はじめまして。
サロン花謌の 杉山まいこです。
人は、
見た目じゃ分からないことがいっぱい
ですが
私も最近、見た目と違うんだねー
と言われる事が多くあったのと
プロフィールを作るにあたって
自分の振り返りが必須!
ということで、インタビュー形式でまとめていただきました!
2回に分けてお送りいたします。
第一印象は小柄でおとなしくてかわいいお嬢さん。
ところがひと皮めくると、見た目とは正反対なバイタリティとど根性が見えてくる。
それはどこからくるのだろうか?
―まいちゃんは今、セラピストとして自宅サロン「花謌」を経営されていますが、そもそもセラピストになろうと思ったきっかけはなんですか?
はい、実はもともとセラピストになろうと思っていたわけではないんです。
とにかく早く家を出たかったんです。
―ええっ、それはなぜ?
オカンと仲良くなくて(笑)
うちのオカンは、天然というか、ちょっと変わった人で。家事は全くできないし、
おまけにへんな趣味にのめり込んでたし、あれはダメこれはダメと選択肢がない。
……気がついたら毎日喧嘩ばっかりしてました。
1980年代、世間は景気がよかった頃、うちは貧乏でした。
トタン屋根の家だったんです。雨が降ったら雨漏りするんですよ。中学がちょうど家の真ん前だったんですが、居心地悪い家には帰りたくなくて、いつもわざと遠回りしてました。
父親は自由人でアルコール漬け。こんな家早く出たいとずっと思ってました。
だから、高校卒業と同時に、家出同然で出て行ったんです。
―家出同然で? どうやって生活したの?
高校の間にバイトして少しお金を貯めてたんです。そのお金を持って、地元の明石からとりあえず大阪にでて、仕事を探しました。
最初に見つけた仕事はちょっと怪しい仕事で……表向きは宝石屋なんですけど、結婚紹介所みたいになっていて、女の子を紹介する代わりに、若い男性に結婚指輪を買わせるという。そこで若い男性の名簿を渡されてテレアポしはじめたんですけど、何日かして、紹介する女の子がほぼサクラだったとわかって、怖くなって。出張先から夜逃げして辞めました(笑)
―いきなり大変な仕事だったんですね。
そうなんです。大阪って怖いところだと思いました(笑)
それから、高校の同級生で、大学で大阪に出てきていた友達がバイトしていた居酒屋で働くことになりました。
そこで働いているうちに、店長から「スピードスター」と命名されたんです。
―スピードスター? それはどうして?
とにかくやることが、早かったんです。二人で回すホールの仕事を1人で回してました。その代わり少々雑でしたけどね(笑)
店長がとても熱い人で、人のいいところを見つけて伸ばすのが上手だったんです。それぞれの良さを生かしたチームを作って仕事をさせてくれたので、とても居心地がよくて。仕事って楽しいなーー、って初めて思いました。いつか私も独立して何か店を持ちたいと、この時からぼんやり思うようになりました。
―なるほど。その時に店を持ちたいと思ったんですね。そこではどのくらい働いてたの?
4年ぐらいかな。とても楽しかったんですけど、なんだか取り残されたようない気持ちになってきたんです。
―そうなんだ。それはどうして?
バイトの仲間は大学生が多かったんですね。大学生は、4年生になって就職が決まると、みんな辞めていくじゃないですか。同世代がいなくなってさびしかったですね。ちょうどその時、一緒に働いていたフリーターの男性が30歳になったって聞いて、悲しくなってきたんです。30代でフリーター? 私は絶対嫌だぁ! どうしよ、なんとかしなきゃ、そう思って居酒屋をやめて、そこから職を転々としました。
―いろんな職種を経験したと聞きましたが。
はい、それはもう。パチンコ屋、カフェ、パブ、靴屋、たこ焼き屋、引越し、警備、テレオペ、あとはただひたすらシールをはる仕事とか、ひたすら色を塗る仕事とか(笑)
―やってみてどうでしたか?
いろんな仕事があるなあと思いました。でもこんなことしていてもあかんと思いました。手に職をつけなあかんと。何か習いに行こうと思いました。それもまだみんなやっていないことをやろうと思いました。
たまたま、近所にアロマサロンがあって、ほんとになんとなく施術を受けに行ったんです。そしたらピンと来たんです。これだ、これを仕事にしよう、と。それで学校に申し込んで一年間勉強しました。24歳の時です。
―そこからセラピストの道に?
そうですね。卒業すると、学校が就職先を斡旋してくれました。伊豆の旅館で新しくオープンするアロマサロンです。実は私、伊豆って、和歌山の方だと思ってたんです。ちょっと遠いけど同じ関西だからいいかーって思ってたら、なんと静岡で(笑)
しかも調べるとど田舎。どうしようかと思ったんですが、まあこれもチャンスかなぁ、と思ってオープニングスタッフとして入ることになりました。
―伊豆ではどんな生活を?
旅館の近くの寮に住み込みしながら、仕事をしていました。寮といってもオンボロの古民家で、サロンの従業員みんなで共同生活です。
仕事はとてもやりがいがありました。「仕事は適度に、遊びは本気」っていう旅館の社長さんだったから、遊びの時間を確保するために、いかに効率よく仕事をするかを考えなさいと言われていて。そこから工夫して仕事するようになりました。パソコンを覚えたのもこの時です。時間の無駄やなあとずっと思っていた手作業の棚卸を、エクセルで一括管理することで効率がよくなって、仲間にものすごく喜ばれました。施術の技術にも自信が持てるようになったし、今考えるとものすごい学びの場所でした。
―一番の学びはなんでしたか?
そのお店ではずっと店長を任されてたんです。初めての責任あるポジションは、プレッシャーでした。おまけにみんな住み込みだから、職場だけでなく24時間一緒です。
切り替えられない閉鎖的な環境で、責任ある立場で、がんばらなあかんという思いが強すぎたのか、顔面マヒになりました。それでもがんばり続けていたんですが、あるとき急にエネルギー切れに。田舎暮らしにもちょっと疲れてて…。当時今の夫と付き合っていて結婚の話もでていたので、これを機にやめて関西に戻ろうと思いました。
後から冷静になってみて気づいたんです。私ががんばらないほうがよかったのかもしれない。がんばりすぎて私は、みんなの芽を潰してたのかもしれない、って。
―なるほど。
仕事ってチームワークだなと思いました。居酒屋の店長がやっていた、人のいいところを活かしてチームを組んで仕事をする。私が私がじゃなくて、出来る人に任せることが大事なんだなと。
―仕事をやめて、結婚して、そのあとは?
夫は同じ旅館で板前をしていた人だったのですが、二人で旅館をやめて、関西に戻ってきました。
就職先も決まらないまま、まずは伊丹に住むことにしました。
私は体のことをもっと勉強したくて、整骨院で働くことにしました。でもそこの院長がアロマ全否定で、挙句の果てに店が潰れてしまって。それからハーブティの販売をしたり、大手ホテルに入っているサロンで働いたりしていましたが、どうもしっくりこなくて。
そんな時、妊娠したんです。いい機会だと思ってしばらく仕事を休むことにしました。
―どのくらい休んでたの?
それがじっとしていられないんですね、私。1年もするとすぐに働きたくなっちゃって。今度は子供をあずけている間に働けるところを探しました。漢方を取り入れているサロンが見つかって、そこで働くことになりました。ところがその先生は東洋医学以外全否定という人で。
もうーーーー、なんでやねん!ですよ(笑)。困ったなあと思っていたら、店が赤字で首を切られてしまいました。
関西に帰ってきてから、仕事に関してはずっと物足りない感じでした。
とはいえ、生活のためにも仕事しなきゃと思っていたので、「もうなんでもいいわ」と、今度は近所のマッサージの仕事に就いたんです。小さい店で、あまり綺麗なところでもなかったんですが、そこのオーナーがめっちゃいい人だったんです!!(笑)
そこでお店のブログを書くようになりました。ブログを書くようになったら、他の人のブログも気になって見るようになって。そんなときおのころ心平先生のブログ「ココロとカラダの交差点」を見つけたんです。感動しました。この人何も否定しない、偏ってない。私が求めていたのはこれかも!って。
おのころ先生のブログと出逢ったのが2014年。
その後、どんどん自分の中での変化がはじまります。