影無き男を倒してから、1週間が経った。
コリンは、まだ病院で治療を受けていた。
傷は急所を外していたので、回復も早かった。
右手首は、闘いの時に再び折れ、手術して砕けた破片を繋いだ。
経過も良いので、アメリカ大使館に移しても構わないとの医師の診断があり、数日後には移動して、CIAとFBIとの本格的な取調べが始まることになっていた。
しかし、キャロライン・マクマーンとジョン・ヘムスリー両FBI捜査官に、コリンを無罪放免にして、釈放するとの上からの通達が来た。
2人は上司に理由を糺した。
上司は、コリンに弁護士が付き、彼からFBIがコリンの右肩にGPSを埋め込んだことが違法と主張し、折衝した結果、コリンの殺人罪を不起訴にする見返りに、FBIの違法捜査に目を瞑ることにして貰ったと、説明した。
「私達が知っているのとは違います。正直にお答え下さい。」
キャロライン・マクマーン捜査官は、厳しい口調で言った。
「我々が聞いた話ですと、CIAが影無き男に数件の殺人の依頼したことが、弁護士にばれたそうですね。その中には、中東で反米の政府高官殺害の件も含まれているとか。」
ジョン・ヘムスリー捜査官は、じっと上司の目を見た。
上司は目を反らした。
「FBIがやったことはともかく、CIAの件が世間に暴露されると、国際的な問題になってしまう。仕方ないんだ。これは、きちんとした司法取引なんだ。コリン・マイケルズをアメリカに強制帰国させることで、日本の警察も納得した。お前達が何を言おうと、もう決まったことだ。我々も、直ぐに帰国する。」
キャロライン・マクマーン捜査官は、この弁護士の影に松井節子があると思った。
彼女の親族は、財閥、政治家、それに法曹界にも多くいる。
その中には、アメリカ政府との繋がりのある者もいると聞いていた。
きっと、このコネクションを使い、コリンを釈放させたのだ。
コリンを逮捕し、裏社会について洗いざらい吐かせるつもりでいた。
その証言を元に、裏社会の人間を一斉に捕らえる計画が、おじゃんになった。
みすみすコリンを逃がすことに、キャロライン・マクマーン捜査官は腹が立った。
「覚えてらっしゃい。この次はそうはいかないわ。」
ジョン・ヘムスリー捜査官も同様だった。
「アメリカに戻れば、コリンは松井節子の保護から離れる。今度あの子が動いたら、きっと逮捕してやる。」
自分の状況が激変したのを露知らず、コリンは病院で最後の夜を過ごしていた。
髭を看護師が剃ってくれた間も、コリンは天井をぼんやりと眺めていた。
1人になっても、天井を見続けた。
明日は大使館に移動すると聞かれても、コリンは何とも感じなかった。
先のことなど、何も考えられなかった。
影無き男を倒して以降、コリンは魂が体から抜けた感じがしていた。
「さっさと済ませろよ。」
聞き覚えのある男の声がした。
ドアが開いた。
何と、そこには看護師に変装した松井節子が現れた。
「そのコスプレ似合うよ。」
コリンが少し笑った。
「有難と。コリンにお別れを言いたくってね。」
「もう会えないかと思った。」
コリンと松井節子はハグした。
「俺は、これからアメリカで裁判を受ける。二度と娑婆には戻れない。君ともお別れだ。」
「大丈夫。貴方は自由よ。明日、飛行機に乗せられて、アメリカに帰国するの。それに、私と又会えるわ。」
「嘘だろ?」
「本当よ。貴方の弁護士が、CIAとFBIと掛け合って、貴方は不起訴になったのよ。」
「弁護士なんて俺は頼んでいない。」
「非公式ではそうだけど、公式では、貴方はアメリカの弁護士資格を持つ日本人の弁護士を雇ったことになっているの。」
松井節子から、コリンは経緯を聞いた。
「何て、危ないことをするんだ。」
「貴方を救うのは、友人として当然でしょ。小笠原君もきっと喜んでいるわ。」
松井節子は、微笑んだ。
最後まで大胆な女性だなと、コリンは思った。
ドアが再び開いた。
田所文也刑事が出てきた。
「そろそろ時間ね。本当に有難う。貴方のお陰で、事件は解決したわ。私の命も救ってくれて、心から感謝するわ。さようなら。今度は、アメリカで会いましょうね。」
松井節子は、再びコリンとハグすると、部屋を後にした。
「せっちゃんを守ってくれて有難う。お大事に。」
部屋を去り際、田所刑事がコリンに言葉をかけた。
コリンは再び1人になったが、先程の様に抜け殻ではなかった。
温かい血が、体中に充満してくるのを感じた。
翌朝。
コリンはアメリカ大使館に連れて行かれると、FBIの取調べを受けることは無く、発行されたパスポートを渡された。
担当した大使館員から、二度と日本の地を踏めないと宣告された。
夕べ、松井節子に言われていたので、気にしなかった。
押収された財布が返還されると、その場から車に乗せられ、成田空港まで連れ行かれた。
空港に着くなり、休む間を与えられず、ロス直行便に乗せられた。
機上で、日本での出来事に思いを巡らした。
やがて、悩むようになった。
『俺は自由になった。けど、これからどうすれば。』
持っているのは、尻のポケットに入っている財布のみ。
トイレの中で、財布の中身を確認した。
数枚の一万円札と千円札、偽名のクレジット・カードが入っていた。
クレジット・カードを眺めた。
これはリチャードの遺産である。
きっと、FBIが預金を見て驚いているだろう。
FBIに知られた以上、これは使えなくなった。
コリンは、内心ホッとしていた。
新生活の為に、リチャードの遺産を使いたく無かった。
全額をどこかへ、寄付しようと思っていた。
時間通りに、飛行機はロスへ着いた。
コリンは入国審査の長い列に並んでいるとき、両親にどう会えば良いのかと考えていた。
ここを発つ時に、心の内に別れの挨拶を済ませていたので、この夏は全く連絡していなかった。
どう言い訳をして連絡すれば、良いのだろう。
右手首の骨折のことも、どう言い訳しよう。
この6年間、裏社会にどっぷりと嵌り、その世界の人間しか知らない。
無罪放免と言っても、FBIの監視は続くだろう。
その連中とは、連絡を取る訳にはいかなかった。
これから、まっとうに生きるとしても、どうすれば最善の道を歩けるのか、いくら考えても頭が回らなかった。
入国審査が終わっても、コリンは悩んでいた。
サンディエゴのアパートは、FBIに怪しまれない様に処分せず、そのままになっていた。
『とりあえず、サンディエゴへ戻るか。』
そう思って、空港内の銀行へ向かい、手持ちの日本円をドルに変換した。
銀行内で、1人の日本人が声を掛けた。
「コリンじゃないか。君も日本から帰ってきたのかい。」
声を掛けた日本人は、アメリカで看護師として働く青戸勲であった。
コリンが中学生の頃、命を助けてくれた恩人でもあった。
リチャードとの生活を始めてから連絡が途絶え、6年振りの再会であった。
青戸勲はコリンに笑顔を見せた。
とても良い笑顔で、コリンにとっては眩しかった。
「ええ、まあ。イサオは?」
「実家の伊賀に、里帰りしていたんだ。おや、荷物は?手ぶらか?」
「ああ、後から送られて来ます。」
「そうかい。元気していて良かった。右手首はどうしたんだ?」
「階段からこけた時、手を付いて。それで・・・。」
徐々に頭が回転し始めた。
「診せてみろ。」
青戸勲は、コリンの右手首のギブスを診た。
「しっかりと固定してあるから、大丈夫だな。」
6年振りなのに、昨日会った様に接してくれた。
それが、コリンにはとても嬉しかった。
「イサオは、どうしてロスに?」
「女房の妹家族が住んでいるんだ。姪が生まれてね。そのお祝いで、女房は先に行っているんだ。2日程、滞在してから、マイアミに帰るんだ。コリンは?シアトルじゃないのか?」
青戸勲は、アメリカ人妻の転職に合わせて、10年前にシアトルからマイアミに引っ越していた。
「今年の春に、両親はロスへ引っ越したんだ。俺はサンディエゴに。ロスは親父の故郷でもあるし、親戚もいるから。」
「親父さんの具合は?」
「まあまあだ。良い医者に恵まれて、脳血管性認知症の進行をどうにか抑えられている。」
青戸勲は、レンタカーを借りていて、コリンを自宅まで送ってくれると言う。
コリンは有難く、青戸勲の誘いに乗った。
話を聞くと、同じ便に搭乗していた。
日本には、友達の葬儀に出席した為、数日間滞在したと嘘を付いた。
「お母さんの家族とは、会ったのかい?」
「いや。会ってない。これからも会う事は無いよ。お袋も、ここが故郷と言っていた。」
コリンは、母・美賀子の母親と姉家族が、年金目当てに病死した祖母を庭に埋めたことを、正直に話した。
車の中で、色々と話続けた。
カナダの軍事工場を辞め、サンディエゴで建設会社の作業員をしていると話したら、青戸勲の顔が曇った。
「親父さんの治療費や、弟さんの学費の為と言って、無理するなよ。」
「無理はしていないよ。中学生の時みたいに無茶はしていないから、安心して。」
コリンと青戸勲の脳裏に、辛い過去が浮かんだ。
コリンが8年生(日本では中学3年)の時、父・スティーブンが心筋梗塞で倒れた。
母・美賀子は働いていたが、弟・ケビンが私立の幼稚園に入ったばかりなので、生活は苦しかった。
美賀子は、ケビンを公立に転校させようとしたが、コリンが止めた。
成績優秀なケビンには、良い教育を受けさせたかった。
コリンは、幾つかのアルバイトをして、家計を助けた。
スティーブンの病状は改善されず、医療費が嵩むばかりであった。
そんな中、スティーブンの看病していたコリンを、病院で見初めた男がいた。
病院に多額の資金を援助している金持ちであった。
金持ちは、コリンに愛人になれば、父親を助けてやると提案してきた。
考えた末、コリンは金持ちに身を売った。
その次の日、医師から両親に申し出があった。
まだFDA(アメリカ食品医薬品局)の認可が下りていないが、ある製薬会社で最新の心筋梗塞の治療に関する臨床試験が行われていて、スティーブンに治験者として白羽の矢が立ったと言うのだ。
治験なので、費用は勿論タダであると、医師は付け加えた。
何も知らないスティーブンは、最新の治療を受けることを承諾した。
その4ヵ月後には、職場復帰するまでに復帰した。
身を削ってまで、家族を救ったコリンであった。
しかし、金持ちはコリンを手離そうとはしなかった。
コリンの心は蝕まれ、自分を汚く感じてしまい、アルコールやドラックに手を出し始めた。
そんな時、金持ちのお抱え看護師をしていた青戸勲が策を講じ、コリンを金持ちから自由にしてくれたのだ。
ようやく、コリンは普通の中学生に戻ることが出来た。
それから青戸勲は、コリンにとって恩人であり、兄の様な存在になった。
青戸勲にとっても、コリンは弟の様な存在となった。
あの出来事がきっかけで、青戸勲は金持ちの専属看護師を辞め、病院に転職し、マイアミに引っ越した現在は、高齢者の施設で働いている。
今でも、コリンのことを気に掛けてくれている。
嬉しかった。
『そうだ、俺にも娑婆の世界に友人がいたんだ。』
コリンの心は、温まった。
サンディエゴのアパート前で、車を降りたコリンに、青戸勲が声を掛けた。
「何かあったら、遠慮なく連絡しろよ。」
車が去った。
コリンは人の気配を感じた。
辺りを見渡しても、怪しい人物はいなかった。
『気のせいか。』
コリンは部屋に、約1ヶ月振りに戻った。
滞納している家賃の催促状が、床に転がっていた。
大家に手持ちの金を渡し、残りは後日必ず払うと約束した。
部屋は、出て行ったままの状態であった。
机に置かれたMacBookとiPhoneに、うっすらと埃がついていた。
コリンは思い立ち、FBIから支給されたMacBookとiPhoneをリサイクルショップへ売り飛ばした。
これで、少しは生活の足しになるし、FBIとオサラバできると思った。
まだ日がある。
コリンはアパートを出て、職探しを始めた。
帰国して初めての週末になると、コリンはロスへ向かい、久しぶりに両親との再会を楽しんだ。
何も考えなくても良かった。
両親は温かく迎えてくれた。
右手首の件は、転んで怪我をしたと嘘を言うしかなかった。
コリンは少しずつ、新生活を開始した。
コリンは、別の建設会社やショッピングモールでのバイトを始めた。
頭の中では、ある計画が動いていた。
計画は、秋に実行された。
コリンは、青戸勲の住むフロリダへ引っ越した。
フロリダには、知っている裏社会の人間は誰もいないからだ。
コリンは環境を変えたかった。
一から生活を再開しようと思ったからだ。
運の良いことに、自動車修理工の仕事を再び得ることが出来た。
まだギブスをしていて右手は不自由だが、瞬く間の内に昔の勘を取り戻すことが出来た。
怪我は、徐々に回復していった。
裏社会から切り離された生活に、コリンは大変満足していた。
久しぶりに、生きていると実感が湧いた。
ある日、宅配便がコリンのアパートに届いた。
差出人は、松井節子。
コリンは急いで荷物を解いた。
松井節子のマンションに置いてきた荷物であった。
服や備品の他に、厳重に封された封筒が出てきた。
それを開けると、壊れたネックレスが出てきた。
「リチャードがくれたものだ!」
コリンは叫び、涙が出た。
リチャードが2年前に、プレゼントしてくれたものであった。
影無き男と格闘中で、そのネックレスはコリンを守り、切れた。
運ばれた病院で、コリンはネックレスがないことに気付いた。
諦めていた。
それが、戻って来たのだ。
コリンはネックレスを、長いこと強く抱きしめた。
封筒の中から、松井節子の手紙が入っていた。
コリンへ、
元気にしてる?
コリンの大事なネックレスを送るわ。
この前、話してくれた恋人からのプレゼントでしょ。
警察の押収品から見つけて、田所刑事に無理を言って貰って来たの。
あの殺し屋の遺留品から、貴方のお母様から譲って頂いた小野小町の掛け軸も出てきたわ。
もう一つの掛け軸もね。
先日、ようやく掛け軸が戻り、六歌仙の掛け軸が再び揃ったの。
それを見た私の母も一安心し、父も回復したのよ。
貴方が、マイアミで新しい生活をしていると聞いて、嬉しく思うわ。
私も、高藤美術館の館長として、仕事に復帰して、多忙な毎日を送っているのよ。
貴方も、忙しくしていると思うけど、時には後ろを見て御覧なさい。
きっと素敵なことが起きるわよ。
再会できる日を楽しみにしているわ。
松井節子
手紙を読んで、コリンは泣きながら笑った。
節子は、何時も行動力のある女性だ。
コリンは、ネックレスをハンカチで大事に包み、引き出しへ閉まった。
「愛している、リチャード。俺は前に向かって生きていくから、安らかに眠ってくれ。」
顔中、涙と鼻水でくちゃくちゃになっていた。
洗面台で顔を洗った。
松井節子からの手紙を思い出した。
『時には後ろを見て御覧なさい。きっと素敵なことが起きるわよ。』
何を意味するのか分からなかった。
少しして、デイビットの顔が浮かんだ。
彼は無事なのだろうか。
その夜、新しく買った携帯が鳴った。
見覚えのある番号だった。
「やあ、元気かい。秋でもマイアミは暑いのかい?」
リチャードの遺産を管理している、ニューヨークの弁護士・アブラハム・バークレイの元気な声がした。