流離の翻訳者 青春のノスタルジア -20ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

年明けから来客やイベントが多かったせいか月日の流れが速い。気が付けは大寒(1月20日)も越えた。二週間経てばはや立春だ。冬はこのまま終わるのだろうか。

 

今日、帰省してきた娘・孫娘たちを駅まで見送った。娘たちの帰省中は生憎の雨が多かったが今日の昼から天気は持ち直したようだ。

 

 

昔観た日本映画で「渋滞」(1991年)というものがある。主演は萩原健一と黒木瞳

 

年末年始の休暇を使って車で千葉県・浦安市から故郷である岡山県・真鍋島の実家に帰省する悲喜劇を描いたものだ。

 

実家に住むのは認知症になった父親(岡田英次)110キロの渋滞の中果たして故郷に辿り着けるのか?実に感動的なエンディングだった。BGMは Kenny G”Going Home”。以来 Kenny G のファンになった。

 

 

もう一度観たい作品である。

 

 

 

ここ二三日久しぶりの雨となっている。一昨日から娘が孫娘二人を連れて帰省してきており、私は久しぶりの「ジージ」になった。家の中は賑やかになったが、孫の対応は面白くも体力が必要だ。

 

昨年12月前期高齢者になってから電車などの「優先席」に座ることに遠慮がなくなった。ある意味情けない話だ。私より年上でも若々しく見える人はたくさんおり、少し体力をつけなければと思う。

 

孫たちの様子を観察していると実に面白い。不思議な言葉を発したり不思議な反応をする。「子供にしか見えない世界があるのか」と思う。まるでトトロだ。

 

娘に聞くと、上の孫娘は壁の一点を怖がることがあるらしい。また前回帰省したときはある蝶々のオモチャを妙に怖がった。自分が幼い頃、伯父の家にあった赤い牛の絵皿を妙に怖がったことを思い出した。子供とは不思議なものだ。

 

 

(問題)

テレビと比べて、本はつつましやかですが、それだけに子供にとってはわがままな対しかたが可能です。気に入った本をいつでも見られるし、ページを勝手にくることもできます。そのうえ、大好きなひとに読んでもらうという楽しみさえあります。

(京都大学・1995年前期)

 

(拙・和文英訳)

Compared with television, books are more modest, however, children can deal with books in a selfish manner all the more for the modesty. Children can always look at books they like, and they can turn the pages on their own. Further, they can even have a right to have someone whom they like best read them.

 

 

隔月に1回開催される不思議な居酒屋「来人話飲」。主催者である以前の職場の上司に誘われて八幡・祇園町まで出かけてきた。

 

ビールと焼酎の水割りを飲みながら懐かしい顔に出会い、一瞬タイムスリップした気持ちになった。それにしてもみんな歳をとったものだ。

 

前の職場から転職している方も多いが、妙なところでつながっているのが面白い。長く生きた証拠のようなものである。

 

二次会は中央町のスナック「コーテル」で。美魔女(美婆女?)のママさんがいる。久しぶりの午前様となった。

 

 

それにしても今年の冬は暖かい。ピリッと冷え込む日がない。寒さはこれからだろうか?

 

 

(問題)

私の暮らす北国の町は例年になく冬の訪れが早かった。確か初雪は11月の中旬で、これは珍しくない。いつものように、積もるのは年を越してからだと見ていたのだが、寒さは次第に厳しさを増し、12月になると町はすっかり白く化粧したのである。クリスマス前に完全な雪景色となったのは私の記憶だと20年振りぐらいのことだ。

(京都大学・1999年後期)

 

(拙・和文英訳)

In the northern town, where I live, winter came earlier than usual this year. Probably, the first snow was in the middle of November, which is not uncommon. I expected that the ground would be covered with snow after the end of the year as usual, but it gradually grew colder and colder, and the town was completely covered with snow in December. If I remember right, it was the first time in about 20 years that the town showed a complete snowy landscape before Christmas.

 

11日から15日にかけてある試験を受けていた。翻訳実務検定TQEの「金融・経済」の和文英訳である。

 

昨年から受験し始めて3度目の挑戦になる。今回は税収の増減と名目GDP成長率の関係に関する論文からの出題だった。

 

1回目の昨年5月が世界経済の現況と見通しに関するもの、前回9月が日本株の長期投資をテーマとしたものだった。出題者の側も大変だろう。

 

TQEは100点満点で、原文理解力(30点)、訳文表現力(30点)、専門知識(30点)、スタイル(10点)の配点となっており、70点以上が合格(翻訳者認定)となる。

 

合格率は6%程度と低く簡単には合格できない。総合的な文法力やネットでの調査能力が問われる試験で、相当の負荷がある。

 

毎回木曜日の午前零時にサーバーから問題をダウンロードし、翌週月曜日の午後3時が提出期限となっている。答案もサーバーにアップロードする形式である。

 

 

昨日は慰労会を兼ねて夕方から近くの焼き鳥屋に家内と飲みに行った。JR下曽根駅近くの「勝屋」はお洒落な焼き鳥屋である。値段は安くはないが一品一品がとても美味しい。

 

8時頃に店を切り上げ二次会は家飲みとなった。夜中に目が覚めたが少し酒が残っている。

 

 

今日は合格祈願に家内と近くの神社に詣でる予定である。昼からはスパにでも行って疲れをとろう。やっと新年が始まった心地がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ数日、穏やかな冬晴れが続いている。巷では昨日今日と共通テストが実施されているらしい。受験生の健闘を祈る。

 

私の頃は今の共通テストの前のセンター試験、そのまた前の共通一次よりも前の一発勝負の時代だった。4世代も昔のことである。

 

当時は今からが追い込みの時期だった。関西の私立が2月上旬、東京の私立が2月中旬以降、国立一期が3月3日~5日だった。

 

今も部屋ではエアコンの他にファンヒーターを使っているが、灯油が燃える臭いを嗅ぐと当時のことが懐かしく思い出される。

 

石油ストーブを長時間使うと空気も悪くなり眠くもなるので、ストーブを消して褞袍(どてら)を着て足に毛布を巻いて達磨のようになって暖をとった。「頭寒足熱」と言うが嘘みたいな話である。ただ当時はそれくらい寒かった。

 

私の部屋は二階で物干しがあった。勉強に疲れると物干しに出て冬の星座を眺めていた。夜空にはオリオン座が神秘的に煌めいていた。

 

 

当時何を思って星を見つめていたのか?時間は継続しているはずなのに全く思い出せない。人の一生とは何なのかとふと考える。

 

 

 

昨日から英会話スクールに復帰した。1か月半ぶりだ。12月が何かと忙しくレッスンに出られない状況が続いていた。

 

生徒は私の他に1名年配の男性が居た。何となく品の良さがあった。レッスンが始まるとよく喋る方だった。かなりリスニングが得意だと感じたが、と言って気圧されることは全く無かった。私が話す英語もよく聴いてくれた。

 

彼は大勢の前でプレゼンすることが多いらしい。また顧客の complaint に対処することが comfortable だと言う。果してどんな仕事なのか?

 

Professor という言葉が時々出てきたので、最初は大学の教官かと思った。レッスンが終わって日本語で少し話をした。自分が産業翻訳者であることを告げると「医学関連文書の翻訳はできますか?」と尋ねられた。

 

とりあえず「医学・薬学関連は語彙が難しいので……」と答えたが「もしかしてお医者さんですか?」と尋ねてみた。彼は「はい」と答えると名刺を渡してくれた。市内の開業医の方だった。

 

 

年明けから「老いの品格 品よく、賢く、おもしろく」(和田 秀樹著・PHP新書)を読んでいる。冒頭部は「自分の老いを受け入れる」ことが中心に書かれている。

 

具体的に「こんな老人になりたい」といった希望はないが、自分もとうとうこんな本を読まねばならない歳になったことを痛感する年初である。

 

年始から長男が帰省しており賑やかな日々が続いている。楽しい時間はあっという間に過ぎてゆくようだ。

 

昨日は早々と夕方から鍋を囲んでいたが、こんな団欒の最中、突然の地震に見舞われた北陸・能登半島の人々のことに思いを馳せた。まことにお気の毒なことである。こんな穏やかな生活が送れることに感謝すべきだ。

 

7日には七草粥を食べて「休肝日」を誓ったが、なかなか思うに任せない。困ったものだ。所詮「予定はあくまでも未定」ということだろう。

 

 

初夢は覚えていないが、年始以来東京勤務の時の夢をよく見ている。何らかのトラブルに対応しているものが多く後味が良くない。40年近く経過しても思い出すとは、よほど深く脳裏に刻まれているからだろう。

 

届いた年賀状を見ても、東京勤務時代の友人・知人からのものが最も多い。新卒からの会社勤務での様々な紆余曲折が何となく思い出される。

 

 

「英文表現法」をパラパラめくっていると「演習」「自然に関する表現」第1問北陸に関する以下の記述を見つけた。今回はこの英訳を試みる。なお、著者の深田久弥氏(1903‐1971)石川県出身の登山家・随筆家である。

 

 

(問題)

私は北陸育ちのせいか、冬から春にかけての季節が一番好きである。冬は晴天続きの表日本と違って、北陸は雪や霙の長い忍従の時期の後に、ようやく春がやってくる。その喜びは、そこに住んだ人でなくては、実感にならないかもしれない。

(深田 久弥)

 

(拙・和文英訳)

Probably because I grew up in Hokuriku, I like the season from winter to spring best. Different from the Pacific side of Japan, where there is a spell of fine weather in winter, spring finally arrives in Hokuriku after long perseverance of snow and sleet days. This pleasure could actually be felt only by those who once lived there.

 

 

ここ2年余り、翌日に酒が残ること(二日酔い)は全く無くなった。家飲みが殆どであり、学生時代のように寝たいだけ寝ることも理由のようである。ただ睡眠時間は年々短くなっている。

 

夜飲むので朝風呂に入ることが多い。朝風呂の後はいつも気分がスッキリする。

 

 

東京で勤務した20代の頃、友人たちと痛飲した翌朝、寮の生温かい風呂によく入ったものだ。酒の匂いを洗い流し、少しでも二日酔いから回復するためだ。気がつくと同類の輩(やから)が朝風呂に入ってくる。トニック系の朝シャンでそれなりにスッキリできた。

 

 

クリスマスくらいから飲みが続いている。今日の夜は外で飲むことになっている。そろそろ休肝日を設けなければ。明日ははや七草だ。

 

 

七草粥とは、毎年1月7日に春の七草を入れて食べるお粥を言う。七草は早春にいち早く芽吹くことから、邪気を払うと言われており、これを食べることで、1年の無病息災を祈るようになった。この習慣は江戸時代から始まったらしい。

 

七草は時代や地域によって異なることもあるが、一般的にはセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ(蕪)、スズシロ(大根)を指す。

 

おせち料理が続き、正月疲れが出はじめた胃腸をいたわり、回復させるにはちょうどよい食べ物で、また青菜の不足しがちな冬場の栄養補給も行なうという目的もあったようである。

 

(拙・和文英訳)

Seven grass porridge is a porridge that is eaten on January 7 every year with seven spring herbs. It is said that the seven herbs sprout early in early spring, so they are said to ward off evil spirits, and by eating them, people have come to pray for a year of being in good health. This custom seems to have started in the Edo period.

 

The seven herbs may vary depending on the time period and region, but in general they refer to Seri, Nazuna, Gogyo, Hakobera, Hotokenoza, Suzuna (turnip), and Suzushiro (radish).

 

It seems that the purpose was to cure and recover the stomach and intestines that had been tired from the New Year, by eating delicious Osechi dishes and drinking too much alcohol continuously, and to provide nutrition in winter, when we tend to have less green vegetables.

 

 

お世話になった友人・知人に今も年賀状を出しているが、枚数は年々減ってきている。突然来なくなる人。丁寧に「年賀状じまい」の通知が来る人もいる。

 

 

「年賀」という言葉には「新しい年を祝う」という意味があり「状」書状のことなので「年賀状」とは「新しい年を祝う手紙」ということになる。日本では、古代から朝廷や貴族たちの間で新年を祝う行事が行われ、年賀の書状が交わされていたと考えられている。

 

平安時代にまとめられた手紙の文例集にも、正月に出す手紙の文例が載っており、その後、年賀の書状は武士の間でも交わされるようになった。江戸時代には庶民も字を習い、手紙を出したり貰ったりするようになり、年賀の書状も次第に広まっていった。

 

明治時代になり郵便制度が始まった。安くて手軽に出せる葉書の仕組みも整った。そこで、前からあった年賀の書状の習慣と郵便制度が結びつき、今のような年賀状のもとになった

 

1890年前後には、年賀状を出すことが年中行事のひとつとして広まった。年賀状の習慣が広まると年末年始に郵便の量が増えることになった。郵便局では、それに対応するため、年賀郵便を通常の郵便とは分けて配達する仕組みを整えていった。

(以上、学研キッズネット「年賀状の歴史をたどる」より抜粋)

 

 

確かに通信手段は多様化しておりメールやLINEなどでもメッセージを送ることは可能だが、受信者は私より年配の方も多くデジタルリテラシーが高い人ばかりではない。

 

従って、個人的にはこれからも健康(達者)であることの証しの意味で年賀状を出し続けるつもりである。通信文と宛名は機械印刷でも「ひと言」を手書きで添える形で。

 

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令和6年1月1日に発生した能登半島地震により、犠牲となられた方々にお悔やみを申し上げるとともに、被災されたすべての方々に心よりお見舞い申し上げます。また、被災地の皆様の安全の確保を心よりお祈りいたします。

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安易に「あけましておめでとうございます」と言いづらい新年となった。災害は時と場所を選ばない。元旦の特番が放送されないなど前代未聞の年明けである。

 

 

1月2日に近所の「宗像神社」に参詣した。辰の絵馬の付いた破魔矢を買い引いたお御籤は第八番「中吉」。以下の歌が書かれていた。

 

「吹く風に 沖辺の波の 高けれど 心静けき 我港かな」

 

なかなかよさげな歌である。以下の項目に目が留まった。

 

【学問】自己への甘えをすてよ

【相場】買え 大利あり

 

 

さあ!今年もそろそろ行動を開始しよう。