
作品データ :
原題 BARBARA
製作年 2017年
製作国 フランス
配給 ブロ-ドメディア・スタジオ
上映時間 99分
「ナントに雨が降る」「黒い鷲」「いつ帰ってくるの」などの名曲で知られるフランスの伝説的歌手バルバラ(Barbara、1930~97)の世界を描いた作品。『さすらいの女神たち』(2010年)でカンヌ国際映画祭監督賞を獲得した俳優兼監督のマチュー・アマルリックがメガホンを取った異色ドラマ。バルバラの伝記映画で主演を務める女優ブリジットとその作品を手がける監督イヴが、撮影を通してバルバラの魅力に取り憑かれ、次第に彼女に同化していく姿を、実際の貴重なステージ映像をコラージュしながら綴られる。単なる伝記映画では描き切れない(ブリジット⇒)バルバラのミステリアスな魅力を『恋ごころ』『ランジェ公爵夫人』のジャンヌ・バリバールが、斬新かつ幻想的なアプローチで体現している。(監督の)イヴ役をマチュー・アマルリック監督自らが演じている。
ストーリー :
パリのスタジオでは、フランスを代表する国民的シャンソン歌手バルバラを描く映画の撮影準備が進んでいた。主演はブリジット(ジャンヌ・バリバール)、監督はイヴ(マチュー・アマルリック)。ブリジットは役作りのため、撮影期間中は用意された住まいにグランドピアノを準備。その部屋は映画のセットそっくりに仕立てられていた。スタッフから「脚本は日々変わる」と言われれば、「わたしも変わる」と返すブリジット。彼女は憑かれたようにバルバラの仕草や表情を真似ていく。わずかな口角のあげ方、手先の動き、もちろんその特徴のある歌声…。やがて、誰も演じることができないと言われた伝説の歌姫が、カメラの前に姿を現わす。一方、イヴはバルバラが歌ったキャバレーや劇場での証言を集め、その人生に踏み込んでいく。少年の頃に出会った彼女の曲に救われた経験があるイヴは、映画監督という立場を超え、ブリジットが演じるバルバラに尋常ならざる愛着を寄せ、自分を見失っていく。そして、イヴ以上に、バルバラと化していくブリジット。自分の人生を歩んでいるのか、それともバルバラの人生を歩んでいるのか…。撮影される映画は、バルバラを描いているのか、あるいは別の誰かの人生なのか。スクリーンのこちら側にいる観客すらも、その境界線に惑わされ、バルバラなのか、ブリジットなのか、もはや曖昧になった2人の人生の輪郭を追体験することになる。その生涯はツアーの連続で、自分の家を持たなかったバルバラは、映画の最後にこう語る。「ステージは、わたしの船」と。 愛を求め、しかしその愛に苦しんだ永遠の旅人バルバラ。彼女の名曲は、永遠に色褪せることなく、今日もどこかで流れている。バーのカウンターで泣く男の耳元にも、それは届くのだった―。
▼予告編
■私感 :
本作を鑑賞中、私は何とも釈然としない思いにとらえられた。時に心身の疲れも覚えて、画面の登場人物への感情移入がままならず、次第にストーリー展開に目を凝らす余裕も失っていく…。
もともとバルバラに関する予備知識として、私は彼女がユダヤ人として生まれ、ナチス占領下のフランス各地を逃げまどい、放浪し、苦難の中からシャンソン歌手として成功したことを、一定限度知っていた。それゆえにだろう、バルバラを描く作品なら、彼女の波乱の生涯を彩るドラマチックなエピソードを盛り込んだ伝記映画であってほしいと、私は勝手に期待していた。そして、本作の鑑賞直前までの私は、てっきり思い込んでもいた。本作は定めし、フランスの伝説的シャンソン歌手エディット・ピアフ(Édith Piaf、1915~63)の悲惨と栄光の47年間の生涯を綴った『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』(マリオン・コティヤール主演、オリヴィエ・ダアン監督、2007年)(cf.本ブログ〈June 10, 2015〉)※に比肩するような感動の伝記ドラマであるに違いない、と。
※『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』では、数奇な人生が生んだトラウマゆえに複雑な性格になったエディット・ピアフをマリオン・コティヤールが怪演とまがうばかりの熱演!私は上映時間140分を通して、主演のコティヤールにただただ惹きつけられながら、ピアフが歩んだ人生の軌跡を一通り網羅した濃厚な作劇を最大限に享受!同作は私の映画鑑賞史上、鮮烈な印象を私の記憶に刻み込んだ、今なお忘れがたい一作である。
ところが、豈(あに)図らんや、本作は“1930年生まれのバルバラの起伏の多い人生の旅路をたどる”伝記的な映画ではなかった。話は、バルバラの映画を撮る監督のイヴと、バルバラを演じる女優のブリジットがそれぞれにバルバラの本質に近づこうとのめり込み、心身ともにバルバラに支配されていく…という内容。その劇中劇で監督のイヴを演じるのが本作自体の監督でもあるマチュー・アマルリック(Mathieu Amalric、1965~)、そしてバルバラ役を務める女優ブリジットを演じるのが女優のジャンヌ・バリバール(Jeanne Balibar、1968~)。この現実とフィクションを意図的に混淆させる<入れ子構造>のスタイルのもとで、一層ややこしいことに、マチューとジャンヌがかつて二人の子供をもうけたパートナー関係にあったこと、さらにジャンヌがバルバラ~劇中シーンでの本物映像~そっくり、怖いくらいに似過ぎていること―。
本作では、バルバラの実際のフッテージを使ったり、劇中劇を挿入したりすることで現実と虚構が入り混じる世界が立ち上がる。バルバラ本人/バルバラを演じたブリジット/ブリジットを演じたジャンヌ/バルバラの歌に救われたイヴ/イヴを演じたマチュー。五つの残像が一斉に黒々とした闇に浮かび、ああ、これは一体、誰の物語だったのか?という一つの問いが期せずして湧き上がる。これはバルバラ本人??女優ブリジット??それとも、素のジャンヌ・バリバール??
私は一観客として映画の前半30~40分程度は、何とか画面に物見高い目を向けていた。マチューが本劇&劇中劇の監督を務め、ジャンヌがブリジット役でバルバラを演じるという奇抜な設定に私の持ち前の好奇心がそれなりに刺激されていたからだ。しかし、画面が進むにつれて、私はスクリーンに映し出されるヒロインが、バルバラかブリジットかジャンヌなのか、それぞれの境界がどんどん曖昧になって分からなくなり、しだいに夢現(ゆめうつつ)の波間をゆらゆら漂うような感覚に陥る。思考の迷路に迷い込むなか、実体がうまく掴めないもどかしさ故の虚無的な疲れが忍び寄り、ついには考えること自体が煩わしく思考停止の状態になり、ただ矢継ぎ早に流れ行く画面をぼんやりと見送るばかり…。
これは一体全体、どういうことか!?私は全編を通してバルバラの人生の何たるかについて何も教わるところがなく見終わった。そこに心の底を揺さぶり、格別な意味を際立たせる事象(映画シーン)は一切見当たらず…。
私は本作を駄作ないし愚作と、ずばり言い切るつもりはない。
そもそも問題は、私がバルバラの世界に予備知識が不足して不案内すぎる点にあるのではないか。私の場合、同じフランスの代表的な女性歌手でも、前出のエディット・ピアフ、イベット・ジロー(Yvette Giraud、1916~2014)、ジュリエット・グレコ(Juliette Gréco、1927~)の三者については、その人生や人となりをいろいろと知っており、そのシャンソン (chanson/歌)自体にも造詣があって代表曲を自らも多少は口遊む。しかし、バルバラについては、かつて彼女の遺作“Il était un piano noir…” (1998)(小沢君江訳『一台の黒いピアノ…/バルバラ 未完の回想』緑風出版、2013年)を一読したにせよ、彼女の数多(あまた)あるシャンソンでわずかに覚えたのが「ナントに雨が降る」(原題:Nantes)と「黒い鷲」(原題:L'Aigle noir)の2曲にすぎなかった。
本作では、フィクションとノンフィクションの垣根が取り払われることで、バルバラのミステリアスな存在感、複雑な精神性がことさらに表出されていく…。本作の監督(兼脚本)マチュー・アマルリックは、自ら作中の監督役を果たすことで、バルバラという実在人物を時系列で描く伝記映画とは一線を画して、謎に満ちた“孤高の歌い人”バルバラの豊かで複雑な内面世界を、いつまでも解けぬ謎そのものとして忍びやかに提示する…。本作は愛に傷つき、愛に悦び、自らの苦しみに満ちた人生を駆け抜けたバルバラの生き方‐死に方に共感し、劇的に唄うバルバラの歌~棄てられた女の未練を、不思議な倦怠感と魂の震えとして表出させた絶唱が多い~に陶酔する人には格好の映画と言うべきだろう。
私は俳優マチュー・アマルリック(本作では監督・脚本・出演の3役を兼任)の出演作を、これまでに何作鑑賞しただろうか。曖昧な記憶を手繰り寄せれば、『ミュンヘン』(2005年)→『マリー・アントワネット』(2006年)→『007 慰めの報酬』(2008年)→『アデル/ファラオと復活の秘薬』(2010年)→『皇帝と公爵』(2012年)→『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年)の6作程度。しかし、なぜか~単なる記憶忘失か?~私はどの作品の場合にも一度としてマチューという存在を強く印象づけられることがなかった。どうやら彼は私にとって親近感を覚える、魅力的な役者ではなかったようだ。今作を鑑賞した現時点でも、
私の目には、やはり彼は何かパッとしない、そこいらの有象無象のヤカラのごとく映った。なぜだろうか…。これは、私が彼の顔立ちがあまり好きではない点に関わる、すぐれてDNA情報の問題なのか。いずれにせよ今のところ、マチュー・アマルリックが私好みのタイプの男性俳優~何らかの形で私の胸中を射抜くことのできる、強い存在感のある男優~でないこと、この点ははっきりしている。
フランスの女優にして歌手であるジャンヌ・バリバールを、私は本作で初めて観た。名前だけは知っていたものの、これまで彼女の出演作とは凡そ縁がなかった。
ジャンヌはブリジットという女優の役を演じつつ、ブリジットが演じるバルバラ~カリスマティックな、時としてエキセントリックなまでに情熱的なディーバ~を表現するという難しい役どころを、うまく積極的にこなしていた。歌も踊りも身のこなしも粋(いき)で、ピンヒールを履いてゴージャスに着飾った彼女の凛とした佇(たたず)まいが眩(まぶ)しい!それは、リアルとドラマの見事なコラージュで、どこからがバルバラ本人なのか分からなくなるほど映えたジャンヌの演技ぶりだった。
初見ながら~難しく考えず、素直に観るかぎり~、どうやらジャンヌは確かな演技力を持つ「実力派」女優だと思われる。本作におけるヌーヴェルバーグへのオマージュとトロンプ・ルイユ(Trompe-l'œil、騙し絵)な演出に助けられた側面があるにせよ、そこにはエレガントな典型的なフランス女優の一断面が露出していた。
だが、そうは言っても、ジャンヌが私好みのタイプの女優であるかどうかは、話が別。実は、率直に言って、私は彼女の見目形(みめかたち)、特にいかにも気の強そうな面長な目鼻立ちがあまり好きではない。本作の画面で何か私の感興を殺(そ)ぐような違和感がぬぐえない彼女の顔形に目が行くたびに、私はなぜか~これもまたDNA情報に起因する問題なのか~、ついつい、彼女の人となりを鼻っ柱が強く尊大で近寄りがたい人と思いなし、彼女が演じるバルバラ~バルバラが憑依(ひょうい)したブリジット=ジャンヌという一つの“亡霊”~を、何とか冷然と客観的に観察しようと精一杯努めるのだった…。
ジャンヌ・バリバールは、あるいはフランスを代表する“真正”のフランス女優なのかもしれない。しかし、私にとって彼女は今のところ、共感的な理解を可能ならしめる、好きなタイプの女優ではない―。
▼ジャンヌ・バリバール インタビュー映像 :
(ジャンヌは2001年に初来日→2018年10月17日開催の、本作の日本公開記念イベント(於、アンスティチュ・フランセ東京)に伴って5度目の来日となった。)