
作品データ :
原題 In einem Jahr mit 13 Monden
製作年 1978年
製作国 西ドイツ
配給 アイ・ヴィー・シー
上映時間 124分
日本初公開 2018年10月27日
ニュー・ジャーマン・シネマの鬼才ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー(Rainer Werner Fassbinder、1945~82)の劇場未公開作を渋谷ユーロスペースで国内初上映。1979年の『マリア・ブラウンの結婚』の成功により新しいドイツ映画をリードする存在として幅広く認められるようになったファスビンダーが、自身のパートナー、アルミン・マイヤー(Armin Meier、1943~78)の自死をきっかけに手がけた監督作。原案・製作・監督・脚本・撮影・美術・編集の全てをファスビンダー自らが担当し、性的マイノリティーの主人公の最期の5日間をセンセーショナルかつエモーショナルに描き出す。『シナのルーレット』『マリア・ブラウンの結婚』などファスビンダー監督作の常連俳優であるフォルカー・シュペングラーが主人公を演じ、イングリット・カーフェン、ゴットフリート・ヨーンらが共演した。
※『13回の新月のある年に』『第三世代』に関する公式サイト上の一文 http://www.ivc-tokyo.co.jp/fass2018 :
「ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの作品には必ず同性愛的要素が含まれるが、いわゆるLGBTが主人公となる作品は意外に数少ない。女性同性愛を扱った『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』、男性同性愛者たちを主人公とした『自由の代償』と『ケレル』があるだけで、そこに加わるのが男性から女性へのトランスセクシュアルを主人公とした『13回の新月のある年に』である。ただし、この作品はいくつかの意味でファスビンダーとして異例の作品である。初公開当時の映画評ではファスビンダーならではの性的少数者をめぐる物語と評された以上にはほとんど言及されず、つまり性的少数者というレッテルはむしろ映画の理解を妨げる結果を招いたとすらいえる。また、この映画製作の背景には当時彼の伴侶だったアルミン・マイヤーの自死というスキャンダラスな要因があったことも影響し、ファスビンダーにおいてあまりに個人的かつ例外的作品として評価を躊躇わせることにもなった。だが、ファスビンダーの生涯と全作品を概観できる現代においてこの映画の位置づけを考えた時、やはりファスビンダーにとって一つの核心をなす重要な一作であることは疑いない。」
ストーリー :
男性から女性に性転換したエルヴィラ(フォルカー・シュペングラー)。過去に女性と結婚しており娘もいるが、男装して男娼を買うような曖昧な性を生きていた。ある日、一緒に暮らす男クリストフ(カール・シャイト)が痴話喧嘩の末に家を出て行ってしまう。絶望したエルヴィラは、仲の良い娼婦ツォラ(イングリット・カーフェン)に支えられ、育ての親シスター・グドルン(リーゼロッテ・ペンパイト)のもとを訪れる。妻や娘にも会い過去を振り返ろうとするエルヴィラだったが、昔の自分に戻れないという現実を突きつけられるだけだった。さらに、エルヴィラは自分が性転換するきっかけとなった男アントン(ゴットフリート・ヨーン)にも会いに行くが……。
▼予告編
■私感 :
冒頭シーンに、私は思わず苦笑した。ヤレヤレと、溜め息をついた。
…男性から女性への性転換者・エルヴィラは、同棲相手の男が無断外泊を繰り返す寂しさから男装して男娼を買いに行くが、性転換者であることがバレて袋叩きに遭う。彼(女)は「男娼」と股をまさぐりあう中、「アレがねえじゃねえか!」と男娼連からボコボコにされ、しばしズボン半脱ぎの状態になる。この間、よりによって名作『ベニスに死す』(トーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督、1971年)でも使われた、グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911)の交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」が流れる…。
私は正直言って、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーというセクシュアリティの人のこと)を扱う映画が今イチ苦手である※。私の場合、そもそもセクシャル・マイノリティー(性的少数者)に対する“感情移入”(=対象に自分の感情を投射し一体化すること)自体がなかなか思うに任せない。意識的に感情移入しようと努力すればするほど、何か疲れてストレスが溜まりがちになるのだ…。
※ただし、直近の鑑賞作品である『君の名前で僕を呼んで』本ブログ〈November 19, 2018〉は、例外に属する。若い男ふたり~17歳と24歳~が織りなす眩しき一夏(ひとなつ)の恋模様(同性愛)を描いた同作は、単なる「LGBT」映画を超えた普遍的な恋愛映画への方向性を垣間見せている。私は舞台となった北イタリアの避暑地クレマ(CREMA)の美しく静かな風景にしっくりと溶け込むとともに、若々しい生気が眉宇に漂う二人の青年の純粋で赤裸々な恋の甘酸っぱさと昂揚感を、さしたる抵抗感もなく、ゆっくりと味わうことができた―。
念のため言えば、私はこれまで、性が多様化する現代社会に生きる人間として、自分なりに「身体的性別と性自認が同じで、異性を愛することが普通であり常識である」といった考えには囚われないよう努力を払ってきた。そこでは、「性別は男性と女性の2つだけではない」ということを常に頭の片隅に置きながら、セクシュアル・マイノリティーの生きる現実~昨今ではLGBTだけではなく「LGBTQ」や「LGBTQIA」などとも言われる様々なセクシュアリティーのありよう~を、あらゆる価値判断を留保し、あるがままに受け止めることが、差し当たっての重要事にほかならなかった。
ファスビンダーの映画は女性の抑圧、同性愛、ユダヤ人差別、テロリズムなどスキャンダラスなテーマが多い。それゆえ、ドイツ国内では常に激しい論議を巻き起こしてきた。トランスセクシュアルの繊細な心理と恋情と愛憎を描いた本作もまた、様々なイメージがセンセーショナルに提示された、ファスビンダー最大の問題作といわれる。
私は本作を鑑賞中、しばしば心が憂鬱の色に包まれた。主人公のエルヴィラに扮したフォルカー・シュペングラー(Volker Spengler、1939~)の体全体~特に肉感~が醸し出す雰囲気に割り切れない違和感に捉えられつづけたからである。上映時間約2時間を通して終始、私はどうにもこうにも、エルヴィラ⇒シュペングラーの諸表出にしっくりした気持ちを湧き立たせることができなかったのだ。
何しろエルヴィラ⇒シュペングラーは、長身で骨太のがっしりした体つきながら、トランスジェンダー(transgender)という“生物学的な性(身体)と、心の性が一致しない”状態下にあり、しかも心と身体の性を一致させるために現に外科的手術を施したトランスセクシャル(transsexual)にほかならない。
要するに、エルヴィラ=シュペングラーは基本的にMTF(Male to Femaleの略/身体的には男性だが性自認が女性)のケース(もっとも、エルヴィラの性自認は男か女かで揺れてはいるが…)。そんな彼(女)が女装をし、ハイヒールを履くと2m近く、見上げるばかりの、デップリした大女と化す!私は画面に彼(女)が現われるたびに何かしら、むくつけき女性や海坊主のような巨漢を勝手に連想するばかりで、その“女性的な”感性と行動に、その性的マイノリティーの救われない人生行路に、とうてい自己の感情移入を果たすことができなかった。
なるほど愛を求めて彷徨う~愛されたいのに愛されない~“人間”を現出させたエルヴィラ=シュペングラーの演技は、私の平常心を幾らか搔き乱したかもしれない…。とはいえ、エルヴィラ=シュペングラーの孤独、受難、愛への憧憬と不安、そして魂の破滅を描いて痛切な、ファスビンダーの“私小説”的な物語が、私という一個の人間の魂深く染み入るものでなかったこと、これは紛れもない事実である。