●私の落語家列伝(1) #296
●私の落語家列伝(2) #298
10●五代目 古今亭志ん生(1890-1973 ここんてい しんしょう)
(バラ)
“名人中の名人”とか“最高峰の名人”とかの賛辞が冠される落語界を代表する名人である。その功績は私が記述するまでもなく、人柄の一端は「古今亭志ん生伝(#287)」でも窺うことが出来るので割愛し、あまり知られていないのではないか?ということについて少し触れておくことにする。
志ん生と言えば五代目しか頭に浮かばないが、起源である初代は幕末期に活躍している。そして五代目の師匠が四代目で、明治から大正に掛けて活躍した、粋な江戸前の芸の持ち主であったようだ(五代目はこの気風を受け継いだのであろう)。四代目は50歳という短命であったこともあってか弟子は2人だけで、その一人(二番弟子)が五代目である。
一方、五代目志ん生からの系図を見ると、五代目は最終的に7人の弟子を持ったが、その内、名を残したのは初代金原亭馬の助(二番弟子)、十代目金原亭馬生(三番 五代目の長男)、三代目古今亭志ん朝(四番 五代目の次男)、八代目古今亭志ん馬(五番)、二代目古今亭円菊(六番)であった。“志ん生”があまりにも大看板、大名跡と成り過ぎて六代目を継ぐ者は出ず、空席になっているが、三代目志ん朝こそは六代目に相応しい実力の持ち主だったと私は思っている。
五代目志ん生は古典専門に200題位の持ちネタがあったという。残されている音源はどれも名席であろうがあえて代表作を選んでみた。「火焔太鼓(#65)」「三軒長屋(#22)」「唐茄子屋政談(#19)」「心中時雨傘(#234)」「疝気の虫(#29)」「猫の皿(#200)」「柳田角之進(#166)」「風呂敷(#84)」。なお、言うまでもないが、廓噺は豊富な体験に基づいた志ん生で先ず聴きたい。
(フジ 平等院・京都 2009年)
登場人物の一人の名前を度忘れし、「勉強し直して参ります」と言って中途で高座を下り、二度と高座に上がることはなかったというエピソードが印象的な、自分にまた芸に厳しい名人であった。その最後となった演目は「大仏餅」で、神谷幸右衛門という名前が出て来なかったそうである。
後年、ある落語家が「名前なんて誰でもいいんですよ。間違えたから廃業と言うんなら落語家全員辞めなきゃなりませんよ」と言っていた。そんな落語界にあって、妥協を許さない完璧主義者であった。だが、気難しいという人柄ではなく、幇間をイメージさせるヨイショ上手でお座敷がよく掛り、結婚歴の多い艶福家でもあったようだ。また、落語協会の会長を3代、5代、6代と3期も務めたという経営感覚の持ち主でもあった。
持ちネタは練りに練るタイプで数は少ない方であったが、「明烏(#6)」「愛宕山(#15)」「素人鰻(#78)」「酢豆腐(#34)」「富久(#107)」「寝床(#171)」「船徳(#204)」それに「心眼」は先ずこの人で聴きたい。大名跡は受け継がれており、当代は九代目である。
12◆三代目 三遊亭小圓朝(1892-1973 さんゆうてい こえんちょう)
噺上手の江戸前だったがその割には地味な落語家であった。「後生鰻(#182)」や「一目あがり」など持ちネタは多く、若手の育成に尽力した人であった。また、東大・落語研究会(いわゆる“おちけん”)の師を引き受けるなど落語ファン層の拡大にも貢献した人である。(アルストロメリア)
13★九代目 桂文治(1892-1978 かつら ぶんじ)
(サルビア)
自作の時事落語というか漫談を専らにし、本名が留吉であったので“留さん文治”という愛称で寄席の人気を集めた。飄々というか惚け味から醸し出されるくすぐりが、同じ噺ばかりでマンネリに陥りやすい寄席に新風を吹き込んだ存在であった。
吉田茂、岸信介元首相や若尾文子らを俎上に載せる大胆さが当時は受けたようだが、時事ものの宿命で、当時を知らない現代の人にとっては持ちネタの賞味期限が切れていると言えようか。「三年目(#227)」は時代を越えて今でも聴きものである。
当代は十一代で、長く続いている大名跡である。
14◆七代目 春風亭柳枝(1893-1941 しゅんぷうてい りゅうし)
(スイレン)
リズミカルな口調で滑稽噺を得意とし、将来を嘱望されていたが若死にした。レコードが多く残されていた関係で今はCDとして発売されており、“昭和の爆笑王”というキャッチフレーズが付けられている。私のライブラリーには「羽織の遊び」しかないので一度このCDを聴いてみたいと思っている。なお、後に“綴り方狂室”で一世を風靡することになる四代目柳亭痴楽を育てた功績も特筆されよう。