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普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年2月19日(火)TOHOシネマズシャンテ(東京都千代田区有楽町1-2-2、JR有楽町駅・日比谷口徒歩5分)で、14:20~ 鑑賞。

「ナチス第三の男」

作品データ :
原題 HHhH
[The title is an initialism for Himmlers Hirn heißt Heydrich(“Himmler's brain is called Heydrich”). ハイドリヒは鋭利な頭脳と指導力で、上官ヒムラーの意向を汲みとりつつ、自らの意向を次々と実行に移していった…。このことが要因で、ヒムラーはヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring、1893~1946/10/15)から「4つのH」(Himmlers Hirn heißt Heydrich)と嘲られてしまったという。]
英題 The Man with the Iron Heart
製作年 2017年
製作国 フランス/イギリス/ベルギー
配給 アスミック・エース
上映時間 120分


ナチス幹部ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich、1904~1942/06/04)の暗殺計画“エンスラポイド作戦”を描いたローラン・ビネ(Laurent Binet、1972~)の世界的ベストセラー歴史小説“HHhH”(2010)(高橋啓訳『HHhH ―プラハ、1942年』東京創元社、2013年)を映画化した戦争サスペンス。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889~1945/04/30)、ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler、1900~1945/05/23)に次ぐ実力者として第三帝国の高官で最も恐れられたハイドリヒ台頭の道のりと、英国政府とチェコスロヴァキア亡命政府によって立案・実行された「エンスラポイド作戦」の行方をスリリングに描き出す。ハイドリヒを『猿の惑星:新世紀(ライジング)』のジェイソン・クラークが演じ、ロザムンド・パイク、ジャック・オコンネル、ジャック・レイナー、ミア・ワシコウスカらが顔を揃える。監督は『フレンチ・コネクション 史上最強の麻薬戦争』(2014年・第27回東京国際映画祭コンペティション部門上映作品、劇場未公開)のセドリック・ヒメネス。

ストーリー :
1930年9月、ヒトラー率いるナチ党は世界恐慌以降のドイツ国民の社会不安を背景に支持を拡大させ、大躍進していた。海軍士官学校を経てキールのバルト海海軍基地に通信将校として勤務していたラインハルト・ハイドリヒ(ジェイソン・クラーク)は、社交場で出会った貴族階級のリナ・フォン・オステン(ロザムンド・パイク)との婚約を決意する。しかし、女性関係が奔放だったため、ある娘の父親で海軍上層部にコネがある男から訴えられ、不名誉除隊となった。自分の拠り所である軍籍をもぎ取られ、怒りに震えるハイドリヒだったが、ナチ党信奉者である婚約者リナに励まされ、ナチ党親衛隊(SS)指導者ハインリヒ・ヒムラー(スティーヴン・グレアム)との面接の機会を得る。ヒムラーはハイドリヒの優秀さに感銘を受け、その採用を即決し、SS「情報部」の組織の立ち上げを一任した。
ナチ党に入党したハイドリヒは、出世欲にも駆り立てられて、ナチ運動に没頭していく。彼は共産主義者などの政敵を撲滅するため、ドイツ全土にSS保安部(SD)の情報網を築き、徹底した諜報活動で頭角を現わす。1933年1月30日のヒトラー政権成立後は、ゲシュタポ(秘密国家警察)を始めとする警察も手中に収め、まもなく警察機構とSDを国家保安本部(RSHA)に統合する。ハイドリヒは今やRSHA長官として強大な政治警察・諜報組織を束ね、名実ともにヒムラーに次ぐSS・警察の実力者となった。彼の場合、その任務はもともとナチズムの“敵”を撲滅することにあったが、ヒトラーやヒムラーの政治目標を実現する上で、必要とあらばその刃を体制内部に向けることもためらわなかった。有能だが危険な男として、いつしかナチ指導部でも一目置かれる存在となったハイドリヒ。やがて彼は、最終的に600万人を超えることになる<ユダヤ人大量虐殺>の首謀者として、また保護領(チェコ)の副総督(事実上の総督)として、誰も止めることのできない絶大な権力を手にしていく。
ナチスがヨーロッパのほぼ全土に占拠地域を広げるなか、ハイドリヒはチェコの統治を開始。情け容赦のない采配で、反体制勢力に対する弾圧や公開処刑を頻繁に行い、大勢の一般市民までもが犠牲となった。一方、ハイドリヒの統治に危機感を募らせた英政府とチェコスロヴァキア駐英亡命政府は、ハイドリヒ暗殺計画(コードネーム「エンスラポイド〈類人猿〉作戦」)を立案し、暗殺計画の実行者として、亡命チェコスロヴァキア軍人からヤン・クビシュ(ジャック・オコンネル)、ヨゼフ・ガブチーク(ジャック・レイナー)を含む数名の若者を選抜する。パラシュートでチェコ領内に送り込まれたヤンとヨゼフは、チェコ国内に潜伏するレジスタンスらの協力を得て、ハイドリヒの行動や習慣を徹底的にマークし、襲撃の機会を窺(うかが)う。任務の間に、ヤンは協力者の女性アンナ・ノヴァーク(ミア・ワシコウスカ)と出会い、激しい恋に落ちる。1942年5月27日、ついに決行の朝を迎えた…。無謀ともいえる暗殺計画は危うくも成功するが、ハイドリヒ暗殺に激怒したナチスは容赦のない報復に乗り出す。複数の村を消滅させ、男性は処刑、女性と子供は強制収容所に送る徹底ぶりだった。ヤンとヨゼフはプラハの中心部にある「聖キリル&聖メトディオス正教会」の地下室に匿(かくま)われるも、親衛隊が暗殺部隊の支援者を拷問にかけたことで、居場所を突き止められてしまう…。

▼予告編



▼ 5分の冒頭映像 :



▼メイキング映像 :



■私感 :
ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件~「エンスラポイド作戦」~は、これまでにも幾度か映画化されている。私自身は既に2本、『暁の7人』(1975年)と『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(2016年)を、それぞれ日本公開直後の1976年6月、2017年8月に鑑賞した(cf. 本ブログ〈September 03, 2017〉)。ただし残念ながら、戦時中に作られた反ナチ映画の金字塔となる『死刑執行人もまた死す』(原題:Hangmen Also Die!、フリッツ・ラング監督、1943年、日本初公開:1987年12月19日)については、現在に至るも(視聴可能なDVDも含めて)未見のままだ。

本作『ナチス第三の男』がこれまでの類似作品と大きく異なるのは、1942年のプラハにおける“ハイドリヒ暗殺事件”それ自体に限定することなく、ナチ・ドイツにおける犯罪的な数々の暴虐行為を指揮した人物として知られるハイドリヒを物語の“主人公”に据えていることである。
冒頭に、プラハの市街で、メルセデス・ベンツに乗ったハイドリヒがレジスタンス闘士に襲撃される瞬間が置かれ、一挙に時間を遡行して、ドラマ〈前半〉ではハイドリヒが女性関係の不始末から海軍を除隊させられる若き日の挫折から、ナチ党の反ユダヤ主義者である貴族出身のリナを妻に娶り、権力の座を手中に収めるまでの軌跡が描かれる。そして、ハイドリヒが権力の絶頂を極めた頃に、再びハイドリヒ襲撃の瞬間が挟まれ、そこからまた時間を遡(さかのぼ)ってドラマ〈後半〉でレジスタンス側⇒チェコ人のヤン・クビシュとスロヴァキア人のヨゼフ・ガブチークという二人の青年の物語が始動する。以降は3度目の(本格的な)ハイドリヒ襲撃シーンを経て、ハイドリヒ暗殺後のナチス側によるレジスタンス・グループに対する徹底的な追及ぶりが描かれる。

本作における最大の問題点は、1本の映画の中に基本的に二つの異なる作品~主として〈前半〉がナチス側のハイドリヒの物語/〈後半〉がレジスタンス側のヤンとヨゼフの物語~が混在していることである。ハイドリヒ襲撃の瞬間的シーンを繰り返し設定したところで、それはしょせん唐突な話題転換の謗(そし)りを免れるものではない。
なるほど、それはローラン・ビネの原作『HHhH』における“メタ・ノンフィクション・ノベル”という実験的手法に影響されたセドリック・ヒメネス監督(Cedric Jimenez、1976~)による、ハイドリヒ暗殺という“決定的瞬間”の歴史的な意味を“多層的な”視点でとらえ返そうとするユニークな語り口なのかもしれない…。
しかし、はっきりしている点は、本作が〈前半〉と〈後半〉とで、話が割れてしまい、映画全体の系統的・構造的な理解を不可能にする構成になっていること。これは基本的に脚本がしっかり練れていない問題であり、したがって〈前半〉と〈後半〉の描き方それぞれに物語内容として物足りなさが残る。

私はかねてから、第二次大戦中に殺害された唯一のナチ最高幹部ハイドリヒに強い関心を持っていた。特に、この希代の冷血漢がどのように「誕生」し「成長」していったかの、その形成過程に関心が集中した。では、本作は果たして、ハイドリヒというキャラクターを“一人の人間”として十分掘り下げるにいたっただろうか。

本作のヒメネス監督は、パンフ『ナチス第三の男/THE MAN WITH ThE IRON HEART』(発行日:2019年1月25日、発行所:東宝映像事業部、編集:東宝ステラ)のなかで、こう述べている。「どうしてあんなことが起こったのか?どうしてあれほど狂気じみていたのか?どうして人はイデオロギーや信念のためにあれほど間違うことができるのか?私たちは第二次世界大戦を悪夢のように考えていますが、実際に悪夢でした。誰もがこれらの問いに答えたいと願いながら、誰にも答えることができない永遠の命題なのです」
そして続けて、ヒメネスはハイドリヒが“怪物”~ヒトラーさえもが恐れたナチスで最も危険な男~へと変貌した主要な要因として、根っからの兵士だった彼ハイドリヒが1931年にドイツ海軍を追放された事態を指摘している。「彼は、ナチ運動のなかに自分の怒りのはけ口を見つけたのです。彼は怪物になる予定ではなかった。もし、兵士のままでいられたなら、もし軍隊をクビになっていなかったなら、彼は怪物になっていなかったでしょう」

ハイドリヒは海軍将校時代の1931年4月30日に、(リナとの婚約期間中)ある女性との交際もつれから軍法会議にかけられ、軍籍を剥奪されてしまい、その直後の6月1日にナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党〈略称:NSDAP〉)に入党した(党員番号544916)―。

ヒメネス監督はまた、こうも語っている。「リナが怪物となるハイドリヒの道を開きました。彼女はナチ党を信奉し、政治も勉強していたのです」(映画.com-2018年12月18日)
ハイドリヒは赴任地のキールで知り合った没落貴族の娘リナ・フォン・オステン(Lina von Osten、1911~85)と1930年12月24日に婚約し、翌年12月24日に結婚した。
リナの一家は以前から国粋主義的で強い反ユダヤ主義の家風で、リナもリナの兄ユルゲンもナチ党の党員であった。ハイドリヒは彼らを通して初めて本格的にナチズムに触れる。
リナ役を演じたイギリスの女優ロザムンド・パイクは、本作に興味を持った理由として、「リサの中に強さを見つけたからだ」と言い、こう強調している。「彼女が夫を出世させた立役者だということ…。ラインハルト・ハイドリヒは、リナ・フォン・オステンなしには、あんな人間には決してならなかったはずです。おそらく彼女は自分で権力を得たかった。でも当時の女性にとってそれは不可能なことでした。ある意味、自分の夫を通してそう生きるしかなかったのです。彼女はハイドリヒの心をつかみ、彼のなかに自分が操ることのできる何かを感じ取った。そして彼を、ある意味、操り人形にしたのです」(前掲パンフ)

私は思う。ハイドリヒは最初から「ハイドリヒ」だったのではなく、ファッショ化過程が進行する状況下、特に彼が26歳で出会った尊大で権力欲があったリナ、そして27歳で海軍追放→ナチ党入党後に出会った、ヒトラーにその忠実ぶりから「忠臣ハインリヒ」と呼ばれたハインリヒ・ヒムラー、この二人と共に歩むなかで、冷酷の化身たる「ハイドリヒ」へと「成長」し、増殖的に肥大化していった、と※。

※本作はハイドリヒが自宅でパーティーを開催するシーンを収め、子供をあやすハイドリヒと、ヒムラーに声をかけられリラックスするリナ(ロザムンド・パイク)の姿を映し出している。ヒムラーは「誇らしいだろ?君がハイドリヒを正しく党に導いた。出世するぞ」とリナに声をかけると、「夫は特別です」と答える。さらに、ヒムラーから「実に特別だ。ヒトラー総統が付けたあだ名を?“鉄の心臓を持つ男(the man with the iron heart)”」と教えられたリナは、驚きの表情から誇らしげな表情に変わっていく―。

とはいえ、私は本作の次のようなシーンを観るにつけ、改めて考え込むのだ。
ハイドリヒは自ら運営する娼館「サロン・キティ」※に盗聴器を仕掛け、セックス・スキャンダルをネタに上官たちを次々に恫喝し、屈服させていく…。また、彼はあえてキャメラマンを随行させて、自らの数々のヒロイックな言動や残虐行為を撮影させている…。
権力への飽くなき誇大妄想に取り憑かれて、卑劣極まりない手段で抜け目なくナチス内部の権力闘争で覇者となっていくハイドリヒ。その自己顕示欲と自己陶酔癖の異常ぶりが際立つ!

※サロン・キティ(Salon Kitty)は、1930年代から1940年代にかけてドイツの首都ベルリンにあった高級娼館。1939年から1942年にかけての時期は、SD(SSの情報機関)が経営を乗っ取り、諜報目的で運営していた。諜報用の娼館というアイデア自体は、ハイドリヒによるものだが、実行に移したのはその部下のヴァルター・シェレンベルク(Walter Schellenberg、1910~52)**だった。ハイドリヒやシェレンベルクは、ドイツ各界の要人たちや各国外交官らを酒と女性でもてなし、枕元で女性に対してナチ党や政府への率直な意見や不満、自国の内密の情報などを打ち明けるのをひそかに傍受して、不満分子を摘発したり機密情報を得たりするのに最大限活用しようとした。サロン・キティには盗聴器が大量に仕掛けられ、要人を招待してベットの中から情報が収集された。ここでエージェントとして働く女性たちは、ベルリンの「風紀警察(Sittenpolizei)」が逮捕した多数の娼婦の中から選出された、頭がよい、多国語を理解する、思想的にナチス寄りな20人で、各種の軍服の見分け方や、他愛のない会話から機密を収集する方法などを理解できるよう、7週間にわたり厳しい思想教育や訓練を受けた者たちだった。ハイドリヒ自身もこの娼館をしばしば利用していたが、その際には盗聴器をすべて切らせていたといわれる。

** SD対外局長ヴァルター・シェレンベルクはドイツ敗戦後、「ニュルンベルク継続裁判」(1946年12月9日~49年4月13日)にかけられ、49年に6年の禁固刑を宣告された。彼の回想録“Das Labyrinth”(1956)(大久保和郎訳『秘密機関長の手記』角川書店、1960年)には、上官のラインハルト・ハイドリヒに関する次のような一文が書き記されている。
「ハイドリヒはいつも机の向こう側に座っていた。長身で額が広く、長くて立派な鷲鼻の両脇に小さな目がやけにくっついて並んでおり、動物のように狡猾で鋭い光を放っていた。その指はクモのように長かった。冷酷な精気と極度な権力への渇望とが入り混じったような邪悪な雰囲気がにじみ出ていた。立派な体格は腰幅の広さで台無しになっていた。ひどく女性的であり、それがより彼を悪党らしくみせていた。大男である割には声が高く、話し方は神経質で、ぽつりぽつりと断続的であった」/「この男が隠れた軸となり、それを中心にナチ体制がまわっていた。国家の発展は間接的に彼の強力な個性に導かれていた。彼は他の政治家と比べてもはるかに優秀で巨大なSDを支配するのと同じ要領で他の政治家たちを支配していた。ことのほか野心的な男だった。獰猛な狼の群れの中にいるようにいつも自分が一番のリーダーでなければ気が済まないようだった。何事においても一番で手段は問わず最高でなければならなかった。だましたり、裏切ったり、暴力を使うこともいとわなかった。良心の咎めを感じることなどなく、氷のように冷たい知性の助けを借りて極端に残酷なやり方で不正行為をしていた」


ラインハルト・ハイドリヒという神経質で野心的な、希代の冷血漢は、精神病理学の対象となるべき人物なのか…。いずれにせよ、ハイドリヒ像を縁取るに際して大事な点は、彼の人間としての決定的な“弱さ”を明らかにすることであり、そのためには少なくともリナという女性ファシストと知り合う以前の彼を精密に浮き彫りにする必要がある。本作では、彼がクラシック音楽の愛好家で、自身も才能あるバイオリニスト、そしてフェンシングの名手といったエピソードが披露されてはいる。しかし、ここで問われるべきは、彼が1922年に18歳でドイツ海軍に入隊する以前の、その幼少年時代の育ち方・過ごし方~特に父Richard Bruno Heydrich(1865~1938)/母Elisabeth Anna Maria Amalia Heydrich(?~died 1946) との関係の結び方~の何たるかについてである―。

同上パンフに、ヒメネス監督の次のような言葉が載っている。
「本作の脚本のユニークな構成〔物語の二分:ハイドリヒの物語/ヤンとヨゼフの物語〕が、これら3人のメインキャラクター〔ハイドリヒ/ヤンとヨゼフ〕の足跡に深く入り込むことを可能にしてくれました。さらに、それによって、この決定的瞬間〔ハイドリヒ暗殺〕を万華鏡のように映し出し、史劇というジャンルに独創性と現代性を加味することができました。…私は、観客にこの物語に夢中で没頭して欲しいと願っています。そうすれば、当時の人々が感じたのと同じ緊迫感や強い信念を感じ取ってもらうことができると思うからです。この物語が起こっている時代をより鮮明に、生き生きと描くため、撮影には35ミリフィルムを使用しました」/「観客が1942年を再現した映画を見るのではなく、1942年にいるかのように感じてもらいたかったのです。あの時代の人々が感じているのと同じ気持ちを感じてもらいたいと思いました」(〔 〕内引用者)
なるほど、歴史を描く本作の物語に没入し歴史的な現場感覚をつかむよう観客に切願するヒメネスの気持ちはよく分かる。しかし、問題は当の映画自体がそのように観客が完全に浸り込めるような作品に仕上がっているのかどうかだ。

私にとって本作〈前半〉の、第三帝国におけるハイドリヒ台頭の物語は、前述の通りハイドリヒの描き方にどこか引っ掛かるものがあったものの、リサに扮したロザムンド・パイク※の魅惑的な巧演・好演もあって、総じてそれなりに興味と関心を呼び起こすものであった。

※ロザムンド・パイク(Rosamund Pike、1979~)は、私の好きなタイプの女優である。私がこれまでに鑑賞した彼女の出演作は、『007 ダイ・アナザー・デイ』(2002年)→『リバティーン』(2004年)→『プライドと偏見』(2005年)→『サロゲート』(2009年)→『17歳の肖像』(2009年)→『タイタンの逆襲』(2012年)→『アウトロー』(2012年)→『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』(2013年)→『ゴーン・ガール』(2014年)。この9作品中、格別に印象的だったのが、パイクが第87回アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた『ゴーン・ガール』(原題:GONE GIRL、デヴィッド・フィンチャー監督)。鬼才デヴィッド・フィンチャー監督がギリアン・フリン(Gillian Flynn、1971~)の同名ベストセラー小説をベースに、一見幸せそうに見える、現代の理想の夫婦の実情を暴き出すサイコロジカル・スリラー。結婚5周年に突如姿を消した妻エイミーを捜す夫ニックが警察の捜査やメディア報道に追い込まれ、さらにエイミー殺害の疑いを掛けられてしまう物語…。ここでベン・アフレック演じる夫ニックを追い詰めていく妻エイミーを好演したパイクの妖艶さに、私はすっかり魅せられました!以降、大人の男女関係を知る私としては、女の匂いをたっぷり身につけたロザムンド・パイクのファンの一人となった次第。

映画 cf. 『ゴーン・ガール』予告編 :


映画 cf. 『ゴーン・ガール』 ロザムンド・パイク インタビュー :


では、本作〈後半〉の、ヤンとヨゼフの正義感に裏打ちされた犠牲的行動の物語は、どのように展開されたか。驚くべきことに、それは、私が約2年前に観た『ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦』の“コピー短縮版”ないし“ダイジェスト版”にほかならなかった。
『ハイドリヒを撃て!』は壮絶な事件の顛末を、綿密なリサーチとオールプラハロケで映画化した極上の戦争サスペンス。これとの比較を否応なしに余儀なくされた私から見て、本作〈後半〉が、すべて内容が中途半端で密度が薄い映像世界に成り果てたのは理の当然。そこでは、ヤンやヨゼフを始めとするレジスタンスの面々のキャラクター造形がいかにも浅く、具体的な人物像の描き込みがお粗末そのものだった。

ヒメネス監督は同上パンフにおいて、こう高唱している。「さらに(ハイドリヒの物語に加えて―引用者註)物語は、レジスタンスの思想を反映し、不可能な任務に乗り出す若きチェコスロバキア人グループの勇気ある行動も描きます。この壮大な物語のヒーローであるヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークは、自分たちの任務がどれほど危険で、自らの命さえ犠牲にしなければならないことを知っていました。それでもなお、彼らは歴史に残ることを成し遂げるには、彼ら自身の大きな勇気が必要であることを理解し、自分たちの信念を貫いたのです。そして、決して理想を諦めることなく、自分たちの利益よりも公共の利益のために立ち上がりました。ヤンとヨゼフは、野蛮な行為を受け入れることを拒絶する、愛国心に満ちた才気煥発な若者です」
私は一応、この監督の主観的な思い・意図を壮とする―。しかし、未来ある若者たちが自分の信念のために命懸けで抵抗した勇姿~普通の人間として個人の幸福を追求することへの葛藤を抱えながらも大義に殉じることを選び取った雄姿~が、『ハイドリヒを撃て!』では儚(はかな)く切なく如実に描破されてはいても、本作の場合はサラッとその上澄みを掬い取る程度の内容だった。

キャスト陣について言えば、本作でヨゼフを演じたジャック・レイナー(Jack Reynor、1992~)、ヤンを演じたジャック・オコンネル(Jack O'Connell、1990~)、二人とも私には、ややもすると、どこか稚気の漂うヤンチャ坊主に毛の生えたような若者に見え、いかにも頼りない彼らが “ナチスの野獣”ハイドリヒの暗殺作戦を実行するなどとはとんだ茶番、ホントかね!?と思えてならぬ始末。こんな状態下、私は本作鑑賞中、ヨゼフ⇒レイナー/ヤン⇒オコンネルへの感情移入が思うに任せず、彼らの体現した“社会的正義”の真髄に触れる域には程遠いものがあった。
対して、『ハイドリヒを撃て!』ではキリアン・マーフィー(Cillian Murphy、1976~)とジェイミー・ドーナン(Jamie Dornan、1982~)が、それぞれヨゼフ役、ヤン役を、きちんと積極的にこなしていた。彼らは存在感の滲(にじ)み出る、迫真力に満ちた演技で、善をなし正しいことをしようとする人間の基本的な本能に突き動かされた青年の友情と葛藤、痛切な運命を瑞々しく鮮烈に表現している。私は彼らのその個性的な体当たりの演技を通して、自分の同胞に降りかかる苦難を黙視できず、怪物・ハイドリヒの狂気の暴走を止めるために払わねばならなかった大いなる犠牲のありよう~したがって、その根底に横たわる崇高な魂の叫び~を、まざまざと感じ取るにいたった―。
2019年2月19日(火)ヒューマントラストシネマ有楽町(東京都千代田区有楽町2-7-1 有楽町イトシア・イトシアプラザ4F、アクセス:JR山手線・有楽町駅中央口から徒歩1分)で、12:10~ 鑑賞。

「ヴィクトリア女王 最期の秘密」

作品データ :
原題 VICTORIA & ABDUL
製作年 2017年
製作国 イギリス/アメリカ
配給 ビターズ・エンド/パルコ
上映時間 112分


原作はインド・カルカッタ出身のジャーナリスト、シャラバニ・バス(Shrabani Basu)の著書『Victoria&Abdul:The True Story of the Queen‘s Closest Confidant』(2010年)。19世紀の英国を舞台に、ヴィクトリア女王(Victoria、1819~1901、在位:1837~1901)と英領インドの青年との出会いと交流を描いた伝記ドラマ。気難しい晩年のヴィクトリア女王が唯一心を開いたインド人青年アブドゥルとの身分や文化を超えた知られざる友情の物語を、それを問題視する周囲との軋轢とともに描き出す。女王を演じるのは、名優ジュディ・デンチ。ヴィクトリア役は『Queen Victoria 至上の恋』に続き、20年ぶり2度目。63年にわたり君臨した女王の威厳や繊細さを、魅力的に熱演する。アブドゥル役に抜擢されたのは、『きっと、うまくいく』で印象深い演技を見せたインドの若手実力派アリ・ファザル。メガホンを取ったのは、『クィーン』のスティーヴン・フリアーズ監督。デンチとは、『あなたを抱きしめる日まで』以来のタッグとなる。実際にイギリス南部・ワイト島にある女王お気に入りの王室離宮「オズボーン・ハウス」で映画として初めて撮影を敢行。加えて、史実をもとに細部まで吟味された華やかな衣装、数百人ものエキストラが登場する壮観の王宮儀式など、女王が生きた当時の生活が、息を呑むほどのスケールで映し出される。

ストーリー :
1887年、インドが英領となって29年目。アグラに住む若者アブドゥル・カリム(アリ・ファザル)は、ヴィクトリア女王(ジュディ・デンチ)の即位50周年記念式典で記念金貨“モハール”を献上する役目に任命され、もう一人の献上役モハメド(アディール・アクタル)と共にイギリスへ渡る。18歳で即位してから長年女王の座に君臨してきたヴィクトリアは、最愛の夫と信頼の置ける従僕を亡くし、長年心を閉ざしてきた。細かく決められたスケジュールをこなし、思惑が飛び交う宮廷生活に心休まらない日々を送るなか、記念金貨を献上しに現われたアブドゥルの、王室のしきたりに臆することなく本音で語りかけてくる真っ直ぐな態度に心を奪われる。彼を気に入ったヴィクトリアは、祝典の期間中、彼を自らの従僕に起用する。彼女はインド女帝(在位:1877~1901)でもありながら現地に行ったことがないため、アブドゥルから言葉(ウルドゥー語)や文化(タージマハル、香辛料、マンゴー…)を教えてもらい、魅了されていく。次第に二人の間には身分も年齢も超えて強い友情が生まれるが、周囲はそんな“君主と従者”の関係に猛反対し、やがて英国王室を揺るがす大騒動~「インド人に王室を乗っとられた」と騒ぐバーティ王太子(エディ・イザード)やソールズベリー首相(マイケル・ガンボン)、そして王室職員たち~へと発展していく…。

▼予告編



▼ Go Behind the Scenes :

2019年2月13日(水)吉祥寺プラザ(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-11-19、JR吉祥寺駅北口サンロード突き当たり左)で、19:05~鑑賞。

「メリー・ポピンズ リターンズ」

作品データ :
原題 MARY POPPINS RETURNS
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 ディズニー
上映時間 131分


第37回アカデミー賞5部門に輝いた名作ミュージカル『メリー・ポピンズ』(1964年)の、およそ半世紀ぶりとなる続編。前作から約20年後の大恐慌時代のロンドンを舞台に、3人の子供の父親となったバンクス家の長男マイケルの前に、再びあの美しい魔法使い“メリー・ポピンズ”が現われ、子育てと借金問題に苦しむバンクス家の窮地を救うさまを、実写とアニメを融合した映像と華麗なミュージカル・ナンバーとともに描き出す。主役のメリー・ポピンズは、『プラダを着た悪魔』『ガール・オン・ザ・トレイン』など次々と話題作への出演が続き、今ではハリウッドを代表する女優となったエミリー・ブラントが務める。共演にリン=マニュエル・ミランダ、メリル・ストリープ、コリン・ファース、ベン・ウィショーら豪華キャストが集結。監督は『シカゴ』『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』といった大ヒット映画を手掛け、舞台演出家・振付師としても活躍するロブ・マーシャル。

ストーリー :
大恐慌時代の1930年代のロンドン。かつて腕白坊主だったバンクス家の長男マイケル(ベン・ウィショー)は、今では父や祖父が勤めたフィデリティ銀行で臨時の仕事に就き、3人の子どもを育てる父親となっていた。しかし、妻を亡くしたばかりで悲しみに暮れる日々。しかも、折からの深刻な不況で生活は火の車。そこへ追い打ちをかけるように借金返済の期限が迫り、大切な我が家まで失いかねない大ピンチを招いてしまう。そんな時、空の雲の合間から、凧のしっぽにつかまって、旅行鞄と傘を持った女の人が優雅に舞い降りてくる。あのミステリアスで美しい魔法使いのメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)だった。昔(約20年前)と変わらぬ姿に驚きを隠せないマイケルと姉のジェーン(エミリー・モーティマー)に対し、涼しい顔で子どもたちの世話をしにきたと宣言するメリー。彼女はバスタブの底を抜けて海底探検に向かったり、絵画(花瓶の模様)の世界に飛び込み華麗なミュージカル・ショーを繰り広げたりと、マナーに厳しい一風変わった方法でバンクス家の子供たちのしつけをする…。幸せを運ぶメリー・ポピンズの魔法で、窮地に陥ったバンクス家の日常はカラフルに変わり、家族みんなが再び愛と希望を取り戻す―。

▼予告編



▼ Behind The Scenes :



▼ cf. Mary Poppins Returns(2018) VS Mary Poppins(1964) - Song Comparison :
[A little song comparison between the classic Mary Poppins and its newly released sequel Mary Poppins Returns]

1964年、イギリスの作家パメラ・トラバース(Pamela Travers、1899~1996)の原作を基に製作された『メリー・ポピンズ』(原題:Mary Poppins、監督:ロバート・スティーヴンソン)は、実写とアニメーションが織り交ぜられた革新的な映像と印象的な音楽やダンスが、たくさんの人々の心を掴み、今なお世界中で愛され続けているディズニーの代表作とも言える名作である。映画デビュー(初主演)のジュリー・アンドリュース(Julie Andrews、1935~)がメリー・ポピンズ役を務め、第37回アカデミー賞主演女優賞を獲得した。アンドリュースは既にブロードウェイでも『マイ・フェア・レディ』等の主役を繰り返し注目されていたが、一躍映画界でもミュージカル・トップ・スターに躍り出る。そして、次作『サウンド・オブ・ミュージック』も大ヒットし、その映画スターの地位を揺るぎなきものとした。

▼ cf. 『メリー・ポピンズ』(1964年) Trailer :


■私感 :
私は本作を鑑賞しながら終始、ノスタルジーをかき立てられつづけた。そこでは、前作=ジュリー・アンドリュース版『メリー・ポピンズ』の匂いや楽しさが思い起こされるとともに、パメラ・トラバースの原作が発する<大人になっても子供の心を忘れないで><自分の中にある子供心を見つけ出す>というメッセージが喚起されつづけた。

そもそも私がジュリー・アンドリュースの出演作に初めて接したのは、彼女の映画出演2作目に当たる『サウンド・オブ・ミュージック』(監督:ロバート・ワイズ、米国公開:1965年3月2日、cf.本ブログ〈November 29, 2016〉)だった。1965年6月19日の日本初公開直後に鑑賞した同作は、3時間近い尺を一瞬たりとも飽きさせない素晴らしい作りとなっていた。アンドリュース(および共演のクリストファー・プラマー)にすっかり魅せられた私はその半年後、彼女の映画デビュー作『メリー・ポピンズ』(米国公開:1964年8月27日)が1965年12月10日に日本初公開されるや否や、喜び勇んで映画館に飛び込んだのだった。

本作もまた、前作同様、メリーが子供たちにかける魔法の数々は素晴らしいの一語に尽きる!実写とアニメーションを合成したシーンの、優しく美しい色彩とダイナミックな動きが何とも鮮やかで存分に楽しめた。

ただし、本作の場合、前作に比べて、楽曲が若干(否、かなり?)弱いように思われる。
前作では、シャーマン兄弟(ロバート・シャーマン〈Robert Sherman、1925~2012〉&リチャード・シャーマン〈Richard Sherman、1928~〉)による作詞・作曲で、「Chim Chim Cher-ee/邦題:チム・チム・チェリー」、「Feed the Birds(Tuppence a Bag)/2ペンスを鳩に」、「Supercalifragilisticexpialidocious/スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」、 「A Spoonful of Sugar/お砂糖ひとさじで」など代々歌い継がれるような名曲が生まれた。 「チム・チム・チェリー」は、第37回アカデミー賞歌曲賞を受賞。
これに対して、本作では作曲:マーク・シェイマン(Marc Shaiman、1959~)/作詞:マーク・シェイマン&スコット・ウィットマン(Scott Wittman、1954~)によって、「(Underneath the)Lovely London Sky/愛しのロンドンの空」、「A Conversation/君はどこへ」、「The Place Where Lost Things Go/幸せのありか」、「A Cover Is Not the Book/本は表紙じゃわからない」など、前作の世界観を一定限引き継いだ“オリジナル・ソング”が詠まれている。しかし、私に言わせると、それらは総じて一聴に値するフレッシュなメロディーながら、前作のミュージカル・ナンバーより今ひとつインパクトが小さく何か物足りなさを覚える作りだった…。

煎じ詰めて言えば、前作映画が世界中を魅了した見事なミュージカル作品に仕上がったのは、メリー・ポピンズに扮したジュリー・アンドリュースの卓越した歌唱力によるところ、すこぶる大である。玲瓏(れいろう)たる伸びやかな彼女の歌声は、私の耳朶(じだ)を優しく打ち、私の心に嫋々(じょうじょう)と絡みつく…。まさしく絶品だ!
本作では、(私の好きな女優)エミリー・ブラント(Emily Blunt、1983~、cf.本ブログ〈November 28, 2016〉)が、メリー・ポピンズという「とても謎めいていて、風変わりで、可笑しくて、自らの見栄えを気にする人物」(映画パンフ『Disney MARY POPPINS RETURNS』 〈発行日:2019年2月1日、発行所:東宝映像事業部、編集:東宝ステラ〉15頁)を確かな演技力で好演している。
監督のロブ・マーシャル(Rob Marshall、1960~)は言う―「エミリーは、可笑しくて、温かくて、頭の回転が速くて、深い感情を持ち合わせた、実に素晴らしい女優です。彼女はまた、歌も踊りもとても上手にこなせます」「メリー・ポピンズは幾重もの層を持つキャラクターで、外見的には厳格でよそよそしいですが、その内側には温かいハートと子供のような心を持ち合わせています。エミリーはそういった層のすべてを、実に具体的かつ洗練された形で演じることができるのです」(同上34頁)。
私もブラントが「歌も踊りもとても上手」であると思う。しかし残念ながら、彼女はアンドリュースに比肩しうるほどの歌唱力を持ち合わせてはいない―。ただし、その容貌、そして立ち居振る舞いについては、アンドリュースよりもブラントの方が私好みではある ニヤリ

音譜 cf. “Chim Chim Cher-ee” :



音譜 cf. “Feed the Birds” :
2019年2月8日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、17:00~鑑賞。

「アクアマン」

作品データ :
原題 AQUAMAN
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 143分


『ジャスティス・リーグ』で初登場したジェイソン・モモア扮する「DCコミックス」原作スーパー・ヒーロー“アクアマン”初の単独主演作となるアクション・アドベンチャー大作。様々な「DCコミックス」の実写化映画作品を、同一の世界観のクロスオーバー作品群として扱う「DCエクステンデッド・ユニバース」シリーズの6番目の映画である。海底人と地上人(人間)との間に生まれたアクアマンが、地上征服を目論む海底帝国アトランティスの野望を阻止すべく海中を舞台に繰り広げる壮絶な戦いの行方を、圧倒的なスケールと映像美で描き出す。共演にアンバー・ハード、ウィレム・デフォー、パトリック・ウィルソン、ニコール・キッドマンほか。監督は世界的大ヒットを記録した『ワイルド・スピード SKY MISSION』(2015年)のジェームズ・ワン。

ストーリー :
米国メイン州のアムネスティ湾。嵐の夜、灯台守のトム・カリー(テムエラ・モリソン)は岩場の海岸に打ち上げられた美女を発見する。海底王国アトランティスから逃亡してきた女王アトランナ(ニコール・キッドマン)だった。二人はやがて恋に落ち、息子アーサー※を授かる。しかし、3人の幸せな時間は、アトランナがアトランティスに引き戻されたことで終わりを告げる。その後、父親と人間界で暮らすアーサーは、アトランナの命で派遣されたアトランティスの参謀バルコ(ウィレム・デフォー)の指導を受けながら、たくましく成長する。海の生物すべてと意思疎通できる、超人的な力を身につけて、巷では「アクアマン」(ジェイソン・モモア)として名を馳せていった。そんな彼の前に、アトランティスの隣国ゼベルの王女メラ(アンバー・ハード)が現われて告げる。アクアマンの異父弟にしてアトランティスの若き王オーム(パトリック・ウィルソン)が、海を統べる王“オーシャンマスター”を自称し、海の生物を殺し自然を荒らす人類(地上人)に報復するため、地上征服に乗り出した、と。この戦争を阻止するために、アクアマンにオームに代わって王になって欲しいとメラは懇願した。彼女の願いを一旦すげなく断ったアクアマンだったが、アトランティスによる“津波”攻撃に直面して、決意も新たに、メラに同行して海底のアトランティスに向かい、過酷な戦いに身を投じていく。彼は地上人と海底人のハーフとしてのアイデンティティーに悩みつつも、いつしか海底世界の暴走を止める希望の光となっていく…。

※Cast :
Young Arthur (Three Years Old)……Tainui Kirkwood
Young Arthur (Three Years Old)……Tamor Kirkwood
Young Arthur (Three Years Old)……Denzel Quirke
Young Arthur (Nine Years Old)……Kaan Guldur(カーン・グールダー)
Young Arthur (Thirteen Years Old)……Otis Dhanji(オーティス・ダンジ)
Young Arthur (Sixteen Years Old)……Kekoa Kekumano(ケコア・ケクマノ)


▼予告編



▼特別映像 :



▼メイキング特別映像 :



▼ 音譜 テーマ曲(エンドソング)- スカイラー・グレイ(Skylar Grey、1986~)“Everything I Need(私が必要な全て)” :




■私感 :
予想外に楽しめた。まさしく予測不能の海底バトル・アクションエンターテイメントで、掛け値なしに面白かった!
今やヒーロー映画も、
マーベル・コミック⇒「マーベル・シネマティック・ユニバース(Marvel Cinematic Universe〈MCU〉)」⇒「アベンジャーズ」、またDCコミックス⇒「DCエクステンデッド・ユニバース(DC Extended Universe〈DCEU〉)」⇒「ジャスティス・リーグ」に見られるように、
前者はウォルト・ディズニー・カンパニーの、後者はワーナー・ブラザース・エンターテイメントの、興収分捕り合戦の成せる業か、スーパー・ヒーロー総員の仰々しい“集合”映画に成り果てている。このヒーロー集合映画は、ほとんどが上っ調子な派手さがあるだけで中身が虚ろな凡作にすぎない。

今作では、アクアマンという単独ヒーローとその世界観がしっかり描き込まれた。灯台守と海底人との出会いに始まり、アーサーの誕生譚、母との別れ、潜水艦の救出劇、オームの野望、ブラック・マンタの復讐、トライデント(三叉槍)探しの旅などを経由して超ド級スペクタクルのクライマックスが~その間、格闘、アクション、チェイス、家族愛、復讐、宿命、謎解きといったエッセンスが散りばめられながら~ノンストップで描かれる。

本作のハイライトとなるのが、アーサー/アクアマンとメラが交わす、次のような意味深長な会話である。
アーサー:I’m not a king.(私は王ではない)
メラ:Atlantis has always had a king. Now it needs something more.(アトランティスは常に王が存在してた。でも、今はそれ以上の何かが必要。)
アーサー:But what could be greater than a king?(だが、王様以上の存在ってなんだ?)
アトランナ:A hero.(英雄よ)

アクアマンを演じるジェイソン・モモア(Jason Momoa、1979~)は、米国ハワイ州ホノルル生まれの俳優だが、アイオワ州で育ち、ハワイの先住民族やドイツ系、アイルランド系、さらにはネイティブ・アメリカンの血をひくとのこと。エキゾチックでワイルドなその風貌は、実に魅力的!
2019年2月5日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、20:25~鑑賞。

「13回の新月のある年に」

作品データ :
原題 In einem Jahr mit 13 Monden
製作年 1978年
製作国 西ドイツ
配給 アイ・ヴィー・シー
上映時間 124分

日本初公開 2018年10月27日

ニュー・ジャーマン・シネマの鬼才ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(Rainer Werner Fassbinder、1945~82)の劇場未公開作を渋谷ユーロスペースで国内初上映。1979年の『マリア・ブラウンの結婚』の成功により新しいドイツ映画をリードする存在として幅広く認められるようになったファスビンダーが、自身のパートナー、アルミン・マイヤー(Armin Meier、1943~78)の自死をきっかけに手がけた監督作。原案・製作・監督・脚本・撮影・美術・編集の全てをファスビンダー自らが担当し、性的マイノリティーの主人公の最期の5日間をセンセーショナルかつエモーショナルに描き出す。『シナのルーレット』『マリア・ブラウンの結婚』などファスビンダー監督作の常連俳優であるフォルカー・シュペングラーが主人公を演じ、イングリット・カーフェン、ゴットフリート・ヨーンらが共演した。

※『13回の新月のある年に』『第三世代』に関する公式サイト上の一文 http://www.ivc-tokyo.co.jp/fass2018 :
「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの作品には必ず同性愛的要素が含まれるが、いわゆるLGBTが主人公となる作品は意外に数少ない。女性同性愛を扱った『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』、男性同性愛者たちを主人公とした『自由の代償』と『ケレル』があるだけで、そこに加わるのが男性から女性へのトランスセクシュアルを主人公とした『13回の新月のある年に』である。ただし、この作品はいくつかの意味でファスビンダーとして異例の作品である。初公開当時の映画評ではファスビンダーならではの性的少数者をめぐる物語と評された以上にはほとんど言及されず、つまり性的少数者というレッテルはむしろ映画の理解を妨げる結果を招いたとすらいえる。また、この映画製作の背景には当時彼の伴侶だったアルミン・マイヤーの自死というスキャンダラスな要因があったことも影響し、ファスビンダーにおいてあまりに個人的かつ例外的作品として評価を躊躇わせることにもなった。だが、ファスビンダーの生涯と全作品を概観できる現代においてこの映画の位置づけを考えた時、やはりファスビンダーにとって一つの核心をなす重要な一作であることは疑いない。」

ストーリー :
男性から女性に性転換したエルヴィラ(フォルカー・シュペングラー)。過去に女性と結婚しており娘もいるが、男装して男娼を買うような曖昧な性を生きていた。ある日、一緒に暮らす男クリストフ(カール・シャイト)が痴話喧嘩の末に家を出て行ってしまう。絶望したエルヴィラは、仲の良い娼婦ツォラ(イングリット・カーフェン)に支えられ、育ての親シスター・グドルン(リーゼロッテ・ペンパイト)のもとを訪れる。妻や娘にも会い過去を振り返ろうとするエルヴィラだったが、昔の自分に戻れないという現実を突きつけられるだけだった。さらに、エルヴィラは自分が性転換するきっかけとなった男アントン(ゴットフリート・ヨーン)にも会いに行くが……。

▼予告編



■私感 :
冒頭シーンに、私は思わず苦笑した。ヤレヤレと、溜め息をついた。
…男性から女性への性転換者・エルヴィラは、同棲相手の男が無断外泊を繰り返す寂しさから男装して男娼を買いに行くが、性転換者であることがバレて袋叩きに遭う。彼(女)は「男娼」と股をまさぐりあう中、「アレがねえじゃねえか!」と男娼連からボコボコにされ、しばしズボン半脱ぎの状態になる。この間、よりによって名作『ベニスに死す』(トーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督、1971年)でも使われた、グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911)の交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」が流れる…。

私は正直言って、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーというセクシュアリティの人のこと)を扱う映画が今イチ苦手である※。私の場合、そもそもセクシャル・マイノリティー(性的少数者)に対する“感情移入”(=対象に自分の感情を投射し一体化すること)自体がなかなか思うに任せない。意識的に感情移入しようと努力すればするほど、何か疲れてストレスが溜まりがちになるのだ…。

※ただし、直近の鑑賞作品である『君の名前で僕を呼んで』本ブログ〈November 19, 2018〉は、例外に属する。若い男ふたり~17歳と24歳~が織りなす眩しき一夏(ひとなつ)の恋模様(同性愛)を描いた同作は、単なる「LGBT」映画を超えた普遍的な恋愛映画への方向性を垣間見せている。私は舞台となった北イタリアの避暑地クレマ(CREMA)の美しく静かな風景にしっくりと溶け込むとともに、若々しい生気が眉宇に漂う二人の青年の純粋で赤裸々な恋の甘酸っぱさと昂揚感を、さしたる抵抗感もなく、ゆっくりと味わうことができた―。

念のため言えば、私はこれまで、性が多様化する現代社会に生きる人間として、自分なりに「身体的性別と性自認が同じで、異性を愛することが普通であり常識である」といった考えには囚われないよう努力を払ってきた。そこでは、「性別は男性と女性の2つだけではない」ということを常に頭の片隅に置きながら、セクシュアル・マイノリティーの生きる現実~昨今ではLGBTだけではなく「LGBTQ」や「LGBTQIA」などとも言われる様々なセクシュアリティーのありよう~を、あらゆる価値判断を留保し、あるがままに受け止めることが、差し当たっての重要事にほかならなかった。

ファスビンダーの映画は女性の抑圧、同性愛、ユダヤ人差別、テロリズムなどスキャンダラスなテーマが多い。それゆえ、ドイツ国内では常に激しい論議を巻き起こしてきた。トランスセクシュアルの繊細な心理と恋情と愛憎を描いた本作もまた、様々なイメージがセンセーショナルに提示された、ファスビンダー最大の問題作といわれる。

私は本作を鑑賞中、しばしば心が憂鬱の色に包まれた。主人公のエルヴィラに扮したフォルカー・シュペングラー(Volker Spengler、1939~)の体全体~特に肉感~が醸し出す雰囲気に割り切れない違和感に捉えられつづけたからである。上映時間約2時間を通して終始、私はどうにもこうにも、エルヴィラ⇒シュペングラーの諸表出にしっくりした気持ちを湧き立たせることができなかったのだ。
何しろエルヴィラ⇒シュペングラーは、長身で骨太のがっしりした体つきながら、トランスジェンダー(transgender)という“生物学的な性(身体)と、心の性が一致しない”状態下にあり、しかも心と身体の性を一致させるために現に外科的手術を施したトランスセクシャル(transsexual)にほかならない。
要するに、エルヴィラ=シュペングラーは基本的にMTF(Male to Femaleの略/身体的には男性だが性自認が女性)のケース(もっとも、エルヴィラの性自認は男か女かで揺れてはいるが…)。そんな彼(女)が女装をし、ハイヒールを履くと2m近く、見上げるばかりの、デップリした大女と化す!私は画面に彼(女)が現われるたびに何かしら、むくつけき女性や海坊主のような巨漢を勝手に連想するばかりで、その“女性的な”感性と行動に、その性的マイノリティーの救われない人生行路に、とうてい自己の感情移入を果たすことができなかった。

なるほど愛を求めて彷徨う~愛されたいのに愛されない~“人間”を現出させたエルヴィラ=シュペングラーの演技は、私の平常心を幾らか搔き乱したかもしれない…。とはいえ、エルヴィラ=シュペングラーの孤独、受難、愛への憧憬と不安、そして魂の破滅を描いて痛切な、ファスビンダーの“私小説”的な物語が、私という一個の人間の魂深く染み入るものでなかったこと、これは紛れもない事実である。
2019年2月5日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、18:00~鑑賞。

作品データ :
原題 DIE DRITTE GENERATION
製作年 1979年
製作国 西ドイツ
配給 アイ・ヴィー・シー
上映時間 109分

日本初公開 2018年10月27日

「第三世代」

ニュー・ジャーマン・シネマの担い手の一人として知られるライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(Rainer Werner Fassbinder、1945~82)の劇場未公開作を渋谷ユーロスペースで国内初上映。革命への理念を持たず、“意志と表象としての世界”で目先のスリルだけを追い求める「第三世代」のテロリストたちを描いた作品。出演は『13回の新月のある年に』のフォルカー・シュペングラー、『アルファヴィル』のエディ・コンスタンティーヌ、『ミモザの島に消えた母』のビュル・オジエ、『マリア・ブラウンの結婚』のハンナ・シグラ、『ダウンサイズ』のウド・キアー。ファスビンダー自身は製作、監督、脚本、撮影の4役を兼任。

ストーリー :
1970 年代末のベルリン。企業家P・J・ルーツ(エディ・コンスタンティーヌ)は、自身の事業であるコンピューター販売の不振を憂う中で、一つの着想を持った。この都市でテロ事件が起これば、警察が捜査用にコンピューターを導入する、というものであった。そのルーツの秘書ズザンネ(ハンナ・シグラ)は、地下組織のメンバーで、仲間ととともにテロを企てていた。夫のエドガー(ウド・キア)もそのメンバー。そのグループには「革命」のような思想や理念はなく、ただ目先のスリルに耽溺した遊びであった。リーダーはアウグスト(フォルカー・シュペングラー)という男であるが、このアウグストはルーツと通じており、全ては企業と権力の手中にあった。「第三世代」※のテロリストたちは、やがて企業と警察の煽動に乗って誘拐事件を引き起こす…。

※本作のタイトルに示された「世代分類」に関するファスビンダー自身の解説:「近代ドイツ史の大きなスパンでは第一世代は1848年の革命以降の時代、第二世代はヴァイマール期からナチズムの時代、そして第三世代が戦後の現代ということになるが、短いスパン1960年代以降の政治の季節における過激主義の世代分類としても捉えられる。第一世代は世界を変革する理想と権力に対する絶望の中で夢と大義をもって行動した60年代の活動家たちを指す。だが67~68年の運動の過熱化と分断の中で一部の過激な者たちは地下活動としてテロ行為を行っていった。それが第二世代すなわちバーダー・マインホフ・グルッペ(Baader-Meinhof-Gruppe)を中心とした者たちを指す。その後に来るのが第三世代であり、彼らはテロ行為を自己目的化し大義もなくただ活動する者たちである。しかも、それは元来敵対者だった資本家や権力の手法を真似るという状況まで生み出すことになる。」(『13回の新月のある年に』『第三世代』 | 公式サイト)

▼予告編

2019年2月1日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、19:20~鑑賞。

「七つの会議」

作品データ :
製作年 2019年
製作国 日本
配給 東宝
上映時間 119分


「半沢直樹」シリーズなどで知られる作家・池井戸潤の同名企業小説を原作にしたエンターテイメント・ミステリー。中堅電機メーカーを舞台に、一つのパワハラ騒動を巡る不可解な人事が発端となり、会社の暗部が徐々に浮かび上がっていくさまをスリリングに映し出す。メガホンを取るのは、『私は貝になりたい』『祈りの幕が下りる時』の福澤克雄。主演は野村萬斎、共演に片岡愛之助、香川照之、及川光博、立川談春、北大路欣也、音尾琢真ら。

ストーリー :
都内にある中堅メーカー・東京建電。営業一課の万年係長・八角民夫(野村萬斎)、通称“居眠りハッカク”はどこの会社にも一人はいる、所謂ぐうたら社員。トップセールスマンである課長・坂戸宣彦(片岡愛之助)からその怠惰ぶりを叱責されるも、どこ吹く風、ノルマも最低限しか果たさず、定例の営業会議では傍観しているのみ。絶対的存在の営業部長・北川誠(香川照之)が進める結果第一主義の方針のもとで部員が寝る間を惜しんで働く中、一人飄々と毎日を送っていた。ある日突然、坂戸がパワハラで訴えられ異動・更迭となる。訴えたのは、年上の部下である八角だった。いったい、坂戸と八角の間に何があったのか?北川の信頼も厚いエース・坂戸に対するパワハラ委員会の不可解な裁定に揺れる社員たち。そんな折、万年二番手に甘んじてきた営業二課長の原島万二(及川光博)が新課長に着任する。だが、会社の“顔”である一課で成績を上げられず、原島は場違いすら感じていた。誰しもが経験するサラリーマンとしての生きるための闘いと葛藤。やがて、パワハラ騒動に隠されたある謎が、社員たちの人生、そして会社の存在をも揺るがし始めていく…。

※映画タイトルの「七つの会議」には、意味が二つある。
一つは、登場する“7人”の企業関係者。〈東京建電・営業部〉の八角民夫、坂戸宣彦、北川誠、原島万二|〈東京建電の下請け会社・トーメイテック〉の江木恒彦(立川談春)|〈東京建電の親会社・ゼノックス〉の徳山郁夫(北大路欣也)|〈老舗のネジ製造工場・ねじ六〉の三沢逸郎(音尾琢真)の以上7人。
もう一つは、一般企業に見られる「危険な社風7つの兆候」というもの。①経営者が「景気」の話をする(会社経営の不振を不景気のせいにする)。②経営者が自分の会社よりも他社の事柄に口を出す。③経営者が自分よりも優れた能力を持った人を雇わない。④管理職が多く実行部隊が少ない。⑤お茶を出す部下(特に女子社員)がいる。⑥部下が会議で何も言わない。⑦経営者がウチの会社は馬鹿ばっかりだからと社員をこき下ろす。


▼予告編

2019年1月31日(木)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)で、12:40~ 鑑賞。

「名もなく貧しく美しく」⑴

作品データ
英題 Happiness of We Alone
製作年 1961年
製作国 日本
配給 東宝
上映時間 128分


「名もなく貧しく美しく」⑵

松山善三(1925~2016)が自らのオリジナル脚本を演出した第1回監督作品。戦争末期から敗戦後までの困難な時代を生き抜いた、聾唖者夫婦の姿を、実話に基づいて感動的に描く。主演は小林桂樹(1923~2010)と高峰秀子(1924~2010)。二人の手話の内容は字幕によって表わされる。

ストーリー :
戦争末期から戦後にかけては、日本中の人々が苦しい生活を送っていた。秋子(高峰秀子)は夫の死と共に、あっさりと嫁ぎ先を放り出された。秋子は聾唖者である。実家に帰った秋子を母(原泉)は労(いたわ)ってくれたが、姉(草笛光子)も弟(沼田曜一)も冷たかった。そんな折、同じ聾唖者の片山道夫(小林桂樹)が秋子に結婚を申しこんで来た。もちろん秋子はためらったが、道夫は真剣だった。彼は聾唖者だけに通ずる手話でこう語った。「ボクハ ヒルモ ヨルモ アナタノブンマデ ハタラキマス」
秋子の再婚は幸せにいきそうに思われた。元気な赤ちゃんが生まれた。ものが言えない二人から生まれた子は、果たして口がきける子供なのだろうか。二人の不安は長く続いた。そして、ある日、子供が茶碗の音をたしかに聞きわけたと知ったときの二人の喜びはすさまじいものだった。それだけに、この最愛の子を、二人の耳が聞こえないために死なせてしまったときの悲しみは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
有楽町のガード下で靴磨きをはじめた二人の家に秋子の母が転がりこみ、二人目の子供が
生まれて健全に育っていった。貧しいながら波風の立たない何年間かが過ぎる。息子の一郎(島津雅彦)は、小学生になる頃、不具者である両親をうとんじる気持ちを持ちはじめた。秋子のグレた弟が内職用の大切なミシンを売りとばしてしまった。無理して貸した金はたおされ、内職の金は不当にごまかされた。絶望した秋子は、自分の身内が夫に迷惑をかけつづけたことを悩んで家を出た。
逃げるように秋子が乗った電車に、置手紙を見た道夫が飛び込んだ。開かない連結扉の窓ガラス越しに必死に手話で語りかける道夫。「アナタの苦しみはワタシの苦しみです。二人で助け合っていくという約束を忘れたのですか」 秋子は自分が間違っていたことを知り、夫の愛情の深さを今更ながら知らされた。
小学校5年生になった一郎(玉田秀夫)は精神的に成長し、母親を友人たちに屈託なく紹介する。両親を嫌うことなく、差別に対して疑問を持つ正義感の強い少年になった。
秋子は道夫と結婚する以前に一人の戦災孤児、上野アキラ(加山雄三)を救ったことがあった。二十数年たった今になって、立派に成長して自衛隊員となったアキラが、恩人の秋子を探し当てる。思いがけない知らせに喜んだ秋子は、彼に会おうと急ぐあまり大通りへ飛び出した。疾走してきた大型のトラックに秋子の小きな身体が絡んで消えた。秋子を認めて、トラックが激しく笛を鳴らしたにもかかわらず、秋子の耳は危険を察知できなかった。
秋子の墓標の前で、道夫はかつて秋子が指で語った言葉を思い出していた。「ワタクシタチハ ハジメカラ クルシムタメニ ウマレテキタ キガシマス デモ アナタガイレバ コウフクデス」
その通りだったと道夫は思う。「ボクはこれからどうしたらいいのですか…」と墓標に語りかける道夫。そして、一年も経たぬうちに妻のあとを追った。
文字通り“名もなく貧しく美しく” 生きた両親の慈愛を一身に集めた一郎。彼は決して希望を失わず、明日に向かって気高く生きていくことだろう…。

※本作に付された高峰秀子自身の解説:
「これはもう、手話が難しかった。私と桂ちゃん(小林桂樹)は別々の聾唖の人に習ったの。男と女と違うから。大変でした。その人は耳も聞こえないし口もきけないから、筆談で会話しながら。/外国に輸出する版は、最後がハッピーエンドなんですよ。私が息子の卒業式を見に来てる小学校へ、自衛隊に入った加山雄三さん(空襲の時、拾って育てた子供)を原泉さん(高峰の母親役)が連れてきて、加山さんと私が再会を喜んで桜の木の下でぐるぐる回るってところで終わってるんです」(斎藤明美監修『高峰秀子 高峰秀子自薦十三作/高峰秀子が語る自作解説』キネマ旬報社、2010年〈第3刷〉、92頁)。
2019年1月31日(木)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、15:30~鑑賞。

「ジュリアン」

作品データ :
原題 JUSQU'À LA GARDE
英題 Custody
製作年 2017年
製作国 フランス
配給 アンプラグド
上映時間 93分


第74回ベネチア国際映画祭で最優秀監督賞(銀獅子賞)を受賞し、本国フランスで40万人動員のロングランヒットを記録した話題作。俳優としても活躍するグザヴィエ・ルグラン監督が第86回アカデミー賞短編実写映画賞にノミネートされた自作『すべてを失う前に』(2012年)を基に、記念すべき長編デビューを飾った。離婚した両親の間で苦悩する少年を主人公に、両親の不和の行方を緊張感ある筆致で描き出す。DV(家庭内暴力)を題材にしたヒューマンドラマだが、それ以上に息詰まるサスペンスの要素が強い。出演は両親役に短編に引き続きレア・ドリュッケールとドゥニ・メノーシェ。健気な姿が胸を打つ息子のジュリアンに映画初出演のト―マス・ジオリア。

ストーリー :
夫アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)の家庭内暴力が原因で離婚したミリアム(レア・ドリュッケール)。判事に呼び出され、お互いの弁護士も同席しながら娘のジョゼフィーヌ(マティルド・オネブ)と息子のジュリアン(ト―マス・ジオリア)の親権について話し合っていた。
ジュリアンからの陳述書が読み上げられる。「ママのことが心配なので離婚はうれしい。僕も姉さんも“あの男”が嫌いです。週末の面会を強要しないでください。二度と会いたくありません」 暴力を振るわれていたのはミリアムだけではなかった。3年前、彼氏と一緒にいるところを見られたジョゼフィーヌも腕に怪我をさせられていた。
しかし結局、子供たちの親権については、もうすぐ18歳となるジョゼフィーヌは対象外となったものの、まだ小学生である11歳のジュリアンの場合は両親ともに親権のある共同親権となり、隔週の週末ごとにアントワーヌと会わなければいけなくなる。
ミリアムもアントワーヌも別居してからはお互いの実家に暮らしていた。最初の面会の週末、アントワーヌは車でジュリアンを迎えにやってくるが、ジュリアンは体調が悪いと言って逃れようとする。しかし、アントワーヌはミリアムに取り決めを守らないなら訴えるといって無理やりジュリアンを連れてこさせた。
アントワーヌの実家で祖父母に会ってもジュリアンは浮かない顔で過ごす。ミリアムの実家の前に戻った際、アントワーヌはミリアムと話をさせてくれと言うが、母は今いないと言い張るジュリアン。アントワーヌはミリアムの連絡先を執拗に尋ねるが、ジュリアンは携帯ではなくミリアムの実家の電話番号だけを教え、アントワーヌは仕方なくその番号を通じてミリアムと話す。
その頃、ミリアムは郊外の別のアパートに新居を用意しており、アントワーヌから離れるつもりだった。ジョセフィーヌはすでに両親の問題に関心が薄く、遠距離恋愛中の彼氏のサミュエル(マチュー・サイカリ)のことで頭がいっぱいだった。
その次の面会日、ジュリアンは相変わらず複雑な表情だった。アントワーヌは何かとジュリアンの言葉尻を捉えて詰問を繰り返し、アントワーヌの父はそんな息子を諌めようとするが、もともと短気な2人は口論になってしまう。父は「お前はいつもそうだ!何でもぶち壊してしまう!子供たちが会いたがらないのは当然だ!」と怒鳴る。
アントワーヌはジュリアンを連れて実家から車を走らせる。彼はジュリアンの態度を不審に思っており、ミリアムの連絡先を教えないのも彼女が引っ越そうとしているのを隠しているのではと見抜いていた。彼は突然怒鳴り、ジュリアンを彼らの新居まで案内させる。ジュリアンは嘘の道を教え、車が停まって降りてから隙を突いて逃げ出す。アントワーヌは追いつけずに諦め、しばらくして戻ってきたジュリアンに「俺だって毎回揉める気はない」と彼を家まで送り届ける。
アントワーヌの不意の来訪に困惑するミリアム。アントワーヌはずかずかと上がり込み、せわしく部屋じゅうを見回し続ける。彼は急に「俺は生まれ変わった」と言って泣き出し、彼女を抱きしめる。ミリアムも恐る恐る抱きしめ返すのだった…。
ところが、実家に戻ると、アントワーヌの父は息子に愛想を尽かし、彼の荷物を全て外に放り出していた。アントワーヌは母親とも口論し、売り言葉に買い言葉で家を出て行ってしまう。
その夜、ジョセフィーヌの18歳の誕生日パーティーに参加したジュリアンは、彼女がボーカルを務めるバンドの演奏に大はしゃぎする。ミリアムが会場を回っていると、外にアントワーヌの車が停まっているのに気づく。何をしているのかと問い詰めに行くと、アントワーヌは今でも家族のことを愛していると必死に訴えるが、冷たくあしらうミリアム…。
パーティーも終わり、その夜ジュリアンとミリアムは新居に泊まっていた。就寝しようとしていたところにインターホンが突然何度も鳴る。2人が怯(おび)えじっとしているとインターホンは止むが、まもなくエレベーターが上がってくる音が聞こえたため飛び起きる。アントワーヌが部屋の前まで来て、「開けてくれ!話をしよう!」とドアを叩き続けており、ドアを蹴破ろうとしている。向かいの部屋の老婦人が異変に気づき、即座に警察へ通報する。アントワーヌは今度は猟銃を持ち出し、ドアに向かって発砲!ミリアムとジュリアンは家の奥に避難する。ドアを蹴る音と銃声が響く中、ミリアムも警察に電話して、浴室に鍵をかけてバスタブに隠れるように指示を受ける。バスタブで2人が息を押し殺していると、ドアを破壊したアントワーヌが侵入して、室内を物色し始める。2人はパニックに陥るが、オペレーター(警官)は電話越しに冷静な口調で励まし続ける。彼がミリアムの名を怒鳴るように叫びながら浴室の前までやってきたその瞬間、あたふたと駆けつけた警官隊が猛(たけ)り狂う彼を床に押さえつけて拘束した。
アントワーヌは「ミリアム!やめさせてくれ!家族と会わせてくれ!」と悲痛な絶叫を迸(ほとばし)らせながら連行されていく。ジュリアンもミリアムも堪(こら)えかねて嗚咽(おえつ)しているところに、女性警官がやってきて2人を保護した―。

▼予告編



◆ グザヴィエ・ルグラン(Xavier Legrand、1979~)監督 インタビュー(『i-D Japan』-2019/01/28) :
――まず、ドメスティック・バイオレンスという社会問題を主題として取り上げた理由についてお聞かせください。
「家庭内暴力というテーマは非常に現代的であり、難しい側面を持っています。世界中どんな国でも、政府がどのように被害者や子どもたちを保護すれば良いか、正しい回答を見つけることができていません。だから、実はどの国でも共通して直面する難問のひとつだと思います。フランスの場合も、それがあまりにも困難でプライバシーなど微妙な問題を含んでいるため、一方でタブー視される傾向もありますが、やはり大いに議論されていると思います。この映画を作るにあたって、実際に様々なカップルから取材しましたが、出会って恋に落ちて愛情を育み、ある場合には子どもを作ったりもした彼らが、家庭内暴力に直面したとき、経済問題や相手への愛情、そして依存心からなかなかすぐにはその関係性を断ち切ることができない。これは実に深刻な問題です。こうした状況に対して、映画としてその内側にカメラを持ち込み、彼らの実際のリアリティを描くことができればと考えました」

――現代社会のリアリティと共に、舞台俳優でもある監督はギリシア悲劇からもこの物語のインスピレーションを受けたと語っておられましたね。
「そうです。私はギリシア悲劇がとても好きで、この作品をその現代版として構想しました。ギリシア悲劇で中心的なテーマとなるのは、権力であったり、対決、決闘、親から子へと受け継がれていく血の争い、そして家族間の抗争のようなものです。こうしたテーマを、現代社会を背景とした物語のなかでも展開できるのではないかと考えました。ギリシア悲劇では神々が主人公になりますが、この映画では現代のフランス社会で生活する中産階級の人間です。しかし、そこで展開される家族の悲劇には共通性があると考えています」

――脚本作りにおいてどのような取材をされましたか?
「物語を作り込んでいく前に、長い時間をかけて様々な人々から話を伺うなど、綿密に現場調査をしました。もちろん、実際に家庭内暴力の被害者となった女性たちにも会いましたし、そうした家庭で育った子どもたち、あるいは家庭裁判所の裁判官、判事、そして警察にも取材に行き、緊急事態で実際にどのような状況が発生しているかについても様々な事例を伺いました。ドメスティック・バイオレンスについて書かれた数多くの著作も読みましたし、体験談や各種資料、そしてフィクションも読みました」

――暴力はきわめて映画的主題ですが、家庭内暴力にはそうした映画で描かれる典型的暴力とは少し異なる側面があります。例えば、ジュリアンが父アントワーヌの車から逃げ出す場面では、家の鍵を父親に奪われていたことや、結局一人ではどうしようもないのでジュリアンは車に戻ってこざるを得ません。自分が依存しなければいけない相手が同時に恐ろしい敵でもあるというアンビバレントな状況が生む恐怖を感じました。
「関係の壊れた元夫婦であるアントワーヌとミリアムのあいだで、二人の子どもであるジュリアンにはとても大きなプレッシャーがかけられています。その上、彼には人質のような役割も与えられる。父親であるアントワーヌは、夫婦のつながりが壊れてしまった後でも依然として妻との関係を保ちたいと考えている。そのために、父親としての権力、そして男としての権力を利用しようとするのです。人質として利用されるジュリアンが直面するのは、こうしたジレンマです。そして、あの場面に登場する鍵には象徴的意味合いもあります。それは、アントワーヌがもはや自分ではアクセスできない、閉ざされた妻の心を開けようとする鍵という意味です。しかし彼は、やはりその鍵を使うことができないのです」

――愛情や家族の絆が暴力として機能するシーンとしては、もうひとつとても印象深い場面がありました。アントワーヌがミリアムを抱きしめる場面で、僕は変わったと彼は口にするのですが、ミリアムは身動きもできず、まるで硬直したようにただ黙って耐えるしかない姿が描かれていました。
「とても良い例をあげていただきました。あれは非常に強いシーンだと思います。脚本のために取材したとき、実際に家庭内暴力の被害を受けた女性たちから話を聞くなかで、ああした状況の具体的事例について知り、強烈に心に残っていました。ああいう場面で男性たちは、しばしば女性に対して僕は変わった、改心したと口にするのですが、その何分か後には再び暴力を繰り返す。この関係性の全体が、きわめて強固な暴力の悪循環のなかに捉えられていると思います」

――暴力を主題にしたこの作品で本当に恐ろしいのはこうした場面であり、むしろ身体的暴力は具体的に描かれていないのが印象的でした。
「実際に身体的暴力を見せつけられるよりも、それを想像させられたほうがしばしば恐ろしいのではないでしょうか。映画やテレビでは暴力が描かれることが多いですが、それが重要だと私は思いません。そしてこの作品の場合、精神的な恐怖が暴力として描かれています。家庭内暴力が恐ろしいのは、こうした部分だからです。身体的暴力が振るわれなくても、精神的暴力が相手を支配していく。これは他人の目からはなかなか見えません。そしてそれが家族の問題であることによって、さらに外部から隠されてしまう。そこで実際に何が起きているのか、当事者以外にはなかなか分からない。だからこそ、観客の想像をかき立てることで、その恐ろしさに踏み込もうと考えました」

――実際の暴力よりも、想像によってそれを仄めかす方が恐ろしいというのは、映画ではヒッチコックの定式として知られています。監督は他のインタビューで彼の名前を挙げておられましたが、つながりを感じますか?
「ヒッチコックには大きな影響を受けました。小さい頃から彼の作品はたくさん見ており、大好きな映画監督のひとりです。『ジュリアン』にはサスペンス映画としての側面があり、とくに物語を作る段階では影響を受けたと思いますが、演出や映画的手法という意味では違うのではないかと思っています。ヒッチコックの場合、物語を語るうえで大がかりな仕掛けを使いますが、私は使っていないからです」

――日常的な物音がサスペンスを高めるために実に効果的に使われていると思いました。車のなかのシートベルト警告音やウィンカーの音、あるいは扉をノックする音や時計の音など、リズミカルで神経症的に反復される音響が逃げ場のない恐怖を観客に感じさせていたと思います。
「サスペンス効果を高めるためどのように音響を使うかについては、シナリオの段階からずっと考えていました。よくある映画やテレビのスリラーで観客を驚かせるため紋切り型として使われる音響効果や音楽などではなく、日常にある物音を効果的に活用することで、よりこの作品に相応しい恐怖を演出できるのではないかと思ったのです。同じ物音がリズミカルに反復されることで、恐怖が蓄積されたり、時間的な経過が示されたり、映画的手法として上手くいった部分だと自分でも思います」

――静けさのなかで恐怖が蓄積し、最後にはこの作品で最も暴力的な場面が展開されますが、ここでも電話で応対した警官が極めて冷静沈着な声だったのが印象的でした。現実にもそうなのだろうと思いますが、映画としても抑制された素晴らしい効果を上げていたと思います。
「この作品の冒頭は、長いあいだの夫婦間の問題に裁判官が判決を下す場面で始まっています。この判決によって皮肉にも女性が危険にさらされることになるわけですが、その後、家庭内で陰湿に進行した暴力がラストで再び社会に開かれます。警官たちや隣人の存在は、家族の周囲に拡がっている社会の存在を現しており、その描写が冒頭とラストで呼応し合っているわけです。こうした構成的な配慮の他に、私はこの作品を血生臭い暴力描写では終わらせたくなかったという気持ちもありました。派手なクライマックスを描くことで、本来のテーマから観客の目をそらせてしまうと感じたからです。常に客観的な目、一歩下がった距離をおいた目でこの家族の状況を見つめることが重要だと考えました。そのことで、観客は単なるエンタテインメントだけではない、具体的な何かをこの作品から感じられるのではないかと期待したのです」

――きわめてミニマルな人間関係のなかで展開する作品ですが、物語に深く関わらない長女ジョゼフィーヌが妊娠検査をする場面が強く印象に残りました。
「とても重要な場面だと考えています。ジョゼフィーヌは成人に達しており、年の離れたジュリアンとは異なって彼女に親権が及ぼす影響は大きくありません。しかし、両親の関係や家庭環境は彼女にも同様に深く影を落とす。彼女のその後の人生に大きな影響を与えるのです。私が取材したところ、こうした環境で育った子どもたちはしばしばいくつかの選択肢を押しつけられることになる。男子の場合、自分もまた父親と同じように暴力的な夫になるか、あるいは暴力に過敏に反応することで、注意深く慎重な性格が醸成されていきます。女子の場合は、様々な手段を使ってできるだけ早く家庭から出ていこうとする。自分自身の家庭を築いたり、自立を急いだりするわけですね。この作品でも、彼女が自ら妻となり母親となることで、なんとか早く家庭から出ていこうとする姿が描かれています」

――ルグラン監督は、『ジュリアン』以前にほぼ同じキャストが同じ役名を演じる『すべてを失う前に』という短編を撮られていますね?
「映画で悲劇を描くにあたって、はじめ同じキャストによる三部作の短編を作ろうと考えていました。その一作目が完成した後、テーマを色々と考えるなかで、このあと短編を二つ作るよりも長編を一本作ったほうが形式として相応しいと考えたのです」

――俳優として活躍されているとはいえ、映画監督としていきなり長編を作るのに資金集めなどの苦労はありませんでしたか?
「私はとてもラッキーでした。短編を製作してくれたアレクサンドル・ガヴラスがこの『ジュリアン』でもプロデューサーを務めてくれたのですが、彼との出会いがなければこの作品を作ることは難しかったでしょう。私は映画学校を出ているわけではありませんし、この作品以前に長編映画の監督経験もありません。そんな私を信頼して財政面でもサポートしてくれる人がいたというのは、本当に恵まれた状況だったと思います」

――はじめての長編映画を作るにあたって、モデルにした映画作家などはいましたか?
「シナリオに関しては色んな映画を参考にしました。演出面では、私はミヒャエル・ハネケ監督やクリスティアン・ムンジウ監督の映画がとても好きなので、彼らから影響を受けていると思います」

――俳優として自作に出演したいという欲望はありませんでしたか?
「長編映画を監督するという経験が初めてのことで、私にとって非常に難しく、また大きな仕事でもありましたので、自分に役を与えることでそれをさらに複雑にしたくはありませんでした。舞台俳優として仕事をしているので、映画で役がもらえないというフラストレーションもなかったですし。また、この作品のなかに私が演じるべき必然性のある役が存在しなかったことも大きいですね」

――アントワーヌを演じたドゥニ・メノーシェが素晴らしかったですが、カメラの背後に立ちながらも、一人の俳優として彼に嫉妬を感じることはありませんでしたか?
「ドゥニは本当に素晴らしい俳優で、彼のような人が私の作品に出演してくれたことにとても大きな感謝と幸せを感じていました。だからジェラシーはなかったと思います。逆に、それを感じていたとしたら、ジュリアン役を演じてくれた子役のトーマス・ジオリアに対してだったかもしれませんね。私は10歳で俳優の仕事を始めましたが、彼がこの作品に出演したのと同じ年頃にあれほどの仕事ができたか考えてみると、これはちょっとジェラシーを感じざるを得ないです(笑)」

■私感 :
フランス映画の場合、私の映画鑑賞史上、抽象に過ぎて、いただけない映画も少なからず見受けられるが(例えば昨今では『バルバラ~セーヌの黒いバラ~』本ブログ〈December 06, 2018〉)、見応えのある説得力を帯びた良い作品も多い(例えば古くは『禁じられた遊び』本ブログ〈November 13, 2018〉、昨今では『おかえり、ブルゴーニュへ』本ブログ〈December 18, 2018〉、『オーケストラ・クラス』本ブログ〈January 24, 2019〉)。本作もまた、間違いなく後者の部類に入る。

この映画の邦題は『ジュリアン』、11歳になる家族の長男の名前である。対して、英題は“custody”、ずばり「親権」のこと。そして、原題は“jusqu'à la garde”。これは、もともと剣士や騎士の戦闘用語で、剣を敵の体に突き立て剣の鍔(つば)まで突き刺すことを言い表し、そこから「徹底的に」という意味で使用される。また“garde”自体に子供の親権という意味もある。したがって、本作が離婚した夫婦が激しく親権を争う物語である以上、そのoriginal titleこそ映画内容によくマッチした素敵なタイトルと言えよう。

フランスでは夫婦(両親)の離婚後も原則、共同親権や面会交流権が認められる。本作はまさしく、その制度の重みを逆説的な意味で考えさせられる映画というほかはない。家庭裁判所の判事が、なるべく父親と母親が均等に子供と接するような判断を下すとしても、しかし実際には、本作に見られる通り、判決内容次第で子供がとても危険な状況にさらされる場合がある―。

私は映画を観ながら終始、子、母、父、それぞれの痛みを感じつづけた。子、母、父といえども、生まれも育ちも複雑微妙に異なるがゆえに、それぞれが負う痛みも、これまた質的にも量的にも異なるものだろう。だから、私は個々の痛みを身につまされて共有できたと言えば、それはウソだろう…。しかし、それにしても、私は彼ら家族の現在と行く末に何か下腹部が引き絞られるような痛みをひしと感じ取ったことは確かだ。

ジュリアンは優しく、無垢な子供の心も生きている。しかし、不安と恐怖で歪んだ顔、そして眼差しの暗さが、私の頭から離れない。
私はまた、ジュリアンの姉ジョゼフィーヌに注目する。彼女がトイレで妊娠検査薬を使うシーン、また誕生日パーティーの終了後に恋人と共に「家出」するシーンが頭にこびりついて離れない。

そもそもドメスティック・バイオレンス(DV)とは、“自己不全感”から脆弱な自我を守るために、力を用いて家族をコントロールしようとするものであり、その責任を家族、特に配偶者の態度のせいだと思い込み、自己正当化に腐心することである。だから、虐待者が自己像を維持し、満足するために虐待が繰り返されるので、家族の中でも特に弱者である女子供が犠牲になってしまう―。
DVが振るわれる環境で育った男の子の発達には、二つの顕著な傾向があるといわれる。その暴力を再生産するか、あるいは暴力に対して常に身構えて、過度に警戒するかのどちらかである。ジュリアンは後者であり、警戒を怠らず、ささやかながら自分なりのやり方で母を父の魔の手から遠ざけようとする。
ジョゼフィーヌの方は、大人になるまで待つことを選ぶ。彼女も暴力的な環境で育った10代の少女に典型的な行動を取る。未熟にもかかわらず、自分の家庭を作るために家族から逃げ出し、誕生日の直後にボーイフレンドのサミュエルと一緒に家を出る。

ジュリアン&ジョゼフィーヌの母親であるミリアムは、強さと脆さを併せ持つが、地に足の着いた、感傷に浸ったりはしない女性だ。嵐を潜り抜け、前に進みながら人生を立て直さなければならないことを篤とわきまえている…。

そして、ジュリアン&ジョゼフィーヌの父で、ミリアムの夫であるアントワーヌ。私は本作初登場時~家庭裁判所での離婚調停/親権をめぐるオープニング・シーン~の彼を観たとき、妙に相半ばする思いが瞬間的に脳裏を過(よぎ)った。大柄な太り気味の体で威圧感があり、逞しそうな男だ…。何かDVでも振るいそうな粗暴で暗い感じの男だ…。
やがてアントワーヌの本性~病的な暴力性~が次第に露わになっていく。
彼は現実味のある人間としてミリアムと縒(よ)りを戻したいと願っている!しかし、幾度も敵意や嫉妬心を剥き出しにする言動は矛盾だらけで、誰にも理解されず孤立していく。仕事も辞め、家族からも嫌われていることで不満が高まる。自分の実家からも煙たがられ、家を追い出されたことで強い怒りが込み上げる。ジュリアンは母を守ろうと、自分の携帯から母の番号を消して、父が母に電話できないようにするが、こうした事が重なって彼の猜疑心はいや増す。そして、ついに恐怖に張りつめたドラマは戦慄のラストシーンに突入する。ジョゼフィーヌの誕生パーティーの夜、暴力的な父親は制御不能の途轍もない“理不尽な恐怖”と化し、集合住宅に暮らす母子のもとにひたひたと迫ってくる―。約15分にわたる戦慄のクライマックスの到来!

本作の俳優陣では、アントワーヌを演じたドゥニ・メノーシェ(Denis Ménochet、1976~)がひときわ目立つ演技巧者である。暴力を振るったり、他人を操ったりするという人間の暗部に真正面から取り組む、その体当たりの演技!内面の葛藤に囚われ、愛されようとしながら、否定の中で生きている不幸な男の内側に入り込む、その入魂の演技!メノーシェの粘度の高い巧演ぶりがあればこそ、私は知らず知らずのうちに作品の内側へ奥底へと引き込まれていくのだった―。
2019年1月29日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、18:30~鑑賞。

「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」

作品データ :
原題 牯嶺街少年殺人事件
英題 A Brighter Summer Day
製作年 1991年
製作国 台湾
配給 ヒーロー
上映時間 188分


A Brighter Summer Day

1961年6月に台湾で実際に起こった、14歳の中学生男子による同級生女子殺人事件をモチーフにした青春叙事詩。不良少年同士の抗争、エルヴィス・プレスリーに憧れる少年の夢、大陸に帰りたいと願う少年の親世代の焦りと不安を描きながら、戦後新たに生まれ変わろうとする当時の台湾の社会的・精神的背景を浮き彫りにしていく。『海辺の一日』『恐怖分子』など台湾ニューウェイヴ映画界の旗手として知られる楊徳昌(エドワード・ヤン、1947~2007)監督の長編第4作目であり、日本における彼の初の劇場公開作。第4回(91年)東京国際映画祭インターナショナル・コンペティション部門審査員特別賞、国際批評家連盟賞受賞。

日本では188分バージョンが1992年4月に、236分バージョン(完全版)が同年6月に、それぞれ劇場公開。ビデオリリースは236分版のみで、98年3月のリバイバル上映(配給:シネカノン)では188分版が上映された。高い評価を受けながらも、日本での興行は惨敗!その上、配給とソフト発売元となったヒーロー・コミュニケーションズの95年の倒産により、一時は上映や再ソフト化が困難と言われていた。だが、マーティン・スコセッシが設立したフィルム・ファウンデーションのワールド・シネマ・プロジェクトと米国のクライテリオン社の共同で、オリジナル・ネガ(完全版)より4Kレストア・デジタルリマスター版が製作され、2016年にはクライテリオン社よりブルーレイとDVDが発売された。そして、エドワード・ヤンの生誕70年、没後10年となる2017年3月11日に、日本では約25年ぶりに「4Kレストア・デジタルリマスター、236分版」の劇場公開が実現(配給:ビターズ・エンド)。それに先立って2016年10月25日から開催された第29回東京国際映画祭ワールド・フォーカス部門でプレミア上映された。

ストーリー :
1949年、中国大陸での国共内戦に敗れた国民党政府は台湾に渡り、それに伴って約200万人が台湾へと移住した。1960年、そのように移住した張家の次男・小四(シャオスー)(張震=チャン・チェン)は、建国高校昼間部の受験に失敗して中学の夜間部に通っており、“小公園”と呼ばれる不良少年グループに属する王茂(ワンマオ)、飛機(フェイジー)、滑頭(ホアトウ)らと同級生だった。小四はある日、怪我をした小明(シャオミン)(楊静恰=リサ・ヤン)という少女と保健室で知り合う。彼女は小公園グループのボス、ハニーの彼女という噂だ。ハニーは対立する“217”グループのボスと小明を奪い合い、相手を殺して台南へ逃げたという。ある時、小四は小明と一緒にいたと217グループに因縁をつけられるが、最近小四のクラスに転校してきた軍の指令官の息子・小馬(シャオマー)がひとりで助けてくれた。小四は小明へのほのかな愛情や、小馬との友情を育んで日々を過ごしていく。小四の兄・老二(ラオアー)は優等生だが、たちの悪い友人“葉っぱ”と一緒に217グループのたまり場のビリヤード店に出入りするようになっていた。葉っぱはコンサートを開いて一儲けしようと企んでいたが、ビリヤードで負けがこみ217グループの現ボス、山東(シャンドン)に脅され、彼を、中山堂を管理する父親の権力を笠に着た滑頭に引き合わせることになる。山東は歌に夢中になっているハニーの弟・二條(アーティアオ)を出し抜き、滑頭に小公園グループをまとめさせ、さらに自分がそれを牛耳ろうという腹づもりでいた。そんな頃、ハニーが帰ってくる。50年代のアメリカン・ポップスに沸き立つコンサート当日の会場に彼はやって来て山東と和解しようとするが、山東は走り来るトラックの前にハニーを突き飛ばして殺してしまう。小明はショックで寝込み、小四は台湾人ヤクザとともにハニーの仕返しに行く。山東は殺された。その晩帰宅すると、小四の父は共産党との関係を問われ秘密警察に呼び出されていた。ある日、小四は小明とのつきあいを注意されてかっとなって反抗し、退学になる。彼は昼間部への編入試験を目指して勉強するが、滑頭から小明と小馬の仲を告げられる。小明は失業中の母をお手伝いに雇ってもらい、小馬の家に住み込んでいた。下校時の小馬を脅そうとして小四は学校へ行くが、小明に会い、話しているうちに自分でも分からぬまま小明を刺し殺してしまう…。

▼予告編



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