どんな仕事にも勇んで挑戦を!
小説「人間革命」「新人間革命」から

 1953年(昭和28年)4月、戸田城聖は東大生に第一回の法華経講義を行う。終了後、一人の学生が質問した。
 ――大学で専攻した学科を生かせる職業分野に進みたいが、希望どおりでなくても就職すべきでしょうか。
 戸田の答えは明快であった
 「牧口先生は、よくこう言われた。
 ――好き嫌いにとらわれて、損得を忘れるのは愚(ぐ)である。損得にとらわれて、善悪を無視するのは悪である。
 ――まったく、このとおりで『好き(美)であり、得(利)であり、善である仕事』につくのが、誰にとっても理想です。
 しかし、実社会は、残念ながら君たちが考えているほど甘くない。希望どおり理想的な職業につく人は、きわめて少ないだろう。おもいもかけなかったような仕事をやらなければならない場合のほうが多い。
 さて、そこでどうするべきかが問題となってくる。
 私に言わせれば、こういうとき、青年はけっしてへこたれてはいけないということだ。いかにしても、当面の仕事をやりきり、大いに研究し努力すべきだと私は思う。
 君たちには、もはや御本尊という最大の生命力を出す根本法がある。嫌な仕事から逃げないで、御本尊に祈りながら努力していくうちに、かならず最後には、自分にとって好きであり、得であり、しかも社会に大きな善をもたらす仕事に到着するだろう。
 それまでのさまざまな道草は、このとき全部、貴重な体験として生きてくるのです。信心即生活、社会であり、これが仏法の力なんだよ。
 君たちは、まだ気づかないかもしれないが、それぞれ偉大な使命をもって地球上に生を享(う)けたのです。将来は、おのおのの立場で第一人者になるはずだ。若いうちは、むしろ苦しんで、さまざまな体験をし、視野の広い実力を養うことが大切だね。
 心配するとこではない。青年は、あくまで信心というものに挑戦していきなさい。
 将来、大成するか否かは、信心即生活の原理からいって、結局、当面の仕事を真剣にやりきれるか、どうかにかかっている。勇気のないものは青年として、すでに失格者です」
(『人間革命』第八巻「学徒」の章)

読書の楽しみ方講座 中島 孝志

なかじま・たかし 早大政経学部、南カルフォルニア大学大学院修了。PHP研究所、東洋経済新報社を経て独立。経営コンサルタント、経済評論家、出版プロデューサー、大学・ビジネススクール講師など広く活躍中。原理原則研究会、松下幸之助経営読書会を主宰。著書は200冊超。読書は年間3000冊。落語と大衆演劇、そしてシャンソンの熱烈なファン。毎日更新の音声サイト「聴く通勤快読」が人気。
 
●なぜ本を読む?
はじめまして、今回からこの講座を担当することになりました。よろしくお願いします。
 読書、大好き。出掛ける時は必ず本をポケットに忍ばせています。つい本を忘れて食堂に入ったりすると、いつの間にか、お品書きを真剣に読んでいる自分を発見してひとり苦笑する始末。ここまでやらなくてもいいですよね。
 おかげで年間3000冊の活字中毒。本に埋もれて足の踏み場もない、というのはわが家のことでしょう。
 ところで、「どうして本を読むのか?」と聞かれたら、やっぱり「そこに活字があるから」でしょうね。
 活字=情報です。この情報は仕事だけじゃなくて、新発見とか感動を「おまけ」に連れてきてくれるんです。だからなんとなく昨日よりも成長しているんじゃないかな、と実感できる。これが楽しいんでしょうね。
 早い話が〝小さな人間革命〟が楽しいわけです。
●二種類の読書 
 読書には実は二種類あるんです。
 推理小説や歴史小説を読んでワクワクする。時間が過ぎるのを忘れてしまう。楽しくて楽しくてしょうがない読書。もうひとつは、「これは仕事で使える」「部下の指導で使ってみよう」「商売に活かそう」という情報を入手する読書です。
 前者を「知的消費の読書」、後者を「知的生産の読書」と私は呼んでいますが、いちいち意識する必要はありません。なぜなら情報というものは必ずどこかでつながっているからです。科学や歴史、宗教、美術など、一見、仕事や商売とはまるで関係ない。しかし意外や意外、ヒント大ありだったりするのですよ。
 経営者に人気の司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんや藤沢周平さんの小説にしたって、「人間を勉強するには最高だ」「部下の指導にも使える」と感じる人は少なくないと思います。
●主人公は自分
 大切なことは、どんな本でもヒーローモードで読んでもらいたいことですね。脇役ではなく、あなた自身が主人公になって読む。「自分だったらこうする!」「こうしたらどうだろう?」と他人事ではなく当事者意識を持ち続けること。それをぜひ習慣にしてもらいたいですね。
 〝ワトソンくん、水道の蛇口からこぼれる水一滴からナイアガラの滝をイメージできるか。これが推理なんじゃよ〟――命探偵シャーロック・ホームズが推理のコツを新人に伝授した場面です。
 ぼんやり読んでいると通り過ぎちゃいます。けど目利きが読めば深いイマジネーションを沸き起こしてくれます。
 「蛇口からこぼれる水一滴」とはインテリジェンス(=使える情報)のこと。
 「ナイアガラの滝」とはイマジネーション(=想像力)にほかなりません。実はどんな仕事もインテリジェンスとイマジネーションの産物なんですね。
 読書はこの二つを徹底的に鍛えてくれます。だから、本当に〝小さな人間革命〟を実現できる道具なんです。

体をいためない 古武術介護

理学療法士 介護福祉士 岡田慎一郎

 一人ではベッドから起きにくい方を無理なく起こす技術です。
 実際の介護現場でベッドからの起こし方を見ると、手伝い過ぎてしまうことが多いように思います。例えば、起きるのが大変そうだからと、最初から最後まで起こしてしまい、介護を受ける方は何もしないで、身を任せてしまう介護も珍しくありません。
 一見、優しい介護に思えますが、本人が出来ることも手伝うと、動く機会を奪うことになり、かえって意欲の低下を招いてしまう可能性があります。介護者の動きは、最小限にすることが大切です。
 まず、介護を受ける方の動きをよく見てみましょう。介護者の方を見たり、ベッドの柵をつかんだり、足を動かしたりと、部分的な動きは出せていますが、起きる動きをしようとすると、どうもうまくいきません。
 起きる動きは全身のバランスが取れて初めて行える、実はかなり高度な動きなのです。
 しかし、バランスが取れれば、あとは動ける要素がそろっているので、介護者は力ずくで起こす必要はなく、バランスを補うだけになります。
 具体的には、寝た状態から肘(ひじ)を見るようにして上体を起こす時、襟の下辺りに軽く手を添えます。上体を起こそうとする力は加えません。あくまで、相手の動きのペースに合わせ、バランスが取れて動きやすい状態を保つだけでいいのです。
 手のひらが上の状態から手首を返し、肘を伸ばしながら上体が起きてくると、股関節(こかんせつ)と膝(ひざ)もしぜんとまがり、足をベッドの側面に下ろす動きが出てきます。
 この時、介護者は膝に軽く手を添えますが、力で足を下ろすことはしません。手を添えながら相手の動きに合わせ、動かしにくい場合のみ誘導します。
 すると、足の重さが活用され、自然と上体も起きてきます。全体的に見ると、襟の下と膝に手を添えてバランスを取り、頭が半円を描くような起き方です。両足が床についたら両手をベッドに付き、安定した姿勢をとってもらいます。
 バランスだけ取っても、起きられないのではと思うかもしれません。しかし、実際に行うと想像以上に動きを引き出せることに、介護を受ける方と行う方、双方が驚くことも少なくありません。
 ぜひ、試してみてください。

鳴門教育大学准教授 阪根健二
 思春期になり、わが子が言うことを聞かない。非行に走るようになった。もう取り返しがつかない――このように悩んでいる保護者は意外に多いものです。そうした悩みを抱えている人の中には、「これまで十分に甘えさせることができなかったことが原因では」と考え、「私の子育ては失敗だった」と落ち込んでしまうかたもいます。
 私はいつも、「子育てのやり直しはきかないのでは」と不安な思いを打ち明けてくださるお母さんには、「悩まないでください。今からでも、大丈夫ですよ!」と答えています。
 実は、思春期の子どもにまつわる、さまざまな問題は、子ども自身というよりも、保護者の方の不安や揺らぎの方が問題なのです。
 子どもは少々のやんちゃをします。逸脱することがあるのが自然です。その時に大人がどのような態度をとったのかが重要です。幼少期ならば、叱る程度でも十分でしたが、思春期になればそう簡単ではありません。
 叱るよりも、子どもたちに責任を持たせることに重点を置くべきです。
 もし、警察等の関係機関で指導される状態になっても、そこで受ける処置に対して安易にかばうよりも、それを共に乗り越えようという姿勢が必要です。謝罪ややり直しも、大人が率先して範を示し、それを子どもに実行させることがポイントです。
 家庭内での反抗程度なら時間が解決してくれるでしょうが、もし、万引きなどの非行があったら、さすがに動揺してしまいますね。ただ、こうした場合も、あわてず一緒に謝罪に行き、心の底からおわびをしましょう。その行為を子どもは見ています。そして、本人にもしっかりと責任をとらせます。これが再起のきっかけとなるのです。
 ただ、これらの対応は、保護者自身の中にある、世間体への意識を変えないとできません。何より、子どもを思う本来の心を思い起こすことです。つまり、周りの目や中傷などを気にしないで、子どもと共にこれまでの人生を取り返す決意をすることです。これができれば、子どもはあなたの深い心を理解するようになり、変わっていくでしょう。
 〝子育ての失敗〟なんて言わせない、すてきな子どもがあなたの前に帰ってきますよ。

子どもが輝く ほのぼの育児
児童精神科医 佐々木 正美

 学校生活のいじめや不登校の状況は、世界のほかの国には類を見ないほど、わが国では深刻な問題です。その数や頻度や程度が、ひどいということです。
 この連載の第一回にも、関連することを少し書きましたが、わが国の青少年ひきこもり現象について、国際的な活動をしてきたアメリカのジャーナリスト、マイケル・ジーレンジガー氏は鋭く分析しました。入念な取材と調査によって著わした『ひきこもりの国』という本で、同氏は、日本の親子間には「愛着」の形成が弱いことを、明解に指摘しています。親子のきずながもろいということです。
 例えば、日本の子どもは幼い時から、親の顔色を伺いながら話をしていて、親子間に心から信頼しきった「本音の会話が乏しい」ことを挙げ、危惧しています。
 多くの子どもにとって、母親に抱く愛着は、その後すべての人間関係の、基本をなすものです。母親から「無条件に、十分に」愛されていることを実感することで、心が豊かに育っていくのです。
 わが国の子どもは、母親への愛着が弱い。そして、そのことが子どもの不登校や青年のひきこもりということに、根っこのところで深く結びついていると指摘しているのです。
 愛着の感情とは、人を信じることの原点ですから、大切に大切に育てられてこなければならないものです。
 過日、NHKのテレビ番組の中で、ひきこもりの特集をしていました。カメラの前で語った若者の何人もがそろって、人間関係が怖いという意味のことを、発言したことに、深刻な心配をしています。
 別の番組では、就職の面接を担当した、人事課の人たちが、卒業を前にした大学生の「顔が死んでいる」と表現していました。これには、驚きを通り越して、悲しみを感じました。
 これらの若者たちは、幼少期から無条件に十分に愛されてきた経験が大きく不足していたのでしょう。
 私たちはいつのころから、子どもたちに、あれこれできるようにと、大人の側からの希望や条件を大きくしてしまったのでしょうか。そうした子どもの心を無視した過剰な期待が、一部の子どもたちには大きな重荷になっているのです。

ノンフェクション作家 沖藤典子

 認知症高齢者が住むグループホームを訪問した時のことです。
 女性ばかりで、ほとんどが90代前後の方々ですが、皆さんニコニコしながら、あいさつに出てきてくださいました。
 お盆にお茶をのせ、「いらっしゃいませ。どうぞ」――そのしぐさ、手つきは、まさに一家の主婦そのもの。年齢を重ねた穏やかな雰囲気です。
 「同じことを繰り返し言うようになっても、こういう社交能力は失わないんですよ」と施設長が教えてくれました。「だから、認知症が理解されなくて、家族には悩みの種になるんですが」とも。
 でも、あいさつする力、ニコニコと接待する力は、人間の能力の中で最も大切なものではないでしょうか。あいさつをすればニコニコも出る、ニコニコのないあいさつなんて、炭酸のないサイダーのようなもの。
 人間、幾つになってもニコニコ。他の何ができなくても、病で同じことを100回繰り返しても、あなたは立派なホモ・サピエンス(人間)。他の動物とは違うといえますね。
 ところが最近、あいさつ・ニコニコをしなくなった人が増えているような気がします。
 誰かが近づくと、ついっと顔を背ける、顔をしゃくるようにして口の中でモゴモゴ。
 「どうして、声が出ないのよ!」
 「どうして、にっこりしないのよ。顔の筋肉がないのかい?」
 結構多いのが、失礼ながら中高年男性。この方々はよく、「最近の若い者はあいさつをしない」と言います。ですが、私の見る限りでは、自分があいさつをされていないということに過ぎず、自分からはあいさつもニコリともしないのです。
 中には、近所との付き合いを避けて、拒否する方もいます。あらゆる社会的な「縁」を絶って、援助の手も拒否しています、孤立死される方も。
 〝無縁社会〟は〝無念な社会〟ですね。
 だから福祉関係者は言います。「あいさつ上手は行き方上手」
 人間、幾つになってもニコニコあいさつ。「大晩年」というのも、こんな小さな光景が始まるんですよね。

●室温に置かず、十分加熱 
④調理する時
 加熱調理の食品は、十分に加熱する。目安は、中心部の温度が75度で1分間以上の加熱。
 料理を途中でやめる時は冷蔵庫に入れる。室温に放置すると、細菌が食品に付いたり、増えたりすることがある。
⑤食事の時
 食事の前に手を洗う。清潔な手で、清潔な器具を使い、清潔な食器に盛り付ける。
 調理前後の食品は、室温に長く放置しない。
⑥残った食品を扱う時
 残った食品を扱う時にも手を洗う。きれいな器具、皿を使って保存する。
 早く冷えるよう、浅い容器に小分けにして保存する。
 温め直す時も、十分に加熱する。みそ汁やスープなどは沸騰するまで過熱を。
 少しでもあやしいと思ったら食べない。

 食中毒が増え始める季節。例年、O157などの「腸管出血性大腸菌」による食中毒が多く発生しますが、今年はその他の細菌についてもニュースなどで注目されています。食中毒を防ぐポイントと、腸管出血性大腸菌についてまとめました。
●細菌、ウイルス等が原因
 食中毒は一年中発生し、原因には、細菌、ウイルス、自然毒などがあります。細菌の代表格がサルモネラやO157ですが、O26やO111なども食中毒を引き起こします。
 これらの細菌は高温多湿を好み、梅雨の時期から夏、さらに秋にかけて活発し増殖します。全食中毒の、実に9割が細菌性の食中毒と言われています。
 ノロウイルスなど、ウイルスによる食中毒が発生しやすくなるのは、気温が低く、空気が乾燥する冬です。
 自然毒とは、キノコや野草、フグなど、自然に含まれている有害物質を指します。
●包丁・まな板は用途別に
 食中毒の原則は、食中毒菌を「付けない、増やさない、やっつける」です。この3原則をもとにした注意点を確認します。
 ①食品購入時
 ●肉汁や魚などの水分を伴う食品は、もれないよう、ビニール袋などに分けて包み、持ち帰る。
 ●冷蔵や冷凍が必要な食品の購入は買い物の最後にし、購入後は早めに帰宅する。
 ②家庭で保存する時
 ●冷蔵や冷凍の必要な食品は、帰宅後、すぐに冷蔵庫・冷凍庫に入れる。
 ●肉や魚などはビニール袋や容器に入れ、他の食品に肉汁などが掛からないようにする。
 ●肉、魚、卵などを取扱う時は、前後に必ず手を洗う。
 ③下準備をする時
 ●保存時と同様、生の肉、魚、卵を取り扱った後は手を洗う。途中でトイレに行く、鼻をかむ、ペットに触るなどした場合は、その後必ず手を洗う。
 ●生の肉や魚を切った後、野菜など生で食べる食品を切る時は、包丁やまな板をそのまま使わず、洗って熱湯を掛けてから使う。包丁やまな板は、肉用、魚用、野菜用と別々にそろえて使うと、さらに安全。
 ●冷凍食品などを室温で解凍しない。解凍は冷蔵庫や電子レンジで。
 ●包丁、食器、まな板、ふきん、たわし、スポンジなどは、使った後すぐに、洗剤と流水でよく洗う。ふきんが汚れた時は、交換するか、漂白剤に一晩つけ込む。
 包丁、食器、まな板などは、洗った後に熱湯を掛けると消毒効果がある。たわしやスポンジは、煮沸すれば効果が高まる。

つづく・・・

 女優 杏(あん)さん 火曜午後9時 フジ系

 連続ドラマ初主演となる、フジ系「名前をなくした女神」で、サラリーマン・秋山拓水(つるの剛士)の妻で幼稚園の息子を持つ専業主婦の侑子を演じている。〝侑子漬〟の毎日が続き、左手薬指の結婚指輪もすっかり体になじんだ。
 子どもの小学校受験をめぐって、〝ママ友〟たちの友情、嫉妬、見え、裏切りなどが複雑に絡んだ人間関係がドラマでは描かれる。「主役といっても、輪の中心に置いていただいて、みんなに支えられているようなもの。恵まれています」と、あくまでも控えめだ。
 一番の課題は「母親をいかに自然体で演じられるか」。そのため、待ち時間などは可能な限り息子役の俳優と一緒に過ごすようにしている。「モニターに映る自分の顔が優しくなっているのがうれしい。子どもの存在が母親にさせてくれる。子どもって、そういう力を持っていると感じます」
 新しい台本を手にするたび、ママ友役の共演者たちと過激な内容の話題で盛り上がる。現場は和気あいあいとした雰囲気だが、ドラマ内の侑子は人間関係で誤解を生み、孤立していく。「空気を読めない発言をしたり、人の私生活に立ち入ったりしてしまう侑子を見ていると、彼女にも過失があると思える。悪意がないからいい、ということではないと思う」と冷静な見方をする一方で、「それが人間。私自身も無意識のうちに人を傷つけていることがあるかもしれない」と、わが身に置きかえる。
 幸い侑子には、理解のある夫がいる。「それで随分、救われると思う。秋山家では家族がいろんなことを共有しているし、話もよくする。いいファミリーです」
 ファッションモデルを経て、4年前に女優デビュー。「もともと、あまり感情が顔に出る方ではなかったのですが、いろんな役を演じ、感情表現することで普段の生活でも表情が豊かになった」と、うれしそうに話す。
 自他共に認める読書好きで、年間100冊以上は読破する。「活字人間です。書くことも好きなので、いつか本も出したい」。読書で鍛えられた読解力は、台本を読み込む力にもつながるはず。
「面白いのは台本を読んだ際のイメージが監督と違っているとき。共演者にもまた違った捕らえ方があり、それらが合わさって一つの作品になる。そこにもドラマの面白さを感じます。


 鳴門教育大学准教授 坂根健二

東日本大震災の被災地では、今なお困難な状況が続いています。ただ、多くの学校で授業が再開され、子どもたちにも笑顔が見られるようになりました。しかし、心の奥は厳しいものを抱えており、大人たちの支えが必要です。
 いまだ余震や原発事故など、不安定な状態が続いています。その都度、過去のつらい記憶がフラッイュバックのようによみがえってくることがあるかもしれません。その時こそ、大人が「今は大丈夫だよ」と抱きしめることも必要でしょう。
 子どもは、大人たちが苦しんでいる時には、精一杯我慢をします。決して表情などに出さず、けなげに踏ん張ろうとします。暗い顔をせず、笑顔で接してくれます。
 今、そのことを大人が理解し、子どもたちをしっかり支えていくことが大切です。その支えで、子どもたちの心の安定が図れます。
 復興の過程では、親と離れ、子どもだけで別の学校に通うことも少なくないでしょう。こうした時だからこそ、周囲の大人たちが親のようになり、接してあげてほしいと心から重います。
 「我慢しないで泣いていいよ」
 「思いっきり甘えなさい」
 こんなメッセージが子どもの心に届けばいいと思うのです。ことさら子どもたちに「大丈夫?」なんて聞かずに、横にいて、ただ、わがままを聞くことも必要だと思います。
 災害に遭遇した子どもは、大きな音、揺れ、サイレンなどに敏感です。災害に遭遇していない子どもたちにも繰り返しテレビから流れる津波被害の映像などが、子どもたちの不安をあおっています。恐怖の再生産が起きています。
 こうした時は、あわててテレビを消すという態度よりも、大人から別の話をしたり、興味が湧く何かを子どもに与えたりしてください。ちゃんと子どもたちは、大人たちが配慮してくれていることに気づいてくれます。
 最近の子どもは我慢しない、自己中心的と言われます。実は違います。子どもたちこそ、周囲を気遣い、今。自分に何ができるか真剣に悩んでいます。
 子どもゆえに何もできないから、不安になったり、ふさぎ込んだりしてしまうのです。また、それを隠すために、笑顔や元気な行動が表れるのです。
 子どもたちが本当の笑顔を取り戻すためにも、私たち大人ができるか、今一度考えていきたいと思います。