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ショーン・タンの世界展-どこでもないどこかへ

どうも遊木です。

灼熱の日々も過ぎ、だんだん創作向きの季節になってきましたね。

 

実はそこそこ活発に活動しているのですが、すぐに公表できるものがなく、若干冬眠気味に思われている気がします。

ちなみに毎週ひとつふたつ、妙に期間が集中して開催される各展覧会にも行っているので、それなりにアクティブでもあります。

どの展覧会も、コロナ対策の関係で人数制限をしていますが、その影響でいつもよりストレスがない状態で作品を見られるのが、なんとも皮肉というかごにょごにょ

 

というわけで、最近見に行った中で興味深い展覧会があったので、今回はそれをご紹介。

 

そごう美術館で開催中の『ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ』(~10/18まで)です。

近くに横浜美術館という立派な美術館があるので、差別化を図るためか、そごう美術館は前々からザ・美術というものからは少し外れた展覧会を開くイメージがあります。

例えばアーティストとして王道であるダ・ヴィンチを扱うときも、作品そのものではなく、彼の開発者としての顔に注目し企画を練ったりしていました。

そして、それらの企画展が結構刺さるんですよね。私に。ありがたいこっちゃ。

 

前置きはここまで。以下企画展の感想です。

 

 

 

ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ

 

 

ショーン・タンはオーストラリア出身、絵本制作を中心に幅広い創作活動をするアーティストです。

私自身は「あれ、この作品見たことあるな?」程度にしか知らない作家でしたが、今回の展覧会ですっかり虜となりました。

妙に日本人に刺さるというか、親近感を覚える作品が多いなぁと感じましたが、作者曰く、出身のオーストラリアは多文化主義で、特に作者のいた西オーストラリアはかつて日本人が真珠産業のために移住し、現在もその名残が街にあるようです。また、手塚治虫や宮崎駿、村上春樹の影響も受けているとのことで、なるほど、この親近感は日本を代表する巨匠や歴史の影響故なのだな、と。

 

数点作品を見ただけでひしひしと感じるのが、作者の真面目さと誠実さです。

尖った拘りを感じるアーティストは沢山いますが、ここまで丁寧に、そして誠実に何かを表現しようとする気持ちが伝わってくる作風はなかなかないと感じました。

油絵も鉛筆画も柔らかいタッチで、それが作者の表現する、優しさや少しの切なさを孕んだ物語と非常にマッチしています。

一見突飛な世界観や登場キャラクターであっても、共感できる感情の流れや、嫌味がない風刺的な表現は、鑑賞者に寄り添った作品作りを思わせます。

 

例えば、移民を題材に制作された『アライバル』では、言葉が一切使われていません。

文字表現のないまま物語は進み、しかし、登場キャラクターがそのとき何を考え、何に驚いたのか、しっかりと伝わってきます。ともすれば重いテーマになりがちな移民問題を、必要な重さは残しつつも、主人公が人として当たり前に感じる切なさや驚き、喜び、未知との遭遇、それらが胸にストンと降りてくるような表現でまとめられ、緻密な描写で制作されています。

 

また、会場で放映されていた『ロスト・シング』(15分程度の短編アニメ映画)は、未知の生物の迷子をあるべき場所に帰してあげるという、単純なストーリーでありながらも、現代、現実を生きる我々の感情を揺さぶる要素が沢山散りばめられていました。

そもそも未知の生物を認識できない人々、邪魔者扱いする主人公の家族、ガラクタ管理局のほの暗い闇、そして迷子を帰したのち、時間の経過とともに“彼ら”を認識できなくなっている主人公の、無常に対する寂しさと少しの諦め。

ファンタジーな設定、世界観でありながらも、作中に在るものはどれも現実の私たちが日常の中で、存在を認識しつつも見ないふりをしている沢山のものです。

しかし、迷子と主人公の別れ際、手を振ってもとある場所に帰っていくシーンは、寂しさだけでなく、不思議と優しい気持ちにもなれる。それがショーン・タンの人柄を表しているようにも感じました。

 

 

 

 

 

造形については好みの問題もあるでしょうが、私の場合はストライクでした。

「うわー…こういうの考えたことあるぅ」みたいな気持ちにさせます。滲みでいているスチームパンク感も良いです。

そして個人的な話ですし、恐れ多いですが、『ロスト・シング』の油絵の塗り方、『アライバル』の鉛筆画の雰囲気がすごく自分のタッチと似ていたのも、親近感を覚えた理由かもしれません。

ショーン・タンは物語によって描き方も使い分けており、そもそも非常に画力が高い作家ですが、その中に自分と近い描き方があったことがちょっと嬉しく感じました。

私の場合は選んでその画風にしたというよりは、とびぬけた色彩感覚や独自の画法を見つけられなかっただけで、とにかく空白を塗りつぶすためにひたすら筆を動かしていた、という感じですが……。

会場に展示されていた作者の言葉で、「インスピレーションが突然降ってくることなどない。筆をとにかく動かし、その中から見つけるのだ」というニュアンスの言葉があり、あぁ、自分がやっていたことは非凡な方法ではなかったかもしれないけど、間違っていたわけでもなかったんだなぁと。

 

画集も良いですが、やはり生の作品を見ることをお勧めします。特に油絵はその厚みや表面の質感によって、全然絵から伝わってくるエネルギーが違います。

 

デジタルツール、オンラインサービスが活発になってきている現在、皮肉にもコロナ禍によって、生で見ること、実際に体験すること、直接会えることの重さやありがたさを見直している人も多いのではないでしょうか。

テレワークなど、「別にこの先もオンライン中心で良いのでは?」と感じるものも多々ありますが、便利さや合理的なシステムが発展しつつも、“なまのもの”が押しつぶされず、共存できる社会であれば良いと思います。

 

 

 

aki

「横浜創作オフじゃない会」まであと一週間! そして、再開条件を整理してみる。

横浜創作オフ会の幹事、須々木です。

 

すでに一応の告知はしている 横浜創作オフじゃない会 まで、今日でちょうど一週間です。

 

 

 

 

近くなってきたので、ここからは少しだけ宣伝のギアをあげようと思っています。

 

なお、企画の内容については、特設ページをご覧ください。

 

普段の横浜創作オフ会のように、事前に参加連絡をいただく形式ではないので、どれくらいの人が注目してくれているのか見当がつきませんが、人数に関係なく粛々とやります。

 

興味のある人は、何卒宜しくお願いします!

 

 

 

 

 

 

 

・・・などと言ってますが、9月26日(土)の18:00~20:00ハッシュタグをつけて自己紹介ツイートをしてもらえたら、それでOKなんですけどね。。

 

是非この機会に、己の存在を知らしめてほしいです。

 

 

 

 

 

このような形式なので、過去に参加歴のない方も乗ってくれるのか分かりませんが、横浜創作オフ会は、常に新たな参加者大歓迎です。

 

単なるマッタリ同窓会的集まりではなく、常に新たな出会いと刺激を求める集まりです。

 

というわけで、今後の横浜創作オフ会(リアル版)への参加に興味のある方は、今回の「横浜創作オフじゃない会」でも、過去の参加歴を問わず遠慮なく絡んでほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

*       *       *

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、この機会に、少し真面目に具体的に「横浜創作オフ会」の再開条件を考えてみようと思います。

 

世の中的にまだまだ問題山積ですが、流行が始まった当初のバタバタ感はなくなってきて、多少現実的な想定ができるようになってきた気がします。

 

というわけで、現時点で幹事的に思っている再開条件を書いていこうと思います。

 

※ もちろん状況は流動的なので、あくまで「現時点で」という理解でお願いします。

 

 

 

 

 

 

「横浜創作オフ会」再開の際に満たすべきと考える最低条件

 

 

① 横浜で開催する。

 

何と言っても「横浜創作オフ会」ですからね。。

似たような趣旨で、誰かが別の場所でやるのは自由ですが、「横浜創作オフ会」として僕が開催する場合は、横浜でやります。

よって、横浜で開催できる状況になっている必要があります。

会食の自粛要請、営業時間短縮要請、移動の自粛要請なども、基本的には、なくなっていることが大前提です。

 

 

 

② 参加希望者は基本的に人数上限を設けず受け入れる。

 

例えば、本当はもっと参加希望者がいるのに、上限を設定し10名だけで開催・・・などということはやりません。

過去の実施規模と比べて極端に大人数とならない限り、参加希望者が全員参加できる状況が前提と考えています。

この点は、自治体の要請やお店の方針などの影響も受けそうです。

 

 

 

③ 一つの場で飲食をともにしつつ、歓談する。

 

オフ会なので、オフで集まって楽しく飲み食いするのが大前提です。

そして、結局これが一番厄介なところです。

ずっとマスクをしながらというわけにもいきませんし、オフ会の現場は、どう考えても“密”になります。

また、「楽しく」というのも絶対的に重要で、危険を感じながらストレスフルにやるのは違うだろうと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

上記①~③を見たとき、普通に考えれば、③が一番厳しいでしょう。

 

つまり、逆に言えば、③をクリアできる状況になれば①②はたぶんOKになっているでしょう。

 

 

「一つの場で飲食をともにしつつ、歓談する」というのは、オフ会の根幹のような条件なので、これが無理なら完全に別のイベントの扱いとなるでしょう。

 

不確定要素は多いので、様々な可能性は考えられますが、今は「横浜創作オフ会」としての再開についてだけ考えることにしましょう。

 

 

③をクリアできる状況は、どういう状況か?

 

いくつか考えてみました。

 

 

 

 

 

(A) 新型コロナウイルスが消えたり弱毒化したりすることにより、リスクがなくなった場合。

 

もっとも楽観的なパターンです。

過去の様々なウイルスの事例から考えて、弱毒化についてはなくもないと思いますが、予測できるようなものではありません。

なったらラッキー・・・というやつですね。。

 

 

 

(B) 治療法の確立等により、ほとんど生活に影響を及ぼさないようになった場合。

 

十分に有効なワクチンが開発され、国内で広く行き渡る状況などがこれにあたります。

ただし、ワクチンというのは、頑張れば必ずつくれるものでもなく、また、その効果の程度や持続期間についても、実際にできてみないと分かりません。

「そのうちワクチンができる」と気楽に言えるほど確実なものではないのが難しいところです。

 

ただし、ワクチンができなくても、治療法が確立して、死亡リスクや後遺症リスクが十分低くなれば、あまり問題はなくなります。

感染時の隔離期間、医療費の個人負担の程度も、判断材料となるでしょう。

ウイルスを検出するための各種検査の大規模化と迅速化と精度向上により、リスクをほぼ完全に可視化できるようになった場合も、状況は大きく好転するでしょう。

 

一応、集団免疫獲得により流行が落ち着くというパターンもあるかもしれませんが、日本においては現時点でそこまでの大規模感染に至っていないため、あまり考えない方が良いかもしれません。

そもそも、感染した際に抗体がつくられるのか、つくられた抗体がどのくらい効果を発揮するのか、どのくらいの期間効果が持続するのかなど、よく分からない点も多いです。

 

 

 

(C) 社会全体が新型コロナに慣れて、特に気にしなくなった場合。

 

致死率がそれほど高くないことや、大多数の人は感染しても症状が軽いことが分かってきたので、ある程度の感染を甘受しながら社会を以前のように回していく方向で、何となく皆が合意するケースです。

結局、一番危険なのは医療崩壊なので、それだけ避けつつ、コロナ以前とほぼ同じ生活を段階的に取り戻していくパターンは十分あり得ると思います。

病院や高齢者施設以外のクラスターについては、特に話題にもならなくなるくらい、気持ち的な意味で「慣れる」という状況です。

 

例えば、比較的規模の小さなライブハウスがコロナ以前と同様の方式(客を普通に入れて、かなり密な状態で、マスクもせずに大きな声を出して楽しめる)で全国的に再開されることが、世の中的に受け入れられるような状況になれば、横浜創作オフ会も再開できるでしょう。

ライブハウスにおけるリスクは、人数の規模は多少違っても、オフ会におけるリスクとかなり近いので、比較対象としては分かりやすいです。

 

 

 

 

 

 

再開判断は容易ではありませんが、状況を見て妥当な判断をしていきたいと思います。

 

コロナ禍であろうと創作は楽しめるわけなので、再開した際には、話のネタがてんこ盛りになっていることでしょう。

 

横浜創作オフ会を実施できない期間が続いていますが、創意工夫でうまく適応していきたいものです。

 

というわけで、当面はオフじゃない感じでやりすごしましょう。

 

ま、なんとかなるでしょ!

 

 

 

 

 

横浜創作オフじゃない会

 

日時 ⇒ 2020年9月26日(土) 18:00~20:00

主催 ⇒ 須々木正 @rw_suzusho

ハッシュタグ ⇒ #横浜創作オフじゃない会

 

 

 

 

 

sho

 

 

 

 

コロナ禍で際立つ〈独学のすゝめ〉 ~ヨコハマトリエンナーレ2020雑感~

須々木です。


先日、現在開催中のヨコハマトリエンナーレ2020の全会場を回ってきました。






例によって、思ったことを書き留めていこうと思います。

好き勝手書いていきますが、素人のメモ書き程度の内容なので、そのつもりで。

 

さらに言うなら、ほぼ自分向けのメモ書きです。

 

偉そうに語っているところは、寛大な心でお願いします。






なお、「そもそもヨコハマトリエンナーレとは?」という人は、以下のページを先に軽く見ておくと良いです。

● 横浜トリエンナーレについて (公式サイト内)
● 横浜トリエンナーレ (wikipedia)






僕は、第4回展(2011年)から毎回見ているので、今回の第7回展(2020年)で4回見たことになります。

このブログでは、第5回展(2014年)のとき、そこそこガッツリ書きました。

他の回については、遊木が書いているものがあるので、興味があればそちらもどうぞ。




《当ブログ内のヨコハマトリエンナーレ関連過去記事》
ヨコハマトリエンナーレ (2011-09-29 by aki)
“忘却”の先に ~横浜トリエンナーレ2014雑感~ (2014-10-27 by sho)
ヨコハマトリエンナーレ感想①現代アートにおける作品と空間の矛盾 (2014-10-31 by aki)
ヨコハマトリエンナーレ感想②アートの定義 (2014-11-01 by aki)
トリエンナーレ2017感想~1=1ではもはや満足できないアート展~ (2018-02-15 by aki)










まず、今回のトリエンナーレで特徴的なのが、「テーマ」から展覧会を構想する(一般的なやり方)のではなく、オープンな複数の「ソース」を出発点とする方法をとっているという点です。

詳しくは、実際に「ソースブック」を見て欲しいのですが、ざっくり言えば、今回の展覧会の舵取りをするアーティスティック・ディレクターが提示したいくつかのテキストを参照し、議論を交わしアイデアを共有する中で、全体を形作っていくというもの。

土台の組み方から、今回のトリエンナーレは違っているので、これが最終的にどのような形となるのかは、会場に行く前からかなり興味をひかれました。





ところで、公開されている「ソースブック」を読むと分かってもらえると思いますが、そもそも関係者の読解力の高さに驚かされます。

これを読み込んで議論してモノをつくっていくのか・・・と。

そもそも、どんな分野でも、一定以上の存在感を放つ人は、大前提として高い読解力を持っている気はしていましたが、アート分野でもそのように感じる場面は多いです。




今回のトリエンナーレのタイトルは、

ヨコハマトリエンナーレ2020

「AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」

(英題: Yokohama Triennale 2020 “Afterglow”)です。

タイトルに込められた意図については、サイトを見て欲しいのですが「光の破片をつかまえる」力の一つが、読解力なんだろうなとは思います。

読み解くべき対象は、テキストだけとは限りませんが。











以下、会場の作品をいくつかご紹介(敬称略)

 

なお、サイズや配置的に写真で全体像を伝えることが困難なもの、動的なのでそもそも静止画像ではどうしようもないものが大半なので、その点はご了承を。

 

あと、作品説明もここでするのは大変なので、興味があれば現地に行ってください(会期は10月11日まで!)

 

そもそも、誰かに説明されるというよりは、自分で見て感じるべきものですし。






では、メイン会場のひとつ、横浜美術館の展示作品から。




「予期せぬ共鳴」(イヴァナ・フランケ)。

MARK IS側の「美術の広場」から横浜美術館を写したものですが、建物全体をプリントメッシュで覆うという大掛かりな作品。

毎回、トリエンナーレでは美術館前の空間に何か作品がありますが、今回は美術館の建物自体を組み込む形に。




 


「回転する森」(ニック・ケイヴ)。

入ってすぐの空間。

天井から無数のガーデン・ウィンド・スピナーが吊り下げられています(回転し続けているものも多いので、実際に見ないと雰囲気は分かりにくいと思います)

見た目は綺麗ですが、中には不穏なモチーフも紛れ込んでいます。

ちなみに、ここまでは無料で入れます。




竹村京の作品群。

思い出の詰まったさまざまなモノを「蛍光シルク」を使って修復しています。

いずれも独特な光を放っていました。

発想としては伝統的な修復技法である金継ぎに通じますが、ノーベル賞を受賞した緑色蛍光タンパク質の遺伝子を導入した蚕が吐き出した糸を使用することで、現代的な種々のテーマも内包しているのでしょう。

 

 

 

 

レボハング・ハンイェの作品。

その場で流されていた動画作品とセットです。

 

 

 

 

「つながりの啓示―Nagula」(ロバート・アンドリュー)。

上部のレールを行ったり来たりしながら、ノズルが壁に吹き付けられていた土の層を洗い流し、会期中、徐々に言葉が現れてきます。

 

 

 

 

 

「地球に身を傾ける」(ローザ・バルバ)。

スクリーンには、放射性廃棄物貯蔵管理施設に関する不穏な雰囲気の映像が流れています。

また、映写機自体も絶妙に不安感を煽る特徴的な挙動をしています。

 

 

 

 

「アルゴス」(キム・ユンチョル)。

ガイガー・ミュラー管ミューオンを捉えて光ります。

 

 

 

 

「クロマ」(キム・ユンチョル)。

常に点灯しているわけではありません(画像は点灯中のもの)

 

 

 

 

 

 

 

エリアス・シメの作品群。

離れて見ると、落ち着いた色合いの抽象画のように見えますが、接近して見ると・・・。

主に、パソコンを構成する様々なパーツを大量に使用してつくられています。

4枚目の作品はかなり巨大ですが、パソコン内の配線を大量に使っています。

 

 

 

 

 

「からみあい」(エヴァ・ファブレガス)。

腸をモチーフにした作品です。

腸というのは、何十億ものバクテリアが生息する一つの世界であり、数百万ものニューロンが存在する巨大な神経ネットワークを有する器官でもあることに着目し、思考のきっかけを与えてくれる作品です。

見た目も特徴的ですが、感触もかなり癖になります。

 

 

 

 

「ジャイアント・ホグウィード」(インゲラ・イルマン)。

200年近く前のヨーロッパで、珍しい観賞用植物として一世を風靡したそれは、環境のあちこちに広がり、さらに実は炎症を引き起こす樹液をもっていた。

はじめ「ありがたい」と思っていたのが、実は・・・というパターンは、人類の歴史の中で幾度となく繰り返されてきたストーリーでもあります。

 

 

 

 

「宇宙工芸船(金星)」(オスカー・サンティラン)。

金星と同じ成分の土で作られた作品。

宇宙に関して重要な情報を得るべく、金星が太陽の前を横切るという珍しい天体現象に各国の天文学者が注目した1874年。

観測のため各国から日本に観測隊がやってくる中、メキシコ観測隊は横浜に入港しました(紅葉坂にも「金星太陽面経過観測記念碑」があります)。

地球と金星と太陽を繋ぐ現象が、横浜と世界の国々を繋ぎ、過去と現在まで繋ぐという。

 

 

 

 

青野文昭の作品群の一つ。

傷ついた家具などを材料とし、補い合うことで新たな作品にしています。

綺麗に修復するわけではなく、歪な形状をそのまま残し、別の形態を目指しています。

 

 

 

 

 

「動物故事」(ジャン・シュウ・ジャン)。

不思議な世界を垣間見せるストップ・モーション・アニメーションと実物展示。

画像は、美術館の旧レストラン厨房を活用した展示物。

動画作品を鑑賞し、さらに奥に進むと、このようになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続いて、もう一つのメイン会場、プロット48(横浜美術館から徒歩6分ほど)

 

こちらの会場は、2019年5月まで横浜アンパンマンこどもミュージアムとして運営されていた暫定施設を活用したものです。

場所は、みなとみらい48街区。

なお、アンパンマンこどもミュージアムは、同じくみなとみらいの61街区(マリノスタウン等の跡地)へ移転&開館しました。

 

 

 

 

 

 

プロット48は、主に北棟と南棟で作品を観覧できます。

 

というわけで、南棟から。

 

 

 

 

 

アモル・K・パティルの作品群。

連結された4つのカセットプレイヤーも、他の作品たちも、常に動作しています。

画像2枚目、3枚目については、写真では何がどう動いているのか想像もできないと思いますが、奇妙に生物的に蠢いています。


 

 

 

 

「マルチチュード」(アンドレアス・グライナー)。

容器の中は、ただの水ではなく、非常に小さな夜光虫(単細胞藻類)がいます。

日中に光合成をし、暗闇で発光する特徴を持ちます。

パフォーマンスのときは、1枚目の画像のとおり、ピアノの上に配置され、照明を完全に落とした暗闇の中、演奏の弦の振動に呼応して淡い光を放ちます。

 

 

 

 

 

 

「ヴォルカナ・ブレインストーム(ホットラーバ・バージョン)」(エレナ・ノックス)。

昨年の黄金町バザールで非常に強い印象を受けた作品が、ついにヨコハマトリエンナーレへ。

ちなみに、そのときのブログはこちらを参照

この作品、かなり説明が難しいので、アーティストのサイトのページでも適当に見てください(だいたい英語ですが、下の方に日本語のチラシっぽいものがあります)

雑に言えば、「エビのためのポルノ」を追求した作品です(?)。

 

ちょっとこの作品だけは、会場の作品解説パネルをそのまま掲載しちゃいます。

 

 

たぶん読んでも意味不明だと思いますが、現場で見てもなかなかインパクトがあります。

かなり広いスペースを使い、かなりやりたい放題やっています。

真面目に突き詰めていることはわかるけれど、同時に遊び心も果てしなく。

結果、「どうしてこうなった・・・」と言えるものが現れるという。

 

 

 

 

アリュアーイ・プリダンの作品群。

古布などを使ったものです。

 

 

 

 

南棟を出て・・・

 

 

「バランシング・アクトⅢ」(ジョイス・ホー)。

南棟と北棟の間の中庭空間を区切るような金属製の隔たり。

しかし、その土台はロッキングチェアのようになっていて、押せば簡単に揺れます。

 

 

 

 

 

ここから北棟。

 

 

「プラネット・ブルー」(ラス・リグタス)。

現代アートの展覧会では、時々、強めの狂気を感じることがありますが、今回はこの作品がそれに当たると思いました(エビも凄かったが)

この場にあるような物体と、ライブストリーミング配信がセットになった作品です。

 

 

 

 

 

 

「1、2、3 ソレイユ!(2020)」(ハイグ・アイヴァジアン)。

白と黒のコントラストが目を引きますが、白はチョークの白です。

フランスにおいて1998年のサッカーワールドカップ以降、警備体制が大きく変化したことを題材としています。

群衆、スペクタクル、権力、監視など。

 

 

 

 

 

 

 

 




個々の作品については、こんな感じで。

他にもいろいろありましたが、キリがないので。。

※ Instagramにも画像をアップしています。適当にご覧あれ

 

 



そして、ここから先は、さらにまとまりなく、全体を通して感じたことを羅列していきます。

「思いつくままに」という方針なので、本当にまとまっていません。

ご注意あれ。











「テーマ」でなく「ソース」で構築された展覧会という特徴は、随所に見られたように思います。

その意味で、アーティスティック・ディレクターの色は確かに出ているなと。

なお、個人的に非常に面白いと感じた第5回展(2014年)でも同様の感覚がありました。

 

また、アーティスティック・ディレクターが、今回、初めて日本人ではありませんが、非欧米のインドから呼んだというのは良かったと思いました。

現代アートに限らず、「欧米こそ、お手本である」みたいな刷り込みが日本に蔓延っている気がしますが、この発想が場合により発想や感性の自由度を下げているようなところも感じます。

 

視野を広げてこその現代アートだと思うので、現代病とも言える視野狭窄に抗うという意味でも、納得のチョイスだと思いました。

賛否を問わず現代のキーワードとして存在感を増す「多様性」という点においても、インド的感性というのは、何らかの刺激や気付きを与えるもの。

インドのカオス的なまでの多様性、その清濁は、今回のトリエンナーレの根底にあったようにも思います。

そして、文化の玄関口たる港町としての歴史を重ねてきた横浜との親和性も感じます。

 

もっとも、横浜のアート界隈は、アジア系にかなり振れている気がしなくもないので、今後のトリエンナーレで海外から再び呼ぶ場合、欧米系なのか非欧米系なのか、少々気になるところではあります。

今回のトリエンナーレでは、欧米的価値観に対し結構批判的に捉える雰囲気を感じるところがあったので、この路線の継続か、揺り戻しでバランスをとるのか。

横浜にアジア系の文化が混在しているのは事実ですが、開国させたのは欧米であり、まず欧米文化の流入があったのもまた事実。

どちらも横浜の重要な側面だと思うので、あまり片方に寄るのもいかがなものかとは思わなくもないです。

 





今回のヨコハマトリエンナーレに、「テーマ」は設定されていませんが、「ソース」を読むと、そこにいくつかのキーワードがあることに気付きます。

「独学」「発光」「友情」「ケア」「毒」の五つです。

観覧ガイドなどにも書かれていますが・・・

 

「独学」: 人に教えられるのではなく、自ら学ぶこと

「発光」: 学んで光を外に放つこと

「友情」: 光の中で友情を育むこと

「ケア」: 互いをいつくしむこと

「毒」: 世界に否応なく存在する毒と共生すること

 

アーティスティック・ディレクターから「ソース」が発表されたのは、昨年のことです。

しかし、まるでコロナ禍を予言していたかのような、不気味なまでの時代性を感じさせます。

コロナ禍はまだ収まっていませんが、それでもなお、というよりは、だからこそ、今やるべき展覧会だったという気がします。

国際的な展覧会で、先陣を切ってリアルに客を入れて開催した意義は、十分あると思いました。

(もちろん、会場での対策もかなり厳重でした)

 

国際的イベントでありながら、当然、普段と比べて外国人の姿が見られなかったのは、少々勿体ないと思いましたが、こればかりはしょうがない。

これが最善手だと言えるものだったと思います。





ところで、話が変わって、少々マイナスな点も触れたいと思います。

 

ここ数年感じることが多くなってきましたが、動画作品が多い・・・。

しかも、長い動画作品が増えてきました。

以前は、基本的に動画作品もすべて見ていましたが、今回は数時間に及ぶものもあり、現実的に見ていられないものがいくつもありました。

 

とは言うものの、実際には、長さはそれほど重要ではありません。

どちらかと言うと、中身に思うところがあります。

素人だからそう感じるだけかもしれませんが、単なる記録映像、単なる証言集のようなものが延々と続くタイプのものが増えてきたように思えますが、これらはアートの範疇なのだろうかと、そこそこ疑問に思いました。

 

もう少しうまくまとめれば、NHKでドキュメンタリー番組として放送できそうなタイプの作品も複数ありました。

社会における矛盾、問題提起などの題材が複数ありますが、これらは、映像の一部を見て何かを感じればそれでOKというより、しっかり見られてこそ価値があるものなのではないかと思います。

わざわざ字幕までつけてつらつら語っている映像は、展覧会の会場ではなく、YouTubeに置いた方が、余程有効に機能するのではないかと。

ある程度の人数が入るシアターで上映されているわけでもないので、会期中、それをしっかり見る人がどれだけいるのか。

多くの人に見てもらうことを放棄しているようにも感じられて、なかなかポジティブな印象は持てませんでした。

いったい何のための作品なのか。

 

この流れが、一過性のものであって欲しいなと思う次第です。

もちろん、展覧会にあってこその動画作品(または動画を活用した作品)もありましたが。





今回もインパクト大の「ヴォルカナ・ブレインストーム」について。

昨年の黄金町バザールで見ていたわけですが、二つの異なる会場で観覧すると、個人的には、黄金町という場の方が、より淫靡な感じが引き立って良かったと思いました。

今回のトリエンナーレではじめて知って「なんじゃこりゃ」と思った人にこそ、黄金町バージョンを見てもらいたかった。

残念ながら無理な話ですが。

ただ、より明るく開けた今回の会場においても、やり方がぶれないのは非常に良かったと思いました。

やはり強かった・・・。




ヨコハマトリエンナーレと黄金町バザールを比較すると、「場」が持つポテンシャルの差を感じる部分もあります。


横浜美術館という「場」に対して、アーティストやキュリエイターが扱いづらいのかなと思うことがあります。

逆に、黄金町は「場」がもっているバックグランドが超強力なので、扱いやすい気はします。

黄金町の場合、そこに作品を置くだけで、意図してるしていないを問わず、作品が「場」の記憶を吸収し連結し有機的に広がっていきます。

一方、横浜美術館は、バブル期の再開発に端をなした、整えられた世界の整えられた美術館として、多層的な意味を背負うだけの懐の深さはまだ感じられない。

アートには清濁両面が必要だと思いますが、横浜美術館は、なかなか「濁」を置きにくい。

これは、他の一定規模以上の美術館に広く共通することかもしれませんが。

この点は、今回、プロット48の「ヴォルカナ・ブレインストーム」を見て、より強く感じたところです。





いつの時代においても、アートにはそれなりの存在価値が生じる。

では、この時代においてはどのような存在価値があるのか。
 

個人的には、「すっきり理解できないものを理解できないまま受け入れる思考の訓練」として重要な意義を感じます。

GAFAが国家を凌いで巨大なシステムを生み出す現代において、データはたえずカテゴライズされ、分かりやすさの正義の元、人々の前に並べられる。

プログラムの都合は、生身の人間の思考回路にも影響を及ぼし、現代人は曖昧さに対する許容が退化してきたように思えます。

そのような状況において、アートは、曖昧さを失わない。

アートの鑑賞は、曖昧さの許容訓練とも思えます。

ある一つの課題に対して、「絶対的な解」があるように感じてしまう現代の病に対するリハビリとも言えます。

時代や出自など、膨大なファクターにより鑑賞者の差が生じ、受け取り方の差が生じることは必然的であり、それを型に嵌めようとすれば、破綻が生じるのもまた必然。

にもかかわらず、絶対的な何かを信じ掲げ、時に喧嘩を売り強要し、殊更に嘆き・・・なぜ、これ程までに明確な罠に自ら突っ込んでいくのか。

かつては、日常はより曖昧で適当だったのだろう。

地球には多くの未踏の地があり、未解明の概念に拘っていれば、社会は回らなかった。

しかし、科学の進歩は、曖昧さを潰していき、受け身の人々は、曖昧さから離れて生きるようになり耐性を失った(「死」が身近なものでなくなったのと同様)。

今回のヨコハマトリエンナーレは、「ソース」を出発点としました。

括るものがなければ、展覧会は単なる個の集合であり、単なる作品の陳列であり、それ以上の価値は創出されない。

よって、何か括るものが必要となりますが、それを「テーマ」ではなく「ソース」としたのが肝です。

「テーマ」というのは、ある意味、それを定めた時点で、ゴールの一歩手前にいるとも言えます。

科学者たちも、良いテーマに出会えることの重大さは身に染みている。

「これだ」と思える研究テーマとの出会いが、その後の研究者人生を大きく左右します。

しかし、「ソース」となると、そこから各個人がどのような「テーマ」を見出すかという時点で大きな幅が生じます。

この「幅」こそが必要であり、故に、曖昧さに不慣れになった現代に対し、アートの存在意義をまざまざと感じさせる優れた手法だと感じました。


 

今回、各作品に添えられたキャプションは、かなり特徴的でした。

非常に詩的であり、意識的に解釈の幅を残しています。

「啓蒙」ではなく「独学」を推すというメッセージを端的に感じさせるものであり、面白い試みであり、新鮮なものでした。

 

一方で、これはこれでやはり啓蒙のようにも思えました。

作品解釈を明示しない代わりに、アートの難解さや曖昧さを明示し、味わい方を誘導されているようにも思えました。

「よく分からないままで正解だ」と敢えてレクチャーされている感覚は強い。

先回りして挫折の原因を丁寧に取り除いた感じでもあります。

手取り足取りの誘導は、現代的なUIの概念を思わせますが、アートの鑑賞シーンにおいて、賛否は分かれるかもしれないと感じました。









それで、結局「テーマ」と「ソース」の差は何なのか?
 

意地悪な言い方をすれば、「ソース」とは、複数の「テーマ」を何重にもオブラートに包み、敢えて分かりにくくしたものなのか。
「ソース」の選択は、アーティスティック・ディレクターの中にある潜在的「テーマ」に基づくはず。

とすると、「ソース」を掲げても「テーマ」の不在にはならない。

遍在であり混在である。

「ソース」の存在は、むしろ「テーマ」の解釈を縛っている印象も受ける。

長いテキストは、端的なワードより、余白を潰し、明確に定義する力を持つ。

今回のトリエンナーレの「ソース」は、乱雑に動く羊の群れに投入された、牧羊犬のようなもの。

極めて統一の難しい領域に、秩序をもたらしているようにも感じました。



「テーマ」(題目)だけでなく、そこにストーリーを付加する手法は、聖書的でもあります。

読み解くことで、思考や行動に枠組みが与えられる。

「ソースブック」は、今回のトリエンナーレにおける「聖書」として機能しているのでしょう。
そして、「聖書」は、啓蒙の象徴とも言える。

故に、個人的には、「独学」とは多少の距離を感じます。


 

なお、横浜のアート界隈だと、個人的な感覚で、横浜美術館は「啓蒙」のイメージ。

黄金町やBankARTは「独学」のイメージです。

これはなかなか皮肉なことで、横浜美術館については、今後、何らかのアップデートを勝手に期待したいところです。

すでに触れた通り、「場」として、なかなか扱いにくい気のする横浜美術館ですが、改めて前々回のトリエンナーレ(2014年)のときは、見事だったという思いを新たにしました。

この特性をすべて受け入れた上で、考え得る最高の形に整え直していたと思います。

今回のトリエンナーレも、つくり方、特にその発想は面白かった。

しかし、横浜美術館はそう簡単に手懐けられないなと。

 

「ソース」で掲げられている内容は、まるでコロナ禍とそれに伴う社会や個人の変容を予見していたかのようで、この2020年にやる展覧会として、本当に見事に合致しています。

だからこそ、何かもったいなさを感じてしまう。

何か、もう一歩が欲しかった。



間違いなく行って良かったし、いま見るべきものだと思ったし、たくさん刺激をもらいましたが、同時に、どこかにモヤモヤが残る感覚。

とはいっても、もしかして、これこそが「AFTERGLOW」なのかもしれませんが。


「ソースブック」にもある、アナログテレビの放送終了後のホワイトノイズの話。

ビッグバンの名残である宇宙マイクロ波背景放射の電磁波、その「光の名残」を意識せずに見せられていたわけですが、この電磁波が宇宙に描くゆらぎと同様、壮大なスケールで広がるモヤモヤとの付き合い方を、各々が考えていく必要があるのでしょう。






sho

 

 

 

終わる前からロス。

どうもこんばんは霧島です。今日で8月終わりとか……嘘やろ?という気持ちです。

でも前回ブログを書いた時よりはだいぶ過ごしやすくなって……きたような…これからは台風とかでてんやわんやするんでしょうか。なかなか気が抜けないなと思う今日この頃です。

さて、今日は最近観たドラマの話をしようかなと思います。
現在放送中の作品ではMIU404が激推しです。以下本編のネタバレは特にしませんので観たことない人もどうぞ。(むしろ観たことある人は物足りないだろう…)

もう似なさ過ぎて諦めた。

 

タイトル『MIU404』の“MIU”とはMobile Investigative Unit(機動捜査隊)の頭文字で、“404”は主演の綾野剛さんと星野源さんが演じる機動捜査隊員の二人を指すコールサインです。

警視庁には現在機動捜査隊が3つ存在しますが、本作は警視庁の働き方改革の一環で作られたという架空の設定の臨時部隊、「警視庁刑事部、第四機動捜査隊(通称第四機捜)」が舞台となっている1話完結型の作品です。

綾野剛さんが演じるのは、身体能力が高いけれど機捜での経験がなく、警察官としての常識にもかける伊吹藍(いぶきあい)。星野源さんが演じるのは頭がキレて理性的だけど、自分も他人も信用しない志摩一未(しまかずみ)。
めちゃくちゃざっくりいうとこのデコボココンビの化学反応で毎話事件が解決されていくわけですが、とにかく脚本と演出が素晴らしいです。

公式にノンストップ機捜エンターテインメントと謳うだけあって本当に始まりから終わりまで息つく暇なく面白いです。

1話で完結するので途中から観ても楽しめるけれど、数話に跨る謎も配置されているので次もまた観なければと思わせられます。それも下手に引き延ばすのではなく絶妙なところで答えも持ってきてくれる…

いわゆる連ドラや連載物のヒキと言われるものはもちろん次回を読んでもらうための一つのテクニックですが、キャラクター自身に謎を持たせることで続きが気になる&その謎が解けた時に視聴者がよりキャラクターを身近に感じることができるという点がすごくよく作用しているように感じました。

あと社会問題の反映が絶妙だなと思います。
もちろん警察の話なので何か事件が起こってそれを解決するという流れとの相性の良さはあると思いますが、その問題と向き合った結果の答えはいつもずしんと胸に響くようでした。
重いものを受け取りつつも、最後の最後に希望を掬い上げるような……私もいつかそんな話をかけるようになりたいと思わずにはいられません。

演出に関しても画として観た時の巧さもさることながら、音楽の掛け方にものすごい熱を感じます。
主題歌は米津玄師さんの「感電」なのですが、これがまためちゃくちゃ良いところで流れてくるんですよね…冗談抜きで痺れます。
作中で使われている曲もかっこいいのでぜひ聴いてみてください。


遂に今週金曜日が最終回です。まだ終わってないのに既にロスに入っており……

同じスタッフさんが手掛けており世界線も同じらしい「アンナチュラル」を一気見してしまいました。
こちらは石原さとみさん演じる法医解剖医が主人公の法医学ミステリーです。このドラマで使われたのがかの有名なLemonですね……これもめちゃくちゃ良かった……併せてご覧いただくとより楽しめると思います。

今まであまりドラマのBOXは買ったことがないのですが、これはちょっと検討しようかな……

はい、そんなわけで今一押しのドラマについてでした。


したらば!

rin
 

ディズニーアニメ映画見たり次回作について悩んだり。

 こんにちは。今日は今までの酷暑がおさまり比較的すごしやすい日だなぁ~!と喜んでいたら、夕方から雷雨になり、その所為かパソコンが一度落ちて滅茶苦茶焦りました。喜ばしてから落とす、今年は色々な物事が極悪すぎる。殺意の波動に目覚めそうなこの頃。

 

 それはさておき、新しい相棒を紹介します。

月初めくらいに買った新しい眼鏡!紫色のフレームが珍しくてついコレにしてしまった。

 

 やぁ~最近は眼鏡安くなりましたねぇ~!自分滅茶苦茶視力が低いので、度数がエグい分お値段もエグくなるイメージだったんですが、今は2万くらい出せば大抵の眼鏡は作れるので良い時代になった!

 少し前からガクンとディスプレイが見えづらくなってしまい、「眼精疲労か?」「少し早い気がするけど老眼か?」と思って検査してもらったんですが、「遠い所を見る分には今の眼鏡で十分だけど、近くを見るには度が強すぎるのかもしれない」とのこと。なるほどね。というわけで、あえて度を下げてはじめてのパソコン作業用眼鏡です。私がかけるとモサいのが残念だけど眼鏡はカワイイので問題ない。これからよろしくな相棒。

 

 ここしばらくは親戚が事故って少しバタついてましたがそれも無事に一息つき、次回作に向けてプロット書いたりネーム切ったり、某ソシャゲの影響でD映画についてのツイを見かける機会が増えたのが嬉しくて自分が持ってるディズニーアニメ映画見返したりしてました。

 やっぱり自分は『ターザン』『ヘラクレス』『ムーラン』が大好きだ!としみじみ思いました。昔から音楽や挿入歌や王道な物語が好きでしたが、今見て思ったのはこの3作品ではヒロインが好きなのも大きい要因かなと思いました。ムーラン、ジェーン、メガラ、どの子も私のツボをついて来る。すごい名作は沢山あるけど、やっぱ「刺さる『なにか』があるかないか」て大きいなぁと思ったりした。音楽はどれも最高だけど、フィル・コリンズのテーマ曲だったりゴスペルだったり中華風の音楽だったりも絶妙にツボだし。ついでに言うけど悪役はハデス様が一番好き。

 この6年くらいディズニーランド・シーにも行けてないし久しぶりに行きたいなぁ。美女と野獣エリア、本当なら4月にオープンだったのに…コロナのバカ…滅せよ…。そういえば、ひとりで行くとキャストさんがすごい構ってくれるって噂聞いたんだけどマジなのかな?店員さんに話しかけられるの苦手マンだから、できればほっといてくれると嬉しい。

 

 残暑も厳しい予報になってるけど、とりあえず好きな作品見てテンション上げて次回作の制作も頑張るぞ!それではまた

 

noz