バインド-縛るもの-(58)
目次 アブラハム・バークレイ弁護士は、数日でその男の行方を探し当てた。調べると、今はネットトレーダーとして生活し、幾つかの不動産を運営していた。財産は結構ある。自宅は、アラスカにあり、かなり広い。過去は色々あるが、埃の無い人間などいない。この人物なら、リチャードは文句は言わないだろう。善は急げだ。日曜日の朝に、バークレイ弁護士はアラスカへ行き、その男の自宅をいきなり訪問した。長身で金髪の男が、訝しそうな表情で玄関のドアを開けた。「デイビットさんですね。私は、ニューヨークで弁護士をしているアブラハム・バークレイと言います。依頼人のコリン・マイケルズさんに頼まれて、貴方のことを調べている者です。」名刺を貰ったデイビットは、バークレイ弁護士を中に入れた。「コリンが依頼したって?」デイビットは驚いた。「ええ。君が無事でいるかどうか、知りたがっていました。日本の警察に追われていたそうだね。」「はい。何とか、戻りました。」デイビットの手には、まだ絆創膏が張ってあった。「日本の警察は、コリンが殺した影無き男が、君に変装したと見ている。だから、君は日本で死んだことになっているから、もう追われることもないね。」デイビットは、この弁護士とは初めて会うが、裏のことも熟知していると思った。「コリンは元気でいますか?」バークレイ弁護士は、満面の笑みで答えた。「元気だよ。秋に、マイアミに引っ越して、自動車修理工場で働いているよ。」「それは良かった。正直言うと、俺はコリンをサンディエゴで見ているんです。日本から帰国した日です。友達と話をしていたので、俺は声を掛けなかったのですが、彼はいい顔をしていました。」「マイアミには、友人が住んでいること、知っている裏社会の人間がいないということで、引越しをしたそうだ。彼はすっかり足を洗ったんだ。」「それを聞いて安心しました。コリンは、新しい生活を始めたのですね。」「それに、コリンの右手首の骨折は、ほぼ完治したそうだ。安心したまえ。彼は君に対して怒っていない。寧ろ、済まないという気持ちでいる。君を騙して、日本へ行ったことをね。」「コリンは俺のことを怒っていない・・・。」デイビットは信じられなかった。「コリンは十分に君のことを理解しているよ。君が、コリンの右手首を折ったのは、影無き男から彼を守るためだったとね。」コリンは、自分のしたことを分かってくれた。そのことは、デイビットは少し救われた気分になった。バークレイ弁護士は、事前の調査でデイビットがコリンを想っていることを見抜いていた。「君は、CIAと影無き男の関係を掴んで、松井節子にその情報を渡したそうだね。」いきなり核心を付かれて、デイビットはドキッとした。「松井節子さんから聞いたのですね。内緒にしてくれと言ったのですが。」「いや、私はアメリカの政府高官から聞いたのだよ。松井節子という女性は、知らないんだ。その情報のお陰で、コリンは自由の身になった。」バークレイ弁護士は、デイビットの情報源から聞いていた。デイビットは、日本で影無き男の罠に嵌められ、怪我を負い、警察に追われた。逃げて、体勢を取り戻す前に、コリンが影無き男を倒してしまった。デイビットに出来ることは、コリンを殺人罪から免れる様に、手を尽くすことであった。政府高官から、影無き男がCIAの依頼で、中東の反米派の政府高官を暗殺した事実を掴んだ。その情報を、松井節子に渡した。彼女は、弁護士を通じてその情報を使いCIAと交渉した結果、コリンは無罪放免となり、アメリカへ帰国出来たのだ。「それなら、いいです。この事を、コリンは知っていますか。」「いや、まだ知らない。」「この件は、コリンに内緒にして下さい。」「どうして?」「コリンは、繊細です。自分の為に、俺が動いたことを知れば、コリンは余計済まないという気持ちになると思うのです。骨折の件でも、コリンは自分に非があると責めています。もう、そんな思いをさせたくないんです。」「分かりました。」バークレイ弁護士は、頷いた。リチャードといい、デイビットといい、どうしてこんなにコリンを慕うのか。コリンは、端整な顔立ちで、色気のある好青年だ。真っ直ぐ過ぎる性格は、長所でもあり欠点なのだが、そこが男達を惹き付けるのだろうか。これ程人に想われているコリンは、恵まれていると思った。「コリンに、会いたくはないのかい?」バークレイ弁護士の問いに、デイビットは動揺した。「会いたいんだろう。」バークレイ弁護士の一押しで、デイビットは肯いた。「コリンから、君が無事かどうかを調べて欲しいとだけ頼まれた。まだ、会う気持ちにはなれないらしい。」デイビットにとって、残念な答えだった。「骨折が完治してから、会いたいと言っていた。怪我を見せることで、君が気にすると思ったからだ。専門的な見解では、まだ90%しか治っていないらしい。私からの見解では、完治していると思う。」バークレイ弁護士は、メモを渡した。「本当にもどかしよ。会いたいのなら、さっさと会えば良いのに。」デイビットは、メモを見た。コリンのマイアミの住所が書かれていた。「週末は、買出しや散歩する位で、あまり遠出はしないそうだ。」デイビットは、落ち着かなくなった。無意識に、近くにあるジャケットを、掴んだ。「ありがとうございます。このお礼はいつか、きっと。」「気にしなさんな。コリンに会うことが、お礼だよ。」バークレイ弁護士は、デイビットの家を後にした。デイビットは、急いで空港へ行き、マイアミへの国内線に飛び乗った。バークレイ弁護士は、アンカレッジの空港で、デイビットの乗った飛行機を眺めていた。コリンから、デイビットの行方を捜して欲しいと頼まれた夜のことを、思い返していた。コリンからデイビットの話が出た時、バークレイ弁護士はコリンに尋ねた。「彼のことを好きなのかい?」「ええ、惹かれています。」コリンは率直に認めた。松井節子の手紙を読んでから、日に日にデイビットのことが気になっていた。昨年に、カナダで影無き男によって大怪我を負わされた時、デイビットはコリンを助け、看病してくれた。その当時の夢を、時々見る。もう、影無き男に撃たれる夢は見なくなっていた。夢でも、デイビットの優しさを思い出す度に、安らぎを感じた。そして、日本でデイビットが、警察に追われているとしか聞いていなかったので、その後の消息をどうしても知りたかった。デイビットの家で療養していたが、アラスカ州の閑静な場所としか分からなかった。コリンはインターネットで調べたが何も引っかからず、かと言って裏社会の人間に頼む訳にはいかなかった。こうして、思い切ってバークレイ弁護士に依頼することにしたのだ。コリンは、苦しい胸の内を素直に述べた。「今でも、リチャードのことが忘れられないんです。彼のことを話すと、涙が出てきますしね。リチャードのことを想いながら、デイビットのことを好きになっていく自分に困惑しているんです。」「心が揺れているんだね。リチャードのことを、忘れろとは言わないよ。彼はずっと君の心の中で生きている。でもね、リチャードの遺言を思い出してごらん。『新しい人生を歩んで欲しい。』と書いてあったよね。コリン、前に進むんだ。リチャードの為にも。」バークレイ弁護士は、優しく説得した。コリンの頭の中で、小笠原文武の言葉が突然に鳴り響いた。『時計の針は戻せないんだから、前を向いて歩くしかないよ。人は後ろへ歩くことは出来ないからね。』小笠原文武は、こうも言っていた。『人は、何かを背負いながら歩いていくんだ。』コリンの心の中で、覚悟が固まりつつあった。『そうだね、小笠原さん。歩くしかないんだ。』だが、どうしてもデイビットに直ぐに会えない事情があった。「デイビットと会うのは、もう少し時間を下さい。この右手首の骨折が完治するまで。」コリンは、バークレイ弁護士に頼んだ。バークレイ弁護士は我に返り、時計を見た。「後は、若い2人に任せよう。私の仕事はひとまず終わった。」バークレイ弁護士は、ニューヨーク行きの飛行機に乗り、帰路に着いた。コリンは、散歩がてら、マイアミの街を歩いていた。いつもと同じ日曜日であった。夕方になり、スーパーで日常品を買い、外に出た。「久しぶりだな。」デイビットの声に、コリンはびっくりした。続き