嶋村涼一衆議院議員は、秋に実施される野党の党首選挙の準備に専念していた。
メディアに取り上げられる回数も増え、知名度は上がる一方であった。
3年前の選挙で、野党に転落して苦渋の道を歩いていた。
しかし、清潔感のイメージがある嶋村涼一の台頭は、野党にとって大きな救いになった。
今は、首相の贈収賄問題で、与党の支持率が落ちている。
その状況を使い、野党は更にクリーンな嶋村涼一を前面に押し出し、国民の支持を集めていた。
このまま行けば、来年春の総選挙で政権奪還も夢ではない。
嶋村涼一にとっても、党が自分を求めているのを利用して、将来首相になるという野望を果たそうとしている。
その為には、どんな手を使う決意であった。
自分の出生の秘密を知った松井節子は、嶋村涼一にとって大きな目の上のたんこぶであった。
口では、「書類を見ずに、女を追い払った。」と言っていたが、それは嘘だと百も承知であった。
昨年、弟の嶋村和一に捨てられた事務所の女が、腹いせに金庫から2つの書類を盗んだ。
女は、嶋村家への嫌がらせと金目的で、高藤美術館館長の松井節子に見せたのだ。
高藤家の次女の息子で、松井節子の従弟は国会議員であり、自分とは反対勢力に属していた。
嶋村涼一が、松井節子の祖父・高藤正次郎の息子だと知ったら連中は喜ぶと、女は思ったのだ。
祖父の高藤正次郎が人妻好きだと知っていた松井節子は、あきれつつも女に金を渡し、2つの書類を手にした。
女にとっても、満足な結果であり、そのまま知り合いが誰もいない田舎で暮らし始めた。
しかし今年に入り、嶋村和一が資産家の令嬢との婚約のニュースを聞き、女の恨みの火が再び付いた。
2つの書類を持っている振りをして、嶋村議員に脅迫してきたのだった。
嶋村和一は、ワルの仲間を使って、女を捕まえた。
そこで、女の口から、書類は松井節子が持っていることが語られたのだ。
「あんたら兄弟はもう終わりよ。」
女の言葉に、嶋村和一は腹を括った。
女をその手で絞め殺した。
嶋村涼一も覚悟を決めた。
松井節子とその婚約者・小笠原文武の口を封じようとした。
嶋村涼一は、松井節子が自分の出生の秘密が記された書類を燃やしたことは知らなかった。
敵対する松井節子の従兄弟に知られる前に、消さねばならないと焦っていた。
それで、嶋村涼一と和一兄弟は、出生の秘密を守ろうとして、殺し屋に依頼したのだ。
初めは、6ヶ月前に日本の殺し屋に頼んだが失敗して、海外に高飛びされてしまった。
それで、海外の殺し屋を頼むことにしたのだ。
用が終わったら依頼人をも殺すといわれる、影無き男とは知らずに。
殺し屋は、松井節子の婚約者・小笠原文武を消したまま、音信不通になった。
また逃げたと思い、新たに殺し屋を雇ってしまった。
松井節子を殺した後は、依頼した殺し屋も消すつもりでいた。
その殺し屋が、新たに雇った殺し屋を倒し、自分を狙うと宣言した。
忙しくしている嶋村涼一には、新たな問題が出てきた。
警備会社の重役が殺され、遺体が伊豆近辺の山荘で発見されたが、そこは何と嶋村涼一名義のものであった。
そこの山荘は、地元の不動産会社に管理を任せ、その会社が重役を殺したと思われる人物に貸していた。
嶋村涼一が、マスコミに気配りをしたお陰で、表にはでることは無かった。
これは、きっとあの殺し屋の仕業に違いないと思った。
党首選挙を控え、今はどんな些細なことでも命取りになる。
どんな火の粉でも、振り払わなければならない。
嶋村和一と君津川が、手を尽くしてその殺し屋を追っている。
今は、彼らに委ねるしかない。
影無き男は、6月に小笠原文武を殺害した後、警備を厚くした松井節子を直ぐには狙わなかった。
間を空け、警備が緩くなった頃を見計らって消す予定であった。
それで、影無き男は、カナダの家に滞在して、他の仕事をしながら、松井節子の動向を探っていた。
家で、ハッカーのトニーを麻薬漬けにして、彼を操って日本の情報を手に入れていた。
自分を追っているCIAやFBIの動きも、ハッカーのトニーを通じて把握していた。
CIAに利用されたコリンや裏社会の人間に襲撃された時も、事前に知っていたので楽に倒せた。
カナダにいる間、嶋村涼一が待てずに裏の仲介人・君津川に頼み、他の殺し屋を雇うとは予定の範囲外であった。
影無き男は、それで心が動じることは無く、寧ろ日本での楽しみが増えたと感じていた。
国会議員を狙うのは初めてであるので、とても興奮している。
それに、嶋村涼一は大きな秘密を抱えている。
じっくり料理しようと影無き男は思った。
自分を狙ったアメリカ人の殺し屋を倒したことで、FBIの捜査官が来日している。
更に、自分が引退に追いやったスパイナーのデイビットも来日した。
そいつらも、料理しなければ。
影無き男は、益々喜んだ。
コリンと松井節子は、渋谷区のマンションから、都内のウィークリーマンションへ移動した。
コリンの右肩から摘出されたGPSは、遠くのビジネスホテルに置いてきた。
これなら、FBIの目を逃れることが出来ると思ったからだ。
ウィークリーマンションにいた松井節子は、兄・高藤仁司に連絡を入れた。
礼を言わずにクリニックを出たことを詫びた。
兄は、笑って許してくれた。
兄・高藤仁司によれば、正式には兄のクリニックには警察が来ていないとのことであった。
患者を装った刑事らしき人物が、看護師にコリンのことを聞いていたらしい。
しかし、看護師は何も知らなかったので、その怪しい人物はそれから何も言わずに去った。
診療時間後に、自宅がある2階へ上がったが、ベランダに足跡があり、もしかすると警察がこっそりと外から2階を覘いたらしいと話してくれた。
「FBIが手を回したんだ。」
コリンは思った。
GPSを置いたビジネス・ホテルに、きっと警察が張り込んでいる。
何とか時間が稼げれば良いと思った。
警察が高藤クリニックに行ったということは、松井節子との関係も知っている筈だ。
コリンは、松井節子との別行動を考えたが、不慣れな日本では彼女の協力が必要不可欠であった。
満身創痍の体で、影無き男から彼女を守り、倒せるのか。
折れた右手は、スプーンもろくに握れない状態で、武器を使えるか。
使えるのは、利き手じゃない左手のみ。
コリンは悩んでいた。
FBIは既に、松井節子がコリンと知り合いということは掴んでいた。
彼女の婚約者・小笠原文武が、コリンの母の掛け軸を買い取った事実も。
「面白いご縁ね。」
キャロライン・マクマーン捜査官が言った。
確か、昨年の秋のことであった。
コリンが影無き男に殺されかけ、FBIに逮捕された時、小笠原文武から連絡があったと母からのメールが来た。
それを見せて、コリンをFBIに協力させ、影無き男について証言させようとした。
しかし、コリンは肝心なことは口を閉ざした。
釈放させて泳がせたら、今度は小笠原文武の死の真相を追って、日本に来ている。
小笠原文武とコリンは、不思議な糸で繋がっているように見えた。