流離の翻訳者 青春のノスタルジア -38ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

こちらは寒さが戻って来たようである。今日灯油を買い足しに行ってきた。これが最後となって欲しいものだ。

 

 

英文解釈のシリーズが続いているが、今回は我々の時代よく主題されたバートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell, 1872-1970)の英文である。

 

 

 

本文は、1000年前の人間、現代の人間、1000年後の人間を比較しながら「人間には前途洋々たる未来がある」といった趣旨を説いている。

 

 

明日から国公立の二次試験が始まるらしい。努力は実る!自分を信じて頑張れ!受験生!

 

 

(問題)

Man, though his body is insignificant and powerless in comparison with the great bodies of the astronomer’s world, is yet able to mirror that world, is able to travel in imagination and scientific knowledge through enormous abysses of space and time. What he knows already of the world in which he lives would be unbelievable to his ancestors of a thousand years ago; and in view of the speed with which he is acquiring knowledge there is every reason to think that, if he continues on his present course, what he will know a thousand years from now will be equally beyond what we can imagine. But it is not only, or even principally, in knowledge that man at his best deserves admiration. Men have created beauty; they have had strange visions that seemed like the first glimpse of a land of wonder; they have been capable of love, of sympathy for the whole human race, of vast hopes for mankind as a whole.

(“Prologue or Epilogue” by BERTRAND RUSSEL)

 

 

(拙・英文和訳)

人間の肉体は、天文学者が眺める世界の偉大な天体と比べれば、取るに足らない無力なものだが、それでも、人間は、その天体を映し出すことができ、空間と時間の巨大な深淵を通じて想像力と科学的知識の中を旅することができる。人間が、自分が住んでいる世界について既に知っていることは、千年前の人間の先祖から見れば信じられないものだろう。そして、人間が知識を獲得する速度を考えると、人間が現在のコースをたどり続けるかぎり、今から千年後の人間が知っていることは、上記同様、我々の想像を遥かに超えるものとなると考えるべき理由が大いにあるだろう。しかし、人間が最善の努力をした状態で人間が賞賛に値するのは、単に知識の点のみだけではないし、また主として知識の点でもない。人間は美を創造してきた。そして、人間は不思議の国を最初にひと目見たような奇妙な幻影も体験してきた。また、人間は愛することもできたし、人類全体に対して共感することができたし、また人間全体に対して果てしない希望を抱くこともできた。

 

予備校の英文解釈のテキストはサマセット・モーム(Somerset Maugham, 1874-1965)「月と六ペンス」というものだった。高齢のベテラン講師だったが授業の内容は殆ど覚えていない。あまり真面目に聴いていなかったようである。

 

 

 

今回は「英文をいかに読むか」からモームの英文に挑戦する。人は口には出さなくても心の中では好き勝手なことを考えているものである。もしそんな口に出せない妄想が暴露されたり、他人に知られたりしたらどうする!?という恐ろしい趣旨の英文である。少し手強いと思われた部分に下線を施した。 

 

人の心の中にはそんな悪魔が棲んでいるものだ。人は自分には甘く、他人には厳しいものだ。

 

 

 

(問題)

I wonder how anyone can have the face to condemn others when he reflects upon his thoughts. A great part of our lives is occupied in reverie, and the more imaginative we are, the more varied and vivid this will be. How many of us could face having our reveries automatically registered and set before us? We should be overcome with shame. We should cry that we could not really be as mean, as wicked, as petty, as selfish, as obscene, as snobbish, as vain, as sentimental, as that. Yet surely our reveries are as much part of us as our actions, and if there were a being to whom our inmost thoughts were known we might just as well be held responsible for them as for our deeds. Men forget the horrible thoughts that wander through their own minds, and are indignant when they discover them in others.

(“The Summing Up” by SOMERSET MAUGHAM)

 

 

(拙・英文和訳)

自分が頭の中で考えていることを振り返って見るとき、どうしてぬけぬけと他人を非難する顔ができるだろうか。我々の生活の大部分は妄想で占められており、想像力が高ければ高いほど、その妄想はより多様になり鮮明になる。我々の妄想が自動的に登録されて私たちの眼前に置かれたならば、我々のうちの何人がそれに立ち向かうことができるだろうか?そうなったら、我々は恥ずかしさに打ちのめされるだろう。我々は、実際、それほど卑劣で、意地悪で、狭量で、利己的で、卑猥で、俗物的で、虚栄心が強く、感傷的ではありえない、と叫ぶだろう。しかし、確かに我々の妄想は、我々の行動と同じくらい我々の一部であり、もし我々が心の最も奥に秘めた考えを知る存在がいたとしたならば、我々は我々の行為と同じくらいに彼らに対して責任を問われることになるだろう。人は、自分の心の中にとりとめもなく浮かぶ恐ろしい考えは忘れるくせに、他人がそんな考え持っていることを見つけたときには憤慨するものである。

 

「英文をいかに読むか」(朱牟田夏雄著・文建書房)から演習問題にもう一問挑戦する。英国の作家、アレック・ウォー(1898-1981)の英文である。「これが大学受験の問題か!?」と思えるくらい難しい。

 

「孤独」という感覚がどういうものなのかが列記されている。人生と孤独に対する深い洞察が窺われる。

 

 

語彙は難しくはない。ただ構文の構成が複雑で書かれている内容自体が難解である。代名詞が何を指しているのかもわかりづらい。決して上手い訳文にはならなかった。とくに難解だった部分に下線を施した。

 

 

(問題)

There are many kinds of loneliness. Hilary was too young to experience that loneliness which is at once a criticism of life and our relation to it: the feeling that we can never share with any one our deepest feelings; that all that is most personal to ourselves must remain locked forever in our hearts; that from birth to death we are strangers to our fellow-humans; that life is a series of superficial contacts, brief or long, sad or happy; that as no one in the last analysis means to us, so can we matter only to those to whom we are of material assistance, and to those only in the measure that our assistance is great or little; that feelings he was too young to know. The loneliness of a new boy’s first days at school is the loneliness of one who, returning at the day’s close to dismal and solitary lodgings, gazes wistfully across at a London square’s lighted windows; they represent everything in the world he longs for and has not got. Happiness exists. But he is apart form it

(“Three Score and Ten” by ALEC WAUGH)

 

 

(拙・英文和訳)

孤独にはさまざまな種類がある。ヒラリーは、人生の批判と同時に、自分と人生への係わりについての孤独を経験するには若すぎた。それは、すなわち、我々が自分自身の最も深いところの感情は誰とも共有することは決してできないという感覚、我々自身にとって最も個人的なものは全て自分の心の中に永遠に鍵を掛けたまま封じておかねばならないという感覚、生まれてから死ぬまで、自分が周囲の人々に対しては赤の他人であるという感覚、人生とは、それは短かろうが長かろうが、悲しかろうが幸せだろうが、連続した他人との単なる表面的な接触であるという感覚、そして、結局のところ、他の誰もが我々自身にとってはさしたる意味がないように、我々自身も、我々が何か物質的な助けとなる場合についてのみ他人に対して意味を持つことができ、それも、その助けの大小という尺度でのみ意味を持つことができるという感覚。これらの感覚を知るには彼は若すぎた。新入生が学校で最初の数日に感じる孤独は、言わば、日暮れに陰気で一人ぼっちの下宿に戻って来た者が、ロンドンの広場の灯りのついた窓を物憂げに見つめる孤独である。その窓は、彼が切望するも手に入れることのできないこの世の全てを代表する。幸福は存在するが、自分はそれに近づけないという感覚である。

 

英文解釈の受験参考書などを読んでいると、読みやすい自然な日本語に訳出するのかがいかに難しいかを痛感させられる。どの和訳も実に見事なものである。なかなかできるものではない。

 

受験生の時は、なるべく辞書にのっている訳語の通りに、文法書にある定訳の通りに逐語的に訳出することを心掛けていた。だがそれでは自然な美しい訳文はできない。訳文は自分の語彙や文法の知識をひけらかすためのものではない。実は、真の英文和訳には語彙や英文法だけでなく、私の苦手な深い国語力が必要だった。

 

そんな理由から「英文解釈より英作文の方が自分の個性が生かせて遥かに面白い!」と長い間感じてきた。

 

その考え方が変わったのが、翻訳者になり一次翻訳者の和訳をチェックするようになってからである。あまりに逐語訳的で何を言っているかわからない訳文もあった。それをいかに意訳して、読みやすく自然で意味の通る日本語に改訂してゆくかに自分の個性が生かせて面白いとを感じるようになった。和訳が嫌いではなくなった。

 

 

以下は「英文をいかに読むか」(朱牟田夏雄著・文建書房)からアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)の英文の和訳である。

 

 

彼が、自分が生きている(生かされている)ということをいかに真摯に、また謙虚に捉えていたかが窺われる英文である。天才とはそういうものなのかも知れない。英文を真摯に受けとめて訳してみた。結構難しい。

 

 

 

(問題)

Strange is our situation here upon earth. Each of us comes for a short visit, not knowing why, yet sometimes seeming to divine a purpose.

From the standpoint of daily life, however, there is one thing we do know: that man is here for the sake of other men ―― above all for those upon whose smile and well-being our own happiness depends, and also for the countless unknown souls with those whose fate we are connected by a bond of sympathy. Many times a day I realize how much my own outer and inner life is built upon the labors of my fellow-men, both living and dead, and how earnestly I must exert myself in order to give in return as much as I have received. My peace of mind is often troubled by the depressing sense that I have borrowed too heavily from the work of other men.

I do not believe we can have any freedom at all in the philosophical sense, for we act not only under external compulsion but also by inner necessity. Schopenhauer’s saying ―― “A man can surely do what he wills to do, but he cannot determine what he wills” ―― impressed itself upon me in youth and has always consoled me when I have witnessed or suffered life’s hardships. This conviction is a perpetual breeder for tolerance, for it does not allow us to take ourselves or others too seriously; it makes rather for a sense of humor.

(“What I believe” by ALBERT EINSTEIN)

 

 

(拙・英文和訳)

地球上での、我々人間の状況とは実に不思議なものである。私たち一人一人が、その訪問の理由を知らずに、短い時間地球を訪問しているが、それ自体が時にはその訪問の目的を神聖化しているようにも思われる。

しかし、日常生活の観点から、我々が知っていることがたった一つだけある。それは、我々人間が他の人たちのために地上に生まれてきたこと、とりわけ、自分自身の幸福が、その人たちの笑顔や幸福に拠るものであるような他の人たちのために、そしてまた、共感という絆によって我々とその運命が繋がっている無数の未知の他の人たちの魂のために、我々が地球に生まれてきたこと、ということである。私は、一日に何度も、どれくらい私自身の外面および内面の生活が、他の人たち(たとえ生きていようが死んでいようが)の労力の上に成り立っているか、また、私が受け取ったものと同じくらいのものを彼らに返すために、どれくらい私が真面目に努力しなければならないか、を痛感する。私の心の平安は、私が他の人たちの労力に負うところがあまりにも大きいという憂鬱な気持ちによってしばしば乱される。

私は、我々人間が哲学的な意味で自由を持てるとは全く考えない。何故なら、人間は外からの強制だけでなく、内からの必要性によっても行動するからだ。ショーペンハウアーの言葉「人は自分のやりたいと思うことを確かになしうるが、自分が何をしたいかを決めることはできない」は、若い頃の私に感銘を与えたし、また私が人生の苦難を直面したり苦しんだりするたびに、いつも私を勇気づけてきた。この確信が、常に寛容の精神を生みだしている。何故なら、この確信は、我々に自分自身や他の人たちをあまり大真面目に受け取ることを許さず、どちらかといえばユーモアの気持ちを生じさせるからである。

 

『坊がつる讃歌』は私が大学入学直後の1978年、芹洋子さんが歌ってヒットした曲である。元々旧制・広島高等師範(現・広島大学)の山岳部の第1歌「山男の歌」をベースに九州大学の3人の学生によって作成されたものらしい。

 

 

 

 

亡くなった母がこの曲が好きで時々口ずさんでいた。花が好きだった母を思い出させる歌詞だ。

 

 

「坊がつる讃歌」

一.

人みな花に 酔うときも

残雪恋し 山に入り

涙を流す 山男

雪解(ゆきげ)の水に 春を知る

 

二.

ミヤマキリシマ 咲き誇り

山くれないに 大船(たいせん)の

峰を仰ぎて 山男

花の情(なさけ)を 知る者ぞ

 

三.

四面(しめん)山なる 坊がつる

夏はキャンプの 火を囲み

夜空を仰ぐ 山男

無我を悟るは この時ぞ

 

四.

出湯(いでゆ)の窓に 夜霧来て

せせらぎに寝る 山宿(やまやど)に

一夜を憩う 山男

星を仰ぎて 明日を待つ

 

 

渡部昇一「知的生活の方法」を読み終えた。この中にコウスティング(Coasting)という概念が出てくる。以下は同書からの抜粋である。

 

 

 

動物と人間の大きな違いは、人間が知的生活をなしうるという点である。この知の働きにより、人間は動物の知らない自己実現の喜びを知るとともに、またそれからくる苦悩も多く持つ。 ……… 人間の知の向上への努力は、しばしば休息、あるいは心理学で言う「退行現象」につながる場合がある。

 

……… 知の働きによる自己実現は、しばしば奇妙な退行現象を示す。睡眠を求め、休息を求めるのはありふれたことだが、過度に保護を求めたり、奇妙な空想にふけったり、ついには平安を求めるあまり、「死」、つまり「絶対の平安」を求めたりするのである。 ……… この退行現象の極端な例ともなれば、完全な自閉現象を起し、母の胎内にいる子供のような格好になって座っているだけになる。

 

……… しかし退行現象はそれ自体が病的なものではないのであって、それは正常な現象であることを認めなければならない。そして正常な退行現象を持つことが病的な退行現象に入ることをふせいでくれると言ってよいであろう。この正常な、また健康な退行現象を、コウスティング(Coasting)と言う

 

Coasting という単語は、元来舟が大洋に乗り出さずに沿岸航海をすること、あるいは、自動車がアクセルを踏むのをやめて惰力で走ったり、飛行機がエンジンを止めて滑空することなどを言う。これを人間に当てはめた場合は、知的な努力をやめて、しばらく無努力の状態にもどることである

 

長期にわたって知的生活を送ることに成功した人は、本能的に健全な退行、つまりコウスティングをしているようである

 

短時間で英文の意味を把握し、それを自然な言い回しの日本語に訳すことは至難の業である。以下の東大の和訳問題は (A) (B) ともに難しかった。文法的にも意味が取りづらい構文になっている。まさに青息吐息の和訳である。

 

特に (A) は文章の前後がなければ何を指しているのかわからない。謎めいた英文である。「結婚式の朝の花嫁の心境」「彼」とはどんな関係なのか?また「彼」は何を思い出したのか?

 

(B) は応用化学のメリット(善)デメリット(悪)に関する文である。文中の balance は善と悪のバランスだろう。Expect good to flow from ~の部分は「~から善が生じることを期待する」で良いだろう。

 

 

(問題)

(A) He slept at last, and woke at last in the morning, lying for perhaps five seconds wondering what there was to remember until he remembered it. It was as if the world lay silent as an orchestra under the conductor’s outstretched arms. (1)Then the moment of remembrance set every nerve in his body trembling, as a movement by the conductor might send a hundred bows to work. For one curious transient second he thought he knew how a bride feels on the morning of her wedding.

 

(拙・英文和訳)

(A) 彼はついに眠り朝ようやく目を覚ました。何を思い出すべきなのか思いめぐらし、それを思い出すまで、たぶん5秒間ほど横になっていた。それはあたかも、指揮者の伸ばした腕の下で、世界がオーケストラのように沈黙しているかのようだった。(1)それから、それを思い出した瞬間は、指揮者の動きが百本の弦楽器の弓に一斉に演奏することを命じたかのように、彼の体中のすべての神経を震わせた。この奇妙なほんのちょっとの間、彼は結婚式の朝、花嫁がどんな心境なのかを知ったような気がした。

 

 

(B) Everybody has become increasingly aware of the power of applied science to affect our lives. Sad to say, two great wars played a major part in this enlightenment, and perhaps in consequence, some people fear the destructive powers of science more than they appreciate its beneficent gifts. But most will recognize that our own choice decided what use we make of our control over nature, and (2)what any one of us thinks the balance will be depends chiefly upon whether he expects good or evil to prevail in the world generally. In the last resort I believe the majority of people expect, on the whole, good to flow from the use of knowledge.

 

(拙・英文和訳)

(B)誰もが我々の生活に影響を与える応用科学の力をますます認識するようになった。悲しいことに、2つの大きな戦争が人々のこういう啓発に大きな役割を果たし、たぶんその結果として、一部の人々は、科学が与える有益な恩恵の価値を認める以上に、その破壊的な力を恐れる。しかし、多くの人々は、我々自身の選択が、我々の自然に対する支配力をどのように使用するかを決定することを認識しており、また(2)我々の誰もが、そのバランスが今後どうなるかは、人が善または悪のいずれが世界で一般的に優先されることを期待するか、に主に依存することを認識することになる。結局のところ、大多数の人々が、全体的に見ると知識を使用することにより善が生じることを期待するものと私は信じている。

 

((A)(B)ともに東京大学・1978年以前)

 

「英文解釈難問集」からもう一問**レベルの難問に挑戦する。今回は北大の問題である。

 

「死の意味」を問う難問だった。テーマが受験生には難しすぎるのではないか?語彙も決して楽ではない。

 

但し、問題は全文訳ではなく、日本語の選択肢7個から本文の文意に合致するもの2つを選ばせるもの、それと3箇所の下線部訳だった。それがせめてもの救いか。

 

(問題)

A man lives with a few familiar ideas, two or three at most, and here and there, in contact with the world and men, they are polished, shaped, changed. It takes years for a man to evolve an idea that he can call his own, (1)one he can speak of with authority. A man in his youth looks the world in the face; as he grows older he steps aside to see it in profile. (2)So it is with death. A young man has not yet had time to shape and polish his concept of death and nothingness, though he recognizes how horrible it is and fears it with the physical fear of an animal who does not want to lose the sun.

It was while wandering in Djémila that I found the idea and meaning of death, in the solemn, dismal cry of stone monuments rising from the barren land, in the gravelike dusk of the falling sun. (3)From the winds of this deserted city I learned that man must find how to look facts in the face, so that they regain the lost innocence and shining certainty with which ancient man saw death. In recognizing and clasping death, man regains his youth. This I learned at Djémila, that the only way to live is with a real understanding of the meaning of death ―― that it is a separation from what you have in here and now, that in dying you lose the world of the present moment, and that beyond that there is nothing.

*Djémila:アルジェリアの北東の岸に近い山村(ユネスコの世界遺産)。下線部は指定の和訳箇所。

(北海道大学・1978年以前)

 

 

 

(拙・英文和訳)

人は、せいぜい2つか3つほどの身近な考え方を持って生きており、色々な場所で、他の世界や人々に触れることにより、それらの考え方は洗練され、形成され、変化する。人が、自分自身のものだと呼べる考え方、(1)権威を持って話すことができる考え方を発展させるには何年もかかる。人は、若い頃は世界を直視する。それが、年をとるにつれ、世界を横から見るために人は脇へ寄るようになる。(2)それは、死についても同じである。若い人間は死がどれほど恐いかを認識しており、太陽を失うことを望まない動物のような肉体的な恐怖をもって死を恐れているが、若い人間には、死と無の概念を形成して磨くだけの時間がまだ十分ではないのだ。

私が、死に対する考え方と意味を見つけたのは、不毛の大地に聳え立つ石碑の厳粛で陰鬱な叫び声の中、また沈みゆく太陽の墓のような黄昏の中で、ジェミラをさまよっている間だった。(3)この荒れ果てた街の風から、私は、古代人が死を見つめた、今は失われた無邪気さと輝ける確かさを取り戻すために、人は事実を直視する方法を見つけなければならないことを学んだ。死を認識しそれを握り締めることで、人は若さを取り戻す。これが私がジェミラで学んだことだ。生きるための唯一の方法は、死の意味を真に理解することである。即ち、死とは今ここにあるものからの離脱であること、死ぬことで人は現在の瞬間の世界を失うこと、死を越えたところには何もないということを学んだのである。

 

今日は放射冷却で朝方は冷えた。今は風もなく春のような日差しが降り注いでいる。寒さはもう戻らないのか。

 

 

大学一年の頃読んだ「紅萌ゆる」(土屋祝郎著・岩波新書)を復刻版で読んでみた。「本当に一度読んだのだろうか?」と思うほど予想したものとは異なるものだった。

 

旧制・第三高等学校での弊衣破帽の青春を謳歌した内容かと思っていたが、そんな記述はほんの一部だった。

 

昭和初期の日本が初期帝国主義から軍国主義へと進行してゆく中、自由な校風の三高「自由寮」の自由が次第に奪われてゆき、学生運動に飛び込み特高に逮捕され拷問を受け、終には退学へと追い込まれてゆく著者の姿が淡々と描かれていた。

 

大学入学当初の幼い自分にはやや難しすぎたようである。

 

 

 

 

 

現在、早慶など東京の私立大学の入試のピークを迎えている。国公立二次まで残り10日を切った。そんな受験生のために和文英訳にもう一本挑戦する。

 

以下は「京大入試に学ぶ和文英訳の技術」から「旅」に関する問題である。文法的には「比較」に関する表現が書けるかを問うている。大して難しくはない。頑張れ!受験生!!

 

 

 

(問題)

一昨年東欧を旅行した時、ある町の広場とそれを取り巻くもろもろの歴史的建造物が、第二次世界大戦で破壊されたのに、古い写真をもとに完全に復元されたと知って驚きました。私は市民の誇りと情熱に強く心を打たれ、言葉を失いました。この時ほど伝統を守ることの意義を痛切に感じたことはありません。(京都大学・2001年後期日程)

 

(拙・和文英訳)

When I made a trip in East Europe two years ago, I was surprised to know that a square of a city and various historical buildings surrounding it were completely restored to the former state based on old photographs despite the fact that they had been destroyed in the World War II. And, I was impressed so strongly with the citizens’ pride and enthusiasm that I could not know what to say. I never felt the significance of maintaining the tradition more keenly than that time.

 

我々が高校の頃は「大学生というのはブレザーを着ているもの」という先入観があった。時々文科系のクラブのOBなどが高校を訪れていたが、大学生の先輩たちは必ずと言っていいほどブレザーを着ていた。

 

実際に自分が大学生になって、ブレザーやスーツで大学に通ったのは入学当初の一週間くらいだけだった。堅苦しいばかりで講義を受けるには適していなかった。以後スーツを着たのは成人式と就職活動のときくらいである。

 

 

そんな中でも、いつもブレザーを着ている輩もいた。そういう輩は何処かの坊ちゃんか普段着を持っていない奴だと思っていた。

 

ある日、いつもの麻雀仲間がバリっとしたブレザーを着て大学に来た。「一体!何事か?!」と思った。彼が言うには「たまにはブレザーでも着ないと自分が大学生たることを忘れてしまう」とのことだった。

 

確かにバイト明け暮れ酒と麻雀に現を抜かしていれば、そんな心境にもなるだろう。バリっとした恰好をしていれば心もバリっとなるものである。

 

 

 

 

 

以下は「英文表現法」から、出家前の瀬戸内寂聴さん(瀬戸内晴美さん)のファッションに関する文章である。今回はこの英訳に挑戦する。人間いくつになっても何らかの挑戦を続けていたいものである。

 

 

(問題)

私はイメージチェンジの効用などちっとも信じていない。しかし夫や恋人の心を捕えるために一風変わった化粧やなりをしてみるなということではなく、自分に全く似合わないと思う髪型や、身なりに挑んでみるという気持ちの張りは人間いくつになっても持っていていいのではないかと思う。(瀬戸内晴美)

 

 

(拙・和文英訳)

I do not believe any usefulness of changing one’s image at all. Nevertheless, this does not mean that you should not try an eccentric makeup or appearance so that you could fascinate your husband or sweetheart. I think that you, even though you may become older, are allowed to have a challenging spirit to try a hair style or a dress which would not seem to go well with you at all.