ズレや摩擦から駒 |  SHOKEI 'S TIMES

ズレや摩擦から駒

 

クラシック等の多くの音楽において 作曲家と演奏家がいて「音楽」が

生まれる。作曲家のように曲を作る「入力」側とそれとは別に演奏する

(表す)側の「出力」が別々に存在するのが面白いと思う。

 

自作自演はそれを同時に行うことになり、作者の制作意図がストレート

に表された良い場合もあるが、別の演奏家が弾いた方がより名演になる

ことが多いというのが興味深い。

 

つまり作曲家の思い通りに演奏家が「音楽」にしてくれるとは限らずに、

作者とは異なった解釈で表現されることで 新たなひとつの作品となる。

 

「表現」に於いて ここで生じる矛盾やズレに 大きな意味(価値)がある

のだろうと考える。

 

絵画に置き換えて考えてみると 絵は殆どの場合、自作自演なので 入力

は「見る」ことが主になり、出力は「描く」ことになるだろう。

この2つの行為を一人の人間の中で行う時に 入力と出力には距離が必要

なのだと思う。最初の自己を他者として見る一種の自己否定だ。

 

見たままを安易に写生することや計画通りに仕上がった作品が物足りない

と感じるのは この距離が少ないからだと思う。

 

優れた表現には 高い矛盾率を含むものだ。

 

この矛盾や葛藤からは「瓢箪から駒」のような効果があり、表現の醍醐味

でもあると思う。また鑑賞者にとっても一番に見たい(感動したい)ものは 

この意図せずに醸し出てしまったこの駒というか「何か」なのではないか。

 

作り手としては 出そうとして追いかけても出るものでもなく、待っている

だけでも出てこない。日々の修練のようなものがあってこそ この駒が出た

時にだけ拾えるのだ。

 

時々、こういうことを神様からの啓示としてを受け取った選ばれし者のよう

に自分を言う人がいる。「何かが閃いた」とか「空から舞い降りた」と言う

人がいるが、それらの多くは単なる思い込みにすぎない。

そのようなことは 大なり小なり 誰にでも起こりうる偶然だろう。

 

画家マティスは そういう閃きを神からの贈り物のようには取らない。

それらは 日々、自分がしている修練からの賜物であって、毎日努力してい

るからこそ画面に現れた一瞬の現象でも受け取れことになると言う。

とても説得力のある言葉だと思う。

 

出力(表現)の段階で行き詰まったり失敗だと思える「痛み」の段階を経て

仕上がるものの中には 作者が意図しなかったものが生まれ、作者を開眼 

(前進)させたりして、作る喜びを体得する。

 

 

巷の展覧会には 描き慣れた猫や花などのモチーフを組み合わせただけの絵

や自己肯定の上にさらに自己肯定を重ねた 失敗のない絵も多い。

いずれも緊張も破綻もなく駒も出ない。予定調和が多いのはつまらない。

 

料理に於いて素材は大事だが、それ以上に料理人の腕(技術)が重要視され

るように音楽に於いても演奏家の力(技術)は大切だとも思う。

 

絵もそうだと思うが技術が 先に一人歩きしても困りものなのだ。

 

私は まず空間意識とタブーとされている諸問題から

紐解いてみようと思っている。