映画『手紙は憶えている』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2016年11月22日(火)TOHOシネマズシャンテ(東京都千代田区有楽町1-2-2、JR有楽町駅・日比谷口徒歩5分)で、19:10~ 鑑賞。

作品データ
原題 REMEMBER
製作年 2015年
製作国 カナダ ドイツ
配給 アスミック・エース
上映時間 95分

カナダ公開日 2015年10月23日
ドイツ公開日 2015年12月31日
日本公開日 2016年10月28日


「手紙は憶えている」
『スウィート ヒアアフター』『白い沈黙』のアトム・エゴヤン監督によるサスペンス・ドラマ。舞台は米国、多くのナチ残党がドイツ敗戦後に米国に渡る事実を基にしている。記憶も曖昧な90歳の老人が、第2次大戦の時にアウシュヴィッツで大切な家族を奪ったナチスの兵士を捜し、復讐を果たそうとする姿が描かれる。無名の新人脚本家ベンジャミン・オーガストは、これまでの“ホロコースト”を題材にした映画とは一線を画すアプローチで物語を作り上げた。主人公を『サウンド・オブ・ミュージック』『人生はビギナーズ』などの名優クリストファー・プラマーが演じ、マーティン・ランドー、ブルーノ・ガンツらベテラン俳優陣が顔を揃える。

アウシュヴィッツ収容所は、ユダヤ人の大殺戮が行われた収容所として戦後最も広く知られ、1979年には負の記憶遺産として世界遺産にも登録された。ナチス・ドイツが占領したポーランドの南西部に1940年設置、ヨーロッパ最大の複合収容所に発展していく。最初はポーランド人の反ナチ抵抗運動参加者をとらえて収容する強制収容所だったが、1941年6月から対ソ連侵攻が始まると、捕虜となったソ連軍兵士も大量に収容されるようになる。その4か月後にはソ連軍捕虜1万名を使ってアウシュヴィッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)の建設が始まり、ガス殺室と遺体焼却炉を併せ持った巨大なユダヤ人殺戮施設が1943年春に完成。1944年11月にガス殺が中止されるまでに計約110万人が犠牲になった。強制収容所の面も備わるアウシュヴィッツには、ユダヤ人だけでなく、政治犯ほか、「エホバの証人」信者、ロマ、本作にも登場する同性愛者等、さまざまな「民族共同体異分子」・「反社会分子」も収容されていた。cf. 本ブログ〈February 08, 2016〉記事

ストーリー
ゼヴ・グットマン(クリストファー・プラマー)は今年90歳で、ペンシルベニア州にある老人ホーム(高齢者ケア施設)で暮らしている。最近は認知症が進行し、最愛の妻、ルースが死んだことさえ忘れてしまう始末。記憶は目覚める度に消えたり戻ったりを繰り返す。
ある日、ゼヴは友人のマックス(マーティン・ランドー)から1通の手紙を託される。「覚えているか?ルース亡きあと誓ったことを。君が忘れても大丈夫なように、全てを手紙に書いた。その約束を果たしてほしい―」
二人はアウシュヴィッツ収容所からの生還者で、70年前に大切な家族をナチスの兵士に殺されていた。手紙には、二人の家族を殺したその男に関する情報が記されていた。名はオットー・ヴァリッシュ(Otto Wallisch)といい、現在は“ルディ・コランダー(Rudy Kurlander)”という偽名を使って暮らしているという。ルディ・コランダーと名乗る人物は、“4人”にまで絞り込まれていた。
車椅子で体の自由が利かないマックスに代わり、ゼヴは復讐を決意。「男の顔を知っているのはマックスと自分だけ。自分がやるしかない…」彼は1通の手紙とかすかな記憶だけを頼りに、単身でナチ戦犯「オットー・ヴァリッシュ」を探しに旅に出る。旅はすべてマックスが手配し、費用も彼持ち。駅には運転手が出迎え、ホテルは前払い、そして行先は彼の指示による。

ゼヴはオハイオ州クリーブランド行きの列車で、一人目の「コランダー」ブルーノ・ガンツ)のもとへと向かう。
途中で復讐を遂げるための道具として、老人でも扱える拳銃(オーストリア製の小銃グロック)を購入してセカンドバックに忍ばせる。
1人目の88歳の老人は、家族と暮らしていて、部屋でテレビを見ながら、1人盛り上がっていた。ゼヴは家族に通されて本人に会うと、いきなり銃口を向けてアウシュヴィッツにいただろうと問いただす。
男は身じろぎひとつせず、戦時中ナチスだったが、ロンメル将軍の指揮するアフリカ戦線で従軍し、アウシュヴィッツには行っていないと言う。彼が差し出した当時の写真と勲章の数々を見て、ゼヴは納得した。第1の「コランダー」は人違いだった。

ゼヴはホテルに戻り、マックスに1人目は人違いだったことを電話で報告する。そして、ホテルで眠りにつくと記憶を失っていく…。ホテルの部屋で目覚めた彼は、妻ルースを探すが、いるはずもない。手元にあるマックスの手紙を読んで、ルースが亡くなったことを理解する。また、復讐を遂げるために旅の最中であることも…。

2人目の「コランダー」ハインツ・リーフェン)は、カナダの老人ホームにいた。
ゼヴがアメリカとカナダの国境を抜け、老人ホームを訪ねると、男はベッドに寝たきりとなっていた。ゼヴは拳銃を取り出して、アウシュヴィッツにいたかと詰め寄る。
彼は腕に刺青の番号を持つユダヤ人、しかもナチスが目の敵にしてアウシュヴィッツに送り込んだ同性愛者だった。とんでもない思い違い!彼は自分と同じ囚人だったのだと、ゼヴは骨身にしみて思い知るとともに、すまなかったと泣きながら男を包容する。第2の「コランダー」も空振りとなった。

その頃、ゼヴの息子チャールズ(ヘンリー・ツェーニー)は、ホームから父親が行方不明になったとの連絡を受けて、必死に捜索していた。警察にも捜索願を出したが父親は一向に見つからない。

3人目の「コランダー」は、アイダホ州ブルノーの採石場の近くに住んでいることが分かった。 
ゼヴがタクシーで男の自宅へと向かうと、留守で誰もいない。仕方なく男が帰ってくるまで玄関のテラスで待っていると、1台のパトカーがやってきた。パトカーから降りてきた警官は、第3の「ルディ・コランダー」の息子、ジョン・コランダー(ディーン・ノリス)だった。彼が言うには、父は3カ月前に亡くなったとのこと。父親の古い友人だったことを伝えると、彼は快く家に招き入れてくれた。
ジョンは父親のことをとても尊敬してるようで、父親の遺品をたくさん見せる。そこには、ナチスドイツのハーケンクロイツの軍旗や、ヒトラーの著作物も多数あり、生前にヒトラーのことを崇拝していたことが伺えた。
ゼヴは彼に、父親はアウシュヴィッツにいたのかと問いかける。すると彼は、父はアウシュヴィッツになど行っていない、当時はまだ10歳で軍の調理人をしていただけだったと答えた。
全くの無駄足とわかり、ゼヴは帰ろうとする。その時、ゼヴの腕にユダヤ人の囚人番号が彫られているのを見て、彼の態度は豹変する。一体どういうことだ?アウシュヴィッツに収容され
ていたユダヤ人がなぜ父に会いに来たのか?そう言うと彼は逆上し、飼っている猛犬を放ってゼヴを襲わせた。彼は反ユダヤ主義者で、ゼヴに殺意を持つ。「薄汚いユダヤ野郎!!」身の危険を感じたゼヴは、とっさに拳銃を取り出して猛犬を→ゼヴに銃身を向けた彼を撃ち殺す。危機一髪だった!
返り血を浴びたゼヴは、シャワーを浴びる。そして、心身ともに疲労困憊して、その家でそのまま眠りについてしまう。目が覚めると、改めてマックスの手紙を読み、ルースが亡くなったこと、そして自分が殺人を仕出かしたことを理解し、ショックを受ける。電話でマックスに報告し、間違って罪のない人を射殺した事実を告げると、マックスは「どうする?続けるのか?」と聞く。ゼヴは「ここまで来て、今さら辞めるつもりはない」と答え、ネバダ州リノにいる4人目の男のもとへと向かう。

最後の男のところへ向かう途中、ゼヴは横断歩道で危うく車にひかれそうになり、頭を打って病院に搬送される。父親の行方を捜していた息子チャールズは、警察からの連絡で、病院へと急ぐ…。
ゼヴが病室でベッドに横たわっていると、そこに居合わせた美少女モリ―(ソフィア・ウェルズ)が話しかけてきた。眠りから覚める度に記憶がリセットされるゼヴだが、彼女がマックスの手紙~ゼヴの<記憶>そのもの~を代読してくれたことで想起する。ルースが亡くなった日に、ゼヴ本人が家族を殺したナチス、ルディ・コランダーことオットー・ヴァリッシュに復讐する誓いを立てたことを。
ナチ(Nazi)という言葉の意味さえ知らない清純な乙女がさりげなく朗読した※、ユダヤ人の70年越しの怨念がこもった手紙…。その文面に踊る言葉の数々を耳に留(と)めて、ゼヴはこっそりと病院を抜け出した。
一方、病院に到着したチャールズは、父が病院からいなくなったことを知り、後を追った。

※モリ―が朗読中、無邪気に「ナジーって?」と発問する。ゼヴがこれに対して、「ナチだ、悪い奴さ」と応答する。

4人目の「コランダー」ユルゲン・プロフノウ)は、タホ湖(Lake Tahoe)の畔で家族と共に住んでいることが分かった。ゼヴが男の自宅~緑豊かな素敵なログハウス~を訪問すると、娘のクリスティン(ジェーン・スピデル)と孫娘のインゲ(ステファニー・キンバー)が出迎えてくれた。
男はまだ眠っているようで、起きるまで待たせてくれと、ゼヴは自宅に上がり込む。そして、家の中のグランドピアノを見ると、自然と指が動きだし、リヒャルト・ワーグナー※の楽劇『トリスタンとイゾルデ』の一節「イゾルデの愛の死」(Isolde's Liebestod From Tristan and Isolde)を奏でる…。

リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner、1813~1883)は、19世紀ドイツを代表する作曲家。作曲にとどまらず文筆活動にも積極的に精を出した人物として知られ、音楽界だけでなく当時のヨーロッパの人々に広く影響を及ぼした。彼の音楽に熱狂・心酔していた人たちは、「ワグネリアン」と呼ばれ、ヒトラーも彼の音楽と思想を愛しワグネリアンを自称していた。ナチスは書籍や新聞、またラジオ・映画といった当時の目新しいメディアを積極的にプロパガンダの手段として利用しており、ワーグナーの楽曲もナチス党大会で演奏されるなど大いに利用されていた。そのため、今でもイスラエルを始めとするユダヤ社会では、ワーグナーの音楽はタブー視されている。

すると、ピアノの音を聞きつけ、2階から男が降りてきた。男はユダヤ人に身を変えた“ルディ・コランダー”だった。ゼブは声と顔を見た瞬間に、こいつこそが張本人だと確信する。ようやく本命にたどり着いた!
男は「いつか、君が来ると思っていた」と言うと、「家族に聞かれたくないから外で話そう」とゼヴを促し、二人だけでテラスへ移動する。
ゼヴは男に、君はアウシュヴィッツの元ブロック長で、私の家族を処刑しただろうと問い詰めると、男は何を言っている?と答えた。ならば思い出させてやろうといい、ゼヴはバックから拳銃を取り出す。
その時、チャールズが駆けつける。クリスティン、インゲ母娘と共にテラスに出ると、ゼヴが男に銃を突きつけているではないか。驚愕の目を見張る3人!チャールズは父親に「やめろ!」と叫ぶが、ゼヴは聞く耳をもたない。
なかなか口を割らない男にゼヴは業を煮やし、男の孫娘インゲに銃口を向け、真実を言わなければ引き金を引くと脅した。観念した男は、真実を語りだす。
自分は実はユダヤ人の囚人ではなくナチスの軍人だった⇒アウシュヴィッツのブロック長として多数のユダヤ人虐殺に加担した…。男の娘と孫は、祖父の突然の告白にショックを隠しきれない!
そして、男は自分の本名を名乗る。「クニベルト・シュトルム(Kunibert Sturm)」と。
「いや違う、お前はオットー・ヴァリッシュだろ」とゼヴ。「何を言っている?君こそがオットー・ヴァリッシュだ」と男は主張する。
そして、腕の囚人番号を見せながら言う。お互いにアウシュヴィッツのブロック長だったが、終戦時に罪を逃れるために、二人ともあえて腕に囚人番号を刺青し、ユダヤ人になりすまして、アメリカに渡ったのを忘れてしまったのか?
男の左腕には、ゼヴの囚人番号98814より一つ若い番号が刻まれていた。二人の囚人番号は、1番違いの連番だった…。
ゼヴはすべてを思い出した(I remember)!突如として彼の認知症の霧が晴れ、忌まわしい過去が蘇る。
ゼヴという名は偽名で、自分こそがオットー・ヴァリッシュで、アウシュヴィッツでマックスの家族を処刑したうちの一人だったのだ。認知症を患うゼヴにマックスは近づき、巧妙な復讐を果たすために、ゼヴに偽りの記憶⇒情報を植え付けていたのだった。
すべてを悟り、絶望したゼヴは、お互いの家族が見守る中、男(ルディ・コランダーことクニベルト・シュトルム)を射殺、自らも頭に銃口を向けて引き金を引く…。

ニュースで、事件のことが報道される。
老人ホームの人たちは、哀れなゼヴと同情する。しかし、マックスは言う。「彼は過去に自分のやらかしたことを理解しただけだ。ゼヴ・グットマンの本名はオットー・ヴァリッシュ、その正体はナチスでクニベルト・シュトルムと共にアウシュヴィッツで私の家族を殺害したんだよ…」
マックスが入居する施設にゼヴがやってきたのは、ほんの半年前だった。その半年間のうちに彼マックスは、用意周到な復讐計画を立案し実行したのだった。≪END≫

★ ≪第二次世界大戦後のナチス関連年表
1945年 4月30日、ヒトラーが総統地下壕で自殺。5月7日、ドイツ国防軍がフランスのランスで降伏文書に調印。翌8日、無条件降伏発効。これにより連合国4カ国軍(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連)による分割統治開始。11月20日、ニュルンベルク裁判(=第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判)が始まる(~1946年10月1日)。
1949年 5月23日、西側3カ国(アメリカ・イギリス・フランス)の管理地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立。10月7日、ソ連の管理地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。ドイツは東西の分断国家となる。
1960年 5月11日、アドルフ・アイヒマン※が、イスラエルの諜報機関モサドによって潜伏先のアルゼンチンで拉致され、翌年4月11日よりイスラエル・エルサレムでの裁判(=アイヒマン裁判)にかけられ、同年12月15日に有罪・死刑判決が下る。

アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann、1906年3月19日~1962年5月31日)は、ナチス親衛隊(SS)中佐。ヨーロッパ各地のユダヤ人をアウシュヴィッツはじめ6つの絶滅収容所へ強制移送する「総元締め」の役割を果たし、数百万人のユダヤ人殺害に決定的に関与した。戦後アルゼンチンへの逃亡に成功し、リカルド・クレメント(Ricardo Klement)という偽名を用いて1960年の逮捕まで潜伏生活を送っていた。cf. 本ブログ〈May 26, 2016〉記事

1962年 5月31日、アイヒマンの絞首刑執行。
1963年 12月20日、西独フランクフルトでアウシュヴィッツ裁判が始まる(~1965年8月10日)。イスラエルによるアイヒマン裁判で、ドイツ人の責任追及が十分でなかったことが明らかとなり、「ホロコースト」(=ナチ体制によるヨーロッパ・ユダヤ人大量虐殺)犯罪に対して、ドイツ人自らによる本格的な裁判として開廷された。アウシュヴィッツ収容所の副所長や医師等、22名が起訴された。cf. 本ブログ〈February 07, 2016〉記事
1977年 11月、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人、サイモン・ヴィーゼンタール※の名前を冠したサイモン・ヴィーゼンタール・センター※を設立。「ホロコースト」の記録保存や世界で反ユダヤ主義が横行しないよう監視を行う。

サイモン・ヴィーゼンタール(Simon Wiesenthal、1908~2005)は、第二次世界大戦中、ナチスによって肉親を殺害され~夫人を始めとする家族を失った他、親族のうち計89人が犠牲となった~、自らも数々の収容所をたらいまわしになり虐待されたが、奇跡的に生き残った。戦後、逃亡し行方の知れないナチ戦犯容疑者の徹底的捜索追及に尽力し、生涯で約1100人のドイツを中心としたナチス党員の犯罪者やドイツ軍の戦犯の逮捕に貢献した。名はドイツ語風に「ジーモン」とも表記される。
※サイモン・ヴィーゼンタール・センターは、ロサンゼルスに本部を置く非政府組織。「ホロコースト」の記録保存や反ユダヤ主義の監視を行ない、国際的影響力を持つ。また、現在も世界各地に潜むナチス戦犯を追い続け、「ナチ・ハンター」という異名も持つ。ナチスのユダヤ人迫害について、より認識を深めることを目的とした「寛容の博物館(Museum of Tolerance)」を運営しており、毎年数十万人の人々が訪れる。本作ではゼヴとマックスも、このセンターで宿敵“ルディ・コランダー”の情報を手に入れた


1989年 11月9日、ベルリンの壁崩壊。
1990年 10月3日、西ドイツ統一。
2011年 5月12日、ミュンヘン地方裁判所で、トレブリンカ絶滅収容所の元監視隊員であったジョン・デムヤンユクが、ユダヤ人ら2万8千人の殺害に関与したとして、禁固5年の有罪判決を言い渡された。デムヤンユク被告は翌年3月17日に老人介護施設で死亡、91歳だった。
2012年 7月18日、ハンガリーのブタペストで検察当局が、ナチス・ドイツのホロコーストに加担したとして、ラスロ・チャタリ容疑者を逮捕した。逮捕当時97歳だったチャタリ容疑者は、翌年8月10日に入院先の病院で死亡した。
2014年 6月18日、アメリカ連邦保安局が、アウシュヴィッツ強制収容所の元看守であるヨハン・ブライヤー容疑者(89歳)を逮捕した。ブライヤーは1944年5~10月にユダヤ人約21万6千人の殺害を幇助した罪でドイツ当局から逮捕状が出ていた。
2016年 6月17日、ドイツ西部デトモルトの裁判所で、アウシュヴィッツ強制収容所の元看守であるラインホルト・ハニング被告が、ユダヤ人ら約17万人の虐殺に関与したとして、殺人幇助罪で禁固5年の実刑判決を言い渡された。ハニング被告は94歳。

▼予告編



Trailer



私感
映画パンフ『手紙は憶えている』(編集:東宝ステラ、発行所:東宝(株)映像事業部、発行日:2016年10月28日)のページ端に、本作の核心をずばり衝く、次のような英文が記(き)されている。
Dark truths will come to light.(暗い真実はいずれ明るみになる)
It’s never too late for revenge.(復讐を求めるのに遅すぎるということはない)

クラブ ベテラン俳優クリストファー・プラマー(Christopher Plummer、1929年12月13日~)の芸が光る!
さまざまな試練に直面しながらも、人生最後の思いを必死に遂げようとするゼヴ・グットマン(Zev Guttman)を、御年85歳の老優が巧演・好演!
老いの不安や戸惑いと、認知症による記憶・意識の混濁と、容疑者一人一人の証言に接して増幅するナチスへの憎悪を、確かな演技力で体現している。細かな表情や身のこなしまで~ルースを呼ぶ声、おぼつかない歩き方、恫喝された際の反応~片時も目が離せない。

スペードクリストファー・プラマーの来歴
カナダ・オンタリオ州トロント出身。ピアニストになるために勉強していたが、1950年頃にカナダの舞台に俳優としてデビューし、53年にブロードウェイへ進出。世界各地でシェイクスピアなど多くの舞台に出演し、トニー賞ほか数々の栄誉に輝く。
スクリーンデビューは58年の『女優志願』。そして、不朽の名作となった『サウンド・オブ・ミュージック』(65年)のトラップ大佐役で一躍有名に。以降、テレビ・映画・舞台・ラジオと縦横に活躍し、多数の作品で悪役をはじめ幅広い役柄を演じる。
はじめは端整な顔立ちと美声を生かし、歴史ドラマやサスペンス映画で知的で重厚なキャラクターを多く演じたが、一転してサイコスリラーの名作『サイレント・パートナー』(78年)でパラノイア傾向のある不気味な犯罪者を演じてからは、70年代後半より悪役や強烈な脇役として登場することが多くなり性格俳優として脚光を浴びる。
90年代は『マルコムX』(92年)など複数の映画にも出演するかたわら、主にテレビでの主演を重ねていた。2000年代に至ると『ナショナル・トレジャー』(04年)や『シリアナ』(05年)など、再び映画で多数の作品に出演している。
09年の『終着駅 トルストイ最後の旅』ではオスカー(第82回アカデミー賞助演男優賞)初ノミネートされ、10年の『人生はビギナーズ』~主人公の息子に自らがゲイであることをカミングアウトし、余生を謳歌する父親を好演~で第84回アカデミー賞助演男優賞に輝く。82歳での受賞は、演技部門の受賞者の中では史上最高齢である。

ハート 私はこれまで、プラマーの出演作を何作観ただろうか。
遠い記憶を探れば、初めて出会ったそれは、1964年7月に日本公開の『ローマ帝国の滅亡』 だった。その後、記憶に誤りがなければ、私の鑑賞した作品は、次の通りである。
『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年)
『サンセット物語』(1965年)
『将軍たちの夜』(1966年)
『空軍大戦略』(1969年)
『ワーテルロー』(1969年)
『王になろうとした男』(1975年)
『インターナショナル・ベルベット/緑園の天使』(1978年)
『サイレント・パートナー』(1978年)
『ザ・アマチュア』(1981年)
『ドーバー海峡殺人事件』(1984年)
『ブロンドはお好き』(1986年)
『スター・トレックVI 未知の世界』(1991年)
『マルコムX』(1992年)
『ハードジャッカー/標高10,000フィートの死闘!』(1994年)
『インサイダー』(1999年)
『ビューティフル・マインド』(2001年)
『アララトの聖母』(2002年)
『ナショナル・トレジャー』(2004年)
『アレキサンダー』(2004年)
『シリアナ』(2005年)
『イルマーレ』(2006年)
『インサイド・マン』(2006年)
『終着駅 トルストイ最後の旅』(2009年)
『人生はビギナーズ』(2010年)
『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)
『トレヴィの泉で二度目の恋を』(2014年)

この都合27作を、私は学生時代このかた~1960年代から2010年代にかけて~、ほぼ公開順に観た(ただし1970~90年代については、前掲作よりもう少し多くの作品を観たように思うが、記憶が定かでない)
各作品に一定の思い出が残るものの、そのストーリー全体を今なお確(しか)と記憶にとどめる作品は、『サウンド・オブ・ミュージック』→『マルコムX』→『ビューティフル・マインド』→『アララトの聖母』→『アレキサンダー』→『終着駅 トルストイ最後の旅』→『人生はビギナーズ』→『ドラゴン・タトゥーの女』の8作に限られる。
そして、この8作中、鮮烈な混じりけのない感動~終生忘れ得ぬ感動!~を味わった作品こそ、ほかでもない、プラマーがジュリー・アンドリュース(Julie Andrews、1935~)と共演したミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』(原題:The Sound of Music、上映時間:174分、日本公開:1965年6月)だった。

『サウンド・オブ・ミュージック』
リチャード・ロジャース作曲、オスカー・ハマースタイン2世作詞、ハワード・リンゼイ、ラッセル・クラウス脚本によるブロードウェイ・ミュージカルを原作とするミュージカル映画で、監督は『ウエスト・サイド物語』(1961年)に続きミュージカルを手掛けたロバート・ワイズ。ナチス支配を乗り越えて生きようとするトラップ一家の姿を、アルプスの雄大な自然を舞台に、美しい音楽~「サウンド・オブ・ミュージック」、「マリア」、「もうすぐ17歳」、「私のお気に入り」、「すべての山に登れ」、「ひとりぼっちの山羊飼い」、「ドレミの歌」、「何かよいこと」、「エーデルワイス」、「さようなら、ごきげんよう」など劇中で歌われる数々の名曲~を盛り込んで描き出す。第38回アカデミー賞で作品賞・監督賞・編集賞・編曲賞・録音賞の5部門を受賞。

私はこの映画史に名を刻む“傑作ミュージカル”を、これまでに何度鑑賞してきたことか!
同作を観ること、映画館で10回ばかり、さらにVHSやDVDで繰り返し何遍(べん)となく、たぶん合算して30回以上に上るだろう。
3時間近い尺を一瞬たりとも飽きさせない作り!音楽の素晴らしさ~主演のジュリー・アンドリュースの透き通るような美しい歌声!~はもちろん、軽快なテンポとリズム、そして映像の躍動感は見事というほかはない。アルプスを望む圧倒的な自然、子供たちの豊かな表情…いつ見ても、心を鷲づかみにされる。
それは万人向けのミュージカル作品としては、まさしく最高峰に位置する金字塔ではあった。

同作では、見習い修道女で、天真爛漫・自由奔放なマリア・ライナー⇒マリア・フォン・トラップ(Maria Von Trapp)(ジュリー・アンドリュースの物語、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の退役将校で、ナチスの脅威にさらされる祖国オーストリアへの熱い思いと揺るぎない信念を持つゲオルク・フォン・トラップ(the Navy captain Georg Von Trapp)(クリストファー・プラマーの物語、そしてトラップ夫妻と7人の子供たち~リーズル(16歳)・フリードリッヒ(14歳)・ルイーザ(13歳)・クルト(11歳)・ブリギッタ(10歳)・マルタ(6歳)・グレーテル(5歳)~の家族の物語、この3種の物語が緊密に絡み合いながら、重層的・生成的に展開する。

ダイヤ 『サウンド・オブ・ミュージック』で大ブレイクしたクリストファー・プラマーは、ちょうど50年後に、悲劇系サスペンスの秀作『手紙は憶えている』で主演し、重厚な演技を披露するにいたった。

『サウンド・オブ・ミュージック』で、35歳のクリストファー・プラマーが演じたフォン・トラップ大佐は、ナチスの統治を嫌って祖国からアルプスを越えたオーストリア人。
そして『手紙は憶えている』で、85歳のクリストファー・プラマーが演じたゼヴ・グットマン=オットー・ヴァリッシュは、アウシュヴィッツで膨大な数のユダヤ人を死に追いやりながら、戦後はナチス逃亡犯としてユダヤ人に成り済ましてアメリカで生き延びていたドイツ人。
プラマーは俳優人生50年において、何とも不思議な巡り合わせを背負った―。

トラップ大佐=プラマーは、オーストリア・ザルツブルグのトラップ邸で自ら「エーデルワイス(Edelweiss)」をギターで弾き語りする。[彼はドイツに併合され消えゆく祖国オーストリアを想い、オーストリアの象徴として「エーデルワイス」(=セイヨウウスユキソウ〈西洋薄雪草、学名:Leontopodium alpinum〉、ヨーロッパで最も有名な高山植物)を愛でて歌う。]
そしてゼヴ=プラマーは、アメリカ・ネバダ州のタホ湖近くの「ルディ・コランダー」宅で自らワーグナーの楽曲をピアノで弾く。[劇中の別なシーンで、彼はユダヤ人の作曲家フェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn、1809~47)の「ピアノ協奏曲第1番ト短調作品25・第2楽章」(Piano Concerto No. 1 In G Minor, Op. 25: II. Andante)も演奏している。]
両場面とも、もともとピアニストを目指して、音楽の才能に長けたプラマーならではの見せ場である―。

『サウンド・オブ・ミュージック』から『手紙は憶えている』までの行程は、クリストファー・プラマーにとって俳優としての厚みのある演技人生を全開し、確固たる存在感をわがものとする【したがってまた、人類・人間の取返しのつかない過ちが奈辺にあるかを我々観客に広く知らしめる】長途の旅路にほかならなかった。

▼ cf. (♪) “Edelweiss(エーデルワイス)”(『サウンド・オブ・ミュージック』より):


*子供たちやマリア=ジュリー・アンドリュースが歌を歌うのは許したけれど、自分は頑なに拒否し続けたフォン・トラップ大佐(Captain Von Trapp)=クリストファー・プラマー。子供たち、そしてマリアに強く押されてついにギターを手に取り、歌う。
<エーデルワイス>は劇中ではオーストリアの国歌または民謡のように扱われているが、作曲リチャード・ロジャース(1902~79)、作詞オスカー・ハマースタイン2世(1895~1960)のコンビによる創作曲(最後の曲)であり、オスカー・ハマースタイン2世の遺作でもある。エーデルワイスの小さな白い花が持つ永遠の命を讃え、祖国を見守るようにと願う歌。



*ナチス・ドイツによるオーストリア併合の状況下、トラップ一家は中立国であるスイスへ亡命することを決意。→ザルツブルクの祝祭劇場で開かれた音楽祭(合唱コンクール)で、トラップ家「合唱団」は歌声を披露。⇒トラップ大佐は「オーストリアの皆さん。私は当分この国を離れます。お別れに歌を送ります。愛の歌です。祖国への愛の歌です。歌い継いで行ってください」と挨拶し、<エーデルワイス>を美しいクルーナー・ボイスで歌いはじめる。途中、彼が感極まって声を詰まらせると、それを助けるように、マリアと7人の子供たちの声が加わり、そして最後は会場全体が一体となった大合唱となる!

▼ cf. (♪) “The Sound of Music”(『サウンド・オブ・ミュージック』のテーマ曲):
映画の冒頭、ヒロインを演じるジュリー・アンドリュースがアルプスの山々に囲まれた緑の大地の上で歌い踊る…。『サウンド・オブ・ミュージック』全体をとおして、アンドリュースの存在感・演技力・歌唱力は圧倒的!その透き通った4オクターブのソプラノは、文句なしに素晴らしい!



▼ cf. Maria and the Captain dance together(『サウンド・オブ・ミュージック』より):
(Julie Andrews as Maria and Christopher Plummer as the Captain dance together in the 1965 Film version of THE SOUND OF MUSIC.)
トラップ邸で開かれた舞踏会。屋敷の中では、たくさんの大人たちがおしゃべりをしたり、ダンスを踊ったり。その様子をテラスで見ながら、トラップ家の子供たちは見よう見まねでダンスをやってみる。クルトの相手をマリアがしていると、そこにトラップ大佐がやってきてクルトと交代。大佐とマリアは「レントラー」(独語:Ländler)という、オーストリアに伝わるダンス(民族舞踊)を踊る。全部踊り終わらないうちにマリアはほっぺが真っ赤に…。マリアは大佐に恋をしていたのだ。 
プラマー&アンドリュースは、品格が高いダンス⇒優雅なステップを披露!それにしても、黒い燕尾服で正装した、若かりしクリストファー・プラマーのカッコよさが秀逸!




◆「私のウィーン行きとニューヨーク行き~『サウンド・オブ・ミュージック』に促されて~

私は1980年の夏、初めてオーストリアの首都ウィーンを訪問→約1か月半滞在。翌年の夏もウィーンに約1か月半滞在。この滞在中、幾度となく朝な夕なに、『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台(ロケ地)である(Salzburg)市内とザルツカンマーグート(Salzkammergut)地方を足の赴くままに散策した。

※ザルツブルクは≪音楽祭とモーツァルトの生誕地として世界中にその名を知られる、中世が息づく美しい街≫。ザルツカンマーグートは≪多くの山や湖に恵まれた、オーストリアを代表する景勝地≫。

私は1999年7月、初めてアメリカのニューヨークを訪問→以後2000年9月まで約1年3か月滞在。この間、【ブロードウェイ】シアターに足繁く通いつめた。
1965年に『サウンド・オブ・ミュージック』によってブロードウェイ・ミュージカルの存在を明白に認識して以降、私はその本場ミュージカルの観劇を切実に希求しつづけてきた。そして34年後、ニューヨーク・マンハッタンにあるアパート[住所:347 West 57th Street (between 8th Avenue and 9th Avenue)、そこはあの音楽の殿堂「カーネギー・ホール(Carnegie Hall)」(住所:881 7th Ave)から歩いて数分足らずの近い場所!]の住人となった私は、ついにその積年の夢を叶(かな)えるにいたった。

※アメリカには各地にブロードウェイ(Broadway)の名で呼ばれる通りがあるが、ニューヨークのマンハッタンのブロードウェイが日本人には最も有名である。このブロードウェイは本来、マンハッタン島を南北に縦断する全長20キロに及ぶ通りの名称である。しかし、一般に「ブロードウェイ」という場合には劇場街 (Theater District) の意味で使わることが多く、特に日常的に多くの有名な演劇や舞台、ミュージカルなどが開催されているタイムズ・スクエア周辺の一部を指すことが多い。「ブロードウェイ」という単語は今では、ブロードウェイ・シアター(Broadway theatre)の、また「ミュージカル」の代名詞ともなっている。

タイムズ・スクエア(Times Square)は、ニューヨーク市マンハッタン区ミッドタウンにある繁華街・交差点の名称。マンハッタン島の42丁目と7番街、ブロードウェイの交差を中心に位置し、東西は6番街から9番街まで、南北は39丁目あたりから52丁目あたりに広がるが、厳密な境界はない。ブロードウェイ・ミュージカルが上演されている各シアターが所在するシアター・ディストリクトの中心とほぼ一致する。

シアター・ディストリクト(Theatre District)は、劇場、映画館、レストラン、ホテル、娯楽施設、ほとんどのブロードウェイ・シアターが位置する、ミッドタウン・マンハッタンの一地区である。この地区は40丁目から54丁目、6番街の西から8番街の東まで及び、タイムズ・スクエアを含んでいる。ニューヨーク市は8番街の西の42丁目から45丁目までのエリアを加え、40丁目から57丁目、6番街から8番街に拡大し、「シアター・サブディストリクト」を定義している。公式ではないが、多くのオフ・ブロードウェイやオフ・オフ・ブロードウェイを含む、42丁目に面し、9番街から11番街にかけての地域、シアター・ロウも、シアター・ディストリクトの拡張と考えられる場合がある

※いわゆるブロードウェイは通常、客席数が500以上の大劇場(約40軒)であり、オン・ブロードウェイ(On- Broadway)と呼ばれる。ここで上演される作品は有名劇作家による大作揃いで、巨額な製作費用をかけた超一流のミュージカルが多い。ブロードウェイで当たった作品は、全世界でも上演される。
500席に満たない劇場もあり、それらはオフ・ブロードウェイ(Off-Broadway)と呼ばれ、主にブロードウェイから少し離れたダウンタウンに集まっている(*「オフ・ブロードウェイ」とは、ニューヨークのマンハッタンにある比較的小さい劇場であり、また、そこで上演されるプロの演劇を指す。ブロードウェイにあっても、劇場が小さければオフ・ブロードウェイと呼ばれる)。成功して当たり前なオン・ブロードウェイとは異なり、低予算ながら実験的・挑戦的な作品が多く上演される。オフ・ブロードウェイで成功を収めて、オン・ブロードウェイへとランクアップする作品や俳優たちも多い。
ブロードウェイではミュージカルが多いのに対して、オフ・ブロードウェイではストレート・プレイ(歌唱を含まない演劇)、パフォーマンス、1人芝居、ダンス、ミュージカル(歌唱を含む演劇)など様々なジャンルの作品が上演される。規模は小さいながらも、多彩なジャンルが上演できるオフ・ブロードウェイは可能性が広い。
さらに、小劇場やロフトなど、客席が100席未満のシアターもニューヨーク・マンハッタンに数百軒あるといわれる。オフ・オフ・ブロードウェイ(Off-Off -Broadway)と呼ばれるもので、オフ・ブロードウェイよりも一層芸術性・前衛性を求めた作品が多く上演される。


私は1999年から2000年にかけて、平均して週に2、3度~マチネ/ソワレを問わず~、オン・ブロードウェイは言わずもがな、オフ・ブロードウェイにもオフ・オフ・ブロードウェイにも足を踏み入れた。
訪れた40軒以上の劇場はどこも魅惑的な空間であり、そこで繰り広げられるミュージカルを始めとする様々な演劇は、私の心身を揺すぶり、新しい発見と楽しみをもたらす作品の連続だった。
私はこの素晴らしい、NYマンハッタン→ブロードウェイ体験をとおして、まざまざと実感した。【ブロードウェイ】という言葉は、もはや単なる狭義のそれ=「オン・ブロードウェイ」に矮小化してはならないこと、そうではなく、最広義~拡大解釈?~のそれ=「≪オン+オフ+オフ・オフ≫ブロードウェイ」としてとらえ返さなければならないことを。私にとって、【ブロードウェイ】こそは、あくまで「オン・ブロードウェイ」と「オフ・ブロードウェイ」と「オフ・オフ・ブロードウェイ」の有機的な統一体にほかならなかった。

私は2000年9月にアメリカから日本に帰国。
その後も平均して2年に1度、1か月ばかりニューヨーク・マンハッタンに滞在し、相変わらず【ブロードウェイ】の魅力と魔力に取り憑かれた日々を送りつづけ、今日にいたっている。