SHOKEI 'S TIMES -3ページ目

個展が終わり・・・

           

          個展が終わり 今はこんなふうに

          項垂れて いろいろ反省中であります。

 

           

 

 

ギャルリー・コパンダールに於いての個展が終わりました。

コロナ感染の渦中ではありましたが、 見に来てくださいま

した方々、どうも有難うございました。

 

 

          

 

 

ここ数年、「個展」をする必要性や意味が曖昧に思え 控え

ていました。 

(小さな個展は 清瀬のトモズという画廊で毎年 開かせてもらって

いましたが、銀座や京橋で開く個展は久々です。)

 

 

しかし 実際に開催してみると 想像していたよりも はるかに

大きな手応えがあり、収穫がありました。

 

やはり絵は 生で見てもらい、 直接 感想を聞くものだと思いました。

個人的に個展の必要性は あると感じました。

 

 

 

絵は 一人で自問自答しながら描き進めるものですが、自分では

自分の事が見えないものなので 「表現」には第三者の存在が必要

なのだとつくづく思いました。

 

 

 

 

 

以前に尊敬する末松先生が話されたフランスの詩人の言葉に

「作品はいつも、われわれの怠惰を厳しく立証する。

お前はまだ こんなことしかしていない。」というのを

個展の最中に思い出しました。

 

 

 

          

 

 

 

 

今年の「水彩人」展は コロナの影響で中止となり、ネット上の

『Web展』となりました。

 

新型コロナの感染の影響で 仕方がなく、このような発表の方法を

とったのは わかりますが、 私は賛成していません。

 

まるで見合いの写真だけで結婚相手を決めるような実体の無い感じですし、

サンプルの一つになったようにも見えます。

 

 

水彩人は展示の方法も一段掛けに拘ったり、画材に対しても繊細に注意を

払ってきたはずの運動体です。なるべく本物志向でいきたいと思います。

 

 

絵画は 本来、ネットや印刷物ような情報化された「展示的価値」よりも 

ベンヤミンの唱えた『アウラ』の重要性を先ず、大切にすべきだと考えます。

 

 

 

 

また2年経ったら 「倍返しだぁ」と個展を開きたいと考えていますので

よろしくお願いします。

 

 

その頃にはコロナの感染も衰退していることを願いながら〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個展のお知らせ

 

 

             松波 照慶 展

 

 

 

 

新型コロナ感染拡大の最中のこんな時期ではありますが 

9月7日から個展を開きます。

 

東京駅の近くの「ギャルリー・コパンダール」

という画廊です。

 

 

今回も 日暮里や越谷の風景をモチーフとしていますが 

そこから「もっと遠くへ」離れようとして描いています。

 

再現から表現に~ 置き換えていこうと

考えていますが・・・

ムズカシイ

 

 

お近くにお越しの際は ちょっと見てください。

 

 

 

 

 

 

 

 

アトリエ・ドリンカー

TVでは 新型コロナのために家から出られず、ストレスが

溜まる人が 多いと言うけれど 私は 家に籠るのが好きなので 

その事ではストレスは溜まらない。快適だ。

 

しかし、収入が無いのは困ったものだ。

(10万の申請書も来ないし、必要ないマスクも来ない。

頼んでもいないのに466億円の無駄使い〜 困ったもんや)

このところ諸事情から日中は殆ど絵も描けないので 結局、

落ち着いて絵を描くのは夜中になってしまう。   am,6時就寝。

 

 

夜中に絵を描いていたら ついお酒を飲んでしまう癖がついた。

 

ブロガーのウォータン氏や友人から「コロナに負けるな!」と

美味しいお酒をいろいろ頂戴した。感謝します。

 

知らぬ間に お酒がアトリエに並んでしまった。

 

 

 

 

私は 酒は弱い方なので量はそんなに飲めないが、

美味しいものは美味しい。

 

最近のお気に入りは 芋焼酎の「天狗桜」。

甘くて美味しい焼き芋のようで・・・繊細なのに濃厚な味わい。

 

その次は「雪のまんねん」か「魔王」かな・・・。

 

「魔王」は名に反してお洒落で口当たりよくカッコいい二枚目。

「雪のまんねん」は ちょっと無骨で焼酎らしい焼酎だと思った。

 

洋酒では「イチローズ モルト」も濃くて旨くて気に入っている。

 

 

 

友達と酒の味の話をすると 絵の感想のようだと思うことがある。

 

「味」というのはカタチが無く、抽象的だ。

暫く飲まず 忘れていても、一口飲むと記憶が蘇ってくる。

 

相手にこの味を伝えたい時にどう話したらいいのか考える。

 

そう思うと 抽象画の面白さを誰かに伝えようとする時のような

もどかしさに似たものを感じる。

そこで何かに例えたり 置き換えたりしなくてはならなくなるし、

擬音やジェスチャーを添えたくなる。

 

味という見えないものを見させる言葉を探す・・・

これは意外と面白い。

 

 

 

好きな音楽を聴きながら、旨い酒を飲んで、

好きな絵を描いていると 「幸せ」だとしみじみ

感じることがある。

 

酔いのせいか「これでいい。」と思えて楽しく描く。

 

 

しかし作者の自信作には 他者から見て つまらない絵が

多いものだ。

 

「調子が出てきた〜」と乗って描いているとどんどん

自分が見えなくなってしまっている事があるので要注意だ。

 

これは覚めてから他者の前で反省するしかないが・・・

 

 

しかし、酔って描いていると 凄く重大なことに気がついた

りする。悩んでいた問題点の解決の糸口が見つかる。

 

ところが 翌朝、酔いが醒めると 何かに気付いたことだけは

覚えているが 具体的な肝腎な事は忘れている。

 

また酔うと 思い出すかもしれないな・・・・。

 

 

しかし アトリエ・ドリンカーになってしまいそうだよ。

コロナさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにやってんだか

 

  年頭にブログを書いてから、3ヶ月も経ってしまった。

 

    

 

 

親しい方々から「病気か?入院でもしとるんか?」とか

「コロナか?」「死んだのかーっ?」と心温まるメール

を頂きましたが、なんとか元気で生きております。

 

サイタマに越してからは 特に  何かと忙しくて・・・

 (皆さんもお忙しいと思いますが〜) 

ついついブログの更新を怠っていました。

 

 

思うに私の場合、時間の使い方が 超ヘタというか 

要領が悪いというか・・・頭が悪いというか・・   

無駄にしている時間がとても多いと思うのです。

 

特に 物忘れをよくするので「探し物」に費やす

時間が ハンパないのであります。

 

 

 

   

 

                  B.G.M. 「夢の中へ」井上陽水

 

 

    

 

 

   

 

   

 

 

   

 

 

 

    

 

 

   

 

 

以前に 自由大先輩から

"Never a dull moment"

「人生は、退屈してる暇なんかないよ。」という言葉を

教えてもらった事があります。

 

いい言葉だと思いました。

 

「dull」を辞書で翻訳すると

 鈍い  つまらない  退屈   緩慢・・・だそうです。

 

本来は反語的な意味で使う言葉のようですが

ここではこの「dull」に重きを置いて進めてみます。

 

 

 

私は日頃、ボーっとしている事が多いが このボンヤリは、 

ある意味 必要なことだと考えているので ・・・

 

「dullな つまらない時間」となると・・・ 

例えば、病院の診察待ちの時間とか 上記のような「探し

物に費やす時間」などなど。

 

また仕事に取りかかる前の無意味な準備時間も思い当たります。

 

 

病院の待ち時間は 諦めるしかないかもしれませんが 

「探し物の時間」は少しずつ改善したい。(歳のせいもあるだろな〜)

 

                 

それから 絵を描く前にモタモタしている事が 多いです。

好きなことなのだから さっさと始めればいいのに つい 

画材を揃え直したり、不必要な掃除を始めたりしてしまう。

 

(子供の頃からずっとそうなので合計したらすごい浪費時間であります。)

 

そうやって一通り「dull dullした時間」を過ごした後で 

はたと気づく・・・「なにやってんだ俺」と我に返り、

軌道修正して 絵の制作を始めることになります。

 

 

話し始める前に「え〜」と言ってから話し始める癖のような

もので一種の精神障害(プリベンション)かもしれない・・。

或いは ただの「甘え」かも・・。 

 

 

 

大学を出て公立中学の教師になった際、なぜか道徳主任とやらを

やらされた事があります。

大勢の生徒の集会で 一言 なにか話せと言われた時に

「人生、要領がいい方がいいょ。」と話したら、 後で校長室に

呼ばれて怒られました。

 

その時に気がついたのですが 以前から一番に 要領が悪いのは 

私であった。

 

ホント

なにやってんだか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「占い」は信じない

占いは信じない。

 

と言うか・・・

信じないと言いたい。

 

つまり神様を信じないが、こまった時には神頼みをして

しまうような軟弱な性格だ。

 

 

血液型占い も信じない。

 

父親がA型で兄弟(姉妹)も皆、A型。

血液型性格占いの本を読んでみても 自分の性格はA型で

ピッタリ当たっていると思った。

親も友人達も 皆、「その細かさはA型に間違いないよ。」と

言うので信じていた。

 

しかし27才になって結婚する時に 初めて血液型検査をした。

結果は O型だった。

 

とたんに自分が O型らしく思えてきて性格も変わったように

感じられた。

この単純さはO型らしいのかも・・・。

 

そうすると友人らは「やっぱりね。ホントはO型だろうと思って

たよ。」なんてコロッと意見を覆す。

 

こんなもんなのだろう・・・。

 

この手のモノは 信用できないぞ と決めている。

 

 

 

先日、正月のテレビで 血液型と星座占いを合わせた

「今年の運勢鑑定」の番組を放映していた。

 

ボンヤリ流していたら 私の「乙女座O型」が

48位中の2位だった。

 

 

信じないと言っていたが こうなると気になって

つい見てしまう。

 

 

 

これは今年は いいことが沢山あるのかもしれぬ。

 

モテモテでワクワク・・・って何? ウフッ♡

 

 

信じてないが そう思いたい年だっ。

(信じてるやん)

 

 

 

 

 

てなことで とにかく 頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水彩人 名古屋展(2019 第21回展)

 

水彩人の今年の巡回展は 昨年と同じ名古屋の「電気文化会館」の5階で

12月10日(火)〜15日(日)まで開催されています。

 

 

    

 

 

9日に陳列して 初日には 11時から恒例のギャラリートークが

行われました。聞きに来られた方は 思ったよりも少なく、ちょっと

残念でしたが、 トークは「絵の見方」や「解釈の在り方」などを

展示作品を見ながら話し合いました。

 

絵の鑑賞は自由だと思いますが、絵を描こうとする人ならば、

「キレイ」「上手」のような表面的な見方だけではなく、作者が

何を表現しようとしたのかを読み取ろうとした方が面白いと思います。

 

鑑賞の楽しみは、「勝手な深読み」で  その解釈が作者の意向と

違っていてもいいと考えます。

 

今回のトークでは 笹村さんが 山平さんの作品から感じる「北海道に

生きる逞しい精神性」や 大原さんの作品からは「輪廻のような生死観

があるように思える。」と説きました。大原さんの作品では 画面下の

猫を抱く少女は死を思わせ、「その上のメリーゴーランドもジェット

コースターも動き出した後には 輪廻のように 必ず最初の場所に戻って

くる。」と言います。

成る程と思いました。

 

左作品 山平さんの作品

 

左作品が大原さんの作品

 

 

私はこのメリーゴーランドからは レイ・ブラッドベリの小説(「何かが

道をやってくる」)にあるような過去や未来に向かう時間の流れを感じ

たり、中原中也の「夏の夜の博覧会は、かなしからずや」(亡くなった

息子を悲しむ詩)を思い出して見ていました。ジェットコースターの

支柱とレールは 空に延びる無言の叫び声のように痛々しく感じました。

 

いい作品からは いろいろな解釈が生まれると思います。

 

自分の絵を言葉にして見る試みも大切ですが、他の人の絵を読み、

感想を言い合う事も 自分の作品を深めていく方法の一つだと考えます。

 

 

この巡回展では、水彩画のいろいろな方向性を

感じられることと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

迷い道

小さな個展を 清瀬の画廊でやってました。(本日まで)

 

サブタイトルが『寄り道・迷い道・帰り道』という個展で

まさに迷い道という心境の展覧会です。

 

 

   

 

 

水彩人第21回展や銀座の「水彩人による水彩画展」にも出品していた

「that rainy day」を今度はクレパスでグジグジと描いて出しました。

モチーフは谷中の「夕焼けだんだん」です。

 

 

    

 

ちょうど10年前にも この「夕焼けだんだん」を何枚も油彩で

描いていたのですが スッキリしなかったので 再挑戦してみましたが

またまたスッキリしませんでした。

来年の9月に京橋で開く予定の個展には もう少し進展した「だんだん」

が描けるよう努力してみます。

 

 

子供の頃、「迷い小憎」と言われた事がありました。

お小遣いをもらう度に近所の文房具屋さん「大正堂」の店先で何を

買おうかと小一時間立ったまま 迷っていました。

 

 

そのまま歳をとって「迷い爺」になりました。

 

 

ああ 今年もあと僅かになりましたね。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

黒い犬

 

写生をしてると 黒い犬が寄ってきて オウッ オウッって吠える。

 

 

マジ 怖い。

目がイッてるし、息づかいが激しい。

従順な犬はかわいいと思うけれど

この黒い塊は 何を考えているんだろ

縮こまってしまうわ。

 

 

 

 

 

 

私と絵と音楽と

絵を描く時に 音楽からインスパイアされることはあるが、


音楽を絵にしようとは思わない。


 


しかし以前に汲美画廊の「音楽を描く」という企画展に誘われて


参加したことがある。その時は好きなプーランクの「パストラル」


という小品を黄色〜黄緑で描いた覚えがあるが、曲想を表そうと


して失敗してしまった。


音楽の挿し絵になってはつまらない。


 


音楽は音楽として 一つの完成された世界なのであって、わざわざ


説明的に絵にする必要はない。それでも描こうとするならば 音楽


は描き始める為の一要因ぐらいに止め、思い切り自分の世界にして


しまえば問題ないのだと思う。


 


昔の画家の岡鹿之助などは音楽が大好きだが制作中は聞かず、


描き終わってから自分への御褒美として聴くと決めていたそうだ。


しかし私は そんな「おあずけ」方法は嫌だ。 我慢は嫌いなので、


絵を描く時は いつも音楽に浸るように聞きながら描いている。


 


気に入った一つの曲を何回も繰り返して聴いてしまう。


演奏家にも拘る。


 


「音楽は好きだが 制作中に音楽は邪魔だ」という友人も多いが、


それは それほど音楽のことを好きではないのだろう。


私は集中する為にも必要なのであって、制作中は寄り添っていて


くれて、集中すれば まったく気にならない。


 


 


音楽は面白いもので 物の見方、感じ方にも影響してくる。


散歩に出る時に イヤホンで音楽を聴いていると景色は違って見えてくる。


TV映像のBGMのように心を昂らす効果があるのだろう。


だからパチンコ屋の軍艦マーチではないが、制作中の音楽は 私には


かなり重要だと思っている。音楽が聴きたくて画室に向かう事も多い。


 


2年前、水彩人展に出品した作品の制作中は、メンデルスゾーンの


弦楽四重奏曲第3番をイザイSQ.で繰り返し聴いていた。


 


          風に動く/松波照慶


 


冒頭から沸き上がる喜びのような曲だ。しかし、繊細で女性的なイザイ


弦楽四重奏団でないとシックリこなかった。


 


レオナルド・ダ・ヴィンチがモナリザを描く時、隣室から音楽を奏して


もらったと言う話は有名だが、それはモデルが退屈しないようにするだけ


ではなく、ダ・ヴィンチ自身にも必要だったのだろうと思う。


 


セザンヌがワーグナーを好んだそうだが 「大水浴図」などを見ていると 


その大きな空間創造には通じるモノを感じる。また小さな作品でも


「タンホイザー序曲」という題名の油彩も描いている。


 


日本画家の村上華岳も音楽が大好きで拘っている。


絵を観賞する時にも音楽を聞くそうだ。音楽を聞きながら絵を見ていて、


音楽と絵が しっくりと合うような絵が いい絵なのだそうだ。


この説は 半信半疑だが自信をもって言い放っているのが華岳らしくて


面白いと思う。


 


 


今年の春、私は人間味あるフランク・モーガンに浸っていたが 、


その反動か最近は洗練されたポール・デスモンドばかり聴いている。


それもジム・ホールとの絡みがたまらない。


 


 


二人の息の合った演奏はホント素晴らしいと思うが、興味のない方には 


ただのキレイな音にすぎないだろう。


 


絵でも音楽でもキレイは二次的、二義的なものだと思っている。


追うべきものではなく結果的なものなのだとも考えている。


 


そのポール・デスモンドは52才で亡くなった。


若い頃から完成されと技術を身に付けている奏者なのでもっと


長生きしていると思っていた・・・。


 


ビル・エバンスは51才で亡くなったし、


コルトレーンは40才で他界した。


皆、早く亡くなっているが、 若いうちから


自分を見定めて深い仕事を残している。


 


2ヶ月前に 68才になった私は・・というと


それらを聴きながら 自分も見つからず、

 dull  dullしてばかり。


 


 


 


 


 


 


 

減点法

作曲家は作った自分の音楽(見えないカタチ)を楽譜に書き込む。

演奏家はその楽譜から音楽を引き出し、新たにカタチを与える。

人間が演奏しないと音楽に成らないというのが面白い。

 

コンピューターで演奏した(生ピアノの音で)シェーンベルクの

曲集のCDを持っているが あまり聴く気にはならない。

先入観もあるのだろうが、ミスはあっても やはり人間に演奏して

もらいたいと思ってしまう。

 

理想的な音楽を求めるのならば、演奏家の恣意を含まない コンピュ

ーターの方が誰よりも正確に楽譜を再現した演奏とも言えそうだが、

心に響く音楽はそうではあるまい・・・。

 

自作自演でないかぎり この伝言ゲームのような 不自由さやそこで

生じる ズレが音楽の一要素になるのが興味深い。

 

理想的な音楽は 作曲家のイデーそのものでもなければ 、人間の

ズレや曖昧さを切り捨てたモノでもないのだろうと思う。

 

絵画は自作自演なので 「楽譜」に値するものはないが、作者自身の

中では同様な多くの矛盾や葛藤を孕んで制作するのだと思う。

 

 

フルート奏者のゴールウェイが、日本のオーケストラに対して

「演奏はまさに完全であり、完全に退屈してしまった。」と批評した

ことがある。

 

日本人は完成を求める際に「減点法」を用いることが多いからでは

ないかと河合隼雄氏は指摘する。

 

 

絵に於いても 小さな間違いや古くからの慣習、常識などを極力排し

ていく減点法では 表現の問題は解決しないだろう。

 

減点法では 一つずつ問題をこなしていく過程で「出来たつもり、

わかったつもり」になっていまう危険性を伴う。 

しかしそれでは「全体としての表現」の前進には 繋がっていないこと

に気がつかない事が多いようだ。

合理的な方法では全体に達しない。

 

つまり減点法の追究姿勢では「絵画の豊かさ」は減少してしまうと感じる。

 

正法眼蔵にもあるように 悟るためには 迷いを否定するものではない

のだろう。

 

離れてみること・・・。

惑うことを楽しむこと。

 

つまり減点法ではなく、加算していくだけでいいのではないだろうか。

 

 

・・・そうありたいとムニャムニャ考え描いているのだが ・・

自作を前にすると まだまだ模索中で その進展の遅さに愕然としてしまう。

 

水彩人を始めてから もう20年経つが「振り出し」に戻ってばかりの

ような気がしている。