ネパール・パキスタン・イラン総集編 7,500km
インドのラクソール(Raxaul)国境からネパールへ入った。
(インドRaxaul国境からネパールに入国。ネパール側の国境門)
居心地が良かったネパール 900km (2023 3/6~ 3/19)
ネパールに入国すると道路が悪いことにすぐ気が付いた。舗装道路はいたるところが補修で継ぎはぎだらけのでこぼこ道だったり、舗装面が剥がれてダート化していた。また、多くの区間で道路工事中のためダートの迂回道が多かった。
他方、ネパールは居心地が良く、当方はすっかり気に入った。
気候は涼しく、汗をかくことは無い。むしろ夜は寒いくらいであった。 人口は多くないので窮屈さは感じず、首都カトマンズの道路でもインドのような渋滞は無く、比較的スムーズに走行できた。
また、ネパールの人々は優しく、インドのように<どこから来たか?>等の質問もあまりなく、ある程度距離を取っているのが心地良かった。
(ヘタウダ~カトマンズ間の道路は舗装道とダート道の繰り返し)
(幹線道路は工事中区間が多かった。工事中のための迂回道路)
ネパールは以下のルートで進んだ。
Rxaul/Birganj国境~ヘタウダ(Hetauda)~首都カトマンズ(Kathmandu)~ゴルカ(Gorka)~
ポカラ(Pokhara)~ダンパス村(Dampus)まで往復~ローアー・ムスタング途中で断念~ポカラ(Pokhara)~ルンビーニ(Lumbini)=ブッタ生誕の地~Sonauli国境からインドへ出国
(赤線はネパールの走行ルート。赤線右側最上部の赤色印の場所はカトマンズ。 赤線上部の右から左へカトマンズ~ゴルカ~ポカラへと続く。)
インド国境から首都カトマンズへ向かう道路は酷かった。国境から最初に宿泊したヘタウダ(Hetauda)までは舗装道路だったが、その後は舗装道路とダート道の交互に続く山道だった。
途中お茶休憩した茶店ではグーグル翻訳を介しての筆談だったが、家族全員を紹介されるなどネパール人の開放的態度と心のぬくもりを感じた。
首都カトマンズは盆地の中にあり、乾季で埃が舞う中で遠くは霞み視界が悪かった。そのためカトマンズからはヒマラヤの山々は見えなかった。
(ヘタウダ~カトマンズ途中の茶店の家族写真。オーナーは左から2人目。オーナーの右横はオーナーの奥さん)
(カトマンズ市内へ入る道路)
(カトマンズ旧市街で一番賑やかな通り)
行く先々の人々の繋がりで思い出深きツーリング
カトマンズで知り合ったネパール人や日本人を介して、その人たちの友人や知人を紹介されネパールでのツーリングが思い出深いものとなった。
カトマンズでたまたま訪れた食堂の経営者は日本の八王子で5年間働いたことがあるネパール人で日本語も話した。同経営者にゴルカを勧められ、カトマンズの後にゴルカを訪れた。
当方はイギリス植民地時代にゴルカの言葉がなまりグルカ出身の勇敢な兵士、グルカ兵のことを聞いたことがあった。
その食堂を訪れていたネパール人を日本へ送り出す人材会社のサポートをする若手日本人と知り合いとなり、同日本人の紹介にてポカラ市内でコーヒーショップを経営するネパール人の山岳ガイドと知り合った。 そのコーヒーショップは日本の飲食店と提携して日本からの研修生を受け入れていた。
同山岳ガイドのアドバイスでポカラから40km程度離れた山村のダンパス村を訪れ、ポカラからは遠方が霞みこの時期なかなか見れないアンナプルナ山系を見ることができた。また、同ガイドに紹介されたポカラ市内のオートバイショップでエンジンの調子が悪くなった当方オートバイの調整をしてもらった。
同オートバイショップでは、ポカラから秘境のアンナプルナ山系の国立公園(ローアー・ムスタング=Lower Mustang)へのツーリングを勧められ、当方もその気になりネパールのビザを延長してローアームスタングへ途中まで進んだ。
ただし、悪路とその後の悪天候予想のため、ローアームスタング行は諦め、途中でポカラへ引き返した。
ポカラはカトマンズに次ぐネパール第二の都市だった。町の規模は小さく、スイスの山間部のような雰囲気の落ち着いた町だった。アンナプルナ山系への登山やトレッキングの拠点として多くのプチホテルやゲストハウスがあり、外国人の観光客やトレッキング客を多く見かけた。
ポカラの後はブッタ生誕の地でもあり、インドと国境を接するルンビーニ(Lumbini)の町へ向かった。ルンビーニはネパールというより、インドにいるような感じであった。人々はインド人と同様なアーリア系の顔立ちをして、女性はサリーをまとっていた。
ルンビーニの周辺にはゴーダマ・シッダールタ(のちの仏陀)が出家するまで住んでいたサクヤ国の城跡等がある。ゴーダマ・シッダルータはサクヤ国の王子として生まれた。
(ゴルカの旧王宮跡にあるヒンズー教寺院を警備するゴルカの兵士)
(山間にあるゴルカの町。煙やほこりで視界がはっきりしない。)
(田舎の川岸ではヒンズー教徒が死者を火葬していた。)
(ポカラ近くの道路脇で小学生ぐらいの少年たちが近寄ってきた。そのうち一人は
英語で当方へどこから来たかと質問した。)
(ポカラ郊外のダンパス村から雪をかぶる南アンナプルナ山=標高7,219mが見えた。)
(ポカラの町並み)
(ポカラで当方オートバイのエンジン調整をしてくれたバイクショップのオーナー)
(ポカラから秘境のローアームスタングへ行く途中の景色)
(ローアームスタングへ向かう途中の道路は未舗装。山から出る水でぬかるむ。)
(ポカラからルンビニへ向かう途中の山間部の畑で種まきをする人たち)
(バスの屋根の上にも乗客は乗る)
(当方が宿泊したルンビニの宿の主人は元銀行員。カースト制の差別等自らの体験談をまじえて教えてもらった。)
(ブッタ生誕のルンビニの町)
(ブッタ生誕の地は整備された公園になっている。写真の奥にブッタ生誕地がある寺院がある。)
パキスタン2,800km(2023/4/12~ 4/28)
パキスタンはイランへ行くために通過するだけの国と当初考えていた。
しかし、中国と国境に接するパキスタン北東部のキルギット・バルチスタン州(Kilgit Baltistan)は絶景が広がる山岳ルートと知り興味を持った。同地まで行く計画を立てたものの、天候不順のため途中で引き返した。
パキスタンの中西部(パキスタンのツーリングの約半分)は警察の警備車両のエスコートが必要な区間で単独の自由行動は許されなかった。従って、パキスタンのツーリングはかなり制限されたルートと日程となり、オートバイ・ツーリングを楽しんだという気分にはなれなかった。
パキスタンはイスラム教を国教とするイスラム教国だ。パキスタンへ入国した時期はラマダン(イスラム教徒の断食の月)中だった。イスラム教徒は日の出から日没まで飲食をしない。そのため飲食店は日中営業をしない。イスラム教徒以外の人たちも日中人前では飲食を控える。
パキスタンのように暑い国で日中の外出中に水を飲むことを控えるのは辛かった。ラホールで世界遺産の砦跡を炎天下に見学した際には我慢して水の摂取を控えた。そのため気分が悪くなり、熱中症の症状がでてきた。
(インドとパキスタンの国境線を挟んで毎日夕刻に国境閉門セレモニーがある。)
(当方オートバイの周りに集まったパキスタンの子供達)
(川沿いの谷間にあるカラコルムハイウェイ。キルギット・バロチスタン州を通り中国との国境まで繋がっている。)
パキスタンの走行ルートは以下の通り
インドのアタリ(Attari)国境から入国してラホール(Lahore)~首都イスラマバード(Islamabad)~アボッタバード(Abottabad)~ベッシャム(Besham)~ダス(Dasu)引換えし地点~ベッシャム(Besham)~マルダン(Mardan)~ペシャワール(Peshawar)~デラ・イスマイル・カーン(Dera Ismail Khan)=警察車両のエスコート開始地点~キラ・サイフラ(Qila Saifullah)~クエッタ(Quetta)~ダルバンディン(Dalbandin~タフタン(Taftan)国境=警察車両のエスコート終了。
(赤線はパキスタンの走行ルート。 地図右側下の赤丸印はラホール。地図左側はパキスタンとイランの国境)
パキスタン人は外国人に親切だということを聞いていた。当方は食事に招ねかれたり、自宅に宿泊させてもらったこともあり、パキスタン人の親切さを実感した。しかし、親切と興味本位の行動は紙一重だと感じたことも数多くあった。
外国人は珍しい存在だ。そんな外国人には自然と興味がわく。マルダン(Mardan)の仏教遺跡では20人くらいの中学生ぐらいの少年たちに映画スターのように囲まれた。
同遺跡を徒歩で見学中も当方の周りを囲むように集団でついてくるので、警備の人たちは少年たちを棒で振り回して追い払おうとしたり、鉄格子に囲まれた場所へ当方を誘導して少年たちのグループから安全を確保しようとした。
その少年たちは外国人を興味の対象として見ていた。また、地方都市の大人も同様に外国人の周りに集まり、めずらしい興味の対象としている状況に数多く遭遇した。
(マルダンの仏教遺跡。遺跡の外側の高台には多くの少年たちが外人観光客を見ようと集まり、外人観光客をはやしたてる。)
(マルダンで一泊お世話になったパキスタン人の家族。女性は家の奥にいて家族以外の男の前には現れない。)
パキスタンの安全状況
アフガニスタンと国境を接するパキスタンの辺境地はアフガニスタンがタリバンに制圧されてからタリバンの息がかかった反政府勢力が力を盛り返して治安が悪くなったという。
パキスタン北部のペシャワール(Peshawar)からパキスタン西部のバロチスタン州の州都クエッタ(Quetta)を経てイランとの国境に至る帯状の辺境地は日本の外務省安全情報では最も危険とされるレベル4の退避勧告地域と指定されている。
自爆テロ、身代金目当ての誘拐や銃器を用いた強盗が多発している地域でもあり、中央政府の統治が及んでいるとは言えない。
ただし、当方のようにオートバイで絶えず移動している人には治安状況は全くわからない。幹線道路上で警察や軍隊による検問所の数が多くなると、治安状況が良くないことを知るのみだ。
事実ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンへ向かう途中の幹線道路では複数の軍隊の検問所があり、その一つの検問所を管理する軍の拠点長から治安状況について説明を受けたことがあった。
(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中の峠から見た景色)
(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーン途中。道路わきの日陰で休憩)
(ペシャワールからデラ・イスマイル・カーンの区間を警備する軍の拠点長は流ちょうな英語で当地の治安状況を
説明してくれた。)
(ペシャワールの旧市街)
(ラマダン中だったので、日没後にやっと食事ができた。鶏肉を炭火で焼く。ペシャワールの旧市街)
警察車両のエスコート区間約1,200km(3泊4日)
デラ・イスマイル・カーンから警察車両の護衛が付いた。外国人がテロや誘拐に巻き込まれることを防ぐため、警察車両のエスコートが付く。自由行動が許されない走行が始まった。この区間をバックパックで旅行する外国人も同様に警察車両に乗り(多くはピックアップトラックの荷台)警察の保護下で移動せねばならない。
警察車両は駅伝のように自らの管轄地区を30km~50km警護し、次の管轄区の警護車両に入れ替わる。こんな警護が3泊4日約1,200km続いた。
1泊目(キラ・サイフラ)と3泊目(ダルバンディン)はそれぞれの管轄区の警察署で夜を過ごした。警察署には食事は無いので事前にチャパティ等の乾燥食材を用意せねばならない。当方はシュラフやクッションを持っていなかったので、警察署の硬い床の上では熟睡できなかった。
2泊目のバロチスタン州の州都クエッタでのみ、警察指定ホテルでの宿泊が許された。ただしホテルからの外出は禁止されてい
た。
(警察車両の警護)
(名も知れぬ村の警察官。警察官は自動小銃で武装)
(強風でこの先の道路は視界が効かない。)
(飾りをつけた貨物トラックが多い。)
(一泊したダルバンディンの警察署。写真左側留置所となっていた。)
パキスタンからイランへ出国する際の国境でアクシデント
警察車両によるエスコートの4日目には若いドイツ人夫婦の運転するキャンピングカーが加わった。
そのキャンピングカーが国境検問所で停車後、突然バックして来た。当方はキャンピングカーの約2m後方で停車していたが、突然バックして来たキャンピングカーは当方が後ろにいることには気が付かず当方オートバイの前輪部分に衝突してきた。
当方オートバイの前輪がバリバリと音を立ててキャンピングカーの後部バンパーを壊して、危うく横倒しになる寸前だった。前輪泥除けは無残に垂直に曲がってしまったが、強化プラスチック製のため元に戻すことができた。しかし、当方は前輪タイヤがこれからの走行に支障が出ないだろうかと危惧した。
アクシデント後、ドイツ人夫妻は氏名、住所とコンタクト先を当方に残したのみで、当方バイクの走行状態を確認することなく、その場を離れてしまった。
(警護走行4日目のダルバンディンからイラン国境まではドイツ人のキャンピングカーが加わった。 先頭は警護する警察車両)
イラン 3,800km(2023 4/29~5/25)
イランの概況
イランは思っていたより広い国だった。面積は163万km2と日本の4倍以上ある。アラビア湾岸沿いの低地とカスピ海沿いの地域を除き、国土のほとんどは木が一本も生えていないような砂漠化した高地だった。
人が住む場所は気候が涼しい海抜千メートル以上の高原地帯であり、荒涼とした大地通るハイウェイが数百キロメートル離れた都市と都市をつないでいた。
直前までツーリングしていたパキスタンやインドと異なり、イランの都市は通りにごみ一つ落ちていなく清潔な町であった。プラスチック製のペットボトルやレジ袋等が路上に落ちていない、牛糞も無い。
街には乗用車が溢れる一方、オートバイはほとんど見かけることがなく、国境を接するパキスタンやインドとは全く異なっていた。
イランの人々は事前に聞いていた通り、非常に親切で、思慮ある人々だった。当方はイランが今回のツーリングで訪れた国々の中で一番気に入った。
他方、長引くアメリカ主導の金融制裁のため、経済状況は悪く、インフレ率は年率50%と高く、イランの通貨レアルの為替レートは割安に放置されていると感じた。
政府の公式為替レート(1米ドル=約4.2万レアル)と市中の実勢レート(1米ドル=約53万レアル)とは10倍以上の乖離があり、市中の両替屋で手持ちの米ドル現金100ドルをイラン・レアルに両替すると53百万レアルという巨額になった。
両替した札束が財布の何かには入らず、封筒に入れて持ち運んだ。
百万レアル札もあり、食事代で数十万リアル、宿泊代で数百万リアルと言うように金銭感覚が狂ってしまう。
歴史がある都市や町、ユネスコの世界遺産も豊富で長期滞在しても飽きない。当方は歴史があるヤスード(Yazd)、シラーズ(Shiraz)やイスタファン(Istafan)等の迷路のように土塀で区切られた旧市街の町並みや中庭がある古民家が気に入り、古民家を改造したホステルに宿泊した。
(イランの標高を表したジオラマ地図。イランは高地が多い。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)
ツーリング・ルートは以下の通り
パキスタンのタフタン国境からイランへ入国後~ザヘイダン(Zaheidan)~バム(Bam)=世界遺産の遺跡~ケルマン(Kerman)~ヤスード(Yazd)=イランの鎌倉~マルブダシュト(Marvdasht)=世界遺産ペルセポリス遺跡~シラーズ(Shiraz)=イランの奈良~ヤスジ(Yasj)~シラーズ~イスタファン(Istafan)=イランの京都~カシャーン(Kashan)~首都テヘラン(Teheran)~カスピ海沿岸のチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)~アルダビル(Ardabil)~サリーン(Sarien)=温泉地~タブリーズ(Tabriz)=世界遺産のバザール~カンドバン(Kandovan)=奇岩のミニカッパドキア観光~タブリーズ~ノルドス(Norduz)国境からアルメニアへ出国
(赤線はイランの走行ルート。地図右側はパキスタンとの国境。宿泊した都市は赤丸印の場所。地図下部はアラビア湾、上部はカスピ海)
パキスタンから入国後ザヘイダン~シラーズまでの最初の1,500km (Part 1)
パキスタン西部に続き、荒涼とした砂漠化した大地に通るハイウェイを進んだ。時には岩山を削ったような道路や山を登ったり、下ったりする道もあった。
ガソリン価格がリッター7円~8円と非常に安い。政府の補助があるのだろうが、ガソリンタンクを満タンにしても大した支出とはならない。そのためか、ガソリンスタンドの数が非常に少ない。 薄利ではもうからないためガソリンスタンドの商売には妙味が無いのだろう。
パキスタンから入国して気が付いたことは、前述したように道路上にごみが無いことローマ字表記の看板が一切ないことだった。ローマ字表記が無いため、ホテルやホステルを探すのに多少苦労した。また、数字もアラビア数字に似た形状のペルシャ数字を使用するため、価格交渉を筆談で行うにも数字が読めない。
ザヘイダンでオートバイ保険の加入と携帯電話のSIMカードの購入を済ませたが、インターネットがつながらない。イラン政府は外国のSNSやウェブサイトの閲覧に制限をかけている。それらのサイトにつなげるためには有料のVPN(Virtual Private Networkという私設インターネット回線)への加入(アプリを入れる)が必要だった。
バム(Bam)のホステルで出会った当方と同年配のドイツ人のライダーとは気が合い、バムの次のケルマン(Kerman)でも同じホステルに宿泊して一緒に市内観光をした。
旅行ガイドブック<地球の歩き方>では中東の3P(頭文字にPが付く3大名所のこと)としてシラーズから100km程度離れたマルダシュト(Mardasht)のローマ時代の遺跡ペルセポリス(Persepolis)を挙げていた。同遺跡はユネスコの世界遺産にも登録されていたが、当方の印象には深く残らなかった。
(バムからケルマンへへ向かう途中の景色)
(世界遺産のバムの要塞遺跡。要塞部分の外壁や塔の修復は進んでいたが、周囲には未修復で遺跡か泥の塊か見分けがつかない場所が多く残っていた。)
(ドイツからのライダーはヤマハのテネレ700に乗っていた。)
(世界遺産ペルセポリスの遺跡)
旧市街の古民家
当方の印象に残ったのはケルマン、ヤスードとシラーズで宿泊した宿だった。それぞれ旧市街の古民家や宿泊所を改築したホステルだった。
イランの民家は高い土壁で囲まれ、土壁の内側は見えない。壁の内側には中庭とその中庭を取り囲むように部屋が配置されている。中庭には木陰を作る樹木が植えられ、直射日光がきついイランでは樹木の木陰でお茶を飲みながらゆっくりと時を過ごす。
(古都ヤスードの旧市街。風を室内に入れる塔=写真右側の建物が保存されている。)
(ヤスード宿泊した古民家の中庭)
(ケルマンではミニパレスのような古い豪邸を改築したホステルに宿泊)
(砂漠の中のヤスードの町)
(不気味に見えたヤスードの鳥葬の塔=ゾロアスター教徒は20世紀初頭まで死者を塔の上に置き、鳥に死肉を処分させた。)
(シラーズで宿泊したホステルの若手オーナーは宿泊客の面倒をよく見てくれ、当方は感心した。)
(イランの中高校生ぐらいの少女たちは写真を撮ってくれとポーズを取ってくれた。)
(シラーズからイスタファンへ向かう途中の風景)
シラーズ~イスタファン経由首都テヘラン1,400km(Part 2)
親切なイランの人々
シラーズからイスタファンへ向かう途中のヤスジ(Yasj)という町で当方はイラン・ビザをどこかで紛失したことに気が付いた。立ち寄ったシラーズの携帯電話店に忘れたのだった。
イランのビザはパスポートに押印されるのではなく、航空券のE-チケットを印刷した紙のように紙ベースのものだ。イランに敵対するするイスラエルやアメリカへ入国する際にパスポート上にイランのビザや入国スタンプがあると面倒なことになり、それを避けるためパスポート上にはイランの形跡を残さない。
ヤスジで宿泊したホテルのスタッフが、当方が心当たりがある場所へ一時間以上電話問い合わせしてくれたおかげで、当方が途中に立ち寄ったシラーズの携帯電話ショップにイランビザの紙を置き忘れたことが判った。
携帯電話ショップのオーナーも当方をインスタグラム(フェースブック系のSNSの一種)で探し出して、当方宛にメッセージをくれていた。しかしながら、当方はインスタグラムをほとんど使用しなかったので、メッセージには気が付かなかった。
ヤスジのホテルスタッフやシラーズの携帯電話ショップのオーナーの協力は有難たかった。
テヘランではイスタファンのホステルで出会ったイラン人の若者にテヘランの自宅に招かれ夕食をご馳走された。
このような親切はイラン滞在中に数多く受けた。
(テヘランで知り合ったイラン人の自宅で夕食をご馳走になった。)
(カンドバン村の土産物店ではお茶を飲んでいけとお茶をふるまわれた。)
(オートバイで移動中、のどが渇きスイカを食べたくなった。当方が<1/4個のカットスイカ>を欲しいと言ったら、<切り売りはしないが>、と言って既に切ってあったスイカを<(無料で)食べていけ>と言ってくれたスイカ売りのクールな男)
古都イスタファン(Istafan)
イスタファンは1597年~1795年までの約200年間イランの都だった。日本の京都に相当するだろう。 旧市街には都として栄えた当時の複数の巨大モスクが現在も使用されている。
(イスタファンの有名なエマーム・モスク=Majesed Eman)
(イスタファンのジャメ・モスク=Majesed Jame。モスクは数百年にわたる増改築で、イラン建築の総大集と言われている。)
(イスタファンの旧市街の中心にはエマーム公園があり、その周りをエマーム・モスク、宮殿等の歴史的建物が囲む。)
(イスタファンのバザール入り口のイスラム建築)
(イラン人はピクニック好き。休日には家族、友人たち同士が公園の芝の上で食事したり、お茶を飲んだりして憩う。)
(イスタファンの旧市街の道と民家の土壁)
レストランが少ない
イランで気が付いたことは、食堂やレストランが他国と比較して少ないことだ。食事をするため食堂やレストランを捜し歩いたが、数が少ない。市内の中心部を10分~20分歩いてもなかなか見つからなかった時もあった。
(焼き肉店でひき肉を串に付ける料理人)
イラン・イラク戦争の傷跡
1980年代にイランはイラクと戦争をした。その戦争で戦死者をだした町の道路には戦死者一人ひとりの遺影を飾った柱を目にした。田舎の町にも出征して帰らぬ若者がいることを知った。
イラン・イラク戦争の末期にはアラビア湾(ペルシャ湾とも呼ぶ)の一番狭いホルムズ海峡を通過する日本船籍の原油タンカーもミサイル攻撃で被弾したりして、国際的な注目を浴びた戦争だった。
(イラン・イラク戦争の戦没兵士の遺影)
テヘラン~カスピ海沿岸~タブリーズ~アルメニアへ出国 1,200km(Part 3)
テヘラン北部に控えるアルボズ(Alburz)山脈通過してカスピ海沿岸へ出ると景色は一転していた。 カスピ海沿岸の湿潤の気候のため、山々は緑の樹木で覆われ、道路沿いの荒れ地には緑の草や植物が群生していた。
当方はカスピ海沿いにチャールズ(Chalus)~バンダル・アンザリ(Bandar Anzali)
~アゼルバイジャンとカスピ海沿いに国境を接するアスタラ(Astara)経由内陸都市アルダビル(Ardabil)を経て北部のタブリーズ(Tabriz)へと進んだ。
チャールズ及びバンダル・アンザリではカスピ海に面する場所にあるホテルに宿泊した。晴天の日が少なくカスピ海は曇っていたが、穏やかだった。 この辺りには田植え中の水田が多く、日本に気候が似ていると思った。
(テヘランのビジネス街)
(テヘランからカスピ海地方へ行く途中。テヘラン北側にあるアルボズ山脈。アルボズ山脈の南側=テヘラン側は乾燥地帯)
(アルボズ山脈北側=カスピ海側は湿潤な気候のため山々には緑の木が茂る。)
(チャールズ=Chalusのカスピ海海岸。風が吹くと肌寒かった。)
(カスピ海沿岸地方の田植え風景)
(カスピ海沿岸地方のバンダル・アンザリの海岸)
(カスピ海沿岸地方の名物料理バガラガト=Baghaleh-ghatogh。サフランで黄色くしたバターライスと卵入りシチュー。同じホテル知り合ったカスピ海沿岸地方出身のイラン系カナダ人にごちそうしてもらった。)
(カスピ海沿岸から内陸へ入る。)
イランの温泉
アルダビルから40km程度離れた場所に温泉町サリーン(Sarein)があると聞いていた。草原の中に突然ビル群が建ち、人工的な町が出来たような不自然な場所だったが、スイミングプールのような大きな公衆温泉があった。水着着用で温泉に入るが、個人用の湯船もあり、当方は久しぶりの温泉を楽しんだ。
(サリーン=Sarienの温泉)
(温泉町サリーン=Sarien 土産屋が並ぶ)
タブリーズの不愉快な出来事とその郊外のミニカッパドキア
タブリーズの町はイラン滞在の最後の町だった。楽しいことが多かったイランでもタブリーズでは少し不愉快な出来事があった。通りで少年グループにから絡まれたり、宿泊したホテルの受付係と口論になったことだった。
タブリーズから70km~80km離れた場所にとんがりコーンのような複数の奇岩がある場所があった。その奇岩に洞窟の部屋を作り、民家としているカンドバン(Kandovan)という村があることを知った。
トルコの内陸部にはキノコの形やとんがりコーンの形をした奇岩があるカッパドキア(Cappadocia)という地域があるが、そのカッパドキアにちなんでミニカッパドキアとも呼ばれている村だった。タブリーズから日帰りツーリングしたが、思ったほど観光客は多くなく、洞窟の一部を改造した民家を見学することができ満足した。
タブリーズの後はアルメニアへ出国するためノルドス(Norduz)国境へと進んだ。
(アルダビル=Ardabilの旧市街)
(アルダビルで見つけた甘党の店。 蜂蜜と黒ゴマ等を材料にしたあんこのような甘みのハルラ=Halra。小さなカップに入れて食べた後、口直しに酸っぱいヨーグルトドリンクを飲む。)
(タブリーズ・モスクに残る高さ40mの巨大な門。その昔には罪人を門の上から突き落としたと言う。)
(ミニ・カッパドキアとも呼ばれる奇岩があるカンドバン=Kandovan)
(カンドバンでは奇岩に洞窟を掘り、住居としている。)
(カンドバンの洞窟内の部屋は快適そうだった。)
(タブリーズからアルメニア国境へと進む。)
(アルメニアとの国境付近は自然環境が厳しい場所)
以上