“忘却”の先に ~横浜トリエンナーレ2014雑感~
どうも須々木です。
先日、横浜トリエンナーレのメイン2会場を見てきたので、その雑感でも。
例によって、まとまりに欠ける文章ですがご容赦を。。

◆概要
「横浜トリエンナーレ」とは、横浜市(基本的には、横浜港に面したエリア)で3年おきに開催される現代アートの国際展覧会です。
第1回が2001年で、今回のが5回目です。
今回のメイン会場は、横浜美術館と新港ピアです。
11月3日が最終日(残り一週間!)。
◆展覧会タイトルについて
中身に触れる前に、展覧会タイトルをマジマジ眺めてみようと思います。
『華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある』
ちょっと長くてわかりにくいのですが、これがタイトルです。
正直、最初に見たときは「めっちゃ厨二だな!」と思いました。
なお、ちょっと控えめな感じで英語タイトルも併記されていて、
“ART Fahrenheit 451: Sailing into the sea of oblivion”
となっています。
1953年にレイ・ブラッドベリが書いたSF小説「華氏451度」(原題:Fahrenheit 451)からの引用であることは、展覧会でも触れられていますが、この温度は「紙が発火する温度」です。
ネタ元の小説は、本の所持や読書が禁じられた架空の社会を舞台にした作品。
つまり、「華氏451度」は「焚書」と言い換えられるわけです。
※マイケル・ムーアが2004年に発表したドキュメンタリー映画「華氏911」(原題:Fahrenheit 9/11)のタイトルネタ元でもあります。ちなみに、日本版では「それは自由が燃える温度」というキャッチフレーズがつけられていたそうです。
この「焚書」というのは、当然今回の展覧会において重要なキーワードです。
まあ、これはある意味で分かりやすいので、少しおいておきましょう。
ブログを書くためにタイトルを確認しながら、ちょっと興味深いと思ったのは、むしろコロンの後ろの部分です。
コロンの前は、日本語タイトルと英語タイトルが過不足なく対応していますが、後ろの部分は、結構ニュアンスが違うような気がします。
“sail”は「船の帆」で、この場合は動詞だから「船で進む/船旅をする」とかいう感じ。
「忘却の海に(船で)進み入る」みたいな感じが妥当でしょうか。
もしくは、“sail”が、船で海上を進むイメージから転じて、「すべるように進む」を意味することを考慮して少し意訳すれば、「“忘却の海”に少しずつ滑らかに足を踏み入れる」みたいにも読めるかもしれません。
“the sea of oblivion”もわりと興味深いところです。
単純に「忘却の海」を英訳しただけかもしれませんが、もしかすると“the river of oblivion”にかけてるのかもしれません。
これは、日本語で言えば素直に「忘却の川」ですが、「レーテー」と呼ばれるものを意味します。
wikipediaによると、「レーテー」は古代ギリシャ語では、「忘却」「隠匿」を意味するそうですが、ギリシャ神話において、黄泉の国にいくつかある川の一つで、この川の水を飲んだ者は、完璧な忘却を体験するそうです。
港湾都市、横浜だから、“river”より“sea”の方がしっくりくるわけですが、よりワールドワイドで、スケール感もアップしています。
さて、改めて、日本語タイトルと英語タイトルを見比べると、英語の方には「世界の中心」というニュアンスはまったくありません。
あわせて素直に読めば、“the sea of oblivion”(忘却の海)は、世界の中心に存在しているというイメージなんでしょう。
世界の果てとかじゃなくて、世界の中心に「忘却の海」があるというニュアンスは、ちょっと興味深いと思いました。
なんだか、世界のど真ん中で口を開いたブラックホールに何もかも飲み込まれて消滅していくみたいですね。
それが“現代”なんだと。
◆まとまりのない感想を
「忘却めぐりの旅物語」。
展覧会の紹介チラシには、こういう書き方をされています。
会場には、かなり明確な順序がついていて、横浜美術館の入口前の「序章」から、新港ピアの「第11話」まで設定されています。
小説「華氏451度」のイメージをリスペクトして、こういう書物的な構成にしたのでしょうか。
全体で一つの「旅物語」だと。
というわけで、まずはざっくりとした感想ですが・・・
とりあえず、ボリューミーでした。
前回のトリエンナーレとの比較の問題ですが、量的な充実感はなかなかのものでした。
おなか一杯。
おかげでメイン2会場に2日使ってしまいました。
こういうとき、会場ごとに分かれているチケットはありがたいですね。。
しっかり順番に、序章→第1話→・・・→第11話と見て行きましたが、それぞれかなり毛色の違う作品を集めていました。
素人目に見て、「もはやこれはこじつけでは?」と思えるくらい、各セクションでギャップがありました。
質的にも色的にも温度的にも全然異なるものが、進むたびにどんどん現れてきます。
たぶん、支離滅裂と言っても言い過ぎではないと思うレベルです。
一方で、ポジティブにとらえるなら、非常に多角的で、偏りなく、それでいてテーマは様々に拡張されながらも、明確に貫かれている。
特に、「忘却」というキーワードの解釈拡張は顕著でした。
「沈黙ゆえに記録されないもの」「残るもの(≒作品)に対して廃棄されるもの」「現実に起こった忘却の歴史、悲劇の歴史を辿るもの」「大人になるために捨て去られるもの」「社会から忘れられた存在、人々」などなど。
※実際はもっと難解で重厚なものがたくさんあります。ここでは比較的わかりやすいものを列挙しました。。
こうやって書くと、案外わかりやすいような気がしますが、現場で個々の作品に向き合うと、わりとカオスです。
相当意識して脳内を整理しない限り、すぐに迷子になります。
しかし、想像するに、これらは「敢えて」やったことなんだろうと思います(展覧会でも「漂流」という言葉が多用されているし)。
企画者サイドのバイアスを可能な限り排除する試みの結果なんだろうと。
全体としてゆるやかな枠組みは設けつつも、明確な重心をおかない感じにしているような気がします。
コンパスを隠した状態での航海を求められているようです。
横浜みなとみらいのど真ん中にありながら、やたら防御力が高そうで閉鎖的な横浜美術館と、みなとみらい新港地区のはずれで海に突き出した立地の新港ピアのコントラストも、全部見てみるとちょうど良い気がします。
しかし、横浜美術館には、個人的にかなりの隔絶感を感じるのですが、なんなんでしょうね。。
大きな窓とかがなくて、完全に内部と外部が隔てられているせいでしょうか。
ただ、トリエンナーレは、面的な広がりを持っているので、結局なんやかんやでバランスは取れているような気がします。
完全に個人的な趣味の問題かもしれませんが、個々の作品について言えば、印象的なものは、新港ピアに多かったような気がします。
特に、映像作品については、なかなか見応えがあり、得るものは多かった気がします。
もちろん、展覧会の性質上、エンターテインメント性は皆無ですが、非常に刺激的でした。
これだけで長々と書けそうですが、ここでは割愛。
◆改めて全体を眺めると
順番に見て行ったわけですが、正直、最初のあたりは「今回はかなりお高く止まったものが多いのかな?」という感じで、見る人を選ぶ印象でした。
ただ、先に進むと特にそういうわけでもなく、本当に様々な切り口で、たぶんこれなら誰が見てもどれかしら響くものがあるだろうという感じです。
良い意味で、八方美人というか。
連続的にとらえるのなら、敢えていったん高いところまで連れていき、「いったいどこに来てしまったんだろう?」と少しばかり途方に暮れさせて、そこから徐々に(一定のペースではなく、波打つように、揺らぎながら)下りてくる。
かなり激しく不規則に揺さぶりながら。
いずれも「忘却」(≒焚書)がキーワード(扇の要、接着剤)だと感じましたが、よくよく思い返すと、むしろ感覚的には「海」の方がキーワードであるようにも思えてきました。
恵みをもたらすことも、命を簡単に奪う厳しさも持つ多面的な「海」のイメージは、今回の展覧会とマッチする(当然、横浜という土地柄ともマッチする)。
展覧会に、無機的機械的に順序がつけられることは、特別なことではない。
しかし、今回のこのフレームは、単に無機的なだけではない意味を持つことに成功していたように思います。
最初は単純に、「華氏451度」や「焚書」を受けた「書物」を端的に表現しているに過ぎないと思っていましたが、最終的にはそれにとどまらない感覚を得られました。
いつの間にか漂流してしまったことに気付いた船乗りが、大海に翻弄されながらも、風を感じ、星を読みながら現在地を知り、やがて帰って来る。
そんな体験を密度濃く味わうような。
もしくは、序章と11の挿話で構成される“そういう”本の世界に誘われ(「はてしない物語」のように)、やがて帰ってくるような体験。
展覧会の個々の作品は、各ページに散りばめられた文字のようなもので、個々に解釈するだけでは不十分。
結局は、連続性があって全体を通してようやく「本」は、「忘却の海」を描く漂流記としての完成形に至る。
横浜トリエンナーレは、一つの作品の体をなす。
そして、皮肉にも(もしくは、狙い通りに)、この「本」は決して本棚に収まることなく、ゆるやかに「忘却の海」に飲まれていく。
※札幌国際芸術展、福岡アジア美術トリエンナーレのセクションを設けていたのは、持ってきた個々の作品が持つ意味以上に、そもそも「展覧会」というものが、“そういう”宿命を背負って存在しているということを示したかったのではないかという気がします。すなわち、個々の作品ではなく、「展覧会」を「展覧会」に並べたかったのではないでしょうか。そして、論理的帰結として、「横浜トリエンナーレ」も同じ道を辿ることを示しているような気がします。
sho
先日、横浜トリエンナーレのメイン2会場を見てきたので、その雑感でも。
例によって、まとまりに欠ける文章ですがご容赦を。。

◆概要
「横浜トリエンナーレ」とは、横浜市(基本的には、横浜港に面したエリア)で3年おきに開催される現代アートの国際展覧会です。
第1回が2001年で、今回のが5回目です。
今回のメイン会場は、横浜美術館と新港ピアです。
11月3日が最終日(残り一週間!)。
◆展覧会タイトルについて
中身に触れる前に、展覧会タイトルをマジマジ眺めてみようと思います。
『華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある』
ちょっと長くてわかりにくいのですが、これがタイトルです。
正直、最初に見たときは「めっちゃ厨二だな!」と思いました。
なお、ちょっと控えめな感じで英語タイトルも併記されていて、
“ART Fahrenheit 451: Sailing into the sea of oblivion”
となっています。
1953年にレイ・ブラッドベリが書いたSF小説「華氏451度」(原題:Fahrenheit 451)からの引用であることは、展覧会でも触れられていますが、この温度は「紙が発火する温度」です。
ネタ元の小説は、本の所持や読書が禁じられた架空の社会を舞台にした作品。
つまり、「華氏451度」は「焚書」と言い換えられるわけです。
※マイケル・ムーアが2004年に発表したドキュメンタリー映画「華氏911」(原題:Fahrenheit 9/11)のタイトルネタ元でもあります。ちなみに、日本版では「それは自由が燃える温度」というキャッチフレーズがつけられていたそうです。
この「焚書」というのは、当然今回の展覧会において重要なキーワードです。
まあ、これはある意味で分かりやすいので、少しおいておきましょう。
ブログを書くためにタイトルを確認しながら、ちょっと興味深いと思ったのは、むしろコロンの後ろの部分です。
コロンの前は、日本語タイトルと英語タイトルが過不足なく対応していますが、後ろの部分は、結構ニュアンスが違うような気がします。
“sail”は「船の帆」で、この場合は動詞だから「船で進む/船旅をする」とかいう感じ。
「忘却の海に(船で)進み入る」みたいな感じが妥当でしょうか。
もしくは、“sail”が、船で海上を進むイメージから転じて、「すべるように進む」を意味することを考慮して少し意訳すれば、「“忘却の海”に少しずつ滑らかに足を踏み入れる」みたいにも読めるかもしれません。
“the sea of oblivion”もわりと興味深いところです。
単純に「忘却の海」を英訳しただけかもしれませんが、もしかすると“the river of oblivion”にかけてるのかもしれません。
これは、日本語で言えば素直に「忘却の川」ですが、「レーテー」と呼ばれるものを意味します。
wikipediaによると、「レーテー」は古代ギリシャ語では、「忘却」「隠匿」を意味するそうですが、ギリシャ神話において、黄泉の国にいくつかある川の一つで、この川の水を飲んだ者は、完璧な忘却を体験するそうです。
港湾都市、横浜だから、“river”より“sea”の方がしっくりくるわけですが、よりワールドワイドで、スケール感もアップしています。
さて、改めて、日本語タイトルと英語タイトルを見比べると、英語の方には「世界の中心」というニュアンスはまったくありません。
あわせて素直に読めば、“the sea of oblivion”(忘却の海)は、世界の中心に存在しているというイメージなんでしょう。
世界の果てとかじゃなくて、世界の中心に「忘却の海」があるというニュアンスは、ちょっと興味深いと思いました。
なんだか、世界のど真ん中で口を開いたブラックホールに何もかも飲み込まれて消滅していくみたいですね。
それが“現代”なんだと。
◆まとまりのない感想を
「忘却めぐりの旅物語」。
展覧会の紹介チラシには、こういう書き方をされています。
会場には、かなり明確な順序がついていて、横浜美術館の入口前の「序章」から、新港ピアの「第11話」まで設定されています。
小説「華氏451度」のイメージをリスペクトして、こういう書物的な構成にしたのでしょうか。
全体で一つの「旅物語」だと。
というわけで、まずはざっくりとした感想ですが・・・
とりあえず、ボリューミーでした。
前回のトリエンナーレとの比較の問題ですが、量的な充実感はなかなかのものでした。
おなか一杯。
おかげでメイン2会場に2日使ってしまいました。
こういうとき、会場ごとに分かれているチケットはありがたいですね。。
しっかり順番に、序章→第1話→・・・→第11話と見て行きましたが、それぞれかなり毛色の違う作品を集めていました。
素人目に見て、「もはやこれはこじつけでは?」と思えるくらい、各セクションでギャップがありました。
質的にも色的にも温度的にも全然異なるものが、進むたびにどんどん現れてきます。
たぶん、支離滅裂と言っても言い過ぎではないと思うレベルです。
一方で、ポジティブにとらえるなら、非常に多角的で、偏りなく、それでいてテーマは様々に拡張されながらも、明確に貫かれている。
特に、「忘却」というキーワードの解釈拡張は顕著でした。
「沈黙ゆえに記録されないもの」「残るもの(≒作品)に対して廃棄されるもの」「現実に起こった忘却の歴史、悲劇の歴史を辿るもの」「大人になるために捨て去られるもの」「社会から忘れられた存在、人々」などなど。
※実際はもっと難解で重厚なものがたくさんあります。ここでは比較的わかりやすいものを列挙しました。。
こうやって書くと、案外わかりやすいような気がしますが、現場で個々の作品に向き合うと、わりとカオスです。
相当意識して脳内を整理しない限り、すぐに迷子になります。
しかし、想像するに、これらは「敢えて」やったことなんだろうと思います(展覧会でも「漂流」という言葉が多用されているし)。
企画者サイドのバイアスを可能な限り排除する試みの結果なんだろうと。
全体としてゆるやかな枠組みは設けつつも、明確な重心をおかない感じにしているような気がします。
コンパスを隠した状態での航海を求められているようです。
横浜みなとみらいのど真ん中にありながら、やたら防御力が高そうで閉鎖的な横浜美術館と、みなとみらい新港地区のはずれで海に突き出した立地の新港ピアのコントラストも、全部見てみるとちょうど良い気がします。
しかし、横浜美術館には、個人的にかなりの隔絶感を感じるのですが、なんなんでしょうね。。
大きな窓とかがなくて、完全に内部と外部が隔てられているせいでしょうか。
ただ、トリエンナーレは、面的な広がりを持っているので、結局なんやかんやでバランスは取れているような気がします。
完全に個人的な趣味の問題かもしれませんが、個々の作品について言えば、印象的なものは、新港ピアに多かったような気がします。
特に、映像作品については、なかなか見応えがあり、得るものは多かった気がします。
もちろん、展覧会の性質上、エンターテインメント性は皆無ですが、非常に刺激的でした。
これだけで長々と書けそうですが、ここでは割愛。
◆改めて全体を眺めると
順番に見て行ったわけですが、正直、最初のあたりは「今回はかなりお高く止まったものが多いのかな?」という感じで、見る人を選ぶ印象でした。
ただ、先に進むと特にそういうわけでもなく、本当に様々な切り口で、たぶんこれなら誰が見てもどれかしら響くものがあるだろうという感じです。
良い意味で、八方美人というか。
連続的にとらえるのなら、敢えていったん高いところまで連れていき、「いったいどこに来てしまったんだろう?」と少しばかり途方に暮れさせて、そこから徐々に(一定のペースではなく、波打つように、揺らぎながら)下りてくる。
かなり激しく不規則に揺さぶりながら。
いずれも「忘却」(≒焚書)がキーワード(扇の要、接着剤)だと感じましたが、よくよく思い返すと、むしろ感覚的には「海」の方がキーワードであるようにも思えてきました。
恵みをもたらすことも、命を簡単に奪う厳しさも持つ多面的な「海」のイメージは、今回の展覧会とマッチする(当然、横浜という土地柄ともマッチする)。
展覧会に、無機的機械的に順序がつけられることは、特別なことではない。
しかし、今回のこのフレームは、単に無機的なだけではない意味を持つことに成功していたように思います。
最初は単純に、「華氏451度」や「焚書」を受けた「書物」を端的に表現しているに過ぎないと思っていましたが、最終的にはそれにとどまらない感覚を得られました。
いつの間にか漂流してしまったことに気付いた船乗りが、大海に翻弄されながらも、風を感じ、星を読みながら現在地を知り、やがて帰って来る。
そんな体験を密度濃く味わうような。
もしくは、序章と11の挿話で構成される“そういう”本の世界に誘われ(「はてしない物語」のように)、やがて帰ってくるような体験。
展覧会の個々の作品は、各ページに散りばめられた文字のようなもので、個々に解釈するだけでは不十分。
結局は、連続性があって全体を通してようやく「本」は、「忘却の海」を描く漂流記としての完成形に至る。
横浜トリエンナーレは、一つの作品の体をなす。
そして、皮肉にも(もしくは、狙い通りに)、この「本」は決して本棚に収まることなく、ゆるやかに「忘却の海」に飲まれていく。
※札幌国際芸術展、福岡アジア美術トリエンナーレのセクションを設けていたのは、持ってきた個々の作品が持つ意味以上に、そもそも「展覧会」というものが、“そういう”宿命を背負って存在しているということを示したかったのではないかという気がします。すなわち、個々の作品ではなく、「展覧会」を「展覧会」に並べたかったのではないでしょうか。そして、論理的帰結として、「横浜トリエンナーレ」も同じ道を辿ることを示しているような気がします。
sho