昨年、桜が咲き終わるころ、京都へ行った。
三十三間堂が不定期で開催している
「黙然端坐の会」に、抽選で当たったからだ。
京都には、長女がひとり暮らしをしている。
下の子たち(小学生チーム)にも
「お姉ちゃんが暮らしている街」を感じさせたくて、
一緒に連れていった。
早速、京都駅でしば犬を買う
長女には年上の彼がいて、
鴨川で妹たちと遊んでくれるという。
私は遠慮なくそのふたりに小学生を預け、
ひとりで三十三間堂へ向かった。
三十三間堂を訪れるのは、これで四回目になる。
けれど、初めて来たのは結構最近のこと。
私の周りの高校は、修学旅行で京都を訪れていて、
三十三間堂は必ず行程に組み込まれていた。
私の高校の修学旅行は沖縄だった。
だから、2018年、
KADOKAWA企画で開催した「京都読書会」のときに、人生で初めて、この場所を訪れたのだった。
2回目は、長女の進学に伴う引っ越しの時に。
そしてこの前日に、ちびっ子2人と夫と。
ここ数年で、私は何度も三十三間堂を訪れている。
好きなのだと思う。
国宝・1,001体の千手観音。
長い本堂と、美しい庭園。
何度来ても、胸の奥が静まる場所。
宿に荷物を置いて、急ぐ。
17時20分着。
きっちり時間になるまでは、並んで待つ。
靴を脱ぎ、座布団を1人1枚ずつ受け取る。
「好きな場所へ座っていい」とのことで、どこにしようかな?と場所を探す。
最初は大仏の前にしようかと思ったけれど、
すでに人が集中している。
なので、別の場所にする。
私は、千手観音さまの
尊く、安らかなお顔も好きなのだけれど、
胸をぎゅっと掴まれるのは、
いつもどこか人間味の溢れている像だ。
だから、千手観音さまよりも、
護衛の二十八部衆像に惹かれてしまう。
(近いから、よく見えるっていうのもあるけれど。笑)
大好きな母神さまはどうかな、と思ったら、
すでに真ん前に人がいた。
大好きな母神様♡
もうひとつ、私が大好きな像
伊鉢羅(いはつら)さまの前は空いていた
ちなみにこの伊鉢羅さま、
夫によく似ている。
右手に槌。左手に蛇。
髪は逆立ち、スーパーサイヤ人のようで、
眉毛も逆立ち、目は見開き、口はカッと開いている。
槌(音)は、巨富による復興や殖産の象徴。
蛇形は、中国では龍(水の神)となり、
富財、豊穣、風雨、護法の象徴。らしい。
やっぱり、私はこういう像に心を持っていかれる。
大好きな伊鉢羅さま♡
ここに決めた!
座布団を敷き、座って、周りを観察しながら待った。
やがて、お坊さんの説明が始まった。
「ガイドさん方は、この大きな仏像をご本尊と言われますが、千一体すべてが、本尊でございます。
大きいからといって、特別ではありません。どうぞ、お好きな観音さまの前にお座りください。
観光の場になっておりますが、本来は、祈りの場です。しかし、なかなか静かな時間がありません。
というわけで、この『黙然端坐の会』を設けております。
開闢(かいびゃく)のおつとめの後、三十分間、電気を消します。どうぞ、目の前の観音さまと、心を通わせてください。」
そんなことを言っていた。
開闢のおつとめが終わり、
電気が消えて、
蝋燭の灯りだけになった。
一瞬、静寂。
と思った、次の瞬間。
遠くから聞こえてくる、
電車の音。
踏切。
バイク。
カラス。
雀。
誰かが蹴るボールの音。
砂利を踏む音。
完全な静寂なんて、
どこにもない。
目を閉じても、
耳は、拾い続ける。
脳裏に塵のような雑念が
チラチラと浮かんでは、消える。
さっきインスタで見た
誰かの写真や言葉。
ちびっ子たちは
大丈夫かな。
外も、内も、
ずっと、うるさい。
暗闇の中で、三十分、座ったあと。
私は、はっきりと驚いていた。
自分でも、心の底から、驚いているのがわかった。
あまりにも明確すぎて、
その気づきが、体じゅうを貫いた。
仏像が、
一切、
動かない。
一ミリも、
動かない。
そんな当たり前に
「知っていた」ことを、
この30分で、初めて、
1,001体の仏像を前にして、
私は「知った」のではなく、
「体で、感じた」のでした。
そして動かないという事が
どういう事か「分かって」
「仏像、ぜんっぜん動かないな!!」
と、びっくりしたのでした。
たった30分という短い時間だけど
800年、900年という悠久に充分触れた。
1,001体の仏像が、
一斉微動だにせず
ただ目の前に在る30分。
その圧倒的な「動かなさ」は、
圧倒的な「存在感」となって、
こちらへ、迫ってきていた。
そこにはバーンと回路が開いていた。
黙然端坐の会だけの限定御朱印♡
私はそのとき、
心から、こう思うことをゆるされた。
動く世界は、うるさいなぁ。
感じる世界は、苦しいなぁ。
よくやってる。
よく生きてる。
こんなにも動いて、
こんなにも、うるさい世界で。
本当によく、やってるよ。
みんな、よくやってるよ。
私たちはふだん、
動いているもの
変化しているもの
成果が見えるもの
だけを
「生きている」
「意味がある」
と、思い込んでいる。
だから、
ただ、そこに在る
立ち止まる
という状態が、できなくなる。
ほとんどの人が、
その回路を、閉ざしたまま生きている。
動け!動け!
動かなくては価値がない!
という、あまりにもうるさい世界から、
抜け出したくて、
一刻も早く離れたくて、
生きることそのものを、
やめてしまいたくなって、
自死を選んでしまう人がいるのも、
無理はないと思う。
私も、ずっとこの世界が苦しかった。
動くことが辛かった。
感じることが苦しかった。
何もかもを拾ってしまって、
心がそれに振り回されて苦しかった。
全然自分の人生じゃなかった。
1,001体の仏像の圧倒的な「動かなさ」を前にしたとき、
隣り合わせに回路が
いつでも全開で開かれてることが分かった。
それは、死ななくても、
生きたまま入れる、
動かなくていい領域への回路。
私はこの回路を使う術を手に入れたから
こんなにも生きることが楽しくなったのだ。
お釈迦さまが言った
「一切苦」は「一切喜」
全て対等なことが体でわかったから
「全て喜び」と
堂々と生きることができるようになったのだ。
私たちは、生きているあいだじゅう、
ずっと、感じ続けている。
この、ざわついた世界で。
混乱した世界で。
勝手に拾って、
勝手に苦しんでしまうことも、
たくさんある。
それでも私たちは、
外側を受信する「五感」と、
内側から湧き上がる「気持ち」の、
両方の
感じる力を使って、
人生をつくっていく。
だからこそ、ノートは、
動くために書くものじゃない。
絶対的に、
立ち止まるためのもの。
この回路は、
仕事の合間でも、
家事の途中でも、
ノートを開くと入れる。
前日の通常御朱印と、並べて貼った♡
昨年のノートを読み返して見ても、結構な仕事量だった。
毎日カオスの中で仕事をしていた。
家庭も、子供の進学や引っ越し、行事、カオスだった。
でも、内側は静かなのだ。
・動いているのに、精神疲れない
・やっているのに、身を削られない
・進んでいるのに、追われない
私はこれを、
「行動」ではなく、「実行」と呼んで区別している。
毎日、ちゃんと「仏になる」。
毎日、ちゃんと「動かない世界」へ、潜る。
回路につながりながら、動く。
それが、コツ。
立ち止まればいいだけだ。
死ななくても生まれ変われる
と、私はよく伝えるけれど、
生きたまま、死ねる
とも言える。
ワープできるのは
この不動の静けさで、本質的に動けるから。
30分でも800年、900年の悠久に触れることができるのだから、不思議ではない。
ほんの少しの動きで圧倒的な結果が出る。
その動き方でいっぱい動ければ、もっとすごい結果が出る。
でも、もちろん動き続けることはできない。
私が上手に自分を動かすことができるのは
立ち止まること、
動かないこと、を許しているからだ。
うるさい世界であっちこっち動きまわる世界、
それを「価値」とする世界で生きるのは
ずっと前にやめたんだ。
安心して欲しい。
死ななくても、
動かないことを許していいんだよ。
三十三間堂の、
一切、動かない仏像たちは、
こう言っている気がする。
よくやってる。
いつも、開いておくから。
いつでも、戻っておいで。
ノートを開いたときに訪れる、
あの、言葉にならない至福感は、
仏、だったんだなぁ。
➡️聖域と繋がるノート
普通のペンはもちろん、万年筆インクの心地よさを存分に味わえる紙を選んでいます。
インクが紙の上をすべる感覚、色が静かに滲み、定着していくまでの時間♡
書くことそのものが、瞑想のように心地よくなるノートです。
















