大阪にいました。

 

仕事の関係で、数日に渡り大阪に滞在していたのですけれど、

謎の

 

大阪城行きたい

 

という感情。

 

 

もう、行きたくて行きたくて仕方なくて。

朝なんてゆっくり寝ていられなくて、

早起きして、朝8時・大阪城にいきました。

 

訪れたのは1年ぶり2回目なんですけど、

相変わらずお変わりなく100点

 

まぁ、お変わりあるわけないんですけれど。

 

天守閣には上がらず、お堀の周りをぐるっとまわって。

豊国神社をお参りして。

 

お堀を臨む、高台から見下ろすと、広々とした景色が広がります。

 

とても清々して気持ち良かったのですが、

背後をザワザワと外国の観光ツアーの方々が何組も通過していったんですね。

 

瞬間的に不快な気持ちが生まれました。

 

もともと、外国の方はあまり得意ではないこともあり、

せっかく静かでほわっとした空気を味わっていたのに、

ぶちこわしになったことも嫌だったり。

 

一方で、パワースポットと呼ばれる意味を体感したような気もしました。

 

目を閉じてみると、

上からは太陽の暖かいエネルギーが降り注いでいて、

取り巻く空気もゆったりとパワーに溢れて密度が高くて、

そこに、色とりどりのパチパチしたようなエネルギーが入ってくる気がするのです。

 

この、色とりどりの弾けているエネルギーは、

私でもあり、観光客の方々のエネルギーです。

 

大きくて綺麗なエネルギーの人もいるでしょうし、

黒く濁ったエネルギーの人もいるでしょう。

 

良いにしろ悪いにしろ、さまざまなエネルギーが集まって来ている。

 

だからパワースポットなんだと思うのです。

 

引き寄せるパワーを備えており、

そして、引き寄せられたパワーにより、

エネルギー満タンの状態になっている場所キラキラキラキラ

 

パワースポットを構成するエネルギーのひとつが私なんだなぁと自然と感じられました。

 

せっかくなら、自分が欲しいと思うエネルギーだけをもらって帰ろうデレデレ

 

そんな気持ちになりました。

 

 

パワースポットには相性があると言われます。

エネルギーが強すぎるから、人によっては辛くなることもあるとか。

 

そもそもは、同じ地球にいる同じエネルギーなのだから、

合う合わないはないのではないかな、と思うのです。

 

自分が欲しいと思うものを

選べるか、

選べないか

という違いだけではないですかね。

 

一般的に「合わない」と言われていても、

「超合う♡」って、よくあることです。

 

大切なのは、

自分が

「合う♡♡」と思えるかどうかだけ。

 

 

だって、合おうが合うまいが、

結局は地球という同じエネルギーに引き寄せられている存在同士ですもんねウインク

だいぶ間が空いてしまいました。

tomocoです。

 

 

実は、今週のはじめに大切な大切な娘(愛犬です)が旅立ちました。

 

昨年末から、食事があまりできなくなっていて、

どんどん痩せていってましたし、

今月に入ってからは、ほとんど歩くことができないような状態になってきていたので、ある種の覚悟は進めていました。

 

それでも、会うと「まだまだ大丈夫そうだな」と思ってもいたのです。

 

週末に会ったときも、やっぱりそんな風に思っていたのです。

それが、2日もしないうちに旅立ってしまった。。。

 

 

信じられないとか、悲しいとか、

寂しいとか、そういう気持ちも湧いてこないんです。

 

何も感情を感じないのに、ただ、急に涙がマックスで流れていくんです。

ジワジワ泣けるんじゃなくって、急にマックスで泣きじゃくってしまう。

 

急に飛び込んで来るんです。

 

何も考えられずに、ただただ涙が出て来て、嗚咽をもらして泣いて。

少しすると落ち着く。

 

そんな感じで、この数日を過ごしていました。

 

 

思い出そうと思えば、いくらでも思い出せて、泣くこともできるのだけど。

不思議と、気持ちを塞ぐような感覚はありません。

 

仕事をしたり、人と話しているときにまで、

感情が振れて、落ち込むようなこともありません。

 

 

思っていた以上に、ちゃんと自分の中で整理ができていて、苦しくないのです。

 

 

これは、自分が薄情だからあとかそういうことでもなくて。

 

年が明けたときに、

愛犬の弱っていく姿を見て、その場できっちりと自分の感情に向き合ったからだなと思えるんです。

 

帰省&反省&変性

この体験で学ぶべきこと。を履き違えない。

→視野が狭まっているとき、そのことには気付けない

 

 

どうすればいいんだろうってすごく悩んで。

両親の考え方とも板挟みになって、私はどうしたいんだろうってずっと考えて。

 

結果として、自分が納得のいくように、やるしかない。

自分がやりたいことを、際限なくやらない限り、私は後悔する。

 

そう思ったから、週末は実家へ帰省して、愛犬を連れて散歩に出かけ。

食べられそうなおやつやフードを見つけたら買って。

病院が必要だと思えば連れて行き。

 

思いつく限りの可能性を試しました。

 

決して、自分の感情だけで諦めることはしなかった。

両親にも頼みました。

 

 

両親は、もう弱っていて辛そうなんだから、

無理に外へ連れていくなとか、病院は怖がるからやめようとか、

両親なりの思いがあるのです。

 

でも、私は何か少しでも自分にできることをしたかった。

黙って、見ていることはできなかった。

 

だから、抱っこして暖かく包んであげて、

大好きだった散歩に出かけた。

走り回った緑の多い公園へ出かけた。

もうほとんど歩けなくても、楽しかった思い出の場所に行けば、

また活力が湧いて来るって思ったから。

 

 

そうやって、できる限りのことをしたから。

 

旅立った今は後悔がありません。

 

私にできることがあったとして、

それはすべてやったから。

 

今はもう、私にできることは何もない。

 

起こってしまった現実にできることは、

何もない。

そこには「事実」だけがあって。

 

真実は自分で作ることができる。

 

 

本当に、色々なことを体験できたなと思うのです。

 

家族のように大切に思える存在ができたこと。

思い出すだけで涙は出てしまうこと。

自分がやりたいことを通すことと、相手を思いやること。

後悔はなぜ起きるのか。

 

そういうことに、すごくすごく向き合ったし、

開眼する瞬間がありました。

 

本当に悲しくて苦しくて、もう2度と小さい命は背負わないと思ったけれど。

でも、愛犬がいてくれたから、私はこの体験ができた。

やっぱり、出会ったのは運命だったんだなと思います。

 

すべては、予定通りに起こっている。

 

 

私だけの感情を大切にして。

 

でも、脳はあくまでも冷静に。

「自分はどうしたい? どんな体験をしている?」

 

そのことを、きちんと感じ取りながらいこうと思います。

 

 

 

でね、めっちゃ落ち込んでるかと思いきや、

実は、愛犬を見送った翌々日には地方へ飛んで、取材に飛び回ってます。

 

やりたいこと、また出て来たから。

 

 

 

悲しむのは、また愛犬のお骨と向き合うときに。

今は、今しかできない体験に全力を注ぎます。

 

 

不思議なもので、物質から解放された愛犬はどんなときにも、

どんな場所にも、いるような感じがするのです。

 

ありがとう。

今回の記事は、観劇レポと気付き・在り方・引き寄せに関する内容です。

 

レポは舞台「駆けはやぶさひと大和」という若手俳優が出演する幕末の物語。

 

ここで展開されるストーリーを元に「自分の在り方」あるいは「自分の今いるステージ」の探り方を書いてみたいと思います。

 

 

舞台レポを読みたい方は前半を。

 

 

引き寄せとか、自分のしたいことをするとか、そういうことに興味があって、やりたいんだけど、なんだかうまくいかない。。という方は、後半を読んでみてください。

ひとつのきっかけにしてもらえると思います。

 

ぜひ、舞台も観にいってみてほしいです。

神の視点、ソースの視点、宇宙の視点を感じながら観ると、めちゃめちゃ気付きが多いです!

 

歴史物ならではだと思います。

 

 

さて、まずは舞台の紹介からします。

長いですが、前提になるので読んでみてほしいです。

逆にネタバレが嫌な方は避けてください。

 

まぁ、ネタを知って見ても泣けるんで、ネタとかストーリー云々の舞台ではないと思います。

 

 

【駆けはやぶさひと大和】

http://www.mononofu-stage.com/

◆登場人物:

 

<新撰組・旧幕府軍>

近藤勇

土方歳三

斎藤一

沖田総司

島田魁

中島登(主人公)

市村鉄之助

横倉甚五郎

 

榎本武揚

勝海舟

 

 

 

<新政府・倒幕側>

桂小五郎

乾退助

伊藤博文

 

 

◆ストーリー概要

・もののふシリーズと銘打たれた舞台3作品の最終章

・今作主人公「中島登」は、やる気のない新撰組隊士で、絵を描くことが好きで、伝令を担うなど、戦場以外で動くことが多かったよう

・日本の国の在り方が大きく転換した幕末の物語

・敵味方関係なく、それぞれの想いが交錯する

・中島登という主人公を通して、時代を変えた偉人たちの在り方と生き様を描く

 

 

<キーとなるシーン>

・オープニング(酒宴)

・池田屋事件

・近藤勇の処刑

・沖田総司の死

・戊辰戦争決着

・五稜郭の戦い

・明治の始まり

 

 

<キーワード>

・誠

・夢

・生きる

・ふたつめの春

・真実

 

 

◆予備知識

シリーズを通して見たからこそ、感じる部分にも触れるので書いておきます。

 

 

<シリーズ1作目 もののふ白き虎 について>

・戊辰戦争(白虎隊)の話

・主人公は白虎隊唯一の生き残りである飯沼貞吉

・裏主人公として、新撰組唯一の生き残りである斎藤一

・貞吉、斎藤一による回想として構成される

・ベースの時代背景は、西南戦争後の明治14年頃。激動の時代だった幕末から10年以上が経過し、戦争がなくなり、平和に馴染んできた時期

 

 

<キーとなるシーン>

・白虎隊結成

・棚倉の戦い

・飯盛山の戦い

 

 

<キーワード>

・憧れの背中

・仲間

・生きる

・弱虫

・文に残す

 

 

 

<シリーズ2作目 瞑るおおかみ黒き鴨>

・戊辰前〜西南戦争決着まで(幕府対倒幕)

・主人公は斎藤一

・裏主人公とされるのは中村半吉

・1番時代が混沌としていて、人の立ち位置、国の立ち位置がガラガラと変わっている時代

・薩摩藩(薩長同盟による新政府軍・倒幕派)と旧幕府軍(会津藩・新撰組)、双方の視点+西南戦争と戊辰戦争、双方の時代背景から描かれるので、切り替わりが多く混乱しやすい

 

 

<キーとなるシーン>

ほんとに、シーンの切り替えが多くて、正直綺麗に切り分けられません(10回は観てるんですが、未だに把握できてない)。

ただ、全体の流れとして理解しておきたいのは、

 

激動の戊辰戦争を終え、戦いのない平和な日本へ生まれ変わろうとする時代の流れ。

そして、戊辰戦争で前線に立って戦ってきたものたちの思い。

激しく変わる時代に、どう変化して生きぬくのか、あるいはとどまることを選ぶのか。ということ。

もうほとんど核心に迫っててすみません、ほんとに、つむ鴨(こう略されます)は複雑で面白いのです。

 

 

<キーワード>

・夢

・覚えていないこと

・生きる

・選ぶ

・別れ

 

 

◆舞台解釈の前提

人によって捉え方が変わりますが、神の視点、ソースの視点として観た解釈を書いていきます。

 

したがって、役に視点を乗せて観る解釈とは変わるはずです。

 

それが、今まさに私たちが今世でやっていることです。

 

板の上はただのエネルギー体がゆらめくソースの世界(地球と捉えてもいい)。

その中の「役」というものが、私たち一人ひとりの物質としての存在です。

 

自分の視点の置き方として、板の上全部=自分として捉えてもいいし、

その中の1人の役になってもいい、どちらでもあり、どちらにもなれるのが、この世界です。

 

今回の場合は、「板の上全部=自分」の視点で見ることで、引き寄せの法則や神の視点、ソースの視点を感じてみようと思います。

 

 

◆シーンから視点を見つける。

①オープニング(酒宴)

 

舞台の冒頭は、主人公の登が絵を描いているところから始まります。

時期は戊辰戦争決着後、西南戦争が始まる直前です。

 

桜が舞い散る季節、春。

桜のモチーフはもののふシリーズを通して使われているのでキーアイテムでもあります。

 

登の元へ、次々と偉人たちが集まります。

 

新撰組時代の仲間である斎藤一、榎本武揚、勝海舟、桂小五郎、乾退助、伊藤博文。

順番に現れますが、戊辰戦争終結直後のため、

敗北側である斎藤一はいい気分にはなれるわけがなく、

自分を呼び出した登に怒りを向けます。

 

 

なかったことにして笑うことなんてできない。

 

 

斎藤一はそんな風に言って、敵意をむき出しにするのです。

戊辰戦争でお互いの命をかけて戦ってきたのですから、当然です。

自分は生きていて、殺したいほど憎かった相手が目の前にいて、

でも、戦う理由はもうなくて。

 

やりきれない気持ちは想像に易いです。

 

 

一方で、桂小五郎は

 

今日は嘘なき一日にしたいんだ、と言って、酒を手向ける。

 

 

偉人たちは、墓前に集まっていたのです。

そこに眠っているのは、この舞台のストーリー上、

おそらく近藤勇、土方歳三であると想像できますが、名言はされていません。

 

 

このシーン、斎藤一の気持ちはとてもわかりやすく、視点を乗せやすいのですが、ここで神の視点で見てみます。

 

 

まず、この板の場に集まる斎藤一以外の偉人ひとりひとりを見てみます。

 

形式上「倒幕」「維新」という枠に入っていますが、

開国論者もいれば、そうではない者もいる。

 

同じ想いを持っている人は誰一人としていないのです。

 

おそらく、この場にはいないけれど、大久保利通や西郷隆盛、坂本龍馬なんかも入ってきておかしくないメンツです。

 

それぞれが、偉人として名を残すだけの情熱とエネルギーを持った存在なのです。

 

大きな光をまとった、個々の存在。

自分の核の部分は、誰がなんと言おうと譲らずに信じて進む強い想いを持つ存在。

自分が欲しいと思うものに素直になって、たとえ親友に謀反を起こされたとしても、それでも「自分が欲しい」ことにのみ集中して生きた人たちなのです。

 

だから、それぞれのエネルギーはめちゃくちゃ強くて、ぶつかり合いもするのだけど、今このシーンは自分に集中しているから、敵対する相手がいようとの「平気」なんですね。

 

一方で、斎藤一はというと、このとき彼は「新撰組」という居場所を失い、近藤・土方という慕うべき存在を失い、仲間のほとんどがいなくなり、唯一の生きる道であった剣すら奪われて、自分は一体どこにいて、どうすればいいのかわからない状態なんですね。

 

 

だから、居心地が悪い。

 

 

自分だけ、周りのエネルギーを気にして、「自分なんて」ってなっている状態ですね。

 

この状態、まさに普段の私たちだなと思うのです。

 

 

ここで、このシーンでもうひとつのポイントがあって。

 

偉人ばかりが集まるこの場の中心に「中島登」という存在がいます。

あまり聞かない名前ですが、一応歴史にも名前がある新撰組隊士です。

 

新撰組の絵を残したのは彼なんだそうです。

 

ですから、当時の彼はまだ偉人の域には入っておらず、「普通の人」の方が近かったはずです。そんな彼が、このシーンにいて、「斎藤一のように居心地悪くなっていない」ことがもうひとつのポイント。

 

ここで、中島登も居心地悪くしていたら、「負け組は居心地悪い」という場になるのですが、このシーンでの中島登は堂々としていて、むしろ偉人たちを呼び集めた張本人なのです。

 

つまり、対等な存在になっている

 

 

ネタバレになりますが、

戊辰戦争を終える頃、中島登は自分なりの「生きる道」を見出しています

劇中で、何者でもなかった中島登は、

新撰組の絵を描くことが自分の使命だと覚悟を決めるのです。

 

 

ですから、このシーンにいるときの中島登は「自分を生きている」状態。

だから、周りの偉人たちがどうであろうと、影響を受けない。

もはや関係ないのです。

 

 

このシーンの板の上の状況、わかりますか??

 

 

色々なエネルギーの存在が、ただただそこにあるだけなのです。

私たちの手の中には、色々な使命を帯びたエネルギーがある。

この舞台をみている私たち(神)は、そのどの人物にでもなっていい。

 

視点を登場人物に下ろせば、その人物の視点で舞台の中を生きることができる。

 

使命を決め、何があろと自分の想いを貫く人を選んでもいい。

迷い、悩み、自分の生きる道を探す人を選んでもいい。

 

 

それが、神の視点から見た物質世界だと思うんです。

 

 

だから、内なる存在たる自分は、なんにでもなれる。

 

 

この感覚は、多分映画やドラマなどの映像作品では捉えづらいかもしれないです。

カメラワークで見る側の視点が限定されてしまうので。

 

 

舞台だと、

メインで動いている人物がいて、そこにスポットライトは当たっているけれど、それ以外の人たちも生きて動いているんです。

 

だから、まさに物質世界を感じやすい。

 

スポットライトの部分だけを見ていたら、

知ることのできない世界が、同時に起こっていることを見てとれるから。

 

 

舞台のストーリーはひとつです。

 

同じ台本を使って、演じられています。

だから、事実はひとつなのです。

 

でも、視点をどこに置くのかによって、真実はいくらでも増える。

 

 

それを端的に見られるのが舞台冒頭の酒宴のシーンです。

 

 

舞台が進んでいくと、中島登がこんなことをいうのです。

 

 

真実が知りたい!

 

 

すると、勝海舟がこう答えます。

 

 

おまえが見たものが真実だ。

 

 

そういうことなんです。

 

中島登が問うたときの心情は、

何が起こっていて、何が正解なのかを知りたい。だったと思うのです。

 

でも、勝海舟は「自分の中にしか真実はない」と教えてくれています。

 

起こっている出来事はひとつだけど、

それが近藤勇にとって悪だったとしても、

勝海舟にとっては正義だったりする。

何を正解にするのかは、自分にしかできないことなんだ、と。

 

だから、その想いのまま生きていいと。

 

 

そして、中島登は国を変えるような大きなことはしていないけれど、そんな偉人たちと肩を並べることができるほどに「自分」を生きた。

 

 

あの場には、「自分を生きる」ことができる人がいられる場。

そうやって、どんなことがあっても、自分を生き抜いた人だけが歴史に名を残すのだとも思えるシーンなのです。

 

 

一見すると、斎藤一がめちゃめちゃかわいそうな感じがするのですが、シリーズを通して斎藤一は救われていきます。

 

 

その辺は、また別記事にしますが、まずはこの舞台の冒頭で感じてみて!!!!という記事でした!!

 

 

すごくわかりづらくなってしまったので、整理しようと思いますが、舞台がもうすぐ終わってしまうので、見に行ける方にはぜひ行って見て欲しいです!!!

 

 

神の視点を含め、視点の変え方を体感できると思います。

 

それ以外にもストーリー全体を追って、「自分」とは何かを考えられる作品です。

 

【駆けはやぶさひと大和】

http://www.mononofu-stage.com/

 

こんにちは、tomocoですチュー

 

 

さて、生きて来て、後悔をまったくしたことがない! という方、

もしいらしたらすみません。

 

おそらく、その方には絶対にわからないであろう記事を書きます。

 

 

後悔、したことある。

後悔、なんなら今してる。

 

 

そんな方、一緒に後悔のこと考えましょ右差し

 

 

後悔にまつわることわざで、

後悔先に立たず

なんていう言葉がありますね。

 

 

後悔をしないように、

先に注意しましょうね。

 

みたいな意味合いなんだそうです。

 

言い間違いで

後悔あとを立たず。

なんて言ったりする場合もありますが、

これもちょっと意味が近そうです。

 

 

ただ、先に注意したとしても、後悔ってするよなって思うんです。

後悔したいと思っている人はいないはずですし。

 

では、なぜ後悔するのか?

 

自分が何に後悔しているのか。

 

 

私は、どちらかというと、

火のないところに煙は立たない。

の方が近いような気がしたのです。

 

 

火 = やらなかったこと

煙 = 後悔

 

 

「やらなかった」ことがなければ、後悔は立たない。

 

 

そう思うんです。

 

つまり、一瞬でも自分の中で「○○したいんだけどな」とか「○○しないといけないんだよな」とか思った瞬間があって、色々な事情でそれをやらなかった場合、あとになって必ずその「やらなかったこと」を後悔するんですよね。

 

あのとき、どうして「○○しなかったんだ、気付いていたのに」なんて。

 

 

でも、「○○したい」って思ったときに、それをやっていたら、

多分後悔しないんです。

後悔ポイントがないんです。

 

だって、思いつく限りのやりたいことはしてきているから。

 

どんな結果がやってきたとしても、

でも、あれしか方法はなかったし、やれることは全部やったから。って納得しちゃうと思うんです。

 

 

だから、今この瞬間に少しでも「こうしたい」があったら、

どうにかして、それを実現してあげたいって思うんです。

 

自分の人生のあとに悔いを残さないように。

 

人生の「あと」は、「跡」だと思うのです。

歩いた道。

 

自分の人生は常に最高マックスの状態で進んでいるのです。

 

 

だから、ちゃんと自分の感覚を選択していけば、後悔をすることはなくなるなって思います。

 

今この瞬間を生きること、めっちゃ大切ですね。

未来の自分のためにデレデレ

 

 

本当に人生すべて学びだなって思います。

感情のアップダウンすら楽しくなってきたwww

 

 

あと、落ちてから戻るのと、人への怒りの終息がめっちゃ早くなってきましたwwww

うけるwwww

 

またその話は今度キラキラ

 

 

今日は、愛犬に会いに来てるので、大切な時間を過ごそうと思います♡

 

みなさんも、素敵な週末を右差し

 

 

 

 

 

 

追記。

 

すっごいどうでもいい追記ですが、

今、ハッシュタグ(候補で出て来たやつ)見てたら、

 

#今この瞬間 #人生すべて

 

って順番に出て来てて、

 

そのとおりすぎだな!!!!ってなりましたwwww

 

 

人生って長い道のような気がして来たけど。

今の自分自身にとっては、今この瞬間だけが人生のすべてですね。

線じゃない。

点でもないけど。

 

なんか、そのとおりっ!ってなったーーーーすごー

昨日一日で、ものすごく感情が流れていきました。

 

 

やな感じではなくって。

最終的に今もう落ち着いているので、私強くなったなって実感してます。

 

 

1月、私はかなりローテンションですごしました。

 

何にもやる気が起きなくて。

何もしたいことが思い浮かばなくて。

焦ったり、無力感に苛まれたり。

 

この体験は、

ひたすら自分を怠けさせることに集中することの大切さを感じられたひと月になりました。

 

何しろ、やりたいことがない上に、

そのことに疑問を感じる自分がいるから、

ひたすら自分と向き合っていたことになるんです。

 

 

そのおかげなのか、

寝起きの思考切り替え(たとえば、なんとなく不安なことが脳裏をよぎっても、ホオポノポノ唱えて、リセットしてあったかい気持ちに変えるとか)もできるようになったり、日中活動している最中に、感情が振れてフォーカスしそうになる瞬間に、冷静に「今めっちゃ荒ぶったな、どうした私」と立ち止まったり。

 

ともかく、荒ぶる感情の私と、冷静にそれを見つめる自分の存在を感じられるようになった。

 

 

昨日、一番嬉しかったこと。

 

 

上長に相談と報告をしていたとき。

 

だいたいの場合は、こちらの話を全部聞く前に、

色々話をされてしまって、

 

 

話をきけぇぇえええ!!!ムキームキームキームキー

 

 

ってイライラしてしまうことが常なのです。

そのままの勢いで話して、相手のことも激昂させてしまって、

お互い感情の荒ぶりをぶつけ合うだけになる。。

 

 

ところが、話をしている最中に「この人は本当は何を言いたいんだろう?」を考えることができて、

そこに集中していたら、怒りみたいなことがふわーっとなくなって。

 

時間はかかりましたが、

自分が言いたいと思っていたこと(で、激昂されそうなこと)もすべて言えて、

相手も嬉しそうにしてくれて。

 

めちゃめちゃいい感じで終われたのです。

 

 

この瞬間、私、成長したんだな〜〜〜〜!!!って思いましたwww

 

とっても良い気分で帰路につきました。

 

 

 

ところが、ところが。

 

 

帰り際に愛犬のことで親と電話でもめてしまって。

 

 

親のことを責めたいわけでもないし、怒りたいわけではない。

ありがとうという気持ちしかないのに、

話を聞いていると、

どうして○○をしないで、そんな風にいうの?

という感じで、問い詰めるような感じになってしまうのです。

 

当然、親もできる最大限のことをしているから、

「あんたは知らないから言える」という状態になっていきますよね。

 

 

で、もう私はどうしていいのかわからなくて。

 

 

悲しい気持ち、

悔しい気持ち、

申し訳ない気持ち。

 

 

色々な感情が渦巻いてしまって、どうすればいいのかわからない。

このまま実家に帰ったら、親を攻撃するだけになってしまう。

 

そんなことをしたいわけじゃない。

 

じゃあ、どうしたいの??

 

 

って、帰りの電車の中でずーーーーーっと賢者してて。

 

 

そしたら不意に

 

 

したいようにするしかない

 

 

って思って。

 

急にすっと落ち着いたんです。

 

親がなんて言っていようが、私は私がしたいようにすることでしか、

自分を納得させられないし、後悔しないためにはそれしかない。と思ったんです。

 

 

そうしたら、すごい落ち着いて、

あらゆる感情が引いて、

親に言いたいと思っていたことも、別にいいやってなりました。

 

 

だって、言っても仕方ないし。

事実はもう存在しちゃってるから。

 

ここから変えられるのは真実だけ。

 

 

だから、今私がしたいことだけする。

 

 

 

これで、いいんだってすごく思ってるのですけど、

これをまた親に伝えると、投げ返しがあるわけです。

 

 

「じゃあ、あんたは何をしたいの?」

 

 

医者に電話して、状況を自分の耳で確認する。

できることを聞く。

 

抱っこでお外に連れていく。

 

 

「それは、愛犬のためになるの?」

 

 

その質問にはすごく答えづらいなと思いました。

 

 

私の感覚では、

 

 

私は愛犬に対して絶対に無理をさせないし、

彼女が望むこと、彼女にとってのベストを私が選べるという妙な自信があるから、

「愛犬のためになる」でしかないんだけど、

親にとっては、そうじゃないと思っているわけですよね。

 

だからやっていない。

 

 

どうやって伝えたらいいんだろうなって思いました。

 

 

だって、犬は喋れないから。

 

 

これがいい

 

 

なんて言ってくれないから、人間が感じ取るしかないし、

人によって感じ方は違うし。

 

 

 

じゃあ、何が正解なの????

 

 

 

ってなってしまうけど、それってもう人によって違うんだ。

 

 

 

私にとっては、少しずつでも絶対に歩かせた方がいい。

 

なんだけど、

 

親にとっては、歩くのも辛そうなんだから、無理させない方がいい。

 

なんです。

 

 

 

どっちも正解。

どっちも正義。

 

 

その先に、何を想定しているかなんです。

 

 

なんか、完全に逆行してしまっているから、どこに落とせばいいんだろうなって。

 

 

私は、歩けるなら歩かせてあげたいよ、少しでも。

 

そう言ったとしても、

 

こんなにフラフラなのに、無理させるな! だし。

 

 

1対1のときの落としどころはだいぶできるようになってきたけど、

複数の存在があるときの落とし方がわからないな。

 

 

しかも、親は「自分がどうしたいか」ではなくて、「犬にとって良いことは何か?」という視点だから。。

 

 

 

人間だって、年を重ねて、あまり動けなくなってきても、

それができなくならないように、リハビリをするじゃないですか。

少しずつでも歩くようにするじゃないですか。

 

犬だって同じだと思うんです。

 

 

なのに、どうしてやらないんだろう。

無理をさせているなんて思うんだろう。

どうやって伝えればいいんだろう。

 

親のやっていることを責めたいわけではないのに、

そうではなく伝えられるにはどうしたらいいんだろう。

 

 

楽しくて尻尾振ってる、それがベストだなって思う。私は。

楽しいをしてたいなぁ。

 

 

 

どうすればいいんだろう。