
作品データ :
原題 BAJRANGI BHAIJAAN
製作年 2015年
製作国 インド
配給 SPACEBOX
上映時間 159分

インド映画として『ダンガル きっと、つよくなる』(2016年)、『バーフバリ 王の凱旋』(2017年)に次ぐ世界興収歴代3位を記録した大ヒット作。宗教的・政治的に激しく対立する隣国同士のインドとパキスタンを舞台に、インドの気のいい青年が、迷子になったパキスタンの6歳の少女を無事に母親のもとへ送り届けようと、国家や宗教の壁を越えて奮闘する心温まる二人旅を描いたハートフル・ストーリー。インドのスーパースター、サルマン・カーンが主演を務め、およそ5000人のオーディションから選ばれた子役のハルシャーリー・マルホートラ、『きっと、うまくいく』のカリーナ・カプール、『女神は二度微笑む』のナワーズッディーン・シッディーキーらが共演。『タイガー~伝説のスパイ~』でもサルマン・カーンとコンビを組んだカビール・カーン監督は、インドからパキスタンへの旅を描くにあたり、インド各地でロケを敢行。大都市のデリーをはじめ、パキスタン国境付近のパンジャーブ、ラジャスタンのタール砂漠カシミールの山岳地帯など、インドの壮大な大自然がスクリーンに彩りを与えている。
ストーリー :
パキスタンの小さな村。幼い頃から声が出せない障害を持つシャーヒダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は、心配した母親と一緒に、インド・デリーのイスラム寺院(「ニザームッディーン廟」)に願掛けに行く。しかし、その帰り道で母親とはぐれてしまい、1人インドに取り残されてしまう。困り果てたシャーヒダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱心な信者、パワン・クマール・チャトラヴェーディー(サルマン・カーン)だった。底抜けの正直者で、お人好しなパワンは、これもハヌマーンの思し召しと、親が見つかるまでシャーヒダーを預かることに。ところが、彼女は喋ることができず、名前も身元も一向にわからない。しかし、やがて習慣の違いから、イスラム教徒(ムスリム)であることが判明する。しかも、彼女の実家はインドと様々な点で敵対関係にあるパキスタンにあるらしい。事実を知って動揺するパワンだったが、紆余曲折の末、ついにパスポートもビザも持たないシャーヒダーを、国境を越えて親元に送り届けることを決意。かくして700キロに及ぶ、二人の波乱万丈の旅が始まった。果たしてシャーヒダーは、無事に母親と再会できるのか?そして、パワンはインドに戻ることができるのか…?
※シャーヒダー(Shahida)とムンニー(Munni) :
パキスタン領カシミールのスルターンプル(Sulatnpur)で生まれ育ったシャーヒダー。このShahidaという本名は、パキスタンで絶大な人気を誇るクリケット選手Shahid Afridi(シャーヒド・アーフリーディー、1975~)にあやかった、“a”の音で終わる女性形を活用した名前である。「ムンニー」とは、ヒンディー語(Hindi、インドの公用語~主に北部や中部で話されている言語~)で小さな女の子を呼ぶ言葉で、「お嬢ちゃん/おチビちゃん」といった意味を持つ。母親とはぐれた小さな迷子シャーヒダーと出会ったインド人のパワンやその周りの人々は、なにぶんにも迷子ちゃんが自分の名前も言えない~言葉を話せないし、まだ文字も教わっていない~ので、ともあれ彼女を「Munni」という呼び名で呼んでいるわけである。
※本作の原題である“Bajrangi Bhaijaan”について :
パワンの通称Bajrangi(バジュランギ)は、ヒンドゥー教(Hinduism)の猿の神ハヌマーン(Hanumān)[別名Bajrang(バジュラング)]の信奉者のこと。
ハヌマーン神はヒンドゥー教の聖典(叙事詩)『ラーマーヤナ』の主人公である英雄ラーマ(ヴィシュヌ神の化身の一つ)への忠誠を尽くす戦士であったことから、ラーマ神への帰依と忠誠を象徴するようになり、転じてヒンドゥー至上主義では外敵(イスラームを指すことが多い)と戦う戦士としてのイメージが与えられるようになった。したがって、「バジュランギ」という名前は、もともと敬虔な信仰と表裏一体の排他性・攻撃性を孕んでいる。
これに対して、Bhaijaan(バーイジャーン)はパキスタンのムスリムの言語ウルドゥー語で、「兄弟」を意味する呼びかけの言葉(「お兄さん/兄貴」といった感じ…)。それゆえ、原題は「バシュランギ兄貴」 という意味を有することになるが、本来的にBajrangi+Bhaijaanは相互に違和感のある結びつきである。
しかし、本作では主人公パワン⇒バシュランギからヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー強硬派)の暴力性を一切削ぎ落し、彼をあくまでも敬虔なヒンドゥー教徒として、人々から「バジュランギ“兄貴”」と慕われるほどに、非常に信心深く、誠実で純粋で正直な人間として描き上げる。現実の国家・宗教の争いに塗(まみ)れた〈憎しみ〉の物語を、市井の普通の人々の善意の〈愛〉の物語へと構造的転換を果たした、カビール・カーン監督(Kabir Khan、1971~)を始めとする本作スタッフの、その優れた力量に、私は脱帽するよりほかない。
なお、ヒンディー語はデーヴァナーガリー(devanāgarī)という文字を使う一方、ウルドゥー語は「ウルドゥー文字」~アブジャド(abjad)という右から左に書かれる文字~を使う。ところが、話し言葉ではヒンディー語とウルドゥー語は兄弟的な位置付けで、使う単語や用法に違いはあれど、ほぼ会話が通じてしまう。劇中でパワンがインドからパキスタンに渡っても話し言葉の問題がないのは、映画的な演出ではなく、そうした言語的背景があるため。
▼予告編
【インドのハリヤーナー州のクルクシェートラ(Kurukshetra)における猿神ハヌマーンのお祭り。サルマン・カーン(Salman Khan、1965~)演じるパワンは、巨大なハヌマーン神像の前で、バングラ・ビートの楽曲「Selfie Le Le Re」が流れる中、大勢の人たちと一緒に楽しくダイナミックに踊りまくる。そこでは『恋する輪廻 オーム・シャンティー・オーム』(ファラー・カーン監督、2007年)の音楽監督を務め、ロックバンドのボーカルとしても活躍する、ヴィシャール・ダッドラニ(Vishal Dadlani、1973~)がパンチの効いた歌声を響かせる。そのパワンの前に、母親とはぐれて、たまたまクルクシェートラに流れ着いた、ハルシャーリー・マルホートラ(Harshaali Malhotra、2008/06/03~)演じるシャーヒダーが現われる。彼女はパワンの情熱的なダンスを真顔で、じっと見つめながら、確信するのだった。<この人は、きっと自分を助けてくれる>と。それは二人の、まさしく運命的な出会いだった。】
▼ “Munni” - Emotional Scene :
▼ラストシーン :

【パワンとシャーヒダーは、何とか砂漠の秘密の“抜け穴”を通ってインドからパキスタンへ。二人は途中で警官からインドのスパイと疑われながらも、ジャーナリストのチャンド・ナワーブ(ナワーズッディーン・シッディーキー)を始めとする様々な人々に助けられ、ようやくパキスタン領カシミールに辿り着く。
やがてシャーヒダーが故郷スルターンプルで母親との涙の再会を果たすも、パワンはパキスタン警察にスパイ容疑で逮捕され、「自白」強要の拷問を受ける。警察幹部のハーミド・カーン(ラジェシュ・シャルマ)は、パワンを調べるにつれ、彼が本当に国境の「抜け穴」を通ってパキスタンの迷子を届けるためにパキスタンにやってきた事実を理解する。だが、警察上層部はあくまでパワンを「インドのスパイ」に仕立て上げようとする。ハーミドは当局の命令に反発して、国家警察の誇りにかけてもパワンをインドに帰すことを決心する。
一方、チャンド・ナワーブはパワンとシャヒーダーのひたむきな二人旅をビデオに撮影してネットにアップしつづけた。ナワーブのビデオは、印パのニュースチャンネルも取り上げるまでになる。彼はパワンの釈放を求めるメッセージ~<パワンは決してスパイではなく、パキスタンの迷子がパスポートも旅券も持っていないため大使館にも保護されず、危険を承知でパキスタンに入って迷子を家に帰したのだ!>~を送り、印パ両国の人々に、国境地帯のナーローワール(Narowal)まで集まるように呼びかける。
ハーミドはパワンを雪に覆われた渓谷の国境検問所まで連れて行く。そこには、両国の多くの人々(約7000人のエキストラ)が集まっていた。インド側には、パワンの恋人ラスィカー(カリーナ・カプール)や彼女の父親ダヤーナンド(シャーラト・サクセーナ)の姿が見える。パワンはナワーブたちと別れを交わして徐(おもむろ)にインド領内に向かう。そこへ思いがけない奇跡が起きる。両親と共にパキスタン側にいたシャーヒダーが人々を掻き分けフェンス越しに、去っていくパワンの後ろ姿に向かって、絞り出すかのように声を発したのだ。「mama!(おじさん)」「Jai Shri Ram!(ラーマ神万歳)」※。
パワンは振り返り、パキスタン側へと近寄り、走ってくるシャヒーダーを抱き上げる!!】
※「Jai Shri Ram(ジャイ・シュリー・ラーム)」はヒンドゥー教徒の間では挨拶のように使われる言葉だが、パキスタンのムスリムが口にするものとしてはありえない言葉。それに対して、パワンは「アーダーブ」という手の平を顔に向けるイスラームの挨拶を返すのだった―。
▼ Full Making :
■私感 :
インド映画にはどうして、こうも力強い個性があるのだろうか!
シンプルな“直球”で真っ向勝負を挑むその思想的・実践的姿勢が華やかで爽やかだ。“印パ紛争”~【1947年の英領からの分離独立以降今日まで続く、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒間の宗教上の対立を背景にした、カシミール地方の領有権などを巡るインド・パキスタン間の紛争】~という現在進行形の険悪な争い事を題材にした、この真っ当な“人間愛”の物語~【とことん善良でイノセントな男が愛くるしくてイノセントな少女のために危険で苛酷なハラハラドキドキの旅を続ける感動ストーリー】~は、いかなる凡夫の心をも鷲掴みにしてやまないだろう。
本作は端的に言って、インド人でヒンドゥー教徒のパワンと、パキスタン人でイスラム教徒のシャーヒダーのロードムービーであり、バディムービーである。
パワンはハヌマーン神に誓って嘘はつけない、気は優しくて力持ち、並外れて一途な「おじさん」。シャーヒダーは言葉をしゃべれず、もっぱら身振り手振りを交えて瞳と表情で喜怒哀楽を表現する、年端も行かぬ少女。二人は愛の交流を重ねて、次第に先入観に囚われない発想や相互理解の大切さを学んでいく。
どこか情けないところのあるおじさんと、しっかり者の少女が互いに補完しあって影響を与える。おじさんが悩んでいるときは少女が励ましてくれるし、子供らしい一面を見せた少女を、今度はおじさんが大人らしく引っ張る。最初は他人同士だった二人に、どこか“親子”のような関係が芽生えていく…。
そして究極的に、パワンとシャーヒダーはその命がけの二人旅を通して、それぞれの宗教的‐国家的縛り~ヒンドゥー教‐インドVSイスラム教‐パキスタン~を、素朴なヒューマニズムのもと、肩肘張らずに相対化し、ナチュラルに~先走った頭脳(先入観や偏見)ではなく、どこまでもヒューマンな心に基づいて~乗り越えていく…。そこでは、パワンとシャーヒダー相互の、単なる二者間のみの“閉じられた”愛ではなく、第三者へ開かれた“普遍的な”愛が育てられ、深められていった…。
私たち観客は押しなべて、本作を素直に無心で見入るかぎり、その純一無雑な「愛の物語」~「真っ当な人間が真っ当なことをする」という究極的にシンプルな美談~に感動が湧き、感激に浸り、場合によっては澎湃(ほうはい)と涙を流すことだろう…。
しかし、忘れてはならない。その種の“感動・感激”の質的内容に関わって、私たち日本人観客自らの宗教/国家/世界観(感)の何たるかもまた真っ直ぐに問われている点を。
私たち日本人は、これまでヒンドゥー教/インドを、イスラム教/パキスタンをどの程度まで対象化し、自覚的にとらえ直してきただろうか。大多数が印パ紛争をしょせんは対岸の火事として見過ごしてきたのではあるまいか。そして、ここが重大な点だが、印パ間の泥仕合に無関心で何の痛痒(つうよう)も感じない日本人にとって、自らの歴史的な問題状況~日本教-天皇教/(明治維新以降の)日本国家ナショナリズムの意識構造~を相対化・対象化することは難中の難事。本作に感動し感激するJapanese鑑賞人の場合、その感動・感激といった人間的な感情は果たして、全身を貫き、五臓六腑に染みわたるパワフルなものだろうか。それとも、単に刹那的な一過性の享楽的なものなのか。そこでの「真っ当であれ!正直であれ!人に親切であれ!」という極めてストレートな普遍的メッセージは、日本人一人一人の心の底深く真っ直ぐに、どの程度まで突き刺さるのだろうか…。
主人公パワンに扮し、プロデューサーとしても本作に関わるサルマン・カーンは、こう述べている。「この映画は、ヒンドゥー教とイスラム教、インドとパキスタンの対立を終わらせる可能性を秘めている」。これまで肉体美に裏付けられたインドを代表するアクションスターとして、インドの映画ファンから“サルマン兄貴”と慕われてきたサルマン。その肉体派アクションスターのイメージを一新して、本作で彼自ら「とても単純で、純情な男でありながら、とても強い男であり、全ての人に敬意と愛を抱き、嘘をつかず、何も悪いことをしない男」と評するパワンを見事に演じ切った(本作公式サイト-「プロダクションノート」)。
もう一人の主人公、6歳のシャーヒダーに扮した、映画初出演のハルシャーリー・マルホートラ(実年齢6歳!)。彼女のあどけない仕草の数々はすべて、とにかく可愛い。首を振る姿、手を小さく上げる様子、パワンの服の裾を小さくつかむ姿、そしてパワンがバカ正直に話すシーンでの〈あちゃあ、やってしまったノ〉という仕草…。豊かな表情と愛くるしい目だけで、くっきりした好ましい印象を残す好演は特筆に値する(セリフはラストシーンの「mama」と「Jai Shri Ram」の二つだけ)。共演のサルマン・カーンは、「彼女と一緒に演技ができて、素晴らしい時間になった。6歳にして俳優が必要な全てのものを持っている」と絶賛している(同上サイト「プロダクションノート」)。
ともあれ、私たち観客は程度の差こそあれ、本作に感動措(お)く能(あた)わず!
それは、まずは正攻法で行く不退転のポジティブパワーを発揮する脚本の上等さによるものだ。次いで、サルマンとハルシャーリーという、ベテランと新人の初顔合わせの共演の素晴らしさによっている。
この二つの力が両々相俟(ま)って、映画に大きな力~観る者を快く納得せしめる説得力~をもたらしたこと、これは間違いない。