じた。また、商品やサービスを買った際に、かずかずの納得いかない対応を受けた。ラオスの習慣かも知れないが、不愉快だった。

 

英語が話せるラオスの人達数名から情報をもらったり、親切にしてもらった。ラオスの中等教育では英語を教えていると聞いたが、英語を話す人はほんの一部だ。英語を話すこと自体、グローバル社会の一員であることを認識しているため、他国の人達と価値観は同じだと感じた。

 

ラオスは内陸国でもあり、共産主義の社会だからかもしれないが、人々が閉鎖的にも感じた。共産主義や社会主義の国々は人々がお互いに監視し合っていると聞く。不審な人物や外国人との接触があればスパイ容疑をかけられる可能性があると聞いたことがあるが、ラオスはどうであろうか。

 

当方がオートバイで村々や町々を通過する際に街角や家の中から人々がじっと当方を見つめる。子供たちは無邪気に当方に手を振ってくれるが、大人の態度は明らかに違う。

 

(寒村の民家)

 

(山村では女性が荷物を背負って歩いている姿を多く見かけた)

 

(ルアン・ナムサ=Luang Namthaへ向かう途中の集落)

 

(山村の集落)

 

ラオスの民宿(Guesthouse

インターネットの大手宿泊予約サイトのBooking.Comはラオスの地方都市はカバーしきれていない。予約可能なホテルやゲストハウスが数軒あるに過ぎない。しかも宿泊料金は相場より高い。

 

しかしながら、主な街道沿いには多くのゲストハウスがある。Maps.Meのカーナビアプリやグーグルマップ上の宿泊施設では予約なしで、宿泊が可能だ。英語は通じないが田舎町にもゲストハウスはある。


アメリカのモーテルのように自動車で移動する人を対象としているため、専用の駐車があり、バスルームとエアコン付きの個室だ。また、WiFiも完備しているので、便利である。また、宿泊料金も安い。

 

道路の路面が悪くて、予定していた目的地に到着できず、名も無いような田舎町のゲストハウスで宿泊する場面があった。宿泊する場所を予約せずに、通りすがりの町のゲストハウスで宿泊するのも自由気ままで楽な場合がある。

 

(田舎町PakMongで一泊した国道沿いのゲストハウス)

 

(ビエンチャン=Vientiane郊外のゲストハウス)

 

ガソリン代が高い

ラオスは内陸国のため、ガソリン等の燃料は全てトラック輸送に頼っているようだ。そのためかタイのような周辺国よりガソリン代が高い。リッターあたり約2万クップ(Kips)=約170円だ。同国の個人所得との比較で言えば、日本の1500円位に相当する価格ではないだろうか。

 

不思議なことに車やバイクが少ないのにガソリンスタンドの数が多い。田舎町でも必ず3~4軒ぐらいのガソリンスタンドがある。日本ではガソリンスタンドは薄利多売で経営が上手くいかないところが多いと聞くが、ラオスでは、ガソリンの販売量が少ないが、利益幅が大きいのだろう。

(立派なガソリンスタンドが多い)

 

タイ出国とラオス入国

チェンコーンの出入国管理事務所は午前8時から開く。当方は朝一番で出入国管理事務所へ赴き出国手続きを行う。

イミグレーションでパスポートに出国印を押印してもらい、その後税関でタイ入国時に税関で作成してもらったオートバイの一時輸入許可証(TIP)を提出して終了。約10分程度の手続き時間だった。

 

ラオス入国に際して、イミグレーションでは日本パスポートでならビザは不要だ。15日間の滞在期間が与えられる。ただし滞在期間の延長は不可だ。

当方はカンボジアのビザを首都ビエンチャンで取得する場合も考慮して、30日間有効の国境で取得できるアライバルビザ(VOA)を有償で取得した。ビザ代は40米ドル(約5,000円強)あるいは1,800タイバーツ(THB)。その他に申請時に手数料で20バーツ。

 

次に税関でオートバイの一時輸入許可証(TIP)を作成してもらう。この一時輸入許可証を基に

自販機のような機械でステッカーを作成。ステッカー作成代として自販機に100タイバーツを投入する。

 

この手続きをしている時に民間の服を着た男が当方に英語で話しかけてきた。

<税関終了後にツーリストポリスの事務所で当方と話をしたい>と言ってきた。その男の横には警察官の制服を着た中年の人相が良くない男が当方を見つめていた。

 

当方はフェースブックのグループ情報にてラオス入国時に賄賂を請求されたとの投稿を読んでいた。

これがフェースブックの投稿記事で読んだことだろうとピンと来た。 当方は英語で話しかけてきた男に

<ツーリストポリススに当方から話すことは無いので、事務所には行かない。そちらから話したいことがあれば、この場で(税関)、今すぐ話してほしい>と言った。 その二人同士で何か話して、立ち去った。

 

ラオス入国手続きは一時間半ぐらいの時間がかかった。

 

ラオスでは車両の損害保険加入が義務化されている。

国境で損害保険の代理店がある場合が多いが、この国境では保険を販売している代理店はなかった。

入国した日は金曜日であったが、ラオスの祭日であったためファーサイ(Huay Xay)の保険代理店も休み。

結局、ラオス入国4日目に滞在したルアン・プラバンのアリアンツ保険(Allianz Insurance)でやっと保険が買えた。

 

ファーサイ(Huay Xay)~ルアン・ナムサ(Luang Namtha)~ルアン・プラバン(Luang Prabang)~首都ビエンチャン(Vientiane)まで850kmの山岳道路

上り坂の連続の後は下り坂の連続が続く。ラオス北部は深い山の中に位置している。入国した国境から首都ビエンチャンまで4日間山岳道路を走行する。 神奈川県の箱根に至る道路が数百キロメートル続くようなイメージだ。

この道路を通る車は中国から物資を運んでいる大型の貨物トラックが主だ。

 

山の天気は変わり易く、一山超えたら急に雲が出てきて雨になることもあり、ラオス入国初日目のルアン・ナムザ(Luang Namtha)へは雨の中、しかも日没後の暗くなってから到着した。

道路は舗装してあってもところどころ未舗装部分がある。未舗装部分の赤土の道が雨で泥沼化して、オートバイと雨具は泥まみれになってしまった。

 

大型トラックの駆動輪が登り坂のカーブで舗装面を削っている。 削られた道路は赤土がむき出しのダート化している。大型トラックが赤土のダートを走ると、赤土の煙幕をはられたように前が見えなくなる。

 

前日宿で洗濯したライダーズジャケットやズボンが埃まみれとなり、ビエンチャン(Vientiane)到着後また洗濯する羽目になった。

(タイから出国して国境のメコン川に架かる第四タイ・ラオス友好橋をラオス領へと渡る)

 

(ラオス国境からルアン・ナムサ=Luang Namthaへ向かう途中の山岳道路からの景色)

 

(ルアン・ナムサ=Luang Namthaの街。ここから中国国境は数十キロメートルと近い)

 

(写真では分かりずらいが急な登坂で立ち往生する大型貨物トラック)

 

(坂のカーブは舗装が剥がれ土がむき出しとなっている)

 

(高地のため、雲が下に見える場所があった)

 

(高地道路のため、雲が低い)

 

(町全体が世界遺産のルアン・プラバン=Luang Prabang)

 

(ルアン・プラバン旧市街の古い街並み)

 

ベトナム戦争の暗い影

町全体がユネスコ世界遺産(Unesco World Heritage)に登録されているルアン・プラバン(Luang Prabang)にUXO Visitor Centerという国連(UN)がサポートする組織の展示施設がある。

 

UXOとは不発弾のことだ。19641973にソ連と中国が支援する共産主義の北ベトナムとアメリカが肩入れをする自由主義の南ベトナムが戦争していた。南ベトナムを支援するため米国は軍事介入を行っていた。

北ベトナムは共産主義勢力が事実上支配するラオスを経由して南ベトナムにいる共産主義ゲリラにソ連製の武器を送り込んでいた。ラオス経由で北ベトナム側が武器を運ぶルートを当時ホーチミンルートと呼んでいた。

 

米国は北ベトナムからの武器補給を絶つため、ラオス国内で激しい空爆を行っていた。特にひとつの爆弾の中に数百の小型の爆弾が入って殺傷能力が高いクラスター爆弾が不発弾とし約3億個ラオス国内に残っていると言う。

 

通常の爆弾が破裂した際に被害が及ぶ範囲は半径50m位と限定的だったのに対して、クラスター爆弾はサッカー場3個ぐらいの広さに被害を及ぼしたと言う。投下されたクラスター爆弾の3割は爆発せず、不発弾として残ったという分析がある。

 

子供が不発弾のクラスター爆弾を土の中から拾いだして、爆弾で遊んでいるうちに爆発して犠牲になったり、地中に埋まっている爆弾の上で焚火をして爆弾が破裂して犠牲者が出たりしているという。

 

国連(UN)は地元の組織共同して不発弾の撤去や不発弾の危険性を啓蒙する活動を行っている。

 

50年前に終わった戦争だが、今までの不発弾処理のペースだと全部処理するには100年ぐらいかかると言う。

(ベトナム戦争当時の米軍のB52戦略爆撃機=UXO Visitor Center展示写真)

 

(長さ1.5m程の爆弾の中にテニスボールより少し小さい子爆弾が500個弱入っているクラスター爆弾の実物)

 

(ラオス地図。赤い印が米軍が爆撃した場所と言う)

 

ラオス証券取引所(Lao Securities Exchange)訪問

共産主義国家でも資本主義の良いところは取り入れている例だろう。2011年に韓国証券取引所との合弁でラオス証券取引所が設立された。


現在、電力、銀行、石油等インフラ産業を中心に11銘柄(企業)が上場されている。時価総額は約10Kips=800億円。

日々の取引の75%がタイ等の外国人の個人投資家からの注文だと言う。日本の個人投資家からも注文があると言う。

 

人口約740万人のラオスでは近隣諸国に太刀打ちできるのだろうか?タイは7000万人、ベトナムは9800万人とラオスの10倍の人口を擁す。

 

面談に対応してくれた若手スタッフは流暢な英語を話した。一人は女性で日本の大学へ2年間の留学経験があると日本語で当方に挨拶をしてくれた。

 

ラオス政府は内陸国の弱点を強みに変えるべく中国の援助で新幹線のような中国と結ぶ高速電車網を整備する等、隣国と隣国をラオスでつなぐロジスティックスと豊富な水量の川の水を利用した発電・売電事業に力を入れていると言う。

(ラオス証券取引所ビル)

(メコン川支流のビエンチャン近くの水力発電ダム)

 

ビエンチャン(Vientiane~タケーク(Thakehk~パクシ(Pakse)はメコン川沿いに南下する約700kmのルート 

川の流れのように平坦で直線的な道路だが、舗装面が劣化してダート化した部分が多い。3km~5kmの距離ごとに50m~100mのダート部分があるイメージ。また、舗装の張り替え工事区間も多い。

山岳ルートよりは格段に走行し易くなった。山岳ルートでは肌寒く感じていたが、メコン川沿いのルートは乾燥して陽ざしが強い。

 

放牧中の牛が多く、道路を横切る。リーダー格の牛が先導する群れは行儀よく道路を渡るが、はぐれ牛(若い一頭の牛)の場合は危険だ。

当方が走行中に、すぐ目の前ではぐれ牛が突然道路を渡りだした。牛が道路中央まで進むの見計らって、牛が通り過ぎた道路脇をオートバイで通過しようとしたら、牛が驚いて後ろに戻りしだすのではないか。 当方は急ブレーキをかけて牛との衝突を避けたが、冷や汗をかいた。

 

パクシから200km程度南下すればカンボジアとの国境となる。ラオスからカンボジアへ入国するつもりだ。そしてカンボジアからタイへ再入国する計画を

している。

(首都ビエンチャンの大通り。パリの凱旋門を模倣した高さ48mの戦争慰霊碑が見える)

 

(ビエンチャンの下町。車が多くないため、酷い交通渋滞は無い)

 

(ビエンチャンからタケーク=Thakhekへ向かう途中の工事中の道路)

 

(赤土がこびりつきダート道路に見えるが、舗装道路だ)

 

(メコン川沿いの大きな農家。メコン川沿いの集落は裕福に見えた)


(メコン川沿いでは乾季のため、もやは稲の作付けは行わず、収穫後の田には牛を放牧していた)

 

(小学校の校庭。校庭の整備が追い付かないように見えた)

 

(陽ざしが強いため、日陰で休憩)

 

(第二都市パクシ=Pakseの街並み。どこの町でもトヨタの販売店の看板が目立った)

 

(メコン川西側の丘から見たパクシの町とメコン川。川幅は1.3km程度。この辺りはメコン川両岸がラオス領となっている)

以上

 

バンコク(Bangkok)4連泊後ラオスとの国境の町チェン・コーン(Chiang Khong)まで約1,200kmタイを北上する (11/21~12/1)

 

バンコクではいろいろやることがあった。

 

オートバイの海上輸送業者への訪問

 

一番の関心事は約一か月後にバンコクからオートバイをインドのムンバイへ海上輸送するため、事前に連絡を取りあっていた業者への訪問だ。

 

マレーシアからインドのチェンナイあるいはムンバイへの混載貨物の海上輸送が3,500~4,000米ドル(50~60万円)位かかることが判ったため、3ヶ月前からコンタクトをしていたバンコクの輸送業者を訪ねることにした。バンコクの業者は約2,000米ドル(約28万円)の見積額を提示していた。

 

その業者はバンコクから約北50kmの他県に所在した。訪問する目的は、打ち合わせを行うことと、直接会って信用に足りる輸送業者かどうかチェックすることを兼ねている。むしろ後者の目的の方が主である。

 

マレーシアのクアラルンプールではインターネット上には立派なホームページを持っていたが、実態は自宅マンションでひとりで業務を行った業者がいた。 当方からのその後の問い合わせには、その業者から返答が無いため交渉は打ち切った。

 

バンコクの業者がバンコク郊外で自宅兼事務所で兄姉妹の3人で輸出入の業務を行っているとのことだったが、当方とEメールでコンタクトして返事が早く英語も堪能な女性(妹)は不在中とのことであった。

 

バンコクの兄姉は英語があまりできないので当方との打ち合わせはほどんど進まない。その為、姉が気を利かせて、コンタクトを取っていた妹にワッツアップ=スマホの無料オンライン電話アプリ(WhatsApp)で打ち合わせに英語で参加するようにアレンジしてくれた。

 

この妹はバンコクではなくオーストラリアに居住中あり、兄姉とオーストラリアからEメールやワッツアップで連絡を取り合っていることが初めて判った。当方はこの事実を知って驚いた。コロナ禍でリモートでの業務が社会に浸透してきた現在、このような仕事形態も可能だが、リモートで大丈夫かと一抹の不安を覚えた。

 

タイ経済の情報収集(真面目な話)

 

タイ南部からバンコクにオートバイで入った時から、バンコクの豊かさには驚いていた。他の地方都市とは比べもにならない規模である。高速道路や高架鉄道や地下鉄が通る大都市だ。バンコク中心部から半径40~50km圏内は大バンコク首都圏といっていいだろう。

 

交通渋滞が、世界でも稀に見る酷さだ。都心の約10kmの距離をオートバイで車と車の間をすり抜けて走行しても、1時間弱かかる。郊外の輸送業者へ行った時も50kmの距離で3時間かかった。

 

インドネシアのジャカルタに次いでまだJetroバンコク事務所を訪ねた。

 

バンコク首都圏県の一人当たりのGDP(国民所得)は他県の2倍の約17,000米ドル(200~230万円)とのことで日本の1980年の所得と同等だ。日本は比較的富の所在が均一だが、タイには超富裕層や富裕層が多く存在するので、統計データだけでは市民の豊かさは判断できない。

 

しかしながら、バンコクのビジネス街やそこで働くOLやオフィースワーカーを見ていると東京にいるのかバンコクにいるのか区別できないぐらい成熟した経済社会の様だ。

 

ジェトロ(Jetro)の専門家によるとタイ経済は自動車や電気製品の輸出主導のもと景気が上向いてきているとのことで経済は回復基調だ。

 

ただし、タイには構造的な問題が生じつつある。それはアセアン諸国の中では一番早く少子高齢化社会が訪れようとしているからだ。タイの出生率は1.5人(日本は1.4人)。人口に占める65歳以上の高齢者の割合は既に全人口の12%となっている。

 

65歳以上の人口比率が14%になると高齢化社会と言う。更に25%になると超高齢化社会となる。日本の場合2022年には高齢化比率が29%と超高齢化社会となっている。

 

 

近い将来には内需拡大では経済の拡大は望めない状況になるため、タイ政府は製造業の集積化を図り、他のアセアン諸国とのサプライチェーンを通じて自動車関連製品や電気製品の輸出に力を入れ、輸出主導の経済成長を描いていると言う。

 

産業の集積化には依然外国資本の直接投資が必要だ。タイ政府は外国資本に対して法人税の減税等の優遇策を導入している。中国企業は米中の貿易摩擦を回避するため、タイに製造拠点を構えてタイ製品として米国へ製品輸出し始めている。タイ政府の輸出主導の経済成長に貢献していると言えよう。

 

タイでの日系企業の存在感は大きい。タイ進出の日系企業は6千社だという。近年では中国企業が直接投資額を伸ばして、国別ではトップになっているが、国別の累積直接投資額は日本が一番大きい。

(バンコクのビジネス街の高層ビル群 ルムビニー地区=Lumphinee)

 

(バンコクのラーチャダムリ通りの商業地区)

(バンコクの中心部を流れるチャオプラヤ川=Chao Prayaと水上バス)

(Wat Arun横の通りに京都の町屋風の建物があった。)

(チャオプラヤ川西岸のWat Arunは三島由紀夫の暁の寺のモデルになった寺院だ)

(タイ証券取引所入居のビルといっても証券取引所の初心者向けの証券啓蒙の施設があっただけだった)

 

バンコクから北上して約1,200km走行してチェンマイ経由ラオス国境との町チェン・コーン(Chiang Khong)目指す

 

バンコクに4泊滞在後~タイの旧都アユタヤ(Ayuthaya)~ナコン・サワン(Nakhon Sawan)~スコタイ(Sukhthai)~チェンマイ(Chiang Mai)~ラオス国境との町チェン・コーン(Chiang Khong)へ1週間程かけて約1,200km北上した。

 

チェーン・コーンから国境となっているメコン川を渡りラオスに入国するつもりだ。

 

 

ラオス入国後は首都のビエンチャン(Vientiane)を目指して南下。メコン川沿いに更に南下してカンボジア(Cambodia)へ入国する計画だ。

 

カンボジアでは世界的に有名なアンコールワットを見学後、首都プノンペンを経て、カンボジア最南端の国境からタイへ再入国を考えている。ざっくり2,000km位ののツーリングとなるだろう。

(バンコクからラオスと国境を接するチェン・コーン=Chiang Khongまで北へ約1,200km走行する)

 

バンコクからアユタヤへ約140km

 

バンコクからアユタヤへ抜ける道路は混雑していた。特にバンコクの中心から半径40km~50km範囲の首都圏を抜け出すのに2時間以上走行。オートバイの走行が禁止されている有料高速道路に入り込まないようにMaps.Meのカーナビとグーグル・マップを表示するようにスマホを2台オートバイのハンドルに付けて走行する。 

 

2つのカーナビアプリは時には全く異なるルートを表示する。どちらのカーナビ表示通りに進むべきか迷う。ある区間ではMaps.Meのルート表示に従って走行したり、別の区間ではグーグル・マップ通りに進んでみたりするが、両方とも誤っていた場合もある。最終的には交通標識の道案内が頼りとなる。

 

アユタヤには30年以上前に家族共に観光旅行で行ったことがあった。しかしバンコクで日帰りのツアーバスに乗り込み観光したため、どの道を通ったかとか、どこへ行ったとかはあまり覚えていない。覚えていることは、道路は渋滞しておらず、のんびりと日帰りツアーが出来たことぐらいだ。 

 

当時と比較すると、やはりバンコクでの交通渋滞がひどい。バンコクの郊外に出てものんびりとした雰囲気ではない。

 

 

アユタヤとアユタヤの後に訪れたスコタイにはユネスコの世界遺産に登録されている遺跡群がある。この機会を逃したら二度と来ないだろうと考えて、それぞれの町には2泊して世界遺産の遺跡群や寺院をめぐることにした。

 

アユタヤは1351年から1767年にビルマ(現在のミャンマー)との戦いに敗れ、ビルマ軍に構造物を破壊つくされるまでアユタヤ王国として35代の王が続いたとされている。

 

日本の江戸時代初期には山田長政が率いる日本人が1,000人から1,500人アユタヤに住み、ご朱印船貿易の名で商業活動に従事していた。その後、徳川幕府の鎖国政策のため、ご朱印船貿易は途絶え、アユタヤに住んできた日本人は帰国が許されなかったと言う。

 

日本人のような顔つきのタイ人がいると、帰国を許されなかった日本人の血をひく子孫の一人ではないだろうかと思ってしまう。

(ワット・マハタート=Wat Mahathatの木の根に取り込まれた仏像の頭)

ワット・マハタートの仏塔と仏像

(長さ28mの寝仏像=ワット・ローカヤスーッター=Wat Lokayasutha)

(アユタヤで投宿したRiverside Guesthouseには川に係留してある船内に泊まれる部屋もあった)

 

(アユタヤの日本人町跡には日本政府が援助して建設した展示施設がある)

 

(山田長政の紹介。山田長政はタイ王室の身辺警護役として仕えていたと言う。晩年はマレーシアに近いタイ南部のナコン・シ・タマラット=Nakhon Sri Tamamaratへ左遷され、そこで生涯を終えた)

 

アユタヤ(2泊)~ナコン・サワン(1泊)~スコタイ(2泊) 約400km

 

アユタヤからスコタイまで一気に進むのは疲れるため、中間地点にあるナコン・サワン(Nakhon Sawan)に一泊した。

 

ナコン・サワンでやることや見るべきものがあるため宿泊したのではなかったが、結果的には宿のオーナーの勧めで訪れた旅行ガイドブックには載っていない仏教寺院(Wat Sri Uthumporn)が素晴らしかった。

 

当方の仏教寺院の常識を覆すような多様の色彩と贅を凝らした装飾が施された宮殿のように美しい仏教寺院を訪れることが出来た。

 

まるでロシアのサンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館(当時はエカテリーナ女帝の宮殿)の内装のように美しかった。

 

(ナコン・サワンのワット・ウトンポーン=Wat Utumporn)

(Wat Uthumpornの内部は宮殿のように飾ってあった)

(ナコン・サワンで宿泊したKalae Resortの経営者兼弁護士のプン女史)

 

(タイには沼地が多い。沼地で釣りをする女性達。フナのような小さな淡水魚やナマズを釣っていた)

 

世界遺産のスコタイ(Sukhotai)遺跡群

 

13世紀~14世紀に絶頂期であったスコタイ王国はその後アユタヤ王国に滅ぼされたと言う。

ユネスコ世界遺産に登録されているスコタイ王国の仏教建築物跡が約1km四方の歴史公園の中にある。

 

この遺跡を見るため2泊することにした。ここには現役の寺院は無く、あくまでもスコタイ王国時代の遺跡跡に残る仏像や仏塔とその構築物跡の柱、壁、床ぐらいしか残っていない。

 

平日のためか訪れる観光客の姿は少なく、一人で遺跡群をめぐっていると心細いぐらいである。過去には日本人女性の観光客がこの地で殺害されると言う不幸な出来事があった。

 

訪れる遺跡によっては周囲に人が誰もいない場所があるので、さもありなんと気を引きしめて行動した。

スコタイ歴史公園から少し離れた丘の上のワット・サバーン・ヒン=Wat Saphan Hin 高さ12m)

スコタイ歴史公園内のメインの遺跡ワット・マハタート=Wat Mahathat)

スコタイ歴史公園内の池の中の島にあるワット・スラ・シー=Wat Sra Sri)

(スコタイ歴史公園の入口)

 

スコタイ~チェンマイ 約330km

 

スコタイから30km程走りだすと、片側一車線の対面通行道路ながら、車があまり通らないルートになった。更に進むと森や林間ルートとなり、今までに暑さに代わり走行風が涼しくなりだした。 

 

いままでのただ広い平野の景色から山が見える景色へと変わる。このままこのような林間コースが続けばいいなと思っていたが、ルートの後半は交通量が多く、平地の暑い道路になってしまった。

 

真北へ進行しているが、気温はますます上昇しているような気がする。チェンマイに着くころに背中には汗が流れ、暑さと汗で顔もぐしょぐしょになった。

 

チェンマイはタイの北の都であったと観光ガイドブックに記されていたが、アユタヤに比較すると訪問した現役の寺院は小粒だった。

(チェンマイへ向かう途中の林の中の道路)

(日本人のサイクリストと思い声をかけたらタイ人だった。67歳で一ヶ月間自転車でタイ国内を旅行中だと流暢な英語で説明

してくれた)

 

(稲の収穫作業は鎌を片手に手作用で行っていた)

 

チェンマイのワット・チューディー・ルアン=Wat Chedi Luangの塔は高さ86mあったと言うが、16世紀の地震で上部がくずれ、現在は高さ30m位になってしまった)

(釈迦が悟りを開いた地インドのブッタガヤをモデルに作ったとされるワット・チョット・ヨート=Wat Chet Yot)

 

チェンマイ~ラオスとの国境の町チェン・コーン(Chiang Khong)310km

 

チェンマイを出発した時にはチェン・コーン手前の歴史的な都市チェン・ライ(Chiang Rai)で宿泊する予定だったが、チェン・ライに早く到着したため、チェン・ライから約100km先のラオスとの国境を接するチェーン・コーンまで進むことにした。

 

森を切り開いた山岳道路を通過するころには気温が低下して、体に心地よい風があたる。長距離を走行する割には、不思議と眠くならない。

 

当方のツーリング経験では国境へ向かう道路は、みすぼらしく路面が傷んでいるのが常だったが、タイの場合は違った。片側2車線の立派な高速道路になっている。インフラ整備への政府の力の入れようを実感する。

 

国境手前の町で前泊後、予期せぬトラブルに備え国境は午前中の早い時間に通過したい。

(森林を切り開いた道路は立派だ。幾分涼しさを感じる)

(メコン川=Mekong River。メコン川手前側がタイ領。向こう側はラオスだ。)

 

タイ人との交流

 

タイの人に道路やドライブインの食堂で休憩中に話しかけられる。テレビやニュースを見ていなかったので、知らなかったが、<サッカーワールドカップで日本がドイツに勝ったとアジア人として嬉しい>と言って路上で休憩中の当方にバイクで駆け寄り話しかけてきた年配の農夫がいた。

 

農夫なのになぜ英語が話せるかと聞いたら、ブルネイ等で外資系の企業で働いていたことがあると言う。

 

また、ドライブインの食堂でコーヒーを飲みながら休憩中にはその食堂の主人が拙い英語ではあるが、当方に興味を持ったようで、いろいろ尋ねてくる。当方のツーリングに感動して、売り物だった柑橘類のフルーツ・ポメロを<持って行け>とくれた。

(食堂のオーナーともらった柑橘類の王者Pomelo。Pomeloはすこし甘い程度の味だった。)

 

スコタイの町中では、書類のコピーができる店を探していた。スコタイでは英語はほとんど通じない。しかし歩道でコーヒーを販売している親父が英語を話した。

 

そして当方をバイクで先導してコピー屋までつれていってくれるではないか。その男はスイスのホテルでシェフをしていたことがあると言う。そのコーヒー屋で旅の話等をアイスコーヒーを飲みながら一時間ほどした。そのコーヒー屋の親父は当方と同年配だけに、話が合う。

(67歳の割には年を感じさせないコーヒー屋の親父だった)

 

次回はラオス入国から

 

以上

 

 

 

 

マレーシアからタイ入国~首都バンコクまで約1,400km(2022年11/14~11/20)

 

マレーシア東北部のコタ・バル(Kota Bharu)に近いランタウ・パンジャン(Rantau Panjang)国境からタイ側のスンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境へと陸路でタイに入国後、一週間かけてタイ領マレー半島を首都バンコクまで走行した。

 

スンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境からタイ入国~パッターニー(Pattani)~ナコン・シ・タマラート(Nakhon Si Thammarat)~スラー・ターニー(Surat Thani)~チュムポーン(Chumphon)~フア・ヒン(Hua Hin)~バンコク(Bangkok)の順のルート。

 

(タイの地図。地図の下部がマレーシア。赤線がタイ入国からバンコクまでの走行ルート)

 

イスラム圏から仏教圏へ

 

タイ入国から最初の宿泊地であったパッターニーはタイ最南部であり、イスラム色が強い地域だった。モスクが多く、人々もイスラム教徒の服装をまとっていたが、ナーコン・シ・タマラートまで北上するとモスクが仏教寺院にとって代わり、仏教国タイに入国した実感がした。

 

道路沿いには立派な仏教寺院や仏塔が目につくようになり、いかにタイの人々が仏教を大事にしているか感じることができた。詳細は調べていないが、鶏を祀った寺院が多いことに驚いた。

 

道路沿いに高さ2m~3m位の鶏の像が10m間隔で複数立っていた。近くに養鶏場があるのかなと思い、鶏の像に導かれるように幹線道路から横道に入り込むと、そこには大きな鶏の像が寺院の正面に仁王像のように立っていた。 

(高さ5mほどの鶏の像が立つ寺院)

 

(高さ15m位ある巨大な鶏の像もある。車の大きさから像の大きさが判る)

 

タイの幹線道路状況

 

タイの幹線道路は立派である。余裕を持った車道幅がある片側2車線道路で、制限速度は時速90kmと高速道路並みである。

 

ただし、幹線道路は道路沿いの家並みや生活道路ともつながっているため、突然横道から車が幹線道路に入ってくるとドッキとする。道路沿いの道路や家にも注意を払いつつ高速走行する必要がある分、神経を使う。

 

平地が多いためか直線的な道路が多い。効率的な道路ではあるが、景色の変化に乏しいため、オートバイでのツーリングとして面白みに欠ける。

(直線的な主要幹線道路は高速道路並みだ。中央分離帯は幅15m位の溝になっている。)

 

有料高速道路(Toll Express Road)はオートバイ乗り入れ禁止

 

タイの有料高速道路はオートバイの乗り入れが禁止されている。もっとも有料の高速道路はバンコク首都圏以外には無い。

 

当方はバンコク到着初日に危うく有料高速道路に入りかけた。料金所手前でUターンして有料高速道路に入らなかった。現場にいた警察官が当方を呼び止め、運転免許証を提示を求めてきた。

 

同警察官は当方に反則金のチケットを切ろうとするが、当方の国外運転免許証を見てめんどくさく思ったのか、あるいは当方が世界ツーリング中であるといろいろ説明したことが奏功したのか不明だが、無罪放免となった。

 

しかし、その翌日、当方が夜間にカーナビが誘導するままにバンコク郊外からバンコク市内へ入る道路に入ったら、東京の首都高速道路のような高架の高速道路となっていた。その高架道路を10km程度走行後に料金所が現れた。高架の道路から一般道に降りる道は見当たらない。料金所の係の通報を受けて、警察官がどこからともなくスクーターで来た。その警察官に反則金を支払った。 同警察官は当方に運転免許証の提示を求めず、単に反則金チケットの裏表紙に1,000(約4千円)バーツの文字を書き込んで<払え>と言う。

 

当方が<そんな大きな現金は持っていない>と小銭用の財布の中身をみせると、警察官は当方の小銭入れにはいっていた400バーツ(約1,600円)を受け取り、ポケットに入れる。私的に流用するのだろう。警察官が先導するスクーターの後に続き、下道へ降りた。警察官の顔には微笑みがあった。

(高速道路の料金所付近で警察官を待つ)

 

雨季から乾季への変わり目

 

マレー半島部のマレーシアでは乾季から雨季へと季節が変わろうとしていた。タイ領マレー半島部分では

半島の西側(インド洋側)と東側(タイ湾=南シナ海)では雨季と乾季の時期がが異なるようだ。当方が走行した半島東側(タイ湾側)は、まだ雨季の最中であった。しかし雨季と言っても昼間と夜間にスコールのような雨がそれぞれ1~2時間降る程度であり、ツーリングには大きな問題は無かった。1時間ほど雨宿りしたり、短い距離を雨具を着て走行する程度だった。

 

マレーシア出国からタイ入国~パッターニ(Pattani)220km

 

国境通過

 

マレーシアの北東部の主要都市コタ・バル(Kota Bharu)から約50km弱の走行でマレーシア側の国境の町ランタウ・パンジャン(Rantau Panjang)に着く。国境手前のガソリンスタンドで手持ちのマレーシア・リンギット(マレーシア通貨)を利用して、オートバイのガソリンタンクを満タンにしてから出国手続きをとる。パスポートチェックはオートバイに乗ったままオートバイ専用レーンで行う。いたって簡単だ。

 

しかしながら、オートバイをカルネ(Carnet de Passage en douane)を使ってマレーシアへ輸入したため、関税係官に同カルネに出国押印と署名してもらう必要があった。係官はカルネの扱いに慣れていないため、手続きを終了するのに30分程度時間がかかった。

 

タイへの入国手続きが上手くいくか気になった。2019年ごろからタイでは近隣諸国以外の外国籍車両をタイに持ち込む場合には地元のガイド同伴が義務化される規制が導入されたからである。ただし国境によって、その規制の運用が緩い。

 

スンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境は規制が緩い国境のひとつだと聞いていた。フェースブックで知ったタイのパタヤで外人オーバーランダー(自ら運転する車両で旅をする人)向けの宿を経営するイギリス人にタイのバイク保険や車両での入国書類(TM2の名称の書類形式)を事前に整えてもらいタイへの入国を試みる。

 

果たしてうまくいくだろうか?と少し心配した。パスポートの入国審査は簡単だった。果たして税関で外国籍オートバイを問題なく通してくれるだろうか。税関係官はせっかちな男だった。

 

当方が<このような短期輸入許可書(Temporal Import Permit)を作成してほしい>と上述のイギリス人からもらった見本書類(他の外国人あてに過去に発行された短期輸入許可書のコピー)を同係官へ見せると、係官はその見本を当方の手から奪い取り、<この書類は出国時に税関に返却せねばならいのに、なぜ当方がもっているのか>と非難するように問いただす。

 

当方は、<見本はコピーであり、オリジナル書類は返却されたはずだ>と言っても、同係官はなかなか納得しない。最後まで当方の説明をよく聞かないからだ。同係官が当方の説明に納得するのに時間がかかった。当方は余分な書類は見本であっても係官に見せるべきでは無かったと反省する。

 

一時間半ぐらい時間がかかったが、何とかタイへオートバイと共に入国することが出来た。スンガイ・コロクは国境の町しては寂寥感がなく小ぎれいで活気ある町だった。ここで地元の銀行ATMでタイパーツをクレジットカードを使用してキャッシングする。

 

また、手持ちのマレーシア紙幣も両替商でタイ通貨に両替する。同時にタイの携帯電話用シムカード(SIM)も買う。30日間データー回線及び国内通話使い放題で250バーツだ(約1,000円)。使い放題のデーター回線SIMがあると行先々の宿でWiFiがあるかどうか気にせずに済む。

 

マレーシア国境に近いタイ南部ではイスラム教徒が多数派だ。過去に政治問題を起しているらしい。その為、ガイドブックでは治安が悪い地域とのレッテルが貼られている。

 

この地の幹線道路では約30kmごとに武装警察官が通行車両を検問していることから治安が良いとは言えないだろうが、当方のような旅行者には判らない。 

 

イスラム色が強い投宿したパッターニー(Pattani)の町では治安が悪いとは感じかなった。町では人々が普段の生活をしていた。投宿ホテルでも治安状況については一切の言及は無かった。

(マレーシア側の国境検問所ランタウ・パンジャン)

 

(タイ側のスンガイ・コロク(Su-ngai Kolok)国境検問所)

 

(パッタニー=Pattaniの市内中心部へ入る手前の門)

 

(パッターニ=Pattani市内中心部の時計台はモスクのミナレット=尖塔に似る)

 

パッターニー(Pattani)~ナコン・シ・タマラート(Nakhon Si Thammarat)290km

 

日中に雨が降るようになった。マレーシアでは夕方から夜間にかけてスコールがあったが、この辺りでは降雨の時間帯が異なる。300km近く走行すると、走行途中には雨の地域もあるが、大体は1時間程度のスコールだ。ただし降雨量が多いため、道路が乾くのを待つと更に一時間程度雨宿りすることになる。

 

タイ国境から200km~300km北のこの辺りになると、仏塔や仏教寺院が沿道沿いに目立ち始める。モスクは見かけないし、道行く人もイスラム教徒の服装ではない。仏教国タイへ来たと実感する。また、道路上の検問所も無くなる。

(道路沿いには巨大な仏像がある無名な寺院もあった。)

 

(ヤシの実ジュースを飲んだ後に、ココナッツミルクの原料となるヤシの実の白い部分を食べる。ヤシの実はひとつ40バーツ=約160円)

 

ナコン・シ・タマラート~スラー・タニー(Surat Thani)155km

 

ナコン・シ・タマラートにこの地域では二番目に大きい高さ50m強の仏塔がある有名寺院(Wat Phra Mahathat)を見学するため、本日の移動距離を短くする。 後で知ったが、江戸時代初期に当時のタイ(シャムと言った)で活躍した山田長政は

ナコン・シ・タマラートで生涯を終えたと言う。

 

オートバイのエンジンオイル交換のタイミングが来ている。エンジンオイルを交換するため、オートバイ修理工場等を探す時間も欲しい。スラー・タニーのホテルに午後の早い時間に到着したおかげで、ホテル近くのオートバイ修理工場でヤマハ純正のエンジンオイルに交換する。料金は工賃を含め600バーツ(約2,400円)

 

投宿したホテルの外観は立派だが、宿泊客がほとんどいない。全室60あると言うが、数名程度の宿泊客しかいないのではと思う。この地域は外国人観光客はほどんど来ないのだろう。コロナ禍から宿泊業の回復は感じられない。

(ナコン・シ・タマラートの高さ50m強の巨大仏塔)

 

(宿泊客が非常に少なかったスラー・タニーのホテル)

 

(スラー・タニーのホテル近くの雑貨店ではアンパンが20バーツ=約40円で販売されていた。)

 

スラー・タニー~チャムポーン(Chamuphon)240km

 

驚いた(感激した)ことが一つあった。走行開始して100kmも経ない内に、連日の移動で疲れてきた。とにかく休憩したかったので、幹線道路を逸れて、小さな町へ入った。

 

最初に目に入った食堂で<休憩させてくれ>と頼んだ。まだ昼食前の時間だった。少しお腹がすいてきたが、昼食をとると眠くなるので、あえて昼食は取らないようにしている。

 

暖かいスープを頼んだ。当方は半分の飲みかけのコカ・コーラのペットボトルを手にしていた。顔が穏やかなそのこ女将は当方の飲みかけコカコーラのために氷とコップを用意してくれた。

スープ代金の支払いを頼むと、<お金は不要です>と言うのではないか。

 

当方がお金がないように哀れに見えたのか、余程疲れた顔をしていたのか知らないが、見も知らずの外国人に無料でサービスを提供してくれる態度に感動した。

 

チャムポーンの最初の投宿候補の宿では管理人と思われる目つき悪い年配の女性が宿の設備を説明するも、一方的にまくし立てて、当方の話を聞かない。当方の話と言ってもグーグル翻訳を使っての文章だが。

 

このような接客態度の宿では適切なサービスは受けらないと判断して、他の宿を探すことにした。

 

投宿を決めたゲストハウスはオーナーの良い人柄を反映して、期待通りのリーズナブルな価格、良好な設備とサービスがあった。

 

チャムポーンはタイ領マレー半島で最小の幅(60km強)に立地している。過去、この場所に運河を作って南シナ海とインド洋を運河でつなぐ構想が出たと記憶している。

(無料でスープを出してくれた食堂)

 

マレー半島で幅が一番狭い位置に立地するチョムポーン)

 

(チョムポーンの夜店通りで見つけたあんこを販売する甘党の屋台)

 

チャムポーン~フア・ヒン(Hua Hin)300km

 

前泊した民宿は広大なヤシ林の中にあるコッテージ風の宿であった。ヤシ林を散策出来きる。敷地内の池のほとりにある別棟のコッテージは趣味が良く作られていた。長期滞在にはもってこいの民宿(Guest House)だった。

 

フア・ヒンへ向かう途中に2カ所で雨に遭遇。一回目は雨宿りしたが、2回目の降雨時は雨宿りをせずに雨具を着て走行。宿探しもあるので早く目的地へ到着したかった。

 

ホア・ヒンに到着したのは16時ごろだった。しかし、普段のルーティンでは行わないことを行ってしまったため、2時間以上の時間ロスで、投宿ホテルのチェックインが20時ごろとなってしまった。

 

宿泊候補のホテルの受付でオートバイで旅をしているドイツ人と意気投合した。そのドイツ人も本日の宿を探していたため、一緒に宿探しの行動をとった。単独行動を基本とする当方は他人と同伴行動をとるべきではなかった。

 

そのドイツ人が見つけた宿泊候補地をオートバイで一緒に2カ所回っているうちに夜になってしまった。結局そのドイツ人と分かれ、当方が納得いくホテルを探して投宿した。

 

フア・ヒンは国王の別荘がある落ち着いた保養地としてタイ国民の間でも人気がある町だ。

バンコクの南約200kmに立地するタイ湾に面した町だ。バンコクから自動車での交通の便も良い。

 

日本の関東地区で言えば、三浦半島の逗子・葉山だろう。

 

連日の疲れをいやすため、当方はフア・ヒンに2泊した。この町にはインドネシアのバリ島のように欧米の外国観光客の姿が多い。

(チョムポーン=Chomuphonで投宿したゲストハウスAriya Garden House 敷地内のヤシの林)

(敷地内の池にほとりに立つAriya  Green Houseの別棟)

 

(落ち着いたフア・ヒン=Hua Hinの住宅地)

 

(丘の上の展望台から見たフア・ヒン=Hua Hinの海岸線。高層のホテルが目立つ)

 


(フア・ヒンの丘の上の展望台には多くの野生サルがたむろしていた。当方が目を離したすきにオートバイのハンドルに

付けていたボトル・ホールダーからコカ・コーラのベットボトルに入れていた水を野生の

サルに持ち去られてしまった。)

 

フア・ヒン(Hua Hin)~首都バンコク(Bangkok) 220km

 

バンコク首都圏へ向かう道路の交通量は多い。片側3車線の高速専用レーンの他にも2車線の側道がある。つまり合計片側5車線があると言うことだ。ルート上に渋滞している箇所はないものの、十分な車間距離が取れないぐらい近距離で前後の車が走行している。 オートバイでは走行したくない道路だ。

 

インターネット上でバンコクの日本人宿についての記述を見つけた。バンコクの中心部にある割には部屋料金が安いので、電話で日本人宿に問い合わせた。

 

一番の老舗の日本人宿は廃業していた。コロナ禍のせいだろう。2つ目の日本人宿へは現場までオートバイで行ったが、オーナーやスタッフが不在で敷地内に入れず。門柱に書いてあった連絡先へ電話しても誰も電話には出ず、タイ語で留守録が流れるのみ。

 

翌日、インターネット上の同ゲストハウスへの問い合わせ書式を使って、下見が可能かどうか問い合わせすると、<60歳以上の男性の宿泊はお断り>との返事が来た。

 

当方は郊外のインターネット予約サイトで評判が良いゲストハウスに投宿することにした。<12/14 Home Studio>と言う名のゲストハウスだった。

 

オーナーは英語が堪能な30代のタイ人兄弟。当方がオートバイで世界ツーリング中であり、宿泊費用を少しでも安く抑えたいと今までのツーリングの説明を説明すると、気前よく部屋料金を800バーツ(約3,200円)から500バーツ(約2,000円)へと割り引いてくれた。

(主要幹線道路沿いで目立った日系トラックメーカーの販売店。タイでの販売シェアはトヨタに次ぐと言う)

(バンコク市内の幹線道路は慢性的な渋滞だ。オートバイでの車と車の間のすり抜けも難しい)

(バンコクで投宿したゲストハウス 12/14 Home Studio)

 

次回はバンコク滞在記から

 

 

 


 

 

インドネシアのジャカルタからクアラルンプールヘ戻った夜、頭痛と関節の痛みで当方の体調が一番調子悪かった。

 

インドネシアの水シャワーで風邪をひいて以来、咳がとまらず薬局で買った薬を飲んでも一向に改善しない。

 

体の疲れも溜まっているので、ちょっとした風邪がなかなか治らず長引くのだろう。

 

9月下旬から10月初旬かけてのマレーシア南部地域をバイクでツーリングした。クアラルンプールで休養を兼ねた3泊後、今度はタイ国境へと続くはマレーシア北部地域でのツーリングを行う。

 

ツーリング・ルートはクアラルンプール(Kuala Lumpur)~キャメロン・ハイランズ(Cameron Highlands)~ペナン島(Penang)~コタ・バル(Kota Bharu)の約1,000km

 

マレー半島部のマレーシア地図。マレー半島西側=写真左側の中央が首都のクアラルンプール。ここから北(上方向)へ赤字ルート沿いに北上。最後はマレー半島を横断して東側(地図右側のコタ・バルに到着。タイとの国境はコタ・バルから約40km地点のランタウ・パジャン(Rantau Panjang=マレーシア側)・スンガイ・コロック(Su-ngai Kolok=タイ側)にある。

 

(マレー半島南部地域(地図下部分)の赤字線は9月下旬にツーリングしたルート)

 

クアラルンプール(Kuala Lumpur)~キャメロン・ハイランズ(Cameron Highlands)約260km

 

クアラルンプールの複雑な立体交差網の道路を抜け出すのにまた苦労した。道路の分岐点を何回も間違えた。クアラルンプールの立体交差網は当方のカーナビアプリのMaps.Meでは判読し難い。

 

キャメロン・ハイランズに行く前にマレーシア国産車メーカーがあるプロトン・シティー(Proton city)へ立ち寄ろうと考えていたが、クアラルンプールを抜け出すのに時間がかかりすぎたため、プロトン・シティーへ立ち寄ることは諦めた。

 

キャメロン・ハイランズは100年以上前のイギリス統治下のマレーシアで英国人キャメロン氏が

避暑地として開発した。標高約1,400mの高地のため、常夏のマレーシアでも涼しい。そのキャメロン・ハイランズは避暑地としてのみならず、寒暖差がある気候を生かしたマレーシア最大の紅茶畑やハウス栽培のいちご生産がさかんな場所としても知られている。

 

 

クアラルンプールの首都圏からは一般道で約5時間程度の距離である。地方道は片側一車線の対面通行となるが、交通量が少なく、道路も整備されているのでワインディングの坂道を除けば時速80km程度での走行が可能だ。大部分の地方道の制限速度は時速90kmに設定されている。

 

キャメロン・ハイランズの手前約50kmから上り坂のワインディングロードが始まるが、緩やかな上り坂だ。また、一車線の対面通行であっても、道路幅が比較的広いためワインディングロードでもゆったりと走行可能だ。

 

キャメロン・ハイランズではゲストハウス(民宿)に宿泊した。温水シャワーは有難い。日中でも長袖が必要ぐらいだったが、夜は冷えた。風邪が悪化しないように、持参していたシュラフ・カバーの中に入り、その上から毛布を掛けて寝た。

(クアラルンプール郊外のプーチョン=Puchongのホテルからフル装備で出発)

 

クアラルンプールからキャメロンハイランズ途中の住宅分譲物件。立派な戸建て分譲住宅)

(雨宿りする地元の若手ライダー。皆100cc~150ccのスクーターに似た小型バイクに乗っている)

(キャメロン・ハイランズに至る緩い上り坂)

(キャメロン・ハイランズでライチを売っていた露天商は日本の演歌<北の宿>を披露してくれた)

 

(キャメロンハイランズの起点となるRatah Rataの町)

 

紅茶メーカーBOHの茶畑見学

マレーシア最大の紅茶メーカーBOHがキャメロン・ハイランズで茶畑から製茶までの一貫事業を手掛けている。

 

 

無料で見学できるとのことで、BOHの茶プランテーションへバイクで訪問。山の斜面を利用した広大な茶畑が広がる。丘陵地の茶畑の中の車一台しか通行できない狭い私道を通りBOHのビジッターセンターまで行く。 茶畑の道路脇では十数名のBOHの作業員と思われる男達が、茶畑では摘み取った後の茶の葉を斧で切り、工場へ運ぶため大きな麻袋に茶葉を詰め込む作業をしていた。

 

コロナ禍前なら製茶の工場見学も可能だったようだが、現在は工場見学は出来ない。

 

茶畑がある一角には紅茶と軽い食事ができる立派なビジターセンターの建物がある。

無料の茶畑見学と言っても、紅茶と一緒に食事を提供し、またBOHの製品を販売するビジネスモデルがある。この農園には内外の観光客が多く訪れていた。

 

BOHの設備が整った茶畑やビジターセンターを見学した後、観光養蜂場にも立ち寄った。設備が老朽化し、狭い谷間に設けられた養蜂場はみすぼらしく見えた。観光客はほとんどいない。設備の古い建物内の土産物店もみすぼらしく見えた。入場料が無料と言えども、見て感動するものが無い。

 

当方は土産物店で入場料代わりにクッキーを買って、養蜂場を早々に後にした。

 

(写真奥がビジターズ・センター)

(ビジターズ・センターから見る茶畑)

(摘み取った茶葉を袋に詰め込む作業)

(BOHの緑茶。スーパーでも販売する)

(Bee Farm=養蜂場)

(ミツバチの巣は時々の降る雨のためかシートで覆われていた)

 

キャメロン・ハイランズ~ペナン島(Penang)約300km

 

キャメロン・ハイランズに2泊後、マレーシアの主要観光地であるペナン島に向かった。ペナン島の州都ジョージ・タウン(George Town)はユネスコの世界遺産に登録されている古い町だ。

 

キャメロン・ハイランズへ来た時と同様に、今度は高地から50km続く坂道のワインディングがある。下り坂はなだらかで、勾配は上り坂より少なくなっていた。ワインディングロード好きなライダーには申し分ないようなルートである。

 

マレーシアの高速道路は有料であるが、バイクに限っては無料である。一般道の制限速度が時速90km故、高速道路(制限速度時速110km)と比べても遜色ない。そのため、高速道路と並行する幹線道路には高速道を回避する車が多く、一方高速道路はガラガラ空きという状況がある。

 

 

ペナン島は2つの長い橋でマレー半島と結ばれている。当方は両方の橋の通行を試みた。

最初は第二大橋と呼ばれる南側の新しい橋だ。全長約18kmぐらいある。この橋には車道とバイク道あり、車道とバイク道にはコンクリートの高さ1mほどの壁がある。欄干とコンクリート壁の幅はちょうど一車線分くらいの2m強の幅がある。時速80~90kmで走行するとこの幅が実際の幅より狭く見えて、橋を端から端まで渡り切るまでは景色を眺めている余裕は無く、壁や欄干に激突しないように注意力を集中させた。

 

 

州都ジョージ・タウンのホテル代は割高だった。目星をつけていた4軒のホテルやゲストハウスをチェックしたが、設備の割に部屋料金が高い。中には部屋を見せてくれないホテルもあったり、受付係が威圧的だったホテルもあった。 典型的な売り手市場だ。

 

ジョージタウンでの投宿は諦め、キャメロン・ハイランズ投宿中に知り合った中年のイギリス人から聞いたペナン島西側のテルック・バハン(Teluk Bahang)と言う小さな町の評判が良いゲストハウスに投宿することにした。

(写真左側は有料高速道路と並走する一般道。有料高速道路には車は少ないが、一般道には多くの車が走行)

(滞在したTeluk Bahang=ペナン島西部のTony’sGuesthouseは居心地が良かった)

 

ペナン島一周(約90km)

オートバイの機動性を生かして、世界遺産のジョージタウン見学を兼ねたペナン島一周ツーリングを行う。 島の真ん中は標高500m~600m程度の山岳地帯になっている。

 

まずはペナン島中央部の山岳部へと坂道を上り、その後下る。ちょうど神奈川県の箱根に上るような、急な坂と数々の小さなワインディンが多い。ペナン島の場合は交通量が少ないので、細かいワインディングの急な坂でもツーリングは楽しく感じる。

 

島の西側は人口が少なく、観光地的でもないので交通量は少ない。ジョージタウンがある島の東側はホンコンのように丘陵地にも高層アパートが立ち、人口密集地となっている。当然交通量が多くて、楽しいバイク走行は望めない。

 

ジョージタウンの街並みは9月末に訪れた南部のマラッカ市の旧市街に似ていると思った。

中国系の住人が多いとあって、旧市街全体がチャイナタウンのような感じの場所だった。インド人街もあるとガイドブックには記されていたが、天気が怪しくなってきたため行かなかった。

 

午後の3時過ぎになるとやはり激しいスコールが降り出した。スコールは1時間程度で止んだが、その後も雨は夜半にかけて断続的に降り、ジョージタウンから25km位離れた場所の宿にはレインウェアを着て戻った。

 

 

ペナン島のテロック・バハンのゲストハウス(Tony’s Guesthouse)は居心地がよかったため

3連泊した。ヤシの木の林の中に一見みすぼらしくも見えるゲストハウスだった。約10部屋位あるが、ドミトリーが無いため、宿泊客が多くなく、ゆったりとした空間があった。オーナーの中国系のトニー氏も鷹揚な人柄で、それに似てか4~5匹の犬も敷地内で我感せずと寝そべっていた。

 

自分の土地にゲストハウスを建てているため、コロナ禍で客が無かった時でも金銭的には苦労しなかったトニー氏は言う。現在は敷地内に新しい客室の建物を建設していた。

(ペナン島の山岳部から見たペナン島西側の景色)

(車の通行が少ないペナン島西側)

(ペナン島最南端の漁村の浜辺)

仏教寺院マレーシア最大規模のペナン島の極楽寺=Tek Lok Si Temple)

(極楽寺=Tek Lok Si Templeから見たジョージタウン=George Townの遠景)

(ジョージタウンの倉庫街)

ジョージタウンの旧市街の一角

(投宿したTeluk Bahangの街角屋台で販売してた焼きおにぎり=日本のちまきのように笹の葉で

細長いもち米を巻き炭火で焼く。にぎったもち米の中にはエビのすり身が入っていいた)

ペナン島ジョージタウンで一押しの中華海鮮麺=Char Hor Fun)

(インドのクレープ風ファストフード=マッサーラ・トセ。薄く焼いたパン生地の中にカレー味のジャガイモを入れる。ジョージタウン旧市街)

 

何故ペナン島からコタ・バル(Kota・Bharu)へ

 

マレー半島を横断して東側のペナン島から南シナ海に面するコタ・バル(Kota Bharu)へ行く理由は、タイへ入国するためだ。

 

マレーシアから陸路でタイへ入国する国境は複数あるが、コタ・バルに近いタイのスンガイ・コロック(Sungai Kolok)国境がタイへの入国手続きが簡単だと聞いた。

 

タイは2019年頃から外国籍車両での同国入国の際には現地人ガイドを同伴させる規制を導入している。しかしながら、国境のイミグレーションによってこの規制が緩く、タイの車両用強制保険等の必要書類を整えておけば、現地人ガイドの同伴無しでも入国可能な国境検問所があると聞く。 スンガイ・コロックがそのひとつの国境だ。

 

ペナン島からコタバル(Kota Bharu)約410km

 

前日は近所を散歩した位で宿で静養したにもかかわらず、夜になると咳がでて止まらず、頭が重く感じる。400kmの長距離走行が可能だろうかと弱気になったが、出発当日の日の出前に出発の準備をしだすうちに、体調が良くなった。

 

この頃は日の出時間は午前7時過ぎ、日没時間は午後の7時前ぐらいになっている。インドネシアでは未明の4時ごろにイスラム教の当日一回目のお祈りが時間となっていたが、マレーシアでは午前6時台が一回目のお祈り時間だ。その為、早朝の拡声器からのコーランの発声が睡眠の妨げにない。

 

 

日の出直後の午前7時台に宿を出発。ペナン大橋を通行する頃には午前8時台となり交通量が多くなってきた。ペナン島に渡る時は第二ペナン大橋を通行したが、景色を見る余裕が無かった。

 

ペナン大橋は第二大橋の約半分の8km位の長さで、バイク専用レーンは無いが、片側3車線の道路は走行し易かった。 対岸の霧が薄くかかったバターワース(Butterworth)の高層ビル群を眺める余裕があった。

 

休憩なしに約200km走行後、ガソリン給油時にコーヒーを飲みながら一回目の休憩をとる。

何故か知らないが、一回目の休憩以降、頻繁に眠くなる。

 

睡魔が襲ってきた。道路脇にバイクを止めて、ヘルメットをかぶった状態でハンドルに頭を伏せて仮眠をとっていると子供をバイクに載せた地元のオジサン風の人が当方を心配して<大丈夫か?>声をかけてくれた。当方は<大丈夫>と返答するが、心配して声をかけてくれるとは嬉しいことだ。

 

マレー半島横断は山岳地帯を走行する。標高は判らないが、走行風が寒く感じられる。更進むとに雲行が怪しくなり、霧から霧雨になり、その後本格的な雨に変わった。山の中で雨宿りする場所が無いため、レインウェアを着て走行を継続。道路コンディションが良いため、一部の山岳道路部分を除けばほぼ高速走行が可能だった。

 

コタバルで本日の宿探しを行った。4軒回った内、満室で宿泊できなかったホテルから紹介を受けたホテルと他の1軒がコロナ禍のためか閉鎖中だった。東海岸のコタバルは観光地では無いので、宿泊客の戻りも良くないようだ。

 

結局、宿泊候補の一つで有ったJack Guesthouseに投宿。宿泊客は当方のみ。オーナーは別のところに住んでいるため、約450m2の2階建てゲスト・ハウスは2泊とも当方のみで静かな時を過ごせた。

 

(夜に象が道路を渡るらしい。ペナンからコタ・バルに向かう途中のマレー半島中央部の内陸道路)

(コタ・バルの中心街の時計台)

(コタ・バル中心部のモスクとムルデカ広場)

(宿泊は当方一人だけだったコタ・バルのゲストハウスのサロン)

 

Facebookのアカウント侵入問題

 

Facebookから1ヶ月もしない内に2回他の人が当方のアカウントへの侵入を試みているとの警告文を受取った。Facebookは

当方アカウントのPasswordの変更を強く勧める。

 

パスワードを変更手続きを進めているうちに、当方が間違って他人のアカウントに入ってしまった。途中で他人のアカウントだと気が付き、手続継続を中止するが、既に他人のアカウントの中を見ることができるし諸設定の変更が可能な状態になった。

 

変更中のパスワードが同じだったのだろうかと考えたが、こんなに簡単に他人のアカウントに誤って入れるのではFacebookの安全対策に不備があるのでは考えた。

 

コタ・バルに2泊後、週明けの月曜日(11/14)にスンガイ・コロック(Sungai Kolok)国境からタイ入国を試みるつもりだ。

 

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スラバヤ(Surabaya)からジャカルタ(Jakarta)へバックパックで列車旅(10/29~11/3)約800km

 

スラバヤ(Surabaya)からジャワ(Java)島西部の首都ジャカルタ(Jakarta)まで約800kmの距離がある。移動距離が長いため、インドネシア国鉄の列車旅に切り替えた。

 

スラバヤ・グベング駅(Surabaya Gubeng)を午前9時発の特急電車に乗りスラバヤから約300km西のジャワ島中央部に位置する古都ジョゴジャカルタ(Yokoyakarta)へ向かった。

 

当方は日本のJRのグリーン車に相当するエグゼクティブクラスの車両に乗車した。運賃は275,000ルピア(約2,700円)。スラバヤを定刻に出発してから約4時間後、定刻通りにジョゴジャカルタに到着する。時速約100kmで走行するディーゼル機関車が約8両ぐらいの車両を引っ張る。

 

この車両は全て座席指定だった。当方は切符の座席を示す印字がかすれていたため誤った座席に腰を沈めた。しばらくして他の男が来て、当方に何か言うがインドネシア語なので判らず、そのままにした。男は当方の隣の座席に座った。 しばらくして列車が動き出して車掌が検札にやって来た。

 

車掌は当方の前で止まり、何か言っている。当方が間違った座席に座っていることが判った。隣に座った男の座席に当方はずっと座り続けていたのである。インドネシア人の隣の男は、当初何か言っただけで当方がその男の座席に座り続けていても、その後は何も言わなかった。当方が好きな座席に乗れば良いとのインドネシア人の気遣いがあったのだろう。 

 

 

足元が日本のグリーン車両のように広く、革張りの座席は清潔で乗り心地が良かった。座席にはスマホやPC用に電源が備わっている。

 

列車はスラバヤ市内の家並みが続く人口密集地帯を通るが、市街へ出れば広い農耕地が続く平野を走る。ジャワ島は火山島なので、日本のようにいたるところに山がある風景を想像していたが、広い平地が続く光景はむしろ大陸のイメージだ。

 

稲を刈り取った後の水田あり、これから田植えをする水田、既に稲穂を付けた水田があったりと季節が判らなくなるような風景だ。またトウモロコシ等のような野菜を栽培している農耕地もある。

 

ひとつひとつの水田はあぜで小さく区分けされている。耕作者あるいは地主が異なるなるのであろう。広い平野でも、水田ひとつひとつの耕作面積が小さい。せっかく広大な農耕地があるのに小規模農業では生産性が低いままだろう。

(列車の車窓からの景色・広い平野が広がる)

(列車の車窓からの景色・トウモロコシ畑)

(車窓からの景色・水田は小さく区分けされている)


(インドネシア・ジャワ島地図。 点線の部分が列車旅のルート。スラバヤはジャワ島東部(地図右側)でマーカーで印をつけた位置。ジャワ島中央部分がジョグジャカルタ。 ジャワ島西部=地図左側が首都のジャカルタ)

 

ジョグジャカルタ(Yogyakarta

 

かってのジャワ島の歴代王朝があったとうい古都と観光ガイドブックには紹介されている。ブロドブール(Borodubur)を始めとする7世紀~8世紀ごろの巨大仏教遺跡群が近くにあったり、ヒンズー教が栄えた当時の巨大寺院パランバナ寺院(Pranbanan)がある。

 

現在のインドネシアは人口の9割がイスラム教徒だが、歴史的にみると仏教=>ヒンズー教=>イスラム教へと信仰が移り変わったことが巨大遺跡群で判る。

 

ジョグジャカルタの中心部は小さかった。駅から外へ出て、バイクが無いので宿探しには苦労するかなと思った。レンタルバイクの店を探そうと駅前の通りから小路に入ると、その小路には二十数軒の民宿や小型ホテルが軒を連ねていた。

 

宿泊の事前予約は全く不要だ。宿泊施設の相場を知るため、民宿やホテル3軒ぐらいを回り、価格をチェック後、既に宿泊している外国人旅行者と思われる人が更に奥の小路に入って民宿に入った。

 

当方はその外人旅行者の後について行き、その宿の主人と部屋代の価格交渉をした。その宿は大手宿泊予約サイトでは評判が良い民宿だと後で判ったが、その大手宿泊予約サイトでは一泊270,000ルピア(約2,700円)で売り出していた。

 

当方は交渉の末、2~3泊の条件で175,000ルピア(約1,750円)で泊めてもらうことにした。

 

この宿の主人は英語は現在形も、過去形も無いブロークンイングリッシュだったが、とにかく世話好きで、しかもまめで人が良い。

 

当方は同民宿でバイクもレンタルして、巨大仏教遺跡ボロドブールまでツーリングしたが、景色が良いルートや他の見どころを丁寧に教えてくれる。

 

また、当方がチェックアウトする前夜には、その主人が他の顧客をオプショナルツアーへ連れていくため、当日当方を見送れないことを詫びるためにわざわざ部屋に訪ねてきた。

 

同民宿の大手宿泊予約サイトでの評価が高くいのも頷ける。

(駅前通りから小路をはいると多くの民宿やホテルが軒を並べていた)

(投宿した民宿の主人)

(ジョゴジャカルタの目抜き通りJalan Malioboro。東京の原宿のように並木がある広い歩道があった)

(インドネシア各地から来る観光客で賑わうジョゴジャカルタの目抜き通りのJalan Malioboro)

(当方が気に入った肉団子スープ=BOKSO Soup 16,000ルピア=約160円)

 

ボロドブール(Borodubur)仏教巨大遺跡

 

ジャワ島での観光名所の一押しだろう。底辺約126m四方,高さ36mのピラミッドのような形をした巨大仏教遺跡が7世紀から8世紀ごろ造られ、12世紀~14世紀ごろまではその姿がみられたようだが、その後19世紀に土の中に埋もれた状態で発掘されるまで歴史から忘れ去られていたと言う。

 

ユネスコの世界遺産に登録されている。しかし残念なことにコロナ禍のため、巨大遺跡は外から眺めるだけになっている。本来なら遺跡の中の外回廊を頂上までに登り、遺跡の壁に刻まれたブッタの生誕から悟りまでの生涯、人の欲望への戒め、地獄絵、悟りの境地等複数の彫刻が観れるはずだったが。

 

遺跡のへの外国人の入場料は387,500ルピア(約3,800円)と現地人(50,000ルピア=500円)の8倍した。新興国では観光施設のへの外国人入場料が現地人より割高にに設定されている場合が多いが、現地人入場料の約8倍とは高すぎるのではないだろうか。現地では日本の2万円~3万円程度の価値がある価格だ。

 

しかも遺跡を外から見るだけで、この価格では不満が残る。 競争が無く、顧客満足度を考えない国営施設がなせる業だろう。

(ボロドブール遺跡全体。このように遺跡の外からしか眺められなかった)

(ボロドブール遺跡の基盤の一角のレリーフ。色が変わった部分は補修した)


(ボロドブール遺跡の近くの他の仏教遺跡=Mendut Temple。敷地内の熱帯の巨木が立派だった)

 

ボロドブール遺跡はジョグジャカルタから北西約40kmに位置する。ジョグジャカルタからはほぼ一本道の舗装面が良好な道路だった。直線道路で物足りなさを感じるが、渋滞も無くストレスなく走行可能だ。

 

宿の主人はボロドブールに通じる景色が良いルートがあると言っていたが、結局よくわからず主要道路での往復だった。片道約1時間20分ぐらい、往復で約90km位の距離でスクターでちょうどよい距離だ。ジョゴジャカルタには3日間滞在。

(ジョグジャカルタ~ボロドブール遺跡間の道路風景)

 

ジョグジャカルタから首都らジャカルタ(Jakarta)まで約500kmを6時間かけて特急列車をに乗る。8:50定刻通りに発車する。前日駅でエクゼクチブクラスの切符を575,000ルピア(約5,700円)で買うが、現金払いしか受け付けなかった。

 

スラバヤ駅でジョゴジャカルタまでの切符を買う際にはクレジットカード払いが可能だったが。デジタル化対応が地域ごとで異なるようだ。

 

スラバヤからジョゴジャカルタ間での列車では食い入るように車窓の景色を見ていたが、景色に飽きたせいか、時々眺める程度になった。 ジャワ島は本州の半分程度に約1億5千万人が住むインドネシアで一番人口密度が高い島だ。 

 

鉄道沿線には家並みが途切れることが無いような日本の東海道沿線の景色を思い描いていたが、ジャカルタ近郊や途中の都市部以外は広くてゆったりとした平野部を列車が走る。人口密度が高く、多の人々が住む島とは感じさせない光景だった。

 

首都ジャカルタ(Jakarta) 経済関係の真面目な話

 

人口1千万人を超す大都会だ。第二の都市スラバヤとは比較にならないくらいの規模と高層ビルが立ち並ぶ近代都市だ。

 

ジャカルタ中心部はインドネシアにしてインドネシアではない東京都心部のような装いだった。高級ホテル、高級商業モール、商業ビル、高層のオフィースビル群、インドネシア唯一の地下鉄等、今まで見てきた地方都市とはあまりにも違う。

 

都心部には建設中の高層ビルや地下鉄の新駅等が目立った。さながら建設ラッシュのようだ。建設を請け負っているのは中国系の建設会社の名がやはり目立つ。

 

ジャカルタ訪問の目的は経済関係の情報収集と証券取引所への訪問だった。

 

ジェトロ・ジャカルタ事務所を訪ねた。当方との面談を快く対応していただき、インドネシアの経済の状況及び日系企業のインドネシア進出状況について教えてもらった。インドネシアへは製造業を中心とした約1,500社の日系企業が進出している。

 

インドネシアはコロナ禍期間を除けば、過去10年に経済が年率5%で伸びている高度成長国だ。さらに、インドネシアは経済共同体でるアセアン諸国全体人口の半分をしめる巨大な市場だ。

 

しかも人口動態で言えば、30歳以下の若い世代が多い。若い世代が労働市場に出て、お金を稼ぐようになれば、産業の生産が上昇する。また、稼いだお金を使い、材やサービスを消費すれば経済が大きくなる好循環だ。

 

以前は日本でも衣料品を中心とした多くの消費材がインドネシア製だったが、最近ではベトナム製やミャンマー製も多くみられるようになった。

 

インドネシアが製造拠点として競争力が落ちているのかなと当方は考えていたが、そうでも無いらしい。

 

政府はインドネシアの巨大消費マーケットを背景に外国資本の直接投資にこびを売らなくなったと言う。外国資本の直接投資に対して特別なインセンティブは無いようだ。それでも外国資本は巨大な消費マーケットに魅力を感じて投資を継続させている。

 

外国資本にこびを売らなくなった一例として、輸入規制の強化がある。従来はエアコン完成品をを自由に輸入して現地販売が出来た。しかし、完成品の輸入に規制が導入され、ダイキンやシャープ等のエアコンメーカーは現地生産にかじを切ったと言う。 政府にとって重要なのはやはり自国の産業の育成と国民へ職を与えることだ。

 

日本からの直接投資はシンガポールや米国等に比較するとベースダウンしているようだ。外国資本は電気自動車で使用されるバッテリーの材料となるニッケル鉱山の開発等の資源開発関連の分野に投資が目立つと言う。

 

インドネシア経済の強みを言えば、巨大で若い人口を抱え、原油、石炭やニッケル等の資源が豊富であることであろう。課題はインフラ投資の推進と教育水準のかさ上げだろう。大卒者の比率は同世代の10%程度だと言う。

 

現在インドネシアの一人当たりのGDP(一人当たりの年収と考えてよい)は約4,200米ドル(約60万円)だ。日本に当てはめると米ドルとの為替レートが360円に固定されていた1960年代の水準だろう。

 

日本ではカラーテレビ、クーラーと自家用車が三種の神器と呼ばれていた時代だ。その後の日本の経済発展は周知の通りだ。

ただ、その時は自由貿易を標榜していたアメリカが日本から物を大量に買ってくれた。

 

当方が株式を保有したことがあった大手建設機械メーカーの小松製作所は投資家向けの説明会でインドネシアは同社の鉱山関連大型重機には有望マーケットとしていた。また、大手商社の三菱商事は投資家向けの決算説明用の冊子でインドネシアのスマートシティーへの出資を取り上げていた。

 

(ジャカルタのビジネス街Senayan)

(商業地区Isotoraのビル街)

(Isotoraの高級商業モール)

(日本の円借款で建設されたジャカルタの地下鉄。一路線しかないが安全ドアが装備されている)

(ジャカルタの地下鉄車両内。始発駅のため乗客はまばらだった)

(民家が軒を並べる一角で高層ビルの建設がある)

(人類の進化においてジャワ島で推定70万年~80年万前がジャワ原人=Homo Erecutsの骨発見された。

写真の上段一番右側が人類の進化過程におけるジャワ原人の位置づけだ。

上段右から二番目がアフリカのケニアで発見された道具を扱う人類の祖先=Homo Habils=200万年前と考えられている。

現代人の祖先であるホモ・サピエンスは写真下段の一番左)

(ジャカルタの国立博物館内のジャワ原人の想像モデル)

 

インドネシア証券取引所訪問

 

2日前に証券取引所とのアポイントをメールで入れておいたが、全く返事が無い。

広報等の窓口と思われる部署に電話コンタクトを図るが、英語が通じにくいため、たらいまわしでアポイントの進展が無いの状況だった。そのため、ダメもとで証券取引所を直接訪問した。

 

個室には通されなかったものの、英語が話せる若いスタッフ2人が対応してくれた。時価インドネシア証券取引所の時価総額は約6300億ドル(約80兆円)。約800社強の企業が上場されている。

 

外国人機関投資家が証券取引所のメインプレーヤー(日本では日々商いの50%~60%が外国人投資家の取引が占める)だと思ったが、インドネシアの個人投資が主役だいう。

 

取引所では若い世代の投資教育に力を入れてきて、その成果が表れつつあると言う。

 

証券取引所スタッフもインドネシア経済のの強みとして、若い人口動態と国民性として消費性向が高いことと、そして資源があることを挙げていた。インドネシア人は貯金を好まず、持っているお金は消費に回してしまう傾向が強いとそのスタッフは強調する。

 

約30日間のインドネシアのレンタルバイクと列車使うバックパックの旅もジャカルタで終了して、ジャカルタから自分のバイクが置いてあるクアラルンプールで空路戻る。

 

インドネシアで一番印象に残ったのは人々の優しくさと笑顔がだった。当方がにっこり挨拶すれば、笑顔で返事をかえしてくれる。

(インドネシア証券取引所入居ビルの前には雄牛=Bullの像があった。Bullとは上昇相場の

ことで縁起が良い)

 

ジャカルタでインドネシアのアライバルビザ(VOA)の30日間の期限を迎える頃となり、ジャカルタから当方のオートバイを保管してあるクアラルンプールへ戻る。

 

以上

 

 

インドネシア・ジャワ島東部ツーリング約700km(2022年10月22日~28日)

 

スラウェシ島のマカッサールから空路約1時間でジャワ島東部のスラバヤ(Surabaya)

へ到着。空港からはバイクタクシーで市内へ入る。夕刻の帰宅時間に重なり幹線道路は車で大渋滞だったが、バイクの機動性を生かして抜け道を通り、渋滞路でのすり抜け等で30分ぐらいで市内へ入る。

 

スラバヤはインドネシア第二の都市。日本でいえば大阪だろう。目星をつけていたホテルは満室だった。2時間前にインタネットサイトでチェックした時は空室があったのだが。

待機中のバイクタクシーに乗り、2番目の候補の宿泊先へ投宿。翌日一日かけてスラバヤでレンタルバイクを確保せねばと思い、ここまで当方をバイクに乗せてきてくれた若いバイクタクシーのライダーを翌日半日貸し切りすることにした。

(スラバヤの路地裏通りに住宅地が広がる。)

スラバヤ市内中心部のの歩道にはバイクが歩道を走行できないようにバイク除けの鉄柱がたっている。

スラバヤモールの日米外食決戦。スターバックスとマクドナルドvs吉野家とラーメン屋が大きな看板を出していた。

 

(Surabaya Gubeng駅.Yokoyakarta等中部ジャワへの発着駅。列車の便数は少ない)

 

スラバヤのレンタルバイク事情

 

前日インターネットでスラバヤでは外国人がオートバイをレンタルしようとすると断られてしまうとの投稿記事を読んだ。スラバヤのレンタルバイクをインタ-ネットで検索すると外国人のオートバイレンタルを不可とするレンタルバイク屋が多いことに気が付いた。

 

それでもインターネット上に自社のウェブサイト(Website)を持つレンタルバイク屋にWhatsAppで問い合わせした。最初に問い合わせしたレンタルバイク屋はスラバヤ市内限定なら貸出可能だが、遠出は不可との返事だった。

 

上述のレンタルバイク屋から紹介された仲間の業者はスラバヤ市外への遠出も可能と言う。ただし、スラバヤ市内限定のレンタルなら一日当たり100,000ルピア(約千円)のレンタル料だが、遠出の場合は150,000ルピア(約1,500円)と言う。その業者、Teman Petualang Indonesiaからホンダ製110ccのスクーター(Vario)を借りることにした。

 

このレンタルバイク業者は空港に近いスラバヤ市の郊外の住宅地で、自宅兼用の店舗ながら数台のレンタルバイクを店舗に置き営業をしていた。

 

その他にも、半日貸し切りしたバイクタクシーに乗ってスラバヤ市内中心部のレンタルバイク屋を2軒回ったが、スラバヤ市外への遠出の場合は一日260,000ルピア(約2,600円)と高いレンタル料の業者であったりして、無駄に終わった。

(スラバヤのレンタルバイク屋。左から2番目がオーナー)

 

大手宿泊予約サイト運営会社と地元の宿泊業者とのトラブル

 

Booking.ComやAgoda等の大手宿泊予約サイト運営会社と地元の宿泊業者がトラブルを抱えていることが判った。

 

大手宿泊予約サイト運営会社で予約した料金では、地元の宿泊業者が

予約者の宿泊を拒み、宿泊業者が提示するほぼ2倍の料金を支払はない限り宿泊を受けないとしている。

 

既にマッカサールで宿泊を試みたホテルで似たような体験をしたが、インドネシア語で言われたので、その時はよく理解していなかった。また、その時は事前の予約もしていなかった。ホテル側提示の料金を払わないと宿泊できないと言われたにすぎなかったので、そのホテルには宿泊しなかっただけだった。

 

詳細は後述するが、当方は大手宿泊予約サイト運営会社のAgodaで宿泊予約を行った。しかしながら、ホテル側は予約料金とホテル提示の料金(予約料金の約2倍)の差額を支払わない限り、宿泊させないと言われトラブルになった。

 

個人的な推測だが、コロナ禍中に地元宿泊業者が安い宿泊料金でもよいから何とか宿泊客をつかもうと大手宿泊予約サイト運営業者と契約したが、徐々に客足が戻て来ている現状で予約サイト運営会社に卸した部屋料金があまりにも安いため、契約解除に向けた実力行使の動きをしているのではないだろうか? 

 

他方、大手宿泊予約サイト運営会社は契約期間内として宿泊業者からの契約の途中解除の要請には応ぜず、従来通りの安い部屋料金をサイトに載せているというところではないだろうか? 

(ルマジャンのあるホテル入口には大手宿泊予約サイト運営の予約は無効な旨の英文看板が立てかけてあった)

 

ジャワ島東部のツーリングルート

 

スラウェシ島ツーリングの反省から、レンタルバイクでの一日の走行距離を短くした。小型スクーターの乗り心地は良くない。一日5時間以上乗り続けるとお尻が、痛くなる。それが連日となるとツーリングが苦痛となる。

 

そにため、一日の走行距離を100km~150kmとしてスラバヤ市から東側のジャワ島東部一周のルートとした。3泊4日で約700kmの走行となり、最終日は想定外のバイクでの川渡がある迂回路を走行せねばならず、スラバヤに戻った時には疲れ果てていた。

 

スラバヤ(Surabaya)~100km~プロボリンゴ(Probolinggo)~200km~バンユーワンギ=ジャワ島最東端(Banyuwangi)~160km~ジュマジャン(Jumajang)~220km~スラバヤ(Surabaya)

(ジャワ島東部とバリ島=写真右側。赤線が実際にツーリングしたルート)

 

10/24 スラバヤ(Surabaya)~プロボリンゴ(Probolinggo)100km

 

スラバヤ市内から幹線道路を東へ向かう。このルートはジャワ島の東部に位置するバリ島に通じるルートのためか荷物を満載した大型貨物トラックが多い道路だった。日本の国道1号線や2号線等の主要幹線道路だろう。大型貨物トラックの交通量が多いため、道路の傷みが多く路面の凹凸が多い。

 

時速50kmで小型バイクは大きく揺れ乗り心地が悪い。路面の修理面では時々前輪が浮くほどのジャンプする揺れだ。

 

バリ島やスラウェシ島でも道路の路面が悪いため、バイクが走行時揺れたが、ジャワ島東部ほどではなかった。バリ島とスワレシ島では携帯PCをバイク内に装備されている収納ケースに保管してツーリングしていたが、ジャワ島では振動でPCがこわれてしまうのではと不安になり、PCをリュックサックに背負って持ち運ぶことにしたほどだった。

 

信号機が無いため渋滞は無いが、大型貨物トラックが多いことと、路面の悪さに閉口した。

 

第一候補の宿には午後3時前に到着。Booking.comの表示価格を提示して、宿主と交渉をした。Booking.com提示の約2倍がホテルの部屋料金だと言うので、そのホテルは諦める。

 

二番目の候補のホテルへ行くと、宿の受付係に<予約はあるのか?>と尋ねられた。当方は、<予約はしていないが、大手宿泊予約サイトにて予約することが出来る>と伝える。

すると受付係は<ホテルの料金はこうだから、この料金を支払え>と大手宿泊予約サイト提示の約2倍の部屋料金を示す。

 

当方はこのやり取りを通して、事前の予約が無い宿泊客には2倍の料金を吹っかけているのだなと理解して、その場で大手宿泊予約サイトで部屋の予約を行った。当方は<既に部屋を予約している>と主張するものの、相手は予約した料金とホテル提示の料金の差額を支払えと言う。

 

当方は、ホテルのオーナーや他の関係者へ当方の正当性を訴えるものの、オーナーは<大手宿泊予約サイト運営会社との契約はうち切ったので、当方の予約は無効である>と言い始める。

 

当方の予約は取り消し不能(取り消しても予約代金は戻ってこない)で、宿泊予約サイト運営会社が予約料金を当方のクレジットカードから直接徴収することになっている。

 

グーグル翻訳を使って、ホテルオーナーといろいろ交渉するが、オーナーはホテルの料金を示して、ホテル側の正規料金に足らない分を支払えば、宿泊させてやるの一点張り。交渉が平行線のまま押し問答を繰り返すが、オーナーは当方を泊めない限り実損は無いとみてか、交渉の場から立ち去り、当方だけが取り残された。

 

これでは交渉の余地が無いので、当方も諦め、大手宿泊予約サイト運営会社へ電話した。

事情を話して予約の取り消しを行った。こんなことで2~3時間以上時間をロスしてしまった。

 

3軒目のホテルでもこれまでのホテルと同じことを言われたため、最終的には大手宿泊予約サイトには掲載されていないホテルに投宿することにした。

(貨物トラックが多いスラバヤから東へ延びる幹線道路)

(宿泊する、させないでもめたプロボリンゴのホテル)

 

10/25 プロボリンゴ~バンユーワンギ(Banyuwangi)195km

 

レンタルバイクにはスマホへのUSBチャージャーがついていない。カーナビとして使用しているスマホがバッテリー切れにならないように、一本道で判り易いルートの場合にはカーナビを利用しないようにした。

 

それでも今までと景色が違う背が高い広葉樹林の高原道路に入ってしまった。当方は海沿いをずっと走行するものと思っていたが、実際は火山の山麓に入り、広葉樹林の森の中を通るルートだった。山麓の道路は涼しかった。雨も降りだしてきたので、薄手のライディングジャケットでは肌寒く感じるほどだった。

 

途中で雨宿りを2回して、目を付けていたバンユーワンギの宿に到着。雨宿中に軽食をとった食堂では、自宅の軒先にあった高さ10mを越す大きなマンゴーの木から長い竿の先端に網を付けた竿だけで実を取っていた。

 

青いマンゴーだった。未成熟なマンゴーかなと思ったが、食堂の若夫人が食べていけとくれたマンゴーの実を口にすると甘い熟れたマンゴーの味が口に広がった。 当方はマンゴーのお礼にと小銭を渡そうとしたが、小銭は受け取らなかった。

 

 

(海岸200mぐらい沖合に洋上の複数の家があった)

 

(洋上の家の拡大写真。人が住んでいるかどうかは良く見えず不明)

 

(交通整理する男。インドネシアには都市の中央部を除いて信号機は設置されていない)

 

(火山裾野の広葉樹の森を通る道路)

 

(雨宿り休憩をした食堂。青いマンゴーが美味しかった)

 

(バンユーワンギの港とフェリー船)

 

10/26 バンユーワンギ~ルマジャン(Lumajang)160km

 

ジャワ島最東端のバンユーワンギから数十キロ東側にあるバリ島へは大型フェリーが就航している。スラバヤからバンユーワンギの区間に大型貨物トラックが多かったのはバリ島へと物資を輸送する物流ルートがあるためだろう。

 

バンユーワンギーからジャワ島南側のルートを西に向かって走る。大型貨物トラックの通行はほとんど無い。それでもバリ島やスラウェシ島に比較したら、交通量は多い。

 

天気が良ければジャワ島観光の目玉であるプロモ火山(Volcano Promo)が見えるはずだと期待した。気候が乾季から雨期に向かう季節の変わり目は雲が多いようだ。山頂は雲に覆われ山全体は見えなかった。

(人力の三輪車タクシーは健在だ)

 

(化粧品等の販売をしている夫婦。

19歳の息子は地元の大学で学年トップの成績だと自慢し、独学で

日本語を習得したと言っていた。)

 

(頂上が見えないプロモ火山)

(欄干が無い幅60cm程度の狭い橋。自転車から降りて橋を渡る人)

(比較的大きな用水路と広大な耕作地)

 

10/27 ルマジャン(Lumajang)~Malang経由~スラバヤ(Surabaya)220km

 

午前3時の未明のコーランのお祈りの発声で起床した。ペンディング中のマレーシア~インド間の海上輸送の件で、バイク輸送業者へフォローのメールを入れる。約20日ほど前にクアラルンプールを出発以来ほとんど進展が無い。

 

ホテル出発時にスクーターのカギが無いことに気が付いた。部屋の中を探したがカギは見つからない。前日スクーターにカギを付けっぱなしだった可能性がある。ホテルの受付に問い合わせるとスクーターのカギが保管されていた。ホテルの警備が行き届いた駐輪場で良かったと胸をなでおろした。

 

今日のルートをカーナビで見ると、くねくねした山岳道路だ。実際にプロモ火山の(Volcano Promo)の山麓を通る道路になっている。ホテルの中年の男の受付係が、両手でオートバイのハンドルを握る格好で体を左右に揺らせてワインディング(曲がりくねり)があるコースだと教えてくれる。

 

スラウェシ島での経験から、山岳道路は路面が大丈夫だろうかとの一抹の不安があったが、ジャワ島の幹線道路故スラウェシ島ほど悪くはないだろうと想定した。その山岳道路を進むと途中で道路が通行止めになっている。

 

崩れた路肩を土木工事用の大型重機が修理している。交渉して通行させてもらおうと道路工事現場まで歩いていった。工事用の大型重機で道路が掘られていて、車やバイクの往来が出来ない状態だった。

 

工事関係者から迂回路があると聞き、その迂回路を進んだ。しばらく迂回路を進むと突然道路が無くなり、緊急的に河原に作った工事用の小路になった。トラックや四駆の自動車ならいざ知らず、川幅は10m程度しかないが、川の水流もあり、小砂利と砂の川底でスクーターが問題なく渡れるだろうか。

 

不安だったが、地元の人はスクーターで他の人にバイクを押してもらいながら渡っている。

 

当方が川を渡る順番が来た。前のバイクが川渡した場所あたりを見据えて、アクセルをふかして川の中に入った。バイクの後輪が小砂利の川底で空転して、バイクがスタックして倒れそうになった。両足を川底へいれ、バイクの姿勢を立て直した。アクセルをふかしても後輪は空転しながら川水をかき上げるだけだった。お助け人が来た。バイクを押してくれる人だった。

 

何とかバイクで川を渡り切ったが、この後も同じような川渡が3カ所続いた。ちょっとしたアドベンチャー的なコースだった。セローのようなオフロードバイクなら、ちょっとした川渡は面白かっただろう。

 

スラバヤへ戻った翌日はスラバヤから次の目的地であるジャワ島中部のジョグジャカルタへの移動(列車)の準備とおそらく水風呂で悪化した風邪からの回復をかねて休息をとる。

 

 

(通行止めの道路工事)

(迂回路の川渡り)

(通行止めの工事現場から見た下流の採石場)

(このルートは石や砂を運ぶダンプトラックが多かった。)

 

銀行ATMでのクレジットカードを利用したキャッシング

 

インドネシアの銀行ATMでクレジットカードを使ったキャッシングができない場合が多い。  

 

当方は発行金融機関が異なるVISA及びMasterカード提携の4種類のクレジットカードを持参してきた。1つ目はマレーシアのクアラルンプール空港でのATM操作中にATMマシーンにクレジットカードを呑み込まれて、そのまま破壊処理されてしまった。

 

インドネシア到着初日のバリ島デンパサール空港では持っている3枚のクレジットカードの内、使えたのはSMBCクレッジト発行のカードだけだった。 ジャックスと三菱ニコスカードではキャッシングができなかった。 理由は分からない。ツーリング中に他の町や都市でも、ATMで最初に試みるクレジットカードですんなりキャッシンングが出来た場合の方が少ない。2つ目のクレジットカードあるいは3つ目のクレジットカードでキャッシングがやっと出来た場合の方が多かった。

 

 

次はスラバヤから列車で古都ジョグジャカルタ(YogYakarta)経由、首都のジャカルタ(Jakarta)までジャワ島を横断するバックパックの旅行となる。

 

以上