SHOKEI 'S TIMES
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足が痛い

 

デッサンのカルチャーで使う(モチーフ)大きなカボチャを6個と

玉葱を買った。それをリュックに入れて行商人のように埼玉から

神奈川まで運んだり、他のモチーフを探すのに長時間歩き回った

りしていたら疲れが溜まったのか、夕方になってから足が痛く

なってしまった。

 

しかし筋肉痛ではなく、左足の膝上に針が入っているような

神経痛みたいな痛みだ。妻は直ぐに医者に行けと言うが、

「こんなのは ほおっておけば そのうちに治まるだろう。」と

強がってみせた。

 

しかし夜中になっても痛みは治まらず、翌日になっても続いた。

 

不思議なことに痛みは左膝上から左腿に移ったり左腰に移ったり

する。

 

翌々日は油絵のカルチャーがある。

痛みを我慢してカルチャーの仕事を続けていたが、痛みは増す

ようなので 次の月曜日には整形外科に行くことにした。

 

医者は「これは神経痛ではなく、帯状疱疹だろうから皮膚科に

行って下さい。」と言われた。

確かに左足には虫刺されのような赤い斑点があった。

 

小学校の頃、帯状疱疹になったことがある。その時の痛みと周囲の

人の避けるような眼差しを思い出した。

 

皮膚科に行くとすぐに帯状疱疹だと診断された。 

小学校の頃の事を話すと それは帯状疱疹と似た別の病気だそうだ。

 

 

帯状疱疹は 加齢(老化)や過労により免疫力が低下すると体内に

潜んでいたウィルス(子供の頃の水疱瘡)が再び活動を始め発症する

という。

感染することはないが 水疱瘡にかかった事のない1才未満の幼児には

要注意らしい。

 

大人に感染しないならば、とりあえず 翌日のカルチャーを休まないで

行けるので よかったと思った。(通常休めない)

 

教室内での講座はいいが 水彩画の次のカリキュラムは運悪く野外制作

「写生会」なので長時間歩き回らねばならなかった・・・。

 

 

 

人間の身体は不思議なもので 帯状疱疹は 左右どちらか半身に表れ、

一生に一度だけ発症するのだそうな・・・。

 

これから爺になられる皆様方、左右どちらかに一方に、偏った痛みが

走ったら それは帯状疱疹かもしれません。

 

 

 

また帯状疱疹の薬の注意書きに服用中は アルコールは禁止となって

いたので突然、禁酒週間が訪れてしまった。

 

水彩人の大原氏からも「毎晩、飲んでると早くボケるぞ。」と忠告され

たばかりなので暫くの間、禁酒もいいかも〜 。

 

 

それから10日ぐらい過ぎ、医者から完治のお墨付きをもらい、

薬も飲まなくていいことになった。

 

 

そろそろ禁酒解禁かな。

 

 

 

やはりボケるのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ケンプを聴きながら描く

 

シューマンのピアノ曲に「ダヴィッド同盟舞曲集」(1837年)

というのがある。「ダヴィッド同盟」とはシューマンが空想で

作り上げた 俗っぽい音楽に対抗する同盟だという。

ちょっとビートルズが作り上げた架空のバンド「 サージェント・

ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に似ていると

思った。ビートルズ(ポール)が作ったのは1967年だから 130年

も前にこの架空同盟をシューマンは考えたことになる。

 

「ダヴィッド同盟舞曲集」は聴き始めた頃は ヘンテコな組曲で

好きになれなかったが 聴き返しているうちに面白さに気がついた。

 

シューマンは 自分の中に想像の二人のキャラクターを作る。

活動的で快活なフロレスタンと静的で思索的なオイゼビウス で、

それが音楽にも現れる。その他に言葉遊びをアナグラムで音化し

て作曲したりしていて・・・調べていくと興味は尽きない。

 

 

 

 

 

 

このシューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」や「森の情景」を

ヴィルヘルム・ケンプの演奏で聞くのが好きで このところ毎晩

のように頻繁に聴いている。

歳をとると味覚が変わるように好きな音楽家も変わる。若い頃は

ケンプの良さはわからなかった。もっと味付けの濃い感情的で

奇抜な演奏家が好きだった。

その頃、ケンプのことを「ピアノの詩人」という人がいたので

興味をもち 聞いてみたのだが、予想とは裏腹に普通の演奏で 

どこが詩人と言われる所以かわからなかった。

これは私の「詩人」に対する浅い偏見だったと後程 気がついた。

 

 

ケンプは極端な事を嫌うようで淡々と弾くが、ダラけたりはしない。

人と違った事をしてやろうとするような「あざとさもない」と思う。

 

ケンプは若い頃、オペラの作曲家でピアノ演奏は副業だったそう

だが、戦後はピアニストとして有名になった。

ケンプがシューマンを主に弾くようになったのは71才からで、

75才からの3年間に集中してシューマンのピアノ曲を録音した

そうだ。(1991年95才で亡)

 

 

 

いろいろなピアノ演奏をあれこれ聴いていると、美しい音を追求

するよりも、音の向こう側にある何物かに思いを馳せているような

演奏があると感じる。

ケンプの弾くシューマンやブレンデルのシューベルト、フランソワの

ショパンやラヴェル等を聴いていると そんなことを ふと思う。

 

そして そういう絵が描けたらいいなと 

ボンヤリ思いながら聴いている。

 

 

絵に於いても 美しい色彩や技術効果を狙った作品や,見栄えを

気にした作品が多いが、ケンプのピアノ演奏のように 自然で何か

深いものを醸し出しているような絵が好きだ。

 

 

そういう絵や音楽に憧れている・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現場主義から離れて

 

知人から 自分の赤ちゃんの写真やペットの写真を「可愛いでしょう」

と見せられて、その返答に困ることがある。

 

その人にとっては 特別な存在で、とても可愛く思えるモノであって

も 他者からは そうは見えない事はよくあると思う。

(こういう時は「元気そうね〜。」ぐらいの返しが適切だそうだ。)

 

 

こういう押し付けは 絵に於いてもよくある事ではないだろうか・・・

と考えた。

 

思い出の品や大好きな風景を画面に再現し、説明されても前述の赤ん坊

の写真と同様で、関係者以外は興味をもたないだろう 。

 

 

要するに個人的な「思い入れ」や「気付き」は、絵を描く人にとっては 

大きな動機になるので必要だが、 他者に見せる「作品」として伝えよう

とするには 不十分な事が多いと思う。

 

 

私は 埼玉に越してから自宅近くの駅や街並みを描いているのだが、

他者から見たら何の変哲もない景色でしかない。

コンステレーションではないが、 作品となるにはそこに「共時性」や

「通時性」がなければ ならないと考えている。

 

その為に 風景を物でなく一つの「出来事」として見ようと試みている。

 

  

        

 

中川一政の晩年の「駒ヶ岳」の絵が大好きだが、現実の 駒ヶ岳に

興味があるわけではない。

 

     中川一政「駒ケ岳」

 

つまり絵としての魅力と 駒ヶ岳の魅力は異なると思う。

 

描写性がもつ意味よりも 「表現」の方が重要なのではないだろうか。

 

 

絵画は「何を描くか」が重要だったが 、19世紀から20世紀に

かけての画家たちは 対象の見方を問い直し、「いかに描くか」を

大きな課題とした。(キュビスム等〜) 

 

マティスの最晩年の「カタツムリ」(下図等、典型的で 色紙を貼り

合わせたカタツムリに 描写性(意味)は無いだろう。

 

        マティス「カタツムリ」

 

 

ボナールは最初に見たイデーを大切にするが、モチーフを見ながら

描くことは しなかったそうだし、ユトリロも現場では描いていない。

ゴーギャンに至っては 見て描く事をすら否定している。

マティスもピカソも写生はするが 本制作では見ながら描くことは

なく、画面上で起こる自分の世界を煮詰めていったと思われる。

 

 

「作品」とは写実の具象作品でも抽象的な作品でも現実をただ真似て

写したものではなく、作り替えられた(置き換えられた)人工物とし

ての面白さだと思う。

 

ただこの方向は危うい面も出てくる。「何を描いても良ければいい。」

という悪しきアカデミズムに通じてしまう誤解も生ずる。

 

 

 

私は必ず、物や風景から絵を出発したいと考えているが、描いている

うちに画面上でフォルムは単純化され 描写性からも離れていきたい。

自由な色面と線に還元された画面で 離陸したいと思っているが・・・

 

まだまだ実景に囚われてしまって・・・・(涙)。

 

 

 

 

 

 

 

 

気配とコンステレーション

 

前回のブログにいただいたコメントの中に「ケハイ(気配」)」という

言葉が出て来て昨年、読んだ本を思い出した。

心理学者の河合隼雄氏によるコンステレーションに関する本で、 

とても面白い思った。(『こころの最終講義』新潮文庫)

                              

                       

 

コンステレーションとは心理学用語だが「星座」という意味だそうだ。

「星座」というものは 個々の星そのものからの意味ではなくて、

観測者が星と星を勝手に関連付けて名付け、そう呼んでいるにすぎ

ない。このような本来バラバラのものを組み合わせて意味付ける事だ

という。

 

 

これは絵の観賞方法や描き方と 共通すると思った。

 

例えば抽象的な作品を鑑賞する際、何が描かれているのかわからない

ので 画面全体から意味や作者の意図を推測する。

細かく分析的に見るとますますわからなくなってしまうが、ボンヤリ

見ていると何か伝わってきたりする。

それに作者の意図とは関係なく、 鑑賞者は画面の中に置かれた色や

線や形を自由に組み合わせて解釈してよいと思う 。

 

作者の意図は 作者にとって必要なだけだ。

絵の面白さは伝達するものとは ちょっと異なると思っている。

 

 

抽象画を描く時も同様なことが言える。

個々の意味を省いて描く事で 部分から描く事を拒み、 画面全体で

一つの事を言い表したいと思う。

 

描いている者にとって何気なく置いた色や消し忘れた色が画面上で

ふと見ると 響き合っていたりするのを発見する事がある。

画面で偶然に置かれた色や形から触発され、次の展開を気配として

感じながら描き進むのも 絵の楽しみの一つでもあると思う。

 

ただ この気配は常に気付くものではないとも河合隼雄は言っている。

見ようとして拘っている時には見えてこない。

悟ろうと焦る僧侶は悟れないように。

 

意味は少し異なるが、具象画を描く時にも目の前の対象物たちは、

私とは無関係に別々に存在しているだけたのだが、描かれた画面の

中では独自な関係が作られ「新しい意味」が生まれてくることになる。

 

 

詩人・演劇家のアントナン・アルトーは、絵画とは「自然を再び一つ

に寄せ集め、血をかよわせ発汗させること。」といっているし、

現象学者メルロ・ポンティは「人が見えないと信じている世界に筋肉

を与えること。」等とカッコ良く言い放っているが、言いたいのは  

同じような事だと思う。

 

「血をかよわせ発汗させること」は作者の勝手な思い込みからだろう。

 

 

 

関連のないと思われる言葉と言葉がぶつかって詩が生まれたり、

トンビとトンビが交わってタカが生まれたりするような事は 

ちょっと考えてみると身近に多々あることだ。

 

 

日常生活に於いては「原因があっての結論だ」というように筋道を

立てて考えてしまう事が多いが、ふと気を緩めて 全体からの「気配」

を感じながらユッタリと過ごしていきたいと思う・・・・が難しい。

 

 

 

枕元に積み上げた読みかけの本の数々・・・・

夢の中でコンスタレーションして良い明日を迎えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カルチャーあれこれ

 

先月末、私が担当しているデッサンのカルチャーにTVの取材が

やってきた。

放映を見たら たったの2分でした・・・・。

 

 


川崎市民プラザの「デッサン教室」は名目上、短期講座として

あるが、実際は 2014年から7年間ずっと継続しているので普通の

カルチャーとあまり変わらない。

デッサンの受講生は46~40名ぐらいなので 2クラスにした。

このプラザでは他に 油彩と水彩、合わせて6教室を担当している。

 

教える事は苦手だし、絵について教えることは殆ど出来ないと思って

いる。しかしもっと問題なのは 通勤に往復で4時間以上かかってしま

うことだ。

 

いつもヘトヘトで すみません。

 

 

取材に来てくれた人は丁寧で真面目な方でしたが、カメラを回す前

に「デッサン教室」や私のデッサン観について説明したつもりだった

が動画編集を見ると あまり理解されなかったみたいでちょっと残念。

 

 

デッサンは見たものを そっくりに真似をすることのように勘違いを

している人が多いようだが

 

私は 「デッサンは物真似の練習なんかではない!」を

モットーにしております。

 

 

しかし受講生の方々も関係者の人にも 

なかなか理解してもらえない・・・・

 

 

絵は 絵として「作り変えること」だと思っている。

 

その為には 見えないところを見ること・・・

 

その練習かな・・

 

 

 

 

 

 

白い部屋と不安な時間

 

 

 

先日、倦怠感を覚えた後で 喉が痛くなり咳が出始めた。

 

筋肉痛のようなヘンな痛みが身体中を走り頭痛もしてきて、

更に 夜には熱が38度も上がった・・・。

ついに新型コロナウィルスに感染してしまったかという

不安が横切った。

 

先週は カルチャーの会食もあり、接触者を数えたら50人

以上になる。責任の重さや家族の事も考えた。

 

 

東京は今日も感染者数が500人を越えて増え続けている。

私はそんな東京へ週に4〜5日は 行っているので いつどこ

で感染しても不思議ではないのだが、どこか 他人事の

ように甘く構えていた。

 

 

急に上がった熱は 一晩で下がったが咳は続いていたので 

心配は治まらなかった。

 

近所のクリニックに行こうとしたが、感染症サポートセンター

に連絡してからだという。電話したら保健所にも電話しろ

と言われた。保健所の人に詳細を話したら、町のクリニック

に行って診察をしてもらってもいいという許可をもらえた。

 

しかしクリニックに行くと 今度は院内に入ってはダメだと

言われ 暫く外で待つ事となった。

晴れて温かな日だったのでよかった。

 

 

陽だまりでボンヤリ待っていると 看護婦が出てきて別棟の

小部屋に案内してくれた。ついていくと真っ白な小部屋に

通された。

椅子と机以外 何もない部屋だった。

 

「異邦人」の冒頭の霊安室のようだとも思った。

 

 

15分ぐらいその白い何もない部屋で待っているとクリニック

の医者と看護婦が揃って恐る恐る入って来た。

ちょっと症状の経過を話をしたら 離れて立っている先生が

「熱が下がったのなら 風邪でしょう。薬もありません。

心配なら検査をしますか?」と言って行ってしまった。

 

 

検査をお願いしたら 別の看護婦さんが来て小さな紙コップを

差し出し「ここに1/4ぐらい唾液を入れてください。」と

言って またすぐに立ち去ってしまった。

 

白い部屋に一人、残されてツバを出そう必死になった。

 

梅干しやレモンなどを想像したが、口の中はパサパサに

乾いていて  唾液を コップの1/4など出るわけがない。

 

その後、何度も看護婦さんに催促され どうにか1/10ぐらい

たまっただけだったが OKになった。結果は明日だと言う。

 

 

自宅に戻ってから もし陽性だと言われたら・・・とあれこれ

考えていたら不安は ますます膨れ上がってきた。

 

 

翌日、夕方になって電話がきた。

 

看護婦は「先生からお話がありますが お時間はありますか?」

と言うので 長い説明があるのか・・・と ちょっと青ざめた。

 

電話に先生が出られて  一言

「陰性です。」

これだけ。

 

素っ気ないが、とにかく ホッとした。

 

 

 

今回はセーフで むしろハッキリ陰性とわかりよかったが

考えてみると「フリダシ」に戻っただけだ。

 

 

来年には「古希」を迎えるジイさんなのでコロナ感染はヤバイ。

 

しかし 古希って? 古い希望って なんだろ? 

新希の方が いいな・・・    新規まき直しぃ

 

 

 

(追記)「古希」は正しくは「古稀」だそうで それも数え年で70歳とのこと。

     数え年で70歳ならば 私は既に 古希でした。あらま 知らぬ間に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個展が終わり・・・2

          

 

 

個展を終えて 約一月が過ぎた今、なんとなく スッキリしている。

 

どちらかと言えば失敗の個展だったと思うが、 悪いところが 

よく見えて自分には有益な展覧会だった。

 

今後の描きたい方向も少しずつ絞られてきた。

 

 

個展は、当然のことながら、一人で開いて 一人で全てを受け止める

ことが面白い。

グループ展や団体展では 味わえない達成感や喪失感がある。

 

 

団体展に出品しても 私は大勢の中の一人でしかないが、

個展だと 来場者の多くの方々は 私の絵を見に来てくれる。

コロナの中でもあったし、ありがたいと思った。

 

 

私は そもそも団体行動は苦手だし、往々にして

「赤信号、皆で渡れば恐くない。」的な麻痺した感覚が

私にはあった。どこか精神的に甘いと反省するが・・・。

 

 

 

水彩人Web展に出した水彩画も陳列した。

 

Web展を見たという人はほとんどいなかったが、

見たという人は 実際に展示した作品を前にして、

印象が大きく違うという話にもなった。

 

個展会場で長い時間をかけて絵の話をしてくれる人も

あれば、批判的な人もいて議論もした。

 

このブログを読んで初めて来てくれた方もいた。

とても嬉しく、久々に 活き活きした時間だった。

 

 

 

こういうことは 大人数になってしまった昨今の「水彩人」

ではありえないし「絵を語る会」でも及ばない。

 

 

 

要するに 個展にも団体展にも 長所短所は多々あるわけ

であって、 個人の受け止め方で変わるだけなのだろう。

 

 

個展を やって良かったといっても 毎年 開催するつもりはない。

 

5年間ぐらいは 空けてやりたいと考えた。

 

でも今回、個展をさせてくれた画廊が 2年後にも企画を

入れてくださると言うので その話には 乗せてもらうことにした。

 

 

 

私は 水彩画を極めたいとか、傑作を残したいとか、

そういう意志は 全くない。先のコトに対する具体策もない。

 

ただ 今の今を楽しんで 目の前の好きな絵をタラタラと

描き続けられたら 本望だと思っている。

 

 

 

 

 

 

個展が終わり・・・

           

          個展が終わり 今はこんなふうに

          項垂れて いろいろ反省中であります。

 

           

 

 

ギャルリー・コパンダールに於いての個展が終わりました。

コロナ感染の渦中ではありましたが、 見に来てくださいま

した方々、どうも有難うございました。

 

 

          

 

 

ここ数年、「個展」をする必要性や意味が曖昧に思え 控え

ていました。 

(小さな個展は 清瀬のトモズという画廊で毎年 開かせてもらって

いましたが、銀座や京橋で開く個展は久々です。)

 

 

しかし 実際に開催してみると 想像していたよりも はるかに

大きな手応えがあり、収穫がありました。

 

やはり絵は 生で見てもらい、 直接 感想を聞くものだと思いました。

個人的に個展の必要性は あると感じました。

 

 

 

絵は 一人で自問自答しながら描き進めるものですが、自分では

自分の事が見えないものなので 「表現」には第三者の存在が必要

なのだとつくづく思いました。

 

 

 

 

 

以前に尊敬する末松先生が話されたフランスの詩人の言葉に

「作品はいつも、われわれの怠惰を厳しく立証する。

お前はまだ こんなことしかしていない。」というのを

個展の最中に思い出しました。

 

 

 

          

 

 

 

 

今年の「水彩人」展は コロナの影響で中止となり、ネット上の

『Web展』となりました。

 

新型コロナの感染の影響で 仕方がなく、このような発表の方法を

とったのは わかりますが、 私は賛成していません。

 

まるで見合いの写真だけで結婚相手を決めるような実体の無い感じですし、

サンプルの一つになったようにも見えます。

 

 

水彩人は展示の方法も一段掛けに拘ったり、画材に対しても繊細に注意を

払ってきたはずの運動体です。なるべく本物志向でいきたいと思います。

 

 

絵画は 本来、ネットや印刷物ような情報化された「展示的価値」よりも 

ベンヤミンの唱えた『アウラ』の重要性を先ず、大切にすべきだと考えます。

 

 

 

 

また2年経ったら 「倍返しだぁ」と個展を開きたいと考えていますので

よろしくお願いします。

 

 

その頃にはコロナの感染も衰退していることを願いながら〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個展のお知らせ

 

 

             松波 照慶 展

 

 

 

 

新型コロナ感染拡大の最中のこんな時期ではありますが 

9月7日から個展を開きます。

 

東京駅の近くの「ギャルリー・コパンダール」

という画廊です。

 

 

今回も 日暮里や越谷の風景をモチーフとしていますが 

そこから「もっと遠くへ」離れようとして描いています。

 

再現から表現に~ 置き換えていこうと

考えていますが・・・

ムズカシイ

 

 

お近くにお越しの際は ちょっと見てください。

 

 

 

 

 

 

 

 

アトリエ・ドリンカー

TVでは 新型コロナのために家から出られず、ストレスが

溜まる人が 多いと言うけれど 私は 家に籠るのが好きなので 

その事ではストレスは溜まらない。快適だ。

 

しかし、収入が無いのは困ったものだ。

(10万の申請書も来ないし、必要ないマスクも来ない。

頼んでもいないのに466億円の無駄使い〜 困ったもんや)

このところ諸事情から日中は殆ど絵も描けないので 結局、

落ち着いて絵を描くのは夜中になってしまう。   am,6時就寝。

 

 

夜中に絵を描いていたら ついお酒を飲んでしまう癖がついた。

 

ブロガーのウォータン氏や友人から「コロナに負けるな!」と

美味しいお酒をいろいろ頂戴した。感謝します。

 

知らぬ間に お酒がアトリエに並んでしまった。

 

 

 

 

私は 酒は弱い方なので量はそんなに飲めないが、

美味しいものは美味しい。

 

最近のお気に入りは 芋焼酎の「天狗桜」。

甘くて美味しい焼き芋のようで・・・繊細なのに濃厚な味わい。

 

その次は「雪のまんねん」か「魔王」かな・・・。

 

「魔王」は名に反してお洒落で口当たりよくカッコいい二枚目。

「雪のまんねん」は ちょっと無骨で焼酎らしい焼酎だと思った。

 

洋酒では「イチローズ モルト」も濃くて旨くて気に入っている。

 

 

 

友達と酒の味の話をすると 絵の感想のようだと思うことがある。

 

「味」というのはカタチが無く、抽象的だ。

暫く飲まず 忘れていても、一口飲むと記憶が蘇ってくる。

 

相手にこの味を伝えたい時にどう話したらいいのか考える。

 

そう思うと 抽象画の面白さを誰かに伝えようとする時のような

もどかしさに似たものを感じる。

そこで何かに例えたり 置き換えたりしなくてはならなくなるし、

擬音やジェスチャーを添えたくなる。

 

味という見えないものを見させる言葉を探す・・・

これは意外と面白い。

 

 

 

好きな音楽を聴きながら、旨い酒を飲んで、

好きな絵を描いていると 「幸せ」だとしみじみ

感じることがある。

 

酔いのせいか「これでいい。」と思えて楽しく描く。

 

 

しかし作者の自信作には 他者から見て つまらない絵が

多いものだ。

 

「調子が出てきた〜」と乗って描いているとどんどん

自分が見えなくなってしまっている事があるので要注意だ。

 

これは覚めてから他者の前で反省するしかないが・・・

 

 

しかし、酔って描いていると 凄く重大なことに気がついた

りする。悩んでいた問題点の解決の糸口が見つかる。

 

ところが 翌朝、酔いが醒めると 何かに気付いたことだけは

覚えているが 具体的な肝腎な事は忘れている。

 

また酔うと 思い出すかもしれないな・・・・。

 

 

しかし アトリエ・ドリンカーになってしまいそうだよ。

コロナさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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