ヨコハマトリエンナーレ感想②アートの定義 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

ヨコハマトリエンナーレ感想②アートの定義

感想①の続き




ここで「作品の具体化」というワードが出てきたので、空間と作品の関係の話は置いておいて、いくつか展示作品そのものの話をしましょう。


個人的に今回のトリエンナーレでおもしろいと思った作品は、アクラム・ザタリ氏の≪彼女に/を + 彼に/を≫という作品と、メルヴィン・モティ氏の≪ノー・ショー≫です。
どちらも映像作品ですが、この二つは今回の展覧会タイトルである「世界の中心には忘却の海がある」という部分を、非常に理性的に作品内に落とし込んでおり、同時に鑑賞者は直感的に悟ることができるという、作品としてとても洗練された内容になっていました。
映像と言うのは、視覚、聴覚、時間を同時に演出することが出来る、非常に優れたツールですね。情報量の表現が幅広い。

さて、先に良作と思った作品を上げましたが、ある意味今回のトリエンナーレで一番印象深かったのは、おもしろい作品とは逆に「直接的なマイナスの印象を受けた作品」があったことです。
私は普段、あまり作品に対して悪い意味でのマイナスの印象を覚えません。例え自分の感性が及ばない内容でも、作品がそこに存在することの価値は揺るがないと感じているからです。「どんな内容でも、作品としての価値が確かにあるんだ」というのが、私が何かを鑑賞する上での根本的な考え方であり、自分の考えが及ばない所で、その作品に影響を受けた人がおり、その作品に救われている人間がいるのだと、そう思ってきました。だからどんな作品においても、共感はできなくても否定はしないと。

しかし今回、第10話:洪水のあと(仮題)で展示された「福岡アジア美術トリエンナーレ」の過去作品の中でいくつか、「これは美術として認めたくない」という感想を強く抱かせる作品がありました。いえ、正しく言うと、孤立した作品ひとつひとつに抱いた印象というよりは、その発表エリア全体に対して抱いた印象という言い方が正しいかもしれません。
それらもまた映像作品でしたが、はっきりいうと完成度はどれも高いものだったと思います。しかし、完成度が高いからこそ明確に浮かび上がる作者の意図が、あまりにもネガティブ過ぎると感じました。

映像の内容は、主に資本主義が抱える闇について言及したものです。
コンセプトとしては、横浜美術館エリアに展示されていた≪釜ヶ崎芸術大学≫も、≪たった独りで世界と格闘する重労働≫という作品も、同じように資本主義社会に対する内容のものでした。昨今では決して珍しいコンセプトではありません。









私は芸術、広くいうと創作全般において、「どこかで誰かを救うものであるべき」という価値基準を持っています。
それが知らない他人でも、友人でも、家族でも、そして自分自身でも良い。それを生み出したことで、どこかの誰かの肩の荷がふっと下りる。孤独感から救われる。過去の後悔を昇華できる。皮肉でも、逆説的でも、どんな形でも良いから、誰かの救いになる。それが、創作が内包する、限りなく潜在的な部分に近い価値だと考えています。

第10話に展示されていたアジアの映像作品は、時代が生み出した闇、時代の裏で苦しんでいる人がいるという事実、その人たちがどのくらい劣悪な環境にいるか、人間が起こした過去の過ち、それらが極めて丁寧に表現されています。その着眼点に問題は感じません。世界中の目を背けたくなる現実を突きつけるのも、芸術が担っている役目の一つだと思っています。
問題はその作品たちが、どれも現実や過去を嘆いている、もしくは責めているだけで、未来なんて見ていないという印象を鑑賞者に与えていることです。私はこれらに対して、鑑賞者も、題材に取り上げられた人々も、そして制作している作者本人も、誰かを救うことのできるものには成りえないと思っています。ネガティブな映像が見る側の心を揺さぶり、僅かでも世界に波紋が与えられれば良い、という解釈があるかもしれませんが、正直これらの作品で揺さぶられる感情はどれも、未来へと繋がるものではないと思います。そして未来へと繋がらなければ、結局現実を変えることなどできない。

この空気を纏うものが、例えば多くある作品のうちのひとつであったなら、おそらく私はそんなに問題視しなかったかもしれません。しかし、今回のはあまりにも「アジアの色」としてその空気が濃厚過ぎました。同じアジア人として、アジア全体の創作の空気がこの流れならば、これは非常に嘆かわしいことです。後ろ向きに歩いて、自分が転んだ跡を「あれは痛かった」と嘆き、そしてそのまま後ろ向きに歩き続けるから、また転ぶ。その連鎖を繰り返すのかと。
第10話はどれも、確かに良質な作品ではあったけれど、あのエリアを美術展とは認めたくない。それが私の抱いた感想です。
しかしだからこそ強く印象に残っているというのが、またなんとも…。



と、つらつら述べてみましたが、全体を通したら非常に中身のある面白い内容でした。ヨコハマトリエンナーレを見たのは今年で3回目ですが、今まで一番中身をじっくり鑑賞できたので、すごく自分自身の刺激になったと思います。


しかし多くの作品を見れば見る程、自分の頭がいかに固く、視野が狭いか見せつけられます。それはそれでへこむのですが、自分の考えが及ばない価値観や思想がまだまだあるという事実は、心理的にすごい開放感があります。



物事に対して否定的な解釈は幼い子供でもできます。例え逆説的な考え方になったとしても、ネガティブな事象の中にどのくらいポジティブな要素を見つけられるかで、人間は生きていけるか、そうでないかが決まる。しかし、そういう価値観は他人に押し付けられるものでもないし、押し付けるものでもない。現代アートもあらゆるジレンマを内包して、微妙な足場でギリギリのバランスを保って存在しているのかもしれません。





BankARTと黄金町エリアの話は、次回の記事にでも、もうちょっと軽いノリでさらっと書こうと思います。

ではでは、長文失礼しました。






aki