鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

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天高く馬肥ゆの候、馬の出て来る噺を聴こう。

 

 夏の暑い日、馬方の太十が馬の背中に味噌樽を積んで商家の店先に着く。「お前も暑かっただろう。すぐに荷物を下して水を飲ませてやりたいが荷物を手渡すまで待ってろよ」と馬を労う。傍らでは数人の子供たちがメンコで遊んでいる。悪餓鬼(わるがき)連中に見えたので「お前ら、馬に悪戯をしてはなんねえぞ。蹴られたりしたら大変だからな」と一本、釘をさしておいて、「三州屋さーん、荷物をお届けに参りました」と声を掛けながら店の中へ入って行く。何度呼んでも誰も出て来ない。馬のことも気に掛ったが店内の涼しさもあって、しばらく(なか)で待つことにした。が、誰も出て来る気配がない。出直すにしては峠を2つも越えてきた道程(みちのり)が勿体ないなあと思いつつウトウトし始める。小1時間ほど経った頃、ようやく奥から主人が出てきて「客が来てたのは知っていたが畑仕事を途中で止めるわけにはいかなかったんでね」とのんびりしたことを言う。「味噌樽をお届けに参りました。まだ馬に積んでいますので、改めて下さい」「そんなもの、注文した覚えはねえがねェ」「ここにちゃんと三州屋さん宛ての送り状がありますが」「ああ、これは三河屋さん宛てだ。□の中に三と書いているだろう。うちの印は○の中に三の字だ」。送り主が□をぞんざいに書いたので太十には○に見えたのであった。

 

 届け先の間違いを知り大急ぎで外へ出ると馬の影も形もない。道でまだ子供が遊んでいたので問い質すと、馬の腹の下を潜って遊んでいたが、その内に一人が馬の尻尾の毛を束ねて引き抜いたので痛がった馬が竿立ちになり、逃げ出して行ったと言う。「どっちへ逃げたのだ?」と訊くと「吃驚して目をつぶってしまっていたのでわからない」と言う。

 

馬を案じ荷物も気になる太十は闇雲に探しに行く。「ここを馬だけが走って行かなかったかね?」と茶店の婆さんに訊ねると「…うまいもの、食いてえのか?」。耳が遠いようだ。「味噌樽をつけた馬だよ」「…味噌? 芋に味噌つけたのを食うか?」。

 

道端でじっと空を見ている男に訊ねると、長々と田の草取りの話をした挙句、「明日の空模様を見ようと今来たばかりだからわからない」と言う。

 

太十は血眼になって捜し回る。と、向うから仲間の寅十が来る。「おーい、寅、俺の馬を見なかったか? 味噌を付けた馬を見なかったか?」「味噌を付けた馬? 俺、馬の田楽、食ったことねえよ」。

 

人間国宝の十代目柳家小三治が得意ネタの一つとした「馬の田楽(うまのでんがく)」という噺である。上記の筋書きの会話部分は標準語で書いたが、小三治は全編、田舎の訛り言葉で牧歌的な情景を描写しており、「現代落語の特級品の一つである」と絶賛する評論家もいる。

 

味噌田楽の材料は我が家では豆腐、蒟蒻、大根であるが、他の食材を使ったり、地方独特の田楽も種々あるようである。落語「馬の田楽」がもっと有名になっていたら馬肉を使った味噌田楽も登場していたかもしれない。

 

江戸時代には文字が書けない読めないのいわゆる文盲の人が多かったからこの噺のようにマークで識別するケースが多々あったことであろう。老舗の登録商標にその名残を見ることができる。

 

藤森神社・京都 2009年)

 

 


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落語には粗忽者(あわて者 そそっかしい人)を扱った噺は少なくなく、ジャンルの一つを成しており、「粗忽長屋」「粗忽の釘」「松曳き」「堀の内」永代橋等が挙げられる。私には総じて馬鹿馬鹿し過ぎるという感想しかないが、「粗忽長屋」を絶賛する評論家は少なくない。いずれこの噺は採り上げるとして、先ずは粗忽者の一人である地武太治部右衛門(ぢぶたじぶえもん)氏に登場願おう。演目は「粗忽の使者(そこつのししゃ)」と言う。

 

大名・杉平柾目正の家臣、地武太治部右衛門は稀代の粗忽者で、おまけに健忘症に罹っている。剃刀を扱うのが上手で、殿様の散髪も担当している。ある時など、散髪中に剃刀の柄が緩んだので殿様の頭でトントンと叩くなどの粗忽者であるがどこか憎めず、殿様も可愛がっている。

親友の大名・赤井御門守が地武太の噂を聞き、一度顔が見たいと言う。杉平がこれに応えて彼を赤井家への使者に立てることにした。出立の際、犬に跨って「この馬は小さいのう」と言ったり、用意された馬に後ろ向きに乗って「この馬、首がないが」と言ったりの相変わらずの粗忽ぶりを見せる。

 

赤井家へ着くと応接間へ通され、田中三太夫が応対に出る。「手前、当家側用人の田中三太夫と申す者にございます」と言うと「ご丁寧なるご挨拶痛み入ります。手前、当家側用人の田中三太夫と申す者にございます」と早速、粗忽ぶりを見せる。「して、御用の向きは?」と問われるが口上を思い出せない。小さい時から物忘れがひどいいわゆる健忘症で、お尻をつねってもらうと思い出す癖があった。そこで、「はしたないことではござるが…」と断ってお尻を出し、三太夫につねってもらう。「全然痛くない、もっと強く」と頼むが一向に効き目がない。ついには地武太は「腹を切ってお詫びを」と言い出す事態になる。よく観るとお尻につねり胼胝(だこ)が出来ていて、自分では無理と悟った三太夫は家中の指力の強い者を探すことにし、「しばらくお待ちを」と言って中座した。

 

廊下を歩いていると、一人の大工が庭から顔を出し、「庭で仕事をしながら一部始終を見ていました。私にお任せ下さい」と名乗り出た。三太夫はこれを了承し、大工姿では失礼であろうと袴と裃を着けさせるなど武士の格好にさせて、応接間へ同道した。

 

「どちらでござる?」と地武太に聞かれ、「田中三太夫でござる。指力の強い家来を連れもうした」と三太夫は彼の物忘れのひどさにあきれ顔で言う。「おお、そうであった。早速、お願い仕る」と尻を出す。大工は見られてはまずいので三太夫に次の間に引っ込んでもらい、隠し持っていた大きな釘抜きを取り出して尻をつねる。さすがにこれは効いて、「思い出した、思い出したでござる!」と地武太が叫ぶ。三太夫がすかさず次の間から飛び出して来て、「して、使者のご口上は?」と訊くと、「聞かずに参った」。

 

「この噺は非現実的な絵空事で、くだらない噺と言ってしまえばそれまでだが、演者次第で聴ける噺になる」という趣旨のことをある評論家が言っていた。そして、聴ける演者として五代目柳家小さん三代目古今亭志ん朝を挙げていた。

 

歳の所為か私は最近、記憶力の低下を実感している。“思い付いたら即実行すること”を励行することがそれをカバーする最善の手段だと思っているが、そうも行かないことも多く、次善策としてメモを取る癖を付けるようにしている。刑事コロンボが使っていたのと同じ上下に開くメモ帳を常時身に付け、思い付いたことをメモっておくようにしている。この手帳、シャツの胸ポケットに入り上下に折り畳めて書きやすいので気に入っている。常時身に付けておくことがポイントで、家の中や散歩等の途次で、思い付いた事の要点やキーワードを書き留めておき、日に何度かこのメモ帳を見ることで記憶力の低下を少しでもカバーするようにしている。

 

(不忍池・東京 2009年)

 


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吉原遊廓が開場して今年で400年になり、吉原周辺を巡るツアーや花魁の扮装をして写真を撮ってもらうイベントが人気を博していると日本経済新聞(2017/9/29夕刊)が報じていた。

 

吉原は人身売買や売春というマイナスのイメージがあり、触れてはいけない場所であるとする一方で、国公認の施設であったことから日本の文化の一端であるという見方もあり、花魁姿の魅力に惹かれる人も少なくないようである。

 

花魁が主人公の「紺屋高尾(こうやたかお)」を聴いてみよう。

 

 神田紺屋町の染物屋の奉公人・久蔵が病の床に就いた。医師、蘭石は問診の結果“恋患い”と診断する。訊けば、初めて吉原見物に行った時に観た花魁・高尾太夫の道中姿の美しさに一目惚れし、高尾から盃を一つでも貰いたいとの想いが募り、食事も喉を通らなくなったのだと言う。高尾といえば一夜を伴にするには十両も掛るという格式の高い絶世の美人花魁で、大名や金持ちの遊び道具であり、久蔵のような給金が年に三両という一職人には超高嶺の花であった。

 

 26歳でまだ女を知らないという久蔵の一途な気持ちを案じた蘭石が「3年掛けて十両貯めなさい、そうすれば高尾を呼べるように私が段取りをしてやろう」と久蔵に約束する。

この医師・蘭石の処方が効いて久蔵は全快し、一心不乱に働き、3年掛ってなんとか九両の金を貯めることができた。親方が不足の一両を足してやり、大尽(金持ち)に見えるように服装も誂えてやって、蘭石に同道してもらって吉原へ送り出す。道すがら、大尽としての言動を蘭石から教えられ俄か大尽として廓に上がり、念願の高尾との対面が叶う。

 

一度目(初会)は言葉を交わす程度のことしかできず、二度目(“裏を返す”と言う)に初めて一夜を伴にしてくれるという廓のしきたり(・・・・)があって、高尾はいきなり「(ぬし)は今度はいつ来てくれなます?」と問いかける。「はい、3年後になります」と答え、自分の身分とここへ来るに至った経緯を正直に話す。高尾は、久蔵の深情けに感激して涙ぐみ、この人なら私を一生大事にしてくれるだろうと思い、「(わちき)は来年2月に年季が明けて自由の身となります。そうしたらあなた様の元へ参りますから所帯を持ちましょう。今日の勘定は私が持ちますから十両は持って帰って下さい。二度と廓へ足を運ぶことのないようにして私が行くのを待っていて下さい(もちろん廓言葉で)」と言う。その夜は、久蔵は客としてではなく亭主という扱いで花魁に送られて吉原を後にする。

 

年が明けた約束の2月、染物屋の玄関先に豪華な女駕籠が止まった。中から高尾が出て来て親方に丁寧に挨拶し、「年季が明け、約束通り久蔵さまのところへ参りました。これは久蔵さまに差し上げて下さい」と大きな包を差し出す。中を改めると大金が入っている。持参金付きの嫁入りという体であった。傾城(けいせい 美人 遊女)にも誠あり、親方の仲人で二人は目出度く夫婦となる。

 

上記の筋書きはこの噺を得意ネタとした六代目三遊亭円生の高座に依ったがこの噺には「かめのぞき」という別題があり、2種類の続きがあるようである。

 

①所帯を持ち店を構えた久蔵が「(かめ)のぞき」という浅葱(あさぎ)色の染物を考案して人気となり、高尾のまめまめしい女房ぶりと相俟って店は大いに繁昌しました。

「瓶のぞき」とは反物をちょっと藍瓶に漬けただけのごく浅い浅葱(あさぎ)色のことで、語源噺としての性格を持っている。

 

②夫婦となった二人は紺屋の店(染物屋)を出す。絶世の美女を一目見ようと客が詰めかける。高尾が(あい)(がめ)をまたいで仕事をするので高尾の大事な所が瓶に写っていないかと客が瓶をのぞいたという、「かめのぞき」の一席でございます。

当時の女性は下着を穿いていなかったので客が期待して瓶を覗いたという艶笑噺の性格を持っている。

 

“高尾”という花魁名は十代続いた大名跡であったそうである。中でも伊達政宗が贔屓にし、7,800両で身請けした“高尾”が有名で、後に“仙台高尾”と呼ばれた。

 

この噺は、「傾城に誠なし」とか「遊女は客に惚れたと言い、客は来もせでまた来ると言う」と言われる、嘘で固められた廓の世界に、誠を尽くした花魁も居たという爽やかな人情廓噺で、他に“高尾”が“幾代”に、“染物”が“餅”に置き換えられた「幾代餅」という同工異曲の噺もある。

 

(月下美人)

 


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落語の中に私が“文芸噺”と勝手に呼んでいる演目がいくつかある。「霜夜狸(宇野信夫作)」、「五月雨坊主(村上元三)」、「左の腕(松本清張)」、「水たたき(山本周五郎)」、「大名房五郎(宇野信夫)」、「白浪看板(池波正太郎 鬼平もの)」といったものである。

先ずは、平岩弓枝 原作の「笠と赤い風車(かさとあかいかざぐるま)」を鑑賞してみよう。

 

豆腐屋・嘉吉の後妻お千は継子の息子常吉に頭を痛め、将来を心配している。と言うのも、常吉が家業そっちのけで遊び人になっているからであった。

常吉の実母はお千の姉に当り、常吉を産んですぐに病死した。お千は姉に代って常吉を我が子のように可愛がり、愛情を持って養育していた。この様子を観ていた大家さんの薦めで嘉吉と一緒になり、3人で仲睦まじい暮らしを始めた。ところがこの幸せぶりを妬んだ近所の人たちが常吉に、「本当のお母さんは死んでいて、お千さんは継母だよ」と告げ口をし、おまけに「実母が生きているうちからお千さんは嘉吉さんと関係していたんだよ」と事実でないことも吹き込んだ。これを聞いた常吉は思春期ということもあってお千を憎み、反発して非行の道へと走り始めた。お千は愛情を持って接し、改心させようと努めたが、常吉は“親の心子知らず”でお千の愛情を取って付けたものだと反発する一方であった。家の金を勝手に持ち出して酒と博打と女に溺れ、もう手の付けられない一端の遊び人になっていた。

 

今年、嘉吉が死に、20歳になった常吉は遂に家を飛び出してあばずれ女のお銀と暮らし始めた。金が無くなるとお千にせびりに来る有様であった。

そんな折、大家がお千を訪ねて来た。「生前に嘉吉が掛けていた無尽講の金15両が嘉吉に当たった。お前さんの物だが常吉のことがあるので私が預かることにする。近々、法華講で身延山へお詣りすることになっているが、お前さんも参加して嘉吉の納骨をしてはどうか?」と言う。これをお銀の情夫の渡世人野狐の仙太が聞き付け、二人で組んで講の金を奪おうと持ち掛け、お銀は策を講じた。

お銀は常吉に15両の話をし、「改心した振りをして家業に精を出し、お千を信用させてこの金を巻き上げよう」と持ち掛けた。常吉はこれに同意して、義母を騙す為に一生懸命働いた。

数カ月後、頃は良しと常吉は身延山への代参を申し出た。これもシナリオの内だった。改心したと思った大家とお千は代参を許すことにした。お千は、実母が常吉をあやす為にと自分で作っておいた赤い風車を付けた菅笠と15両を常吉に持たせて送り出す。

 

法華講には女子供も参加しており、ゆっくりとした道中であった。常吉は東海道・戸塚の宿で講を抜け出し、お銀と合流した。常吉は邪魔な菅笠を途中で捨てるが、誰かが拾って届けられる。こんなことが何度も繰返され、菅笠は常吉の傍を離れようとしない。お銀は箱根の湯につかっていこうと常吉を誘い、野狐の仙太が秘かに後を付けた。小田原の宿では、捨てた菅笠が先回りするようにまたまた届けられており、宿の主人に「品の良い二人連れのご婦人が届けられました」と言われ、常吉はゾーッとした。箱根湯本の山中で仙太は常吉を谷底へ突き落とし、15両を奪ってお銀と逐電した。

 

常吉は生きていた。川の中で菅笠の上に乗って浮かんでいた為溺死を免れたのであった。赤い風車が樵(きこり)の目に留まって常吉は救助されたのであった。菅笠と風車つまりは二人の母が自分の身を護ってくれたことに気付いた常吉は、お千に慈しんでもらった幼い日を回想し、更生を誓う。

 

自宅に帰ると、線香の匂いと読経が聞こえる。お千がずぶ濡れの状態で笑みを浮かべて満足気に死んでいた。豆腐屋の手伝い女らが催してくれた葬儀であった。常吉は自分の身代わりとなって死んでいったお千に取りすがって泣き続けた。傍で菅笠の赤い風車がくるくる、くるくる、くるくるーと回っていた(筋書きに書いた名前は原作と異なっているかもしれない)。

 

この噺は林家彦六で聴いた。難しい顔をしているので取っつき難い人との印象があるが、名人級の噺家であると思う。「親の心子知らず」をテーマにした作品で、「親の意見と茄子の花は千に一つも無駄(仇とも言う)はない」という諺が常吉の身に応えたことであろう。私が親、特に母親の苦労や有難さを知ったのは自分の子供を持ってからのことであった。

 

落語と呼ぶには違和感があり、講談でもなく朗読でもない分野の噺である。人情噺と併せ、こういう噺も出来る人を落語家でなく噺家と呼ぶのであろうか。

「道端の 地蔵に似合う かざぐるま(拙作)」。

 

(箱根旧街道入口・神奈川 2016年)

 
 

(箱根湯本・神奈川 2016年)

 


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 東京落語の舞台として吉原遊郭と並んでよく登場するのが隅田川流域である。地理を頭に入れて置いて鑑賞すると趣も増すであろうと、2007年の夏に、川に架かる橋を中心にして隅田川を探訪してみた。佃の渡しを振り出しに吾妻橋までの約6Kmを南から北へ(下流から上流へ)の行程であった。

 

【佃の渡し】

かつては佃島へは渡し舟が出ており、この舟の転覆を題材にした「佃祭」はここを舞台にしている。現在は佃大橋(写真)が架かっている。余談ながら、佃島を舞台にしたテレビドラマは多く、渡辺謙が主演した「わが町」(全10話)はお薦めの刑事ドラマである。

 

 

【永代橋】

 

橋を西へ行くとすぐ東京の都心で、「宮戸川」の舞台である霊岸島があり、東へ1Km行くと深川八幡祭りで有名な富岡八幡宮がある。1807年のこのお祭りの時に永代橋が落ち、多数の死者が出るという事故があった。この実話を基にした「永代橋」というややマイナーな一席がある。また、六代目古今亭今輔「もう半分」という怪談噺もこの橋の袂の居酒屋が舞台となっている(五代目古今亭志ん生は千住小塚原を舞台にしている)。

 

 この永代橋はテレビのサスペンス・ドラマにしばしば登場する。夜間に青白くライトアップされた橋は美しく、絵になる光景である。この付近の遊歩道はドラマのロケに立ち会える確率が高いスポットである。

 

【両国橋】

橋を西へ行くとすぐに旅籠が密集していた馬喰町があり、東側の川沿いには国技館がある。江戸時代に川開きの花火大会(現在の隅田川花火大会)が開催された場所で、これを題材にした「たがや」の舞台である。

 

【蔵前】

幕末の頃、蔵前通りに駕籠客を狙った、幕府の軍用金集めと称する追いはぎがここに出没したそうだ。これを題材にした「蔵前駕籠」という小品がある。

蔵前は年貢米の徴収を代行したり、その米を担保にして旗本などに金銭を貸付けた札差(ふださし)と呼ばれた商人が集まっていた地として有名である。

 

【厩橋(うまやばし)】

かつてはここに“厩の渡し”があり、「岸柳島」の舞台となっている。厩橋の袂辺りが渡し場であったのであろう。
 

 

【駒形橋】

「船徳」の主人公で俄か仕込みの船頭、徳さんが四苦八苦の末に着けた所を大桟橋といい、今の駒形橋辺りだそうだ。橋の西側はもう浅草である。

 

【吾妻橋】

落語で身投げをする場所としてよく登場する橋で、「唐茄子屋」「文七元結」「佃祭」など名作の舞台となっている。すぐ西側(写真右手方向)には浅草・雷門がある。

 

 

【向島】

浅草の対岸に位置する向島は江戸時代の頃から現在に至るまで、上野や飛鳥山と並んで花見の名所である。吾妻橋から言問橋へ掛けての満開の桜並木はさぞかし壮観であろう。一度訪れてみたい地である。

向島は名作「野ざらし」「百年目」、それにちょっと洒落た「夢の酒」、滑稽噺「ねぎまの殿様」の舞台である。

 

【浅草観音】

 観音様の境内は、“四万六千日”はもとより一年中大勢の人で賑わったようである。浅草は現在でも演芸のメッカとして名残を止めているが、往時は見世物小屋や大道芸も多く見られたようで、「仇討屋」「がまの油」などで往時の様子を偲ぶことが出来る。

 

 

こうしてまとめてみると、落語と隅田川は切っても切れない関係にあることを再認識した。「隅田川という切り口から落語を聴く」というのは一例で他にも応用できそうで、落語の楽しみ方を発見した有意義な探訪であった。ただ、橋は合理的というか実用的に架けられたものが多く、江戸情緒を期待していた私には趣が感じられなかったのが残念であった。しかし、安全性第一を考えれば止むを得ないことであろう。

 

隅田川に限らず、橋は人と人との結び付けを拡げ、生活を便利にするものである。老朽化した橋も増えてきていると思われる。一たび落下事故が起れば多くの死者も伴うであろう。行政当局の油断のないメンテナンスを願うところである。

 


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