映画『ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2017年8月29日(火)新宿武蔵野館(東京都新宿区新宿3-27-10 武蔵野ビル3F、JR新宿駅中央東口から徒歩2分)で、15:20~鑑賞。

作品データ
原題 Anthropoid
製作年 2016年
製作国 チェコ イギリス フランス
配給 アンプラグド
上映時間 120分


「ハイドリヒを撃て!」

第2次世界大戦の史実を基に、ナチス親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒの暗殺計画「エンスラポイド作戦」を映画化した実録戦争サスペンス。ナチス占領下のチェコ(「ベーメン・メーレン保護領」)を舞台に、ハイドリヒ暗殺という過酷な任務に挑む二人の若者の悲壮な決意とその顛末を緊迫感あふれる筆致で描き出す。主演は『麦の穂をゆらす風』『インセプション』のキリアン・マーフィと『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のジェイミー・ドーナン。監督は『フローズン・タイム』『メトロマニラ 世界で最も危険な街』のショーン・エリス。2017年チェコ・アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞など14部門にノミネートされた話題作。

ストーリー
第二次世界大戦中期、ナチスが占拠地域をヨーロッパのほぼ全土に広げていた頃。イギリス政府とロンドンに亡命しているチェコスロヴァキア政府とが協力して極秘計画を練る。1941年の冬、ロンドンからパラシュートを使ってチェコ領内に送り込んだのは、二人の特殊工作員(在英の亡命チェコスロヴァキア軍人)、ヨゼフ・ガプチーク(キリアン・マーフィ)とヤン・クビシュ(ジェイミー・ドーナン)。
当時、チェコの統治者でホロコースト計画を推し進めていたのが、ヒトラー、ヒムラーに次ぐナチスNo.3と言われ、その冷酷さから「金髪の野獣」「死刑執行人」と呼ばれたラインハルト・ハイドリヒ
ヨゼフとヤンはハイドリヒという大物中の大物を暗殺の標的にする“密命”を帯び、プラハのレジスタンス(抵抗運動)メンバーと接触する。二人を匿う彼ら抵抗者の中には、残酷な報復を恐れて暗殺に反対する者も少なくなかった。
抵抗組織インドラの幹部・ヴァネック(マルチン・ドロチンスキー)は「奴を殺せばヒトラーはこの街を潰す。家族や知人は皆殺しにされるぞ」と反発するが、ヨゼフは「愛国者なら国のために命を落とす覚悟が必要だ」と反論する。
それでも結局、ヨゼフとヤンは彼ら~特に女性レジスタンス~の協力を得、他の工作員仲間とも合流し、ハイドリヒの行動を徹底的にマークして狙撃する機会をうかがう。任務の過程で芽生えた愛する女性との幸せな生活を夢に見ながらも、祖国の未来と平和のために、自らを犠牲にして巨大な敵と戦うことを誓う。
1942年5月27日、ついに作戦が決行される。ハイドリヒの専用車(メルセデス・ベンツのオープンカー)がいつもの通勤経路の一角に現われた。ヨゼフが車の前に立ちふさがるが、短機関銃(ステンガン)が故障し発射できないというアクシデントに見舞われる。ハイドリヒは銃を取り出しヨゼフを撃とうとするが、ヤンが手榴弾を投げつけ、車は大破、爆発によってハイドリヒは重傷を負う。街は銃撃戦となり騒然とする中、ヨゼフらは散り散りに現場から逃走した。
チェコ全土に戒厳令が敷かれた。プラハの街は完全に封鎖され、ナチスの親衛隊が今まさに大勢の市民に銃を向けて容赦ない報復を始めるのであった…。

▼予告編



インタビュー映像 ― キリアン・マーフィ(Cillian Murphy、1976~)、ジェイミー・ドーナン(Jamie Dornan、1982~)ほか :



打ち上げ花火 ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件、通称「エンスラポイド作戦」とは何か―
第二次世界大戦中、最も凄惨な史実の一つと言われるハイドリヒ暗殺事件。しかし、ハイドリヒ暗殺は事件としては有名でも、その詳細は全てが秘密裏に行なわれたため不明な点が多い―。

右上矢印エンスラポイド作戦(Operation Anthropoid、類人猿作戦)」とは、
第二次大戦中、大英帝国政府とチェコスロヴァキア在英亡命政府により計画された、ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。

右上矢印ベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラヴィア保護領〈Protectorate of Bohemia and Moravia〉、独語:Reichsprotektorat Böhmen und Mähren)」とは、
ナチス・ドイツが1939年3月に、チェコ[ボヘミア(ラテン語: Bohemia、ドイツ語: Böhmen、ベーメン)+モラヴィア(英語: Moravia、ドイツ語: Mähren、メーレン)]の地に設立した“保護領”のこと。

右上矢印ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich、1904/03/07~1942/06/04)のチェコ統治:
1941年9月27日、ハイドリヒはアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889~1945)によりベーメン・メーレン保護領の副総督に任命された。 ベーメンはルール地方と並ぶナチス・ドイツ最大の軍需工業地として、ドイツ軍の戦車の三分の一、軽機関銃の40%を生産していた。 ところが、当時の総督コンスタンティン・フォン・ノイラート(Konstantin von Neurath、1873~1956)がチェコ人に宥和的に過ぎ、ストライキや抵抗運動が多発したため、同地の兵器生産力が20%近く低下する。業を煮やしたヒトラーは、国家保安本部(RSHA)の長官として政治警察を配下に置き手腕を発揮していたハイドリヒを同地に送り込んだ。ノイラートはヒトラーに総督職の辞任を申し出たが、却下され、形式的に総督に残留のまま休職処分となった。
ヒトラーの期待通り、ハイドリヒは卓抜した「行政」手腕を発揮した。彼はプラハに着任すると同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、即決裁判所を設置させ、反体制派の指導者層(中産階級のインテリ層)を次々と逮捕して死刑に処した。チェコ首相アロイス・エリアーシ(Alois Eliáš、1890~1942)~表向きは親独ながら、裏では反ナチの地下組織と接触し抵抗運動を扇動~も逮捕されて死刑判決を受けた(エリアーシはハイドリヒ暗殺後の1942年6月19日にヒトラーの命令によって処刑された)。繰り返される逮捕と処刑から、やがてハイドリヒは「プラハの虐殺者」の異名をとるようになった。

右上矢印英国・チェコスロヴァキア亡命政府の危機感
1941年12月までに、ヒトラー率いるナチス・ドイツは、ヨーロッパのほぼ全土を制圧していた。このころ独ソ戦(1941~45)でドイツ軍はソビエト連邦の首都モスクワに迫っており(1941年10月)、連合国は同国の降伏は時間の問題と考えていた。当時、「ベーメン・メーレン保護領」のベーメン地方は、ナチス・ドイツ有数の重要な軍需産業地だった。ハイドリヒにベーメン・メーレン保護領統治を成功されて軍需生産を活性化されることは、ウィンストン・チャーチル首相(Winston Churchill、1874~1965)率いる大英帝国はじめ連合国にとって極めて危険なことであった。
また、エドヴァルド・ベネシュ大統領(Edvard Beneš、1884~1948)率いる在英チェコスロヴァキア亡命政府は、1939年3月から始まったドイツ占領以来、ベーメン・メーレン保護領で目に見える抵抗がほとんどなかったことに対し、イギリス情報部からの圧力を受けていた。亡命政府はチェコの人々に希望を与え、チェコスロヴァキアが連合国側であることを示す何らかの行動を起こす必要に迫られていた。
やがて“エンスラポイド作戦”が計画・立案される。そして、チェコスロヴァキア亡命軍から選抜され、英国特殊作戦執行部(SOE)から暗殺作戦に必要な特殊訓練を受けた二人の工作員(エージェント)、ヨゼフ・ガブチークJozef Gabčík、1912~42)とヤン・クビシュJan Kubiš、1913~42)は、1941年12月28日、英空軍のハリファックス(Halifax)爆撃機から故国のプラハ郊外にパラシュートで降下する。当のイギリス軍機には、「エンスラポイド」グループのガブチークとクビシュのほかに、≪Operation Silver A and B:to re-establish communications between UK(英国)and Protectorate(チェコ)≫に参画する亡命チェコスロヴァキア軍人の「シルバー」グループ5人が同乗しており、結局計7人の空挺兵(paratrooper)⇒エージェントがチェコに降り立った(「Silver A」3人:Alfréd Bartoš、Josef Valčík、Jiří Potůček、「Silver B」2人:Jan Zemek、Vladimír Škácha)。
ヒトラーの後継者と目されたラインハルト・ハイドリヒは、「第三帝国」における最も重要かつ危険な人物の一人である。その彼を死に追いやれば、それはナチス・ドイツにとって大きな損失であり、チェコスロヴァキア⇒連合国にとって軍事的な影響はないとしても政治的・心理的な面での大勝利となるだろう…。英国政府⇔チェコスロバキア亡命政府は、双方の思惑が一致し、エンスラポイド作戦にひた走っていった。

右上矢印エンスラポイド作戦の結果―暗殺の代償
ハイドリヒは1942年5月27日に襲撃を受け、重傷を負い、プラハ市内の病院へ担ぎ込まれたが、およそ一週間後の6月4日に死亡した。
ドクロハイドリヒの遺体は棺に納められてベルリンへと搬送され、6月9日にベルリンでヒトラー出席のもと荘厳な葬儀が行なわれた。棺はナチの鉤十字の旗で包まれ、親衛隊員たちにより厳重に守られていた。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団がワーグナーの「神々の黄昏」から葬送行進曲を演奏した。この葬儀の中で、ヒトラーは「ここに死せる男に捧げるべき言葉を、私は僅かしか知らぬ。最も優れた国家社会主義者、ドイツ国家の思念のもっとも強力なる擁護者、国家のあらゆる敵に対する最も手ごわい対抗者、彼はそのすべてに数えられた。そして国家の維持と安定のために殉教者として倒れたのだ」と演説している。棺は親衛隊員による大行進とともに運ばれ、総統官邸や国家保安本部を通って軍人墓地(インヴァリデン墓地)まで運ばれ、そこで葬られた。ナチ党の最高勲章である「ドイツ勲章(Deutscher Orden)」と「1923年11月9日記念メダル」(「血の勲章(Blutorden)」)が追贈されている。
ドクロヒトラーは怒り狂い、報復に次ぐ報復を行なった。SS(親衛隊)とゲシュタポ(秘密国家警察)にハイドリッヒを殺した人間をチェコ中から探し出し、「血の報復」をすることを命令した。最初、彼は広範囲のチェコの人々(一説には5万人or数十万人?!)を殺そうとした(市民の無差別殺害!)。しかし協議の結果、その責任を数千人に限定した。チェコはすでにドイツ軍にとって重要な工業地域となっており、見境のないチェコ人の殺害は生産性を減らすと考えられたからである。
ドクロベーメン・メーレン保護領の親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランク(Karl Hermann Frank、1898~1946)は、ハイドリヒ襲撃のあった日からその副総督職を臨時に代行し、ただちにチェコ全土に戒厳令を敷き、大がかりな捜査と報復に乗り出した。襲撃からハイドリヒが死亡するまでの1週間ばかりで、すでにチェコ人157人が銃殺されている。
ハイドリヒの死後その後釜に座ったのが、親衛隊上級大将クルト・ダリューゲ(Kurt Daluege、1897~1946)。新副総督のダリューゲとフランクは、抗独レジスタンスの大量逮捕と処刑を断行するとともに、「暗殺者を匿った」はっきりした証拠もないのに、見せしめとして小さな村、リディツェ(Lidice)とレジャーキ(Ležáky)の2村を全滅させた。
1942年6月10日、プラハ近郊にある500人ほどの人口の鉱山労働者集落リディツェで、建物と道路がすべて破壊撤去され、15歳以上の男性約200人がその場で銃殺され、女性約200人と子供約100人が強制収容所へ送られ(後に、そのほとんどがガス室で死亡)、村は消滅した。
そして、同年6月24日には、レジャーキ村もリディツェ村と同様に完全に破壊され、地図上から抹消された。

cf. 「リディツェ村」の惨劇


メラメラ ハイドリヒ暗殺に関わった若者たちは、プラハにある正教会の教会「聖キリル&聖メトデイオス正教大聖堂(Ss. Cyril and Methodius Cathedral)」のクリプト(地下聖堂)に身を隠した。彼らは複数の特殊工作班(グループ)【Anthropoid(前出)、Silver A(前出)、Out Distance(=sabotage group)、Bioscop(=sabotage group)、Tin(ミッションはto assassinate the Minister of Education, Emanuel Moravec)】に属する計7人【それぞれ2名(ガブチークとクビシュ)、1名(ヴァルチーク)、1名(オパールカ)、2名(ハルビーとブブリーク)、1名(シュヴァルツ)】のparatrooper(=parachutist)だった。

一説によれば、1940~45年の戦時下、亡命チェコスロヴァキア政府・軍情報部(the Czechoslovak Military Intelligence Service)が計画 した“空挺作戦(airborne operation)” は31件に上る。そこでは、計91人の若き亡命チェコスロヴァキア軍人がエージェントとしてヨーロッパ戦線(the Protectorate of Bohemia and Moravia, Slovakia, France and northern Italy)に送り込まれた(cf. Czechoslovak parachutists/PART 3/ASSAULT SECTION)。

「大聖堂」に隠れた7人が各自ハイドリヒ暗殺自体にどのように関与したかは、はっきりしない問題点だ。なるほど暗殺の実行主体(主役・主犯)は、「Anthropoid」のガブチークとクビシュである。しかし、問題は脇役(従犯)が誰かということ。そこでは、「Silver A」のJosef Valčík(1914~42)と「Out Distance」のAdolf Opálka(1915~42)の2人を特定できても、残りの3人~「Bioscop」のJan Hrubý(1915~42) とJosef Bublík(1920~42)、「Tin」のJaroslav Švarc(1914~42)~の場合、主役に対する支援のほどが定かではない。


ところが、そこへ一人の“裏切り者”が出現する。カレル・チュルダ(Karel Čurda、1911~47)という「Out Distance」要員(paratrooper)がゲシュタポ司令部(Petschek Palace)に自首し、ハイドリヒ暗殺犯であるガブチークとクビシュの名前を、また彼らを匿ったレジスタンス・メンバーの居場所~ジズコフのモラヴェツ家の家族(the Moravec family in the Žižkov District in Prague)を含む、インドラ(Jindra)のグループに提供されたセーフハウス~を密告する。
ゲシュタポに急襲され、善良なマリー・モラヴェツ夫人(Marie Moravec、1898~1942/06/17)は青酸カプセルで自殺→21歳の息子アタ・モラヴェツ[Vlastimil "Aťa" Moravec、1921~1942/10/24(Death:Mauthausen Concentration Camp, Austria 〈executed〉)]は連行されて凄惨な拷問を受け、おまけに水槽に入った母親の切断された首を見せられ、苦悶の末に彼の知っていることを全て自供→結果、ガブチークら“暗殺”工作グループの隠れ場所が発覚してしまう。
1942年6月18日朝、750人ほどの親衛隊(SS)部隊が大聖堂を包囲する。6時間の籠城戦で、7人の工作員は一人斃(たお)れ二人斃れ、全員が命を落とした。クビシュを含めた3人(Adolf Opálka, Josef Bublík and Jan Kubiš)は大聖堂で壮絶な銃撃戦の末に死亡し、ガブチークを含んだ残り4人(Josef Valčík, Jaroslav Švarc, Jan Hrubý and Josef Gabčík)は地下聖堂で銃撃と催涙ガス攻め・水攻めに合い自決した(クビシュは戦闘で深手を負い死去、残り6人は最終的にsuicide by gunshot to escape capture)。
正教会のプラハ主教ゴラズ(Bishop Gorazd、1879~1942)~チェコ・スロヴァキア正教会の創立者~は、ハイドリヒ暗殺犯を匿った罪で、1942年6月27日にナチスに逮捕される。そして、彼は拷問を受けてのち、大聖堂の二人の司祭とともに、さらに計550名の信徒も連座させられて、9月4日に銃殺刑に処された。

カレル・チュルダという「獅子身中の虫」は何者か
ガス工場のサボタージュを目標とした工作班「アウト・ディスタンス」は、Adolf Opálka、Karel Čurda、Ivan Kolaříkの3人で編成された。彼らは1942年3月28日にパラシュート降下でチェコのOřechovに潜入する。しかし、Ivan Kolařík(1920~42)はゲシュタポに狙われて、あえなくも4月1日に自殺に追い込まれた(He was the first Czechoslovak paratrooper to die in the Protectorate. )。やがてアドルフ・オパールカとカレル・チュルダは、プラハに向かい、エンスラポイド作戦に参画する。
チュルダはこの「暗殺」作戦で、果たして主役のガブチーク&クビシュに対して、補佐役に徹することができたか?問題の1942年5月27日に、彼はどういう挙動に出たか?本作『ハイドリヒを撃て!』によれば、その日、ハイドリヒ暗殺を期して待ち合わせた工作員メンバーで、チュルダ一人だけが一向に姿を見せずじまいだった…。
チュルダは事件後にプラハを離れ、南ボヘミア(Nová Hlína near Třeboň)の母親の家に潜伏する。やがて、ひしひしと身に迫る恐怖に駆られて、(or暗殺犯の密告にかけられた「10 million crowns〈=one million Reichsmarks〉」の懸賞金に目が眩んだか…)彼はプラハのゲシュタポ司令部に、最初は(6月13日)手紙で、次いで(6月16日)自ら出頭し、彼の知る限りの情報~仲間の工作員たち(the paratroopers)のこと+その工作員に積極的に協力する抵抗運動メンバーのこと~を洗いざらいタレ込んだのだった[ただし彼の場合、ゲシュタポから拷問を受けて暗殺犯の当面の潜伏先を聞かれるがその場所(教会)までは分からなかった]―。
カエル・チュルダは戦後、チェコスロヴァキア共和国(第三共和国、Československá republika)の復活下、反逆罪(treason⇒ナチス協力の罪)のゆえに、1945年5月14日に逮捕され、47年4月29日にプラハのPankrác Prisonで処刑された。

(以上は、主として“ASSASSINATION~Operation ANTHROPOID 1941-1942~”[author: Michal Burian, Aleš Knížek, Jiří Rajlich, Eduard Stehlík、Publisher: the Defence Ministry of the Czech Republic, Prague(2002http://www.army.cz/images/id_7001_8000/7419/assassination-en.pdf]を参照。

右上矢印同じラインハルト・ハイドリヒ暗殺作戦の顛末を描いた作品に、暁の7人 [原題:Operation Daybreak/The Price of Freedom、原作:アラン・バージェス著『Seven Men at Daybreak』(1966)(邦訳書『暁の七人―ハイドリッヒの暗殺』伊藤哲訳、早川書房、1976年)、ルイス・ギルバート監督]という、1975年製作のアメリカ映画がある[同作ではハイドリヒ暗殺計画がOperation AnthropoidならぬOperation Daybreak(暁作戦)と命名されている]
私はこの映画を1976年6月の日本公開直後に鑑賞。上映時間約2時間を通して、一瞬たりとも気が抜けない緊張感が私の全身を駆け巡った。それは、私にとって人間いかに生きるべきか⇒死ぬべきかというズッシリと重い問いを突き付けてやまない傑作にほかならなかった。
「暁の7人」
この映画の最初のシーンで、「デイブレイク作戦」を下命されたガブチーク(演者:アンソニー・アンドリュース)、クビシュ(ティモシー・ボトムズ)、チュルダ(マーティン・ショー)の3人が、空挺降下で母国チェコに潜入する。そして、この先発隊に続いて、5人の空挺兵から成る支援部隊も送り込まれる。
ここではカレル・チュルダもまた、ガブチークやクビシュと同様に、暗殺部隊~ハイドリヒ暗殺後、ナチに占領されたチェコからいかに脱出するかの方法も何も決まっていない、その意味で生存可能性ゼロの決死部隊~の主役(中心人物)だった。しかし、彼はチェコ国内に残して来た恋人に再会し、二人の間に出来た子供と共に密やかな幸せに浸るにつれて、次第に決死部隊との間に一定の距離を取るようになり、ガブチークやクビシュとの関係もしっくり行かず微妙に推移する。やがて暗殺作戦が遂行され→ナチによる厳重な捜査網が布かれて容疑者が次々と投獄され→リディツェ村が掃滅される…。悩み抜いた挙げ句の果て、彼は家族(妻と子)の保護を条件として(“I want to protect my family. I don't want my wife and child shot.”)、ゲシュタポ司令部に出頭し、暗殺部隊の残り7人と現地のレジスタンス・メンバーのことごとくを裏切る密告者に成り下がるのだった…。

cf. “Operation Daybreak” ― Ambush scene


cf. “Operation Daybreak” ― Ending


『暁の7人』はアラン・バージェス(Alan Burgess、1915~98)のノンフィクション“Seven Men at Daybreak”を原作とする映画作品である。アメリカでは“The Price of Freedom”(『自由の代価』)の題名で、イギリスでは“Operation Daybreak”の題名で、そして日本では原作のタイトルそのまま(邦訳)で、それぞれ公開されている。
問題にすべきは、タイトルにある「7人」のこと。映画案内等の「日本版」宣伝文句によれば、それは「故国の解放に青春を捧げた7人の若者」=「チェコ解放軍の若き闘士7人」=「ドイツ敗北を決定づけた、ヨーロッパ戦線最大の〈暁作戦〉を敢行した7人のプロ!」を意味する。では、この謳い文句にふさわしい≪暁の7人≫とは誰々なのか?
そもそも『暁の7人』は、キャラが立つ人物がストーリーを盛り立てる「七人」物(『七人の侍』系映画)なのだろうか。
この映画では、ストーリー上の中心の座を占める人物がガブチーク、クビシュ、チュルダの3人に限られる。彼ら空挺降下兵の先発隊員こそ、大義と情動の狭間(はざま)に揺れるありのままの人間としての生きざま(⇔死にざま)を、いま現在を生きる私たちに痛いほど、まざまざと突き付けてくる。
なるほど落下傘部隊の第1陣の陣容は、くっきりと陰影豊かに描かれはした。ところが、支援後続部隊については、隊そのものの輪郭が凡そおぼつかず、参加メンバー各個の掘り下げも浅きに過ぎ、ほぼ全員が匿名的な役割を担うばかりで何ら個性的なキャラクターとして描き分けられてはいない。
では、≪暁の7人≫の該当者の問題は、一体どういうことになるのか。
3人の先発隊のうち、「暁の7人」の資格要件~亡命チェコスロヴァキア兵士で憂国の志士~を備えているのは、ガブチークとクビシュの2人のみである。“裏切者(traitor)”のチュルダは問題外。彼の場合、事に及ぶに際して胸中に未整理の感情が渦巻いていたことだろう、しかし一度同胞を、とりわけ身近な同僚のガブチークとクビシュを裏切れば、あとは闇雲に転がるだけの人生を送らざるをえなかった。
後続部隊の各員は、≪暁の7人≫に入るのだろうか。映画の終盤の、息詰まるような緊迫した終盤の展開が、事を雄弁に物語る。
憂国の青年たち~一意専心“母国チェコをナチスから救いたい”と願う若者たち~が7人、教会に立て籠もり、ナチスとの絶望的な戦闘を繰り広げ、やがて断末魔の相を刻んで終焉を迎える―。

Under the pressure of the raids all seven paratroopers staying in Prague eventually gathered in the church building: Josef Bublík, Josef Gabčík, Jan Hrubý, Jan Kubiš, Adolf Opálka, Jaroslav Švarc and Josef Valčík.(前出“ASSASSINATION~Operation ANTHROPOID 1941-1942~”)
Hundreds of Nazi troops storm the cathedral and all the agents are killed in a fierce battle.(Anthropoid (film))  
The men in the church had only small-caliber pistols, while the attackers had machine guns, submachine guns, and hand grenades. After the battle, Čurda confirmed the identity of the dead Czech resistance fighters, including Kubiš and Gabčík.(Operation Anthropoid)   

≪暁の7人≫は1942年6月18日に、敵の手にかかって悲壮な最期を遂げた、Gabčík、Kubiš、Opálka、Valčík、Bublík、Hrubý、Švarc の計7人を指す。 
アドルフ・オパールカ、ヨセフ・ヴァルチーク、ヨセフ・ブブリーク、ヤン・ハルビー、ヤラスラフ・シュヴァルツの5人は、もともと先発隊のガブチークとクビシュの助っ人(応援隊)であるとはいえ、その悲劇的な籠城戦~“強者”に挑んだ切ない戦い~では、文字どおり力を合わせて命がけで敢然と戦い抜く、いずれ劣らぬ凛々しい勇者たちではあった。
主人公のガブチークやクビシュとは異なり、映画では終始この5人の名前は何かしら判明しがたい。しかし、最終局面の激闘シークエンスにいたって、“変節漢”チュルダによる遺体確認シーンなどもあって、私としてはガブチークとクビシュの2人はもとより、5人それぞれの最期もはっきりと見届けることができたように思う。
7人の勇士はこぞって壮烈な討ち死にを遂げた。この7人のうち、大聖堂で死亡したのがオパールカ(演:Jiří Krampol)、ブブリーク、シュヴァルツの3名であり、聖堂の地下室で死亡したのがガブチーク、クビシュ、ヴァルチーク、ハルビーの4名である。そこでは、一人また一人と撃たれたり、爆死したり自死したり、衝撃的なシーンが連続する。とりわけ、ガブチークとクビシュの2人のヒーローが地下室で力尽きて互いに抱き合いながら銃を撃ち合って自決するラストシーンは、それこそ観客を磁石のように惹きつけてやまない極めつきの見せ場だ。
「暁の7人」ラストシーン
(*仲間5人が殺され、残るはガブチークとクビシュのみ。二人は追い詰められて、胸まで水に浸かって、互いに銃を相手の頭に向けて痛ましい最期を迎える。やがて銃声〈gunshots〉が地上に轟き渡った…。―約40年前に、このシーンを目にした瞬間、私は目頭がじんと熱くなり、そして帯同した彼女は紅涙に沈んだ…)

右上矢印 “Seven men at daybreak” ― Inspired by the book “Seven Men at Daybreak” by Alan Burgess



右上矢印 7人の勇士たち

「7人の勇士たち」
(「聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂」はエンスラポイド作戦を決行した、チェコスロヴァキアの愛国者たち7人の最後の舞台となった。現在、教会内に「国家的」英雄とされる彼らのために設けられた博物館がある。上掲のポートレートは、教会のギャラリーで売られている絵葉書である。)

私感
我を忘れさせる緊迫感で体じゅうが沸き立ちつづける!
ここを先途と戦う人間の実存的決断に思わず溜め息がほとばしり出る! 
人間社会には、いろいろな人がいる。いろいろな人がいるからこそ、思わぬ悲喜劇が起こる。いつの時代でも、まっとうな人間が否応なしに背負うべき重荷は、とんだ食わせ者が暗躍する悲劇的な状況にいかに全力をあげて抵抗するかである―。