
昨年末に退会届
昨年末で水彩人を退会した。
1999年の第1回から出品しているので24年間続けていた事になる。
いろいろとお世話になったし、多くの事をここで教えてもらったと
感謝している。
二年前から具体的に退会を考えていたが なかなか踏み切れなかった。
退会の大きな理由は 前回のブログでも触れたが 子育て関連の事情だ。
制作と育児をもっと割りきるべきだというのは頭では わかっていても、
実際は 要領が悪く子供たちに振り回されてばかりいる。
私事で水彩人展の足手まといになりたくはないし、もともと団体行動
は苦手な方なので この際、いい機会だと考え、思いきって退会する
ことにした。
私は三十歳代に二人の娘を育てた事があったが 今ほど苦にはならな
かった。
そう感じたのは 私がまだ若かった事もあるが、子供が女の子と男の子
という性別の違いは大きいように思う。男の子はホント手がかかると
痛感している。
最近、世の中で「男性の育休」が要求されているようになったが、
我が家も今は同感だ。
また今月末頃に、住んでいる埼玉の家を 引っ越す事にした。
7年前にここに越してくる際には 使わない画材や中途半端な作品を
まとめ、業者に頼んで2トン車に山積みで捨てたが また多くモノ
を処分しなくてはならないだろう。
都合良い断捨離の一つなのかもしれないとも思っている。
自業自得なので もう暫くはバタバタ生活が続いてしまうだろう。
兎に角、70歳を過ぎてから やたらと慌ただしく、ゆっくり絵を
描きたいと思う。
「囁く街」油彩
「おじいちゃんなの?おとうさんなの?」
夕方に保育園や小学校に通う息子ら(2歳と7歳)を「お迎え」
に行くと 知らない子供達が寄ってきて
「おじいちゃんなの?おとうさんなの?」と聞かれる事がある。
私は71歳(もうすぐ72)なので世間的にはおじいちゃんの年齢だが、
息子にとっては 父親なので
「おじいちゃんだけど おとうさん~ なの」と言うと、
皆「ヘンなの~」と笑う。
「おとうさんだけどおじいちゃんなの~、かなし~。」
確かに・・・・端から見たら ただのヘンなお爺さんなんだろうなぁ
と省みる。
かなり年下の妻と再婚したので 息子らのホントの おじいちゃん(妻の父)
は 私より5才も 若い・・・。(先妻との子供らは成人している)
童話の桃太郎の話では 年を取ってから子供が生まれた事を恥じて
桃から生まれたという事にしてしまったというが、 今の世の中では
桃から生まれた事にするのは、難しい。
高齢で父親になった著名人の話を聞くことがある。郷ひろみ(58)、
三谷幸喜(52 )、石田純一が58歳で、市村正親が59歳等々・・。
しかし、いずれも権力も財力もある方々なので 非力でビンボーな私とは
大いに異なるだろう。
今まではあまり年齢のことを気にせずに生きてきた。
しかし、こう頻繁に「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼ばれていると、
急速に歳をとったような感じになってきた~。
この「おじいちゃん」発言が、子供達の間で イジメや悩みの原因に
ならないかと心配に思うことがある。
また時々、息子達が成人するまでは 長生きしたいなぁと思うが、
寿命など先の わからない。
わからない事は考えない事にしている。
「日々是好日」としたいと思い、それをタイトルに絵を描いてみた。
『日々是好日』油彩
個展が終わって心機一転
空の下< そらのもと > 透明水彩 松波 照慶
個展が なんとか終わり、気分的に一休みしています。
今回の個展は 多くの反省点を残しましたが、それ以上に沢山の
いい刺激も頂きました。やはり個展はいいものだと思いました。
お越しいただいた方々、有難うございました。コロナ禍がまだまだ
不安の中にもかかわらず お越しいただき、本当に嬉しく思いました。
元荒川の暮れ 松波 照慶 油彩(水彩で覚えた「洗い」の方法をテレピンとヤスリで試す。)
「作者の自信作が良い とは限らない。」とは私の口癖になってい
ますが、今回の個展でも自分では気がつかなかった事をいくつも
指摘してもらいました。
いかに自分が自分自身のことを見ていないか、見れないかを痛感し、
教えていただいたことを大切に描き続けていこうと思います。
また大好きなボナールとの制作上での共通点を教えてくれた方も
いて 改めてボナールが身近に感じるようになりました。
( 高校生の頃、西洋美術館で見たボナールの「サーカスの馬」に感動し、大学の進路志望を
油彩画にしました。後日、この絵からは多くの事を学びました。
ピエール・ボナール [ サーカスの馬 ] 1934〜1946
今、見てもちょっとヘンな絵ですが、晩年のボナールの自画像と雰囲気がよく似ています。
右側にサーカスの人物がいますが お得意のヴァルール操作で目立たなくしています。
仕上げまでに 12年間かかっていますがボナールがもっと長生きしたらまた変わっていた
かもしれません。コレクターのダンカン・フィリップスがこの絵が欲しくて持ち主のテラス氏
に金額が無記入の小切手を送り、いくら高価でも記入してくれと願ったが テラス氏は この
作品を手放さなかったそうです。
油彩画は普通、白い所は厚塗りしますが、この馬の顔はキャンバスの地や下描きの線が見える
ぐらい薄塗りだったと記憶してます。)
今後は 団体の中の発表 に頼らずに なるべく個人的な発表を大切に
しながら 自分の絵画を追求していきたいと心機一転、考えています。
個展をします。
〈お知らせ〉
11月3日(木)より9日(水)まで 京橋のギャルリー・コパンダール(京橋2-7-5)
に於いて個展を開催します。御高覧くださいますようお願いします。
油彩と水彩などの小品を陳列します。
今度の個展では屋根の風景を多く出品しようと思っています。
絵を描く人の根底には幼少時の記憶「原風景」が関係している方が多いと
思います。
私の場合は 大自然の中で育ったというわけではなく、密に建ち並ぶ家々や
その間の抜ける路地の記憶が小さな世界だったのだと思います。
長田弘氏が「風景は人の背景としてあるのではなく、風景が人間を作って
いるのだ。」と書いていますが、同感します。
小学生の頃、友達の家で遊んだ帰り道に よく迷子になりました。
いつも通る知っている道を帰ればいいのですが ふと それではつまらない
と思い、近道を探してみようとして そのうちに迷子になってしまうのです。
つい先日も埼玉県で夜、帰宅しようと自転車に乗りながら迷子になりました。
携帯は電池が切れ、大きな道路に出ると人家もなく店も開いていません。
「そのうちに知っている風景に出るだろう。」と漕ぎ続けました。
不安感というよりも不思議な夢の中みたいでした。住んでいる町の近くにも
全く知らない異次元のような世界があるのに驚きもしました。
しかし自宅に帰ってからこの話をすると 家人は「始まったのかな?痴呆」。
たぶん まだ大丈夫〜だと思います。
絵を描いていると「迷子」になった時と同じような気持ちになることが
よくあります。
「この道をこの方向に行けば出口に出られるはずだ。」と思い描き進みます。
もうすぐ個展ですが、迷子になっています。出口まで行けるかなぁ・・・?
ズレや摩擦から駒
クラシック等の多くの音楽において 作曲家と演奏家がいて「音楽」が
生まれる。作曲家のように曲を作る「入力」側とそれとは別に演奏する
(表す)側の「出力」が別々に存在するのが面白いと思う。
自作自演はそれを同時に行うことになり、作者の制作意図がストレート
に表された良い場合もあるが、別の演奏家が弾いた方がより名演になる
ことが多いというのが興味深い。
つまり作曲家の思い通りに演奏家が「音楽」にしてくれるとは限らずに、
作者とは異なった解釈で表現されることで 新たなひとつの作品となる。
「表現」に於いて ここで生じる矛盾やズレに 大きな意味(価値)がある
のだろうと考える。
絵画に置き換えて考えてみると 絵は殆どの場合、自作自演なので 入力
は「見る」ことが主になり、出力は「描く」ことになるだろう。
この2つの行為を一人の人間の中で行う時に 入力と出力には距離が必要
なのだと思う。最初の自己を他者として見る一種の自己否定だ。
見たままを安易に写生することや計画通りに仕上がった作品が物足りない
と感じるのは この距離が少ないからだと思う。
優れた表現には 高い矛盾率を含むものだ。
この矛盾や葛藤からは「瓢箪から駒」のような効果があり、表現の醍醐味
でもあると思う。また鑑賞者にとっても一番に見たい(感動したい)ものは
この意図せずに醸し出てしまったこの駒というか「何か」なのではないか。
作り手としては 出そうとして追いかけても出るものでもなく、待っている
だけでも出てこない。日々の修練のようなものがあってこそ この駒が出た
時にだけ拾えるのだ。
時々、こういうことを神様からの啓示としてを受け取った選ばれし者のよう
に自分を言う人がいる。「何かが閃いた」とか「空から舞い降りた」と言う
人がいるが、それらの多くは単なる思い込みにすぎない。
そのようなことは 大なり小なり 誰にでも起こりうる偶然だろう。
画家マティスは そういう閃きを神からの贈り物のようには取らない。
それらは 日々、自分がしている修練からの賜物であって、毎日努力してい
るからこそ画面に現れた一瞬の現象でも受け取れことになると言う。
とても説得力のある言葉だと思う。
出力(表現)の段階で行き詰まったり失敗だと思える「痛み」の段階を経て
仕上がるものの中には 作者が意図しなかったものが生まれ、作者を開眼
(前進)させたりして、作る喜びを体得する。
巷の展覧会には 描き慣れた猫や花などのモチーフを組み合わせただけの絵
や自己肯定の上にさらに自己肯定を重ねた 失敗のない絵も多い。
いずれも緊張も破綻もなく駒も出ない。予定調和が多いのはつまらない。
料理に於いて素材は大事だが、それ以上に料理人の腕(技術)が重要視され
るように音楽に於いても演奏家の力(技術)は大切だとも思う。
絵もそうだと思うが技術が 先に一人歩きしても困りものなのだ。
私は まず空間意識とタブーとされている諸問題から
紐解いてみようと思っている。
デッサン教室 真似事「ままごとデッサン」はもう卒業しよう
8年前に「デッサン教室」という短期講座を始めた。
当初、受講生は集まらないだろうし、鉛筆だけの画材では長続きし
ないだろうと「短期」という形でスタートしたのだが、定員の2倍
以上の受講生(46名)が集まり、今も続いている。
学校などで教えるデッサンの授業は1~2年間が普通で、遠近法を
ベースにした基礎的なことを学ぶだけで終える。見たモチーフを紙
の上に客観的に置き換える作業だ。モチーフ見てを真似るわけだ。
この「デッサン教室」でも初心者には 似たような方法で始めた。
習字の授業でカタチが悪いと先生が朱墨で添削し直すように少しだけ
加筆し修正を入れる。
描いた本人は どこが間違っているか具体的ですぐに分かるやり方
なので これはこれで喜ばれたと思う。
この段階で必要なのはモチーフの構造を理解することだ。昔の中国
ではデッサンは「骨法」と言って骨組みを見ることでもあり、普通
には見えないはずのモチーフの裏側や内部を見る修練でもある。
「デッサン」には真似る以外に もっと大きな意味があると考えて
いる。
お習字が上手になっても「書」にはならないだろうし、ピアノの
お稽古教室で褒められても ピアニストにはなれないだろう。
つまり 習字やお稽古ピアノには御手本があり、真似る事を目的と
するが、書道やピアニストは自己の「表現」でなければならない
からだ。
お習字のように真似て描くのは幼児教育における「ままごと」だ。
ままごとは大人の生活を真似て学ぶ大切な基礎教育だと言える。
「ままごと」は「まねごと」。ままごとデッサンは必要だと思うが
「ままごとデッサン」を極めても絵にならない。石膏デッサンも
初心者には訓練の一つだが、極めたところで絵を描く事に繋がらない。
巷の「書道教室」では 書道と明記してあっても実際に教えている
のは「お習字」が多い。習字と書は混同されている。
絵やデッサンに於いても同じような曖昧さがあると思う。
一般的にデッサンというとソックリに真似て描く(「お習字」の
ような)事だと思われることが多いが、それだけではない。
「絵を描くのにデッサンは不要だ。」と言う人がいるが この習字
のようにデッサンのことを指しているのだろう。美大受験用の石膏
デッサンは特殊なものなのだ。
過去の巨匠たちのデッサンをよく見れば、デッサンが真似事や描写
訓練でないことが明らかだろう。
創作のためのデッサンなのだ。
経験者は表現としての「絵のためのデッサン」に切り替えて制作し
なければならない。
以前にブログにも書いたが デッサンには「秩序のある計画性」と
いう大きな意味と「見えないモノを見る」訓練でもある。
小手先の描写に留まらずに絵画作品に向かうためのデッサンを心がけ
ようと思う。
そういうカルチャーを目指すつもりです。
デッサンについて 関連記事
https://ameblo.jp/s0008/entry-11919904716.html
https://ameblo.jp/s0008/entry-12300744724.html
https://ameblo.jp/s0008/entry-10554445274.html?frm=theme
実は凄い人
夜中に一人で映画を見るは好きだが、作業しなからだと真剣に
観賞できない。そういう時は YouTubeにアップされている昔
の軽〜いTVドラマを流していることがある。
「暴れん坊将軍」や「遠山の金さん」や「裸の大将」など懐か
しい番組がいろいろ並んでいる。
見ていると「水戸黄門スタイル」というか 普段は普通の人だけど
実は凄い人だというのパターンがやたら多いと思う。
余談だが 「水戸黄門」で 黄門が「助さん角さん、こらしめて
やりなさい。」と嗾けてボコボコにされる下っ端の家来たちが
可哀想に思うことがある。この家来にもきっと家庭があるだろう
し、仕方がなく悪事を手伝っていただけの人も多いのだろうと
思うと時代は変わっても 下っ端は下っ端なんだと思ったりする。
最後に印籠を見せてパワハラでやっつけるのも今と同じだ・・・。
「裸の大将」は画家の山下清をモデルにした創作ドラマだが 最後
に山下清だと作品のサインを見せ、正体を明かして終わる。
桜吹雪の刺青の「遠山の金さん」も「暴れん坊将軍」の徳田新之助
も「裸の大将」もスーパーマンも月光仮面もみんな同じパターンだ
と思うと 変身願望は庶民の願い、庶民の夢なのだと思う。
しかし「裸の大将」はちょっと気分の悪いドラマだ。知的障害者を
笑いの種にするのもよくないが それよりもこのドラマを制作して
いる人達が 山下清作品の良さを全く理解してないように思える。
山下清が「有名人で作品が高価だから凄い」としか言っていない。
これでは制作者たちは、ドラマの中に登場する金の亡者たちと同じ
ではないか。山下清を食い物にして視聴率を取ろうとしているだけ
で 山下作品を少しでも一般にわかるように解説したり、絵の見方を
示しても良かったのではないかと思う。とにかく山下清に対しての
愛情は全く感じられないドラマだと思う。
先日、私は4年ぶりに近所の歯医者に 行った。5~6年前に出来た
歯科で若い(40代?)院長が饒舌で治療技術も優れているのか評判も
随分と良くなっていて繁盛していた。 治療の順番になり座るとすぐ
に院長が来て「時々、 向こう側の道路を歩いている松波さんを 車の
中から見かけますよ。しょうけいさんがいる~って」とか親しげに
話しかけてくる。
普段、印象の薄いであろう私のことをちょっとでも覚えていてくれる
と言われたら悪い気はしない。一瞬「いい気持ち」になってニコニコ
した。「 私も実は ちょっと凄い人間なのかも~♪」と思わせられた。
でも考えれば 営業上の単なるリップサービスの一つなのだろう。
一瞬でもうまい営業言葉に乗せられてしまい、大したことでもないの
だけれど 一本とられたような気持ちになった。
私もカルチャーなどで多くの方々と接する機会があるので そういう
小さな心遣いは必要なのかもしれないと思った。
考えてみれば、私の周りの友人、知人、生徒さんの中にも
「実は 凄い人」は 結構いるもんだと思う。
ニッポンの SHOKEI (照慶)は普通の庶民だが
アメリカの SHOHEI(翔平)はホント凄い人だね。
一文字違うだけなのに~ う〜む 残念侍。
おまけ
山下清さんは昔は あまり好きではありませんでした。
でも 最近 見直して興味が出てきました。↓画像
ながい夜、短い夜
時計をのぞく
毛布をひきあげて
顔をかくす
腕を伸ばして両脇につけ
垂直に
暗い水の底に沈んでゆく姿勢をとる
眼をつむる
北村太郎氏の「ながい夜」という詩の一部だ。
寝ようとして布団に入る時に この詩を時々、思い出しては
同じような格好をして沈んでいくことがある。
ここ6〜7年、毎晩、寝るのがam.5時頃で am.7時前には
起きるという生活をしている。
私は 昔から なかなか寝付けない方だし、そもそも寝るのは
好きではない。子供の頃、夜遅くまで 遊んでいて 両親から
「早く寝なさい」と怒られて泣いていたが そのまま大人に
なった。
夜は早く寝て朝、早く起きた方が健康には良いということは
よく分かっているし、絵を描くにも 太陽光の方が色も見える
だろう。
しかし 今の私にとっては 日中は雑用が多く落ち着かない。
妻子が寝た夜中の1時を過ぎる頃になると昼の疲れも薄らぎ
お酒を飲みながら am.4時過ぎ頃まで絵を描いたり音楽を聴い
たり映画を見たりする。その後、風呂に入り 仕方がなく寝る。
風呂の後でちょっと絵が気になって加筆し始めたりすると
ついつい徹夜になってしまう事がよくある。
徹夜して絵が良くなる事は殆どないが気持ちは落ち着く。
5時に寝ても朝は7時前に起きねばならないの がちょっと
キビシイ。
自ずと血圧は高くなり、冠動脈石灰化症とか心臓肥大とも言われ
ているが それでも この「夜型人間」はやめられないでいる。
早い時間に眠れば、今よりも健康になれるかもしれないが
生きている意味(sens)は無くなってしまうように思える。
興味は 絵画から始まり、音楽や詩や映画と繋がって切りがない。
どんなに疲れていても 誰にも邪魔をされない 夜中の一人の時間が
とても 私には貴重な時間だと思える。
夜が明ける頃には酔いがまわり、千鳥足で妻子の寝ている部屋に
そおっと滑り込む。
布団に入り大きく深呼吸をすると この状況がとても「幸せ」だと
改めて思えてくる。
こんなダメな自分やこの中途半端な生き方をしていて それを許し
てくれている家人にも既に亡くなってしまつている両親や全ての
方々に対して「感謝」の思いが募ってくる。
こういう一人っきりの醍醐味は 私が「朝型」になったら感じられない
のではないかと思う。
そして翌朝、上記の北村氏の詩のように・・・
眼を見ひらいたまま
暗い水の底から浮かびあがるように
ゆめからさめる
「ながい夜」より
と起きる。
そしてまた 眠い一日が始まる。
足が痛い
デッサンのカルチャーで使う(モチーフ)大きなカボチャを6個と
玉葱を買った。それをリュックに入れて行商人のように埼玉から
神奈川まで運んだり、他のモチーフを探すのに長時間歩き回った
りしていたら疲れが溜まったのか、夕方になってから足が痛く
なってしまった。
しかし筋肉痛ではなく、左足の膝上に針が入っているような
神経痛みたいな痛みだ。妻は直ぐに医者に行けと言うが、
「こんなのは ほおっておけば そのうちに治まるだろう。」と
強がってみせた。
しかし夜中になっても痛みは治まらず、翌日になっても続いた。
不思議なことに痛みは左膝上から左腿に移ったり左腰に移ったり
する。
翌々日は油絵のカルチャーがある。
痛みを我慢してカルチャーの仕事を続けていたが、痛みは増す
ようなので 次の月曜日には整形外科に行くことにした。
医者は「これは神経痛ではなく、帯状疱疹だろうから皮膚科に
行って下さい。」と言われた。
確かに左足には虫刺されのような赤い斑点があった。
小学校の頃、帯状疱疹になったことがある。その時の痛みと周囲の
人の避けるような眼差しを思い出した。
皮膚科に行くとすぐに帯状疱疹だと診断された。
小学校の頃の事を話すと それは帯状疱疹と似た別の病気だそうだ。
帯状疱疹は 加齢(老化)や過労により免疫力が低下すると体内に
潜んでいたウィルス(子供の頃の水疱瘡)が再び活動を始め発症する
という。
感染することはないが 水疱瘡にかかった事のない1才未満の幼児には
要注意らしい。
大人に感染しないならば、とりあえず 翌日のカルチャーを休まないで
行けるので よかったと思った。(通常休めない)
教室内での講座はいいが 水彩画の次のカリキュラムは運悪く野外制作
「写生会」なので長時間歩き回らねばならなかった・・・。
人間の身体は不思議なもので 帯状疱疹は 左右どちらか半身に表れ、
一生に一度だけ発症するのだそうな・・・。
これから爺になられる皆様方、左右どちらかに一方に、偏った痛みが
走ったら それは帯状疱疹かもしれません。
また帯状疱疹の薬の注意書きに服用中は アルコールは禁止となって
いたので突然、禁酒週間が訪れてしまった。
水彩人の大原氏からも「毎晩、飲んでると早くボケるぞ。」と忠告され
たばかりなので暫くの間、禁酒もいいかも〜 。
それから10日ぐらい過ぎ、医者から完治のお墨付きをもらい、
薬も飲まなくていいことになった。
そろそろ禁酒解禁かな。
やはりボケるのかな。
ケンプを聴きながら描く
シューマンのピアノ曲に「ダヴィッド同盟舞曲集」(1837年)
というのがある。「ダヴィッド同盟」とはシューマンが空想で
作り上げた 俗っぽい音楽に対抗する同盟だという。
ちょっとビートルズが作り上げた架空のバンド「 サージェント・
ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に似ていると
思った。ビートルズ(ポール)が作ったのは1967年だから 130年
も前にこの架空同盟をシューマンは考えたことになる。
「ダヴィッド同盟舞曲集」は聴き始めた頃は ヘンテコな組曲で
好きになれなかったが 聴き返しているうちに面白さに気がついた。
シューマンは 自分の中に想像の二人のキャラクターを作る。
活動的で快活なフロレスタンと静的で思索的なオイゼビウス で、
それが音楽にも現れる。その他に言葉遊びをアナグラムで音化し
て作曲したりしていて・・・調べていくと興味は尽きない。
このシューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」や「森の情景」を
ヴィルヘルム・ケンプの演奏で聞くのが好きで このところ毎晩
のように頻繁に聴いている。
歳をとると味覚が変わるように好きな音楽家も変わる。若い頃は
ケンプの良さはわからなかった。もっと味付けの濃い感情的で
奇抜な演奏家が好きだった。
その頃、ケンプのことを「ピアノの詩人」という人がいたので
興味をもち 聞いてみたのだが、予想とは裏腹に普通の演奏で
どこが詩人と言われる所以かわからなかった。
これは私の「詩人」に対する浅い偏見だったと後程 気がついた。
ケンプは極端な事を嫌うようで淡々と弾くが、ダラけたりはしない。
人と違った事をしてやろうとするような「あざとさもない」と思う。
ケンプは若い頃、オペラの作曲家でピアノ演奏は副業だったそう
だが、戦後はピアニストとして有名になった。
ケンプがシューマンを主に弾くようになったのは71才からで、
75才からの3年間に集中してシューマンのピアノ曲を録音した
そうだ。(1991年95才で亡)
いろいろなピアノ演奏をあれこれ聴いていると、美しい音を追求
するよりも、音の向こう側にある何物かに思いを馳せているような
演奏があると感じる。
ケンプの弾くシューマンやブレンデルのシューベルト、フランソワの
ショパンやラヴェル等を聴いていると そんなことを ふと思う。
そして そういう絵が描けたらいいなと
ボンヤリ思いながら聴いている。
絵に於いても 美しい色彩や技術効果を狙った作品や,見栄えを
気にした作品が多いが、ケンプのピアノ演奏のように 自然で何か
深いものを醸し出しているような絵が好きだ。
そういう絵や音楽に憧れている・・・。







