宇治陵(総遥拝所・1号墳墓)~藤原北家木幡墓所 | 古都の礎

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木幡にある宇治陵です。


古都の礎-宇治陵

 

一帯は木幡古墳群と呼ばれる古墳時代から平安時代に至る350近い墳墓が築かれた地域。宇治陵も木幡古墳群の一つ。

平安時代の元慶年間、藤原北家出身で初の関白となった藤原基経が「相地之宜、永為一門埋骨之処」、すなわち一門の骨を同じ場所に埋めるべきであるとして、木幡と呼ばれるこの地を藤原北家一門の埋骨地と定めます。以降、平安時代末期まで、藤原北家の墓所(埋骨地)となりました。当時の墓は、鳥辺野などで荼毘に付された後、遺骨を埋骨地に運んで土に埋め、小さな盛り土をして塚としただけのものでした。

長寛2年(1164年)、前関白藤原忠通を東山月輪に葬って以降、木幡墓所は用いられなくなります。鎌倉時代初期、藤原摂関家が五摂家に分裂したこともあり、木幡墓所は土に埋もれました。

明治10年(1877年)、当時の宮内省は、木幡墓所に葬られている藤原北家出身の天皇の后妃たちの陵墓を比定するため調査を行います。このとき17陵3基が陵墓に比定されて「木幡陵」と名付けられました。

その後の調査で陵墓は拡大され、明治27年、37ヶ所が陵墓に比定されて「宇治陵」とされました。37ヶ所の宇治陵は1号から37号まで番号が振られ、いずれも現在、宮内庁の管轄にあります。これらの陵墓は、付近の丘陵地一帯、住宅地や茶畑、山林の中に点在しています。

宇治陵の中には古墳時代の古墳も含まれているとみられています。

古都の礎-宇治陵

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宇治陵1号墳墓。

37ヶ所に点在している宇治陵の総遥拝所ともなっています。


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木幡に葬られた記録が残る后妃と親王の名。

宇治陵1号墳墓の前にありますが、誰がどこに葬られているかは明らかではありません。


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藤原氏榮域の碑。

木幡に葬られた記録がある藤原北家の主な氏長者たちの名。

閑院贈太政大臣冬嗣、昭宣公関白基経、本院贈太政大臣時平、法興院摂政兼家、南院関白道隆、法成寺関白道長、宇治関白頼通、後宇治関白師実。

宇治陵には木幡墓所に葬られた藤原北家の墳墓も含まれているとみられています。

こちらも総遥拝所である宇治陵1号墳墓の前に建てられていますが、誰がどこに葬られているかは明らかではありません。

 

 

 

宇治陵;京都府宇治市