『ゴジラ-1.0』見てきました。 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

『ゴジラ-1.0』見てきました。

 

 

須々木です。

 

 

映画『ゴジラ-1.0』、見てきました。

 

 

とにかく凄かったです。

というか、凄まじかった。

似たような感覚を得た作品が思い当たらない。

そのくらい強烈な鑑賞体験でした。

 

「良かった」とは何か違う。

「興奮した」とも何か違う。

「感動的だった」でも何か足りない。

 

一番それっぽいのは「感情を激しく揺さぶられて消耗した」みたいな感じ。

見終わってすぐに言葉が出ない感じでした。
 

 

 

 

『ゴジラ-1.0』は、国産実写「ゴジラ」シリーズとして通算30作目であり、ゴジラ生誕70周年記念作品と位置付けられています(正確には「2024年に70周年」)

シリーズの前作は2016年公開の『シン・ゴジラ』(脚本・総監督:庵野秀明)で、大ヒットして非常に話題になりました。

 

『ゴジラ-1.0』の監督・脚本・VFXは、山崎貴

『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ、『永遠の0』、『アルキメデスの大戦』、『STAND BY ME ドラえもん』など数々の話題作を世に放ってきました。

 

そして、今回の「ゴジラ」で描かれるのは、戦後間もない日本

 

 

 

 

というわけで、例によって思ったこと、感じたことなどを備忘録的に書いておこうと思います。

当然、完全に個人的見解なので、その点をくれぐれもご了承ください。


以下、『ゴジラ-1.0』核心部まで遠慮なくネタバレしています。
まだ見ていない人で、今後見る可能性がわずかでもある人は、ご注意ください。

 

※『ゴジラ』(1954年)、『シン・ゴジラ』、『Always 三丁目の夕日』シリーズ、『永遠の0』、『海賊とよばれた男』、『アルキメデスの大戦』の内容にも多少触れています。ご注意ください。

 

 

 

 

*     *     *

 

 

 

とりあえず『ゴジラ-1.0』を考えるとき、隣に並べると良さそうだなと思うのが・・・

 

① シリーズ前作『シン・ゴジラ』

② シリーズ第1作『ゴジラ』

③ 過去の山崎監督作品

 

 

 

まず、『シン・ゴジラ』と『ゴジラ-1.0』を並べて考えてみましょう。

 

『シン・ゴジラ』は、それまでのシリーズと比較してもかなり特異な作品であり、実質的に「ゴジラ2.0」とも言える作品。

現代日本に初めてゴジラが現れたとき、人間がどう対峙するのかを想定し、極端にリアルに描きだしました。

過去のシリーズに多く見られた、怪獣vs怪獣、極端に突飛な兵器、超能力の類は封印し、「災害シミュレーションドラマ」的な展開が印象深い作品です。

 

『ゴジラ-1.0』も、ある意味で非常に特異です。

何と言っても、作中で描かれる時代が戦中から終戦直後の日本である点。

これは、シリーズ第1作『ゴジラ』よりさらに前の時代です。

ゴジラシリーズは、それぞれ制作された時代の要素を取り込み進んできたので、当然のように描かれる時代もそれぞれの“現代”でした。

それが、2023年に、1940年代の日本を舞台としたゴジラ映画。

この情報が流れた時点で、すでにかなりのインパクトでした。

「これは普通じゃない。何かヤバいゴジラなのでは・・・」と。

 

『ゴジラ-1.0』も、『シン・ゴジラ』と同様、怪獣vs怪獣、極端に突飛な兵器、超能力の類は登場することなく、リアルを重視し愚直に立ち向かう執念のようなものを感じました。

そして両作品は、日本人の国民性・アイデンティティと真正面から向き合う姿勢も共通しています。

日本の国民性を顧みて自虐し、それを反転し光明を描こうとする流れは、作品は違えど実質的に同じものであるように感じました。

 

一方、『シン・ゴジラ』が国の中枢を描いていたのに対し、『ゴジラ-1.0』は市井の人々(「マイナス」となっている人々)を描き続けました。

どちらもそれぞれの立場に極端にフォーカスしていて、『シン・ゴジラ』では一般市民のドラマは描かれないし、『ゴジラ-1.0』で権力者たちのドラマは描かれません。

フォーカスする対象は正反対でも、意図の明確さは似通っているように思えます。

 

両作品における「ゴジラ」の設定は大きく異なりますが、捉え方はほぼ同じといって良い気がします。

ゴジラは荒ぶる獣(怪獣)であるが、同時に天災であり、神のように畏敬の念を抱くべき存在。

まるで人間(日本人)を試すような試練をもたらす、ある種の高位存在。

そこに妙なキャラ付けだったり、ゴジラ自身の感情や思考の添付は不要。

胸焼けしそうな娯楽性に縛られた陳腐な怪獣ではないわけです。
 

この点に関して、公式パンフレットの山崎監督の言葉は非常にしっくりきました。

 

映画を作り終えて改めて感じたのは「ゴジラ映画」を作るということは神事に近いのかなという感覚です。映画という形で「ゴジラ」という荒神を鎮めるための「神楽」を舞う。ゴジラ映画とはそういうものなんだと改めて思うようになりました。

 

第1作には、大戸島の伝統としてゴジラ(呉爾羅)を鎮めるため神楽を舞う場面があります。

よって、この感覚は、シリーズの原点である『ゴジラ』から連綿と続くものと言えるでしょう。

 

 

 

『ゴジラ-1.0』には、1954年に公開されたシリーズ第1作『ゴジラ』を感じさせる要素も多くあります。

ゴジラの伝説が残る大戸島、品川から上陸し銀座を破壊するルート、列車を咥えるシーン、高い建物から惨状を伝えるレポーター(そして直後、建物は倒壊)など。

 

作中で描かれているのは、『ゴジラ-1.0』が1945~1947年であるのに対し、第1作『ゴジラ』はそのまま1954年。

どちらも手痛い敗戦の傷跡がはっきり感じられる時代の日本。

悲惨な戦争(そして核兵器の使用)が現実にあって、その結果として生まれた『ゴジラ』。

本シリーズが時代を超越する普遍性を持つに至った最大の要因は、その根底にあり続ける「反戦・反核」の強いメッセージ性。

とは言うものの、すべての作品でプッシュされているわけではなく、『ゴジラ-1.0』は、第1作『ゴジラ』以来、もっとも第1作を色濃く継承した作品になっていたと感じます。

 

一方、第1作『ゴジラ』と非常に対照的なところもあります。

それは、ゴジラを倒した人間の生死です。

 

第1作『ゴジラ』では、核兵器に匹敵する危険性をもつとされる酸素破壊剤「オキシジェン・デストロイヤー」を使用し、東京湾でゴジラを葬り去ります。

その使用シーンで、「オキシジェン・デストロイヤー」発明者の芹沢博士が、この危険な兵器が人類を脅かさないよう、ゴジラとともに自ら死ぬことを選びます。

 

『ゴジラ-1.0』では、「海神作戦」を耐えたゴジラにとどめを刺すため主人公・敷島が戦闘機(震雷)で特攻します。

ゴジラと刺し違えてすべてを終わらせるつもりなのではないかと思わせて、最終的には、生きることを選択します。

 

どちらもゴジラを葬り去るにあたり、生きるか死ぬかを自ら選ぶことになりますが、その選択が完全に真逆なのは、監督の強い信念を感じます。

まさに「生きて、抗え。」というキャッチコピーに集約される『ゴジラ-1.0』の鮮烈なメッセージです。

同時に、「70年」の重みを感じます。

 

 


 

庵野総監督の『シン・ゴジラ』は、タイトルが「シン・」から始まる一連の庵野作品群の一つと位置付けることができるでしょう。

同様に、山崎作品のうち、「敗戦国日本」を描く作品群(『永遠のゼロ』、『海賊とよばれた男』。タイトルがエンドロール直前に表示されるシリーズ)は、作品は違っても紐づけされた作品群をなしているように感じます。

『ゴジラ-1.0』も「敗戦国日本」を描く作品という側面は非常に強く、それ故に単なる怪獣映画を超えた質量を感じさせます。

 

庵野監督が己の血肉となった作品群を解釈し直した「シン・」シリーズと同様、

山崎監督が戦争や敗戦や日本人観を自分なりに解釈し直した「敗戦国日本」シリーズ。

山崎作品では、より時間が経過して、戦争を体験している世代と知らない世代が混在する高度成長期の日本を描いた『Always 三丁目の夕日』シリーズ、戦前から戦中にかけてを描く『アルキメデスの大戦』を含め、「戦争」(特にその悲惨さ)と向き合う作品は特徴的です。

 

よりダイレクトに「戦争」を描いている3作品は、いずれも戦争中、さらに言うなら戦闘中のシーンから始まっています。

『永遠の0』はアメリカ軍艦への特攻。

『海賊とよばれた男』は米軍機による市街地への焼夷弾大量投下。

『アルキメデスの大戦』は戦艦大和の凄絶な沈没。

これらの映画は、戦争とともに始まるわけです。

つまり、映画の終わりは「戦争の終わり」。

「戦争の終わり」が意味するものは作品により異なりますが。

 

『ゴジラ-1.0』が山崎作品の集大成という文言はあちこちで見かけますが、技術的にも内容的にもこれはまさにそのとおりと感じます。

本当に惜しむことなくすべてをつぎ込んだ作品が『ゴジラ-1.0』。

そして、そのすべてをつぎ込まれてもなお成立する「ゴジラ」の懐の深さに改めて驚きます。

 

 

 

 

 

『ゴジラ-1.0』をはじめとする山崎作品を見て興味深いのが、キャラの情報の見せ方。

 

一見すると悪く見えるキャラ(作中で多くの人がネガティブに評価するキャラ)が、真実を知っていくと実はまったく見え方の異なるキャラになるという、転換の演出が印象的です。

『Always 三丁目の夕日'64』の菊池(凡天堂病院の医師)など非常に特徴的です。

『永遠の0』は、むしろこの見え方の転換が作品の軸をなしています。

『アルキメデスの大戦』では、すべてが終わったように見えた最後の最後でこの転換が起きます。

いずれも非常に強いインパクトを与えるものであり、普通に学びたいところでもあります。

 

これらの演出から察するに、山崎監督は物事を多面的に捉えることに非常に大きな価値を見出しているのかもしれません。

これは、根本的には、戦争(特に太平洋戦争)に対する見方からきているのかもしれません。

太平洋戦争を「評価する」という意味ではなく、「多面的に捉えないと本質を見誤る」という警鐘として。

そして、今回は「ゴジラ」がもつ多面性と見事にマッチして強い相乗効果が生まれたように思います。

 

 

 

 

山崎作品における非常にロジカルな組み立ても興味深いところです。

 

特に特徴的だと思うのが、伏線がわかりやすいのに、予測されてもあまりマイナスにならない点です。

むしろ、場合によっては「王道展開」による高揚感(期待した展開を踏んでくれる)に繋がっているくらいです。

「伏線がバレたら致命傷。できるだけバレないように」とは対極のアプローチであり、興味深いです。

伏線が「裏をかかれる面白さ」ではなく、変化をつけコンセプトを際立たせる舞台装置として活用される傾向を強く感じます。

 

『ゴジラ-1.0』で、最後の緊急脱出装置は、展開として事前に完全に予測される可能性が十分高いものでしょう。

しかし、この展開がそもそも本作の根幹となるコンセプトを象徴しているので、予測されるかどうかはあまり重要ではなく、「コンセプトを印象付ける」だけで良くなるわけです。

ミステリーをやっているわけではないので、予測されるかどうかは、ある意味で瑣末な問題となっています。
 

「先の展開がわかっていても感情が昂る」というのは、絶叫マシンやお化け屋敷やバンジージャンプなどの感覚に近いかもしれないとも思います。

「身体的危険がほぼない」とわかっていても感情を刺激する。

なぜなら、「ほぼないけれど、万が一」というのが頭によぎり(しかも非常に具体的に)、最終的にその万が一を回避できた安心感(緊張の緩み)が感情を大きく揺さぶっているのでしょう。

「主人公はきっと脱出装置を使って生き残ってくれるだろう」と思いつつ、「差し違える」という結末は可能性として残り続けます。

それまで、ゴジラの圧倒的な力を前に人々がなすすべなく散っていく様をショッキングに描いてきたことで、観客は自然とそれを主人公にあてはめてしまう。

たとえそれが1%でも「可能性がある」と思わせることがキモで、具体的にイメージさせられると最終的な効果(感情の揺さぶり)が大幅にアップする、みたいな理屈なのではないでしょうか。

つまり、それまでの誘導の巧みさの帰結が、圧倒的な感情体験の本当の伏線なのではないかと。

 

 

国のために死ぬことが当然とされた時代。

その価値観にどうにかして抗おうとする、山崎作品に通底するテーマが『ゴジラ-1.0』で鮮烈に集約されています。

しかし、戦争のさなかの葛藤より、戦争を終え「本来なら生きて良いはずの時代」に「生きていて良いのか?」という問いと向き合わなければならない辛さは異質です。

 

「戦争が終わったら」などと言うこともできない。

戦争は終わっているのだから。

では、どうすれば終わるのか? 終わりはあるのか?

このような「終わりの見えない漠然とした絶望感」こそが、『ゴジラ-1.0』が捉えた時代性なのではないでしょうか。

しかし、山崎作品では、それがうまくいくかは別として、常に一つの答えを提示しています。

「自分の戦争を終わらせる」というものです。

どこかの偉い人たちが決める終戦ではなく、「自分の戦争を終わらせる」。

 

『ゴジラ-1.0』で描かれた、終わりの見えない、敵の見えない、行き場のない袋小路のような重苦しさ。

その“地獄”を決定づけたのはゴジラですが、最終的に“地獄”を吹き飛ばす存在もまたゴジラです。

戦争が多面性をもつのと同様、天災が多面性を持つのと同様、ゴジラもまた多面的な存在なのです。

だから、ゴジラと真正面から対峙することで、「自分の戦争を終える」ことができたのでしょう。


ラストシーンについて。
病院で典子の生存が明らかになるわけですが、正直言って少し浮いた印象を受けました。

銀座の爆風のシーンで死を確定させる描写がなかったので、「結局生きてるのかな」というのは思っていましたが。

しかし、それでも「主人公に対し直接言わせるべき言葉があったので生きていなければいけなかった」というふうに理解しました。

明らかに本作のラストに必要な言葉であり、主人公に誰かが言わなければいけない言葉だったので、たとえシナリオの流れを多少歪めることになっても入れるべきだと判断されたのでしょう。

だからこそ、監督から滲み出た強いメッセージであり、その意味は重いと感じます。

 

・・・と思っていたのですが、ネットで適当に情報をあさっていたら、「首筋に黒いあざがあがってきている」とか?

むむむ……記憶にない(見落とした)。

そうすると話が変わってきますね。

単に黒い痣なら、怪我や被爆ということなのでしょうが、動いていたら話が違います。

再生能力が異常に高いゴジラの細胞が何らかの影響を与えている可能性を示唆しているんでしょうか?

そもそも、かなりの期間があったのにそれまでに電報を打たなかったのは、打てない状況だったからでしょう。

「病院に収容されてはいたが、意識が戻らず身元が判明しなかった」か「ゴジラ襲来からかなり時間がたっていたのに“奇跡的に”生存者として現場から救出された」か。

よくわからん……。
 

というわけで、とりあえずもう1回見てきます。

 

 

 

 

 

【追記(2023.11.21)】

 

もう1回見てきました。

件のラスト病室シーンについて。

確かに、典子の首筋に黒い禍々しい感じの何かがあがってきてました。

でも、痣とは言えない雰囲気ですね。

 

直後、海中のゴジラの肉片が異常な再生を開始する場面に切り替わることを考えても、ゴジラの細胞に関係する演出なんだろうと想像されます。

作中、銀座の場面に関して「ゴジラの細胞が飛び散っていた」ということにわざわざ言及されているのも伏線と感じます。

過去のゴジラ作品と比較しても「ゴジラの再生能力」を繰り返し強調しているので、詳しいメカニズムは不明でも関連はしているだろうと思います。

 

客観的な情景描写なのか、イメージを表現した演出なのか際どいところですが、いずれにせよ、明確な意図を持たせた描写であることは間違いないので、非常に興味深いものです。

個人的には以下のような流れを想像します。

 

銀座へのゴジラ襲来において、典子は致命傷(もしかすると生命活動停止)を負ってしまう。

大規模な破壊であり、放射線の汚染もある状況で、救助活動は難航。

典子はすぐに救助されないが、飛び散ったゴジラの細胞の異常な再生能力の影響で“生存”(または“蘇生”)。

少しずつ進む救助活動によりようやく見つかって、「奇跡的な生存者」として病院に搬送。

電報によって知らせが届く。

 

あれだけ典子がいなく寂しがっていた明子が、病室でなぜか距離を取ったままなのも、偶然なのか意図的なのか。

いろいろ想像が膨らむシーンではあります。

 

 

 

sho