Iran (Part 1) Zahedan~Kerman~Shiraz 1,500km | インベストメントライダーふるさんのブログ Investment rider Seiji Furuhashi travelling around the world by motorcycle

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オートバイで世界を駆け回るインベストメントライダーを目指す個人投資家。
オートバイでのユーラシア大陸横断と南北アメリカ大陸縦断、アフリカ大陸とアラビア半島横断、東南アジア・インド・中近東等走行後、2025年4月~9月欧州・中央アジアをツーリング中。

イラン(上編)国境の町ザヘーダン(Zahedan)~シラーズ(Shiraz1500km(40/305/7)


 

イランは車社会

インドやパキスタンでは車は庶民には普及していない。小型オートバイが庶民の移動の主な手段となっていた。

 

しかしながら、イランではオートバイをほとんど見かけない。その代わり町には車があふれている。新品の車と言うわけでないが、しっかり手入れをしているフランスのブジョーの乗用車が多い。

 

あるドイツ人の旅行者からイランにはフランスのプジョーの工場があるため、プジョーの乗用車が多いと聞いた。 

 

ハイウェイでは貨物トラックも多い。インドやパキスタンでは3040年位は使っていると思える古くて、上り坂は徒歩位の速度しか出ない貨物トラックがほとんどだったが、イランの貨物トラックは比較的新しく、ハイウェーをすっ飛ばすぐらいで高速走行する。

 

国境を跨いだらイランほど状況が変わる国は多くない。


インターネットの接続状況が非常に悪い

イランでは政府がインターネット接続可能なサイトに制限をかけている。そのため、Lineも含めフェースブックやTwitter等の欧米系SNSには繋がらない。また当方がブログ投稿するAmebloへも繋がらない。

 

抜け道としてVPN(私設のインターネット回線)が普及しているが、通信速度が遅い。ある年配の英語を話すイラン人は<革命後の政府はだめだ>と吐き捨てるように言った。

 

ゴミが落ちていない奇麗な町

感心するのが、道路や公園等にゴミがほとんど落ちていない。インドやパキスタンでは人々は道路に当たり前のようにゴミを捨ていた。

 

また、インドやパキスタンでは道路はゴミと牛の糞尿で酷く汚かったが、イランはそれとは対照的にきれいであることに驚いた。 飲料のペットボトルや買い物時にくれるプラスチック製のレジ袋さえ道路や公園に落ちていない。

 

英語が全く通じない

外国人観光客が少ないためか、英語が全く通じない。 ホテルでもYESNO位の言葉さえも出てこない。街には商店が軒を連ねているが、アルファベット表記の看板が全くない。数字もアラビア数字に似た独自のもので、世界的に普及している数字を使用しない。

 

当方が商品の値段を尋ねると、イランの若い人でも価格をペルシア数字で書いて教えてくれるが、当方にはペルシア数字は理解し難い。日本に置き換えると一、二、三の漢数字しか使わず、通常の1,2,3と言う数字表示は使用しないということだ。

 

アラブ社会ですら、世界的に普及している数字を使用しているのに、何故イランはペルシャの数字を使うのだろうかと不思議に思う。グローバル化から取り残されたガラパゴス的な存在なのだろうか。

 

ガソリン価格は激安だが、ガソリンスタンドが非常に少ない

ガソリンの品質は判らないが、1リットルあたり、3万リアル(約8円)と非常に安い。10リットル入れても80円相当だから、水より安い。

 

ガソリンスタンドの経営には妙味がないためか、ガソリンスタンド数が極端に少ない。大きな都市でもガソリンスタンドは常時給油を待つ車の列が出来ている。 100km200kmの距離を走行してやっとガソリンスタンドがあるといった状況だ。

 

人懐こいイラン人

インドやパキスタンのように外国人へ<どこの国から来たか?>等やたらと声をかけてこないのは有難い。

 

しかし、人々は外国人には興味があるようだ。英語が出来ない、みだりに話しかけるのは礼儀を欠く等の配慮もあるだろう。

 

当方には心地よい距離感だと感じるが、当方が誰かに道等を尋ねると周りの人々が集まって、

当方に説明しようとしてくれる。言葉は通じなくても、心に通じるものがある。

 

世界遺産の遺跡があるペルセポリスの庶民的なホテルではイラン人の宿泊客達に親切にしてもらった。

英語が出来る息子を携帯電話で呼び出して、その息子に通訳をしてもらったり、当方が<飲料水をほしいので、どこで買えるか?>と聞けば、飲料水をどこかで買ってきてくれ、無料でくれたり等、いろいろ親切にしてもらった。

 

イラン人は親切だと聞いていたが、その通りだった。

(ペルセポリスに近いホテル・ダルビッシュで親切にしてくれたテヘランからの宿泊客)

 

イランに入国後の最初の10日の走行ルートは以下の通り。

 

パキスタンからイラン入国~Zahedan(2泊)~340kmBam(1泊)=世界遺産のバム要塞跡見学~350kmKerman(2泊)~360kmYazd(2泊)=中世にイタリア人旅行家のマルコ・ポールも訪れた美しい町~410kmMarvdasht(1泊)=世界遺産Persepolisの古代遺跡見学~70kmShiraz2泊)

(イラン入国から最初の10日間の走行ルート。地図の一番右側の赤丸はパキスタンのダルバンディン。一番右(ダルバンディン)から2番目の赤丸の位置がイラン入国最初の投宿地ザヘーダン。地図の一番左の赤丸はシラーズの位置。地図の下部の海はペルシャ湾(アラビア湾))。

 

 

以下各走行ルートのショートコメント

 

ザヘーダン(Zahedan)~バム(Bam) 340km

ザヘーダン(Zahedan)の町ではイランの携帯電話のSIMカード購入とイランでのオートバイの強制保険の加入手続きで忙しかった。イランには携帯電話の会社が2つ存在する。

 

インターネット回線の繋がりが良いのはIran Cellと言う携帯電話会社だと事前に聞いていたが、もう一つの携帯電話会社(MCI)SIMカードを買ってしまった。 

 

事前にスマホにインストールした無料VPN(私設ネット回線)アプリが作動せず、フェーズブックやライン等のSNSには繋がらない。後日Shirazの町で有料のVPNをスマホに入れてから、やっとフェーズブック等のSNSにつながるようになった。

 

オートバイの強制保険の代理店を探し出して訪ねた。同代理店では外国人の保険の加入手続きが初めてとあって、23時間程度待っても手続きが終わりそうもない。当方はしびれを切らして、この代理店での手続きを諦める。 

 

イランへ入国時、国境での入国手続きとオートバイのカルネ手続きを手助けしてもらったイラン観光省に雇われているハミッドというイラン人(自称King of Taftan Border=タフタン国境の王)に電話してバイク保険の代理店を教えてもらった。

 

同氏はたまたま仕事上の関係でザヘーダンの町に居合わせていた。

同氏に案内されて市内のイラン保険の代理店を訪問すると1020分程度で短時間で保険の加入手続きが済んだ。もちろんハミッド氏は手数料を取らない。

 

ザヘーダンからバムへの道は月面にいるかの様に岩と荒野の殺伐とした大地だった。

荒野を一本の道路(ハイウェイ)が一直線に伸びる。この区間の最初の200kmにはガソリンスタンドが無いため、少し不安に感じた。


ガソリンスタンドを見つけた時はほっとした。

(ザヘーダン=Zahedanの保険会社。女性職員もいる。結局この保険会社では手続きに時間がかかりすぎたため、バイク保険に加入することを断念)

(ザヘーダンの焼肉店。ミンチした肉を串に付ける料理人)

 

(ザヘーダンからバムへ向かうハイウェイ)
 

 

(バム=Bam市内のヤシの木の街路樹。南国の旅情を感じる)

 

バム(Bam)~ケルマン(Kerman350km

バムの宿(Akabar Guesthouse)ではドイツからYAMAHAテネレ700のオートバイでイランまでツーリング中の中高年ライダーと出会い、情報交換ができた。

 

当方は一足先にケルマンへと向かうが、同ドイツ人ライダーも一日遅れでケルマンの同宿に投宿する。

 

バムの市内にユネスコ世界遺産のひとつのバム城塞遺跡があった。

 

城塞遺跡の中には、復元前で原型を留めていない住居跡が多数ある。復元後の民家や町並みは立派だが、紀元前の時代に復元後のような立派な建物が本当にあったか疑問に思った。

 

ザヘイダンからバムへの移動時と同様に草木が無い荒野の一本道をただひたすらバイクで走り続ける。

 

ケルマンの手前のモハン(Mohan)の町に評判が良いゲストハウスがあるとのI Overlander(陸路旅行者用の情報アプリ)の書き込みを参考に同ゲストハウスを探した。 

 

しかしながら、同書き込みはコロナ前の事であり、同ゲストハウスは廃業していた。 とんだ道草になってしまった。

 

ケルマンでもI Overlanderの書き込みを参考に宿泊先を決めた。小さな宮殿のような煉瓦造りの立派なゲストハウス(Khorram Hostel)だった。ペルシャ絨毯を敷き詰めた部屋は広くて居心地が良い。部屋料金は5百万リアル(約1,300円)と割安だった。

 

30歳前半と思われる若手のオーナー兼経営者に聞くと、軍の高官だった祖父が残した建物を改造したと言う。バムで知り合ったドイツ人ライダーに電子メールでケルマンのゲストハウスを紹介すると、同氏も是非投宿したいとのことで予約を依頼してきた。同ドイツ人ライダーは一日遅れて、同ゲストハウスで当方と合流する。

 

ケルマンは物静かな都市だった。

バザール以外これと言った見どころは無かった。

 

イランに入国以降、食事には手こずっている。 ハンバーガーやピザ等のファストフート店はあるが、レストランや食堂が殆ど無い。イランには外食の習慣は余り無いようだ。 

(世界遺産のバムの要塞跡。復元された部分)

(世界遺産バムの要塞跡全体)

 

(バムからケルマンへの向かうハイウェイ)

(ケルマンのバザール)

(ケルマン市内の風を建物内に取り入れる塔=Wind Towerがある歴史的建物=写真左側)

(ケルマン市内の公衆浴場博物館。昔の浴場でのあか落とし様子を伝える蝋人形=写真奥と大きな浴槽)

(ケルマン市内で投宿したゲストハウス)

(バムとケールマンの宿で一緒だったヤマハのテネレ700でドイツからツーリング中のクラウツ・ピーター氏)

 

ケルマン(Kerman)~ヤスード(Yazd360km

ケルマンからヤスードへの道路も荒野の一本道だった。道路が通る平地は標高千メートル以上の高地だが、照りつける太陽の日差しは強く、暑く感じる。

 

ここの景色は5年間前にオートバイで走行したアメリカ(USA)・アリゾナ州の禿山がある荒野の景色に似ていると思った。直線道路の走行ゆえ、眠気を誘う。何回も眠気覚ましの休憩を取りながら、ヤスードに辿り着く。

 

ヤスードは中世の時代にイタリア人旅行家のマルコ・ポーロが西洋人として初めてヤスードを訪れた記録がある。マルコ・ポーロはヤスードは美しい町だと記述したと言う。

 

日本の都市や町に例えるとヤスードは歴史があり、こじんまりとした神奈川県の鎌倉に相当するだろう。エスタファン(Estafan)は京都、シラーズ(Shiraz)は奈良だろう。

(ヤスードの旧市街。風を建物内に取り入れる塔が目立つ。エアコンが無い時代に室内を冷やす工夫だ)

 

(ヤスードで投宿した伝統的建物のゲストハウスの内庭。内庭には木陰でお茶を飲む縁台がある)

 

(14世紀~15世紀に建てられたヤスードのジャメ・モスク=Majesed Jame。メナーレ(塔)はイランで一番高いと言われている。)

(15世紀に建てられたヤスードのAmir Chakhmagh Complex=

モスクとバザールの複合施設)

ヤスードの沈黙の塔=Tower of Silence。(ゾロアスター教徒=火を崇める宗教の鳥葬の場所)1930年代には衛生問題のため鳥葬は禁止された。)

(鳥葬の塔の頂上=直径約30mに死体を並べ死肉をハゲタカに食べさせたと言う。ハゲタカが残した骨を中央の直径約5mの穴に入れた。)

 

(砂漠に広がるヤスードの町)

 

ヤスード(Yazd)~マルブダシュト(Marvdasht410km

紀元前の遺跡ペルセポリスがあるマルダシュト(Marvdasht)を目指した。

途中の山々には雪渓が見える。標高が高い峠道では肌寒く感じる。峠道の標高は2千メートル位はあるだろう。

 

マルブダシュトは数万人規模の町だが、ホテルがほとんど無い。地元の人達に聞いてやっと見つけたホテル・ダルビッシュ(Hotel Darvish)に投宿する。

 

同ホテルはイラン人しか利用しないような小さな宿で、ローマ字表示が無い。ペルシャ語が判る人でないとホテルの看板を見ても理解できない。

 

日本のプロ野球で活躍したダルビッシュ投手の父親はイラン人だったと思う。当方はこのホテルのスタッフや宿泊客にダルビッシュ投手のことを話した。現在は米国大リーグで活躍中で年収25百万米ドル(30億円)と説明すると宿泊客は年収額の大きさに目を丸くしていた。

 

年収25百万米ドルと言えば、イランの相対的価値では300億円位に相当するだろう。

(ヤスードからシラーズ途中のハイウェイから雪が残る山が見える)

 

(灌漑を使って小麦を栽培)

 

マルブダシュト(Marvdasht)~ペルセポリス(Persepolis)~シラーズ(Shiraz) 約70km

ペルセポリスは中東の三大観光名所(英語の頭文字のPを取って3Pと表現する)の一つと旅行書の<地球の歩き方>に紹介されていた。

 

当方の記憶だと3Pとはエジプトのピラミッド、シリアのペルミラとヨルダンのペトラだった。イランのペルセポリスの記憶は無かった。

 

ペルセポリスがユネスコ世界遺産の一つと知って、同遺跡を見学する事にした。紀元前の宮殿遺跡と判る大理石の円柱がかろうじて残っている程度であった。

 

シラーズ(Shiraz)の町もユネスコの文化遺産に登録されている歴史がある都市だった。当方は狭い路地に土壁で囲われた住宅や寺院がある旧市街の地区のホステル(Ziba Traditional Hostel)に投宿した。後で知ったが、評判が良いホステルだった。

 

築年数が100年位の古民家を改造したホステルだった。

ホステルの中庭では宿泊客どうしがお茶をの飲みながら、旅の話をさかなに和気あいあいと歓談する。35歳のオーナーのハミッドは朝から夜まで働きづめで当方は感心する。

同氏はいくら頑張って働いても経済環境が改善しないイランの現状に不満を隠さない。

 

シラーズの町では観光よりもオートバイの調整(前輪ブレーキのディスクパッドの交換)とスマホとパソコンで

フェースブックやライン等のSNSに繋がるようにVPNの有料アプリに加入することだった。

 

宿のオーナーの知り合いのバイク店とインターネット関連店舗に同氏が運転する小型オートバイの後ろに乗って連れて行ってもらった。 ハミッドは今まで投宿したアジア諸国ではめずらしく<宿泊客ファースト>のポリシーを実行する男だった。

(紀元前の遺跡ペルセポリス正面入り口)

(ペルセポリスの当時の石柱)

 

(シラーズのオートバイ店。インドのオートバイメーカーBajajの販売代理店でオイル交換と前輪ブレーキパッドの交換を行った)

(シラーズの鮮魚店。内陸の都市ながら1mサイズの大型の海洋魚を売っていた)

(シラーズ投宿したZiba Traditional Hostelの内庭とオーナーのハミッド氏)

 

以上