34●八代目 雷門助六(1907-1991 かみなりもん すけろく)
(ホトトギス)
落語名人というより寄席名人という呼び名が相応しい不世出の寄席芸人であったと私は評価している。
父が落語家(六代目雷門助六)だった関係で幼い頃から舞台に立ち、10歳で落語家になったというから驚きである。21歳の頃には、二代目圓歌、八代目柳枝、六代目圓生(いずれも後の名)と肩を並べる期待の若手真打ちであったが、27歳の頃心機一転、喜劇俳優に転じ、20年強のブランクを経て戦後、落語界に復帰したという経歴の持ち主である。
多芸の人で落語の他にかっぽれ、あやつり(自分があやつり人形となる)や住吉踊りなどの日舞、二人羽織や曲芸的な松づくしなど実に見応えのある寄席芸の持ち主であった。
落語では、「片棒(#63)」「虱茶屋(#224)」「凝り相撲(#256)」「長短」「両国八景」が聴き物、観物であった。
【雑学】
“助六”というのは歌舞伎に登場する“粋”を表現している人物だそうだ。“いなり”と“巻き”を詰め合わせた寿司を“助六寿司”と呼ぶが、これは助六の愛人の花魁・揚巻という女性に由来しているそうだ。揚げ→油揚げ→いなり寿司、巻→海苔巻き→巻き寿司という連想で、2つを詰め合わせたものを助六寿司と呼ぶようになったとのことである。
35◆六代目 三升家小勝(1908-1971 みますや こかつ)
22歳で八代目文楽に入門、水道局技師から落語家に転じた変わり種で、当時では珍しい大学出であった。レコード会社の専属ともなり、実務経験を活かした「水道のゴム屋」という自作ものが大ヒットし、一躍売れっ子になったという。明るくスマートな高座で古典と新作の双方を演じ、両刀使いと言われた。
レコードとして口演が多く残されていた関係で、「水道のゴム屋」を始めとして「お茶汲み」「妻の釣」「未練の夫婦」「三国志」「操縦日記」など今では高座に掛けられない噺もCDで聴くことが出来るようだから、是非味わってみたいものである。私は「初天神(#124)」がお気に入りである。
(ムラサキシキブ)
36★初代 昔々亭桃太郎(1910-1970 せきせきてい ももたろう)
(ミモザ)
“えー、桃太郎さんでございます”と高座の冒頭に話すのがキャッチフレーズだった。初代金語楼とは9歳違いの実弟という関係にある。
丁稚奉公の後、兄の影響で16歳で落語家になる。新作や古典の改作で、また兄の映画にも出演して人気者となり、将来を嘱望された。だが、太平洋戦争に応召しその後抑留されたことによる活動ブランクが大きく影響してか、戦後はパッとしなかったと言う。何故か、落語界から孤立した存在であったようだ。
特筆すべき高座はあまりないように思うが、「お好み床」「石鹸(酢豆腐の改作 #34)」や「新聞記事(阿弥陀池の改作 #46)」が代表作と言えよう。
戦前戦後のとかく暗くなりがちであった日本人に、兄と共に上品な笑いを提供し元気づけた功績は大きいものがあったと私は思う。彼の笑顔に温もりを感じた日本人は多かったことであろう。
37●五代目 柳家小さん(1915-2002 やなぎや こさん)
(モクレン)
“永谷園のお味噌汁のCM”、“自宅に剣道の道場”、“狸を連想させる人”、“落語界初の人間国宝”、即座に思いつく五代目小さんの人物イメージである。
会社勤めをしながら落語家を目指し、18歳で入門。徴兵時には二・二六事件で反乱部隊の一兵卒として出動したという話が有名である。
好きな道であったのであろう、研さんを積んで多くのネタを身に付けて人気者となり、六代目圓生と並ぶ東京落語界の第一人者にまで上り詰めた。芸域の広かった六代目圓生に比べ、滑稽噺に特化していた感があるが聴き手に安心感を与える持ち前の話術と明るいキャラクターが大きな要因であったろう。そして1995年に落語界初の人間国宝に指定された。古典芸能の中で地位が低かった落語の文化度を高めたことが認められたという画期的な出来事であったと私は思う。
肚の大きい、偉ぶらない、人情に厚い大らかな性格が人望を集め、7代目落語協会長に推挙され、以来四半世紀に亘って会長として東京落語界を牽引した。また、弟子も多く集まり、孫弟子も含めて今でも大きなグループを形成している。四代目柳家小せん、五代目柳家つばめ、七代目立川談志、十代目柳家小三治、九代目鈴々舎馬風などの実力者・人気者の弟子を育て、彼以降の歴代の協会長も一門から多く輩出し、今なお大きな影響力を有している。なお、息子が六代目を継ぎ、孫は柳家花緑という落語一家である。
得意ネタは絞り込むのが難しいが、うどんを食べる所作が絶品であった「うどん屋(#83)」、滑稽ものの代表作「粗忽長屋(#293)」と「粗忽の使者(#38)」、容貌が狸に似ていたことから臨場感が抜群の「狸(狸賽 #206)」と「化物使い(#23)」それに「千早振る(#73)」「真っ二つ(#236)」「試し酒(#94)」を挙げておく。
38★三代目 三遊亭歌笑(1916-1950 さんゆうてい かしょう)
(ゲッカビジン)
“歌笑純情詩集”で一世を風靡した、短命の芸人であった。
生まれつきの強度の斜視と弱視で劣等感にさいなまれ、20歳の頃、落語に生甲斐を見い出そうとして三代目金馬に弟子入りした(後に二代目圓歌の下に移る)。残されている音源から見ると、落語家と言うより漫談家に近い芸人であった。彼が産み出した七五調のリズミカルな詩である“歌笑純情詩集”が戦後間もない日本人の心に潤いを与えたのであった。
だが、人気絶頂期の戦後間もない1950年に、銀座で進駐軍のジープに轢かれて僅か33年間の短い人生を閉じるという数奇な人生が待ち受けていたのであった。弱視が大きく影響したことは想像に難くない。
古典ものを演じたのかどうかは知らないが音源は残されてはいないようで、「音楽花電車」「スポーツショー」「妻を語る」など創作ものが5枚のレコードとして残されており、今ではCDとして聴くことができるようである。ライバルで親友でもあったという四代目痴楽の「痴楽綴り方狂室」は彼の詩集の影響を受けたものと言えよう。落語ファンのみならず落語家の間でも注目を集めた芸人であったようだ。
【雑学】
交通事故死した芸人は何故かいつまでも記憶に残っている。突然の死だけに衝撃が大きかったからであろうか。他には私の知る範囲で、ジェームズ・ディーン(俳優 1955年死)、高橋貞二(俳優 1959)、赤木圭一郎(俳優 1961)、佐田啓二(俳優 1964)、八波むと志(コメディアン 1964)、四代目林家小染(落語家 1984)、若井けんじ(漫才師 1987)がいる。
#298 私の落語家列伝(2)
#300 私の落語家列伝(3)
#304 私の落語家列伝(4)
#307 私の落語家列伝(5)
#311 私の落語家列伝(7)