後ろ向きに未来へ
湖に浮かべたボートをこぐように
人は後ろ向きに未来へ入っていく
目に映るのは過去の風景ばかり
明日の景色は誰も知らない
これはポール,・ヴァレリーの詩なのだが とても好きだ。
絵を描くことにも通じていると思っている。
2年前から実家に残してきた作品を処分しようとしている。
小さな絵は もらってくれる人がいたり、燃えるゴミにも出したが
少し大きめな作品(20号から150号)となると貰い手はないし処分
も大変だ。処分する絵を選んでいると驚くことが多くあった。
一生懸命描いたはずなのに すっかり忘れてしまった絵もあったし、
自分の真似をして描いたつもりもないのに同じような絵が何枚も出て
きた。
今年の「水彩人」展に出品したピンク絵は自分としては かなり過激
に思い切った冒険をしたつもりであったが、実家に残した以前の絵の
中から 似たような絵が何枚も出てきた。自分の範疇を越えようとして
描いたつもりなのに結果的に同じよになっていた。お釈迦様の掌上で
ただ回っているだけみたいだ。(宗教心はあまりないが)
古い絵の山をボンヤリ眺めていると 二十歳頃から考え方は変わって
きたけど根本は ほとんど進歩がないのも・・・・。
間違えているとしたら最初の頃から違っていたのだろうが もう戻る
時間はないし・・・。
今 出きることは、必死になってボートを漕いで、後ろ向きでもいい
から少しずつ進もうと思う。
それに答えの半分は過去の風景(原風景など)や気づいていない足元
あたりにあるのかもしれない。
ちょっと前だが感動した事 運慶のお尻
少し前の話だが、忘れないようにブログに残しておこうと思った。
9月に今年の「水彩人展」が終わった日、大学の同期の友人ウォータン
(元ブロガー)とシオドン(平面~立体作家)と上野でちょいと一杯
お酒を飲もうかと集まった。
(久しぶりに飲むと言うより頻繁に飲んでいる仲間なのだが~)
お酒を飲む前にウォータンが都美術館の近くの国立博物館で「運慶」の
展示をやっているので見ようと言う。(11/30まで)
私は歴史物や宗教的な内容にはメチャメチャ疎いので あまり気乗りも
しないがトコトコついていった。
ウォータンは多方面に博識で歴史にも詳しい眼力者。
(一番詳しいのは「酒」だが)
会場に入ってすぐ薄暗い空間の中央にドーンと陳列してある
弥勒如来坐像や四天王立像に度肝を抜かれた。
久々に凄いと驚いた。
一般的には宗教的な意味や歴史的価値を評価する人が多いのだろう。
会場でも弥勒如来坐像に手を合わせ礼拝する人もいた。
私は ゆっくりと立像の後に回ったりななめ後から見上げた。
写真や資料からでは感じられない存在そのものの凄さがよく見えて
くるようだし、制作中の運慶の目や手になったつもりで見ていると
その計り知れない眼力や力強くまた繊細な表現としての力に理屈抜き
に完全にノックアウトさせられた。
特に立像の後ろの盛り上がった背中の筋肉の動勢から繋がるお尻の
動きの迫力などリアルと言う言葉では表せないほどの実在感なのだ。
横から見る布のヒダのひとつひとつの動きまで自然で、どこから見て
も完璧なのだ。
このような宇宙のような造形物を作り出す運慶の脳ミソはどうなって
いるのだろうと思った。
世間では 正面からの写真などの説明的な写真はよく見るがそれでは
この面白さは感じられない。(勿論、正面からでも凄いが)
例えば西洋のミケランジェロ等よりも はるかに凄い力量だと思う。
久々に心が震えるような感動をした。
そして「天才」という言葉は嫌いだけど 天才は存在するものだと
改めて痛感した。
「神業」よりも凄い「人間業」を堪能した。
仏像に限らず 優れた造形作品からは 生きる喜びやエネルギーを
全身で受け取ることが出来る事を改めて感じさせられた。
運慶 快慶 照慶 と続かないのが 残念。
3歩進んで2歩下がる~ (汗)
もう20年ぐらい前の事だが、32歳年上だったM 先生(故)が
亡くなる前にアルツハイマー病を患った。
一緒に出品していた銀座の画廊から自宅に帰られなくなったり
した事を思い出す。
奥様の話によると「主人はアトリエで描いている途中の絵を次々
に消してしまったり、また以前に仕上げていた作品までも消し
たり破ってしまったりしている。」と言う。
尊敬していた先生だったのでとても残念に思った。
その時は 病気のせいで発作的に そのような行動をしているの
だろうと心配していた。
しかしここ数年、私も同じように仕上げた絵を消したり破いたり
することが多くなったので ふとM先生の事を思い出した。
M先生自身は もっと自分らしい良い作品を作ろうと踠いていた
のではないだろうかと思うようになった。
アルツハイマー病になった人にはその病気の自覚はないのだろう
から今、私が絵を消してしまう事と自覚的にはあまり違いがない
ように思える。
ただ私は若い頃から消したり描き直したりすることを 自分の絵の
描き方としてきた。(最近は それが過度になってきたと思う)
油彩画を描く時は「ストリッパー」という剥離材を多用して剥がし
たり、また「テレピン油」で拭きまくって描くので キャンバスの
前にはボロ布やティッシュが山積みになっている。
水彩画ではブラシやスポンジを使いシャワーで何度も洗い流して描く。
水彩専門の方々からは「そんなのは邪道だ」と言われるが仕方がない。
流行りの工芸的でキレイな水彩画には興味はないし、絵の描き方に
戒律は設けたくない。
絵を描いていく事に於いては 要領が悪く、なかなか決定にたどり着か
ないので 才能がないと言われれば 確かにそうだろうと思う。
失敗したり間違えたから消すのではなく、描くという行為の中に
同等に消すことが重要であり、嬉しくもある。
消しても消えなかった僅かな痕跡のようなモノが積み重なって絵が
出来たらいいなぁ等と考えたりすることもある。
消し続けていると描き始めの時にはあった自我的な「意味や作為」が
だんだんと薄れていって 絵は絵として柔らかくなり、自分の作品に
なっていくだろうと思う。
今回の個展用に一年近く描き続けているが まだ終わらない絵もある。
ダラダラと描き続けているので絵の醍醐味でもあるはずの キレは悪く
ヌケもない。
このまま描き続けても「いい絵」には ならないと思うが諦められない。
いい作品を残すことよりも むしろ自分の絵を見る目を育てていきたい
と考えている。
消すことで知らなかった色や形を発見する事は とても面白い。
絵はあくまでも 受動的に描き進めていきたいと思っている。
そんなことで絵の制作には他人から見れば どうでもいいような時間が
かかっている。表現行為には「推敲」と「時間」が不可欠だと思う。
シーシュポスの神話のように 毎日、消しては描くの
繰り返しなので 作品は ほとんど前進しない。
3歩進んで2歩下がるような毎日なのだ。
今の時期、こんなことを書くと個展を直前にして作品制作が滞って
いる事の「言い訳」のように思われてしまうだろうが
確かに そーかもしれない。
しかし、どーしょーもない。
困った。時間がない。
また個展をします
ちょっと遅くなりましたが・・・
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いします。
え~ 来月、2月10日から個展をします。
隔年で開かせていただいている京橋の「ギャルリー・コパンダール」
で開催します。
「 雨 」
現在、必死で描いてます。
あまり売れないので画廊さんには迷惑ばかりおかけしていますが、
「個展」という発表形式が私の性格にあっていると思っています。
纏めて仕上げていく過程の中で 自分の方向性(センス)が明確に
なってくるような気がします。
「 夏がくる 」
お時間をつくってくださる方や お近くに来られた方は
是非、お立ち寄りください。
急用がないかぎり毎日、画廊に行くつもりです。
(夕方 早めに帰宅することもあるかもしれません。)
画廊に お電話いただければ、
必ずお待ちするようにします。
マルトの気持ちで
夏至も近づき日照時間が伸びて、夜明けが早くなった。
私は夜型というか夜中型人間なので就寝の頃に明るくなってしまう
のには ちょっと困っている。
夜が明けてくると思い出す怪談映画がある。
琵琶法師の「耳無し芳一」(たぶん)が夜明けまでお経を唱えて
いれば助かるという場面・・・。
部屋には障子の小窓があり、外界が少しずつ明るくなっていくのが
障子の色の変化でわかる。
障子がすっかり明るくなり、朝になったと思いその小窓を開けると
外は真っ暗。 悪霊が入ってきてしまう~。
未明に絵を描いていて窓が明るくなってきたからといって すぐに
窓を開けると悪霊がはいってきてしまうかもしれない。
ちょっと躊躇・・・。
私は子供の頃より夜型だが、ここ十年ぐらい寝る時間がどんどん
遅くなってしまった。 最近では 朝6時頃に就寝することが多くい。
しかし息子らの登校登園時間やカルチャーのため8時過ぎには起き
なくてはならないし、土曜日はカルチャーが午前中からあるので朝
6時に起きなければならない。(通勤に片道2時間以上かかるので)
だから毎週土曜日はほぼ徹夜状態での出勤となってしまう・・・
ここ10年 こんな生活をしている。
別に病気自慢のように悪い習慣を自慢したいのではなければ、妙な
アピールでもない。改善しようと何度も規則正しい生活を試みては
いるが、要領(頭)が悪くて ついズルズルと・・・
ここまでは前置き。
ここからが本題~
そんなことから 就寝前の朝の5時~6時に風呂に入る事が多い。
朝日が浴室の窓から斜めに入り込み浴槽が光る。夜中に飲んだ
アルコールが少し残っているせいもあるのか その反射光の中で
のんびり足を伸ばして浸かっていると、ボナールが描く浴室風景の
ようでなかなか快適気分・・・。
ボナールの奥さんのマルトは 身体が弱く一日に何度も風呂に
入っていたというが こんな気持ちかな・・・。
ボナールが描く浴室の絵の多くは「このような午前中の光」じゃ
ないのかな・・・と思ったりする。
ボナールは、光を大切にしている画家で いろいろな光をかき分け
ているのが面白い。
昼間の窓からの光やその反射光。夜の室内の電灯の明かりや黄昏時・・
場所や時間の違いを色に置き換えて表現していてすごいと思う。
私も風景を描く時に光を大切に扱いたいと思う。
風景を一つの「出来事」だと思って描く事にしている。
風景がキレイだから描くというのでは 観光絵葉書の方がいい。
最近、ネットでボナールの浴室の絵は恋人が浴槽の中で自殺した事
に由来する「怖い絵」だと論じている記事を読んだ。
私はそうは思わない。
ボナール「浴槽の裸婦」
ボナールの制作した絵の全体から考えてみれば そういう推測は
無用だと思う。小さな事件を見つけては 揚げ足を取るような批評を
するのは良くないだろう。
ここぞとばかり、面白おかしく茶化したり説明することは純粋に観賞
する者に対して大きな弊害になると思う。
晩年のボナールには 熟慮した一貫する絵画としての造形意識を感じる。
高校生の時に西洋美術館でボナールの「サーカスの馬」を見て驚き、
ボナールの虜になったが 最近になってまたまた惚れ直している。
ボナール「サーカスの馬」
ボナールを見ているとデッサンの意味がわかるような気がしてくる。
「いい絵」とプチ哲学
佐藤雅彦氏著作「プチ哲学」をカルチャーの生徒さんから頂いた。
20魔法の杖というページの話が特に印象に残った。
お猿が魔法使いに
「一度でいいからバナナをおなかいっぱい食べてみたいのです。」
とお願いする。
魔法使いは「よし 叶えてやる。」と杖をトンとつく。
するとモクモク・・・
お猿のお腹がバナナでいっぱいに膨れました。
お猿「そういうことじゃ なくて・・・」
最終的な結果が目的なのではなく、念願のバナナを思いっきり食べ
たいという その経過が目的だったりする。
私もお猿の真似をして魔法使いに
「いい絵を描きたい。」
とお願いして パッといい絵が現れたところで仕方がない。
単に素晴らしい作品を残したいというわけでなくて、描いていく
その過程を楽しみたいのだ。
それに「いい絵」って何じゃろ?
しかも魔法使いが どんなに「いい絵」を出してくれたとしても
「なんか 違う~」と偉そうに否定するだろう。
理想はどこまでいっても理想なのだろう。(カントの理念論みたいに・・・)
千利休が求めた「あるがまま」のように現実には無いモノ。
「いい絵」は見えたとしても 到達することのないモノなのかも
しれない。
だから あと10年経ったとしても「いい絵」は描けないかもしれ
ないが、今のように元気で好きな絵を描き続けていられたら
幸せなのだろうと思う。
絵を描いていると他者から評価されなくても 個人的に心が
澄んでくるような喜びを勝手に感じられるのが 楽しい。
赤目に思う
朝、気がかりな夢から目覚めて(カフカ「変身」) 鏡を見たら知らない
爺さんが映っている・・・・。一瞬、ホントにそう思った。
勿論、映っているのは私自身なのだが、なんだか別人に見えた。
左目が真っ赤で白目が殆どなく瞼が少し腫れて垂れていた。
ちょっとモジリアーニの描く人物画の目みたいに片目が・・・。
医者に行くと「普通なら3~4日で治るが、かなり広範囲に濃く赤い
ので全治には一月ぐらい かかるかも~」と言われた。
原因は不明だが、視覚には異常はないとも言われたので 先ずは
一安心した。少し重いような痛みを感じるが 気のせいかもしれない。
しかし不思議に思えたのは、医者から帰って見た鏡の中の自分の顔は
いつもとあまり変わっていない。
家人も知人もあまり この変化に気がつかないようだ。
再び いつもの顔に見えてきたというのは 脳が イメージを被せて
見ている「いつもの目」に戻ったからだと思う。
「見える」というのは目が見るというよりも脳で見ているから
変わったところがなければ、単純な記号のようにしか受け取らず、
それ以上に見ようとはしない。風景を見る場合も季節の変わり目
や光や風雨の「変化」によって ホントが見えてくることが多い。
今回は 片目が赤くなっただけの小さな異変で いつもの イメージが
払拭されたのが面白いと思った。
つまり 時に 自分とは違う人の目になって見なければならない。
朝、 垣間見た奇妙な老人像が、本当の私自身なのだろう。
録音した自分の声を聞くと 妙な変な声に聞こえる・・・。
これと同様に 他人が見ている私の顔は 私が見ている(思っている)
顔とは 少し違うのだろう。
カルチャーで受講生の皆さんに 自画像を描いてもらうと、
私を含めての事だが、5~10年ぐらいは 若く描く人が多い。
普段、誰でも目はイメージを通して見ているから自分の若い時の記憶
や気に入った表情を「自分の顔」としてを見ている・・・。
その人の目に見えたものは その人にとって事実なので 客観的な写真
とは違う面白さが絵には表されるのだと思う。
神様もお化けもUFOも 見えた人にとっては事実なので 他者が否定
するものではない。(私は無神論者だし、お化けは怖いので見たくない。UFOは見たw)
ロダンの名言に「嘘をついているのは写真の方です。」というのが
あるが頷ける。カメラのように時間を止めて見ることはできないし、
人間は心(脳など)を通して その人にとっての事実を見ている。
絵は 垣間見えた真実を元にして その上に素直に感じたものを再構築
していく。
別の人の目になり 自分が奇妙な老人の顔に見えたら、それを了解して
その上に自分の目やいつもの想いを乗せて煮詰めていく・・・・。
そして絵としての「表現」に向かうのが楽しいと思う。
往生際で考える
音楽のコンサート等を見に行って、先ず気になるのは 最初の弾き始めだ。
観客としては何が どう始まるかワクワクする瞬間だが、演奏者にとっては
会場の何もない無音空間に飛び込んでいかねばならない。
そしてその緊張は曲が終わるまで続き、失敗は許されない。
私にはこういう緊張感は耐えられない。絶対に出来ない事なので、これは
いつも凄いことだと思う。
TVで陸上競技やフィギアスケート等を見ていても そうだ。ちょっと間違え
たから「待った!もう一度やり直し」・・・とはいかない。
スポーツは結果が重要だけれど 音楽や舞台等は 結果や正確さだけではなく
「表現」としての内容も評価の対象になるので更に大変なことだと思う。
「音楽の演奏って時間の流れてゆく中で しなければならないことが物凄く
沢山あって・・・集中力がちょっとでも揺らぐとロレロレになってしまう
怖さがある。」とピアニストの方から教えてもらったことがあった。
そう思うと 私は普段からロレロレに生きていていて「ちょっと待って~」
の繰り返しばかりだ。
しかし、この「やり直し」が絵では許されるからこそ 私は描いていられる
のだろうと思うことがある。
私の場合、失敗しないで描き進むことは ありえない。何度も間違いを繰り
返しながら探していく。
描き直すこと自体が 制作方法なので 気持ちはいつも迷子の子供のようだ。
たぶんこの道を進めばいいのだろうと感性を頼りに手探りで進むしかない。
そして制作していて「終わりにしよう」と思ってからが更に長い・・・。
往生際はかなり悪いと思う。
自分に素直になろうとしてもがくので、当然 キレは悪くなり、絵に必要な
ヌケ感が乏しくなってしまう。
学生の頃、テストの答案用紙を書き終え提出して、廊下に出たとたんに
正解を思い出す事がよくあった。試験会場に戻って直せたらいいのにと思う
・・・・絵では気がつけば 戻って何度でも直せる。
その繰り返しで進んでいくので 自分にとっての発見や確認がある。
これは絵を描く楽しさの一つであると思う。
作り込んでいく楽しさみたいな・・・
ベートーヴェンの自筆譜
ベートーヴェンのメチャクチャに書き直しがある自筆譜を見て 音楽に於いて
一回性が大切なのは 演奏者の場合だと気がついた。
作曲家は絵のように 何度も繰り返し書き直すのだろう。(異なる場合もあるだ
ろうが・・・)
そう言えば ブルックナーのように改訂版が複数ある作曲家もいた。
ベートーヴェンの自筆譜は訂正だらけで 私には親近感を覚えた。
まるで画家のサイ・トゥオンブリーの作品のようで 何かが生まれる前のカオス
を見ているようでもある。
トゥオンブリーは昔からなぜか 好きな画家の一人だ。
彼の絵は 上記したような「作り込む」意識とは全く反対で 、そういう作為も
なく、見せようとする緊張感とは別次元の画家だと思う。
サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly、1928年4月25日 - 2011年7月5日)
勿論、ベートーヴェンは人に見せようして楽譜を汚したのではないだろ
うが、制作過程の秘密を除き見るような面白さがあると感じる。
モノを作り始める前のモヤモヤみたいな・・・
絵も自分の素直な心を表すので 見られたくない葛藤や迷いがでてしまう。
制作中の 迷いや葛藤を仕上げに向かう途中で 弱い自分で直視していたく
ないので 私は ついついカッコつけて・・・隠してしまう。
欠点や短所を否定し取り除いて、清廉潔白な作品を求めているのではない
はずだ。負の部分を削除していては「詩」ではなく「格言」のような絵に
なってしまうと思う。
「みつを」にはなりたくない・・・なんて
自分をもっと晒さねばならないと思いながら・・・・・
しかし これがムズカシイ。














