神楽岡にある換骨堂です。
東向山蓮華院換骨堂という曹洞宗の寺。
神楽岡の東麓に位置。東三条院藤原詮子の離宮があったという跡地。永観2年(984年)、比叡山延暦寺の僧・戒算が延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を、この地にあった円融天皇の女御・藤原詮子の別荘に移します。正暦2年(991年)、皇太后詮子は出家して史上初の女院となって東三条院と号し、正暦3年、神楽岡東麓の離宮を寺に改め、真正極楽寺(真如堂)を創建します。真如堂発祥の地とされます。
真如堂は応仁の乱で焼失。洛中を転々と移転。元禄6年(1693年)、東山天皇の勅により神楽岡東麓に戻り、現地の南西高台の現在地に再建されます。旧地であるこの地には念仏堂と呼ばれる小堂が建てられ、元真如堂と呼ばれたといいます。
天保元年(1840年)、天保の地震により念仏堂は倒壊。天保13年、黙旨という尼が復興、曹洞宗の尼寺としました。以来、尼住職の寺となっています。
境内には藤原詮子の供養塔があります。
本堂。
本尊・釈迦牟尼仏を安置します。
藤原詮子供養塔。
詮子の陵墓は宇治陵にあります。
藤原詮子(962~1002)は平安時代の皇太后、女院。関白藤原兼家の次女。母は藤原時姫。天元元年(978年)、17歳で3歳年上の円融天皇に入内。女御宣下。天元3年、懐仁親王出産。天元5年、円融天皇は唯一の皇子を産んだ詮子を差し置き、関白藤原頼忠の次女・藤原遵子を立后させて中宮としたため、詮子は懐仁親王を連れて里第の東三条第に籠り、父右大臣兼家とともに出仕拒否。永観2年(982年)、円融天皇を退位に追い込みました。同年、花山天皇が即位。懐仁親王は東宮に立ちます。寛和2年(986年)、兼家の策略により兄道兼が花山天皇を誘い出し出家退位させ、懐仁親王は7歳で即位、一条天皇となります。詮子は皇太后となり、父兼家は摂政のちに関白に転じます。兼家は長男道隆に関白を譲って死去。道隆の長女定子が一条天皇の中宮となり、三后が改められ四后配置。正暦2年(991年)、出家。皇太后を停めて史上初の女院となり、東三条院と号します。長徳元年(995年)、病となった道隆は嫡男伊周への関白譲渡を求めるも、一条天皇は道隆病の間のみ関白代行とし、道隆が死ぬと道兼を関白としました。同年、道兼も天然痘で没。伊周は内大臣であったのに対し、詮子の弟道長は権大納言でそれより下位でしたが、詮子は一条天皇の夜の御殿を訪れ道長を関白とするよう説得。道長は内覧右大臣となり、翌年、左大臣に昇進。長徳2年、伊周、隆家は花山法皇射撃事件を起こし配流。長徳4年、詮子病の恩赦により、伊周、隆家が帰京。長保元年(999年)、道長の長女彰子が一条天皇に入内。長保2年、詮子は一条天皇に彰子立后の親書を送り、彰子は立后して中宮と称し、定子は皇后と改称。一帝二后となりました。定子は媄子内親王を産んで出産死。媄子内親王を引き取ります。同年、詮子の願いにより伊周の官位復位、朝堂復帰。長保3年、崩。
換骨堂;京都市左京区浄土寺真如町82-2