バンコク(Bangkok)4連泊後ラオスとの国境の町チェン・コーン(Chiang Khong)まで約1,200kmタイを北上する (11/21~12/1)
バンコクではいろいろやることがあった。
オートバイの海上輸送業者への訪問
一番の関心事は約一か月後にバンコクからオートバイをインドのムンバイへ海上輸送するため、事前に連絡を取りあっていた業者への訪問だ。
マレーシアからインドのチェンナイあるいはムンバイへの混載貨物の海上輸送が3,500~4,000米ドル(50~60万円)位かかることが判ったため、3ヶ月前からコンタクトをしていたバンコクの輸送業者を訪ねることにした。バンコクの業者は約2,000米ドル(約28万円)の見積額を提示していた。
その業者はバンコクから約北50kmの他県に所在した。訪問する目的は、打ち合わせを行うことと、直接会って信用に足りる輸送業者かどうかチェックすることを兼ねている。むしろ後者の目的の方が主である。
マレーシアのクアラルンプールではインターネット上には立派なホームページを持っていたが、実態は自宅マンションでひとりで業務を行った業者がいた。 当方からのその後の問い合わせには、その業者から返答が無いため交渉は打ち切った。
バンコクの業者がバンコク郊外で自宅兼事務所で兄姉妹の3人で輸出入の業務を行っているとのことだったが、当方とEメールでコンタクトして返事が早く英語も堪能な女性(妹)は不在中とのことであった。
バンコクの兄姉は英語があまりできないので当方との打ち合わせはほどんど進まない。その為、姉が気を利かせて、コンタクトを取っていた妹にワッツアップ=スマホの無料オンライン電話アプリ(WhatsApp)で打ち合わせに英語で参加するようにアレンジしてくれた。
この妹はバンコクではなくオーストラリアに居住中あり、兄姉とオーストラリアからEメールやワッツアップで連絡を取り合っていることが初めて判った。当方はこの事実を知って驚いた。コロナ禍でリモートでの業務が社会に浸透してきた現在、このような仕事形態も可能だが、リモートで大丈夫かと一抹の不安を覚えた。
タイ経済の情報収集(真面目な話)
タイ南部からバンコクにオートバイで入った時から、バンコクの豊かさには驚いていた。他の地方都市とは比べもにならない規模である。高速道路や高架鉄道や地下鉄が通る大都市だ。バンコク中心部から半径40~50km圏内は大バンコク首都圏といっていいだろう。
交通渋滞が、世界でも稀に見る酷さだ。都心の約10kmの距離をオートバイで車と車の間をすり抜けて走行しても、1時間弱かかる。郊外の輸送業者へ行った時も50kmの距離で3時間かかった。
インドネシアのジャカルタに次いでまだJetroバンコク事務所を訪ねた。
バンコク首都圏県の一人当たりのGDP(国民所得)は他県の2倍の約17,000米ドル(200~230万円)とのことで日本の1980年の所得と同等だ。日本は比較的富の所在が均一だが、タイには超富裕層や富裕層が多く存在するので、統計データだけでは市民の豊かさは判断できない。
しかしながら、バンコクのビジネス街やそこで働くOLやオフィースワーカーを見ていると東京にいるのかバンコクにいるのか区別できないぐらい成熟した経済社会の様だ。
ジェトロ(Jetro)の専門家によるとタイ経済は自動車や電気製品の輸出主導のもと景気が上向いてきているとのことで経済は回復基調だ。
ただし、タイには構造的な問題が生じつつある。それはアセアン諸国の中では一番早く少子高齢化社会が訪れようとしているからだ。タイの出生率は1.5人(日本は1.4人)。人口に占める65歳以上の高齢者の割合は既に全人口の12%となっている。
65歳以上の人口比率が14%になると高齢化社会と言う。更に25%になると超高齢化社会となる。日本の場合2022年には高齢化比率が29%と超高齢化社会となっている。
近い将来には内需拡大では経済の拡大は望めない状況になるため、タイ政府は製造業の集積化を図り、他のアセアン諸国とのサプライチェーンを通じて自動車関連製品や電気製品の輸出に力を入れ、輸出主導の経済成長を描いていると言う。
産業の集積化には依然外国資本の直接投資が必要だ。タイ政府は外国資本に対して法人税の減税等の優遇策を導入している。中国企業は米中の貿易摩擦を回避するため、タイに製造拠点を構えてタイ製品として米国へ製品輸出し始めている。タイ政府の輸出主導の経済成長に貢献していると言えよう。
タイでの日系企業の存在感は大きい。タイ進出の日系企業は6千社だという。近年では中国企業が直接投資額を伸ばして、国別ではトップになっているが、国別の累積直接投資額は日本が一番大きい。
(バンコクのビジネス街の高層ビル群 ルムビニー地区=Lumphinee)
(バンコクのラーチャダムリ通りの商業地区)
(バンコクの中心部を流れるチャオプラヤ川=Chao Prayaと水上バス)
(Wat Arun横の通りに京都の町屋風の建物があった。)
(チャオプラヤ川西岸のWat Arunは三島由紀夫の暁の寺のモデルになった寺院だ)
(タイ証券取引所入居のビルといっても証券取引所の初心者向けの証券啓蒙の施設があっただけだった)
バンコクから北上して約1,200km走行してチェンマイ経由ラオス国境との町チェン・コーン(Chiang Khong)目指す
バンコクに4泊滞在後~タイの旧都アユタヤ(Ayuthaya)~ナコン・サワン(Nakhon Sawan)~スコタイ(Sukhthai)~チェンマイ(Chiang Mai)~ラオス国境との町チェン・コーン(Chiang Khong)へ1週間程かけて約1,200km北上した。
チェーン・コーンから国境となっているメコン川を渡りラオスに入国するつもりだ。
ラオス入国後は首都のビエンチャン(Vientiane)を目指して南下。メコン川沿いに更に南下してカンボジア(Cambodia)へ入国する計画だ。
カンボジアでは世界的に有名なアンコールワットを見学後、首都プノンペンを経て、カンボジア最南端の国境からタイへ再入国を考えている。ざっくり2,000km位ののツーリングとなるだろう。
(バンコクからラオスと国境を接するチェン・コーン=Chiang Khongまで北へ約1,200km走行する)
バンコクからアユタヤへ約140km
バンコクからアユタヤへ抜ける道路は混雑していた。特にバンコクの中心から半径40km~50km範囲の首都圏を抜け出すのに2時間以上走行。オートバイの走行が禁止されている有料高速道路に入り込まないようにMaps.Meのカーナビとグーグル・マップを表示するようにスマホを2台オートバイのハンドルに付けて走行する。
2つのカーナビアプリは時には全く異なるルートを表示する。どちらのカーナビ表示通りに進むべきか迷う。ある区間ではMaps.Meのルート表示に従って走行したり、別の区間ではグーグル・マップ通りに進んでみたりするが、両方とも誤っていた場合もある。最終的には交通標識の道案内が頼りとなる。
アユタヤには30年以上前に家族共に観光旅行で行ったことがあった。しかしバンコクで日帰りのツアーバスに乗り込み観光したため、どの道を通ったかとか、どこへ行ったとかはあまり覚えていない。覚えていることは、道路は渋滞しておらず、のんびりと日帰りツアーが出来たことぐらいだ。
当時と比較すると、やはりバンコクでの交通渋滞がひどい。バンコクの郊外に出てものんびりとした雰囲気ではない。
アユタヤとアユタヤの後に訪れたスコタイにはユネスコの世界遺産に登録されている遺跡群がある。この機会を逃したら二度と来ないだろうと考えて、それぞれの町には2泊して世界遺産の遺跡群や寺院をめぐることにした。
アユタヤは1351年から1767年にビルマ(現在のミャンマー)との戦いに敗れ、ビルマ軍に構造物を破壊つくされるまでアユタヤ王国として35代の王が続いたとされている。
日本の江戸時代初期には山田長政が率いる日本人が1,000人から1,500人アユタヤに住み、ご朱印船貿易の名で商業活動に従事していた。その後、徳川幕府の鎖国政策のため、ご朱印船貿易は途絶え、アユタヤに住んできた日本人は帰国が許されなかったと言う。
日本人のような顔つきのタイ人がいると、帰国を許されなかった日本人の血をひく子孫の一人ではないだろうかと思ってしまう。
(ワット・マハタート=Wat Mahathatの木の根に取り込まれた仏像の頭)
ワット・マハタートの仏塔と仏像
(長さ28mの寝仏像=ワット・ローカヤスーッター=Wat Lokayasutha)
(アユタヤで投宿したRiverside Guesthouseには川に係留してある船内に泊まれる部屋もあった)
(アユタヤの日本人町跡には日本政府が援助して建設した展示施設がある)
(山田長政の紹介。山田長政はタイ王室の身辺警護役として仕えていたと言う。晩年はマレーシアに近いタイ南部のナコン・シ・タマラット=Nakhon Sri Tamamaratへ左遷され、そこで生涯を終えた)
アユタヤ(2泊)~ナコン・サワン(1泊)~スコタイ(2泊) 約400km
アユタヤからスコタイまで一気に進むのは疲れるため、中間地点にあるナコン・サワン(Nakhon Sawan)に一泊した。
ナコン・サワンでやることや見るべきものがあるため宿泊したのではなかったが、結果的には宿のオーナーの勧めで訪れた旅行ガイドブックには載っていない仏教寺院(Wat Sri Uthumporn)が素晴らしかった。
当方の仏教寺院の常識を覆すような多様の色彩と贅を凝らした装飾が施された宮殿のように美しい仏教寺院を訪れることが出来た。
まるでロシアのサンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館(当時はエカテリーナ女帝の宮殿)の内装のように美しかった。
(ナコン・サワンのワット・ウトンポーン=Wat Utumporn)
(Wat Uthumpornの内部は宮殿のように飾ってあった)
(ナコン・サワンで宿泊したKalae Resortの経営者兼弁護士のプン女史)
(タイには沼地が多い。沼地で釣りをする女性達。フナのような小さな淡水魚やナマズを釣っていた)
世界遺産のスコタイ(Sukhotai)遺跡群
13世紀~14世紀に絶頂期であったスコタイ王国はその後アユタヤ王国に滅ぼされたと言う。
ユネスコ世界遺産に登録されているスコタイ王国の仏教建築物跡が約1km四方の歴史公園の中にある。
この遺跡を見るため2泊することにした。ここには現役の寺院は無く、あくまでもスコタイ王国時代の遺跡跡に残る仏像や仏塔とその構築物跡の柱、壁、床ぐらいしか残っていない。
平日のためか訪れる観光客の姿は少なく、一人で遺跡群をめぐっていると心細いぐらいである。過去には日本人女性の観光客がこの地で殺害されると言う不幸な出来事があった。
訪れる遺跡によっては周囲に人が誰もいない場所があるので、さもありなんと気を引きしめて行動した。
スコタイ歴史公園から少し離れた丘の上のワット・サバーン・ヒン=Wat Saphan Hin 高さ12m)
スコタイ歴史公園内のメインの遺跡ワット・マハタート=Wat Mahathat)
スコタイ歴史公園内の池の中の島にあるワット・スラ・シー=Wat Sra Sri)
(スコタイ歴史公園の入口)
スコタイ~チェンマイ 約330km
スコタイから30km程走りだすと、片側一車線の対面通行道路ながら、車があまり通らないルートになった。更に進むと森や林間ルートとなり、今までに暑さに代わり走行風が涼しくなりだした。
いままでのただ広い平野の景色から山が見える景色へと変わる。このままこのような林間コースが続けばいいなと思っていたが、ルートの後半は交通量が多く、平地の暑い道路になってしまった。
真北へ進行しているが、気温はますます上昇しているような気がする。チェンマイに着くころに背中には汗が流れ、暑さと汗で顔もぐしょぐしょになった。
チェンマイはタイの北の都であったと観光ガイドブックに記されていたが、アユタヤに比較すると訪問した現役の寺院は小粒だった。
(チェンマイへ向かう途中の林の中の道路)
(日本人のサイクリストと思い声をかけたらタイ人だった。67歳で一ヶ月間自転車でタイ国内を旅行中だと流暢な英語で説明
してくれた)
(稲の収穫作業は鎌を片手に手作用で行っていた)
チェンマイのワット・チューディー・ルアン=Wat Chedi Luangの塔は高さ86mあったと言うが、16世紀の地震で上部がくずれ、現在は高さ30m位になってしまった)
(釈迦が悟りを開いた地インドのブッタガヤをモデルに作ったとされるワット・チョット・ヨート=Wat Chet Yot)
チェンマイ~ラオスとの国境の町チェン・コーン(Chiang Khong)310km
チェンマイを出発した時にはチェン・コーン手前の歴史的な都市チェン・ライ(Chiang Rai)で宿泊する予定だったが、チェン・ライに早く到着したため、チェン・ライから約100km先のラオスとの国境を接するチェーン・コーンまで進むことにした。
森を切り開いた山岳道路を通過するころには気温が低下して、体に心地よい風があたる。長距離を走行する割には、不思議と眠くならない。
当方のツーリング経験では国境へ向かう道路は、みすぼらしく路面が傷んでいるのが常だったが、タイの場合は違った。片側2車線の立派な高速道路になっている。インフラ整備への政府の力の入れようを実感する。
国境手前の町で前泊後、予期せぬトラブルに備え国境は午前中の早い時間に通過したい。
(森林を切り開いた道路は立派だ。幾分涼しさを感じる)
(メコン川=Mekong River。メコン川手前側がタイ領。向こう側はラオスだ。)
タイ人との交流
タイの人に道路やドライブインの食堂で休憩中に話しかけられる。テレビやニュースを見ていなかったので、知らなかったが、<サッカーワールドカップで日本がドイツに勝ったとアジア人として嬉しい>と言って路上で休憩中の当方にバイクで駆け寄り話しかけてきた年配の農夫がいた。
農夫なのになぜ英語が話せるかと聞いたら、ブルネイ等で外資系の企業で働いていたことがあると言う。
また、ドライブインの食堂でコーヒーを飲みながら休憩中にはその食堂の主人が拙い英語ではあるが、当方に興味を持ったようで、いろいろ尋ねてくる。当方のツーリングに感動して、売り物だった柑橘類のフルーツ・ポメロを<持って行け>とくれた。
(食堂のオーナーともらった柑橘類の王者Pomelo。Pomeloはすこし甘い程度の味だった。)
スコタイの町中では、書類のコピーができる店を探していた。スコタイでは英語はほとんど通じない。しかし歩道でコーヒーを販売している親父が英語を話した。
そして当方をバイクで先導してコピー屋までつれていってくれるではないか。その男はスイスのホテルでシェフをしていたことがあると言う。そのコーヒー屋で旅の話等をアイスコーヒーを飲みながら一時間ほどした。そのコーヒー屋の親父は当方と同年配だけに、話が合う。
(67歳の割には年を感じさせないコーヒー屋の親父だった)
次回はラオス入国から
以上