
作品データ :
原題 JUSQU'À LA GARDE
英題 Custody
製作年 2017年
製作国 フランス
配給 アンプラグド
上映時間 93分
第74回ベネチア国際映画祭で最優秀監督賞(銀獅子賞)を受賞し、本国フランスで40万人動員のロングランヒットを記録した話題作。俳優としても活躍するグザヴィエ・ルグラン監督が第86回アカデミー賞短編実写映画賞にノミネートされた自作『すべてを失う前に』(2012年)を基に、記念すべき長編デビューを飾った。離婚した両親の間で苦悩する少年を主人公に、両親の不和の行方を緊張感ある筆致で描き出す。DV(家庭内暴力)を題材にしたヒューマンドラマだが、それ以上に息詰まるサスペンスの要素が強い。出演は両親役に短編に引き続きレア・ドリュッケールとドゥニ・メノーシェ。健気な姿が胸を打つ息子のジュリアンに映画初出演のト―マス・ジオリア。
ストーリー :
夫アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)の家庭内暴力が原因で離婚したミリアム(レア・ドリュッケール)。判事に呼び出され、お互いの弁護士も同席しながら娘のジョゼフィーヌ(マティルド・オネブ)と息子のジュリアン(ト―マス・ジオリア)の親権について話し合っていた。
ジュリアンからの陳述書が読み上げられる。「ママのことが心配なので離婚はうれしい。僕も姉さんも“あの男”が嫌いです。週末の面会を強要しないでください。二度と会いたくありません」 暴力を振るわれていたのはミリアムだけではなかった。3年前、彼氏と一緒にいるところを見られたジョゼフィーヌも腕に怪我をさせられていた。
しかし結局、子供たちの親権については、もうすぐ18歳となるジョゼフィーヌは対象外となったものの、まだ小学生である11歳のジュリアンの場合は両親ともに親権のある共同親権となり、隔週の週末ごとにアントワーヌと会わなければいけなくなる。
ミリアムもアントワーヌも別居してからはお互いの実家に暮らしていた。最初の面会の週末、アントワーヌは車でジュリアンを迎えにやってくるが、ジュリアンは体調が悪いと言って逃れようとする。しかし、アントワーヌはミリアムに取り決めを守らないなら訴えるといって無理やりジュリアンを連れてこさせた。
アントワーヌの実家で祖父母に会ってもジュリアンは浮かない顔で過ごす。ミリアムの実家の前に戻った際、アントワーヌはミリアムと話をさせてくれと言うが、母は今いないと言い張るジュリアン。アントワーヌはミリアムの連絡先を執拗に尋ねるが、ジュリアンは携帯ではなくミリアムの実家の電話番号だけを教え、アントワーヌは仕方なくその番号を通じてミリアムと話す。
その頃、ミリアムは郊外の別のアパートに新居を用意しており、アントワーヌから離れるつもりだった。ジョセフィーヌはすでに両親の問題に関心が薄く、遠距離恋愛中の彼氏のサミュエル(マチュー・サイカリ)のことで頭がいっぱいだった。
その次の面会日、ジュリアンは相変わらず複雑な表情だった。アントワーヌは何かとジュリアンの言葉尻を捉えて詰問を繰り返し、アントワーヌの父はそんな息子を諌めようとするが、もともと短気な2人は口論になってしまう。父は「お前はいつもそうだ!何でもぶち壊してしまう!子供たちが会いたがらないのは当然だ!」と怒鳴る。
アントワーヌはジュリアンを連れて実家から車を走らせる。彼はジュリアンの態度を不審に思っており、ミリアムの連絡先を教えないのも彼女が引っ越そうとしているのを隠しているのではと見抜いていた。彼は突然怒鳴り、ジュリアンを彼らの新居まで案内させる。ジュリアンは嘘の道を教え、車が停まって降りてから隙を突いて逃げ出す。アントワーヌは追いつけずに諦め、しばらくして戻ってきたジュリアンに「俺だって毎回揉める気はない」と彼を家まで送り届ける。
アントワーヌの不意の来訪に困惑するミリアム。アントワーヌはずかずかと上がり込み、せわしく部屋じゅうを見回し続ける。彼は急に「俺は生まれ変わった」と言って泣き出し、彼女を抱きしめる。ミリアムも恐る恐る抱きしめ返すのだった…。
ところが、実家に戻ると、アントワーヌの父は息子に愛想を尽かし、彼の荷物を全て外に放り出していた。アントワーヌは母親とも口論し、売り言葉に買い言葉で家を出て行ってしまう。
その夜、ジョセフィーヌの18歳の誕生日パーティーに参加したジュリアンは、彼女がボーカルを務めるバンドの演奏に大はしゃぎする。ミリアムが会場を回っていると、外にアントワーヌの車が停まっているのに気づく。何をしているのかと問い詰めに行くと、アントワーヌは今でも家族のことを愛していると必死に訴えるが、冷たくあしらうミリアム…。
パーティーも終わり、その夜ジュリアンとミリアムは新居に泊まっていた。就寝しようとしていたところにインターホンが突然何度も鳴る。2人が怯(おび)えじっとしているとインターホンは止むが、まもなくエレベーターが上がってくる音が聞こえたため飛び起きる。アントワーヌが部屋の前まで来て、「開けてくれ!話をしよう!」とドアを叩き続けており、ドアを蹴破ろうとしている。向かいの部屋の老婦人が異変に気づき、即座に警察へ通報する。アントワーヌは今度は猟銃を持ち出し、ドアに向かって発砲!ミリアムとジュリアンは家の奥に避難する。ドアを蹴る音と銃声が響く中、ミリアムも警察に電話して、浴室に鍵をかけてバスタブに隠れるように指示を受ける。バスタブで2人が息を押し殺していると、ドアを破壊したアントワーヌが侵入して、室内を物色し始める。2人はパニックに陥るが、オペレーター(警官)は電話越しに冷静な口調で励まし続ける。彼がミリアムの名を怒鳴るように叫びながら浴室の前までやってきたその瞬間、あたふたと駆けつけた警官隊が猛(たけ)り狂う彼を床に押さえつけて拘束した。
アントワーヌは「ミリアム!やめさせてくれ!家族と会わせてくれ!」と悲痛な絶叫を迸(ほとばし)らせながら連行されていく。ジュリアンもミリアムも堪(こら)えかねて嗚咽(おえつ)しているところに、女性警官がやってきて2人を保護した―。
▼予告編
◆ グザヴィエ・ルグラン(Xavier Legrand、1979~)監督 インタビュー(『i-D Japan』-2019/01/28) :
――まず、ドメスティック・バイオレンスという社会問題を主題として取り上げた理由についてお聞かせください。
「家庭内暴力というテーマは非常に現代的であり、難しい側面を持っています。世界中どんな国でも、政府がどのように被害者や子どもたちを保護すれば良いか、正しい回答を見つけることができていません。だから、実はどの国でも共通して直面する難問のひとつだと思います。フランスの場合も、それがあまりにも困難でプライバシーなど微妙な問題を含んでいるため、一方でタブー視される傾向もありますが、やはり大いに議論されていると思います。この映画を作るにあたって、実際に様々なカップルから取材しましたが、出会って恋に落ちて愛情を育み、ある場合には子どもを作ったりもした彼らが、家庭内暴力に直面したとき、経済問題や相手への愛情、そして依存心からなかなかすぐにはその関係性を断ち切ることができない。これは実に深刻な問題です。こうした状況に対して、映画としてその内側にカメラを持ち込み、彼らの実際のリアリティを描くことができればと考えました」
――現代社会のリアリティと共に、舞台俳優でもある監督はギリシア悲劇からもこの物語のインスピレーションを受けたと語っておられましたね。
「そうです。私はギリシア悲劇がとても好きで、この作品をその現代版として構想しました。ギリシア悲劇で中心的なテーマとなるのは、権力であったり、対決、決闘、親から子へと受け継がれていく血の争い、そして家族間の抗争のようなものです。こうしたテーマを、現代社会を背景とした物語のなかでも展開できるのではないかと考えました。ギリシア悲劇では神々が主人公になりますが、この映画では現代のフランス社会で生活する中産階級の人間です。しかし、そこで展開される家族の悲劇には共通性があると考えています」
――脚本作りにおいてどのような取材をされましたか?
「物語を作り込んでいく前に、長い時間をかけて様々な人々から話を伺うなど、綿密に現場調査をしました。もちろん、実際に家庭内暴力の被害者となった女性たちにも会いましたし、そうした家庭で育った子どもたち、あるいは家庭裁判所の裁判官、判事、そして警察にも取材に行き、緊急事態で実際にどのような状況が発生しているかについても様々な事例を伺いました。ドメスティック・バイオレンスについて書かれた数多くの著作も読みましたし、体験談や各種資料、そしてフィクションも読みました」
――暴力はきわめて映画的主題ですが、家庭内暴力にはそうした映画で描かれる典型的暴力とは少し異なる側面があります。例えば、ジュリアンが父アントワーヌの車から逃げ出す場面では、家の鍵を父親に奪われていたことや、結局一人ではどうしようもないのでジュリアンは車に戻ってこざるを得ません。自分が依存しなければいけない相手が同時に恐ろしい敵でもあるというアンビバレントな状況が生む恐怖を感じました。
「関係の壊れた元夫婦であるアントワーヌとミリアムのあいだで、二人の子どもであるジュリアンにはとても大きなプレッシャーがかけられています。その上、彼には人質のような役割も与えられる。父親であるアントワーヌは、夫婦のつながりが壊れてしまった後でも依然として妻との関係を保ちたいと考えている。そのために、父親としての権力、そして男としての権力を利用しようとするのです。人質として利用されるジュリアンが直面するのは、こうしたジレンマです。そして、あの場面に登場する鍵には象徴的意味合いもあります。それは、アントワーヌがもはや自分ではアクセスできない、閉ざされた妻の心を開けようとする鍵という意味です。しかし彼は、やはりその鍵を使うことができないのです」
――愛情や家族の絆が暴力として機能するシーンとしては、もうひとつとても印象深い場面がありました。アントワーヌがミリアムを抱きしめる場面で、僕は変わったと彼は口にするのですが、ミリアムは身動きもできず、まるで硬直したようにただ黙って耐えるしかない姿が描かれていました。
「とても良い例をあげていただきました。あれは非常に強いシーンだと思います。脚本のために取材したとき、実際に家庭内暴力の被害を受けた女性たちから話を聞くなかで、ああした状況の具体的事例について知り、強烈に心に残っていました。ああいう場面で男性たちは、しばしば女性に対して僕は変わった、改心したと口にするのですが、その何分か後には再び暴力を繰り返す。この関係性の全体が、きわめて強固な暴力の悪循環のなかに捉えられていると思います」
――暴力を主題にしたこの作品で本当に恐ろしいのはこうした場面であり、むしろ身体的暴力は具体的に描かれていないのが印象的でした。
「実際に身体的暴力を見せつけられるよりも、それを想像させられたほうがしばしば恐ろしいのではないでしょうか。映画やテレビでは暴力が描かれることが多いですが、それが重要だと私は思いません。そしてこの作品の場合、精神的な恐怖が暴力として描かれています。家庭内暴力が恐ろしいのは、こうした部分だからです。身体的暴力が振るわれなくても、精神的暴力が相手を支配していく。これは他人の目からはなかなか見えません。そしてそれが家族の問題であることによって、さらに外部から隠されてしまう。そこで実際に何が起きているのか、当事者以外にはなかなか分からない。だからこそ、観客の想像をかき立てることで、その恐ろしさに踏み込もうと考えました」
――実際の暴力よりも、想像によってそれを仄めかす方が恐ろしいというのは、映画ではヒッチコックの定式として知られています。監督は他のインタビューで彼の名前を挙げておられましたが、つながりを感じますか?
「ヒッチコックには大きな影響を受けました。小さい頃から彼の作品はたくさん見ており、大好きな映画監督のひとりです。『ジュリアン』にはサスペンス映画としての側面があり、とくに物語を作る段階では影響を受けたと思いますが、演出や映画的手法という意味では違うのではないかと思っています。ヒッチコックの場合、物語を語るうえで大がかりな仕掛けを使いますが、私は使っていないからです」
――日常的な物音がサスペンスを高めるために実に効果的に使われていると思いました。車のなかのシートベルト警告音やウィンカーの音、あるいは扉をノックする音や時計の音など、リズミカルで神経症的に反復される音響が逃げ場のない恐怖を観客に感じさせていたと思います。
「サスペンス効果を高めるためどのように音響を使うかについては、シナリオの段階からずっと考えていました。よくある映画やテレビのスリラーで観客を驚かせるため紋切り型として使われる音響効果や音楽などではなく、日常にある物音を効果的に活用することで、よりこの作品に相応しい恐怖を演出できるのではないかと思ったのです。同じ物音がリズミカルに反復されることで、恐怖が蓄積されたり、時間的な経過が示されたり、映画的手法として上手くいった部分だと自分でも思います」
――静けさのなかで恐怖が蓄積し、最後にはこの作品で最も暴力的な場面が展開されますが、ここでも電話で応対した警官が極めて冷静沈着な声だったのが印象的でした。現実にもそうなのだろうと思いますが、映画としても抑制された素晴らしい効果を上げていたと思います。
「この作品の冒頭は、長いあいだの夫婦間の問題に裁判官が判決を下す場面で始まっています。この判決によって皮肉にも女性が危険にさらされることになるわけですが、その後、家庭内で陰湿に進行した暴力がラストで再び社会に開かれます。警官たちや隣人の存在は、家族の周囲に拡がっている社会の存在を現しており、その描写が冒頭とラストで呼応し合っているわけです。こうした構成的な配慮の他に、私はこの作品を血生臭い暴力描写では終わらせたくなかったという気持ちもありました。派手なクライマックスを描くことで、本来のテーマから観客の目をそらせてしまうと感じたからです。常に客観的な目、一歩下がった距離をおいた目でこの家族の状況を見つめることが重要だと考えました。そのことで、観客は単なるエンタテインメントだけではない、具体的な何かをこの作品から感じられるのではないかと期待したのです」
――きわめてミニマルな人間関係のなかで展開する作品ですが、物語に深く関わらない長女ジョゼフィーヌが妊娠検査をする場面が強く印象に残りました。
「とても重要な場面だと考えています。ジョゼフィーヌは成人に達しており、年の離れたジュリアンとは異なって彼女に親権が及ぼす影響は大きくありません。しかし、両親の関係や家庭環境は彼女にも同様に深く影を落とす。彼女のその後の人生に大きな影響を与えるのです。私が取材したところ、こうした環境で育った子どもたちはしばしばいくつかの選択肢を押しつけられることになる。男子の場合、自分もまた父親と同じように暴力的な夫になるか、あるいは暴力に過敏に反応することで、注意深く慎重な性格が醸成されていきます。女子の場合は、様々な手段を使ってできるだけ早く家庭から出ていこうとする。自分自身の家庭を築いたり、自立を急いだりするわけですね。この作品でも、彼女が自ら妻となり母親となることで、なんとか早く家庭から出ていこうとする姿が描かれています」
――ルグラン監督は、『ジュリアン』以前にほぼ同じキャストが同じ役名を演じる『すべてを失う前に』という短編を撮られていますね?
「映画で悲劇を描くにあたって、はじめ同じキャストによる三部作の短編を作ろうと考えていました。その一作目が完成した後、テーマを色々と考えるなかで、このあと短編を二つ作るよりも長編を一本作ったほうが形式として相応しいと考えたのです」
――俳優として活躍されているとはいえ、映画監督としていきなり長編を作るのに資金集めなどの苦労はありませんでしたか?
「私はとてもラッキーでした。短編を製作してくれたアレクサンドル・ガヴラスがこの『ジュリアン』でもプロデューサーを務めてくれたのですが、彼との出会いがなければこの作品を作ることは難しかったでしょう。私は映画学校を出ているわけではありませんし、この作品以前に長編映画の監督経験もありません。そんな私を信頼して財政面でもサポートしてくれる人がいたというのは、本当に恵まれた状況だったと思います」
――はじめての長編映画を作るにあたって、モデルにした映画作家などはいましたか?
「シナリオに関しては色んな映画を参考にしました。演出面では、私はミヒャエル・ハネケ監督やクリスティアン・ムンジウ監督の映画がとても好きなので、彼らから影響を受けていると思います」
――俳優として自作に出演したいという欲望はありませんでしたか?
「長編映画を監督するという経験が初めてのことで、私にとって非常に難しく、また大きな仕事でもありましたので、自分に役を与えることでそれをさらに複雑にしたくはありませんでした。舞台俳優として仕事をしているので、映画で役がもらえないというフラストレーションもなかったですし。また、この作品のなかに私が演じるべき必然性のある役が存在しなかったことも大きいですね」
――アントワーヌを演じたドゥニ・メノーシェが素晴らしかったですが、カメラの背後に立ちながらも、一人の俳優として彼に嫉妬を感じることはありませんでしたか?
「ドゥニは本当に素晴らしい俳優で、彼のような人が私の作品に出演してくれたことにとても大きな感謝と幸せを感じていました。だからジェラシーはなかったと思います。逆に、それを感じていたとしたら、ジュリアン役を演じてくれた子役のトーマス・ジオリアに対してだったかもしれませんね。私は10歳で俳優の仕事を始めましたが、彼がこの作品に出演したのと同じ年頃にあれほどの仕事ができたか考えてみると、これはちょっとジェラシーを感じざるを得ないです(笑)」
■私感 :
フランス映画の場合、私の映画鑑賞史上、抽象に過ぎて、いただけない映画も少なからず見受けられるが(例えば昨今では『バルバラ~セーヌの黒いバラ~』本ブログ〈December 06, 2018〉)、見応えのある説得力を帯びた良い作品も多い(例えば古くは『禁じられた遊び』本ブログ〈November 13, 2018〉、昨今では『おかえり、ブルゴーニュへ』本ブログ〈December 18, 2018〉、『オーケストラ・クラス』本ブログ〈January 24, 2019〉)。本作もまた、間違いなく後者の部類に入る。
この映画の邦題は『ジュリアン』、11歳になる家族の長男の名前である。対して、英題は“custody”、ずばり「親権」のこと。そして、原題は“jusqu'à la garde”。これは、もともと剣士や騎士の戦闘用語で、剣を敵の体に突き立て剣の鍔(つば)まで突き刺すことを言い表し、そこから「徹底的に」という意味で使用される。また“garde”自体に子供の親権という意味もある。したがって、本作が離婚した夫婦が激しく親権を争う物語である以上、そのoriginal titleこそ映画内容によくマッチした素敵なタイトルと言えよう。
フランスでは夫婦(両親)の離婚後も原則、共同親権や面会交流権が認められる。本作はまさしく、その制度の重みを逆説的な意味で考えさせられる映画というほかはない。家庭裁判所の判事が、なるべく父親と母親が均等に子供と接するような判断を下すとしても、しかし実際には、本作に見られる通り、判決内容次第で子供がとても危険な状況にさらされる場合がある―。
私は映画を観ながら終始、子、母、父、それぞれの痛みを感じつづけた。子、母、父といえども、生まれも育ちも複雑微妙に異なるがゆえに、それぞれが負う痛みも、これまた質的にも量的にも異なるものだろう。だから、私は個々の痛みを身につまされて共有できたと言えば、それはウソだろう…。しかし、それにしても、私は彼ら家族の現在と行く末に何か下腹部が引き絞られるような痛みをひしと感じ取ったことは確かだ。
ジュリアンは優しく、無垢な子供の心も生きている。しかし、不安と恐怖で歪んだ顔、そして眼差しの暗さが、私の頭から離れない。
私はまた、ジュリアンの姉ジョゼフィーヌに注目する。彼女がトイレで妊娠検査薬を使うシーン、また誕生日パーティーの終了後に恋人と共に「家出」するシーンが頭にこびりついて離れない。
そもそもドメスティック・バイオレンス(DV)とは、“自己不全感”から脆弱な自我を守るために、力を用いて家族をコントロールしようとするものであり、その責任を家族、特に配偶者の態度のせいだと思い込み、自己正当化に腐心することである。だから、虐待者が自己像を維持し、満足するために虐待が繰り返されるので、家族の中でも特に弱者である女子供が犠牲になってしまう―。
DVが振るわれる環境で育った男の子の発達には、二つの顕著な傾向があるといわれる。その暴力を再生産するか、あるいは暴力に対して常に身構えて、過度に警戒するかのどちらかである。ジュリアンは後者であり、警戒を怠らず、ささやかながら自分なりのやり方で母を父の魔の手から遠ざけようとする。
ジョゼフィーヌの方は、大人になるまで待つことを選ぶ。彼女も暴力的な環境で育った10代の少女に典型的な行動を取る。未熟にもかかわらず、自分の家庭を作るために家族から逃げ出し、誕生日の直後にボーイフレンドのサミュエルと一緒に家を出る。
ジュリアン&ジョゼフィーヌの母親であるミリアムは、強さと脆さを併せ持つが、地に足の着いた、感傷に浸ったりはしない女性だ。嵐を潜り抜け、前に進みながら人生を立て直さなければならないことを篤とわきまえている…。
そして、ジュリアン&ジョゼフィーヌの父で、ミリアムの夫であるアントワーヌ。私は本作初登場時~家庭裁判所での離婚調停/親権をめぐるオープニング・シーン~の彼を観たとき、妙に相半ばする思いが瞬間的に脳裏を過(よぎ)った。大柄な太り気味の体で威圧感があり、逞しそうな男だ…。何かDVでも振るいそうな粗暴で暗い感じの男だ…。
やがてアントワーヌの本性~病的な暴力性~が次第に露わになっていく。
彼は現実味のある人間としてミリアムと縒(よ)りを戻したいと願っている!しかし、幾度も敵意や嫉妬心を剥き出しにする言動は矛盾だらけで、誰にも理解されず孤立していく。仕事も辞め、家族からも嫌われていることで不満が高まる。自分の実家からも煙たがられ、家を追い出されたことで強い怒りが込み上げる。ジュリアンは母を守ろうと、自分の携帯から母の番号を消して、父が母に電話できないようにするが、こうした事が重なって彼の猜疑心はいや増す。そして、ついに恐怖に張りつめたドラマは戦慄のラストシーンに突入する。ジョゼフィーヌの誕生パーティーの夜、暴力的な父親は制御不能の途轍もない“理不尽な恐怖”と化し、集合住宅に暮らす母子のもとにひたひたと迫ってくる―。約15分にわたる戦慄のクライマックスの到来!
本作の俳優陣では、アントワーヌを演じたドゥニ・メノーシェ(Denis Ménochet、1976~)がひときわ目立つ演技巧者である。暴力を振るったり、他人を操ったりするという人間の暗部に真正面から取り組む、その体当たりの演技!内面の葛藤に囚われ、愛されようとしながら、否定の中で生きている不幸な男の内側に入り込む、その入魂の演技!メノーシェの粘度の高い巧演ぶりがあればこそ、私は知らず知らずのうちに作品の内側へ奥底へと引き込まれていくのだった―。