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11月の活動報告

どうも遊木です。

 

久しぶりに口内炎が出来て、若干萎えている今日この頃です。

ビタミン摂ります。

 

 

 

11月の活動報告です。

 

 

□制作関連

一旦ネーム作業は終わり、再びプロット中です。

今度は話の展開上、2話分を一気に考えているので、プロット(のさらに下準備?)用のメモがさらにカオスなことになっています。

落書きに意味はない。

 

 

それ以外だと、サークル関連で久しぶりにAfter Effectsを触ったり、パルクールの動画を見ながら、アクロバティックな動きの研究をしていました。

動きの研究は、動画をコマ送りで見るだけじゃなく、一連の流れを自分で一回描いてみることで、意外な発見ができます。

軽く見える動作でも、助走、跳ねる、着地、流し、など、身体はしっかり連動して伸縮していることがわかる。

 

 

 

□巡視船“さがみ”乗船

連休に散歩していたら、ハンマーヘッドで海保の巡視船“さがみ”が一般公開されていました。

かなりの人が並んでいましたが、あまりない機会ということでしっかり乗船して、内部の資料写真を撮ってきました。といっても、かなりの場所が侵入不可だったので、本当に一部ですが。

横浜の海沿いに行くと、シーバスや船上タクシーなど、船が観光だけでなく、生活の一部になっていることが良くわかります。

街の真ん中に日本丸があるぐらい、横浜と船は切っても切り離せない関係ですね。

 

 

 

 

 

 

□「わたしのからだは心になる?展」

東京に新しくできたアートの発信地、SusHi Tech Squareに行ってきました。

メディア芸術祭が終わってしまったので、こういう展覧会は久しぶりな気がします。

 

 

初見の感想は、「現代アート鑑賞の入り口」。

昔よりは展覧会の数が増えているといっても、現代アートは難解で取っ付きにくい、というイメージを持っている人はまだまだ多いと思います。

この展覧会は、作品のコンセプトや数、スタッフの対応などから、そういう「現代アート初心者」をターゲットにしている印象を受けました。

例えば、私は現地でスタッフさんから積極的に声を掛けられ、「この作品は〇〇で~」や「作者は〇〇をイメージして~」など、かなり能動的な作品説明を受けました。

個人的には、「鑑賞前に作品の説明を事細かにするのはどうなの?発想や解釈の自由を奪ってないか?」という気持ちが湧きましたが、一方で、何気なくふらっと立ち寄った人や、現代アートに触れたくても触れ方がわからない、という人には親切な対応だと思います。

スタッフさんの対応含め、まだまだ手探り感があったので、今後、アートを発信する地としてブラッシュアップしていって欲しいなぁと思いました。

 

 

 

 

□皇居散策

二重橋から反時計周りに、ぐるっと散策してきました。

途中、大手門から内側に入り、天守台を見た後はまた堀に沿って桜田門まで。

昔、一度だけ近くに来たことはありましたが、しっかり観覧したのは今回が初めてです。

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は、横浜とも深い繋がりのある人物。せっかく現地に行ったことだし、この機会に、歴史の勉強をもう一度し直すのも良いかなと思いました。

 

 

 

 

 

□金時山ハイキング

いつの間にかサークル恒例行事として定着した紅葉狩り。

今年は箱根、金時山に行きました。

絶好のハイキング日和で、天気も気候も丁度良かったです。

紅葉は公時神社周辺が綺麗でしたが、何より山頂からの富士山が素晴らしかったです!

平日だったにも関わらず、山頂には結構な人がいました。あれ、休日は人が多すぎて大変なことになってない?大丈夫??

あと、山頂の斧が思ったより嘘くさくて笑った。神社の近くに刺さっていたヤツの方が本物っぽかった。

 

 

 

下山は予定より早かったので、湯本でちょろっと観光しました。

……えわ゙ぁ屋。

 

 

 

□「ゴジラ -1.0」鑑賞

2回鑑賞してきました。

ここからはネタバレを含む感想です。

 

 

個人的にとても好みの作風で、「面白かった!」と一言で表すにはちょっと足りない感情になりました。

宣伝の時点で、「戦後すぐの日本にゴジラが来たら?国としてぼろぼろ、日本軍も使えない状況で?」となり、普通に考えたらGHQが動いてどうにかするだろうなぁ、とか、いろいろ妄想を膨らませていました。

結論から言うと、民間でゴジラに立ち向かう話です。確かにこの時代、アメリカはソ連との関係が緊張状態にありました。迂闊に軍は動かせず、かと言って何もしないわけにはいかない。

普通に考えると、民間だけでゴジラに立ち向かうなんて嘘くさく感じますが、戦後という時代だったからこそ、その“嘘くささ”が“リアル”になった。何故なら、その時代の日本には過酷な戦場を経験した元兵士が沢山いたから。

個人的に、このロジックが非常に秀逸と感じましたね。「絶望の中にも希望はある」という状況を、感情のごり押しではなく、企画として成立させている。

同時に、感情面を揺さぶるのも非常に上手でした。話はとてもシンプルで、言ってしまえば先が読みやすい展開。しかし、その分余計なことを考えずに登場人物の感情に没入できる。

「戦後の日本にゴジラがくる」という絶望、特攻から逃げた上に自分の弱さで仲間を失うという絶望、映画全体の企画と主人公の状況がシンクロし、そこからどう立ち直るのか、本当の意味で「戦争を終わらす」ことは出来るのか、分かりやすいけど、実際の歴史とも深く繋がったメッセージ性が、映画に重さを与えていたと思います。

個人的には、ゴジラを倒した際、散々苦しめられたゴジラに向かって全員が敬礼した場面が印象的でした。何というか、すごく日本人っぽい。

自然災害大国の日本は、自然に対して畏怖と敬意を持っている。自然は人間が管理するものという欧米的な考えではなく、人間が到底適うものではない、上位の存在として見ている。

日本人にとって、ゴジラもこれなんですよね。生物であっても、自然災害と同等の現象。だからこそ、ゴジラがもたらす結果に怒り、嘆き悲しみ、全力で対処することはあっても、その存在には何かしらの敬意を持っている。実際、ゴジラが来たことで、作中の登場人物は失っていた心の強さと誇りを取り戻していきます。

物語展開でゴジラにヒーロー的な役割を持たせなくても、「崩れ行くゴジラに、無言で敬礼する」というシーンを入れるだけで、ゴジラに対する畏怖と敬意を表現しているのが、本当にすごい。

ちなみに初回は、最終的に典子が無事だったことが蛇足だなぁと思っていました。そこは亡くなっていて良かったかな、と。ただ、浩一に「貴方の戦争は終わったか」と誰かが聞かなければいけないのはわかっていたので、その役割のためかなぁと納得したのですが……おい、なんだ最後の痣って。そんなのあったのか。

確認のためにもう一回観に行っちゃったよ。

……ありましたよ、確かに。っていうか痣じゃないよねアレ。

私が唯一納得できなかった典子の非現実的な描写が、急に重い情報になった……え、すごい。

あれが具体的にどんな意味を持っているかはわかりませんが、個人的にはゴジラの“破壊と再生”を意味しているのかなぁと解釈しました。

そういう点も、自然災害、自然の恩恵と似ています。

 

 

□「コカ・コーラ クリスマスドローンショー」

赤レンガ周辺で、29日に一夜限り行われたドローンショーを見てきました。

ドローンショー面白いですよね。花火とは違った、まさに“ショー”という感じ。

赤レンガからの音楽に合わせて、サンタさんやツリーなど、クリスマスらしい様々な形に変化しつつ、しっかりコカ・コーラの宣伝を入れてきてるのが流石。

これは宣伝効果あるだろうな。

 

 

 

 

 

□新聞博物館、再び

企画展は先月見ていたので、今回は常設展を中心に鑑賞しました。

新聞の歴史をかわら版時代から辿り、日刊新聞の発祥や戦時中の情報統制、近代のニュース、印刷技術、ネットリテラシーへの呼びかけなど、新聞だけでなく、“情報全体”に対する展示がコンセプトのようです。

ネットの普及により、誰もが簡単に情報を得られる現代だからこそ、常日頃からファクトチェックを心掛けなければいけませんね。

 

 

 

 

 

 

□Christmas Market

11月中ならそんなに混まないだろうと、赤レンガのクリスマス・マーケットに行ってきました。

今年から完全無料期間が無くなりましたね。まぁ、毎年すごい人だったからなぁ。

今だと、平日17時代で入場まで15分ぐらい。

去年より全体のスペースを広く取って、座席もかなり増やされてました。通路も広めに確保して、ギチギチ感はなかったです。

クリスマスツリーは、有料エリアからじゃないと良く見えません。

赤レンガのアプリを入れれば500→300円で入れるのでオススメ。

 

 

 

 

 

こんな感じですかね。

 

そういえば、10月末〆切だったガーデンネックレスのハッシュタッグ企画、当たりました。

文房具や植物の種が送られてきました。

 

 

我が家、そろそろガーデンベアグッズ置き場作ろうかな……。

 

インスタも更新しているので、そちらもどうぞ~。

 

 

aki

約20年ぶりにディズニーシーに行って来ました。

 11月頭の話になりますが、実は約20年ぶりにディズニーシーに行って来た米原です。

 

 

 この日は大変天気も良く、最高気温26℃で夏みたいな気温でした。小春日和じゃなくて小夏日和だよ。上着は完全に荷物でした。

 

 

 以前ディズニーランドに行ってブログを書いてたからまだ4ヵ月ちょっとしか経ってないのですが、母に「来年シーの新エリアが開場したらまたしばらく混むだろうし、冬頃シーにも一度行っておこうかなと思ってる」と話した所、母が9~11月に休みが取れる日を知らせて来た。

 

 母よ、9~11月はまだ秋だよ。

 

 とは言え20年前の記憶では、ハロウィン終了直後~クリスマス準備期間だった11月頭に行ったシーは猛烈に空いていた。ので、「まぁ、いいか!11月で!」と突発的に行くことになりました。

 

 20年ぶりのシーは色々予想外なことが起こりある意味で思い出深い日になりました。

 

 まず出発は横浜からの直通バスだったのですが、前回行った6月よりも長くなった待機列に驚きました。平日だったのですが、家族連れも学生も多かったですね。

 

 近年のディズニーリゾートはコロナ禍で入場が完全予約制になったことで、全ての日に満遍なく人が散り極端に混む日や空す日がほぼなくなったのかなという印象です。さらにコロナ禍が開けたことで、この間過去最高の純利益叩き出してましたしね。ディズニーリゾートで「空いてる日」という概念は消えたかもしれないな、と思いました。

 

 そして交通事故の影響で高速が渋滞になり予定より30分遅れで到着。ここまではまぁ想定内。

 

 今回は、異国情緒があるシーの外観を資料として写真におさめられれば満足かな、と思っていたので、アトラクションは新しくできた物以外は程々でいいかな?という気持ちで向かいました。

 

 やぁ~しかし、中々上手く行きませんでしたねぇ~。

 

 現在、パーク内では公式アプリでアトラクションの待ち時間をチェックしたり、レストランを予約したりできるのですが、そうなると常にアプリチェックをし、移動中も待機中も人混みで背景が隠れてしまい(私がチビなこともあって)スマホで写真を撮るタイミングが全ッ然無かった。

 

 序盤でこれはダメだ!と早々に写真は諦めて粛々と列に並んでアトラクションを楽しむことにしました。そんな中、アトラクション乗っている所に「火災報知器ボタンが押されました!」と、はじめてパーク内で警報アナウンスが流れるのを聞きました。事実確認中はアトラクションに乗ったまま15分程待機することに。園内のBGMは全てストップし、機械音だけが流れる空間になったのは貴重な体験でした。火事はなかったので笑い話にできて良かったと思います。

 

 そして、他の待機列に並んでいる時も、急所「機械点検が入ります。30分程お待ちください。」とアナウンスが流れ予定より長く並ぶことになったりしました。2時間立ちっぱなしで待つのはさすがに大変でしたね。

 

 こういうことってなぜか立て続けに起こるから不思議。

 

 ランドよりシーの方がアトラクションが少ない分、お客も集中しているので、全体的に待ち時間が長い。ので、地味に腰の負担も大きかった気がしますね。歩くよりも棒立ちの方が疲れる!

 

 この20年でできた新しいアクラクションは乗っておきたいと思ったのですが、トイストーリーのエリアに関しては大部分に修復作業用の白い布がかかり全貌を見ることができなかったのも残念。

 

 やぁ~しかし、チラっとしか見れてないのですが、夜のパレードすごかったです。シーは水上も活用するのもすごいのですが、園内全体をプロジェクションマッピングに活用してショーの一部にする演出は本当に魔法みたいに見えましたねぇ。科学の力ってすげー!てなりました。

 

 新しいアトラクション含め、今の技術だとこういうことができるのか~!と感心と感動があるので、子どもの頃とはまた違った楽しみ方ができるなぁと感じました。

 

 この度のインパは、全体的に油断していた&見通しが甘かった、と痛感しましたね~。次回シーに行く時はもっと気合いを入れて挑みたいと思います。

 

 20年ぶりでしたし、今回は予行練習というか下見の回だったということで。次回はもっと堪能してやるぞ。待ってろよ。次は新エリア開場した時にな。1年か2年後くらいに行けるといいなぁ。

 

 これはディズニーリゾート40周年記念メニュー。ドナルドの尻がかわいい。そして美味しい。

 

 とりあえず次回はデジカメを買って持って行きたい。スマホで公式アプリから写真アプリに切り替えて撮らなきゃいけない操作とラグが一番我慢ならなかったので。いつかリベンジしてやるぜ。

 

それではまた次回。あと1ヵ月と少しで新年…怖い…。

 

noz

『ゴジラ-1.0』見てきました。

 

 

須々木です。

 

 

映画『ゴジラ-1.0』、見てきました。

 

 

とにかく凄かったです。

というか、凄まじかった。

似たような感覚を得た作品が思い当たらない。

そのくらい強烈な鑑賞体験でした。

 

「良かった」とは何か違う。

「興奮した」とも何か違う。

「感動的だった」でも何か足りない。

 

一番それっぽいのは「感情を激しく揺さぶられて消耗した」みたいな感じ。

見終わってすぐに言葉が出ない感じでした。
 

 

 

 

『ゴジラ-1.0』は、国産実写「ゴジラ」シリーズとして通算30作目であり、ゴジラ生誕70周年記念作品と位置付けられています(正確には「2024年に70周年」)

シリーズの前作は2016年公開の『シン・ゴジラ』(脚本・総監督:庵野秀明)で、大ヒットして非常に話題になりました。

 

『ゴジラ-1.0』の監督・脚本・VFXは、山崎貴

『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ、『永遠の0』、『アルキメデスの大戦』、『STAND BY ME ドラえもん』など数々の話題作を世に放ってきました。

 

そして、今回の「ゴジラ」で描かれるのは、戦後間もない日本

 

 

 

 

というわけで、例によって思ったこと、感じたことなどを備忘録的に書いておこうと思います。

当然、完全に個人的見解なので、その点をくれぐれもご了承ください。


以下、『ゴジラ-1.0』核心部まで遠慮なくネタバレしています。
まだ見ていない人で、今後見る可能性がわずかでもある人は、ご注意ください。

 

※『ゴジラ』(1954年)、『シン・ゴジラ』、『Always 三丁目の夕日』シリーズ、『永遠の0』、『海賊とよばれた男』、『アルキメデスの大戦』の内容にも多少触れています。ご注意ください。

 

 

 

 

*     *     *

 

 

 

とりあえず『ゴジラ-1.0』を考えるとき、隣に並べると良さそうだなと思うのが・・・

 

① シリーズ前作『シン・ゴジラ』

② シリーズ第1作『ゴジラ』

③ 過去の山崎監督作品

 

 

 

まず、『シン・ゴジラ』と『ゴジラ-1.0』を並べて考えてみましょう。

 

『シン・ゴジラ』は、それまでのシリーズと比較してもかなり特異な作品であり、実質的に「ゴジラ2.0」とも言える作品。

現代日本に初めてゴジラが現れたとき、人間がどう対峙するのかを想定し、極端にリアルに描きだしました。

過去のシリーズに多く見られた、怪獣vs怪獣、極端に突飛な兵器、超能力の類は封印し、「災害シミュレーションドラマ」的な展開が印象深い作品です。

 

『ゴジラ-1.0』も、ある意味で非常に特異です。

何と言っても、作中で描かれる時代が戦中から終戦直後の日本である点。

これは、シリーズ第1作『ゴジラ』よりさらに前の時代です。

ゴジラシリーズは、それぞれ制作された時代の要素を取り込み進んできたので、当然のように描かれる時代もそれぞれの“現代”でした。

それが、2023年に、1940年代の日本を舞台としたゴジラ映画。

この情報が流れた時点で、すでにかなりのインパクトでした。

「これは普通じゃない。何かヤバいゴジラなのでは・・・」と。

 

『ゴジラ-1.0』も、『シン・ゴジラ』と同様、怪獣vs怪獣、極端に突飛な兵器、超能力の類は登場することなく、リアルを重視し愚直に立ち向かう執念のようなものを感じました。

そして両作品は、日本人の国民性・アイデンティティと真正面から向き合う姿勢も共通しています。

日本の国民性を顧みて自虐し、それを反転し光明を描こうとする流れは、作品は違えど実質的に同じものであるように感じました。

 

一方、『シン・ゴジラ』が国の中枢を描いていたのに対し、『ゴジラ-1.0』は市井の人々(「マイナス」となっている人々)を描き続けました。

どちらもそれぞれの立場に極端にフォーカスしていて、『シン・ゴジラ』では一般市民のドラマは描かれないし、『ゴジラ-1.0』で権力者たちのドラマは描かれません。

フォーカスする対象は正反対でも、意図の明確さは似通っているように思えます。

 

両作品における「ゴジラ」の設定は大きく異なりますが、捉え方はほぼ同じといって良い気がします。

ゴジラは荒ぶる獣(怪獣)であるが、同時に天災であり、神のように畏敬の念を抱くべき存在。

まるで人間(日本人)を試すような試練をもたらす、ある種の高位存在。

そこに妙なキャラ付けだったり、ゴジラ自身の感情や思考の添付は不要。

胸焼けしそうな娯楽性に縛られた陳腐な怪獣ではないわけです。
 

この点に関して、公式パンフレットの山崎監督の言葉は非常にしっくりきました。

 

映画を作り終えて改めて感じたのは「ゴジラ映画」を作るということは神事に近いのかなという感覚です。映画という形で「ゴジラ」という荒神を鎮めるための「神楽」を舞う。ゴジラ映画とはそういうものなんだと改めて思うようになりました。

 

第1作には、大戸島の伝統としてゴジラ(呉爾羅)を鎮めるため神楽を舞う場面があります。

よって、この感覚は、シリーズの原点である『ゴジラ』から連綿と続くものと言えるでしょう。

 

 

 

『ゴジラ-1.0』には、1954年に公開されたシリーズ第1作『ゴジラ』を感じさせる要素も多くあります。

ゴジラの伝説が残る大戸島、品川から上陸し銀座を破壊するルート、列車を咥えるシーン、高い建物から惨状を伝えるレポーター(そして直後、建物は倒壊)など。

 

作中で描かれているのは、『ゴジラ-1.0』が1945~1947年であるのに対し、第1作『ゴジラ』はそのまま1954年。

どちらも手痛い敗戦の傷跡がはっきり感じられる時代の日本。

悲惨な戦争(そして核兵器の使用)が現実にあって、その結果として生まれた『ゴジラ』。

本シリーズが時代を超越する普遍性を持つに至った最大の要因は、その根底にあり続ける「反戦・反核」の強いメッセージ性。

とは言うものの、すべての作品でプッシュされているわけではなく、『ゴジラ-1.0』は、第1作『ゴジラ』以来、もっとも第1作を色濃く継承した作品になっていたと感じます。

 

一方、第1作『ゴジラ』と非常に対照的なところもあります。

それは、ゴジラを倒した人間の生死です。

 

第1作『ゴジラ』では、核兵器に匹敵する危険性をもつとされる酸素破壊剤「オキシジェン・デストロイヤー」を使用し、東京湾でゴジラを葬り去ります。

その使用シーンで、「オキシジェン・デストロイヤー」発明者の芹沢博士が、この危険な兵器が人類を脅かさないよう、ゴジラとともに自ら死ぬことを選びます。

 

『ゴジラ-1.0』では、「海神作戦」を耐えたゴジラにとどめを刺すため主人公・敷島が戦闘機(震雷)で特攻します。

ゴジラと刺し違えてすべてを終わらせるつもりなのではないかと思わせて、最終的には、生きることを選択します。

 

どちらもゴジラを葬り去るにあたり、生きるか死ぬかを自ら選ぶことになりますが、その選択が完全に真逆なのは、監督の強い信念を感じます。

まさに「生きて、抗え。」というキャッチコピーに集約される『ゴジラ-1.0』の鮮烈なメッセージです。

同時に、「70年」の重みを感じます。

 

 


 

庵野総監督の『シン・ゴジラ』は、タイトルが「シン・」から始まる一連の庵野作品群の一つと位置付けることができるでしょう。

同様に、山崎作品のうち、「敗戦国日本」を描く作品群(『永遠のゼロ』、『海賊とよばれた男』。タイトルがエンドロール直前に表示されるシリーズ)は、作品は違っても紐づけされた作品群をなしているように感じます。

『ゴジラ-1.0』も「敗戦国日本」を描く作品という側面は非常に強く、それ故に単なる怪獣映画を超えた質量を感じさせます。

 

庵野監督が己の血肉となった作品群を解釈し直した「シン・」シリーズと同様、

山崎監督が戦争や敗戦や日本人観を自分なりに解釈し直した「敗戦国日本」シリーズ。

山崎作品では、より時間が経過して、戦争を体験している世代と知らない世代が混在する高度成長期の日本を描いた『Always 三丁目の夕日』シリーズ、戦前から戦中にかけてを描く『アルキメデスの大戦』を含め、「戦争」(特にその悲惨さ)と向き合う作品は特徴的です。

 

よりダイレクトに「戦争」を描いている3作品は、いずれも戦争中、さらに言うなら戦闘中のシーンから始まっています。

『永遠の0』はアメリカ軍艦への特攻。

『海賊とよばれた男』は米軍機による市街地への焼夷弾大量投下。

『アルキメデスの大戦』は戦艦大和の凄絶な沈没。

これらの映画は、戦争とともに始まるわけです。

つまり、映画の終わりは「戦争の終わり」。

「戦争の終わり」が意味するものは作品により異なりますが。

 

『ゴジラ-1.0』が山崎作品の集大成という文言はあちこちで見かけますが、技術的にも内容的にもこれはまさにそのとおりと感じます。

本当に惜しむことなくすべてをつぎ込んだ作品が『ゴジラ-1.0』。

そして、そのすべてをつぎ込まれてもなお成立する「ゴジラ」の懐の深さに改めて驚きます。

 

 

 

 

 

『ゴジラ-1.0』をはじめとする山崎作品を見て興味深いのが、キャラの情報の見せ方。

 

一見すると悪く見えるキャラ(作中で多くの人がネガティブに評価するキャラ)が、真実を知っていくと実はまったく見え方の異なるキャラになるという、転換の演出が印象的です。

『Always 三丁目の夕日'64』の菊池(凡天堂病院の医師)など非常に特徴的です。

『永遠の0』は、むしろこの見え方の転換が作品の軸をなしています。

『アルキメデスの大戦』では、すべてが終わったように見えた最後の最後でこの転換が起きます。

いずれも非常に強いインパクトを与えるものであり、普通に学びたいところでもあります。

 

これらの演出から察するに、山崎監督は物事を多面的に捉えることに非常に大きな価値を見出しているのかもしれません。

これは、根本的には、戦争(特に太平洋戦争)に対する見方からきているのかもしれません。

太平洋戦争を「評価する」という意味ではなく、「多面的に捉えないと本質を見誤る」という警鐘として。

そして、今回は「ゴジラ」がもつ多面性と見事にマッチして強い相乗効果が生まれたように思います。

 

 

 

 

山崎作品における非常にロジカルな組み立ても興味深いところです。

 

特に特徴的だと思うのが、伏線がわかりやすいのに、予測されてもあまりマイナスにならない点です。

むしろ、場合によっては「王道展開」による高揚感(期待した展開を踏んでくれる)に繋がっているくらいです。

「伏線がバレたら致命傷。できるだけバレないように」とは対極のアプローチであり、興味深いです。

伏線が「裏をかかれる面白さ」ではなく、変化をつけコンセプトを際立たせる舞台装置として活用される傾向を強く感じます。

 

『ゴジラ-1.0』で、最後の緊急脱出装置は、展開として事前に完全に予測される可能性が十分高いものでしょう。

しかし、この展開がそもそも本作の根幹となるコンセプトを象徴しているので、予測されるかどうかはあまり重要ではなく、「コンセプトを印象付ける」だけで良くなるわけです。

ミステリーをやっているわけではないので、予測されるかどうかは、ある意味で瑣末な問題となっています。
 

「先の展開がわかっていても感情が昂る」というのは、絶叫マシンやお化け屋敷やバンジージャンプなどの感覚に近いかもしれないとも思います。

「身体的危険がほぼない」とわかっていても感情を刺激する。

なぜなら、「ほぼないけれど、万が一」というのが頭によぎり(しかも非常に具体的に)、最終的にその万が一を回避できた安心感(緊張の緩み)が感情を大きく揺さぶっているのでしょう。

「主人公はきっと脱出装置を使って生き残ってくれるだろう」と思いつつ、「差し違える」という結末は可能性として残り続けます。

それまで、ゴジラの圧倒的な力を前に人々がなすすべなく散っていく様をショッキングに描いてきたことで、観客は自然とそれを主人公にあてはめてしまう。

たとえそれが1%でも「可能性がある」と思わせることがキモで、具体的にイメージさせられると最終的な効果(感情の揺さぶり)が大幅にアップする、みたいな理屈なのではないでしょうか。

つまり、それまでの誘導の巧みさの帰結が、圧倒的な感情体験の本当の伏線なのではないかと。

 

 

国のために死ぬことが当然とされた時代。

その価値観にどうにかして抗おうとする、山崎作品に通底するテーマが『ゴジラ-1.0』で鮮烈に集約されています。

しかし、戦争のさなかの葛藤より、戦争を終え「本来なら生きて良いはずの時代」に「生きていて良いのか?」という問いと向き合わなければならない辛さは異質です。

 

「戦争が終わったら」などと言うこともできない。

戦争は終わっているのだから。

では、どうすれば終わるのか? 終わりはあるのか?

このような「終わりの見えない漠然とした絶望感」こそが、『ゴジラ-1.0』が捉えた時代性なのではないでしょうか。

しかし、山崎作品では、それがうまくいくかは別として、常に一つの答えを提示しています。

「自分の戦争を終わらせる」というものです。

どこかの偉い人たちが決める終戦ではなく、「自分の戦争を終わらせる」。

 

『ゴジラ-1.0』で描かれた、終わりの見えない、敵の見えない、行き場のない袋小路のような重苦しさ。

その“地獄”を決定づけたのはゴジラですが、最終的に“地獄”を吹き飛ばす存在もまたゴジラです。

戦争が多面性をもつのと同様、天災が多面性を持つのと同様、ゴジラもまた多面的な存在なのです。

だから、ゴジラと真正面から対峙することで、「自分の戦争を終える」ことができたのでしょう。


ラストシーンについて。
病院で典子の生存が明らかになるわけですが、正直言って少し浮いた印象を受けました。

銀座の爆風のシーンで死を確定させる描写がなかったので、「結局生きてるのかな」というのは思っていましたが。

しかし、それでも「主人公に対し直接言わせるべき言葉があったので生きていなければいけなかった」というふうに理解しました。

明らかに本作のラストに必要な言葉であり、主人公に誰かが言わなければいけない言葉だったので、たとえシナリオの流れを多少歪めることになっても入れるべきだと判断されたのでしょう。

だからこそ、監督から滲み出た強いメッセージであり、その意味は重いと感じます。

 

・・・と思っていたのですが、ネットで適当に情報をあさっていたら、「首筋に黒いあざがあがってきている」とか?

むむむ……記憶にない(見落とした)。

そうすると話が変わってきますね。

単に黒い痣なら、怪我や被爆ということなのでしょうが、動いていたら話が違います。

再生能力が異常に高いゴジラの細胞が何らかの影響を与えている可能性を示唆しているんでしょうか?

そもそも、かなりの期間があったのにそれまでに電報を打たなかったのは、打てない状況だったからでしょう。

「病院に収容されてはいたが、意識が戻らず身元が判明しなかった」か「ゴジラ襲来からかなり時間がたっていたのに“奇跡的に”生存者として現場から救出された」か。

よくわからん……。
 

というわけで、とりあえずもう1回見てきます。

 

 

 

 

 

【追記(2023.11.21)】

 

もう1回見てきました。

件のラスト病室シーンについて。

確かに、典子の首筋に黒い禍々しい感じの何かがあがってきてました。

でも、痣とは言えない雰囲気ですね。

 

直後、海中のゴジラの肉片が異常な再生を開始する場面に切り替わることを考えても、ゴジラの細胞に関係する演出なんだろうと想像されます。

作中、銀座の場面に関して「ゴジラの細胞が飛び散っていた」ということにわざわざ言及されているのも伏線と感じます。

過去のゴジラ作品と比較しても「ゴジラの再生能力」を繰り返し強調しているので、詳しいメカニズムは不明でも関連はしているだろうと思います。

 

客観的な情景描写なのか、イメージを表現した演出なのか際どいところですが、いずれにせよ、明確な意図を持たせた描写であることは間違いないので、非常に興味深いものです。

個人的には以下のような流れを想像します。

 

銀座へのゴジラ襲来において、典子は致命傷(もしかすると生命活動停止)を負ってしまう。

大規模な破壊であり、放射線の汚染もある状況で、救助活動は難航。

典子はすぐに救助されないが、飛び散ったゴジラの細胞の異常な再生能力の影響で“生存”(または“蘇生”)。

少しずつ進む救助活動によりようやく見つかって、「奇跡的な生存者」として病院に搬送。

電報によって知らせが届く。

 

あれだけ典子がいなく寂しがっていた明子が、病室でなぜか距離を取ったままなのも、偶然なのか意図的なのか。

いろいろ想像が膨らむシーンではあります。

 

 

 

sho

 

 

 

 

 

秋ドラマ2023

どうもこんばんは霧島です。

寒いね!!

金木犀の香りを嗅いでから特に秋っぽいことをすることなく引きこもり続けてるので、せめてもの足掻きで栗ごはんとかで凌いでいます。()



ということで久しぶりのドラマの話。今期観ていて面白いなと思うものをいくつか。


「マイ・セカンド・アオハル」



あらすじ:派遣社員として働く佐弥子は偶然出会った大学生・拓の一言で、かつて断念した大学受験に再挑戦する。念願の建築学科に30歳にして入学し、学科の学生が破格の賃料で入居できるシェアハウスに入居することになるが、そこにはあの時の大学生、拓がいた。佐弥子が第二の青春として恋に勉強にと奮闘するラブコメディ。



漫画にありそうなキャッチーさと、主人公の佐弥子の嫌味のない性格がとてもいいです。アラサーを理由に拗らせておらず、素直なところなどとても好感が持てます。


女性の視聴者をターゲットとする場合、女性が女性に対する目線の厳しさを考えると良いバランスの主人公ではないかと個人的には思います。


主人公が30歳、大学生の拓は20歳、主人公の憧れの建築家日向は40歳前後という歳の差恋愛的な要素も、ギミックとしてもうまく働いていて、なるほどとなります。


主人公を始め周囲のキャラクターも個性強めですが、スタートのいい意味での「漫画っぽさ」がそれらをあまり気にさせないのもいいです。


会話劇も面白いですが、一本の尺の中での感情の上下もしっかりあって、急展開でありつつもキャラクターの心情に矛盾を感じないのでスッと入ってくるのもすごいなと思います。


主人公佐弥子を演じるのは広瀬アリスさん、相手役の拓を演じるのは、なにわ男子の道枝駿佑くんです。俳優さんの名前を見ればわかりますが画面が華やか!逐一絵になりますね

個人的にいいキャラだなと思うのがイモトアヤコさん演じる主人公の元先輩です。

周囲が歳下の大学生ばかりなので相談事は彼女にするのですが、2人の掛け合いも面白くてオススメめです。


個人的には展開の速さにも最近の漫画っぽさを感じてるところがありますが、恐らく全10話前後だと思うので今後の展開がどうなるのか楽しみです。




「いちばんすきな花」



あらすじ:「男女の友情は成り立つのか」を主軸に、職業も年齢も違う、ゆくえ、椿、夜々、紅葉の4人の男女が、それぞれの抱えるものを持ち寄りながら友情や恋愛、その他の感情を描くヒューマンドラマ。



昨年話題になったsilentの脚本の生方さんが書かれてるドラマですね。台詞回しというか掛け合いが結構特徴的というか、ともすればあまり日常会話っぽくはないなと思いながら私は観ています。阿吽の呼吸感というのかな全員が全員、打てば響くというのはなかなかないだろうなと思うのでただ慣れてくると結構クセになります。


最近はもうダブル主演ではなくクアトロ主演なんですね。

一つのCMで何人もの俳優さんを目にするようになって久しいですが、ついにドラマもそうなるのかと


なんとなくオープニングで表示される名前の順で追ってしまう私ですが、4人の中で1番ぐっときているのは松下洸平さん演じる椿さんです。


めちゃくちゃかわいい

作品の中でもゆくえさんと夜々ちゃんから(言動が)かわいい認定されているのですが、観てるだけでとてもほっこりするいいキャラクターです。男女関係なくふんわり包み込んでくれるあの感じまだ結婚してないの嘘でしょ!?となってしまいます。


今作、会話劇の面白さでなんとなく坂本裕二さんが浮かんだのですが、坂本さんの書く偏屈な男性キャラが個人的に好きなのと同じような感覚で、生方さんの書かれるかわいい男性は好きだなと思いました。


こちらは個人的に、4人で仲良くしてる様が心地よくて好きなのですが、そろそろ恋愛が絡んでくるの?とちょっと見たいような見たくないような複雑な気持ちで観ています。



「くすぶり女とすん止め女」



あらすじ:経済力や自己肯定感が低くモラハラ夫の言いなりになっていた専業主婦で二児の母の郁子と、恋愛も仕事も万年2番手で満たされない思いを抱えていたほのかが、互いの目的を果たすために協力して奮闘する様を描く30分ドラマ。



初回からしんどいシーンがものすごくて、モラハラ夫に対する殺意を抑えられなくなります。(重要)

上司がこんなんだったら嫌すぎて即会社辞めるて思うし、夫だったら離婚だ離婚!!て思うけど、そう思っていざ実行しようにもうまくいかないジレンマ

思ってるだけでなく、実際行動して、しかし失敗というのが郁子が受動的なキャラになってなくていいなと思います。


ちょいちょい郁子さんのズレた行動にポカンとしてしまうものの、とにかくモラハラ夫を見返して欲しい一身で視聴を続けてたのですがようやく光明がと思ったところでまた新たな疑念が湧いてきたりと30分ドラマなので忙しいです。


最初はお互い理解できない2人が目的を遂げるために協力していくというある種テッパンのシナリオですが、とにかく夫のキャラが最悪で「許せん」という感情がそのキャラに向かうことが私の視聴エネルギーになっていると感じるので、ヘイトを集めるキャラも必要なんだなと思った次第です。



他にも面白いなと思うものはあるんですが、明日は早起きせねばならないので今日はこの辺にしておきます。今期のドラマが終わる頃にまた続き書けたらいいな



したらば!

rin

草津で湯治2023~秋の陣~

どうも遊木です。

 

季節は、もっと美しいグラデーションで変化して欲しいと思う今日この頃、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

 

 

 

前回の記事にもちょろっと予告しましたが、10月の草津旅行について書きたいと思います。

 

 

 

~草津で湯治だ2023 秋の陣~

→6月の旅はこちらから。

 

〇一日目

天気予報でわかっていましたが、めっちゃ大雨でした。

前回は梅雨という季節柄、仕方ないと思っていましたが……草津への旅は、毎回雨から始まる呪いにかかってるのか?

でも安心(?)して下さい。今回の旅、雨に濡れたのは初日だけです。

何なら自宅から最寄り駅に向かう10分間が一番濡れました。べしゃべしゃでした。

でも、以降はピーカンです!

 

車で向かうと結構な時間がかかる草津ですが、上野から特急草津・四万に乗るとあっと言う間。

2時間20分程度特急に揺られますが、到着直前の八ッ場ダム以外は特に見どころがないので(ぇ)、この間は作業や読書におススメ。

ちなみに上野駅は沢山の駅弁やお土産が売っているので、車内でそれを楽しむのもアリです。

 

今回の駅弁はこんな感じ。↓↓

 

 

秋の味覚と鱒寿司、どっちも美味しかった~!

今回も二人旅だったので、駅弁は半々ずつで分け合いました。

普段は一人の時間がないと病むタイプですが、旅や遠出に関しては、一人より、気心の知れた誰かと行きたい派。

何故ならこういうことが出来るから!

 

長野原草津口についたら、雨はほぼ上がってました。

ここからバスで20分程で、草津温泉バスターミナルに付きます。

上野から3時間でつくんだから近い近い。

 

今回は、湯畑の目の前とは言えないものの、5分ぐらいの場所を拠点にしました。

前回との大きな変更点は、素泊まりにしたことです。

食事の時間が決まっていると、どうしても行動が制限されちゃいますからね。

昔と違って手軽に食事できる場所も増えたので、行き慣れた人は素泊まりがおススメ。

 

宿に向かう途中、偶然熱乃湯に向かうゆもみちゃんなるキャラと遭遇しました。

初めて見た……。

 

 

宿に荷物を預けた後は、チェックインまで周辺を散策。

熱帯圏を通り過ぎ、ロマンティック街道に抜けるルートを進むと、道の脇に鐘が。

 

 

看板には「草津新四国八十八ヵ所霊場」とありました。

熱帯圏の奥に、謎の小堂が並んでるなぁと昔から思ってたんですよ。それの正体がこれでした。

普段は西の河原や天狗山、バスターミナル側に行きがちだったので気付かなかった……。

※写真を撮り忘れたので、良さげな写真を載せられている記事を貼っておきます。

 

その後、「瞳乃湯」あたりで引き返し、川沿いに湯畑まで戻りました。

 

湯畑周辺を散策していたら、猫に会える宿で有名な「中村屋」の前に人だかりが。

 

 

いたー!

HPで確認しましたが、多分コタロウくんですね。

地味に「ねこでます」の看板がウケる。でますって。

 

その後は西の河原の足湯でまったり。

 

 

 

〇二日目

二日目は、久しぶりの天狗山を目指して出発。(6月は行かなかった)

西の河原の入り口で猫ズに挨拶し、そのまま登っていきます。

 

3匹に戻ってた!

 

 

 

自然を堪能しつつ天狗山へ到着。

 

 

めっちゃ工事してて入れなかった……。

 

でも紅葉は綺麗でした!

 

 

 

周辺をぶらついた後は、再び西の河原に向かって下ります。

 

そして、湯畑側に戻ろうとしたとき、片岡鶴太郎美術館を通り過ぎた少し先に、すんごい急な古い階段を発見。

どのくらい急かというと、子供とご老体は絶対登れないだろうなぁと一目で理解するぐらい。

 

……大人になっても冒険心を忘れてはいけない。

こういう時は深く考えないで登れ!

 

 

という感じに途中まで登ったのですが、上を覗いたら工事業者っぽい人がいたので、てっぺんまでは行きませんでした。

どうやら金毘羅様に繋がる階段だったよう。

 

夕方になり、一旦宿に戻ろうとしたときのこと………何だかデジャブ……。

 

 

草津の猫は扉の前で待つ決まりか?

ちなみに、4日目と最終日はここのモーニングを頂きました。

和食と洋食を選べて、どちらもリーズナブルで美味しかったです。

 

宿で少し休憩した後は、再び湯畑へ。

 

 

ちなみに今回の旅では、夕飯はコンビニのおでんや焼き鳥を買って湯路広場で頂く、というのがルーティンになりました。

これ、めっちゃイイのが、湯畑が目の端に入る割に人が少なく、トイレが近く、寒くなったら白旗の湯に行けば良いっていうね……もう正解を見つけた感じ。

 

 

ただ、草津は標高約1200mなので、10月でも夜は6℃とかになる。

つまり、防寒対策してないと積む。

 

 

〇三日目

三日目は恒例の熱帯圏へ。

もう何度も訪れている場所なので、「ちょっと挨拶しに行こう」という感じです。

 

ところで皆さんは、「ザ・ベストハウス123」という番組をご存じですか?

2006年から2012年まで放送されていたバラエティで、「ワン、ツー、スリー!」というコールが特徴的でした。このコールだけは覚えている、という人も多いのでは。

その番組でマスコット的な存在だったのが、アフリカオオコノハズクの「ポポちゃん」です。

アフリカオオコノハズクは、目の前の相手を“どう判断するか”で、身体の大きさを変える習性があります。

身体を細くすぼめて木に擬態する場合と、身体を膨らませて威嚇する場合があります。

ちなみに、威嚇の最終形態は羽を大きく広げた姿。これは「もう逃げられない!」と判断したときの姿なので、意図的にさせるのはよろしくありません。

 

さて、前置きが長くなりましたが、熱帯圏にもアフリカオオコノハズクがいます。

初めて会ったのは6月に来た時。

この時のコノハズクは、顔を近づけると「めっちゃ細ッ」とまではいかなくても、ぱっと見で身体をすぼめているのがわかる状態になりました。

ポポちゃんからの情報で、コノハヅクの生体は知っていたので「うわ~本当に細くなる」と感動したものです。

 

それが今回は……身体を膨らませてきよった!

いや、威嚇ってほど膨らませてはないですけど!

でも、顔を近づけたら「……もふぅ」って感じで明らかに膨らんだ……!

半年で性格が変わった!

 

 

他にはカピバラ一家や、(確か)コモンマーモセットに赤ちゃんが生まれていました。

 

 

カピバラって不思議ですよね。普通、赤ちゃんと成体って身体の比率違うじゃないですか。でも、カピバラはマジで一緒。親と子が同じ画角に入ってないと成体か幼体かわからない。

Shift押して拡大縮小した感じ。

 

熱帯圏のあとは、裏草津のカフェ「月の貌」でまったり。

 

 

季節限定のシャインマスカットスムージーとビール、前回も注文したキッシュを頂きました。

スムージーが想像以上に美味しかったです。

余計な味が入ってなくて、本当に純粋なマスカットの味が楽しめました。

 

 

さて、日が暮れて向かうは西の河原。今回の目的の一つ、“夜の”「西の河原露天風呂」へ!

西の河原露天風呂については、前回煮え湯を飲まされましたからね……なんや、4日間メンテナンス休館て。詳細は前回の草津記事参照

 

今回は事前にしっかり調べておきましたよ!

 

 

 

〇四日目

四日目のテーマは、神社仏閣巡り。

この日も見事な晴天ですね。

 

 

まずは、湯畑のすぐ近く、光泉寺から。

 

 

さて、ここには小林一茶の歌があります。

 

湯けむりに ふすぼりもせぬ 月の貌 小林一茶

 

……ハッ!

裏草津のカフェ「月の貌」はこの歌からとってきてたのか!

謎が一つ解けた!

 

 

ぐるりと一周したあとは階段を下らず、上から西の河原へ向かい、公園内の草津穴守稲荷神社をお参りし、そのまま運動のために天狗山へ。

 

 

日中は暑かったので、冷たい飲み物が染みました。

 

休憩した後は、天狗山から白根神社を目指します。

白根神社の裏手から入りつつ、まぁ礼儀として手水から……と思ったら、花手水になってました。

綺麗ですね~。

 

 

でもひよこは何で?

 

 

境内をぐるりと周った後は、正面階段を下って西の河原通りをぶらぶらしました。

 

誘惑に勝てずに、途中で食べてしまった焼き鳥が美味しかった~。

食べ歩きってなんで普段より美味しく感じるんやろ。

 

 

その後はいつも通り、湯路広場でまったり夕飯をとりつつ、最後の夜を楽しみました。

 

 

 

〇最終日

宿の近くでモーニングを頂き、バスの時間まで湯畑周辺をぶらぶらしました。

やはり(?)別れの挨拶をしなければと、西の河原入口の猫ちゃんズに会いに行ったら……

 

 

おい!また看板が出てんじゃねーか!

あっぶねー!もっとちゃんと予告して!?

 

 

 

……そういえば、帰り際にはまた見つけました。

入口で待つ猫ちゃんの背中。

 

 

草津の猫すごくない?みんな入り口で待つやん。

 

さて、湯畑に別れを告げ、再びバスで長野原草津口へ。

今回は、行きも帰りも特急を使いました。早いしね。

 

結構長く滞在してたのに、過ぎてしまうとあっと言う間。

 

ちなみに湯治がメインだったので、当然温泉には入っていました。

大体1日4回ぐらいですかね。朝、昼、夕、夜って。

朝は宿の大浴場、昼、夕は白旗、夜は宿、って感じですかね。

途中、混んでなかったときに、地蔵の湯と千代の湯にも入りました。

 

草津はタオル一本持っていれば、出先でもさっと温泉に入れるのが良いですね。

ただ、慣れていないと湯あたりするのでご注意。

ちなみに私は3日目か4日目あたりに、軽くなりました。

 

温泉+運動+文化的活動+適度なデジタルデトックスで、心身共に癒される旅でした。

次はいつ行けるか~。

 

 

 

ちなみに、今回の旅のお供本はこの子。

 

 

 

 

草津は観光地として有名ですが、小さい頃から何度も訪れている私にとっては、故郷に近い感覚の場所です。

第二の故郷は横浜、第三が草津と言えるぐらい。

いつか、草津を舞台にした作品をしっかり作ってみたいなぁと思います。

 

 

aki