
作品データ :
原題 HHhH
[The title is an initialism for Himmlers Hirn heißt Heydrich(“Himmler's brain is called Heydrich”). ハイドリヒは鋭利な頭脳と指導力で、上官ヒムラーの意向を汲みとりつつ、自らの意向を次々と実行に移していった…。このことが要因で、ヒムラーはヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring、1893~1946/10/15)から「4つのH」(Himmlers Hirn heißt Heydrich)と嘲られてしまったという。]
英題 The Man with the Iron Heart
製作年 2017年
製作国 フランス/イギリス/ベルギー
配給 アスミック・エース
上映時間 120分
ナチス幹部ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich、1904~1942/06/04)の暗殺計画“エンスラポイド作戦”を描いたローラン・ビネ(Laurent Binet、1972~)の世界的ベストセラー歴史小説“HHhH”(2010)(高橋啓訳『HHhH ―プラハ、1942年』東京創元社、2013年)を映画化した戦争サスペンス。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889~1945/04/30)、ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler、1900~1945/05/23)に次ぐ実力者として第三帝国の高官で最も恐れられたハイドリヒ台頭の道のりと、英国政府とチェコスロヴァキア亡命政府によって立案・実行された「エンスラポイド作戦」の行方をスリリングに描き出す。ハイドリヒを『猿の惑星:新世紀(ライジング)』のジェイソン・クラークが演じ、ロザムンド・パイク、ジャック・オコンネル、ジャック・レイナー、ミア・ワシコウスカらが顔を揃える。監督は『フレンチ・コネクション 史上最強の麻薬戦争』(2014年・第27回東京国際映画祭コンペティション部門上映作品、劇場未公開)のセドリック・ヒメネス。
ストーリー :
1930年9月、ヒトラー率いるナチ党は世界恐慌以降のドイツ国民の社会不安を背景に支持を拡大させ、大躍進していた。海軍士官学校を経てキールのバルト海海軍基地に通信将校として勤務していたラインハルト・ハイドリヒ(ジェイソン・クラーク)は、社交場で出会った貴族階級のリナ・フォン・オステン(ロザムンド・パイク)との婚約を決意する。しかし、女性関係が奔放だったため、ある娘の父親で海軍上層部にコネがある男から訴えられ、不名誉除隊となった。自分の拠り所である軍籍をもぎ取られ、怒りに震えるハイドリヒだったが、ナチ党信奉者である婚約者リナに励まされ、ナチ党親衛隊(SS)指導者ハインリヒ・ヒムラー(スティーヴン・グレアム)との面接の機会を得る。ヒムラーはハイドリヒの優秀さに感銘を受け、その採用を即決し、SS「情報部」の組織の立ち上げを一任した。
ナチ党に入党したハイドリヒは、出世欲にも駆り立てられて、ナチ運動に没頭していく。彼は共産主義者などの政敵を撲滅するため、ドイツ全土にSS保安部(SD)の情報網を築き、徹底した諜報活動で頭角を現わす。1933年1月30日のヒトラー政権成立後は、ゲシュタポ(秘密国家警察)を始めとする警察も手中に収め、まもなく警察機構とSDを国家保安本部(RSHA)に統合する。ハイドリヒは今やRSHA長官として強大な政治警察・諜報組織を束ね、名実ともにヒムラーに次ぐSS・警察の実力者となった。彼の場合、その任務はもともとナチズムの“敵”を撲滅することにあったが、ヒトラーやヒムラーの政治目標を実現する上で、必要とあらばその刃を体制内部に向けることもためらわなかった。有能だが危険な男として、いつしかナチ指導部でも一目置かれる存在となったハイドリヒ。やがて彼は、最終的に600万人を超えることになる<ユダヤ人大量虐殺>の首謀者として、また保護領(チェコ)の副総督(事実上の総督)として、誰も止めることのできない絶大な権力を手にしていく。
ナチスがヨーロッパのほぼ全土に占拠地域を広げるなか、ハイドリヒはチェコの統治を開始。情け容赦のない采配で、反体制勢力に対する弾圧や公開処刑を頻繁に行い、大勢の一般市民までもが犠牲となった。一方、ハイドリヒの統治に危機感を募らせた英政府とチェコスロヴァキア駐英亡命政府は、ハイドリヒ暗殺計画(コードネーム「エンスラポイド〈類人猿〉作戦」)を立案し、暗殺計画の実行者として、亡命チェコスロヴァキア軍人からヤン・クビシュ(ジャック・オコンネル)、ヨゼフ・ガブチーク(ジャック・レイナー)を含む数名の若者を選抜する。パラシュートでチェコ領内に送り込まれたヤンとヨゼフは、チェコ国内に潜伏するレジスタンスらの協力を得て、ハイドリヒの行動や習慣を徹底的にマークし、襲撃の機会を窺(うかが)う。任務の間に、ヤンは協力者の女性アンナ・ノヴァーク(ミア・ワシコウスカ)と出会い、激しい恋に落ちる。1942年5月27日、ついに決行の朝を迎えた…。無謀ともいえる暗殺計画は危うくも成功するが、ハイドリヒ暗殺に激怒したナチスは容赦のない報復に乗り出す。複数の村を消滅させ、男性は処刑、女性と子供は強制収容所に送る徹底ぶりだった。ヤンとヨゼフはプラハの中心部にある「聖キリル&聖メトディオス正教会」の地下室に匿(かくま)われるも、親衛隊が暗殺部隊の支援者を拷問にかけたことで、居場所を突き止められてしまう…。
▼予告編
▼ 5分の冒頭映像 :
▼メイキング映像 :
■私感 :
ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件~「エンスラポイド作戦」~は、これまでにも幾度か映画化されている。私自身は既に2本、『暁の7人』(1975年)と『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦』(2016年)を、それぞれ日本公開直後の1976年6月、2017年8月に鑑賞した(cf. 本ブログ〈September 03, 2017〉)。ただし残念ながら、戦時中に作られた反ナチ映画の金字塔となる『死刑執行人もまた死す』(原題:Hangmen Also Die!、フリッツ・ラング監督、1943年、日本初公開:1987年12月19日)については、現在に至るも(視聴可能なDVDも含めて)未見のままだ。
本作『ナチス第三の男』がこれまでの類似作品と大きく異なるのは、1942年のプラハにおける“ハイドリヒ暗殺事件”それ自体に限定することなく、ナチ・ドイツにおける犯罪的な数々の暴虐行為を指揮した人物として知られるハイドリヒを物語の“主人公”に据えていることである。
冒頭に、プラハの市街で、メルセデス・ベンツに乗ったハイドリヒがレジスタンス闘士に襲撃される瞬間が置かれ、一挙に時間を遡行して、ドラマ〈前半〉ではハイドリヒが女性関係の不始末から海軍を除隊させられる若き日の挫折から、ナチ党の反ユダヤ主義者である貴族出身のリナを妻に娶り、権力の座を手中に収めるまでの軌跡が描かれる。そして、ハイドリヒが権力の絶頂を極めた頃に、再びハイドリヒ襲撃の瞬間が挟まれ、そこからまた時間を遡(さかのぼ)ってドラマ〈後半〉でレジスタンス側⇒チェコ人のヤン・クビシュとスロヴァキア人のヨゼフ・ガブチークという二人の青年の物語が始動する。以降は3度目の(本格的な)ハイドリヒ襲撃シーンを経て、ハイドリヒ暗殺後のナチス側によるレジスタンス・グループに対する徹底的な追及ぶりが描かれる。
本作における最大の問題点は、1本の映画の中に基本的に二つの異なる作品~主として〈前半〉がナチス側のハイドリヒの物語/〈後半〉がレジスタンス側のヤンとヨゼフの物語~が混在していることである。ハイドリヒ襲撃の瞬間的シーンを繰り返し設定したところで、それはしょせん唐突な話題転換の謗(そし)りを免れるものではない。
なるほど、それはローラン・ビネの原作『HHhH』における“メタ・ノンフィクション・ノベル”という実験的手法に影響されたセドリック・ヒメネス監督(Cedric Jimenez、1976~)による、ハイドリヒ暗殺という“決定的瞬間”の歴史的な意味を“多層的な”視点でとらえ返そうとするユニークな語り口なのかもしれない…。
しかし、はっきりしている点は、本作が〈前半〉と〈後半〉とで、話が割れてしまい、映画全体の系統的・構造的な理解を不可能にする構成になっていること。これは基本的に脚本がしっかり練れていない問題であり、したがって〈前半〉と〈後半〉の描き方それぞれに物語内容として物足りなさが残る。
私はかねてから、第二次大戦中に殺害された唯一のナチ最高幹部ハイドリヒに強い関心を持っていた。特に、この希代の冷血漢がどのように「誕生」し「成長」していったかの、その形成過程に関心が集中した。では、本作は果たして、ハイドリヒというキャラクターを“一人の人間”として十分掘り下げるにいたっただろうか。
本作のヒメネス監督は、パンフ『ナチス第三の男/THE MAN WITH ThE IRON HEART』(発行日:2019年1月25日、発行所:東宝映像事業部、編集:東宝ステラ)のなかで、こう述べている。「どうしてあんなことが起こったのか?どうしてあれほど狂気じみていたのか?どうして人はイデオロギーや信念のためにあれほど間違うことができるのか?私たちは第二次世界大戦を悪夢のように考えていますが、実際に悪夢でした。誰もがこれらの問いに答えたいと願いながら、誰にも答えることができない永遠の命題なのです」
そして続けて、ヒメネスはハイドリヒが“怪物”~ヒトラーさえもが恐れたナチスで最も危険な男~へと変貌した主要な要因として、根っからの兵士だった彼ハイドリヒが1931年にドイツ海軍を追放された事態を指摘している。「彼は、ナチ運動のなかに自分の怒りのはけ口を見つけたのです。彼は怪物になる予定ではなかった。もし、兵士のままでいられたなら、もし軍隊をクビになっていなかったなら、彼は怪物になっていなかったでしょう」
ハイドリヒは海軍将校時代の1931年4月30日に、(リナとの婚約期間中)ある女性との交際もつれから軍法会議にかけられ、軍籍を剥奪されてしまい、その直後の6月1日にナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党〈略称:NSDAP〉)に入党した(党員番号544916)―。
ヒメネス監督はまた、こうも語っている。「リナが怪物となるハイドリヒの道を開きました。彼女はナチ党を信奉し、政治も勉強していたのです」(映画.com-2018年12月18日)
ハイドリヒは赴任地のキールで知り合った没落貴族の娘リナ・フォン・オステン(Lina von Osten、1911~85)と1930年12月24日に婚約し、翌年12月24日に結婚した。
リナの一家は以前から国粋主義的で強い反ユダヤ主義の家風で、リナもリナの兄ユルゲンもナチ党の党員であった。ハイドリヒは彼らを通して初めて本格的にナチズムに触れる。
リナ役を演じたイギリスの女優ロザムンド・パイクは、本作に興味を持った理由として、「リサの中に強さを見つけたからだ」と言い、こう強調している。「彼女が夫を出世させた立役者だということ…。ラインハルト・ハイドリヒは、リナ・フォン・オステンなしには、あんな人間には決してならなかったはずです。おそらく彼女は自分で権力を得たかった。でも当時の女性にとってそれは不可能なことでした。ある意味、自分の夫を通してそう生きるしかなかったのです。彼女はハイドリヒの心をつかみ、彼のなかに自分が操ることのできる何かを感じ取った。そして彼を、ある意味、操り人形にしたのです」(前掲パンフ)
私は思う。ハイドリヒは最初から「ハイドリヒ」だったのではなく、ファッショ化過程が進行する状況下、特に彼が26歳で出会った尊大で権力欲があったリナ、そして27歳で海軍追放→ナチ党入党後に出会った、ヒトラーにその忠実ぶりから「忠臣ハインリヒ」と呼ばれたハインリヒ・ヒムラー、この二人と共に歩むなかで、冷酷の化身たる「ハイドリヒ」へと「成長」し、増殖的に肥大化していった、と※。
※本作はハイドリヒが自宅でパーティーを開催するシーンを収め、子供をあやすハイドリヒと、ヒムラーに声をかけられリラックスするリナ(ロザムンド・パイク)の姿を映し出している。ヒムラーは「誇らしいだろ?君がハイドリヒを正しく党に導いた。出世するぞ」とリナに声をかけると、「夫は特別です」と答える。さらに、ヒムラーから「実に特別だ。ヒトラー総統が付けたあだ名を?“鉄の心臓を持つ男(the man with the iron heart)”」と教えられたリナは、驚きの表情から誇らしげな表情に変わっていく―。
とはいえ、私は本作の次のようなシーンを観るにつけ、改めて考え込むのだ。
ハイドリヒは自ら運営する娼館「サロン・キティ」※に盗聴器を仕掛け、セックス・スキャンダルをネタに上官たちを次々に恫喝し、屈服させていく…。また、彼はあえてキャメラマンを随行させて、自らの数々のヒロイックな言動や残虐行為を撮影させている…。
権力への飽くなき誇大妄想に取り憑かれて、卑劣極まりない手段で抜け目なくナチス内部の権力闘争で覇者となっていくハイドリヒ。その自己顕示欲と自己陶酔癖の異常ぶりが際立つ!
※サロン・キティ(Salon Kitty)は、1930年代から1940年代にかけてドイツの首都ベルリンにあった高級娼館。1939年から1942年にかけての時期は、SD(SSの情報機関)が経営を乗っ取り、諜報目的で運営していた。諜報用の娼館というアイデア自体は、ハイドリヒによるものだが、実行に移したのはその部下のヴァルター・シェレンベルク(Walter Schellenberg、1910~52)**だった。ハイドリヒやシェレンベルクは、ドイツ各界の要人たちや各国外交官らを酒と女性でもてなし、枕元で女性に対してナチ党や政府への率直な意見や不満、自国の内密の情報などを打ち明けるのをひそかに傍受して、不満分子を摘発したり機密情報を得たりするのに最大限活用しようとした。サロン・キティには盗聴器が大量に仕掛けられ、要人を招待してベットの中から情報が収集された。ここでエージェントとして働く女性たちは、ベルリンの「風紀警察(Sittenpolizei)」が逮捕した多数の娼婦の中から選出された、頭がよい、多国語を理解する、思想的にナチス寄りな20人で、各種の軍服の見分け方や、他愛のない会話から機密を収集する方法などを理解できるよう、7週間にわたり厳しい思想教育や訓練を受けた者たちだった。ハイドリヒ自身もこの娼館をしばしば利用していたが、その際には盗聴器をすべて切らせていたといわれる。
** SD対外局長ヴァルター・シェレンベルクはドイツ敗戦後、「ニュルンベルク継続裁判」(1946年12月9日~49年4月13日)にかけられ、49年に6年の禁固刑を宣告された。彼の回想録“Das Labyrinth”(1956)(大久保和郎訳『秘密機関長の手記』角川書店、1960年)には、上官のラインハルト・ハイドリヒに関する次のような一文が書き記されている。
「ハイドリヒはいつも机の向こう側に座っていた。長身で額が広く、長くて立派な鷲鼻の両脇に小さな目がやけにくっついて並んでおり、動物のように狡猾で鋭い光を放っていた。その指はクモのように長かった。冷酷な精気と極度な権力への渇望とが入り混じったような邪悪な雰囲気がにじみ出ていた。立派な体格は腰幅の広さで台無しになっていた。ひどく女性的であり、それがより彼を悪党らしくみせていた。大男である割には声が高く、話し方は神経質で、ぽつりぽつりと断続的であった」/「この男が隠れた軸となり、それを中心にナチ体制がまわっていた。国家の発展は間接的に彼の強力な個性に導かれていた。彼は他の政治家と比べてもはるかに優秀で巨大なSDを支配するのと同じ要領で他の政治家たちを支配していた。ことのほか野心的な男だった。獰猛な狼の群れの中にいるようにいつも自分が一番のリーダーでなければ気が済まないようだった。何事においても一番で手段は問わず最高でなければならなかった。だましたり、裏切ったり、暴力を使うこともいとわなかった。良心の咎めを感じることなどなく、氷のように冷たい知性の助けを借りて極端に残酷なやり方で不正行為をしていた」
ラインハルト・ハイドリヒという神経質で野心的な、希代の冷血漢は、精神病理学の対象となるべき人物なのか…。いずれにせよ、ハイドリヒ像を縁取るに際して大事な点は、彼の人間としての決定的な“弱さ”を明らかにすることであり、そのためには少なくともリナという女性ファシストと知り合う以前の彼を精密に浮き彫りにする必要がある。本作では、彼がクラシック音楽の愛好家で、自身も才能あるバイオリニスト、そしてフェンシングの名手といったエピソードが披露されてはいる。しかし、ここで問われるべきは、彼が1922年に18歳でドイツ海軍に入隊する以前の、その幼少年時代の育ち方・過ごし方~特に父Richard Bruno Heydrich(1865~1938)/母Elisabeth Anna Maria Amalia Heydrich(?~died 1946) との関係の結び方~の何たるかについてである―。
同上パンフに、ヒメネス監督の次のような言葉が載っている。
「本作の脚本のユニークな構成〔物語の二分:ハイドリヒの物語/ヤンとヨゼフの物語〕が、これら3人のメインキャラクター〔ハイドリヒ/ヤンとヨゼフ〕の足跡に深く入り込むことを可能にしてくれました。さらに、それによって、この決定的瞬間〔ハイドリヒ暗殺〕を万華鏡のように映し出し、史劇というジャンルに独創性と現代性を加味することができました。…私は、観客にこの物語に夢中で没頭して欲しいと願っています。そうすれば、当時の人々が感じたのと同じ緊迫感や強い信念を感じ取ってもらうことができると思うからです。この物語が起こっている時代をより鮮明に、生き生きと描くため、撮影には35ミリフィルムを使用しました」/「観客が1942年を再現した映画を見るのではなく、1942年にいるかのように感じてもらいたかったのです。あの時代の人々が感じているのと同じ気持ちを感じてもらいたいと思いました」(〔 〕内引用者)
なるほど、歴史を描く本作の物語に没入し歴史的な現場感覚をつかむよう観客に切願するヒメネスの気持ちはよく分かる。しかし、問題は当の映画自体がそのように観客が完全に浸り込めるような作品に仕上がっているのかどうかだ。
私にとって本作〈前半〉の、第三帝国におけるハイドリヒ台頭の物語は、前述の通りハイドリヒの描き方にどこか引っ掛かるものがあったものの、リサに扮したロザムンド・パイク※の魅惑的な巧演・好演もあって、総じてそれなりに興味と関心を呼び起こすものであった。
※ロザムンド・パイク(Rosamund Pike、1979~)は、私の好きなタイプの女優である。私がこれまでに鑑賞した彼女の出演作は、『007 ダイ・アナザー・デイ』(2002年)→『リバティーン』(2004年)→『プライドと偏見』(2005年)→『サロゲート』(2009年)→『17歳の肖像』(2009年)→『タイタンの逆襲』(2012年)→『アウトロー』(2012年)→『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』(2013年)→『ゴーン・ガール』(2014年)。この9作品中、格別に印象的だったのが、パイクが第87回アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた『ゴーン・ガール』(原題:GONE GIRL、デヴィッド・フィンチャー監督)。鬼才デヴィッド・フィンチャー監督がギリアン・フリン(Gillian Flynn、1971~)の同名ベストセラー小説をベースに、一見幸せそうに見える、現代の理想の夫婦の実情を暴き出すサイコロジカル・スリラー。結婚5周年に突如姿を消した妻エイミーを捜す夫ニックが警察の捜査やメディア報道に追い込まれ、さらにエイミー殺害の疑いを掛けられてしまう物語…。ここでベン・アフレック演じる夫ニックを追い詰めていく妻エイミーを好演したパイクの妖艶さに、私はすっかり魅せられました!以降、大人の男女関係を知る私としては、女の匂いをたっぷり身につけたロザムンド・パイクのファンの一人となった次第。
では、本作〈後半〉の、ヤンとヨゼフの正義感に裏打ちされた犠牲的行動の物語は、どのように展開されたか。驚くべきことに、それは、私が約2年前に観た『ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦』の“コピー短縮版”ないし“ダイジェスト版”にほかならなかった。
『ハイドリヒを撃て!』は壮絶な事件の顛末を、綿密なリサーチとオールプラハロケで映画化した極上の戦争サスペンス。これとの比較を否応なしに余儀なくされた私から見て、本作〈後半〉が、すべて内容が中途半端で密度が薄い映像世界に成り果てたのは理の当然。そこでは、ヤンやヨゼフを始めとするレジスタンスの面々のキャラクター造形がいかにも浅く、具体的な人物像の描き込みがお粗末そのものだった。
ヒメネス監督は同上パンフにおいて、こう高唱している。「さらに(ハイドリヒの物語に加えて―引用者註)物語は、レジスタンスの思想を反映し、不可能な任務に乗り出す若きチェコスロバキア人グループの勇気ある行動も描きます。この壮大な物語のヒーローであるヤン・クビシュとヨゼフ・ガブチークは、自分たちの任務がどれほど危険で、自らの命さえ犠牲にしなければならないことを知っていました。それでもなお、彼らは歴史に残ることを成し遂げるには、彼ら自身の大きな勇気が必要であることを理解し、自分たちの信念を貫いたのです。そして、決して理想を諦めることなく、自分たちの利益よりも公共の利益のために立ち上がりました。ヤンとヨゼフは、野蛮な行為を受け入れることを拒絶する、愛国心に満ちた才気煥発な若者です」
私は一応、この監督の主観的な思い・意図を壮とする―。しかし、未来ある若者たちが自分の信念のために命懸けで抵抗した勇姿~普通の人間として個人の幸福を追求することへの葛藤を抱えながらも大義に殉じることを選び取った雄姿~が、『ハイドリヒを撃て!』では儚(はかな)く切なく如実に描破されてはいても、本作の場合はサラッとその上澄みを掬い取る程度の内容だった。
キャスト陣について言えば、本作でヨゼフを演じたジャック・レイナー(Jack Reynor、1992~)、ヤンを演じたジャック・オコンネル(Jack O'Connell、1990~)、二人とも私には、ややもすると、どこか稚気の漂うヤンチャ坊主に毛の生えたような若者に見え、いかにも頼りない彼らが “ナチスの野獣”ハイドリヒの暗殺作戦を実行するなどとはとんだ茶番、ホントかね!?と思えてならぬ始末。こんな状態下、私は本作鑑賞中、ヨゼフ⇒レイナー/ヤン⇒オコンネルへの感情移入が思うに任せず、彼らの体現した“社会的正義”の真髄に触れる域には程遠いものがあった。
対して、『ハイドリヒを撃て!』ではキリアン・マーフィー(Cillian Murphy、1976~)とジェイミー・ドーナン(Jamie Dornan、1982~)が、それぞれヨゼフ役、ヤン役を、きちんと積極的にこなしていた。彼らは存在感の滲(にじ)み出る、迫真力に満ちた演技で、善をなし正しいことをしようとする人間の基本的な本能に突き動かされた青年の友情と葛藤、痛切な運命を瑞々しく鮮烈に表現している。私は彼らのその個性的な体当たりの演技を通して、自分の同胞に降りかかる苦難を黙視できず、怪物・ハイドリヒの狂気の暴走を止めるために払わねばならなかった大いなる犠牲のありよう~したがって、その根底に横たわる崇高な魂の叫び~を、まざまざと感じ取るにいたった―。










