SHOKEI 'S TIMES -5ページ目

きもちいい日

 

今日は 晴れて 外は 

きもちいい

 

締切、間に合わず 

焦っているので・・・


 

箸休めというか 

猫描いて 気分転換

 

水彩クレヨンおもしろい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにも したくない日

 

なにもしたくないので

 

『なにもしない日』を

 

つくりたいなぁ

 

と思う。

 

 

 

 

 

なにか しているって

わけでも ないんだが

・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アマルコルド」を再び見る

   

             

                ジュリアーノ・ジェレン画

 

フェリーニの『アマルコルド』のDVDが発売されていたのをネットで

見つけたので 早速、購入した。

 

この映画は ずいぶん前に 映画館で見て 面白いと思い、VHSを買って

何度か見直していた。

特にストーリーが面白いというわけではないし、俳優がすごいのでも

ないのだが 見終えた後、なんとも気持ちがいい映画なのだ。

 

その後、映画がDVD化される時代になってからも『アマルコルド』は

なぜかDVDで発売されなかった。

 

https://youtu.be/FYAdCnGB9W8

 

 

フェリーニは昔から好きな映画監督の一人だ。

若い頃、漫画家になろうとしていた時があったらしく、勝手に 

ちょっと共感していた。

映画に関するイメージのスケッチや関係者の似顔絵なども巧みに

描いている。

またアンドロイドを愛する絶倫コメディ「カサノバ」や紀元前ローマ

の性的な「サテリコン」などを見ても発想自体が鮮烈でマンガ的だと

思うことがある。

 

 

      

フェリーニ「アマルコルド」画   ジョージ・マーフィ     リミニ在住者1939

 

      

女優 ルビー・ダルマス       大いなる賢女     未完成映画「Gマストリナの旅」の素描

   

    病院にて1993         古い友達の幸運を祈る1991

 

 

   

        オスカー               デ・チェルチスとアエテル

 

 

初めて見たフェリーニの映画は有名な『道』だった。

主人公のザンパノがジェルソミーナの死を知って悲しむ最後の

シーンが印象的だ。

ザンパノの悲しみを表しているかのような黒々とした海が背後に

広がっていた。

 

 

初期のフェリーニ映画は人生の悲喜劇が多いが『甘い生活』や

『8 1/2』あたりからどんどん自由に制作するようになったと思う。

 

その中でも気に入っていたのが風変わりな『アマルコルド』だ。

アマルコルドとは「私は覚えている」という意味だそうで

フェリーニ自身の少年時代の回想と想像を いくつものエピソード

で綴っている。

 

イタリアの小さな港町に住む15才のチッタという少年(フェリーニ

を思わせる)とその家族や友人たちの出来事や町の人々の出来事等

がコラージュのように展開される。彼らが主人公という感じはなく、

いくつものユーモラスでとりとめのない日常風景が 次々に流れてくる。

 

バラバラなようで それらが大きな時間の流れの中で一つにまとまって

いく。

 

こんな風に自分の回想と今を繋ぎ合わせるような 詩的で自由な絵画が

描けたらいいなぁと思う。

 

「アマルコルド」は映画というより映像による大きな叙事詩なのだろう。

 

 

フェリーニの映画は商業映画なのに観客に無理にわかってもらおうと

しないというか フェリーニ自身が自分のために好きなように作って

いる感じが好きだ。

 

フェリーニはインタビューの中で

「言いたいことがあるから映画を撮っている」と言う。

言いたいこととは 言葉では表せないモノも含んでいる。

そしてそれらは幼少期の記憶と多いに関係があると思う。

 

人は 知っているモノしか見えていない。

 

モノを「見て描く」時、忘れてしまったような

私だけの古い記憶とともに「見ている」と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[水彩人]第20回記念展 始まります

                                 

         

 

 

もうすぐ『水彩人』展が始まります。

 

27日(木)の初日は陳列作業等のため 開演は午後2時からに

なりますので お越しの方は 気をつけてください。

 

 

もちろん入場無料です。 気楽に見にきてください。

 

 

 

会場の受付に置かれる「水彩人目録」には全同人、会員による

手描きの表紙が付いています。一枚一枚を水彩で描くので大変。

今も初日に間に合わせようと せっせと描いています。

 

 

      

 

 

 

私は今回 3点を出品する予定です。

 

キャプションを印刷する関係で画題を7月に担当してくれる方

へ連絡したのですが 9月に入ってから急に制作中の作品を止め

描き直すことにしてしまいました。

それまでは 元荒川をモチーフとして『移ろいゆくものへ』を

描いていましたが 川辺のポプラに変更です。

その為、画題がちょっとヘンかもです。(たいした違いではないか)

 

ポプラは昨年の水彩人に出品しましたが大失敗してしまったので 

その再挑戦でもあります。

ポプラ(見たもの)から描き始めましたが、ポプラという意味を消

すことで画面全体を意識し直そうと思います。

その辺の屁理屈は また今度・・・

 

 

       

とにかく こんな近所の風景を元にして描き進めていきました。

      ポプラの風

 

この場所で言いたかった事は「こういう事だけではなかった」と・・・

初めてこの現場に立った時に感じた最初のインパクトをもう一度

取り戻そうと描いたり消したりいてみますが・・・

 

→ → 

 

 

 →  → 

 

 

→ 

 

 

 →  → 

 

 

 →  つづく・・・・ 

                                    

 

 ・・・てな感じで描き進めていましたが 時間切れ。

 

もっと洗って もっと消して 単純に省略していきたいのですが・・・

度胸と時間と才能がありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

孤立のイメージ

 

折野氏のブログで「『孤立』はいいぞ〜」という話が載っていた。

確かに私にも孤立願望はある。その度胸も力量も無いのだが・・・

 

「孤立」で浮かぶイメージは松本 竣介の《立てる像》のような作品

かもしれない。大地を踏みしめ正面を向く・・・自立って感じ。

 

         

         松本竣介「立てる像」1942

 

 

 

でも私が思う「孤立」はそんな堂々としたものではなく

小野竹喬の「一本の木」のような作品だ。

 

    

             小野竹喬  一本の木 1974

 

初春の微風の中で ヒョロヒョロっと伸びていって

流れる雲々を眺めている・・・行雲流水って言葉を思い出す。

 

この絵を見る度に 「これは小野竹喬の自画像だな・・」

って思う。

 

 

 

ブラームスの友人ヨアヒムのモットーで

「Frei aber einsam (自由に、しかし孤独に)」

という言葉があり、ブラームス自身も気に入って

「孤独だが、自由だ」と言っていたとか・・・・。

 

小野の「一本の木」も自由だが孤独そうでもある。

流れる雲を背に 楽しそうでもある。

 

自由にヒョロヒョロっと生きたいな。

 

 

 

昨年、水彩人で 木の絵を描いて大失敗をした。

 

そこで今年は もう一度、挑戦してみようと思い

今、空と木を描いているのですが  これまた危うし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水彩人の個人的雑感 2018

1ヶ月も前のことだが 水彩人の小品展を丸善本店のギャラリーで

開かせてもらった。担当の方々の尽力もあり、今までの小品展の中で

一番に充実した展覧会だったと思う。私の絵は相変わらずだが、他の

同人会員の方々の作品は 秋の本展よりも 各々が自分らしい力を発揮

していたと感じた。

水彩人にはこんなにも多様な作品を描く人が集まっていたのかと改め

て気がつくほどの小品展だった。

透明水彩だけではなくグァッシュ(不透明水彩)を使った絵心ある作品

から和紙やドーサを駆使した意欲作まであった。

 

しかし こういう動きを反対する同人がいた。

数年前からだが「水彩人は透明水彩画の会だ。」等と勝手に決めつけ

て吹聴する。そんな稚拙な分類はないだろう。

閉鎖的な純粋主義は 否定したいと思う。

 

水彩人は声明文にも挙げているように「水による最も単純で素朴な

方法で 絵画に豊かさを取り戻そうとする」勉強会のはずだ。

表現を志向する場に於いて画材を極端に限定したり、描き方までも

細かく指示するような事があってはならないと思う。

 

大事なのは「絵画の豊かさ」であり、水を使った単純な方法で追求

しようとしたら、その結果、透明水彩が主流になった というだけで

あって「透明水彩でなければダメだ。」等と強制すべき事柄では

ない。「滲み」「暈し」「白抜き」等に委ねた透明水彩絵の具の

サンプルを作ろうとする運動体ではないと思う。

 

水彩人の初期の頃にはアクリルで描く人もいたし(・・今はアクリル

は禁止になってしまったが〜) グァッシュの画家を招待作家として

迎え入れていたこともあった。

水彩人の『声明文』には 透明水彩という言葉は一切書いていない。

 

多様であっても「水彩人」の水彩画だと言えるような身体感覚的な

価値観を大切にすべきだと思う。

 

 

水彩人は今年で20回展になる。

時とともに同人会員数も増えてきて纏めていくのも大変だと思う。

どんな会でも団体となるとヒエラルキーや政治的な動きが生じて

しまいがちだ。

水彩人は いつまでも個人の集まりであって大衆化したくないと

願っている。

 

公募展の最大の欠点は審査による合否があるので応募者や会員は 

その公募展の姿勢(傾向)に合わせた作品を作くろうとしてしまう

ことだ。

 

また水彩人では「賞」を設けていないが これも同様な理由から賞を

設けることに反対している。

 

広く自由に水彩画を描いていきたいのだから閉鎖的な純粋主義には

したくない。(しかし安易にミクストメディアや油彩を意識した厚塗りを認めようという

のではない。)

 

水彩でしか現せない表現を「既成の水彩画スタイルにとらわれず」に

求めていきたいと思う。

 

そして お互いのエゴイズムを認め合えるようなグループでありたい。

その為には コミュニケーションも大切なことだと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絵葉書用の作品制作

子供の頃、よく迷子になりました。

絵を描いていると迷子の時の気持ちが蘇ってくることがあります。

「たしかこの道で家に帰れるはずだ。」と進むのですが 

どんどん知らない町になってしまいます。

 

「絵は感性だ」という一面的な考え方には反対ですが 

感性でもって手探りで進むしかないものだと思っています。

 

実際は 藁をも掴んで・・沈んでいく・・感じが多いのですが・。

 

疲れて描き終えると毎回のように「こんなはずではなかった」と反省。

 

 

絵は最初のイデーが大切で それがその絵のゴールに一番近いと

考えています。

(具象の場合も同様でディテールに拘り過ぎるとドロ沼になる)

 

 

今年も「水彩人」展が近づいてきました。

会場に置かれる絵葉書用の作品の締切が 8/15でしたので 

先ずはこれを描いていました。    案の定、ドロ沼化。

 

 

 

モチーフは昨年の「風に動く2017」と同じ鴨場ですが 

昨年の場所から少し離れた林にしました。

  

          

           これは昨年の「風に動く2017」


現場で簡単な写生をしていると 異様に密集した林が

音も無く動き、風の中で息づいているように見えてきます。

自律神経で動く巨大生物の内臓のようでもあり、何かの予兆の

ような感じもしてきて面白いと思いました。

 

    

 

それらを元にしながら自分の絵として平面に置き換えて

作り直そうと思いました。

写すのではなく、作る品なので「作品」。

 

 

  

初めから悩んでしまった

 

   

洗いながら考えている

 

   

行き詰まる            思い切って洗ってみた

 

   

ますます迷子           モヤモヤ

 

迷って描いていたら 迷った絵になってしまったが

迷っていたのだから しかたがない。と諦め、一応おしまい。

 

私は透明水彩を使いながらも その中でも白が混じったような

不透明な色を多く使うし、混色もバンバン反対の補色を混ぜる。

サラッと描いた水彩を見るのは好きですが サラッと描くのでは

自分として満足できません。油彩でも水彩でもゴシゴシ描きたい。

 

絵葉書用に描きましたので 後は印刷屋さんがキレイに刷ってくれますように・・・

 

 

 

 

第20回記念展は 9月27日(木)から10月5日(金)まで

上野の東京都美術館にて開催します。(10月1日は休館日)

 

 

その時には もう少し説得力のある作品を発表できるよう

頑張りたいと思いますので 是非ご高覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒と肴と絵と

志ん生に関する動画を見ていたらナメクジ長屋に住んでいた貧困時代、

酒の肴は毎朝、売りにくる「納豆か味噌豆」だったと長女の美濃部美津子

さんが話していた。

そこで貧困な私も ちょいと真似をして大粒納豆をスーパーで買ってきて、

箸で一粒ずつ口に運びながら、冷した日本酒をチビると これがなかなか

素朴に合っていて美味しく飲める。

 

以前は夜中に一人で 蕎麦ガキをコネコネしてみたり、チーズを餃子の

皮に包んで焼いたり、いろいろ実験するように肴を探していたのだが 

ちょいとメンドクサくなっていた。

その点、納豆はタレや醤油を入れなくてもOKなので とても簡単だし、

(その日気分で「青じそドレッシング」や「ゆずポン」を少々入れたりしているが・・・・)

マズシイ感じも楽しめて気に入った。(まぁ・・味は想像通りなんだが美味しい)

 

 

酒のことを語ると さも酒が強そうに思われるだろうが、普通の人より

弱い方だと思う。少量でもすぐに酔ってしまう体質なので量は飲めない。

しかし 酒を美味いと思うし、ほろ酔いの感じも好きなので いろいろな

種類の酒を集めては毎晩チビリチビリ楽しんでいる。芋焼酎からジンや

ズブロッカ等々。中国の白乾(パイカル)だけは ど〜も苦手だけど。

 

 

今年の七夕の夜には、南房総に住む先輩というか親しくしてくれる方

の家に泊めてもらい、御馳走になった日本酒がちょっと変わっていた。

「香取」という銘柄で精米歩合が90〜80%にとどめた言わば玄米酒で 

自然な雑味の癖のある酒で 初めのうちは少し気になったが徐々に好き

になってしまった。

 

           

 

知人のそば屋の息子が「本物の蕎麦粉で作った蕎麦はエグ味?があり

一般受けがしない。巷の立ち食い蕎麦等は 蕎麦風味付きのうどんだ。」

と言っていた。

エグ味とか雑味とか 本来あるべきものが敬遠されてきているのは飲食物

に限ったことではなく文化全体にわたっているように思う。

 

 

南房総から帰った後、すぐにネットで「香取」を調べてとりあえず、3本

を購入した。友人らにも飲んでもらおうと思って多めに買ったつもりだが 

いつの間にか飲んでしまったみたい・・・。

 

 

最近は絵を描く前に ちょっとだけお酒を飲む事が多い。少しだけでも

飲むと日常の煩わしさが気にならなくなり素直に絵に向かえる気がする。

 

それに気が小さいので真っ白なキャンバスや水張りしたばかりの水彩紙

を前にすると怖じ気づいてしまい、描き始められずにいることがある。

そんな時などに ちょっと飲む。ほんのちょっとだけ・・・

 

調子にのって飲み過ぎると 気持ちばかりが先走ってしまうようで

酔いが醒めた翌朝に見直すと ビックリしてしまう事もある。

 

酔いどれ画家の長谷川利行のようには描けない・・・

 

    臨場感というか動いている空気感が いいんだょなぁ〜

 

                               

      長谷川利行/ 新宿風景            長谷川利行/タンク街道

 

 

夕方、写生に行く時も ほんの少しだけバーボンかテキーラを飲んで

出かけると、夕方の光や色が鮮明に見えてきて嬉しくなってしまう。

描こうとする風景に溶け込み すぐに一体になれるようで感じがいい。

 

そもそも 絵に限らず アートと呼ばれているものの多くは

日常から離陸しているものだろうと思う。

描く人も見る人も ちょっとだけ浮かびあがりたいのだ。

 

それに普段に思い込んでいる自分自身からも少しだけ離れたい。

明るい虚無感と言おうか・・・無常観というか逃避快感というか・・ 

 

 

お酒を飲みながら難しい本(哲学とか)や詩集などを読むと意外と

クリアになっていて「なるほど なるほど。こういう事なのか」と

わかったりする。

集中力が増すのだろうか・・・と

 

しかし翌朝、醒めてから昨夜の理解を思い出そうとしても 何を思って

「なるほど なるほど」と言っていたのかも すっかり忘れてしまって

いる。なにか凄く大事な事に気がついたような気持ちだけは残っている。

 

つかの間でも「わかったぞ」という夢心地になれるのは楽しい。

 

 

また酒を飲むと 忘れてしまった「正解」を思い出すかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガ〜ン ときた

 

15年ぐらい前だったか 雑木林の中で写生をしていたら頬を虫に

刺された。

痛くてかなり腫れたのだが 気にせず、ほっておいたら

大きなアザになってしまった。

このアザが 今年の4〜6月頃、野外で写生をしていたら 

再び赤く腫れてきて、びらん状になってしまった。

 

ちょっと心配になり 急いで近所の皮膚科で診てもらったら

「これは うちではわからない。大学病院に行ってくれ。」と

紹介状を渡された・・・。

 

皮膚癌かもしれないということか。

 

翌日、大学病院に行くと 若い女医が写真を何枚も撮り、

生体を切り取り検査することとなった。

カルテには「日光角化症の疑い」と書かれていたが・・・

これは皮膚癌の始まりらしい。

 

検査結果を待つことになった。

 

 

知人の中には「そんなもの切り取っちゃえば治るよ」とか

「体の外側で良かったじゃないか。」等と簡単に言う人もいたが、

やはり当事者としては 癌は恐い。

 

私の両親は癌で亡くなっているし、昨年は高校からの大親友を

二人も癌で亡くしている。その前の年にも後輩が癌で亡くなって

いるし、今でも闘病中の友人が数人いる。

 

とうとう順番が回ってきてしまったかな・・・と。

 

 

 

数日後の検査結果は セーフのようだった。

 

「今は悪性ではないが そのアザが今後、赤くなったり大きく

なったら癌なので すぐに診察に来て下さい。」と予約票を渡された。

 

なんともシリ切れの悪いケツ末。

 

 

しかし 癌と言われたら やはり死を考えてしまう。

他人事のように思っていた世界が一時、具体的に近づいた感じがした。

 

死に纏わる歌がヒットしていたのを思い出す。

 

 

『千の風になって』や『いつも何度でも』などだ。

『千の風になって』の原詩はアメリカのメアリー・フライの詩を

新井満が和訳したものらしいが 某宗教団体から批判されていた。

 

『いつも何度でも』は覚和歌子が作詞、木村弓が作曲しアニメ

『 千と千尋の神隠し』のエンディングテーマとしても有名になった。

 

   〜ゼロになるからだが 

    耳をすませる

    生きている不思議 

    死んでいく不思議

    花も風も街も 

    みんなおなじ〜 

 

と歌っている。

 

私は その「ゼロになるからだ」という言い切った表現が気に入って 

覚和歌子の著書を読んでみたが 逆にだんだん熱が覚めてしまった。

「あとがき」の谷川俊太郎の方が一枚、上手という印象だけ残った。

 

覚和歌子はこの詩を書いた時に 何か大きなものと繋がって

涙が止まらず、一気に書き上げたという。

 

私は 宇宙や大きなものと繋がったり、天から何か降りてきて描いた

(書いた)と誇らしげに言う人は 嫌いだ。

そういう経験は誰にでもあるものだ。

そういう感覚が続くから多くの人は 描き続けているのだろうと思う。

 

 

画家マティスは「制作中の私は 神を信じている。自分の力以上のこと

をさせてくれる何者かが 強く支えてくれている感じがする。けれども、

それは、まるで私をだまそうとしている奇術師の手の前にいるような

ものなので 私は彼に感謝する事はできない。

それゆえ 私の努力に対する褒美であったはずの経験からの利点を

奪われた気がする。」と言っている。

 

 

話がそれてしまったが「死」というものを 目の前にした人にとっては

『千の風になって』や『いつも何度でも』等の歌には共感などしない

だろう。

現実はもっと重くリアルなものとして迫ってくると思う。

 

どちらの曲も健康な人の「驕り」というか高みの見物をした人の綺麗事

のように思えてしまう。

 

本当にリアルなものは なかなか大衆に受けいられない。「〜っぽい」

が丁度いいのだろう。

ピカソの青の時代の貧しい人々を描いた作品はブルジョワが喜ぶもの

として作られたという。

本当の貧困には目を背けてしまうが、高みの見物なら歓迎されるわけだ。

 

本物ではなく’本物のように思えるもの’の方が どの分野でも大衆には

受け入られていると思う。

 

絵画に於いても同様なことが言えまいか。

オシャレな絵を求めている人には 本物は重すぎるのかもしれない。

「ゴッホより 普通に ラッセンが好き〜っ」という世の中になった。

 

 

また 現実に目を覚まさせるのも芸術だが、目を背けさせて

一時の安らぎを与えるのも芸術の役割の一つなのだろうと思う。

 

その意味では どちらの曲も多くの人々を個々の悲しみから救った

名曲なのかもしれないのだが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また絵と言葉

 

「水彩人」が始まる前のことなので もう20年以上も前のこと。

誰が言い始めたのか 覚えていないが、毎月の第一金曜の夜に

「絵の話をしよう。」と5〜6人の仲間が集まるようになった。

川村さん、笹村さん、三橋さん、大原さん達だ。

 

銀座の『あづま』という小さな和風ハンバーグの店で 毎回、

夕方から会うことにしていた。

狭い階段を下りた薄暗い地下の奥のテーブルで ビールを飲み

ながら 最近見て感動した作品や水彩画のこと等を話した。

とても楽しい集いだった。

 

感動した絵の話や好きな画家の話を親しい人とするのは楽しい。

刺激を受け興味を広げたり、共感を得られたりする。

 

また このように絵の話をする事で 絵の見方にも影響がある。

感動したものを言葉にするために一度鑑賞した後に再度、意識的に見直すようになった。

 

絵を見て感動した時に その気持ちをすぐに言い表せなくても

何か言葉で表そうとするだけでも記憶に残るし(意識化) その

言葉から更にイメージが広がることもある。

 

絵に言葉は不要という人は多いが 

私は大切にしたいと思う。

 

 

動物行動学者の岡ノ谷 一夫氏が

「私たち人間の感情の 細やかさでさえ、『言語』が可能に

してきたものかもしれない。

芸術は そのような感情の細やかさに支えられて進化した。」

と書いている。

 

 

上記のように絵を考える時に言葉は必要だと考えているが

「絵に言葉は不要だ。」という考え方も正しいと思っている。

 

矛盾するようだが、近代以降の絵画は、説明としての「言葉を

省くこと」で成立していると思う。

絵画は言葉で表せないモノを描こうとしているので 言葉による

限定は絵画の広がりを奪ってしまいかねない。

 

だから言葉は不要とも言えるし、言葉は必要だとも言える。

 

禅に於ける「不立文字」のような関係なのだろう。

禅宗の教義は、言葉ではなく体験によって体得するものこそ

真髄であるという禅宗であるが 教義に関する書物が一番に

多いのは禅宗だそうだ。

言葉で勉強しても悟れないが、悟る為には学習は必要だという。

 

こういう矛盾は詩でも劇でも 殆どの表現に当てはまると思う。

その矛盾率は大きいほど いいと考えている。