今回の記事は、観劇レポと気付き・在り方・引き寄せに関する内容です。
レポは舞台「駆けはやぶさひと大和」という若手俳優が出演する幕末の物語。
ここで展開されるストーリーを元に「自分の在り方」あるいは「自分の今いるステージ」の探り方を書いてみたいと思います。
舞台レポを読みたい方は前半を。
引き寄せとか、自分のしたいことをするとか、そういうことに興味があって、やりたいんだけど、なんだかうまくいかない。。という方は、後半を読んでみてください。
ひとつのきっかけにしてもらえると思います。
ぜひ、舞台も観にいってみてほしいです。
神の視点、ソースの視点、宇宙の視点を感じながら観ると、めちゃめちゃ気付きが多いです!
歴史物ならではだと思います。
さて、まずは舞台の紹介からします。
長いですが、前提になるので読んでみてほしいです。
逆にネタバレが嫌な方は避けてください。
まぁ、ネタを知って見ても泣けるんで、ネタとかストーリー云々の舞台ではないと思います。
【駆けはやぶさひと大和】
http://www.mononofu-stage.com/
◆登場人物:
<新撰組・旧幕府軍>
近藤勇
土方歳三
斎藤一
沖田総司
島田魁
中島登(主人公)
市村鉄之助
横倉甚五郎
榎本武揚
勝海舟
<新政府・倒幕側>
桂小五郎
乾退助
伊藤博文
◆ストーリー概要
・もののふシリーズと銘打たれた舞台3作品の最終章
・今作主人公「中島登」は、やる気のない新撰組隊士で、絵を描くことが好きで、伝令を担うなど、戦場以外で動くことが多かったよう
・日本の国の在り方が大きく転換した幕末の物語
・敵味方関係なく、それぞれの想いが交錯する
・中島登という主人公を通して、時代を変えた偉人たちの在り方と生き様を描く
<キーとなるシーン>
・オープニング(酒宴)
・池田屋事件
・近藤勇の処刑
・沖田総司の死
・戊辰戦争決着
・五稜郭の戦い
・明治の始まり
<キーワード>
・誠
・夢
・生きる
・ふたつめの春
・真実
◆予備知識
シリーズを通して見たからこそ、感じる部分にも触れるので書いておきます。
<シリーズ1作目 もののふ白き虎 について>
・戊辰戦争(白虎隊)の話
・主人公は白虎隊唯一の生き残りである飯沼貞吉
・裏主人公として、新撰組唯一の生き残りである斎藤一
・貞吉、斎藤一による回想として構成される
・ベースの時代背景は、西南戦争後の明治14年頃。激動の時代だった幕末から10年以上が経過し、戦争がなくなり、平和に馴染んできた時期
<キーとなるシーン>
・白虎隊結成
・棚倉の戦い
・飯盛山の戦い
<キーワード>
・憧れの背中
・仲間
・生きる
・弱虫
・文に残す
<シリーズ2作目 瞑るおおかみ黒き鴨>
・戊辰前〜西南戦争決着まで(幕府対倒幕)
・主人公は斎藤一
・裏主人公とされるのは中村半吉
・1番時代が混沌としていて、人の立ち位置、国の立ち位置がガラガラと変わっている時代
・薩摩藩(薩長同盟による新政府軍・倒幕派)と旧幕府軍(会津藩・新撰組)、双方の視点+西南戦争と戊辰戦争、双方の時代背景から描かれるので、切り替わりが多く混乱しやすい
<キーとなるシーン>
ほんとに、シーンの切り替えが多くて、正直綺麗に切り分けられません(10回は観てるんですが、未だに把握できてない)。
ただ、全体の流れとして理解しておきたいのは、
激動の戊辰戦争を終え、戦いのない平和な日本へ生まれ変わろうとする時代の流れ。
そして、戊辰戦争で前線に立って戦ってきたものたちの思い。
激しく変わる時代に、どう変化して生きぬくのか、あるいはとどまることを選ぶのか。ということ。
もうほとんど核心に迫っててすみません、ほんとに、つむ鴨(こう略されます)は複雑で面白いのです。
<キーワード>
・夢
・覚えていないこと
・生きる
・選ぶ
・別れ
◆舞台解釈の前提
人によって捉え方が変わりますが、神の視点、ソースの視点として観た解釈を書いていきます。
したがって、役に視点を乗せて観る解釈とは変わるはずです。
それが、今まさに私たちが今世でやっていることです。
板の上はただのエネルギー体がゆらめくソースの世界(地球と捉えてもいい)。
その中の「役」というものが、私たち一人ひとりの物質としての存在です。
自分の視点の置き方として、板の上全部=自分として捉えてもいいし、
その中の1人の役になってもいい、どちらでもあり、どちらにもなれるのが、この世界です。
今回の場合は、「板の上全部=自分」の視点で見ることで、引き寄せの法則や神の視点、ソースの視点を感じてみようと思います。
◆シーンから視点を見つける。
①オープニング(酒宴)
舞台の冒頭は、主人公の登が絵を描いているところから始まります。
時期は戊辰戦争決着後、西南戦争が始まる直前です。
桜が舞い散る季節、春。
桜のモチーフはもののふシリーズを通して使われているのでキーアイテムでもあります。
登の元へ、次々と偉人たちが集まります。
新撰組時代の仲間である斎藤一、榎本武揚、勝海舟、桂小五郎、乾退助、伊藤博文。
順番に現れますが、戊辰戦争終結直後のため、
敗北側である斎藤一はいい気分にはなれるわけがなく、
自分を呼び出した登に怒りを向けます。
なかったことにして笑うことなんてできない。
斎藤一はそんな風に言って、敵意をむき出しにするのです。
戊辰戦争でお互いの命をかけて戦ってきたのですから、当然です。
自分は生きていて、殺したいほど憎かった相手が目の前にいて、
でも、戦う理由はもうなくて。
やりきれない気持ちは想像に易いです。
一方で、桂小五郎は
今日は嘘なき一日にしたいんだ、と言って、酒を手向ける。
偉人たちは、墓前に集まっていたのです。
そこに眠っているのは、この舞台のストーリー上、
おそらく近藤勇、土方歳三であると想像できますが、名言はされていません。
このシーン、斎藤一の気持ちはとてもわかりやすく、視点を乗せやすいのですが、ここで神の視点で見てみます。
まず、この板の場に集まる斎藤一以外の偉人ひとりひとりを見てみます。
形式上「倒幕」「維新」という枠に入っていますが、
開国論者もいれば、そうではない者もいる。
同じ想いを持っている人は誰一人としていないのです。
おそらく、この場にはいないけれど、大久保利通や西郷隆盛、坂本龍馬なんかも入ってきておかしくないメンツです。
それぞれが、偉人として名を残すだけの情熱とエネルギーを持った存在なのです。
大きな光をまとった、個々の存在。
自分の核の部分は、誰がなんと言おうと譲らずに信じて進む強い想いを持つ存在。
自分が欲しいと思うものに素直になって、たとえ親友に謀反を起こされたとしても、それでも「自分が欲しい」ことにのみ集中して生きた人たちなのです。
だから、それぞれのエネルギーはめちゃくちゃ強くて、ぶつかり合いもするのだけど、今このシーンは自分に集中しているから、敵対する相手がいようとの「平気」なんですね。
一方で、斎藤一はというと、このとき彼は「新撰組」という居場所を失い、近藤・土方という慕うべき存在を失い、仲間のほとんどがいなくなり、唯一の生きる道であった剣すら奪われて、自分は一体どこにいて、どうすればいいのかわからない状態なんですね。
だから、居心地が悪い。
自分だけ、周りのエネルギーを気にして、「自分なんて」ってなっている状態ですね。
この状態、まさに普段の私たちだなと思うのです。
ここで、このシーンでもうひとつのポイントがあって。
偉人ばかりが集まるこの場の中心に「中島登」という存在がいます。
あまり聞かない名前ですが、一応歴史にも名前がある新撰組隊士です。
新撰組の絵を残したのは彼なんだそうです。
ですから、当時の彼はまだ偉人の域には入っておらず、「普通の人」の方が近かったはずです。そんな彼が、このシーンにいて、「斎藤一のように居心地悪くなっていない」ことがもうひとつのポイント。
ここで、中島登も居心地悪くしていたら、「負け組は居心地悪い」という場になるのですが、このシーンでの中島登は堂々としていて、むしろ偉人たちを呼び集めた張本人なのです。
つまり、対等な存在になっている。
ネタバレになりますが、
戊辰戦争を終える頃、中島登は自分なりの「生きる道」を見出しています。
劇中で、何者でもなかった中島登は、
新撰組の絵を描くことが自分の使命だと覚悟を決めるのです。
ですから、このシーンにいるときの中島登は「自分を生きている」状態。
だから、周りの偉人たちがどうであろうと、影響を受けない。
もはや関係ないのです。
このシーンの板の上の状況、わかりますか??
色々なエネルギーの存在が、ただただそこにあるだけなのです。
私たちの手の中には、色々な使命を帯びたエネルギーがある。
この舞台をみている私たち(神)は、そのどの人物にでもなっていい。
視点を登場人物に下ろせば、その人物の視点で舞台の中を生きることができる。
使命を決め、何があろと自分の想いを貫く人を選んでもいい。
迷い、悩み、自分の生きる道を探す人を選んでもいい。
それが、神の視点から見た物質世界だと思うんです。
だから、内なる存在たる自分は、なんにでもなれる。
この感覚は、多分映画やドラマなどの映像作品では捉えづらいかもしれないです。
カメラワークで見る側の視点が限定されてしまうので。
舞台だと、
メインで動いている人物がいて、そこにスポットライトは当たっているけれど、それ以外の人たちも生きて動いているんです。
だから、まさに物質世界を感じやすい。
スポットライトの部分だけを見ていたら、
知ることのできない世界が、同時に起こっていることを見てとれるから。
舞台のストーリーはひとつです。
同じ台本を使って、演じられています。
だから、事実はひとつなのです。
でも、視点をどこに置くのかによって、真実はいくらでも増える。
それを端的に見られるのが舞台冒頭の酒宴のシーンです。
舞台が進んでいくと、中島登がこんなことをいうのです。
真実が知りたい!
すると、勝海舟がこう答えます。
おまえが見たものが真実だ。
そういうことなんです。
中島登が問うたときの心情は、
何が起こっていて、何が正解なのかを知りたい。だったと思うのです。
でも、勝海舟は「自分の中にしか真実はない」と教えてくれています。
起こっている出来事はひとつだけど、
それが近藤勇にとって悪だったとしても、
勝海舟にとっては正義だったりする。
何を正解にするのかは、自分にしかできないことなんだ、と。
だから、その想いのまま生きていいと。
そして、中島登は国を変えるような大きなことはしていないけれど、そんな偉人たちと肩を並べることができるほどに「自分」を生きた。
あの場には、「自分を生きる」ことができる人がいられる場。
そうやって、どんなことがあっても、自分を生き抜いた人だけが歴史に名を残すのだとも思えるシーンなのです。
一見すると、斎藤一がめちゃめちゃかわいそうな感じがするのですが、シリーズを通して斎藤一は救われていきます。
その辺は、また別記事にしますが、まずはこの舞台の冒頭で感じてみて!!!!という記事でした!!
すごくわかりづらくなってしまったので、整理しようと思いますが、舞台がもうすぐ終わってしまうので、見に行ける方にはぜひ行って見て欲しいです!!!
神の視点を含め、視点の変え方を体感できると思います。
それ以外にもストーリー全体を追って、「自分」とは何かを考えられる作品です。
【駆けはやぶさひと大和】
http://www.mononofu-stage.com/