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コリンと松井節子が、上野の画材店へ到着した。

美術商は、画廊の他に画材店を数店舗も経営していて、上野の店はその中で一番古かった。

夏休みの最中なので、辺りは多くの若者が歩いていた。


夜なので、画材店は閉まっていたが、上の階は明かりが付いていた。

タクシーの音で気付いたのか、経営者の美術商が外へ出てきた。

60代前半の男性で、ロマンスグレーが似合うダンディな身なりをしていた。


「申し訳ありません。本来なら私が伺う筈なのですが。」


「いいのです。こちらでお話をお聞きしたいのですから。」


美術商は、2人を店の2階へ招いた。

贋作を扱うと聞いただけあって、2階の壁中に名画の模造品が飾ってあった。


「美大生に描かせたものです。売り物にはなりませんが、学生の助けになればと思って買い取ったものです。」


美術商は、2人に部屋の奥に置かれた真っ赤なソファへ座らせた。


「こちらの男性は、」


松井節子はコリンを紹介しようとしたが、美術商が遮った。


「コリン・マイケルズさんでしょ。分かります。小笠原君から聞きました。仕事で知り合って、その後に朝まで飲み明かして、良い友人になったと言ってましたね。」


美術商はノリタケのカップにコーヒーを注ぎ、コリンに差し出した。


「では、俺のことも聞いていますね。」


「ええ。確か、アメリカで銃の製造と密売に関わっているグループにいたと聞きました。」

美術商は、さらりと言った。


「今回、松井さんにお電話したのは、どうしても小笠原君がここで相談したことを教えたかったのです。彼から黙っているように言われましたが、先日FBIがやって来たので、どうしても打ち明けなければと思ったのです。」


「今年の2月から、貴方の所へ相談しに来たと人伝で聞きました。」


松井節子の発言に、美術商は眉毛を上げた。


「そのことはご存知でしたか。2月に松井さんが流れた弾に当たりそうになった事件があり、小笠原君はこれは何かあると睨んでいたようです。それで、私に相談しに来たんです。私は、松井さんの周りを調べました。」


「何か出ましたか。」


「はい。昨年、松井さんにお金をせびりに来た、嶋村和一の元愛人がいましたよね。彼女、今年の初めになってお兄さんの嶋村涼一議員を脅迫したのです。」


「脅迫?」


美術商は頷いた。


「そうなんです。嶋村涼一の出生の秘密が書かれた手紙は、松井さんに渡した筈なのに、彼女は持っているから金を寄こせと言ったのです。その頃、嶋村和一が資産家令嬢と婚約したニュースが流れていました。それを見て、彼女は捨てられた恨みをまた爆発させたのでしょう。」


「嶋村涼一議員は、お金を払ったのですか?」


「いえ、払っていません。残念ながら、彼女は消されました。私の調べでは、嶋村和一が手を下しました。」


「何ですって?!」


松井節子が待つコーヒーカップが揺れた。


「恐らく、消される前に彼女は、松井さんに書類を渡したことを話したのでしょう。その後に、松井さんの一件がありました。私はこれはと思い、更に嶋村涼一・和一兄弟に探りを入れたのです。何とまあ、殺し屋を雇って、松井さんの口を封じようをしていたことが分かったのです。国会議員とあろう人が。きちんと会って、話し合いをするべきなのに。」


「私、一度嶋村涼一とお会いしているのです。彼には、『書類は見る前に、彼女を追い返した。』と言ったのですよ。」


「小笠原君から、その話は聞きました。書類は燃やしたそうですね。そして、松井さんは嶋村涼一議員の為を思って、嘘を付いた。なのに、嶋村涼一議員は、松井さんの思いやりを汲もうとはせず、危害を加えようとした。恐ろしいお人です。」


「小笠原君は、どうしてそのことを私に言わなかったのかしら。」


「松井さんを想っていたからです。自分が裏社会と繋がりがあることが分かったら、貴女の家、そして高藤家に迷惑が掛かる。この事件が公になれば、嶋村涼一の母親と貴女のおじいさんが不倫していたことが分かると、世間の好奇な目に晒されることを懸念していたのです。それに、私の仲介でアメリカからスパイナーを雇い、貴女を殺そうとする人を、逆に殺そうとしていましたからね。」


「小笠原君が、嶋村涼一議員殺しを頼んだのですか?」


「いえ、言い方が悪かったですね。小笠原君が頼んだのは、松井さんを狙う殺し屋を倒すことです。私の調べで、今年の春に嶋村和一がアメリカ人の殺し屋を雇ったという情報を掴んだので、小笠原君はそれに対抗しようとしてアメリカでスパイナーに依頼したのです。あの有名な議員を殺したら、それこそ大騒ぎです。そこで、松井さんを狙う殺し屋を消して、嶋村涼一議員にはいくら殺し屋を雇っても無駄だと、知らしめようとしたのです。」


「何てことを。」


「しかし、小笠原君の努力も水の泡になりかけています。小笠原君は殺され、その手先が松井さんを警備している会社の重役と聞きました。そして、別の殺し屋によって、貴女は一度車の事故に見せかけて殺されかけた。」


松井節子は愕然とした。

やはりそうだったのかと、コリンは思った。


「じゃあ、嶋村和一が行方不明なのは…。」


「アメリカ人の殺し屋の仕業です。何でも、その殺し屋は小笠原君を殺した後、姿を消しているのです。秋の党首選挙に出馬することになり、焦った嶋村涼一は、裏の仲介人の君津川を通して、また別の殺し屋に依頼したのです。それを知ったアメリカ人の殺し屋は怒り、君津川に瀕死の怪我を負わせ、嶋村和一を誘拐しました。そのお陰で、私のマークが解けましたがね。」


「誘拐?」


「嶋村和一を餌に、嶋村涼一議員を脅迫していると聞きました。何が目的かは、まだ分かりません。よほど腹が立っている様ですね。警察は密かに探しているのですが、見付かっていません。」


「じゃあ、今はその殺し屋は松井さんよりも、嶋村涼一議員に目がいっているのですね。」


コリンが聞いた。


「今の所でしょう。金を貰った以上は、松井さんを狙うのは間違いありません。私は色々と調べましたが、その殺し屋の姿形が全く掴めないのです。変装が上手いとしか、分からなくて。」


「そいつは、裏社会で厄介者扱いされている影無き男です。俺も影無き男に仲間を殺されて、そいつを探していたんです。その内に松井さんを狙うことを知り、日本に来たんです。」


コリンはきっぱりと言った。


「影無き男…。依頼人も殺すという殺し屋ですか。これはとんでもない男を雇いました…。」


裏社会に精通しているので、美術商も影無き男の噂は聞いていた。


重苦しい沈黙が暫く流れた。


松井節子が口を開いた。

「嶋村涼一議員のことを良く調べておられた様ですが、太いパイプがあるようですね。」


「ええ、まあ。それが何か。」


「嶋村涼一議員に会わせて頂けないかしら。」


コリンと美術商は唖然とした。


「議員に会って、きちんとお話したいの。小笠原君を殺した憎い相手だけど。」


「いや無謀すぎます。」


「いいえ。その影無き男とかいう殺し屋が、嶋村議員を狙っている限り、私は大丈夫なんでしょう。彼から、その殺し屋のことを聞き出したいの。」


松井節子がソファから立ち上がった。


「待って下さい。私に時間を下さい。君津川ルートで調べますから。」


美術商が制した。


「依頼人なら、知っていることがあるかも知れなくてよ。」


今度はコリンが止めた。


「この人に任すんだ。小笠原君は事を荒立てないようにしていた。だから、今は大人しくしてた方がベストの選択だ。」


松井節子は肯いた。


「それでは、何か分かったら連絡を下さい。」


そうして、2人は画材店を出て、ホテルへ戻った。


真相を知った松井節子は、見た目は平然としていた。

コリンは、松井節子の本心が分かっていた。

とてもショックを受け、傷ついていることを。


小笠原文武が婚約者のことについて話していたことを、覚えていたからだ。

「松井さんは、強い人と見られがちだけど、実はとても弱い人なんだ。内面も、白薔薇のように繊細なんだ。」


コリンは、小笠原文武が自分の過去を知りながら良き友と言ってくれたことに、内心喜んだ。

だからこそ、松井節子を殺そうとしている嶋村涼一・和一兄弟を激しく憎んだ。

影無き男を必ず倒す決意をした。


翌日の昼過ぎに、美術商から連絡が入った。


「FBIとCIAが、影無き男を追って、関東中を行き来しています。あちこちに移動しているので、追いつくのが大変なのだそうです。嶋村和一の方はまだ見付かっていません。ニュースがあります。今朝、君津川が意識を取り戻しました。昼になって、状態も大分落ち着いて来たようです。これから、彼と接触してきます。」


コリンの脳裏には、デイビットが浮かんでいた。

彼も関東中を駆け回っているのだろう。


松井節子が言った。

「私達も行きます。」


一瞬間があった。


「分かりました。こちらで手筈は整えますので、お待ちしています。」

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