ヨコハマトリエンナーレ感想①現代アートにおける作品と空間の矛盾
どうもこんばんわ遊木です。
今回は前々から予告していたヨコハマトリエンナーレの感想を含めた、現代アートのあれやこれについて書こうと思います。
ちなみに3日間かけて、「横浜美術館⇒新港ピア⇒BankART⇒黄金町エリア」というルートで回りました。日程の関係でトリエンナーレの8話のライブインスタレーションは見れていませんが、都合がつけば11/3の「消滅のためのラストショー」の前に見に行きたいなと思っています。
3日は8話⇒ラストショー⇒スマートイルミネーションという流れで見られたらベストですね。
さて、ヨコハマトリエンナーレ2014の感想ということですが、数日前に須々木氏がタイトルやコンセプトについての考察を長々書いていたので(2014/10/27)、私はもっと個人的で独善的な感想を書いていこうと思います。
ちなみに取り上げた作品について、ひとつひとつコンセプトなどの説明は入れていきませんので、気になる方は公式サイトなどと並行して見て頂くと良いかもです。
ヨコハマトリエンナーレ2014
華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある

第一に感じたのが、展示作品と横浜美術館のミスマッチさです。
入館したことがある人はわかると思いますが、横浜美術館はもともと中世、近代芸術の展示に向いている、一般人がまず初めに思い浮かべるであろう、小奇麗な、所謂「美術館らしい美術館」の構造をしています。
そんな建物の、入館して目の前の中央ホールにどーんと設置されていたのが巨大なゴミ箱。

「世界の中心には何がある?」
現代アートにしては非常にストレートで、わかりやすい表現です。序章として、まずこの展覧会のコンセプトを印象付けるには良い設置なのではないかと。
でもおそらく、現代アートの素養がない人が説明なしにこの作品を見たら、「なんで美術館に来て、いきなりゴミの山を見せられなくてはいけないの?」と思うでしょう。
私はその感想こそが、ある意味現代アートの現状を物語るのに相応しい感覚だと思っています。
今回のトリエンナーレ作品に限らす、現代アートは常に、「これが芸術なの?」という疑問を世界からぶつけられ続けている。


美しい、刺激的、感動する…芸術には潜在的な価値があり、それらに触れることで、人間もまた自身の価値を上げていく…私は「人が芸術に触れる行為」は、自身の存在価値を高めたいという無意識の衝動の現れだと考えています。もちろんそれは、芸術に限ったことではありません。あまり多くの人がやらないこと、知ろうとしないこと、特に狭いジャンルに積極的に触れていく行為は、総じて心のどこかに「集団の中において特別でありたい」という欲の現れだと思っています。
そして空間は、人間の「価値ある存在でありたい」という欲を満たすうえで、非常に重要な役割を担っていると言えます。簡単にまとめると、例えば美術館なら、「価値ある作品を、それが設置されるに相応しい場所で鑑賞している」という、ある種の特権的感覚を与える装置のひとつになっているということです。
しかし、私は物事には潜在的な価値はないと考えている派です。芸術においてもまたしかり。物事の価値は、それを取り巻くあらゆる事象が複雑に絡み合い、“そう”であると後付されるものだと思っています。
けれど多くの人が、世界が「価値がある」と判じているものに対して、「これはもともと価値がある存在なのだ」と勘違いし、「何故それに価値があるのか」という考えに至っていないように思えます。そしてそれは、美術界においても同様です。
脱線しましたが何が言いたいのかと言うと、私も感じた「横浜美術館と現代アートのミスマッチさ」、「美術館にゴミ山があるのはおかしい」という感覚は、無意識にある人間の価値基準と、現実にそこにある世界とのズレによるものなのではないでしょうか。
すごくざっくりまとめると、現代アートは専門的な勉強をしていない人が見ても、多くの人が求めている「芸術的価値」を発見できない。美しい、刺激的、感動できる、といった、この世界に広く保障されている価値が、現代アートからは感じられない。だから、美術館にあるのは“おかしい”と感じる。そして横浜美術館は、中世、近代芸術(=多くの人に潜在的価値があると認識されている)をより良く見せやすい空間だからこそ、そこに生まれるズレが見立ちやすい。



では、現代アートには美術的価値はないのか。
そんなことはもちろんないと思っています。むしろ、根深い中世、近代芸術の価値基準に迎合せず、あくまでも「何かを生み出すこと」という根源的な意味に挑戦し続ける姿勢は、美術よりさらに広い、創作世界において非常に重要なジャンルと言えるでしょう。
さて、私が何故展示作品そのものではなく設置空間についての話題を出したかと言うと、トリエンナーレの二つのメイン会場を見比べて、現代アートが抱えるある一つの矛盾に気が付いたからです。
まず、横浜美術館に比べて新港ピアの展示は、非常に空間と作品がマッチしていると感じました。コンクリートむき出しの、お世辞にも小奇麗とは言えない空間でこそ、現代アートはその本領を発揮する。そう感じたことがある人は、私以外にもいるのではないでしょうか。
これは昔より価値観が多様化し、アーティストが訴える表現内容の対象が「限られた範囲の人間」ではなく、「あらゆる身分の人間」に変化したことが理由のひとつだと思います。簡単にいうと、アーティストが生み出す作品が、昔より敷居の低さを求める内容になってきたということです。だから美術館のような小奇麗で閉鎖的な特権的空間より、見る側の本能的身分差を感じさせない空間の方が作品が馴染みやすい。
少なくとも私は、新港ピアの方が展示作品の良さを引き出せていると感じました。横浜美術館の方は、どこか居心地が悪いと言うか、尻の収まりが悪い印象を受けました。率直に言うと、空間全体が高飛車すぎる。ここに展示されている作品は、こんな敷居の高い場所では意味がないんだ、という感覚を覚えました。すごく個人的ですが。





さてここで、先に述べた現代アートが抱える、空間と作品についての矛盾の話をします。
現代アートは、より幅広い身分を対象にその制作がなされています。だからこそ多くの人が入ってきやすい、敷居の低い空間がその作品の本領を発揮させる。しかしその一方で、美しい、刺激的、感動的といったかつて重要視されていた人間の本能的価値基準ではなく、コンセプトや制作の舞台裏、歴史、思想などといった理性的価値基準に重きを置くようになったことによって、鑑賞者には独自の知識や感性が必要になってしまいました。まさに、「専門的な勉強をしていないと、その価値がわからない」という流れです。
昔より、沢山の人に見て欲しい。でも、昔より鑑賞には知識が必要。
これが、現代アートが抱え続けている矛盾だと私は思っています。
同じ様な感覚を、松澤宥氏の作品からも感じました。
観念芸術家が美術館や画廊に芸術を占有されることを拒み、「作品の具体化」を否定したのは、おそらく美術はもっと広い世界で、多くの人が触れていくべきものであると考えたからでしょう。しかし具体化を否定したことによって、鑑賞者はアーティストのコンセプトや思想を理解できる人間、つまり独自の知識や感性がない人間以外は、そこに芸術的価値を見出せなくなってしまった。
まるで、矛盾と向き合っていくことこそが芸術の本質なのだと、そう言われているような感覚を覚えます。
感想②に続く
aki
今回は前々から予告していたヨコハマトリエンナーレの感想を含めた、現代アートのあれやこれについて書こうと思います。
ちなみに3日間かけて、「横浜美術館⇒新港ピア⇒BankART⇒黄金町エリア」というルートで回りました。日程の関係でトリエンナーレの8話のライブインスタレーションは見れていませんが、都合がつけば11/3の「消滅のためのラストショー」の前に見に行きたいなと思っています。
3日は8話⇒ラストショー⇒スマートイルミネーションという流れで見られたらベストですね。
さて、ヨコハマトリエンナーレ2014の感想ということですが、数日前に須々木氏がタイトルやコンセプトについての考察を長々書いていたので(2014/10/27)、私はもっと個人的で独善的な感想を書いていこうと思います。
ちなみに取り上げた作品について、ひとつひとつコンセプトなどの説明は入れていきませんので、気になる方は公式サイトなどと並行して見て頂くと良いかもです。
ヨコハマトリエンナーレ2014
華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある

第一に感じたのが、展示作品と横浜美術館のミスマッチさです。
入館したことがある人はわかると思いますが、横浜美術館はもともと中世、近代芸術の展示に向いている、一般人がまず初めに思い浮かべるであろう、小奇麗な、所謂「美術館らしい美術館」の構造をしています。
そんな建物の、入館して目の前の中央ホールにどーんと設置されていたのが巨大なゴミ箱。

「世界の中心には何がある?」
現代アートにしては非常にストレートで、わかりやすい表現です。序章として、まずこの展覧会のコンセプトを印象付けるには良い設置なのではないかと。
でもおそらく、現代アートの素養がない人が説明なしにこの作品を見たら、「なんで美術館に来て、いきなりゴミの山を見せられなくてはいけないの?」と思うでしょう。
私はその感想こそが、ある意味現代アートの現状を物語るのに相応しい感覚だと思っています。
今回のトリエンナーレ作品に限らす、現代アートは常に、「これが芸術なの?」という疑問を世界からぶつけられ続けている。


美しい、刺激的、感動する…芸術には潜在的な価値があり、それらに触れることで、人間もまた自身の価値を上げていく…私は「人が芸術に触れる行為」は、自身の存在価値を高めたいという無意識の衝動の現れだと考えています。もちろんそれは、芸術に限ったことではありません。あまり多くの人がやらないこと、知ろうとしないこと、特に狭いジャンルに積極的に触れていく行為は、総じて心のどこかに「集団の中において特別でありたい」という欲の現れだと思っています。
そして空間は、人間の「価値ある存在でありたい」という欲を満たすうえで、非常に重要な役割を担っていると言えます。簡単にまとめると、例えば美術館なら、「価値ある作品を、それが設置されるに相応しい場所で鑑賞している」という、ある種の特権的感覚を与える装置のひとつになっているということです。
しかし、私は物事には潜在的な価値はないと考えている派です。芸術においてもまたしかり。物事の価値は、それを取り巻くあらゆる事象が複雑に絡み合い、“そう”であると後付されるものだと思っています。
けれど多くの人が、世界が「価値がある」と判じているものに対して、「これはもともと価値がある存在なのだ」と勘違いし、「何故それに価値があるのか」という考えに至っていないように思えます。そしてそれは、美術界においても同様です。
脱線しましたが何が言いたいのかと言うと、私も感じた「横浜美術館と現代アートのミスマッチさ」、「美術館にゴミ山があるのはおかしい」という感覚は、無意識にある人間の価値基準と、現実にそこにある世界とのズレによるものなのではないでしょうか。
すごくざっくりまとめると、現代アートは専門的な勉強をしていない人が見ても、多くの人が求めている「芸術的価値」を発見できない。美しい、刺激的、感動できる、といった、この世界に広く保障されている価値が、現代アートからは感じられない。だから、美術館にあるのは“おかしい”と感じる。そして横浜美術館は、中世、近代芸術(=多くの人に潜在的価値があると認識されている)をより良く見せやすい空間だからこそ、そこに生まれるズレが見立ちやすい。



では、現代アートには美術的価値はないのか。
そんなことはもちろんないと思っています。むしろ、根深い中世、近代芸術の価値基準に迎合せず、あくまでも「何かを生み出すこと」という根源的な意味に挑戦し続ける姿勢は、美術よりさらに広い、創作世界において非常に重要なジャンルと言えるでしょう。
さて、私が何故展示作品そのものではなく設置空間についての話題を出したかと言うと、トリエンナーレの二つのメイン会場を見比べて、現代アートが抱えるある一つの矛盾に気が付いたからです。
まず、横浜美術館に比べて新港ピアの展示は、非常に空間と作品がマッチしていると感じました。コンクリートむき出しの、お世辞にも小奇麗とは言えない空間でこそ、現代アートはその本領を発揮する。そう感じたことがある人は、私以外にもいるのではないでしょうか。
これは昔より価値観が多様化し、アーティストが訴える表現内容の対象が「限られた範囲の人間」ではなく、「あらゆる身分の人間」に変化したことが理由のひとつだと思います。簡単にいうと、アーティストが生み出す作品が、昔より敷居の低さを求める内容になってきたということです。だから美術館のような小奇麗で閉鎖的な特権的空間より、見る側の本能的身分差を感じさせない空間の方が作品が馴染みやすい。
少なくとも私は、新港ピアの方が展示作品の良さを引き出せていると感じました。横浜美術館の方は、どこか居心地が悪いと言うか、尻の収まりが悪い印象を受けました。率直に言うと、空間全体が高飛車すぎる。ここに展示されている作品は、こんな敷居の高い場所では意味がないんだ、という感覚を覚えました。すごく個人的ですが。





さてここで、先に述べた現代アートが抱える、空間と作品についての矛盾の話をします。
現代アートは、より幅広い身分を対象にその制作がなされています。だからこそ多くの人が入ってきやすい、敷居の低い空間がその作品の本領を発揮させる。しかしその一方で、美しい、刺激的、感動的といったかつて重要視されていた人間の本能的価値基準ではなく、コンセプトや制作の舞台裏、歴史、思想などといった理性的価値基準に重きを置くようになったことによって、鑑賞者には独自の知識や感性が必要になってしまいました。まさに、「専門的な勉強をしていないと、その価値がわからない」という流れです。
昔より、沢山の人に見て欲しい。でも、昔より鑑賞には知識が必要。
これが、現代アートが抱え続けている矛盾だと私は思っています。
同じ様な感覚を、松澤宥氏の作品からも感じました。
観念芸術家が美術館や画廊に芸術を占有されることを拒み、「作品の具体化」を否定したのは、おそらく美術はもっと広い世界で、多くの人が触れていくべきものであると考えたからでしょう。しかし具体化を否定したことによって、鑑賞者はアーティストのコンセプトや思想を理解できる人間、つまり独自の知識や感性がない人間以外は、そこに芸術的価値を見出せなくなってしまった。
まるで、矛盾と向き合っていくことこそが芸術の本質なのだと、そう言われているような感覚を覚えます。
感想②に続く
aki