SHOKEI 'S TIMES -6ページ目

モチーフから見られる考

子供が夢中で絵を描く、

笑った顔の絵を描く時 子供の顔も笑っている。

怒った顔を描く時には 怒った顔になって描いている。

何でもない事なんだが 

これは絵の基本なのだろうと思う。

 

描こうとするモノ(相手)になりきることが重要だと考えている。

 

相手の立場にいること。

相手側から自分を見ること。

それをまた見て描く。

 

 

私が子供を見ている時 

見られている子供は 私を見る。

子供のそのまなざしによって

私は私自身を見ることになる。

 

「対幻想」とは このような事なのか・・・

 

私が子供だった時、

親は私を見ていた。

親のまなざしは私を通って

再び親の目に戻って(映って)、  

親は親である自分を自覚していたのだろう。

 

 

詩人の杉山平一に『繰り返し』という詩がある

 

  カチカチカチカチ

  時はきざんでいるが

  進んでいるのではない

  繰り返しているのだ。

 

  父は私であり

  私の子は私だ

 

読んだ時、「なるほど・・・」と

なんとなく納得した気がした。

 

 

小さな子供が目の前で転ぶ

自分がその子供だったら 

かなり痛いだろうと 

その子の立場に立って

感じたり思うことで 

「心」は生まれ 育つ。

 

相手(人間だけでなくても)がいることで「心」が生まれる。

心も優しさも もともと自分の中に有ったものではない。

 

相手がいることで心も言葉も生まれる。

 

絵も そんな関係から生まれたものだと考えたい。

 

 

自分が相手(対象)の立場に立ったり その相手になりきることで

見えてくるものがあると思う。

 

風景画でも静物画でも こちらから見て描くだけではなく描こうとする

対象からも見られている自分を意識することが大事なのではないかと思う。

 

その為には先ず その対象のことを熟知し、自分と近しい関係で

なくてはならない。

 

 

つまり描こうとするモノが自分にとって「身体性」を持っているという

ことが重要と思う。

絵のモチーフとして選びたいのは 身体の延長だということ。

 

履き慣れた靴は 履いている事を忘れてしまうほどに 身体の延長

になっている。

同じ種類の靴だが 間違えて他人の靴を履いてしまった時の違和感

は誰しも経験があるだろう。

同じ形をしていても自分にとっては全く違う存在なのだ。

 

ゴッホの「靴」の絵は労働の靴としてゴッホの延長なのだろう。

 

 

「いい絵を描こう」とするのではなく、その絵を描く意味や個人的価値

を大切にしたいと考える。

 

履き慣れた靴のように他人にはゴミであっても 、自分にとって

かけがえのない延長としての存在がモチーフになると思う。

 

 

知らない土地の始めて見る風景は ただの対象物でしかないし、

新たに目の前に用意された静物も 単なるモノでしかない。

そのような身体性をもたない対象からは 見られる事はないし、

そこに自分自身を見ることは出来ないだろう。

 

 

 

画家アンドレ ・マルシャンが

「森の中で 、私は幾度も 私が 森を見ているのではない 

と感じた。

樹々が私を見つめ、私に語りかけているように感じた日もある・・・。 

私は、といえば そこにいた、耳を傾けながら・・・。

画家は世界によって貫かれるべきなので、世界を貫こうなどと

望むべきではないと思う……。

私は内から浸され、すっぽりと埋没されるのを待つのだ。

おそらく私は、浮び上ろうとして描くわけなのだろう。」

と言っている。 

 

セザンヌにとって晩年のモチーフのセント・ヴィクトワール山は、

幼少期からゾラと一緒に遊んでいた具体的によく知っている

自分の延長としての風景なのだ。

だからこそ セザンヌはセント・ヴィクトワールを見る事で 

山からも見られる自分をモチーフにしたのだろう。

 

 

当然のことだが描くためには 対象をよく知ること。

そしてその対象からの「まなざし」を受け取ることから

始まるものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

疲れたぁ〜

 

「疲れたぁ〜。」と言うと

「いつも 疲れた疲れたって言うね。」と注意される。


爺ぃ特有の蓄積疲労を理解してもらえない。

 

しかし、確かに「疲れた〜」が口癖になってしまった・・・

 

 

「疲れ」は 年寄りだけでなく若い人でも 3日後に出るとか

TVで言っていた。

つまり日曜日に遊びすぎた人は水曜日の午後に疲れが出て

眠くなるそうだ。

 

そう言われれば 確かに水曜日の午後は眠いように思えるが ・・・

私の場合いつも眠いので この説には半信半疑でもある。

 

しかし私の周りの人も疲れているように見える。

疲れていない人なんか いないんじゃないのか。

みんな疲れている。

日本中、疲れているのだろう。

 

 

         

                        『眠れない水』(2002年)shokei

 

 

そこで疲れている時に聴く音楽を考えてみる。

 

クラシックだと

先ずガルッピのソナタハ長調1楽章(ミケランジェリ)とか

シューマン『森の情景』より「寂しい花」(ケンプ)のような

簡単な旋律が淡々と続くのがいい。

 

時が静かに通り過ぎていくような感じの曲に

身を任せるのが好きだ。

 

アルベニスの「タンゴ」(J・ウィリアムス)やメンデルスゾーンの

「ヴェネツィアの舟唄」(シフ)などに揺れているのもいい。

バッハのフランス風序曲(ロス)やイギリス組曲6番(グールド)も 

光や風がモザイク状に広がっていくようで癒される。

 

 

ジャズではテナーサックスが疲れた心に気持ちよく染みてくる。

うまくて安定感のあるズート・シムズや無愛想なデクスター・

ゴードンから元気をもらう事も多いが、もっと疲れてしまった時

にはベン・ウェブスターの登場となる・・・。

 

最近はベン・ウェブスター級の重い疲れが続いている。

 

ベン・ウェブスターのテナーサックスは まるで肉声というか

大男の囁きのようであり、大きなスピーカーから流すと 

空気の振動を聴いているように思えてくる・・・。。

 

 

若い頃は こういう激しいビブラートを使う黒人っぽい演奏が

嫌いだった。

 

ブゥワゥウァウァ〜と揺れるため息のようなテナーを聞くと

夜のムード歌謡のような気がして拒絶していた。

 

これはサムテイラー「ハーレムのノクターン」等の影響が

あったのかもしれない。

 

演奏家や楽曲が悪いのではなく、TVや映画での妙な使われ方

に問題があったのだろう。 

 

ラフマニノフのピアノ協奏曲も好きな曲だが、映画『逢い引き』

に使われていたのを知ってからは 恋愛映画の音楽のように思え

てしまう時がある。

またショパンの前奏曲7番の太田胃散やオッフェンバッハの

文明堂等々・・

聴いていると ふとCMのイメージが浮かんできてしまう。

 

この変な先入観はなかなか払拭できなくて困ってしまうことが

多い・・・

 

 

で・・・疲れた時には・・・・

最近はCMで聞かれなくなったが

バド・パウエルの「クレオパトラの夢」でも聞きながら

ビールでも飲むかな・・・と思いCDを探す。

 

あのCMはサッポロビールだっけ?

 

結局、聴く前に 

飲んで寝てしまったり・・・

 

歳だな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

熊谷守一の映画?

 

今夕、『モリのいる場所』という映画を見てきた。 

 

水彩人の笹村出さんのブログに載っている記事を見て画家の熊谷守一を 

モデルとした映画があるのを知ったからだ。 

 

実際の熊谷守一自身のキャラは 凄く濃いので、演じる役者は きっと 

大変だったと思う。 

 

演じたのは山﨑努で 妻の秀子を演じたのが樹木希林。どちらも好きな 

俳優で期待通りの熊谷夫妻になっていた。 

 

 

映画としては 監督の沖田修一の独自な熊谷守一観は感じられず、

一般的な 熊谷守一像をなぞるだけで・・・、 とはいえ客観的に熊谷

を再現しようとするわけでもなかった。ちょっと残念に思えた。

 

鑑賞者が見たいのは熊谷氏の人間としての真実だが 映画の中の

熊谷守一は 既に著書などで表されているエピソードの寄せ集め

だったり、「仙人」とか「天才」と言われる外的な雰囲気だけで

つまり、「見られてもいい熊谷守一像」ばかりだったと思う。

 

また熊谷の残した言葉などを忠実に使っているが、絵画作品はあまり

映画の中に登場してこない。熊谷本人には興味があるが描かれた絵は 

あまり好きではないのかも・・ 本気で好きならば「この絵のここが

好きなんだ」というようなワクワク感が伝わってくると思うのだが

 

 

しかし伝記映画というものは難しいと思う。 事実に基づいて撮るか、

伝記を利用して自分の映画として作り上げるか ・・・は大きな問題

だと思う。 

絵に於けるモチーフの意味の問題に似ているし、原作を使う映画制作

の 場合とも似ていると思った。 

 

『惑星ソラリス』に於いて映画監督 

タルコフスキーと原作者スタニスワフ・レムとの大喧嘩('65)を思い出す。 

タルコフスキーは後者であって、 レムの所謂SF小説を材料としたが

独自の解釈から心理的な問題を引き出し、深い映画に昇華させたの

だと思う。 

 

今回の『モリのいる場所』では あまり重要とは思えない幻想シーン

や ドリフターズのギャグ等を引用する「映画作り」の楽しさの表現と 

リアルさを求めた伝記映画との間で未消化な後味を残していると

感じた。 

 

それにしても 熊谷守一の家や庭の存在感、そして山崎らの熊谷守一

と秀子の夫妻は とても面白く思えた。

 

 

 

 

 

でも やっぱ本物の熊谷守一が好きだわ。

 

 

 

 

 

 

 

私と絵と音楽と





音楽が好きでいろいろなジャンルを聴いているが
ここ2〜3年は 再びクラシックを聞くことが多い。

昨年はメンデルスゾーンだったが、今年はシューマンだ。
淡々とイメージ膨らむ「森の情景」や多彩で自由でヘンテコな
「ダヴィッド同盟舞曲集」をよく聴いている。

クラシックというと教養の為とかBGMとして聞く人も多くいるが、
私の場合は そうではない。
もっとのめり込んだオタク的な聴き方をしている。

作曲者の意図を想像したり、演奏者の考え方や癖などまで気に
しながら聴くので CDだと何枚も聴くことになってしまう。
落語の演目のように 誰がどのように曲を解釈して
自分の表現にしているかを聴きたい。

鮮やかなル・サージュやしっとり繊細な内田光子もいいが、
一見、なんでもないようなケンプの演奏が一番好きだ。
ヘンテコな曲はヘンテコに弾いている。


音楽を絵の制作や見方と重ねて聴いていることが多いので
ケンプの演奏を聴いていると 「こんな風に絵も 誇張することなく
自然に描けたらいいな。」と思ってしまう。


私は 面白いと感じるとその曲ばかり、何度も繰り返して数日間
聴きまくる。
食べ物でも気に入ると飽きるまで食べてしまう。 抑制力が弱いと
いうか幼児性なのかも・・・。

其ほど読めもしないのに 楽譜を取り出してきては 聴きながら
目で追いかけてみたりもする。
マーラーの6番やR.シュトラウスのツァラトゥストラのように
音(和音の第3音)が半音上がったり下がったりするだけで
フレーズの途中でも 長調が短調に変わったりするのも面白い。

絵の具だと黄色は暖色なのに青みを含ませたレモンイエローに
なると寒色になる。また青は寒色なのに僅かに赤みが加わると
温かくなるのにも似ていると思ったりする。


ピカソが『誰もが芸術を理解しようとする。ならば、なぜ鳥の声を
理解しようとはしないのか。』と言うのは一般向けの方便だろう。

鳥の声は自然物だが 絵画も音楽も人工物であり、人工物としての
面白さを堪能したいと思う。
写実絵画を見る時もカメラではない人間の目が見て人間が描いて
いるから意味がある。

人が作り、人が奏でたり、描いたりした事を楽しむのであって
自然崇拝の代わりではない。

人間は大昔、言葉を使い始めてから一人ではなくなってしまった
と言える。
独り言であっても もう一人の自分との対話になるだろう。
人に見せない絵も もう一人の自分に向けての「 問いかけ」だと思う。
絵は「答え」ではないし、啓蒙でもない。

相手のために描くのではないが 相手は必要だ。
そして その相手の向こう側にいる自分に問いかけている。


表現されたものを見たり聴いたりする喜びは その作品の裏にある
人間や自分に興味があるからなのではないかと思う。

つまり人間の社会とか人間関係の煩わしさは大嫌いだが
人間そのものはきっと好きなのだ。

また 絵でも音楽でも 映画などもそうだが、 鑑賞者は大勢の中に
いても 作品を見る時は、一人になれる。

鑑賞者は 作品と一対一で向き合える、その関係、
その時間の大切さを知っている人なのだと思う。





にぶい意味〜4

 

「にぶい意味」という言葉は 先のロラン・バルトの晩年の写真論の

『明るい部屋』』(1980)の中に出てくる。

 

正しくはプンクトゥムと言うようで、一般的な概念の体系を揺さぶる

ものであり、コード化不可能な細部を発見してしまうような経験だと

いう。

また写真が「コードなきメッセージ」であることを主張し、写真の

言表しがたいものを「にぶい意味」といった言葉で説明したようだ。

 

 

撮った写真を後で見た時、意図していなかったものまでが画面に写り

込んでいることがある。そして それが写真に別の意味を加えていたり

することがある。

 

 

学生の頃に見た映画にアントニオーニの『欲望』がある。

(原題は『ブロー・アップ(blow up )』写真を引き伸ばすという意味

だし、内容もサスペンス?なのだが、邦題は「欲望」とは・・・・・

誤解されそう・・・ それに こんなパッケージ、ポスター・・・

 

               

                

 

 

カメラマンのトーマスが 公園で戯れているカップルを盗撮する。

スタジオに戻り現像し、壁に大きく引き伸ばして見ると自分が撮ろうと

したカップルの後方に偶然、死体らしきものが写り込んでいて殺人事件

を発見し驚く・・・というような始まりだったと思う。

 

 

カメラマンでなくとも 絵を描いている時も 画面上で次々に起こる様々

な意図していない出来事に驚かされる。また制作中に気がつかなかった

事を発表した後に友人から指摘されるも多い。(展示の意味) 

 

私の場合は その思いもよらぬ小さな失敗を繰り返し、それを修正

していく過程が「制作」に繋がっていると考えている。

 

時々、「水彩画は 失敗出来ないから難しいよ。」等と言う人が

いるが私には あまり関係ない。

勿論、 表現によっては失敗が許されない場合も多々あるうるので 

これは私個人の考え方にすぎないのだが・・・。 

 

余談だが この「欲望」という映画は「さすらい」等の他の

アントニオーニ作品に比べると 60年代らしい理屈っぽさを

感じてしまう。

稚拙なコンセプチャル・アートみたいな「比喩の謎解きゲーム」

の表現は鼻につく。

 

しかし 主人公が骨董店で古いプロペラを買うシーンは

「なるほど〜」と思うことがあった。 

美しいものが「芸術」になるための条件とは「目的の欠如だ」

と言っている。 

 

目的や機能があるものは「芸術」ではない。

(デザインやイラストには 目的やメッセージや機能が必要)

 

ピカソのゲルニカが政治的なメッセージだと言われるのは 

絵を見ることが出来ない評論家や大衆の戯言だ。

 

    

 

ピカソがモチーフとし選んだのはスペインの内戦だが、それは単なる

動機付けにすぎない。描きたかったのは現実の政治的な内戦ではなく、

もっと形而上学的というか普遍的な人間の争いや悲しみだろう。

それに 「ゲルニカ」の素晴らしさは その具体的な対象を完全に

線と色の抽象された表現にしてしまったことだと思う。

 

メッセージが必要ならば絵空事としての抽象にしないで アンドレ・

マルローのように自ら義勇兵となったり、言葉やドキュメント映像

などに託すべきだろう。

絵画は日本の戦争画のように惨事を美化してしまうおそれがある。

(サルトル「特権を持たぬ画家」参照) 

 

ピカソの他の作品を見てもピカソに政治色は少ないのがわかるだろう。

「ゲルニカ」以外にもピカソには政治的メッセージと言われる

「朝鮮の虐殺」(1951)がある。

  

     

 

これはゴヤの「マドリード1805年5月3日」や

 

     

 

マネの「マキシミリアンの処刑」

  

      

 

からの絵画的な引用であり、ピカソ流の変換だ。

 

それに「朝鮮の虐殺」では歴史的な惨事を 女対男、妊婦対性欲の

ようなピカソの関心事にしてしまっている。

 

 

絵に存在価値があるとすれば、現実的で外的な事ではなく、もっと

個人的な内面的な働きになるのだろうと考える。

 

絵画は、社会的にはナンセンスで役にたたないから

素晴らしいのだと思える。

ナンセンスは大切な事だ。

 

ナンセンスや虚無やアンビギティ(曖昧さ)は、人々の心を解放

させてくれたり 忘れていた真実に気づかせてくれるものだと思う。 

 

自然を見て心安らぐのは、自然にメッセージがあるのではなく 

見る側の勝手な思い込みでしかない。

同様に絵を見て 癒されたとか励まされたと感じるのは鑑賞者の

問題であって、作り手は いつも個人的な「疑問符」を追求する

だけだと思う。


 

 

ピカソは自分が個人的に描きたい事を自分の為に描いた。

人々の為に描いたとは思えないから いい。

 

 

 

 

ちょっと飲みながら 久しぶりに書いたら

支離滅裂になってしまったので ・・・・一先ずおしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アップデートしたらLINEが

 

4月19日の夜に携帯(Xperia)の指示通りにアップデートしたら

 LINEが起動できなくなってしまいました。

 

ネットで検索したら私以外にもXperia使用者のたくさんの方が 

アップデート後にLINEが突然に出来なくなっているようです。

 

そこでネットに出ている修正方法を一つずつ あれこれと試して

みましたが 全く動きません。

 

・・・・

 

しかたがなく一旦、 アンインストールをすることにしました。

残念。

 

そして新たにインストールをやり直して、最初からLINEを始める

ことにしました。

 

その結果、先日までLINEだけで繋がっていた所謂、LINE友達の

皆さんの名前が消えてしまいましたので 一応、お知らせしておきます。

 

こういう場合、他の人は どうやって解決しているんでしょ?

 

私みたいに ボーッと 世の中ついでに生きている方は要注意かもです。

 

今回の件を思うと

今後、アップデートのお誘いがあると

その度に ちょっとビビりそうですぅ。

 

 

 

 

 

 

なんちゃって「タグ」   にぶい意味-3-

今週末から油彩画のカルチャーで数回にわたり「抽象画を描いてみよう」

というカリキュラムを組んでみた。

 

これは初めての試みだし、たった数回で抽象画が理解ができるわけがないが

(私も理解できているとは言えないし〜)

具象画を学ぶ上でも抽象画を体験してみる事は 無駄にはならないと考えた。

 

食わず嫌いのように抽象画を 〈わからないもの→つまらないもの 〉として

否定する事も また逆に安易なものとして取るに足らぬものとしてしまう

のも残念に思う。

 

それに昨今の巷では「なんちゃって抽象画」が氾濫しているので

ホンモノの抽象画とその「なんちゃって」との違いに気がつくようになって

もらいたいと思うからでもある。

 

ここで使う「なんちゃって」というのは、言いたいことも無いのに表面的な

テクニックや色彩や構成だけで いかにも既成の抽象画らしく仕上げた絵の

ことだ。

また「抽象なんて感性だけで好きに描けばいいのよ。」という稚拙な考えで

描かれた抽象画も同類だと思う。

 

しかし、抽象画でも具象画でも どこかで見たことのあるような真似をした

「なんちゃって作品」の方が、世間から高い評価を受けることが多いのには

残念に思う。

 

「どこかで見たことがある。」は「わかりやすい」に繋がるからだろうか。

 

 

抽象画に於いて個々の意味を「わかりにくく」描くことは 抽象画の方法の

ひとつの大事な描き方であり、そうする事で鑑賞者を部分的な意味や見方から

解放させて、画面全体からしか表せない事を見せようとする。

 

「わからないもの」として直ぐに否定されてしまったのでは何も始まらない。

 

具象画だってモチーフはわかっても、作品の真意はわからないから広がりや

深みが見えてきて面白いのだろう。

わからなくとも わかろうとする事でその世界に入れる。

 

 

哲学者の池田晶子が「自分にわからないことは間違っていることだと

反論に努めるのは、自分を賢いと思っている馬鹿だ。」と言い切っていたが、 

抽象画を毛嫌いする美術愛好家に対しても近いものを感じることがある。

 

 

そこで今度のカルチャーだが 具体的にどうやって進めたらいいのか・・・。 

抽象画の歴史や成立の意味などを少し講義しながら 奥行き空間の変遷などを

順序よく説明すべきなのか・・・

 

上記で、批判しておいてなんだが この「なんちゃって抽象画」を取り入れた

物真似演習から始めてみる方が興味をもってもらえるかなぁ・・と考えている。

 

そして 生徒さんからの質問疑問に答えながら進めていくしかないかな・・・。

とにかく・・・ムズカシクなりそう・・。

 

 

 

この「なんちゃって」というのは、謂わば「タグ」の一つだ。

「タグを貼る」というところのタグのこと。

 

ここまでが前置きで ここからが今回、書こうとしている「タグの話」。

 

この「タグ」のことを構造主義では「コード」と言う。

 

 

絵を観賞する際に「この絵はピカソみたいだ。」という時は 「ピカソ」

というタグ(コード)を貼って見ているわけになる。

 

制作者の方も制作過程の中で いくつものタグ(コード)を組み合わせて

織物を織り上げるように作品を作ることがある。

 

そして観賞者はこうやって作られた作品を前に いくつものそのコードを

読み取ろうとすることになる。

 

例えば フォルムはピカソ風で、線はルオーのように力強く、色彩はボナール

のような場合は・・・「ピカソ」と「ルオー」と「ボナール」がコードとなり、

そのの組み合わせで作品が作れている事となる。

 

 

こういう描き方や見方は 全く否定したいが 認めざるをえない

ところもあるだろう。

(歴史も文化も全否定して制作することは不可能だろうから〜。)

 

 

ロラン・バルト(1915- 1980)という人はそうやってコードで作られた

作品や読まれる作品を「テクスト」と呼んだ。

 

絶対的な「自己」が作品を作るのではなく、コードの織り合わせで作るので

「作者」という意識も「個性」などという概念も不必要になってしまう。

 

バルトのこの「テクスト論」は多くの人に迎え入れられ影響を与えた。

 

 

 

そんな事を背景にして出現してきたのはポップアートだった。

 

アンディ・ウォーホールが 「もう個性はいらない。作り出すのでなく

既製品を引用してくればいいだけだ。」なんて言ったりした。

70〜80年代の日本の前衛画家たちの中には その言葉をそのまま真に受けて 

既製品の真似をして制作発表した時代があった。

無個性でいいのだと「なんちゃってポップアート」の時代だった。

 

アンディの言葉は一つのイデーにしかすぎず、アンディ自身は常に個性的

であったと思う。

 

こうやって「作者=(イコール)作品ではない。」という風潮が広まり、

カッコつけて「描き上げた作品は一人で歩きを始めてしまうので 自分とは

関係ないものになってしまう」なんて語る画家が出たりもした。

 

私の事じゃないよ

 

 

 

次回に続く

 

「ちょっと違うぞーっ」という立場から ・・・ひとこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

香月の月

   

         

 

      寝る前に ちょっと飲んで外に出たら

      西の空に 月が傾いている。

 

      「おっ 香月泰男の月だ。」

 

      てなわけで もう一杯〜♪ 月見るなんてぇ〜(吉田拓郎調に)

 

 

            

                     香月泰男  「月の出」1974

 

 

       1945年シベリア抑留中の香月の見た月と

       平和ボケした埼玉の明け方の月(上の写真)

 

        リアリティのない生活を反省しつつ・・・

   

        もう一杯・・・ (青汁調に) 

 

           明朝はカルチャーだ。風呂に入って。寝ねば。

 

 

 

 

 

 

  

                       寝ねば ねば ねば なば〜ぎぶあっぷ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「にぶい意味」 その2

前々回「〜その1」で志ん生が醸し出すニュアンスについて書いたら、

親しい方から「そういうの、フラがあるって言うんですよ。」と

教えていただいた。

 

「フラがある」いい感じの言葉だ。

 

詳しい意味は知らなかったが、 志ん生らしさに通じると言うならば 

フラついたり自在で弛い感じのことなのかなと想像した。

 

その方によると「楽しいとか、軽ろみとか、微笑ましいとも少し異なる

・・・ なんとも言えないモノ」だそうだ。なんとなくわかる気がする。

 

またネジなどがキチンと締まっていないユルい状態を「遊びがある」と

言うが その「遊び」にも近いのではないと勝手に想像した。

 

 

そこで ネットで調べてみると「フラ」というのは

落語界の用語で、どこともいえないおかしさをいう。

持ってうまれた先天的なもので稽古で得られるものではない 

うまさとは別のもの〜    だそうだ。

 

 

「フラがある」についてもっと調べていたら「ニンがある」という

言葉があることを発見した。「ニン」。

 

こちらは歌舞伎用語で「仁」から出た言葉で 役に相応しい雰囲気を

醸し出す才能らしい。

そして この「ニン」も 生まれつきの才能で 修得することは

出来ないものだと書いてあった。

 

絵の分野では 古い中国の「芥子園画伝」に、 絵で一番重要なのは

「気韻生動」とある。しかし この「気韻」というのも生まれつき

のもので こちらも努力しても修得できないという。

 

音楽では 浅田彰がピアノ演奏に於いて「打つ」と指摘するズレの

ような事も生まれつきの才能のようだ。

 (ナット、ホロヴィッツは「打つ」ことが出来るが、ルービンシュタイン、

 アシュケナージ、ポリーニには「打つ」ことが出来ないとか・・・)

                      (浅田彰「ヘルメスの音楽」より)

 

 

こう先天的な能力の話になってくると 凡人の私のような者には 

欲しても手が出ないものになってしまう。

 

これでは いかん。

 

そこで思うのは、フラもニンも YesかNoと割り切れるもの

ではないだろうし、それぞれに度合いもあるだろう という

苦し紛れ・・・。

 

また「フラがある」と評価するのも人間の見方であって、

人それぞれの価値観にもよるものではないか・・・

と自分を慰めたり。

 

万能な評価基準などあるわけがないだろうし、

「表現」は選ばれた人だけのモノでは決してないぞと

居直る・・・ しかなくなってしまう。

 

 

しかも「フラ」も「ニン」も「気韻」も「打つ」も・・

それらは皆、求めようと修練を続けても得らるものではない。

そしてそれは自覚することも出来ないものだ。

 

・・・となると それらは他者からの評価でしかない事になる。

 

 

そのような根拠は曖昧だが 絶対的なモノが 

表現のどの分野にもあることが面白いと思った。

 

 

 

書こうとしていた「にぶい意味」の話から 逸れてしまった。

 

 

「作品」というものは、作者の意図していない部分があってこそ

成り立っている。

それだからこそ面白いという当然のような事をダラダラと

書いてみようと思っていたのだが・・・

 

 

 

  その3に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鉄腕アトムの髪型  (再掲載)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        なるほど・・・・