普通人の映画体験―虚心な出会い -15ページ目

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年3月9日(土)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、17:10~鑑賞。

「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」

作品データ :
原題 REBEL IN THE RYE
製作年 2017年
製作国 アメリカ
配給 ファントム・フィルム
上映時間 106分


世界的ベストセラー(全世界累計6500万部突破!)となった『ライ麦畑でつかまえて』の作者、J.D.サリンジャー(Jerome David Salinger、1919~2010)の知られざる半生に迫る伝記ドラマ(cf.本ブログ〈November 14, 2018〉)。サリンジャーの若き日にスポットを当て、その数奇な半生と創作の原点を描くとともに、名声を得た後に表舞台から姿を消した謎をひもとく。主演は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のニコラス・ホルト、共演にケヴィン・スペイシー、ゾーイ・ドゥイッチ、サラ・ポールソン。監督は『大統領の執事の涙』などの脚本を手がけ、本作が映画初監督となるダニー・ストロング。本作はケネス・スラウェンスキー(Kenneth Slawenski)が2010年に上梓した評伝“J.D. Salinger:A Life Raised High”(田中啓史訳『サリンジャー 生涯91年の真実』晶文社、2013年)を原作としている。

ストーリー :
1939年、ニューヨーク。20歳のジェリーことジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(ニコラス・ホルト)は、大学中退を繰り返していた。父は家業の食品輸入業を継がせようとするが、ジェリーは反発し、コロンビア大学の創作文芸コースを受講する。そこでは文芸誌『ストーリー』編集長でもあるウィット・バーネット教授(ケヴィン・スペイシー)が、作家志望の学生たちに己の“声”を物語にすることの重要さを教えていた。「君に生涯をかけて物語を語る意思はあるか?」バーネットにそう訊かれたジェリーは、短編「若者たち」を完成させ出版社に持ち込むが、ことごとく掲載を断られる。しかし最終的に、作品は『ストーリー』誌(1940年3・4月)に採用され、彼は作家としての第一歩を踏み出す。
そんな時、ジェリーは劇作家ユージン・オニールの娘、ウーナ(ゾーイ・ドゥイッチ)と出会い、一目惚れする。奔放なウーナに振り回されながら、マンハッタンの社交界に出入りして恋愛を楽しむジェリー。一方、作家としては短編小説を出版社に売り込むものの不採用が続く。やがて自分の分身ともいえるホールデン・コールフィールドを主人公にした短編「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」が権威ある『ニューヨーカー』に掲載されることが決まるが、その矢先に太平洋戦争が勃発。内容が戦時下にふさわしくないという理由で掲載は延期になり、1942年4月にジェリーは陸軍に入隊する。バーネットはジェリーに「生きて、ホールデンの物語を書き続けろ」と励ますのだった。
国内を転々とし、やがて防諜部員としてヨーロッパに送られたジェリーは、空き時間を見つけては執筆を続けた。戦争が終わったら結婚するつもりでいたウーナがチャーリー・チャップリンと結婚したという衝撃的な知らせや、日々激化する戦況に神経をすり減らす中、書くことだけが心の支えだった。しかし、ノルマンディー上陸作戦やその後の戦闘で多数の仲間を失い、さらにナチスの強制収容所の惨状を目の当たりにしたジェリーは力尽き、ドイツで神経病棟に入院する。
1946年。ジェリーはバーネットのもとで選集を出版するため、アメリカに帰国する。ところが、バーネットの出版社が経営難で計画は頓挫し、彼はバーネットに絶交を言い渡す。そして1950年、戦争のトラウマや周囲の人々の無理解に傷つきながらも、ジェリーはついに初長編「ライ麦畑でつかまえて」を完成させる。それまでのアメリカ文学とは全く異なる斬新な語り口を持った同作は、出版関係者の間では賛否両論だったが、翌年に発売されると読者の大反響を読んでベストセラーとなる。一躍時の人となったジェリーだが、1953年2月、マスコミやファンの狂騒に背を向けるかのようにニューハンプシャー州コーニッシュに転居する…。

▼予告編

2019年3月9日(土)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、15:25~鑑賞。

「クイーン ヒストリー 1973-1980」

作品データ :
原題 QUEEN - UNDER REVIEW: 1973-1980
製作年 2005年
製作国 イギリス
配給 ジェットリンク
上映時間103分


映画『ボヘミアン・ラプソディ』本ブログ〈December 10, 2018〉 で再び注目を集めたバンド「クイーン」の足跡を辿る音楽ドキュメンタリー。1973年のデビューから、世界的ヒット曲となった「地獄へ道づれ」をリリースした80年までの軌跡を追った。出演はクイーンのヴォーカル、フレディ・マーキュリー、ギタリストのサイモン・ブラドリー、音楽評論家のポール・ガンバッチーニ、同じく音楽評論家のマルコム・ドームほか。監督は『ボブ・ディラン 我が道は変る~1961-1965 フォークの時代~』『ブライアン・ウィルソン/ソングライター』シリーズなど、音楽ドキュメンタリー映画の第一人者であるロブ・ジョンストーンが務めた。

ストーリー :
音楽伝記ドラマ『ボヘミアン・ラプソディ』の記録的大ヒットで人気復活したイギリスのロックバンド、クイーン。彼らが送り出した革新的な作品の数々に秘められたエピソードと当時の音楽シーンを、クイーンを熟知する有識者たちと共に年代を追って検証する。主な登場曲:「炎のロックン・ロール 」「キラー・クイーン」「ボヘミアン・ラプソディ」「愛にすべてを」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「愛という名の欲望」「地獄へ道づれ」他。

▼予告編



▼ cf. QUEEN[ブライアン・メイ(Brian May、1947~)、ロジャー・テイラー(Roger Taylor、1949~)]独占インタビュー :

2019年3月5日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、17:50~鑑賞。

「山〈モンテ〉」

作品データ
原題 MONTE
製作年 2016年
製作国 イタリア/アメリカ/フランス
配給 ニコニコフィルム
上映時間 107分


イランの映画監督アミール・ナデリ(Amir Naderi、1945~)が、イタリア・オールロケで撮り上げた人間ドラマ。中世のイタリアを舞台に、宗教・自然・人間のすべてと対峙する孤独な男の戦いを神話的スケールの眼差しで描き出す。主演は『バスターズ』のアンドレア・サルトレッティ。

ストーリー :
中世後期イタリア。南アルプスの山の麓に、小さな村があった。アゴスティーノ(アンドレア・サルトレッティ)はその外れの部落で、妻のニーナ(クラウディア・ポテンツァ)、息子のジョヴァンニ(少年期:ザッカリア・ザンゲリーニ、青年期:セバスティアン・エイサス)と共に暮らしていた。だが、その地は壁のように聳える壮大な岩山に太陽の光を遮られ、思うように作物が育たない。部落の仲間たちは、よりよい暮らしを求めて去って行った。しかし、アゴスティーノとニーナは彼らの説得にも応じず、先祖の墓や亡き娘の墓があるこの地を離れようとはしなかった。飢えた家族と何とか生き延びるため、あらゆる手を尽くすアゴスティーノ。ところが、周囲の村の民たちからは異端者として差別され、遂にはそこに暮らすことさえも禁止され、家族は離れ離れになってしまう。もはや他になす術はなかった。神や自然、人間からも見捨てられたアゴスティーノは、たった一人で自分たちを苦しめる忌まわしき山~草木や動物など、命あるものを一切寄せつけない巨大な岩山~と対峙する…。

▼予告編

2019年3月5日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、14:00~鑑賞。

「バジュランギおじさんと、小さな迷子」⑴

作品データ :
原題 BAJRANGI BHAIJAAN
製作年 2015年
製作国 インド
配給 SPACEBOX
上映時間 159分


「バジュランギおじさんと、小さな迷子」⑵

インド映画として『ダンガル きっと、つよくなる』(2016年)、『バーフバリ 王の凱旋』(2017年)に次ぐ世界興収歴代3位を記録した大ヒット作。宗教的・政治的に激しく対立する隣国同士のインドとパキスタンを舞台に、インドの気のいい青年が、迷子になったパキスタンの6歳の少女を無事に母親のもとへ送り届けようと、国家や宗教の壁を越えて奮闘する心温まる二人旅を描いたハートフル・ストーリー。インドのスーパースター、サルマン・カーンが主演を務め、およそ5000人のオーディションから選ばれた子役のハルシャーリー・マルホートラ、『きっと、うまくいく』のカリーナ・カプール、『女神は二度微笑む』のナワーズッディーン・シッディーキーらが共演。『タイガー~伝説のスパイ~』でもサルマン・カーンとコンビを組んだカビール・カーン監督は、インドからパキスタンへの旅を描くにあたり、インド各地でロケを敢行。大都市のデリーをはじめ、パキスタン国境付近のパンジャーブ、ラジャスタンのタール砂漠カシミールの山岳地帯など、インドの壮大な大自然がスクリーンに彩りを与えている。

ストーリー :
パキスタンの小さな村。幼い頃から声が出せない障害を持つシャーヒダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は、心配した母親と一緒に、インド・デリーのイスラム寺院(「ニザームッディーン廟」)に願掛けに行く。しかし、その帰り道で母親とはぐれてしまい、1人インドに取り残されてしまう。困り果てたシャーヒダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱心な信者、パワン・クマール・チャトラヴェーディー(サルマン・カーン)だった。底抜けの正直者で、お人好しなパワンは、これもハヌマーンの思し召しと、親が見つかるまでシャーヒダーを預かることに。ところが、彼女は喋ることができず、名前も身元も一向にわからない。しかし、やがて習慣の違いから、イスラム教徒(ムスリム)であることが判明する。しかも、彼女の実家はインドと様々な点で敵対関係にあるパキスタンにあるらしい。事実を知って動揺するパワンだったが、紆余曲折の末、ついにパスポートもビザも持たないシャーヒダーを、国境を越えて親元に送り届けることを決意。かくして700キロに及ぶ、二人の波乱万丈の旅が始まった。果たしてシャーヒダーは、無事に母親と再会できるのか?そして、パワンはインドに戻ることができるのか…?
アップ
※シャーヒダー(Shahida)とムンニー(Munni) :
パキスタン領カシミールのスルターンプル(Sulatnpur)で生まれ育ったシャーヒダー。このShahidaという本名は、パキスタンで絶大な人気を誇るクリケット選手Shahid Afridi(シャーヒド・アーフリーディー、1975~)にあやかった、“a”の音で終わる女性形を活用した名前である。「ムンニー」とは、ヒンディー語(Hindi、インドの公用語~主に北部や中部で話されている言語~)で小さな女の子を呼ぶ言葉で、「お嬢ちゃん/おチビちゃん」といった意味を持つ。母親とはぐれた小さな迷子シャーヒダーと出会ったインド人のパワンやその周りの人々は、なにぶんにも迷子ちゃんが自分の名前も言えない~言葉を話せないし、まだ文字も教わっていない~ので、ともあれ彼女を「Munni」という呼び名で呼んでいるわけである。

※本作の原題である“Bajrangi Bhaijaan”について :
パワンの通称Bajrangi(バジュランギ)は、ヒンドゥー教(Hinduism)の猿の神ハヌマーン(Hanumān)[別名Bajrang(バジュラング)]の信奉者のこと。
ハヌマーン神はヒンドゥー教の聖典(叙事詩)『ラーマーヤナ』の主人公である英雄ラーマ(ヴィシュヌ神の化身の一つ)への忠誠を尽くす戦士であったことから、ラーマ神への帰依と忠誠を象徴するようになり、転じてヒンドゥー至上主義では外敵(イスラームを指すことが多い)と戦う戦士としてのイメージが与えられるようになった。したがって、「バジュランギ」という名前は、もともと敬虔な信仰と表裏一体の排他性・攻撃性を孕んでいる。
これに対して、Bhaijaan(バーイジャーン)はパキスタンのムスリムの言語ウルドゥー語で、「兄弟」を意味する呼びかけの言葉(「お兄さん/兄貴」といった感じ…)。それゆえ、原題は「バシュランギ兄貴」 という意味を有することになるが、本来的にBajrangi+Bhaijaanは相互に違和感のある結びつきである。
しかし、本作では主人公パワン⇒バシュランギからヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー強硬派)の暴力性を一切削ぎ落し、彼をあくまでも敬虔なヒンドゥー教徒として、人々から「バジュランギ“兄貴”」と慕われるほどに、非常に信心深く、誠実で純粋で正直な人間として描き上げる。現実の国家・宗教の争いに塗(まみ)れた〈憎しみ〉の物語を、市井の普通の人々の善意の〈愛〉の物語へと構造的転換を果たした、カビール・カーン監督(Kabir Khan、1971~)を始めとする本作スタッフの、その優れた力量に、私は脱帽するよりほかない。

なお、ヒンディー語はデーヴァナーガリー(devanāgarī)という文字を使う一方、ウルドゥー語は「ウルドゥー文字」~アブジャド(abjad)という右から左に書かれる文字~を使う。ところが、話し言葉ではヒンディー語とウルドゥー語は兄弟的な位置付けで、使う単語や用法に違いはあれど、ほぼ会話が通じてしまう。劇中でパワンがインドからパキスタンに渡っても話し言葉の問題がないのは、映画的な演出ではなく、そうした言語的背景があるため。

▼予告編



ルンルン バジュランギことパワンが初登場する華やかなダンスシーンで流れる“Selfie Le Le Re(セルフィーを撮ろう)”〈Music:Pritam、Lyrics:Mayur Puri、Singer:Vishal Dadlani、Nakash Aziz、Pritam〉 :


【インドのハリヤーナー州のクルクシェートラ(Kurukshetra)における猿神ハヌマーンのお祭り。サルマン・カーン(Salman Khan、1965~)演じるパワンは、巨大なハヌマーン神像の前で、バングラ・ビートの楽曲「Selfie Le Le Re」が流れる中、大勢の人たちと一緒に楽しくダイナミックに踊りまくる。そこでは『恋する輪廻 オーム・シャンティー・オーム』(ファラー・カーン監督、2007年)の音楽監督を務め、ロックバンドのボーカルとしても活躍する、ヴィシャール・ダッドラニ(Vishal Dadlani、1973~)がパンチの効いた歌声を響かせる。そのパワンの前に、母親とはぐれて、たまたまクルクシェートラに流れ着いた、ハルシャーリー・マルホートラ(Harshaali Malhotra、2008/06/03~)演じるシャーヒダーが現われる。彼女はパワンの情熱的なダンスを真顔で、じっと見つめながら、確信するのだった。<この人は、きっと自分を助けてくれる>と。それは二人の、まさしく運命的な出会いだった。】

▼ “Munni” - Emotional Scene :



▼ラストシーン :


「バジュランギおじさんと、小さな迷子」⑶
【パワンとシャーヒダーは、何とか砂漠の秘密の“抜け穴”を通ってインドからパキスタンへ。二人は途中で警官からインドのスパイと疑われながらも、ジャーナリストのチャンド・ナワーブ(ナワーズッディーン・シッディーキー)を始めとする様々な人々に助けられ、ようやくパキスタン領カシミールに辿り着く。
やがてシャーヒダーが故郷スルターンプルで母親との涙の再会を果たすも、パワンはパキスタン警察にスパイ容疑で逮捕され、「自白」強要の拷問を受ける。警察幹部のハーミド・カーン(ラジェシュ・シャルマ)は、パワンを調べるにつれ、彼が本当に国境の「抜け穴」を通ってパキスタンの迷子を届けるためにパキスタンにやってきた事実を理解する。だが、警察上層部はあくまでパワンを「インドのスパイ」に仕立て上げようとする。ハーミドは当局の命令に反発して、国家警察の誇りにかけてもパワンをインドに帰すことを決心する。
一方、チャンド・ナワーブはパワンとシャヒーダーのひたむきな二人旅をビデオに撮影してネットにアップしつづけた。ナワーブのビデオは、印パのニュースチャンネルも取り上げるまでになる。彼はパワンの釈放を求めるメッセージ~<パワンは決してスパイではなく、パキスタンの迷子がパスポートも旅券も持っていないため大使館にも保護されず、危険を承知でパキスタンに入って迷子を家に帰したのだ!>~を送り、印パ両国の人々に、国境地帯のナーローワール(Narowal)まで集まるように呼びかける。
ハーミドはパワンを雪に覆われた渓谷の国境検問所まで連れて行く。そこには、両国の多くの人々(約7000人のエキストラ)が集まっていた。インド側には、パワンの恋人ラスィカー(カリーナ・カプール)や彼女の父親ダヤーナンド(シャーラト・サクセーナ)の姿が見える。パワンはナワーブたちと別れを交わして徐(おもむろ)にインド領内に向かう。そこへ思いがけない奇跡が起きる。両親と共にパキスタン側にいたシャーヒダーが人々を掻き分けフェンス越しに、去っていくパワンの後ろ姿に向かって、絞り出すかのように声を発したのだ。「mama!(おじさん)」「Jai Shri Ram!(ラーマ神万歳)」※。
パワンは振り返り、パキスタン側へと近寄り、走ってくるシャヒーダーを抱き上げる!!】

※「Jai Shri Ram(ジャイ・シュリー・ラーム)」はヒンドゥー教徒の間では挨拶のように使われる言葉だが、パキスタンのムスリムが口にするものとしてはありえない言葉。それに対して、パワンは「アーダーブ」という手の平を顔に向けるイスラームの挨拶を返すのだった―。

音符 “To Jo Mila(君と出会って)”〈Music:Pritam、Lyrics:Kausar Munir、Singer:KK〉(本作のエンディングテーマ。本編でも少し流れる…) :



▼ Full Making :



■私感 :
インド映画にはどうして、こうも力強い個性があるのだろうか!
シンプルな“直球”で真っ向勝負を挑むその思想的・実践的姿勢が華やかで爽やかだ。“印パ紛争”~【1947年の英領からの分離独立以降今日まで続く、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒間の宗教上の対立を背景にした、カシミール地方の領有権などを巡るインド・パキスタン間の紛争】~という現在進行形の険悪な争い事を題材にした、この真っ当な“人間愛”の物語~【とことん善良でイノセントな男が愛くるしくてイノセントな少女のために危険で苛酷なハラハラドキドキの旅を続ける感動ストーリー】~は、いかなる凡夫の心をも鷲掴みにしてやまないだろう。

本作は端的に言って、インド人でヒンドゥー教徒のパワンと、パキスタン人でイスラム教徒のシャーヒダーのロードムービーであり、バディムービーである。
パワンはハヌマーン神に誓って嘘はつけない、気は優しくて力持ち、並外れて一途な「おじさん」。シャーヒダーは言葉をしゃべれず、もっぱら身振り手振りを交えて瞳と表情で喜怒哀楽を表現する、年端も行かぬ少女。二人は愛の交流を重ねて、次第に先入観に囚われない発想や相互理解の大切さを学んでいく。
どこか情けないところのあるおじさんと、しっかり者の少女が互いに補完しあって影響を与える。おじさんが悩んでいるときは少女が励ましてくれるし、子供らしい一面を見せた少女を、今度はおじさんが大人らしく引っ張る。最初は他人同士だった二人に、どこか“親子”のような関係が芽生えていく…。
そして究極的に、パワンとシャーヒダーはその命がけの二人旅を通して、それぞれの宗教的‐国家的縛り~ヒンドゥー教‐インドVSイスラム教‐パキスタン~を、素朴なヒューマニズムのもと、肩肘張らずに相対化し、ナチュラルに~先走った頭脳(先入観や偏見)ではなく、どこまでもヒューマンな心に基づいて~乗り越えていく…。そこでは、パワンとシャーヒダー相互の、単なる二者間のみの“閉じられた”愛ではなく、第三者へ開かれた“普遍的な”愛が育てられ、深められていった…。

私たち観客は押しなべて、本作を素直に無心で見入るかぎり、その純一無雑な「愛の物語」~「真っ当な人間が真っ当なことをする」という究極的にシンプルな美談~に感動が湧き、感激に浸り、場合によっては澎湃(ほうはい)と涙を流すことだろう…。
しかし、忘れてはならない。その種の“感動・感激”の質的内容に関わって、私たち日本人観客自らの宗教/国家/世界観(感)の何たるかもまた真っ直ぐに問われている点を。
私たち日本人は、これまでヒンドゥー教/インドを、イスラム教/パキスタンをどの程度まで対象化し、自覚的にとらえ直してきただろうか。大多数が印パ紛争をしょせんは対岸の火事として見過ごしてきたのではあるまいか。そして、ここが重大な点だが、印パ間の泥仕合に無関心で何の痛痒(つうよう)も感じない日本人にとって、自らの歴史的な問題状況~日本教-天皇教/(明治維新以降の)日本国家ナショナリズムの意識構造~を相対化・対象化することは難中の難事。本作に感動し感激するJapanese鑑賞人の場合、その感動・感激といった人間的な感情は果たして、全身を貫き、五臓六腑に染みわたるパワフルなものだろうか。それとも、単に刹那的な一過性の享楽的なものなのか。そこでの「真っ当であれ!正直であれ!人に親切であれ!」という極めてストレートな普遍的メッセージは、日本人一人一人の心の底深く真っ直ぐに、どの程度まで突き刺さるのだろうか…。

主人公パワンに扮し、プロデューサーとしても本作に関わるサルマン・カーンは、こう述べている。「この映画は、ヒンドゥー教とイスラム教、インドとパキスタンの対立を終わらせる可能性を秘めている」。これまで肉体美に裏付けられたインドを代表するアクションスターとして、インドの映画ファンから“サルマン兄貴”と慕われてきたサルマン。その肉体派アクションスターのイメージを一新して、本作で彼自ら「とても単純で、純情な男でありながら、とても強い男であり、全ての人に敬意と愛を抱き、嘘をつかず、何も悪いことをしない男」と評するパワンを見事に演じ切った(本作公式サイト-「プロダクションノート」)。
もう一人の主人公、6歳のシャーヒダーに扮した、映画初出演のハルシャーリー・マルホートラ(実年齢6歳!)。彼女のあどけない仕草の数々はすべて、とにかく可愛い。首を振る姿、手を小さく上げる様子、パワンの服の裾を小さくつかむ姿、そしてパワンがバカ正直に話すシーンでの〈あちゃあ、やってしまったノ〉という仕草…。豊かな表情と愛くるしい目だけで、くっきりした好ましい印象を残す好演は特筆に値する(セリフはラストシーンの「mama」と「Jai Shri Ram」の二つだけ)。共演のサルマン・カーンは、「彼女と一緒に演技ができて、素晴らしい時間になった。6歳にして俳優が必要な全てのものを持っている」と絶賛している(同上サイト「プロダクションノート」)。

ともあれ、私たち観客は程度の差こそあれ、本作に感動措(お)く能(あた)わず!
それは、まずは正攻法で行く不退転のポジティブパワーを発揮する脚本の上等さによるものだ。次いで、サルマンとハルシャーリーという、ベテランと新人の初顔合わせの共演の素晴らしさによっている。
この二つの力が両々相俟(ま)って、映画に大きな力~観る者を快く納得せしめる説得力~をもたらしたこと、これは間違いない。
2019年3月1日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、18:30~鑑賞。

作品データ :
製作年 2019年
製作国 日本
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 105分


「九月の恋と出会うまで」

松尾由美(1960~)の同名人気恋愛小説を実写映画化したファンタジック・ラブストーリー。不思議なマンションに引っ越してきたヒロインとその隣人で小説家志望の青年が、ヒロインを救った“未来からの声”の謎や“タイムパラドックス”による消滅の危機に立ち向かう中で織りなす切ないすれ違いの恋模様とその顛末を描く。主演は、『嘘を愛する女』の高橋一生と、『一週間フレンズ。』の川口春奈。『グッモーエビアン!』『猫なんかよんでもこない。』の山本透がメガホンを取った。

ストーリー :
志織(川口春奈)はオーナーの意向でアーティストしか入居できない、ちょっと風変わりなアパートに引っ越してきた。隣室には、不思議な雰囲気を醸す小説家志望の平野(高橋一生)が暮らしていた。ある夜、志織は自室で、空調用の壁の穴から突然、「こちらは1年後の未来です。あなたに危険が迫っています!」という奇妙な声を聞く。それは強盗殺人に遭うところだった志織を助けるため、時空を超えて届いた未来からの誰かの声だった。相談を受けた平野は、助かった志織に<タイムパラドックス>※が生じることに気づく。それは1年後の9月27日、志織の存在が消えることを意味していた。志織が助かるためには未来の声が誰なのかを突き止めて、1年後に同じことを再現してもらわなければならない。タイムトラベルをしてまで志織を助けたかったのは、一体誰なのか?一緒に未来の声の主探しに協力するうちに、急速に惹かれ合っていく平野と志織。しかし、自分の殻を破れずにいる平野は、志織にとって自分が運命の相手=未来の声の主ではないと考えるようになる。志織が時間<タイムパラドックス>によって消されてしまうまで、あと1年。次第に二人の別れのときは近づいていた…。

※タイムパラドックスとは、タイムトラベルをすることによって生まれてしまう時間軸上の矛盾のこと。本作では、タイムトラベルに成功した、1年後にいる“誰か”が志織の命を救ったことにより<タイムパラドックス>が生じた。現在の志織は助かったが、その“誰か”が1年後に志織を助ける理由がなくなるからである。タイムパラドックスが生じたことが現在にどんな影響を与えるのかについては諸説ある。本作では平野は、1年後に志織の存在そのものが矛盾点として世界から消し去られ、歴史上存在しなかった人物になってしまうという「矛盾点の消失」説に基づいて行動する。

▼予告編

2019年2月26日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、20:20~鑑賞。

「ロボコップ」

作品データ :
原題 RoboCop
製作年 1987年
製作国 アメリカ
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 103分

米国初公開 1987年7月17日
日本初公開 1988年2月11日

犯罪多発都市デトロイトを舞台に、殉職した警官がサイボーグ警官「ロボコップ」となって蘇り、犯罪組織と熾烈な戦いを展開するSFアクション・アドベンチャー。監督はこれが日本初公開作品となるオランダ出身のポール・バーホーべン(Paul Verhoeven、1938~)。主役~ロボコップとして生まれ変わる警官アレックス・マーフィ~を演じたのは、『新・明日に向って撃て!』(1979年)のピーター・ウェラー(Peter Weller、1947~)。

ストーリー :
近未来。世界は混乱の極みに達し、反乱鎮圧のため核爆弾が使われる時代だった。デトロイトでは、旧市街が犯罪の巣窟と化し、警察経営を民間の巨大企業OCP(オムニ・コンシューマー・プロダクツ)が請け負っていた。OCPは市街再開発のため、犯罪一掃をめざし、会長(The Old Man、ダニエル・オハーリー)が重役会議を召集した。副社長のジョーンズ(ロニー・コックス)は、巨大な警察ロボットED-209を披露するが、公開実験は失敗に終わった。若いモートン(ミゲル・フェラー)は、サイボーグ警官“ロボコップ”のアイディアを売り込み、社長の承認を得た。リード(ロバート・ドキイ)が指揮をとる南署へ、マーフィ(ピーター・ウェラー)が配属され、タフな美人刑事ルイス(ナンシー・アレン)とコンビを組むことになった。ピストルをくるくる廻す仕草を指摘され、「息子の好きなTVヒーローの真似なんだ」と答えるマーフィ。強盗一味を追跡して廃工場へ二人は潜入した。だが、逆に一味にやられてしまう。一味のリーダーであるクラレンス(カートウッド・スミス)は悪辣な男で、マーフィをなぶり殺しにする。モートンはマーフィの身体を土台にロボコップを作りあげ、南署に配属した。ピストルをくるくるまわす仕草に、ロボコップがマーフィと気付くルイス。しかし、彼に過去の記憶はなかった。犯罪者を続々とつかまえてヒーローとなったロボコップだが、クラレンス一味に射たれる悪夢に悩まされて勝手に行動を始めた。ロボコップはコンピュータから自分の正体を知った。モートンはジョーンズを馬鹿にして怒らせてしまう。モートン宅をクラレンスが爆破。クラレンスとジョーンズは手を結んでいたのだ。ロボコップは麻薬取引の現場に踏み込み、クラレンスを痛めつけ、ジョーンズが黒幕ということを知って、OCPのビルに行く。だが、ロボコップは「OCP役員に危害を加えない」とするプログラムが作動し、手も出ない。ED-209に襲われ、さらに市警に囲まれてしまう。ルイスの助けで、何とか廃工場へ隠れた。ジョーンズの命でクラレンス一味が襲撃してきた。死闘の末に彼らを射殺するが、ルイスが頻死の重傷を負う…。彼女に「大丈夫、生き返るよ。俺のように」と言って、ロボコップは再びOCPビルヘ。重役会議に乱入して、ジョーンズの悪業を糾弾した。会長(The Old Man)がジョーンズに「お前はクビだ!」と宣告した途端にロボコップの銃が火を吹く。「いい腕だ。名前は?」と問いかける会長に、ロボコップは「マーフィ」と答えると、笑みを浮かべながら颯爽と会議室を後にするのだった。

▼ Official Trailer



▼ ED-209 Malfunction Scene :



▼ birth & reveal scene :



▼ Best Scenes :



▼ Final Scene :



▼ The Making of Robocop(1987) :



■私感 :
本作の、日本での劇場初公開が1988年2月11日。私はこの〈劇場版〉を、同年2月中に観たように思う。なぜなら、31年も昔のことながら、その鑑賞日が私の誕生日2月25日前後だった点が妙にはっきりと記憶にあるからだ。

本作が低予算で作られながらも大ヒットしたことで、続編の『ロボコップ2』(アーヴィン・カーシュナー監督)と『ロボコップ3』(フレッド・デッカー監督)が、後にテレビシリーズやアニメ、アメコミなどが、さらに1987年版のリメイクとして『ロボコップ』(ジョゼ・パジーリャ監督)が製作された。私は『ロボコップ2』(日本公開:1990年7月27日)→『ロボコップ3』(日本公開:1993年4月17日)→リメイク版『ロボコップ』(日本公開:2014年3月14日)の3作を、劇場公開順に鑑賞。私の場合、『ロボコップ』シリーズについては、これまで映画館での鑑賞に限られており、TV版・VHS版・DVD版には一切接したことがなかった。

今回31年ぶりの本作再見。この〈ディレクターズカット・4K版〉~アップリンク吉祥寺では2K上映~に見入るほどに、言いようのない懐かしさが心の底から湧き出し続けた…。
現在の超次元的映画と比較すれば、本作の映像が総じて古いことは否めないだろう。しかし、当時の映像技術であのロボットの特撮(SFX)を撮ったのは、見事なものだ。100分余りの映画にしては、余計なシーンもほとんど見当たらず、洗練された巧みな作りとなっている。
本作は単なる荒唐無稽なSFアクションではない。残虐さとシニカルさとエンタメをうまく融合させた良作だ。そこでは、自らの肉体と心を失った男が、それでもなお奪われなかった“名前”と“記憶”というアイデンティティーを再び再定義し、“マーフィー”になるまでの物語が展開している。

本作が(初見以来)今なお私に格別の興味を持たせる問題は、第一に警察が私企業(「オムニ社」)によって経営されていること。そこでは、公共部門の市場化の行き着くところ、「24時間休まずに働くことができる警官」が必要とされて“ロボコップ”が導入された。また第二に、ロボコップの頭脳には、基本命令として警官の任務たる「法の遵守」「犯罪者の逮捕」「弱者の保護」の3つが刻み込まれ、さらに隠しコマンドとして、第4の命令「製造元であるオムニ社の幹部には絶対服従」が存在すること。そのため劇中で、人の心を持つサイボーグ・ロボコップが一般市民と彼らを弾圧するオムニ社側との板挟みとなって苦悩するシーンが見せ場になっている。

本作は私にとって印象深いシーンが多い。中でも初見時・再見時ともに、強く確実に印象づけられたのは、警官アレックス・マーフィの死亡シーンであり、続くロボコップ誕生の目覚めのシーンであり、エンディングにおける、オムニ社会長「Nice shooting son, what's your name?」→ロボコップ「Murphy」の会話シーンである。

本作のキャスト陣について言えば、私が三十余年の久しい間、何とか記憶にとどめつづけた俳優はただ一人、アレックス・マーフィ⇒ロボコップの相棒警官アン・ルイス役を演じたナンシー・アレン(Nancy Allen、1950~)だけ。残り全員が~映画史に残る残虐なキャラクターとして知られるクラレンス・ボディッカーに扮したカートウッド・スミス(Kurtwood Smith、1943~)さえも~忘却の彼方に沈んでいた。
もちろんロボコップというキャラクター自体は、私にとって一度見たら忘れることができない存在だ。ロボコップの登場シーン一つ一つにセンスが漂う!もともとロボコップは、ギャングに殺された警官アレックス・マーフィが【その遺体のうち、脳と内臓だけが残され、体のほとんどがマシンに置き換えられることで】鋼鉄のアーマーに包まれて誕生したものだ。しかし、当のアレックス・マーフィ⇒ロボコップを演じたピーター・ウェラーというアメリカの男優のことを、私は(今回の再見直前まで)すっかり忘れ去っていた。
だが、なぜかアメリカの女優ナンシー・アレンについては、その容貌を含めた彼女のおよその輪郭を、私はいつまでも思い浮かべることができた。ルイスとマーフィ⇒ロボコップの間に、複雑な感情の絡みはないものの、不思議なつながりの糸を感じさせるような連帯感が生まれている…。この二人の人間関係が醸し出す雰囲気は、初見時の私を、そして再見時の私を、どこか安らかな気分に誘い込むものだった。
なお、アン・ルイス⇒ナンシー・アレンは、『ロボコップ2』→『ロボコップ3』にも登場するが、『ロボコップ3』で残念ながら殉職!一方、ロボコップ⇒ピーター・ウェラーは『ロボコップ2』には出演するが、『ロボコップ3』で主役交代となり、ロボコップ(アレックス・マーフィ)をロバート・ジョン・バーク(Robert John Burke、1960~)が演じる。

本作の〈劇場版〉と〈ディレクターズ・カット版〉について簡単に触れたい。
本作は一見ヒーロー映画ながら、暴力・流血描写が激しいために、1987年劇場公開版では各国映画の「レイティング・システム(rating system)」に合わせて、シーン削除が行なわれている。一方で、上映禁止指定を回避するために切られてしまった残酷シーンなどを復活させたディレクターズ・カット版が存在する。日本で、このディレクターズ・カット版が視聴可能となったのは、2007年8月発売のDVD「新生アルティメット・エディション」においてである。
私は今回『ロボコップ』の再見に際して、〈ディレクターズ・カット版〉を鑑賞した。では、それは私が初見時に観た〈劇場版〉とは、どう違って見えただろうか?なにぶんにも31年も前のことで確言はできないが、ストーリーや設定の大きな改変は見られず、私には両者間にさしたる相違はないように思える。上映時間が日本の劇場公開版で103分(一説に102分)、ディレクターズ・カット版で104分であるように、尺にもたいして違いはない。ただし、私が唯一はっきりと気づいた点がある。アレックス・マーフィがクラレンスら凶悪な犯罪グループに殺されるシーンについては、〈ディレクターズ・カット版〉の方が〈劇場版〉より何分か長くなっている―。
2019年2月26日(火)シアター・イメージフォーラム(東京都渋谷区渋谷2-10-2 イメージフォーラムビル、JR渋谷駅宮益坂口から徒歩約7分)で、16:20~ 鑑賞。

「金子文子と朴烈」 (2)

作品データ :
原題 박열
英題 Anarchist from Colony
製作年 2017年
製作国 韓国
配給 太秦
上映時間 129分


「金子文子と朴烈」 (1)

大正期の日本に実在した無政府主義者・朴烈(パク・ヨル、1902~74)と金子文子(1903~26)の鮮烈な愛と闘いを活写する歴史ドラマ。関東大震災の混乱の中で日本政府によってスケープゴートにされた2人が、弾圧に屈することなく、獄中でも互いの愛と信念を貫き、国家権力に敢然と立ち向かう気高き生き様を見つめる。主演は『探偵ホン・ギルドン~消えた村~』のイ・ジェフンと『空と風と星の詩人~尹東柱(ユン・ドンジュ)の生涯~』のチェ・ヒソ。本作には多くの日本人・在日韓国人俳優が参加。弁護士・布施辰治を演じた山野内扶、韓国を拠点に活動する在日コリアンの俳優キム・インウ、そして金守珍 (キム・スジン)をはじめとする劇団「新宿梁山泊」のメンバーが顔を揃える。監督は『ソウォン/願い』 『王の運命―歴史を変えた八日間―』のイ・ジュンイク。2017年6月28日韓国で劇場公開され、1週間足らずで観客動員数100万人を記録した。日本では2018年3月9日に第13回大阪アジアン映画祭にて『朴烈(パクヨル) 植民地からのアナキスト』の邦題で初公開後、2019年2月16日に『金子文子と朴烈』と改題されて一般公開された。

ストーリー :
1923年、東京。社会主義者たちが集う有楽町のおでん屋で働く金子文子(チェ・ヒソ)は、「犬ころ」という詩に心を奪われる。この詩を書いたのは、朝鮮人アナキストの朴烈(イ・ジェフン)。出会ってすぐに彼の強靭な意志とその孤高の魂に共感した文子は、唯一無二の同志、そして恋人として共に生きることを決めるのだった。そんな中、二人の発案により日本人や在日朝鮮人による「不逞社」を結成。しかし同年9月1日、日本列島を襲った関東大震災により、二人の運命は大きなうねりに巻き込まれていく。内務大臣・水野錬太郎(キム・インウ)を筆頭に、日本政府は震災による人々の不安を鎮めるため、朝鮮人や社会主義者らを無差別に総検束。朴烈や文子たちも検束された。社会のどん底で生きてきた二人は、社会を変えるため、そして自分たちの誇りのために、獄中で闘うことを決意。やがて、その闘いは韓国にも広まり、多くの支持者を得ると同時に、日本の内閣を混乱に陥れていく。しかし、国家を根底から揺るがす歴史的な裁判に身を投じていく二人には、過酷な運命が待ち受けていた…。

▼予告編

2019年2月26日(火)吉祥寺オデヲン(東京都武蔵野市吉祥寺南町2-3-16、JR吉祥寺駅東口徒歩1分)で、12:20~鑑賞。

「ファースト・マン」

作品データ :
原題 FIRST MAN
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 東宝東和
上映時間 141分


『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督&ライアン・ゴズリングのコンビが再びタッグを組み、人類で初めて月面に足跡を残した宇宙飛行士ニール・アームストロング(Neil Armstrong、1930~2012)の半生を映画化した伝記ドラマ。ジェームズ・R・ハンセン(James R. Hansen)によるアームストロングの伝記“First Man: The Life of Neil A. Armstrong”(2005)(日暮雅道・水谷淳訳『ファーストマン:ニール・アームストロングの人生』SBクリエイティブ、2007年)を原作に、人類初の有人月面着陸という壮大なミッションに立ち向かった男たちの過酷な道のりと、歴史的偉業を成し遂げたアームストロング船長の知られざる素顔を、圧倒的臨場感の映像とともに描き出す。共演はクレア・フォイ、ジェイソン・クラーク、カイル・チャンドラー。

ストーリー :
1961年、空軍のテストパイロットを務めるニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)は、幼い娘カレンを病気で亡くす。いつも感情を表に出さない彼は、妻のジャネット(クレア・フォイ)の前でも涙一つ見せなかったが、1人になるとこらえ切れず咽び泣く。そして、悲しみから逃げるように、NASAのジェミニ計画の宇宙飛行士に応募する。1962年、宇宙飛行士に選抜されたニールは、妻と長男を伴ってヒューストンへ。有人宇宙センターでの訓練と講義を受けることに。指揮官のディーク・スレイトン(カイル・チャンドラー)は、世界の宇宙計画をリードするソ連も成し得ていない“月”への着陸を目指すと宣言。月に到達する小型船と帰還のための母船のドッキングを実証するジェミニ計画が成功すれば、月面に着陸するアポロ計画へと移行することが決まる。やがて、ハードな訓練を乗り越え、連帯感が芽生える飛行士たち。その中には、エリオット・シー(パトリック・フュジット)やエド・ホワイト(ジェイソン・クラーク)がいた。ある日、ソ連が人類初の船外活動に成功。又しても先を越されてしまう。1966年、ニールはジェミニ8号の船長として史上初のドッキングを命じられる。代わりにその任務から外されたエリオットが、訓練機の墜落事故で命を落とす。友の無念を胸に、デイヴ・スコット(クリストファー・アボット)と2人、ジェミニ8号で飛び立ったニールは、アジェナ目標機とのドッキングに成功。ジェミニの回転が止まらなくなる事故に遭遇しながらも、冷静な判断で危機を脱する。こうしてアポロ計画へと移行し、パイロットにはエドが選ばれる。だが1967年、アポロの内部電源テスト中に火災が発生。エドと2人の乗組員が死亡する事故に。アポロ計画が世間の非難を浴びていた1969年、月に着陸するアポロ11号の船長にニールが任命される。乗組員はバズ・オルドリン(コリー・ストール)とマイク・コリンズ(ルーカス・ハース)の2人。出発の日、ジャネットは息子たちに黙って行こうとするニールに、「帰れない場合の心構えをさせて」と訴える。無邪気に笑う次男の横で、長男は父に「戻ってこれる?」と尋ねるのだった。家族と別れ、宇宙服に身を包み、ニールたち3人はついに“未知”へと飛び立つ…。

▼予告編



▼ Behind the Scenes :



[※追記(2019/07/15):2019年7月9日(火)、本作を目黒シネマで、12:55~再見]
2019年2月22日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、19:15~鑑賞。

「アリータ:バトル・エンジェル」

作品データ :
原題 ALITA:BATTLE ANGEL
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 20世紀フォックス映画
上映時間 122分


木城ゆきと(1967~)のSF漫画『銃夢(ガンム)』(1990~95年)を、同作の映画化を長年にわたり熱望していたジェームズ・キャメロン(James Cameron、1954~)の脚本・製作により、ハリウッドで実写映画化したSFスペクタクル・アクション。クズ鉄の中から拾われた、記憶をなくしたサイボーグの少女が、人としての感情に目覚めていくさまと、“最強兵器”という自らの宿命に立ち向かっていく中で繰り広げる壮絶なバトルの行方を、最新の映像技術を駆使した迫力のアクション満載に描き出す。監督は『シン・シティ』のロバート・ロドリゲス。主人公アリータ役は『メイズ・ランナー』シリーズのローサ・サラザールが務め、いずれもオスカー俳優であるクリストフ・ヴァルツ、ジェニファー・コネリー、マハーシャラ・アリが共演。

ストーリー :
数百年後の未来。サイボーグの少女アリータ(ローサ・サラザール)は、奇跡的に脳だけが無傷の状態で、アイアン・シティのスクラップの山の中で発見される。サイバー・ドクターのイド(クリストフ・ヴァルツ)によって助け出され、新たな機械の身体を与えられ、目を覚ましたアリータ。しかし、彼女は長い休眠状態のために、自分の過去も、自分が今いる世界についてなど、一切の記憶を失っていた。あるとき、ふとしたことから自分が並外れた戦闘能力~あどけない少女の外見とは裏腹の驚異的な格闘スキル~を持っていることに気づくと、自らの出生の秘密を探ることを決意する。その過程で、やがて世界の腐敗に気づいたアリータは、世界を変えようと挑むが…。

▼予告編



▼メイキング映像 :

2019年2月19日(火)ヒューマントラストシネマ有楽町(東京都千代田区有楽町2-7-1 有楽町イトシア・イトシアプラザ4F、アクセス:JR山手線・有楽町駅中央口から徒歩1分)で、16:40~ 鑑賞。

「ちいさな独裁者」

作品データ :
原題 DER HAUPTMANN
(“Hauptmann”とはドイツ語で「大尉」の意)
製作年 2017年
製作国 ドイツ/フランス/ポーランド
配給 シンカ/アルバトロス・フィルム/STAR CHANNEL MOVIES
上映時間 119分


『RED/レッド』や『ダイバージェント』シリーズなどハリウッドで活躍するロベルト・シュベンケ監督が母国ドイツでメガホンをとり、ドイツ敗戦直前の混乱期に起こった驚きの実話を映画化した戦争サスペンス。名もなき一人の脱走兵が、偶然手に入れたナチス将校の軍服を着て身分を偽り、騙された多くの兵士を部下に従え、次第に冷血な暴君~ヒトラーをも想起させる怪物的な“独裁者”~へと変貌していくさまをサスペンスフルに綴る。ナチス将校に成り済ます脱走兵に『まともな男』のマックス・フーバッヒャーが扮するほか、共演に『僕とカミンスキーの旅』のミラン・ペシェル、『ヴィクトリア』のフレデリック・ラウ、『顔のないヒトラーたち』のアレクサンダー・フェーリング。

ストーリー :
第二次世界大戦末期の1945年4月、敗色濃厚なドイツでは、兵士による略奪などの軍規違反が相次いでいた。命からがら部隊を脱走したヴィリー・ヘロルト(マックス・フーバッヒャー)は、偶然にも道端に打ち捨てられた軍用車両の中で大尉の軍服を発見する。それを身に着けてナチス将校に成りすますと、ヒトラー総統からの命令と称する架空の任務をでっち上げるなど言葉巧みに、道中で出会った兵士たちを次々と配下に従えていく…。かくして奇妙な寄せ集め集団“ヘロルト親衛隊”のリーダーとなった彼は、強大な権力の快楽に酔いしれるかのように傲慢な振る舞いをエスカレートさせ、ついには大量殺戮へと暴走を始めるが…。

▼予告編



◆ ロベルト・シュヴェンケ(Robert Schwentke、1968~)監督インタビュー①(CinemaTribune-「誰もが何らかの理由で許してしまった末に起きた事」 2019年2月8日) :
──これまでハリウッドで活躍されていましたが、今作はドイツに戻り、ドイツ語圏の俳優でドイツの歴史を撮りました。テーマを先に決めてドイツで撮ったのですか?その逆でしょうか。
監督:きっかけは物語です。だから、ドイツの製作でドイツ語で撮らなければならないのは明白でした。

──物語のどんなところに惹かれたのですか?
監督:この物語には、人間が持ち合わせている本質が反映されていると思う。つまり、人間というのは暴力や不正、不公平なことを他者に対して行うことが出来てしまうが、それが何故なのか分からない。そういった部分を模索できるテーマだと思った。もうひとつ、国家社会主義の力学にも興味があった。国家社会主義は、末端の人たちも政策を推し進めていく構造になっているが、現代のドイツには、「悪いのはイデオロギーに突き動かされて動いていたトップの人であって、末端の人々はイノセントな存在であり、罪はない。」という神話がある。でもそれは本当のことではない。だから、構造の末端にいる人々がどうだったのか、掘り下げてみたいと思ったんだ。
この虐殺は、関わった全ての人がそれを許してしまったから起きたこと。いつでも誰かが止めることは可能だったのに、誰もが何らかの理由で許してしまった。あるいはそれを求めた結果だ。言い換えれば、誰もがそれを止める力、責任があるということ。一人ひとりの勇気についても描いているんだ。

──ドイツの人々はこの映画をどのように見ていますか?
監督:ドイツではこういったタイプの映画が作られていなかったから、すごく好評を得た。ドイツの第二次大戦ものは、あまり質が良くなくて、コスプレというか時代ものという捉えられ方をしているものが多く、過去と現在の関係性まで見据えて作られていないと思う。この映画はそういった部分が受け入れられたんだと思う。史実を描いたものにしては、娯楽性があったのも受け入れられた理由かな。

──主人公はナチス高官ではなく、ただの一兵卒。戦争中の数ある犯罪のなかのひとつで、資料や証言も多くはなかったと思いますが、どのようにキャラクター作りをしていったのですか?
監督:終戦までの2週間は、ドイツ及び周辺国は何でもありの状態に突入してしまったので、色んな事件が起こったのだろうけど、あまり資料が残っていないんだ。でも彼の場合、最終的に捕らえられ裁判を受けるが、その法廷記録が残っていて、今回はそれをほぼ全部使っているんだ。言葉もほとんど変えていない。そういう意味ではかなり真実に則した内容になっている。
ただ、法廷記録なので、彼が証言した言葉が元になっているが、彼自身が真実を語っているかどうかは誰にも分からない。彼は詐欺師で嘘つきだから、信用ならないナレーターだよね(笑)。例えば、車にあった軍服を見つけたと言っているが、そう都合良くそこにあるわけがない。生き延びなければならないという思いが彼をそうさせたんだろうけど、法廷では自分の罪がこれ以上重くならないように、そう証言したんだろうね。彼一人のシーンは彼自身の証言がベースになっているが、他人とのやりとりは、その証言があったし、当時は書くことが禁じられていた日記のようなメモのような記録物や、送られることのなかった手紙が残っていた。だから、例えば収容所のシーンは実際に起きたことに近いと思う。

──ちなみにドイツでは、語り継がれているような有名な人なんですか?
監督:知られていない。この事件は北部のほうで起きたもので、地元の人々は知っているかもしれないが、全国的に認知されているものではないんだ。そこが面白いと思った。彼を主人公として選んだ理由は、先程言ったように国家社会主義の構造に興味があったからだ。将軍から一兵卒までの視点でこの出来事を見ることが出来る。今まで語られることがなかった戦争の一つの側面。そういう意味でも、ドイツ人にとっては新鮮な第二次大戦ものだったんだと思う。それに、自分ではとても思いつかないようなストーリーだ。ボクシングマッチのように戦いながら物語を作っていける存在が必要だった。それがこの映画だ。

──人間の弱さや愚かさというメッセージは伝わってきましたが、映画全体を通して、あまり説教臭さがありませんでした。
監督:今日の我々が持つ価値観はさておき、彼ら自身の心に入っていくかたちでアプローチした。人間は元来、自分が何か酷いことをしても、自分の中で正当化出来てしまう生き物だよね。この映画は、自分の道徳的ポジションを言語化しているシーンはないんだ。ドイツの観客はそれに慣れていないのか、戸惑う人も一定数いた。最近の観客は残念ながら、映画のキャラクターが「こういう見方をして欲しい」と、どこかで台詞として言っているのに慣れてしまっているんだね。僕は、そういった映画作りは観客を見くびったものだと思う。観客は聡明で、僕が説明しなくても理解してくれると信じているんだ。言葉にしていなくても、映画のトーンを通して感じ取ってもらえると思っている。
サスペンススリラー的な要素も、説教臭くない理由の一つかな。ヘロルトは最初のほうで生死をかけた道のりを歩んでいるわけで、観客としては彼を応援しないわけにはいかない。彼を好ましく思うかは別として、物語の中で彼が危機をうまく切り抜けると、観客はホッとしてしまう。これもちょっと珍しいキャラクターだよね。あの時代がどういう時代だったのか、外側から内側を覗くのではなく内側から語り、観察して学ぶ対象ではなく、体感できるような映画にしたかった。
最近の映画は、映画館を出たらすぐに忘れてしまうような作品が多いと思う。かつてあった映画的な体験を味わえないんだ。アメリカのスタジオでの映画作りの問題点は、作品をフリーサイズで作り、全員が見てはまるものを繰り返し作っているところ。本来の映画は、観客との対話であるべきなのに、映画のほうがそうさせてくれない。僕はアメリカのスタジオを知らないわけじゃないから、批判しても許されるよね(笑)。
この映画は、映画的体験を作り上げたという自負があるし、映画館を出たら忘れてしまうような映画ではない。作品の世界が記憶に残り、それぞれが観て感じて意見を持ち、それが会話に繋がればいいと思う。つまらないお説教型の歴史ものにはなってないし、間違いなく楽しんでもらうために作ったという気持ちも伝わると思う。

◆ ロベルト・シュヴェンケ監督 インタビュー②[MOVIE Collection-<「民主主義とは権利ではなく、特権」 全体主義の恐ろしさを描く>(2019/02/08)] :
──終戦の数週間前に部隊からはぐれた実在の兵士、ヴィリー・ヘロルトの実話に基づいた物語ですが、なぜ今、映画化しようと思ったのですか?
監督:実は私はこの物語を映画化するために長年努力してきました。けれど、10年前は製作の許可が下りず、今回、ようやく実現することができたのです。当時はダメで今回はよしとなったのには理由があると考えるべきでしょう。つまり今はそれだけ、この映画を公開することに意味があるということです。それは悲しいことに、1930年代の世界が、私たちが生きる今の世界に共通していることが多いということを示唆しているのだと思います。
今は、大勢の人が民主的なプロセスに対して失望しています。彼らは民主主義に裏切られ、置き去りにされたと思っているのです。さらにポピュリストたちは民主主義に口先だけで賛同するため、その理念は骨抜きになっています。つまり民主主義の規範が無視され、うまく形を成していないのです。私が非常に驚いていることは、民主主義に投資する人や、関心がある人が少ないということです。私にとって民主主義とは権利ではなく、特権です。私たちはそのために戦わなければなりません。
この映画は、民主主義のない世界をテーマにしています。つまり、憎悪やポピュリズムがものを言う全体主義の世界なのです。

──映画の中の権力構造は、現代にも通じると思いますか?
監督:どの時代にも通じると思います。/権力は人を集め、利益のために人を操る方法を知っています。例えば中絶に反対すれば、中絶反対派の票が得られますし、銃の所有に賛成すれば、銃規制反対派の票が得られます。自分がその考えを本当に支持しているかは関係ありません。それが政治家というものです。
政治家たちが実際に権力を手に入れると、物事は急激に変化します。彼らは権力を保ち、地位を維持しようとします。国民は自分たちに都合のいい“ストローマン”の代表を選んだつもりですが、実はストローマンは“支配者”なのです。また、現代と1930年代で異なることは、もはや権力を得るために全体主義国家を築く必要性すらないということです。(様々な物議を醸す政治評論家でFOXニュースのニュース番組司会者である)ショーン・ハニティーのように影響力のある発言をする人がいれば、宣伝省は必要ありません。つまり自身の政治に有利に働かせ、支配できるのであれば、報道の自由があるのかどうかは重要ではないのです。
もしワイマール共和国からの教訓を挙げるとすれば、保守派と右派は共通の目的を持っていたので、勢力を強めることができました。一方、左派の民主主義者たちは言い争いを繰り返していました。それが自らの足を引っ張り、国の崩壊の原因となったのです。これは歴史的な教訓であり、決して忘れてはならないことだと思います。

──ラストシーンがとても興味深いですね。あれはゲリラ的に撮影したのですか? ドイツでは公の場所でナチスに関連するアクションはご法度と聞いていますが。
監督:ラストシーンは、私がどうしても撮影したかったシーンです。しかし、具体的にどうするか決めるまでには時間がかかりました。いろいろとアイデアは出ましたが、ラストシーンを最もシンプルに、そして自然に表現できるような演出として、最後に思いついたのがあの形でした。つまり、軍服を着た兵士たちが車を走らせて、現代のドイツにたどり着く。そして兵士たちは普段どおりに振る舞い、その場にいた人たちの反応を見るというものです。
運転しているシーンは、ゲリラ的に撮影しました。明らかに車で通行してはいけない通りで、堂々とナチス記章を付け、本物の武器を乗せた車を走らせました。すると、数人がヒトラー式の敬礼をしてきたんです。からかっただけなのか、もっと他の意図があったのか、理由は分かりませんが、私には関係ありません。ただ、まだ敬礼をする人がいるという事実が面白いのです。その理由は言葉で伝えられるものではない気がしますので説明しませんが、とても印象的でした。
広場にいる人たちの身分証などをチェックする次のシーンでは、半分は通行人で、半分は役者で撮影しました。しかし役者たちには、何の役を演じるのかを知らせていませんでした。実際に兵士たちが1人の女性をチェックしていると、彼女の体が震え出しました。兵士たちに乱暴に引っ張られ、怯えている様子が伝わると思います。すると、撮影スタッフがカメラを止め、「やりすぎです。これ以上、撮り続けることはできない」と言ったので、私は憤慨しました。なぜなら、私の現場でカメラを止める権利があるのは私だけだからです。その女性は通行人ではなく役者でした。役者でもそうなるほどリアリティーがあったのです。そのため、他にも反発する役者もいました。「もう無理です」と言われても、「でも彼女は役者なんだ。あなたたちを傷つけるようなことはしないと私が約束する」と言い聞かせていました。そこまで徹底的にやったんです。
このシーンが意味することは、表面的にはドイツで再びナチスが台頭するということになるでしょうが、実際はもっとグローバルな意味を持っています。この脚本を書く際に刺激を受けたのは、イスラム過激派組織(IS)に関する記事でした。アフリカ北部にて、ISが小さな集落にやって来て、「警察だ。武器と銃弾を持ってる。さあどうする?」と拷問しました。ドイツでも過去に同じようなことが起きていました。そこで私は、今、誰かに銃を向けられ、「パスポートを見せろ」と言われたら、自由主義で現代的な思考を持つ私たちはどのように対処するのかを描いたら面白いと思ったのです。

──長らくハリウッドでご活躍されていて、久しぶりに自国へ戻られて本作を制作したが、その感想は? また本作はドイツでどのような反応で受け止められましたか?
監督:ドイツでは、ラストシーンは悪意があると反応を受けたのではと思うかもしれませんが、実はそんなことはありませんでした。中には、配慮が足りないと感じた人もおり、露骨すぎるとの批判も受けました。私自身、編集段階で、このシーンを使うべきか、カットすべきか悩みました。このシーンを入れた本編と、入れない本編を人に見せたこともありました。すると、ラストシーンに感謝してくれる人がいることに気づきました。「恐ろしい物語を目の当たりにした後にこのラストシーンを見て、ようやくこの映画が伝えようとしていることを理解した。」と言ってくれた人がいました。私はこのように感じてくれる人たちのために、このシーンを残そうと決めたのです。もちろんくだらない批判を受けることもありますが、それは気にしないことにしました。
大半の観客たちからは、高い評価を受けています。この映画を好まなかった人たちの理由は、評価してくれた人たちがよかったと思った理由と同じなのです。つまり、映画自体に問題はなかったということです。全員が、この映画が意味することを理解してくれていました。とても気に入ってくれた人もいれば、その反対もいます。彼らは歴史を書き換えて、過去の事実から目を逸らそうとしている人たちです。「この映画はドイツ国防軍の歴史に泥を塗った」と私たちを批判する人もいます。しかしドイツ国防軍の過ちは、私たちが泥を塗るまでもなく明らかです。
ドイツでの映画製作は、予想していた通り、解放感がありました。アメリカの製作会社に長年携わってきましたが、そこでは映画は商品となっています。商品を売り、お金を稼がなければなりません。ですから、できる限りたくさんの人を惹きつけるような映画を作ることに焦点を当て、多くの決断が下されるのです。しかし必ずしもそれが映画のためになっているというわけではありません。観客に満足してもらう内容が映画の質を高め、映画の質の向上が観客の満足度を高められれば理想的でしょう。しかしそれが実際に起こることは、ほとんどありません。
今回は、「この映画には何が必要なのか?」ということを重視し、製作しました。なぜなら私たちは、この映画は見た人全員に歓迎されるような作品ではないと分かっていたからです。一方、大きな制作会社では、老若男女に好かれるような映画を作ることができるのです。それを理解した上で、私たちはこの映画を作りました。

──主人公は暴走してしまいましたが、偽りであってもリーダーとして人心を掌握したことになります。本来の真の指導者のあるべき姿とはどんなものだと監督はお考えになりますか?
監督:真の指導者とは、善意があり、自らが統治している人々の生活に関心を持っており、それをもとに決断を下す人だと思います。企業や他の者の利益のためではなくね。カネで人が動く民主社会では、きっと難しいでしょうが。

──日本の観客へのメッセージをお願いします。
監督:この映画を見ることで、異変がどのようにして始まり、どのような結末を迎えるのか理解してもらえればうれしいです。そして、このような欺瞞を手遅れになる前に防げるようになってほしいと願っています。

■私感 :
シュヴェンケ監督は前掲インタビュー②において、本作ラストシーンの重要性に言及している。
私はエンドロールで、“へロルド親衛隊”が現代のドイツに出現するシーンに、一瞬目を疑った。あまりにも唐突に思えたからだ。まるで『帰ってきたヒトラー』(デヴィット・ヴェント監督、2015年) 本ブログ〈July 05, 2016〉で、死んだはずのヒトラーが2014年のベルリンで蘇ったかのような話だが、よりによって映画のラスト段階で撮るべきシーンなのだろうか…。
しかし鑑賞後、心静かに思いを巡らしながら、私は大いに自らを反省した。それは、まさしく監督自身の、今日的な時代状況に対する並々ならぬ危機感に基づくやむにやまれぬ“芸術的な”情熱の成せる業だったのだ―。
私はつい考えてしまう。今や世界中が孕みつつある恐るべき欺瞞を、手遅れになる前に防ごうとしているシュヴェンケのような映画人が、この日本映画界に果たして何人いるだろうか…と。