流離の翻訳者 青春のノスタルジア -44ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

何処からともなくブラっとやってくる凄腕のガンマン。決して正義派ではないが、結局そんな風来坊が悪を滅ぼす。だが往々にして風来坊は複雑な事情を抱えている。マカロニ・ウェスタンにはそんなストーリーが多い。

 

 

風来坊を英語で vagabond という。定義は以下の通り。

 

Vagabond:

A vagabond is someone who wanders from place to place and has no home or job.

 

「町から町へとさすらう住所不定・無職の輩(やから)。放浪者。」

 

 

マカロニ・ウェスタン(Macaroni Western)とは1960年代から1970年代前半に作られたイタリア製の西部劇を表す和製英語で、イギリスやアメリカ合衆国、またイタリアではスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)と呼ぶらしい。

 

このマカロニ・ウェスタン、BGMがとにかくカッコいい。日本の「必殺シリーズ」などはこの影響を受けているように思われる。

 

 

主役がフランコ・ネロのものが特に好きだ。「続・荒野の用心棒」(1966年)はあまりにも有名。背景は南北戦争後期の西部か。主人公は北軍の流れ者。愛を失くし黄金しか信じられなくなった男。棺桶に隠した機関銃。墓地での最終決闘。発想も面白い。

 

 

 

また同じ年の「真昼の用心棒」(1966年)。主人公は次男。父親が違う飲んだくれの兄だが実は凄腕。実の父・弟との確執。狂っている実の弟。ちょっと変わった中国人のピアニスト。ネロのアクションとBGMが最高である。

 

 

 

以下は「必殺シリーズ」第一弾の「必殺仕掛人」(1972年)の主題歌「荒野の果てに」と第三弾「助け人走る」(1973年)の主題歌「望郷の旅」である。何となくイメージが似ている。

 

 

最後に京都に行ったのが翻訳者にデビューした2008年の9月だから、気が付けばもう14年になる。その10年後の2018年11月、京都旅行を企画してホテルまで押さえたが残念なことにドタキャンになった。

 

以来、コロナ禍もあって行けていない。学生時代、ブラブラ、ダラダラと過ごしたのが噓のように敷居の高い街となってしまった。

 

 

 

 

 

 

阪急京都線は桂で嵐山線と分岐する。大学2年から3年にかけてその阪急桂駅に週2回通った。家庭教師のアルバイトをしていたからだ。

 

生徒は中学生2年生の男の子で進級を挟んで1年余り教えた。勉強が好きな子ではなく腕白だったが大したことも教えられず、彼の話し相手、遊び相手になっただけだった。

 

母親とは死別しており父子家庭だったが、父親も高校生の兄も料理が得意で講義のあとの食事が楽しみでもあった。

 

その子の家は阪急桂駅から歩いて5分くらいのところにあった。毎週2回、夕方2時間ほど主に英語と数学を教えた。駅から家まで行く途中に川があったような無かったような ……?記憶が定かでない。

 

結局その子は、父親の勧めもあり推薦でトヨタ自動車直営の全寮制の工業高校に進んだ。卒業後はトヨタ自動車への入社が保証されていると聞いた。理科も車も好きだったから良かったのではないか。今は高給取りになっているかも知れない。

 

 

 

その子から面白い(?)話を聞いた。ある日、彼が桂川の近くを友人(悪ガキ)たちと歩いていると一人の老人が川岸に腰かけて尺八を演奏していた。老人は自らの演奏に悦に入り河岸の風景に完全に溶け込んでいたという。

 

そんな老人に対して彼ら悪ガキどもが悪戯を仕掛けた。老人の背後の地面に爆竹を仕掛け導火線を長くして火をつけた。爆竹は爆発、老人は驚いて川にはまり、老人愛用の尺八も川を流れて行った。勿論彼らは一目散に逃げた。

 

老人が無事だったのか ……?どこまで本当の話なのか ……?それはただ桂川のみが知ることである。

 

 

 

この曲の最後のフレーズ「遠い日は二度と帰らない 夕やみの桂川」を聴くと少しほろ苦い思い出が蘇ってくる。なお、英訳は10年近く前に若気の至りで作ったものを改訂してみたが、決して満足できるできではない。

 

 

 

「京都慕情」

 

あの人の姿懐かしい 黄昏の河原町

恋は恋は弱い女を どうして泣かせるの

苦しめないでああ責めないで 別れのつらさ知りながら

あの人の言葉想い出す 夕焼の高瀬川

 

遠い日の愛の残り火が 燃えてる嵐山

すべてすべてあなたのことが どうして消せないの

苦しめないでああ責めないで 別れのつらさ知りながら

遠い日は二度と帰らない 夕やみの東山

 

苦しめないでああ責めないで 別れのつらさ知りながら

遠い日は二度と帰らない 夕やみの桂川

 

 

(拙英語訳)

“Longing for Kyoto”

 

I remember that man, standing at Kawaramachi in the twilight.

Why would love make such a feeble woman cry so much?

Don’t tease me! Ah, never blame me! For all I know how hard a breakup is, Takase River at the sunset reminds me of what he said to me.

 

Embers of love in those days are simmering in Arashiyama.

Why couldn't I forget and erase any and all about him?

Don’t tease me! Ah, never blame me! For all I know how hard a breakup is, Mt. Higashiyama in the twilight makes me learn that those days never come back again.

 

Don’t tease me! Ah, never blame me! For all I know how hard a breakup is, Katsura River in the dusk brings me home that those days never come back again.

 

秋月は、筑前の小京都とも呼ばれる静かな城下町である。

 

「三連水車の里あさくら」で果物や野菜を買い込んだ帰りに短い時間立ち寄ってからもう3年になる。武家屋敷の佇まいの中、少しだけ色づいた紅葉と清流のせせらぎ、石畳に響く寺の鐘の音が消えたとき、暫し時が止まったような錯覚を覚えた。

 

 

 

 

「秋月レトロ市」と称する骨董・アンティークモールが常設されており20店ほどが出店している。これらを巡るのも楽しい。骨董店で値切って買った火鉢は、庭で植木鉢となって今も活躍している。

 

 

 

レトロな玩具やガラス細工、子連れの若い夫婦などを見ていると幼い頃の記憶が蘇ってくる。

 

 

 

「八丁峠道路(八丁トンネル)」が開通してアクセスが良くなった。紅葉もこれからが見頃だ。夕方5時のヴェルナーの「野ばら」のメロディが暮れてゆく小京都を優しく包んでいた。

 

 

秋晴れが続く中、街路樹の緑が少しずつ赤や黄色に色づいている。空の青に葉の緑。青緑ならぬ緑青と書いて「緑青(ろくしょう)」と読む。銅の表面に生じる緑色の錆のことで、寺社仏閣の屋根や銅像の表面に見られ風雅な味わいを醸し出している。

 

 

 

この「緑青」、銅に空気中の水分と二酸化炭素が作用して生じる塩基性炭酸銅などを主成分とするものでほとんど無害で、その化学反応は以下の化学式で表される。

 

2Cu + O2 + CO2 + H2O → CuCO3・Cu (OH)2

 

 

「緑青」を英語でpatina [pətíːnə]というが patina を英英辞典で引いてみると第2義に以下の定義がある。

 

Patina:

The patina on an old object is an attractive soft shine that has developed on its surface, usually because it has been used a lot.

 

「使い込まれて古びた物の表面に生じる魅力的で柔らかな光沢のこと。古色。」

 

英語では「緑青」という語自体が「古色」の意味をもつ。古色蒼然とした佇まいの寺社や仏閣。紅葉の見頃はこれからである。

 

 

 

 

「日中韓三カ国環境大臣会合(TEMM21)」歓迎レセプション会場の「リーガロイヤルホテル小倉」に入り北九州市環境局スタッフの控室に向かった。控室では数名のスタッフがレセプションの準備に慌ただしく動いていた。

 

中国語と韓国語の同時通訳者が早めに到着した。英語の逐次通訳者が一人、また一人と到着していた。暫くすると学生や若手ビジネスマンの市内視察に同行した中国語と韓国語の逐次通訳者が戻ってきた。

 

環境関連施設や「いのちのたび博物館」での専門用語の通訳に苦労したらしく二人ともかなり疲弊していたが、ある意味開き直ってもおり安心感が持てた。

 

 

女性通訳者が集まると何かと喧しい(まあ喋るのが商売なので仕方ないが)。やや気圧されていたが、顔馴染みの英語の男性通訳者が到着して味方を得た。

 

控室にはサンドイッチやおにぎり、またペットボトルの飲み物を市環境局のスタッフが用意しており女性通訳者が我先にとパクついていた。「やはり通訳は体力なんだ!」と改めて思い知らされた。

 

 

夕刻が近づき宴会場へと入った。宴席の後ろには多くのマスコミが待機していた。通訳者の配置などは環境局スタッフの指示に従った。あとは各通訳者に任せる他なかった。

 

程なく歓迎レセプションが始まった。挨拶の順序は、①北九州市長(ホスト・開会の挨拶)⇒②中国の環境大臣⇒③韓国の環境大臣⇒④日本の環境大臣(小泉進次郎氏)⇒⑤福岡県知事(挨拶+乾杯)だった。

 

挨拶の文言は1センテンス毎に、日本人のスピーカーであれば、①日本語(スピーカー)⇒②韓国語(日韓通訳者)⇒③中国語(日中通訳者)という形で逐次に通訳された。同時通訳というよりは正式な逐次通訳である。

 

事前に挨拶の原稿は渡されているものの誤解が生じない通訳、臨機応変な対応および度胸が必要だと感じた。市環境局の担当者が「同時通訳レベルの通訳者が必要!」と言っていた理由が何となく理解できた。

 

 

ただ中国・韓国の環境大臣が同伴してきた中日・韓日通訳者の日本語レベルは決して高くはなく「その程度か?!」と思えるところもあり妙な安心感を覚えた。

 

中国語・韓国語の同時通訳者は問題なく北九州市長および福岡県知事の挨拶の通訳をこなし歓談が始まった。中・韓・英の逐次通訳者は首尾よく歓談のサポートを行った。

 

私は円卓をはしごしながら各通訳者の様子を見て声を掛けてまわった。来賓に声を掛けられることもありその日に交換した名刺は50枚を超えた。午後9時頃、歓迎レセプションは無事終了し解散となった。

 

 

それにしてもコーディネーターとは面倒な仕事である。ただ本通訳は私にとっても貴重な経験となり、以後「大概の通訳は怖くない」と思えるようになった。

 

 

昨日、この秋初めての干し柿を食べた。糖度は今一つだったが、日本最古のドライフルーツ、秋も酣(たけなわ)の感があった。

 

 

この時期、ちょっと田舎道を走ると、あちこちの軒下に柿が吊るされているのが見られる。たくさんの柿がまるで簾のように吊るされている光景を柿簾(かきすだれ)とか柿暖簾(かきのれん)と呼ぶそうだが、これも秋の風情に彩りを加えている。

 

干し柿にするのは渋柿で、実は元々甘柿より糖度が高い。乾燥させることで渋み成分であるシブオールというタンニンが水溶性から不溶性になる変化(脱渋反応)が起こり渋みが無くなるらしい。干し柿の糖度は甘柿の約4倍と言われている。

 

なお干し柿の表面に吹いた白い粉はブドウ糖、果糖、ショ糖などの糖分が結晶したもので柿霜(しそう)と呼ばれており、中国では生薬とされ「柿が赤くなれば医者が青くなる」とも言われている。

 

          里古りて柿の木持たぬ家もなし             松尾芭蕉

 

 

 

 

北九州市環境局から「日中韓三カ国環境大臣会合(TEMM21)」の通訳の話が来たのは2019年7月中旬のことで、かなり大規模な通訳案件だった。

 

中国語⇔日本語の同時・逐次通訳各1名、韓国語⇔日本語の同時・逐次通訳各1名、英語⇔日本語の逐次通訳が5名の合計9名の通訳者を手配する必要があった。会合の開催は11月下旬ということで、当初は概算見積りという形で話を進めていった。

 

各国の環境大臣他VIPには各国がそれぞれ複数名の通訳者を同伴してくるので、当社に依頼があったのは、ホストである北九州市長および福岡県知事、並びに局長クラスに対する通訳だった。なお当時の日本の環境大臣は小泉進次郎氏だった。

 

また、メインの会合自体の通訳ではなく、会合後夕刻からの歓迎レセプション、および大臣一行に同行する中国・韓国の学生や若手ビジネスマンが昼間に市内を視察することに対応する通訳だった。

 

中国語・韓国語の通訳は、同時通訳が歓迎レセプションでの北九州市長および福岡県知事のスピーチに対応し、同時・逐次通訳双方でメインの円卓でのVIPの歓談に対応した。

 

また、英語の逐次通訳5名は、その他の円卓の間に配置し、日本語⇔中国語⇔韓国語のコミュニケーションのサポートを行う形だった。実際のところ、中国および韓国のVIPは英語が話せる方が多く、英語の通訳は想像以上に活躍することができた。

 

 

英語、中国語の通訳者は問題なく手配できたが、韓国語については確保していなかった。本番まで時間があったので、登録通訳者の紹介などで何とか市中から確保することができた。結局英語の男性通訳者1名を除いて残り8名が女性という陣営になった。

 

「イケメンの小泉氏に会える!」ということから女性陣からは黄色い声が上がっていた。

 

 

果たして本番当日、私は朝一で「北九州国際会議場」赴いた。市内を視察する中国・韓国の学生や若手ビジネスマンを乗せる貸切バスが10:00に出発することになっていた。

 

 

 

視察に同行する中国語と韓国語の逐次通訳各1名と国際会議場で事前におち合い簡単な打ち合わせを行った。2人の通訳者とはその時が初対面だった。2人ともかなり緊張していた。何度となくこんな雰囲気を味わってきたのか私は冷静だった。「まあ、何とかなる!」と思えた。

 

二人を貸切バスに放り込んで一段落した。これから14:00くらいまでは一息つくことができた。喫茶店で当日の行程を確認したり昼食を取ったりしながら時間を潰し早めに歓迎レセプション会場の「リーガロイヤルホテル小倉」に入った。

 

 

 

ホテル周辺にはテロに備えて機動隊を乗せたバスが3台くらい停まっていた。またホテル内のあちこちに厳つい黒服のSPが配備されており、物々しい雰囲気を醸し出していた。

 

コロナ禍前の2019年の夏休みについてはあまり思い出がないが、8月の前半、熊本の菩提寺を訪ねて墓参りをして近郊の山鹿温泉で一泊して町を散策した。

 

 

 

山鹿温泉は芝居小屋「八千代座」とレトロな町並みが有名である。残念ながら「八千代座」は週末営業していなかったが、骨董品屋や雑貨屋を物色したり古風なカフェに入ったり、また醸造元で日本酒を試飲したりしながら楽しいひと時を過ごすことができた。

 

 

 

 

 

2019年9月中旬、突然新日鐵関連のE社(東京)からロシア語の通訳の案件が舞い込んできた。通訳はロシアから来日するエンジニアのグループに対するものだった。

 

彼らは夕刻福岡空港に到着し当日は北九州・若松で懇親会を催し翌日朝から技術ミーティングが行われる予定で、ロシア語⇔日本語の通訳を懇親会と技術ミーティングの両方に対応して欲しいという依頼だった。

 

 

 

その当時ロシア語の通訳は抱えておらず、付き合いがある福岡の通訳エージェンシーに相談した。同社は快く広島在住の女性ロシア語通訳者を紹介してくれた。

 

顧客他、ロシアのエンジニア達とおち合う予定のホテルのロビーで、定刻の1時間余り前にロシア人通訳の女性と待合わせ事前打ち合わせを行った。

 

通訳のロシア人女性は日本語が堪能な明るい方で一安心した。まあ、通訳はいつもこんな綱渡りの連続なのだが ……。ご主人は日本人、日本在住20年以上で頼りになれそうな方だった。

 

暫くして、顧客と大きな荷物を抱えたロシア人エンジニアの一群がロビーに到着した。第一印象は「とにかくでかい奴らだ!」で、まるでアイスホッケーのチームみたいだった。通訳の女性は彼らに気軽に話しかけて面倒をみていた。「大丈夫だ!」と確信した。

 

翌日の技術会議にも最初に顔を出したが、通訳は首尾よく通訳業務を遂行していた。

 

 

 

その後も、2019年末から2020年初にかけていくつかの通訳案件の見積り依頼が入ってきた。ビジネスは通訳を中心に順風満帆に進むかに思われた。

 

大分県内の案件は今まで殆ど実績が無かったが、大分市に本社を置くファミリーレストラン「ジョイフル」の海外進出パンフ(改訂版)の和文英訳、和文繁体字訳を地元の印刷会社N社経由で受注したのが2019年3月だった。

 

 

 

その後、N社の紹介で大分市内の印刷会社、O社からも翻訳の見積り依頼が入るようになった。令和が始まった2019年5月、O社から大分市が作成した原稿「大分市市政要覧」の和文英訳の見積りが入ってきた。

 

内容は大分市長の挨拶に始まり、大分市の市域概要、観光・グルメ、文化・スポーツ、歴史・文化、産業経済、環境、教育・社会、行政など多岐にわたるもので相当の翻訳量があった。また、顧客(大分市)からネイティブチェック要との指示があった。見積りを提示し、価格交渉を経て何とか本案件を受注することができた。

 

 

 

 

本案件の翻訳者の選定に当たっては、内容が九州地域(大分)に深く関係したものであることから、可能な限り大分近郊のメンバーを選定するようにした。一次翻訳は鹿児島在住の翻訳者、校閲(チェック)は私が行い、ネイティブチェック宮崎県在住のアメリカ人(夫アメリカ人/妻日本人)チェッカーを選定した。

 

原稿(大分)⇒一次翻訳(鹿児島)⇒校閲(福岡)⇒ネイティブチェック(宮崎)

 

上記の九州在住メンバーで翻訳作業を進めたが、原稿には大分市内の細かい地名や施設の名前、また祭祀や地場のイベントなど伝統・文化的な用語も多く含まれ、難解ながらも結果的には楽しい作業となった。

 

一時翻訳者の英文の漏れなどをチェックしつつ、市長の挨拶文をより格調高いものに改訂したり、訳語のチェックや改善を進めるうちに自分自身も大分市に興味が持てるようになり大分市の文化や歴史の概要を理解することができた。

 

 

自分がチェックした英文をネイティブチェッカーに送り、それがチェックされて戻ってきたものを見て愕然とした。

 

私は、ネイティブチェックについて、従来、英語として違和感のある表現を排除して改訂する程度のものと考えており、それまでその程度のネイティブチェックを施した製品を納品してきた。

 

だが今回ネイティブチェック結果は従来と全く異なるもので、かなり大胆な改訂が施されていた。改訂後の英文には格調高さだけでなく自然な勢いが付加されている印象を受けた。

 

「この英文はネイティブじゃなきゃあ書けないな!」とはっきりと認識できた。本ネイティブチェック結果は一次翻訳者にもフィードバックしお互いに感想を語り合った。

 

 

 

 

この仕事でもう一つ印象に残っているのが大分市の本件の担当者(女性)の能力の高さである。一次納品後の英文の校正結果について問い合わせたところ実に明快な回答が返ってきた。海外留学、海外勤務経験がある管理職の方だった。特に英文表記のルールについて「自分はまだまだ勉強が足りないな!」と反省させられた。本件を何とか納品できたのは2019年7月中旬、梅雨明けが近づいていた。

 

 

なお「大分市市政要覧」は以後も毎年改訂が続けられ、現在も大分市のホームページにPDF版が掲載されている。

 

https://www.city.oita.oita.jp/o029/shisejoho/annai/shiseiyoran/2022.html

新しい元号「令和」が2019年4月1日(月)に発表され、同年5月1日(水)から適用されることになった。当時の菅義偉官房長官(前・総理)が4月1日、新元号「令和」を発表した。ここに「令和時代」の幕が開けた。

 

 

 

新元号が発表されて直ぐのこと、地元の中堅企業Y社から海外への通訳者派遣の案件が飛び込んできた。派遣先国はオランダ(アムステルダム)とイタリア(ヴェネチア)、言語は英語⇔日本語、期間は一週間程度だった。

 

通訳の内容は、Y社のエンジニアの方に同行してアムステルダムで開催される欧州臨床微生物学会議(ECCMID)の展示会においてY社製品(医療機器)の売込みや見込先との商談、また取引先との会議をサポートして欲しい旨の依頼だった。

 

但し、話が来たのが週の半ば、週末にはオランダに飛んで欲しいという緊急性が高いもので通訳として同行する予定だった職員が弔事で急に行けなくなったことによる依頼だった。

 

 

 

「通訳ができるなら自分が行きたい!」と思えるような案件だったが「果たして対応できる通訳者は居るのか?」と人選に悩みつつある若手男性通訳者に連絡を取った。彼の回答は「今の仕事をキャンセルしてでも行きます!」というものだった。

 

人選が決まり、通訳を来社させ顧客との打ち合わせなど取り急ぎ段取りを進めていった。通訳者は首尾よく本案件を遂行した。

 

 

2019年の5月1日(水)は「天皇の即位の日」として祝日となり、祝日法の兼ね合いから2019年のゴールデンウィークは10連休となった。日本中が「令和改元」に浮かれていた。

 

大日本帝国では、かつて「紀元二千六百年」(1940年)に大祝典が開催されている。私は軍歌の映像を通じて知っただけだが、その翌年の1941年に日本は太平洋戦争へと突入していった。

 

 

 

そんな日本中がお祭り気分に沸いていた2019年の春過ぎ、日本のあちこちである奇妙な現象が発生していた。

 

奇妙な現象とは「竹に花が咲く」ことである。120年に1度の珍事という。凶事の前触れともいわれているらしいが、果たして何を暗示していたのだろうか?

 

 

昨日から朝冷えるようになった。朝歩くと指先が少し寒い。今朝はこの秋一番の寒さだったところもあるようだ。これも「放射冷却(radiative cooling)」によるものらしい。

 

年末の話題がちらちら聞こえ始めるこの時期、そろそろ「鍋」が恋しくなる季節である。

 

 

母が亡くなって三年余り、時々三好達治の詩「乳母車」が思い浮かぶことがある。この詩は昭和の秋の夕暮れを思い起こさせる。「紫陽花いろのもの」が何かわからないが薄紫や薄いピンクの光のかけらみたいなものように思われる。

 

思えば昭和は遠くになったものだ。

 

 

 

 

「乳母車」  三好達治

 

母よ――

淡くかなしきもののふるなり

紫陽花(あじさい)いろのもののふるなり

はてしなき並樹のかげを

そうそうと風のふくなり

 

時はたそがれ

母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ

泣きぬれる夕陽にむかって

轔轔(りんりん)と私の乳母車を押せ

 

赤い総(ふさ)のある天鵞絨(びろうど)の帽子を

つめたき額にかむらせよ

旅いそぐ鳥の列にも

季節は空を渡るなり

 

淡くかなしきもののふる

紫陽花いろのもののふる道

母よ 私は知っている

この道は遠く遠くはてしない道

 

 

翻訳会社と印刷会社は関係が深い。様々なドキュメントの翻訳を印刷会社経由で請け負っていた。観光スポット関連のもの、会社案内やパンフレット、地方公共団体関連のドキュメントなどが多かった。

 

 

地場の大手印刷会社N社から北九州市のお隣りの京都郡苅田町(みやこぐん・かんだまち)の案件の見積り依頼が入ったが2018年の夏の終わりごろだった。原稿は「苅田町生活情報ガイドブック」というものだった。

 

翻訳の方向は、和文英訳、和文中国語(簡体字)訳、和文韓国語訳、和文ベトナム語訳の4方向だった。見積り提示後、秋口には同案件を受注した。

 

英語、中国語(簡体字)は自社の登録翻訳者、韓国語は付き合いが長い大阪の韓国語専門の翻訳会社、ベトナム語は福岡の大手翻訳会社に再委託した。とにかく品質を最優先して翻訳を進めた。

 

 

苅田町には日産自動車、トヨタ自動車、三菱マテリアル、日立金属など大手の製造業、さらにその下請け会社などが数多く存在する。それらの企業で働く外国人が多く、今回の案件は彼ら外国人向けに町役場が町内での生活便利情報を提供するものだった。

 

 

 

 

原稿は苅田町の役人の方が作ったものだったが、最も苦労したのが地名や企業名や施設名(病院・学校など)などの固有名詞だった。

 

地名(漢字)の場合、中国語は問題ないが、韓国語、ベトナム語では、英語同様に日本語での読み方がわからないと翻訳できない。特に細かい地名や寺院などの読み方の調査に苦労した。

 

一方で、中国語は固有名詞内のひらがな・カタカナの処理に苦労した。日本語では漢字表記のものでも医院名などではひらがな、カタカナを使用しているケースがある。例えば「やまだクリニック」とか「サイトウ皮膚科医院」のようなケースである。

 

このような場合、表音文字が無い中国語では、名前の中の固有名詞部分を原則アルファベットの大文字で表記し、一般名詞部分は中国語(簡体字)に翻訳して表記する。上の例では以下のようになる。

 

◎「やまだクリニック」⇒「YAMADA诊所」

◎「サイトウ皮膚科医院」⇒「SAITO皮肤科医院」

 

もし「やまだクリニック」を「山田诊所」と訳すと中国人が医院の看板を見ても判りづらいからだ。「山田」=「やまだ」と認識しづらいからである。まだアルファベットのYAMADAの方がわかりやすいのである。

 

そんなことも知ったのもこのときが最初だった。

 

 

因みに、中国語の簡体字・繁体字の違いについて書いておくと、簡体字は従来の漢字(繁体字)を簡略化した字体をいい、中国本土、シンガポール、マレーシアで使用されている。英語では Simplified Chinese と表す。

 

繁体字は正字、正体字とも呼ばれ、簡体字や日本の漢字に比べても圧倒的に画数が多いのが特徴で、台湾、香港、マカオで使用されている。英語では Traditional Chinese と表す。

 

 

 

 

そんな苦労があったが翻訳は無事終了し、2018年12月初旬に納品することができた。

 

 

2020年1月から外国人技能実習生の監理団体に職を得たが、その団体の職員たちが外国人技能実習生の監理・指導にこの「苅田町生活情報ガイドブック」を有効活用していることを知り、過去の自分の仕事が誇らしく感じられた。

 

https://www.town.kanda.lg.jp/_1021/_1058/_5657.html