SHOKEI 'S TIMES
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

黄昏の風

 

今年の夏の終わりに72歳になりました。

それを機に引越の後片付けがまだ終わっていないのですが、

水彩画を2枚描いて展覧会に応募してみました。

応募というのは 久々な感覚で忘れていたものをいろいろ

思い出します。

 

一点は入選させてもらいましたが もう一点は落選しました。

 

自分としては 落選した方の絵を大切に描いていたので ボツにして

このまま陽の目を見ないでお蔵入りするのも残念なので ちょっと

記録としてブログにあげておきます。

 

 

                                                                                  『黄昏の風』透明水彩20号  松波 照慶

 

 

改めて見直すと「薄くて弱く」て 公募には向いていなかったのか

とも思います。 でも この絵を越えて次作を作る意欲が出ました。

 

 

最近は風景画、それも近郊の屋根ばかり描いています。

人物画も静物も好きなのですが、今は屋根で何かを掴みたい

と考えています。

 

上の黄色い絵もモノトーンにすると寄り添っている屋根の風景だと 分かってもらえるかも・・

蛇足だけど〜

 

人が風景を作るのではなく、風景が 人や生活を作っているの

だと思います。

また 風景画のモチーフはその人の原風景と関わりがあると

考えています。

草花や土に触れる事も少なく近郊の小さな街で育った私が

大自然に真理を求めるのは少々無理を感じ、モチーフを近郊

の家々や屋根風景に求めました。

 

平穏な街並みは寡黙だと思います。しかし無口だからこそ絵の

モチーフになると思いました。

有名な建物も無く、名所でもないごく普通の家々・・・

まるで演劇の舞台の大道具の街のように薄っぺらで 存在感の

ない家々・・・。

小高い場所から眺めると 外国の方が「ウサギ小屋」と呼ぶ

ような家々が犇めきあいながらも静かに息づいています。

その屋根風景に 陽が傾いたり風が吹き抜けたりしただけでも 

普段とは異なる表情を見せてくれます。

 

これを平面の絵画として作り変えたいと四苦八苦しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤目に思う

 

朝、気がかりな夢から目覚めて(カフカ「変身」) 鏡を見たら知らない

爺さんが映っている・・・・。一瞬、ホントにそう思った。

勿論、映っているのは私自身なのだが、なんだか別人に見えた。

 

左目が真っ赤で白目が殆どなく瞼が少し腫れて垂れていた。

ちょっとモジリアーニの描く人物画の目みたいに片目が・・・。

 

       モジリアーニ ベレー帽の少女(部分)より

 

 

医者に行くと「普通なら3~4日で治るが、かなり広範囲に濃く赤い

ので全治には一月ぐらい かかるかも~」と言われた。

原因は不明だが、視覚には異常はないとも言われたので 先ずは

一安心した。少し重いような痛みを感じるが 気のせいかもしれない。

 

しかし不思議に思えたのは、医者から帰って見た鏡の中の自分の顔は 

いつもとあまり変わっていない。

家人も知人もあまり この変化に気がつかないようだ。

 

 

 

再び いつもの顔に見えてきたというのは 脳が イメージを被せて

見ている「いつもの目」に戻ったからだと思う。

「見える」というのは目が見るというよりも脳で見ているから

変わったところがなければ、単純な記号のようにしか受け取らず、

それ以上に見ようとはしない。風景を見る場合も季節の変わり目

や光や風雨の「変化」によって ホントが見えてくることが多い。

 

今回は 片目が赤くなっただけの小さな異変で いつもの イメージが

払拭されたのが面白いと思った。

つまり 時に 自分とは違う人の目になって見なければならない。

朝、 垣間見た奇妙な老人像が、本当の私自身なのだろう。

 

録音した自分の声を聞くと 妙な変な声に聞こえる・・・。

これと同様に 他人が見ている私の顔は 私が見ている(思っている)

顔とは 少し違うのだろう。

 

カルチャーで受講生の皆さんに 自画像を描いてもらうと、

私を含めての事だが、5~10年ぐらいは 若く描く人が多い。

普段、誰でも目はイメージを通して見ているから自分の若い時の記憶

や気に入った表情を「自分の顔」としてを見ている・・・。

 

その人の目に見えたものは その人にとって事実なので 客観的な写真

とは違う面白さが絵には表されるのだと思う。

神様もお化けもUFOも 見えた人にとっては事実なので 他者が否定

するものではない。(私は無神論者だし、お化けは怖いので見たくない。UFOは見たw)

 

ロダンの名言に「嘘をついているのは写真の方です。」というのが

あるが頷ける。カメラのように時間を止めて見ることはできないし、

人間は心(脳など)を通して その人にとっての事実を見ている。

 

絵は 垣間見えた真実を元にして その上に素直に感じたものを再構築

していく。

別の人の目になり 自分が奇妙な老人の顔に見えたら、それを了解して 

その上に自分の目やいつもの想いを乗せて煮詰めていく・・・・。 

そして絵としての「表現」に向かうのが楽しいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

往生際で考える

 

音楽のコンサート等を見に行って、先ず気になるのは 最初の弾き始めだ。

 

観客としては何が どう始まるかワクワクする瞬間だが、演奏者にとっては 

会場の何もない無音空間に飛び込んでいかねばならない。

そしてその緊張は曲が終わるまで続き、失敗は許されない。

私にはこういう緊張感は耐えられない。絶対に出来ない事なので、これは 

いつも凄いことだと思う。

 

TVで陸上競技やフィギアスケート等を見ていても そうだ。ちょっと間違え

たから「待った!もう一度やり直し」・・・とはいかない。

スポーツは結果が重要だけれど 音楽や舞台等は 結果や正確さだけではなく

「表現」としての内容も評価の対象になるので更に大変なことだと思う。

 

「音楽の演奏って時間の流れてゆく中で しなければならないことが物凄く

沢山あって・・・集中力がちょっとでも揺らぐとロレロレになってしまう

怖さがある。」とピアニストの方から教えてもらったことがあった。

そう思うと 私は普段からロレロレに生きていていて「ちょっと待って~」

の繰り返しばかりだ。

 

しかし、この「やり直し」が絵では許されるからこそ 私は描いていられる

のだろうと思うことがある。

 

私の場合、失敗しないで描き進むことは ありえない。何度も間違いを繰り

返しながら探していく。

描き直すこと自体が 制作方法なので 気持ちはいつも迷子の子供のようだ。

たぶんこの道を進めばいいのだろうと感性を頼りに手探りで進むしかない。

 

そして制作していて「終わりにしよう」と思ってからが更に長い・・・。

往生際はかなり悪いと思う。

自分に素直になろうとしてもがくので、当然 キレは悪くなり、絵に必要な

ヌケ感が乏しくなってしまう。

 

学生の頃、テストの答案用紙を書き終え提出して、廊下に出たとたんに

正解を思い出す事がよくあった。試験会場に戻って直せたらいいのにと思う

・・・・絵では気がつけば 戻って何度でも直せる。

その繰り返しで進んでいくので 自分にとっての発見や確認がある。

これは絵を描く楽しさの一つであると思う。

作り込んでいく楽しさみたいな・・・

 

 

 

ベートーヴェンの自筆譜

 

ベートーヴェンのメチャクチャに書き直しがある自筆譜を見て 音楽に於いて

 一回性が大切なのは 演奏者の場合だと気がついた。

作曲家は絵のように 何度も繰り返し書き直すのだろう。(異なる場合もあるだ

ろうが・・・)

そう言えば ブルックナーのように改訂版が複数ある作曲家もいた。

 

 

ベートーヴェンの自筆譜は訂正だらけで 私には親近感を覚えた。

まるで画家のサイ・トゥオンブリーの作品のようで 何かが生まれる前のカオス

を見ているようでもある。

トゥオンブリーは昔からなぜか 好きな画家の一人だ。

彼の絵は 上記したような「作り込む」意識とは全く反対で 、そういう作為も

なく、見せようとする緊張感とは別次元の画家だと思う。

 

 

サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly、1928年4月25日 - 2011年7月5日)

 

 

勿論、ベートーヴェンは人に見せようして楽譜を汚したのではないだろ

うが、制作過程の秘密を除き見るような面白さがあると感じる。

モノを作り始める前のモヤモヤみたいな・・・

 

 

絵も自分の素直な心を表すので 見られたくない葛藤や迷いがでてしまう。

 

制作中の 迷いや葛藤を仕上げに向かう途中で 弱い自分で直視していたく

ないので 私は ついついカッコつけて・・・隠してしまう。

 

 

欠点や短所を否定し取り除いて、清廉潔白な作品を求めているのではない

はずだ。負の部分を削除していては「詩」ではなく「格言」のような絵に

なってしまうと思う。

 

「みつを」にはなりたくない・・・なんて

 

自分をもっと晒さねばならないと思いながら・・・・・

 

しかし これがムズカシイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年末に退会届

昨年末で水彩人を退会した。

1999年の第1回から出品しているので24年間続けていた事になる。

いろいろとお世話になったし、多くの事をここで教えてもらったと

感謝している。

 

二年前から具体的に退会を考えていたが なかなか踏み切れなかった。

 

退会の大きな理由は 前回のブログでも触れたが 子育て関連の事情だ。

制作と育児をもっと割りきるべきだというのは頭では わかっていても、

実際は 要領が悪く子供たちに振り回されてばかりいる。

 

私事で水彩人展の足手まといになりたくはないし、もともと団体行動

は苦手な方なので この際、いい機会だと考え、思いきって退会する

ことにした。

 

私は三十歳代に二人の娘を育てた事があったが 今ほど苦にはならな

かった。

そう感じたのは 私がまだ若かった事もあるが、子供が女の子と男の子

という性別の違いは大きいように思う。男の子はホント手がかかると

痛感している。

最近、世の中で「男性の育休」が要求されているようになったが、

我が家も今は同感だ。

 

また今月末頃に、住んでいる埼玉の家を 引っ越す事にした。 

7年前にここに越してくる際には 使わない画材や中途半端な作品を

まとめ、業者に頼んで2トン車に山積みで捨てたが また多くモノ

を処分しなくてはならないだろう。

都合良い断捨離の一つなのかもしれないとも思っている。

 

自業自得なので もう暫くはバタバタ生活が続いてしまうだろう。

兎に角、70歳を過ぎてから やたらと慌ただしく、ゆっくり絵を

描きたいと思う。

 

 

 

 

 

「囁く街」油彩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おじいちゃんなの?おとうさんなの?」

 

夕方に保育園や小学校に通う息子ら(2歳と7歳)を「お迎え」

に行くと 知らない子供達が寄ってきて

「おじいちゃんなの?おとうさんなの?」と聞かれる事がある。

 

私は71歳(もうすぐ72)なので世間的にはおじいちゃんの年齢だが、

息子にとっては 父親なので

「おじいちゃんだけど おとうさん~ なの」と言うと、

皆「ヘンなの~」と笑う。

「おとうさんだけどおじいちゃんなの~、かなし~。」

 

 

確かに・・・・端から見たら ただのヘンなお爺さんなんだろうなぁ

と省みる。

 

かなり年下の妻と再婚したので 息子らのホントの おじいちゃん(妻の父)

は 私より5才も 若い・・・。(先妻との子供らは成人している)

 

童話の桃太郎の話では 年を取ってから子供が生まれた事を恥じて 

桃から生まれたという事にしてしまったというが、 今の世の中では

桃から生まれた事にするのは、難しい。

 

高齢で父親になった著名人の話を聞くことがある。郷ひろみ(58)、

三谷幸喜(52 )、石田純一が58歳で、市村正親が59歳等々・・。 

しかし、いずれも権力も財力もある方々なので 非力でビンボーな私とは

大いに異なるだろう。

 

今まではあまり年齢のことを気にせずに生きてきた。

しかし、こう頻繁に「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼ばれていると、

急速に歳をとったような感じになってきた~。

 

 

この「おじいちゃん」発言が、子供達の間で イジメや悩みの原因に

ならないかと心配に思うことがある。

 

また時々、息子達が成人するまでは 長生きしたいなぁと思うが、 

寿命など先の わからない。

わからない事は考えない事にしている。

 

「日々是好日」としたいと思い、それをタイトルに絵を描いてみた。

 

『日々是好日』油彩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個展が終わって心機一転

 

             空の下< そらのもと >  透明水彩  松波 照慶

 

 

個展が なんとか終わり、気分的に一休みしています。

 

 

今回の個展は 多くの反省点を残しましたが、それ以上に沢山の

いい刺激も頂きました。やはり個展はいいものだと思いました。

 

お越しいただいた方々、有難うございました。コロナ禍がまだまだ

不安の中にもかかわらず お越しいただき、本当に嬉しく思いました。

 

 

元荒川の暮れ  松波 照慶 油彩(水彩で覚えた「洗い」の方法をテレピンとヤスリで試す。) 

 

 

 

「作者の自信作が良い とは限らない。」とは私の口癖になってい

ますが、今回の個展でも自分では気がつかなかった事をいくつも

指摘してもらいました。

いかに自分が自分自身のことを見ていないか、見れないかを痛感し、

教えていただいたことを大切に描き続けていこうと思います。

 

 

 

 

また大好きなボナールとの制作上での共通点を教えてくれた方も

いて 改めてボナールが身近に感じるようになりました。

 

高校生の頃、西洋美術館で見たボナールの「サーカスの馬」に感動し、大学の進路志望を

 油彩画にしました。後日、この絵からは多くの事を学びました。

    

     

       ピエール・ボナール [ サーカスの馬 ] 1934〜1946

 

今、見てもちょっとヘンな絵ですが、晩年のボナールの自画像と雰囲気がよく似ています。

右側にサーカスの人物がいますが お得意のヴァルール操作で目立たなくしています。

仕上げまでに 12年間かかっていますがボナールがもっと長生きしたらまた変わっていた

かもしれません。コレクターのダンカン・フィリップスがこの絵が欲しくて持ち主のテラス氏

に金額が無記入の小切手を送り、いくら高価でも記入してくれと願ったが テラス氏は この

作品を手放さなかったそうです。

油彩画は普通、白い所は厚塗りしますが、この馬の顔はキャンバスの地や下描きの線が見える

ぐらい薄塗りだったと記憶してます。)

 

 

 

今後は 団体の中の発表 に頼らずに なるべく個人的な発表を大切に

しながら 自分の絵画を追求していきたいと心機一転、考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個展をします。

〈お知らせ〉

11月3日(木)より9日(水)まで 京橋のギャルリー・コパンダール(京橋2-7-5)

に於いて個展を開催します。御高覧くださいますようお願いします。

油彩と水彩などの小品を陳列します。

 

 

 

今度の個展では屋根の風景を多く出品しようと思っています。

絵を描く人の根底には幼少時の記憶「原風景」が関係している方が多いと

思います。

私の場合は 大自然の中で育ったというわけではなく、密に建ち並ぶ家々や

その間の抜ける路地の記憶が小さな世界だったのだと思います。 

長田弘氏が「風景は人の背景としてあるのではなく、風景が人間を作って

いるのだ。」と書いていますが、同感します。

 

小学生の頃、友達の家で遊んだ帰り道に よく迷子になりました。

いつも通る知っている道を帰ればいいのですが ふと それではつまらない

と思い、近道を探してみようとして そのうちに迷子になってしまうのです。

つい先日も埼玉県で夜、帰宅しようと自転車に乗りながら迷子になりました。

携帯は電池が切れ、大きな道路に出ると人家もなく店も開いていません。

「そのうちに知っている風景に出るだろう。」と漕ぎ続けました。

不安感というよりも不思議な夢の中みたいでした。住んでいる町の近くにも

全く知らない異次元のような世界があるのに驚きもしました。

しかし自宅に帰ってからこの話をすると 家人は「始まったのかな?痴呆」。

たぶん まだ大丈夫〜だと思います。

 

絵を描いていると「迷子」になった時と同じような気持ちになることが

よくあります。

「この道をこの方向に行けば出口に出られるはずだ。」と思い描き進みます。

 

もうすぐ個展ですが、迷子になっています。出口まで行けるかなぁ・・・?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ズレや摩擦から駒

 

クラシック等の多くの音楽において 作曲家と演奏家がいて「音楽」が

生まれる。作曲家のように曲を作る「入力」側とそれとは別に演奏する

(表す)側の「出力」が別々に存在するのが面白いと思う。

 

自作自演はそれを同時に行うことになり、作者の制作意図がストレート

に表された良い場合もあるが、別の演奏家が弾いた方がより名演になる

ことが多いというのが興味深い。

 

つまり作曲家の思い通りに演奏家が「音楽」にしてくれるとは限らずに、

作者とは異なった解釈で表現されることで 新たなひとつの作品となる。

 

「表現」に於いて ここで生じる矛盾やズレに 大きな意味(価値)がある

のだろうと考える。

 

絵画に置き換えて考えてみると 絵は殆どの場合、自作自演なので 入力

は「見る」ことが主になり、出力は「描く」ことになるだろう。

この2つの行為を一人の人間の中で行う時に 入力と出力には距離が必要

なのだと思う。最初の自己を他者として見る一種の自己否定だ。

 

見たままを安易に写生することや計画通りに仕上がった作品が物足りない

と感じるのは この距離が少ないからだと思う。

 

優れた表現には 高い矛盾率を含むものだ。

 

この矛盾や葛藤からは「瓢箪から駒」のような効果があり、表現の醍醐味

でもあると思う。また鑑賞者にとっても一番に見たい(感動したい)ものは 

この意図せずに醸し出てしまったこの駒というか「何か」なのではないか。

 

作り手としては 出そうとして追いかけても出るものでもなく、待っている

だけでも出てこない。日々の修練のようなものがあってこそ この駒が出た

時にだけ拾えるのだ。

 

時々、こういうことを神様からの啓示としてを受け取った選ばれし者のよう

に自分を言う人がいる。「何かが閃いた」とか「空から舞い降りた」と言う

人がいるが、それらの多くは単なる思い込みにすぎない。

そのようなことは 大なり小なり 誰にでも起こりうる偶然だろう。

 

画家マティスは そういう閃きを神からの贈り物のようには取らない。

それらは 日々、自分がしている修練からの賜物であって、毎日努力してい

るからこそ画面に現れた一瞬の現象でも受け取れことになると言う。

とても説得力のある言葉だと思う。

 

出力(表現)の段階で行き詰まったり失敗だと思える「痛み」の段階を経て

仕上がるものの中には 作者が意図しなかったものが生まれ、作者を開眼 

(前進)させたりして、作る喜びを体得する。

 

 

巷の展覧会には 描き慣れた猫や花などのモチーフを組み合わせただけの絵

や自己肯定の上にさらに自己肯定を重ねた 失敗のない絵も多い。

いずれも緊張も破綻もなく駒も出ない。予定調和が多いのはつまらない。

 

料理に於いて素材は大事だが、それ以上に料理人の腕(技術)が重要視され

るように音楽に於いても演奏家の力(技術)は大切だとも思う。

 

絵もそうだと思うが技術が 先に一人歩きしても困りものなのだ。

 

私は まず空間意識とタブーとされている諸問題から

紐解いてみようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デッサン教室 真似事「ままごとデッサン」はもう卒業しよう

 

8年前に「デッサン教室」という短期講座を始めた。

 

当初、受講生は集まらないだろうし、鉛筆だけの画材では長続きし

ないだろうと「短期」という形でスタートしたのだが、定員の2倍

以上の受講生(46名)が集まり、今も続いている。

 

学校などで教えるデッサンの授業は1~2年間が普通で、遠近法を

ベースにした基礎的なことを学ぶだけで終える。見たモチーフを紙

の上に客観的に置き換える作業だ。モチーフ見てを真似るわけだ。

 

この「デッサン教室」でも初心者には 似たような方法で始めた。

習字の授業でカタチが悪いと先生が朱墨で添削し直すように少しだけ

加筆し修正を入れる。

描いた本人は どこが間違っているか具体的ですぐに分かるやり方

なので これはこれで喜ばれたと思う。

 

この段階で必要なのはモチーフの構造を理解することだ。昔の中国

ではデッサンは「骨法」と言って骨組みを見ることでもあり、普通

には見えないはずのモチーフの裏側や内部を見る修練でもある。

 

「デッサン」には真似る以外に もっと大きな意味があると考えて

いる。

 

 

お習字が上手になっても「書」にはならないだろうし、ピアノの

お稽古教室で褒められても ピアニストにはなれないだろう。

 

 

つまり 習字やお稽古ピアノには御手本があり、真似る事を目的と

するが、書道やピアニストは自己の「表現」でなければならない

からだ。

 

お習字のように真似て描くのは幼児教育における「ままごと」だ。

ままごとは大人の生活を真似て学ぶ大切な基礎教育だと言える。

 

「ままごと」は「まねごと」。ままごとデッサンは必要だと思うが

「ままごとデッサン」を極めても絵にならない。石膏デッサンも

初心者には訓練の一つだが、極めたところで絵を描く事に繋がらない。

 

 

巷の「書道教室」では 書道と明記してあっても実際に教えている

のは「お習字」が多い。習字と書は混同されている。

 

絵やデッサンに於いても同じような曖昧さがあると思う。

 

 

一般的にデッサンというとソックリに真似て描く(「お習字」の

ような)事だと思われることが多いが、それだけではない。

 

 

「絵を描くのにデッサンは不要だ。」と言う人がいるが この習字

のようにデッサンのことを指しているのだろう。美大受験用の石膏

デッサンは特殊なものなのだ。

 

過去の巨匠たちのデッサンをよく見れば、デッサンが真似事や描写

訓練でないことが明らかだろう。

 

創作のためのデッサンなのだ。

経験者は表現としての「絵のためのデッサン」に切り替えて制作し

なければならない。

 

 

以前にブログにも書いたが デッサンには「秩序のある計画性」と

いう大きな意味と「見えないモノを見る」訓練でもある。

 

小手先の描写に留まらずに絵画作品に向かうためのデッサンを心がけ

ようと思う。

そういうカルチャーを目指すつもりです。

 

 

 

 

 

デッサンについて 関連記事

 

https://ameblo.jp/s0008/entry-11919904716.html

 

https://ameblo.jp/s0008/entry-12300744724.html

 

https://ameblo.jp/s0008/entry-10554445274.html?frm=theme

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は凄い人

夜中に一人で映画を見るは好きだが、作業しなからだと真剣に

観賞できない。そういう時は YouTubeにアップされている昔

の軽〜いTVドラマを流していることがある。

「暴れん坊将軍」や「遠山の金さん」や「裸の大将」など懐か

しい番組がいろいろ並んでいる。

 

見ていると「水戸黄門スタイル」というか 普段は普通の人だけど

実は凄い人だというのパターンがやたら多いと思う。

 

余談だが 「水戸黄門」で 黄門が「助さん角さん、こらしめて

やりなさい。」と嗾けてボコボコにされる下っ端の家来たちが

可哀想に思うことがある。この家来にもきっと家庭があるだろう

し、仕方がなく悪事を手伝っていただけの人も多いのだろうと

思うと時代は変わっても 下っ端は下っ端なんだと思ったりする。

最後に印籠を見せてパワハラでやっつけるのも今と同じだ・・・。

 

「裸の大将」は画家の山下清をモデルにした創作ドラマだが 最後

に山下清だと作品のサインを見せ、正体を明かして終わる。

桜吹雪の刺青の「遠山の金さん」も「暴れん坊将軍」の徳田新之助

も「裸の大将」もスーパーマンも月光仮面もみんな同じパターンだ

と思うと 変身願望は庶民の願い、庶民の夢なのだと思う。 

 

しかし「裸の大将」はちょっと気分の悪いドラマだ。知的障害者を

笑いの種にするのもよくないが それよりもこのドラマを制作して

いる人達が 山下清作品の良さを全く理解してないように思える。

山下清が「有名人で作品が高価だから凄い」としか言っていない。

これでは制作者たちは、ドラマの中に登場する金の亡者たちと同じ

ではないか。山下清を食い物にして視聴率を取ろうとしているだけ

で 山下作品を少しでも一般にわかるように解説したり、絵の見方を

示しても良かったのではないかと思う。とにかく山下清に対しての

愛情は全く感じられないドラマだと思う。

 

先日、私は4年ぶりに近所の歯医者に 行った。5~6年前に出来た

歯科で若い(40代?)院長が饒舌で治療技術も優れているのか評判も

随分と良くなっていて繁盛していた。 治療の順番になり座るとすぐ

に院長が来て「時々、 向こう側の道路を歩いている松波さんを 車の

中から見かけますよ。しょうけいさんがいる~って」とか親しげに

話しかけてくる。

普段、印象の薄いであろう私のことをちょっとでも覚えていてくれる

と言われたら悪い気はしない。一瞬「いい気持ち」になってニコニコ

した。「 私も実は ちょっと凄い人間なのかも~♪」と思わせられた。

でも考えれば 営業上の単なるリップサービスの一つなのだろう。

一瞬でもうまい営業言葉に乗せられてしまい、大したことでもないの

だけれど  一本とられたような気持ちになった。

私もカルチャーなどで多くの方々と接する機会があるので  そういう

小さな心遣いは必要なのかもしれないと思った。

 

考えてみれば、私の周りの友人、知人、生徒さんの中にも

「実は 凄い人」は 結構いるもんだと思う。

 

 

 

 

ニッポンの SHOKEI (照慶)は普通の庶民だが

アメリカの SHOHEI(翔平)はホント凄い人だね。

 

一文字違うだけなのに~   う〜む 残念侍。

 

 

 

 

 

おまけ

山下清さんは昔は あまり好きではありませんでした。

でも 最近 見直して興味が出てきました。↓画像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>