Cambodia~アンコールワット~プノンペン~タイとの国境へ1,200km(12/11~18) | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東を走行後、2024年4月~5月オーストラリアツーリング。

ラオスからカンボジア入国~アンコールワット見学後、首都プノンペンを経て最南端のタイとの国境へ 1,200km12/1212/18

 

ラオス南部の都市パクシ(Pakse)から約150km南にノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名の国境がある。その国境からカンボジアへ入国後、ストン・トレン(Stung Treng)~シエム・リープ(Siem Reap)=アンコール・ワットの観光地~首都プノンペン(Phnon Penh)を経てタイとの最南端の国境コー・コーン(Koh Khong)のルート辿る。

 

当初10日~14日間程度のツーリング日程を考えていたが、バンコク(Bangkok)からインドのムンバイ(Munbai)へオートバイを海上輸送するため、あまりのんびりしていられない。 そのためカンボジアは7日間のツーリングとなった。

 

カンボジアの目当てはアンコール・ワット(Angkor Wat)の見学だった。また、ベトナム戦争当時やカンボジア内戦時のニュースで首都プノンペンの名を度々耳にしたのでプノンペンにも興味があった。

 

カンボジアについては当方は事前の知識が欠如していた。あまりにも無知だった。世界的観光地のアンコールワットがあるくらいだからラオスより豊かだろうと思っていたが、実態はその逆だった。


カンボジア入国時の税関職員の国辱とも言えるたかり体質にはうんざりした。公務員の職務を忘て私利私欲に走る税関職員の対応には憤りを感じ、カンボジアに対するイメージが当初は一気に悪くなった。

 

他方、首都プノンペンではカンボジア経済の復興のシンボルともいえるカンボジア証券取引所を訪れた。証券取引所の職員から見学を薦められたカンボジア内戦時の収容所を訪れた。

 

ポーランドにあった第二次世界大戦時のナチスドイツよるアウシュビッツ収容所を5年前に見学したことがあったが、プノンペンの内戦時の収容所の方が冷酷、非人道的な収容所だと感じた。

 

後述するが、当時この収容所で何が行なわれていたか、説明を耳にすると吐き気をもよおしそうになり、気分が悪くなるぐらいショッキングな場所であった。

(ストン・トレン=Stung Trengからシエム・リープ=Siem Reapへ向かう地方幹線道路にはわずかの車の往来しかなかった)

(ストン・トレン=Stung Treng付近のメコン川は海のように川幅が広かった)

(左側はカンボジアの走行地図。右側はインドシナ半島全体の走行ルート)

 

カンボジア入国手続きで難儀(Nong Noi KheaneTrapaeng Kreal) 

 

ラオスのパクセ(Pakse)から150km程南下してラオス側の国境の町で一泊後、翌日朝一番でカンボジアへ入国することを計画していたが、当日国境の町へ昼頃到着したため、国境の町では宿泊せず、一気にカンボジアへ入国することにした。

 

ラオス側の国境検問所の場所はノン・ノイ・ケアン(Nong Noi Kheane)と言う名だ。カンボジア側の国境検問所はトラパン・ケアル(Trapaeng Kreal)と言う。同じ場所だが、それぞれの国では別の名前を付けている。

 

ラオスからの出国手続きは10分程度で済み簡単だった。税関で2米ドルの不当なお金を要求されたが、当方がノー・サンキュー(No Thank you)と無視すると税関史は何も言ってこなかった。不当な金銭の要求は全て断っている。

 

この調子ならカンボジア入国も簡単だろうと期待したが、そうではなかった。

この国境での当方のような外国籍のオートバイでの通過については情報がほとんど無かった。

 

タイ入国ではお世話になったパタヤ在住のイギリス人からは、<この国境から外国人ライダーがカンボジアへ入国するケースはあまり無いので、ダメもとで入国を試みてくれ>とのアドバイスだった。

また、<仮に入国出来なかったら、ラオスのパクシへ戻り、パクシからタイへ出国後、タイからカンボジアへ容易に入国する方法がある>と同氏は付け加えた。

 

カンボジアの国境検問所では、少し日本語を話す外見上は税関係官のような男が当方に声をかけて税関事務所へ案内する。

 

当方は税関史だと思ったが、後で税関とグルになっている民間人だと判った。 この男が、税関の部屋へ当方を案内して、税関係官の前で税関費用は70米ドル(約9,000円強)だという。70ドル米ドルはカンボジアの平均労働者の10日~2週間分の給与に匹敵する金額だ。

 

当方はその男へ、<米ドルは持っていない。持っているのはラオスのお金だ。>と言って財布の中身を見せると、その男は無造作に当方の財布からラオスの札を抜き取り、数えはじめた。当方が持っていたのは50米ドル程度(約7千円)のラオス通貨だった。 (米ドルの現金は緊急時用として持っているが、通常は秘密にしている)

 

当方は、<何をするか!他人の金を勝手に数えて>と、その男に文句を言いながら、お金を奪い返した。

そして、<税関にはお金は払わないし、払う義務は無い。税関は他国のように無料でバイクを通関させる書類を作成する義務がある>と持論を唱える。

 

その男は<一時輸入許可の書類を作成するための申請書を所定の形式でウェッブサイト上で作成せねばならない。その為の費用だ>というが、当方は<領収書を出せないお金は支払わない>とその男の要求をつっぱねる。そんな言い合いを繰り替えしたが、全く進展が無い。

 

当方が<日本大使館と相談する>と言い出すと、他の税関史が<上司が来るので待ってほしい>と言う。

しばらくして、税関長と名のる男が来て当方へ<税関では一切お金は請求しないが、自分で一時輸入許可書の作成の可否を審査する申請書をウェブ上で作成してください。その申請書に基づき、私が一時輸入を許可するかどうか審査します。>と言う。

 

< ええ?ウェブ上で申請書を作成する?>当方は数多くの国境を越えてきたが、そんな事は今まで聞いたことも、やったことも無かった。

 

税関史は当方がどのように出るか伺っているようだった。そしてどこかへ行ってしまった。 当方はどのウェブサイトでどのようにするか判らない。他の税関職員も非協力的だった。 全員がグルになって事情に疎い外国人からお金を巻き上げることを考えているようだ。 

 

後日フェイスブックの情報交換グループに投稿したら、<おれは税関で200米ドル払ったとか>、<40米ドルで済んでラッキーだった>等の反響があった。

 

事実、当方は米ドル紙幣を含む札束の金額を数えている税関職員を目撃した。その税関職員は当方が見ていることに気づき、お金を数えるのをやめて、当方から見えない場所行ってしまった。

 

その税関建物内には<日本国民からの贈り物>と英語で表示してあった手荷物のX線検査の機械があった。不法な金銭の要求にまみれた税関に、日本政府からの無償援助に腹立たしさを覚えた。

 

ラオスのSIMで当方のスマホがインターネットに接続できたため、ウェブ上で申請書の記入を試みた。

しかしながら、手続きするウェブサイトが途中で止まり、申請書作成まで辿り着けない。そして、当方が文句を言い続けているのに対して、税関史は何か思ったのか<無料で申請書を作成する>と言い出す。

 

当方はビザ代(35米ドル相当額をラオス通貨支払う)以外のお金は払わなかったが、この国境検問所を通過するのに3時間弱かかってしまった。 

 

その間、この国境を外国車両で通過した外国人は誰もいなかった。

3時間の間に、この国境検問所にはラオス側からとカンボジア側からそれぞれ一回づつバスで到着した十数名程度の外国人が通過したのみだった。閑散とした国境検問所だった。 

 

税関職員を含むここで働く職員は暇を持て余し、スマホでゲームに興じたり、飲食や仲間とのおしゃべりで時間をつぶしていた。また、税関長は国境検問所に詰めているのではなく、自宅にいる様子だった。

 

職員が必要な時にバイクで税関長宅へ行き書類の決済を仰いでいるようだ。このような税関職員の勤務状況で、この国の発展は大丈夫だろうかと疑ってしまう。

 

また、この税関職員は近隣住民からの採用のようだ。当方が国境検問所から数百メートルも離れていない

食堂兼両替店でラオス通貨を両替していたら、先ほどまで税関事務所にいた税関史が小さな子供抱いているのではないか。

 

家族が自宅で商売を行い、本人は税関に勤務しいるのだろう。税関史は国家公務員だと思うが、近隣住民からの採用で優秀な人物が採用できるだろうか。

 

カンボジア側の入国手続きに時間がかかったため、国境から一番近い70km先の町へたどり着くまでに日没となり、車の通行がほとんどないダート道を2時間程度かけ埃まみれになりながら、ストン・トレン(Stung Treng)の町へ到着した。 

(カンボジア側Trapaeng Kreal国境の国境検問所建物)

(夜に到着したため、よくわからなかったStung Trengの中心部。車の往来は少ない)

 

カンボジア観光の一押し。アンコールワット(Angkor Wat)遺跡群の見学

 

シエム・リープ(Siem Reap)と言うカンボジア入国2日目に到着した町の近郊に、ユネスコの世界遺産に登録されているアンコール・ワットの遺跡群が数キロメートルの広い範囲で点在している。

 

当方はシエム・リープの町に宿をとった。Maps.MeGPS上に表示されていたゲスト・ハウスを5軒探したが、いずれも存在しなかった。コロナ禍中に廃業したのだろう。

 

結局Booking.Comサイトで見つけたゲスト・ハウスに投宿した。 ゲスト・ハウスの名称だったが、設備の大きさからホテルに近い快適な宿泊施設で欧米系の外国人で賑わってた。

 

アンコール・ワット遺跡群は広範囲に点在しているため、オートバイは重宝した。

普通の観光客はタクシーや2人掛け乗用キャビンを牽引するバイク(Tuktukと言う乗り物)等を雇わなければ遺跡群を回れないほど広い。

 

アンコール・ワットは12世紀から約600年栄えたクメール帝国の城塞都市として機能していた。遺跡の周りには水を入れた広い外堀を張り巡らせ、本殿の周りには頑丈な石造りの外壁を備えて外敵の侵入を難しくした。

本殿の上階には石造りの大きなスイミング・プールのような施設が数ヶ所あった。いざと言う籠城時の水の確保かハレームでの水浴に使ったのだろう。 粗づくりの石造りの遺跡ではあるが、その規模には圧倒される。

 

アンコール・ワットの他にも日本政府の資金援助で修復中のアンコール・トム(Angkor Thom)や長い年月で樹木の根が遺跡に絡まったプラサット・タプロー(Prasat Ta Prohm)等を見学したが、規模や保存状態ではアンコールワットに及ばない。 

 

当方が購入した遺跡群への入場チケットは1日券(37米ドル)だった。全部の遺跡を回るには3日間必要と宿で言われたが、朝から一日かけて7つの遺跡を見学して終了した。

(アンコールワット=Angkor Watを外堀から見る。外堀の後ろには屋根がある立派な外壁。そして外壁の背後遠くに本殿建物見える)

(外壁門入口からアンコールワットの本殿建物を臨む。アンコールワットの敷地=外壁の内側かなり広い。外壁入口から本殿建物まで約300m~400mある)

アンコールワット本殿の塔)

(アンコールワットの壁には女官のレリーフ=彫刻が多い)

 

(クメール帝国時代の衣装を身に着けたカンボジアの人達)

(アンコールトム=Angkor Thom遺跡正面)

(アンコール・トムの遺跡側面。建物が崩れていてアンコールワットより遺跡らしく見える)

(アンコール・トムに通じる門)

 

(巨木の根が遺跡に絡まるプラサット・タプロー=Prasat Ta Prohmはインディージョーズの

映画にる出るような遺跡だった)

 

(アンコールワット遺跡群の中の道路)

 

首都プノンペン(Phnon Penh)の内戦時代の収容所博物館(Tuol Sleng Genocide Museum

 

カンボジア証券取引所で面談した若手の職員にカンボジア内戦時代の収容所が博物館になっているので是非見学したらよいと薦められた。博物館の名前はトウール・スレン虐殺博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)と言うショッキングの名前だった。

 

カンボジア内戦は1970年代初頭から1991まで続いた。

クーデターで政権を握った親米右派のロン・ノル(Lon Nol)将軍率いる政権に対して、ポル・ポト(Pol Pot)率いる親中国の共産主義クメール・ルージュ(Les Khmers Rouges)とクーデターで政権から引き下ろされたシアヌーク(Norodom Sihanouk)国王派が共同して戦ったことから始まった。

 

最初の内戦ではロン・ノル将軍派が負けて、ポル・ポト派のクメール・ルージュが勝ち、クメール・ルージュがカンボジアを支配した。

 

この支配が恐怖政治の始まりで、クメール・ルージュが首都プノンペンで政権を握った1975年から1979年の間に170万人とも言われる主に都市部の知識人がポル・ポト政権のクメール・ルージュ派により大量虐殺された。

 

ポル・ポト政権は当時の中国の文化大革命の影響を受けて、農業を中心とした原始共同社会を造ろうとした。原始農業共同体に医者、教師、弁護士等の知識人は邪魔だった。都市部の住民は農村へ強制移住させられ、知識人と言う理由だけで強制収容所に入れられ多くの人が拷問の上、虐殺されたと言う。

 

見学したトウール・スレン(Tuol Sleng )収容所は元高校だった建物だった。そこに12,00020,000名の人々が収容され、確認された生存者は12名だったと言う。同様の極秘の収容所は200か所あったと言う。

 

クメール・ルージュは1979年に反中国のベトナム軍によりプノンペンから追い出され、ベトナムが支援する親ソ連のヘン・サムリン(Heng Samrin)が政権に着いた。

 

しかしながら、親ソ連(=親ベトナム)のヘン・サムリン政権は国際的に承認されず、カンボジアの辺境地に逃れたポル・ポト派(クメール・ルージュ)がカンボジアの正式政権として国連(UN)を始め主要国で認められていたと言う。

 

1991年にカンボジアで和平が成立するまで、サン・ヘムリン派に対してクメール・ルージュとシアヌーク国王派等が連合して、内戦を展開していた。 つまりカンボジアは1970年~1991年までの20年間内戦状態だった悲惨な歴史がある。 

 

内戦を長引かせた理由はソ連と中国の対立、更にソ連と米国との対立があり、カンボジア内戦の当事者達はそれぞれの大国の支援で大国間の代理戦争を展開していたとも言う。

(つりあげ拷問器具で後ろ手に縛りあげた人が気絶すると、拷問器具から降ろして人糞と尿のカメの中に頭を入れて目覚めさせたと言う)

(拷問された人を家畜のように運んだ。この時運ばれていた人はまだ生きていたと言う)

(拷問部屋。ベットに横たわらせて動けないように手足を固定したと言う)

(虐殺された人々の頭蓋骨は証拠品として保管されている)

 

近隣諸国との経済格差は歴然

 

先にタイからラオスへ入国した時には時代が数十年後戻りして、アフリカ諸国に入ったような印象をうけたが、

そのラオスからカンボジアへ入国すると、カンボジアが更に経済的に遅れていることが直ぐに判った。

 

入国したカンボジア国境から一番近い主要都市のストン・トレン(Stung Treng)までの70kmは未舗装のダート道であった。主要都市につながる幹線道路がダートとはアフリカの最貧国と同じだ。

 

アンコールワットがあるシエム・リープ(Siem Reap)と首都プノンペンをつなぐ主要幹線道路にはそれなりの交通量があったが、ストン・トレン~シエム・リープのような地方の幹線道路では車の数はまばらで、自動車が全く普及していないことを示していた。

 

農業人口が多い地方では当方が30年前のタイ旅行時に地方で多く見た耕運機に荷車を牽引させた運搬車に農作物や人々を載せ運んでいた。ラオスでは見かけた小型ピックアップトラックやトラクターはほとんど見かけなかった。

 

交通量が少ないので当方のバイクツーリングは快適だったが、農作物の運搬を始め、人々の暮らしが厳しいことを物語っていた。

 

因みに2021年の統計ではタイの一人当たりの国民所得=年間収入(GDP)は約7,200米ドル(75万円)、ラオスは約2,600米ドル(約27万円)、カンボジアは約1,600米ドル(約17万円)となっている。日本の一人当たりのGDPは約40,000米ドル(約420万円強)だった。

(カンボジア北部は台地に位置するため、乾期には荒地として放置されていた。)

(新築後の高床式民家)

(広い水田。カンボジア中央部は低地のため、湖から水を引いて乾季でも稲作が可能だ)

(カンボジア証券取引所の建物は立派だ。8銘柄の株式が上場され市場時価総額は約5,500億円)

 

カンボジアのゲストハウスはラブホテル?

 

ラオスではMaps.MeGPSアプリに表示されているゲストハウスを頼りに現地で気ままに

投宿を決めていた。

 

カンボジアもラオスのようにGPS上のゲストハウスを頼って宿を決めれば良いと気楽に考えていたが、そうでは無かった。 

 

GPS上のゲスト・ハウスの多くはラブホテルだった。 通りから見えないような曲がりくねった入り口から敷地に入ると車庫付きの部屋へ繋がるゲスト・ハウスがあった。

 

車庫には駐車する車が外から見えないようにカーテンがある。

何故カーテンがあるかと思い、管理人にグーグル翻訳でたずねてみるとやはりラブ・ホテルとのことだった。シエム・リープとプノンペンでは宿は決めるため数軒のラブ・ホテルに迷い込んだ。

(プノンペン市内のラブホテル)

 

町の人々親切だった

 

入国時の税関職員の態度から受けたカンボジアの印象は悪かったが、町の人々は親切だった。

プノンペンの宿ではオートバイを路上駐車していたが、宿の従業員が夜には当方のバイクを宿の店舗内に運び込み、また朝には店舗からバイクを路上へ出してくれた。少し骨が折れる作業を黙々としてくれた。

 

カンボジア証券取引所で面談した職員は前日にメールでアポイントをお願いしたら、即答してもらい面談が可能となった。カンボジアの事について歴史や地理等いろいろ教えてもらった。

 

コー・コンの宿ではカンボジア最後の夜とあって、当方が<手持ちの現金があまりない>と宿の管理人へ伝えると、管理人は宿代を約3割値引いてくれた。

 

バイクで立ちごけした際には、通りすがりの人が助けにきてくれた。助けてくれたカンボジア人は当たり前のことをしたかのように、当方がお礼をいう前にさっさと立ち去った。

 

20年余りにわたる悲惨な内戦を経験したからこそ、相互扶助の精神が強いと感じた。また挨拶もしっかりしている。当方が声をかけても、必ず笑顔で返事が返って来る。外国人慣れしているともいえるが、町の人々は気持ちがオープンとの好印象を持った。

(カンボジア側の国境の町Koh Khongで宿泊したゲストハウス。エアコンが無い扇風機のみ備わったシングルルームの1泊料金は約1,000円だった)

 

カンボジア出国とタイ入国

 

首都プノンペンから最南端のタイとの国境があるコー・コーン(Koh Khong)へ向かった。

 

カンボジア南西部のコー・コン(Koh Khong)はタイのハット・レック(Hat Lek)国境へと繋がるカンボジア側の国境の町だ。 タイへの再入国が待ち構えている。

 

外国籍の車両がタイへ入国してタイ国内を走行するにはタイのガイドを同伴させねばならない規制があるが、国境管理事務所によってはこの規制が徹底されておらず、外国籍車両単独でも入国が可能だ。

 

Hat Lek国境検問所は、規制が緩いと事前の調べで判っていた。果たしで規制が緩いだろうか?

 

カンボジアからの出国は簡単だった。10分程度すんだ。税関だとは気が付かずに、何もしないで通り過ぎたら、既に幅約100メートルの中立地帯をバイクで進み、タイ側の入国検問所手前まで進んだことに気が付いた。

 

入国時に苦労して手に入れた一時輸入許可証(Temporal Import Permit)をカンボジア側の税関へ返却するのを忘れてしまった。 中立地帯を徒歩でカンボジア側へと戻り、税関へ一時輸入許可証を手渡して<これで全て終了か?>と尋ねた。 係官はあっさり<そうだ>と返事をしたのみだ。 手続きらしいことは無く、あまりにも簡単な出国だった。

(カンボジア側の国境の町Koh Knogへ通じる幹線道路は森を切り開いた道路だった。部分的に舗装面が削れて赤土がむき出しになっていた)

(国境の町コーコーン=Koh Khongのクリーク=入り江に面した海岸の夕日)

 

以上